カテゴリ:「永遠の愛の術」( 8 )

最後まで

8-6 バークティだけがクリシュナを魅了することができる

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、献身奉仕はクリシュナさえも魅了すると述べられました。クリシュナはすべてのものを魅了しますが、献身奉仕はクリシュナを魅了します。献身奉仕の最も高い程度における象徴はラーダーラーニーです。

クリシュナはマダナ・モハナと呼ばれ、それは、主は非常に魅力的なので何千人ものキューピッドの魅力(attraction、吸引力)を打ち負かすことができる、ということを意味します。しかし、ラーダーラーニーはそれよりもっと(still more)魅力的です。

なぜなら、彼女(She、大文字)はクリシュナさえも魅了することができるからです。したがって、献身者は彼女(Her、大文字)をマダナ・モハナ・モヒニ---キューピッドを魅了する者を魅了する者、と呼びます。

第2段落
マダナは性的な魅力を意味します。ですから、クリシュナはマダナ・モハナであるため、もしもクリシュナに魅了されているなら、人は性的な魅力さえも放棄(to neglect、軽んじる、無視する)ことができます。性は、この物質世界の中のすべての者を魅了します。

実に、物質世界全体が性を基に成り立っており(is running on sex)、そしていわゆる幸せは性交から始まります。一般に、人は自分の性的な欲求を満足させるために結婚します。そのようにして、彼は子供たちを得ます。子供たちが成長したとき、彼らは結婚して、さらなる子供たちを得ます。

それはすべて同じ目的、性のためです。物質的な幸せは、これらの3つのことを意味します。シュリー(美しい女性)、アイシュヴァリャ(富)、そしてプラジャー(子供、offspring)です。一般に、人々は良い妻と良い銀行残高と良い家庭を望みます。もしも人がこれらのものを持っていれば、彼は成功していると考えられます。

第3段落
妻、子供、友人、そして富を得て維持するための努力を通して、この物質世界への執着(attraction、魅了され、吸引される様子)はますます強くなります(tighter and tighter)。私たちはこの物質世界の煌きによって魅了されることを避け、クリシュナによって魅了されるようになろうとすべきです。このことに関して、シュリー・ヤームナーチャーリャはこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「クリシュナの美しさによって魅了され、主の蓮の御足に奉仕をし始めて以来、私は、常に新しい(ever-new)味わいを経験しています。したがって、性交のことを考えれば直ちに私の唇は嫌悪(distaste)で曲がり、私は唾を吐きたくなります。」

人がクリシュナによって魅了されるとき、キューピッドは打ち負かされ、人はこの物質世界を征服します(to conquer over~、克服、打破)。そうでなければ、物質世界は乗り越える(to surpass)のが非常に困難です。

しかし、もしも誰であれクリシュナの蓮の御足を非常に強く掴んで「クリシュナ、私を救ってください!」と叫ぶ(to call out、大声で呼ぶ)なら、クリシュナは「私はあなたを助けます。心配しないでください」と約束なさいます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナに「あなたは世界に、私(訳注:クリシュナ)は自分の純粋な献身者を守る、と宣言することができます」とおっしゃいます。

人々は、自分の唯一の仕事はクリシュナの蓮の御足の庇護を求めて、そうして物質世界の呪縛(clutches、掌握、掴むこと)から逃れるという人間の人生の目的を達成することである、ということを知りません。他のどの仕事も、私たちがこの物質世界の中で呪縛されるようになってきている(we are becoming entangled)ということを意味します。

8-6-A シュリーマティー・ラーダーラーニー、バークティの女王

第1段落
献身奉仕を行うことはラーダーラーニーの足跡を辿ることを意味し、ヴリンダーヴァンの献身者たちは自分の献身奉仕において完成を得るために、自らをラーダーラーニーの保護(care、世話、監督)の下に置きます。

言い換えると、献身奉仕は物質世界の活動ではありません。それは直接ラーダーラーニーの統御の下にあります。バガヴァッド・ギーターにおいて、マハートマー、すなわち偉大な魂はダイヴァ・プラクリティ、内的なエネルギー---ラーダーラーニーの保護の下にある、と確認されています。そのため、直接クリシュナの内的エネルギーの統御の下にあるので、献身奉仕はクリシュナご自身さえも魅了します。

第2段落
この事実は、クリシュナによってシュリマッド・バーガヴァタムの11巻(11.14.20)において確証されています(to be corroborated、陳述などをさらなる証拠を挙げて堅固にする)。そこで主はこうおっしゃいます。

「我が親愛なるウッダーヴァよ、私の献身者によって捧げられる(to be rendered)献身奉仕に私が感じる魅力は、神秘的なヨガの実践、哲学的な推量、儀式的な犠牲、ヴェダーンタの研究、厳しい禁欲の実践、あるいはすべてのものを慈善において与えることによってさえ得られないと、あなたは私から知るでしょう(訳注:あなたに言いますが、献身者が捧げてくれる奉仕に対して私が感じる魅力は、~によってさえ得られません)。

もちろん、これらは非常に良い(nice)活動ですが、それらは私にとって、私の献身者によってなされる超越的な愛情ある奉仕ほど魅力的ではありません。」

第3段落
クリシュナがどのようにご自分の献身者の奉仕によって魅了されるようになるかは、ナーラダ・ムニによってシュリマッド・バーガヴァタムの7巻(7.10.48-49)に描写されています。そこでナーラダは、ユディーシュティーラ王がプラーラーダ・マハーラージャの性質の栄光を称えている(to appreciate、真価を認める、鑑賞する、感謝する)間に、王に話しかけます(to address)。

献身者はいつも他の献身者の活動を称えます。ユディーシュティーラ・マハーラージャはプラーラーダの性質を称えており、そしてその賞賛(appreciation、真価を認めること)は純粋な献身者の一つのしるしです。純粋な献身者は、決して自分自身を偉大だと考えません。

彼はいつも、他の献身者は自分より偉大だと考えます。王は「プラーラーダ・マハーラージャは実際に主の献身者であり、他方で私は無である(訳注:I am nothing、遠く及ばないという意味を極端に表現したもの)」と考えており、これを考えている間に彼はナーラダによって次のように話しかけられました(訳注:ナーラダが彼に次のように話しかけました)。

「我が親愛なるユディーシュティーラ王よ、あなた方(パーンダヴァ家の兄弟たち)は、この世界で唯一の幸運な人々です。至高の人格神はこの惑星の上にお現れになり、ご自分をあなた方に普通の人間として表しておいでになります。

主はどんな状況でも(in all circumstances)いつもあなたがたと共にいらっしゃいます。主はあなた方と一緒に住んでおられ、ご自分を他の者たちの目から覆っておられます。他の者たちは主が至高主であると理解することができませんが、主はそれでもあなた方の従兄弟として、あなた方の友として、そしてあなた方の使者としてさえも、あなた方と共に住んでおられます。

したがって、あなた方は、この世界の誰もあなた方よりもっと幸運ではないと知らねばなりません(訳注:あなた方はこの世の他の誰よりも幸運であると知っておいてください)。」

第4段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナがご自分の普遍的な(universal)姿でお現れになったとき、アルジュナはこう祈りました。「我が親愛なるクリシュナよ、私はあなたのことを自分の従兄弟(訳注:cousin-brother、男性のいとこを指すインド英語。欧米で一般的な表現ではない)と考えていました。

そしてそのため、私はあなたを「クリシュナ」や「友」と呼び、あなたに非常に多くの不敬を表しました。」ですから、それがパーンダヴァ家の人々(the Pandavas)の立場です。クリシュナは至高の人格神、すべての偉大な者の中で最も偉大な者ですが、主はそれらの気高い(royal、王家の、高貴な、堂々として立派な)兄弟たちの献身、彼らの友情、そして彼らの愛によって魅了され、彼らと共に留まられました。

それが、この献身奉仕の過程がいかにすばらしいかということの証明です。それは至高の人格神さえも魅了することができます。神は偉大ですが、献身奉仕は神よりも偉大です。なぜなら、それは主を魅了するからです。献身奉仕の内にない人々(訳注:~をしない人々)は、主に奉仕をすることにどれほどすばらしい価値があるかを決して理解することができません。
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以上で本書の翻訳を終わります。末尾にある「家庭でのバークティ・ヨガ」以下、すべて省略します。

小さい本なのですぐに終わってしまいました。この後は途中で挫折してしまっていた「英知による放棄」に再度挑もうと思います。本の厚みが1.5センチもあるから、という情けない理由でくじけてしまったのです。安楽で安直な方向に流れる自分の性格が悲しいです。何でも大変そうで絶対終わりそうにないほど膨大に見えたら避けてしまうのです。本一冊と考えず、一ページが続いているだけと考えれば、いつかは終わるんですけどね。人生のようなものです。何か勉強して資格など取るために学校に行きなおすということを時々考えるのですが、2年だの3年だのの学生生活は、高い授業料が出せないということを抜きにしても、絶対に不可能な長い時間に見えます。でも、そうするうちに日めくりカレンダーが一枚、また一枚と薄くなっていき、気がついたら学校に行ってたくらいの時間が無為に過ぎていってしまっています。

実は来週からスターバックスで働くことになりました。前も4年ほど働いていたので、支店こそ違うものの、古巣に戻るような感じです。今回の仕事探しで履歴書も作り直したりしてましたが、一応だいたい正直に主だった仕事を書き出してみると、ということはつまり細かいものは省いたり、思い出せなかったりするわけですが、なんともはや、呆れ果てるほどいろいろと脈絡なく、行きあたりばったりに日銭を稼いで生き延びてきたもんだなと思います。

高校生の頃から地元のミニ新聞社でアルバイトを始め、「何月何日にどこそこで何とかというイベントがあります」という記事を書いたりしていました。校正や編集の真似事を教わったのはこの頃です。広告スペースを売るために地元のお店に営業に行ったりもしたし、下手くそな取材をして化け物のような写真を撮ったり、人数増やしのために地元のお祭りに出て浴衣で踊ったり、トラックの荷台に乗って踊ったり、選挙の手伝いをしたり、その他なんでもかんでも、言われたことは何でもやる雑用係をしていました。大学のときにもいろんな単発のアルバイトをやってたので、それはもはや思い出せませんが、、、そうそう、エレベーターガールをやったり、遊園地でアンケート調査をやったり、英検の受付をやったり、というのがありました。無責任な家庭教師もやってました。留学生に日本語を教えるアルバイトというのもありましたが、その後、クラスを持たされたら3回くらいで首になりました。違法ぎりぎりの会社で電話営業をやって1日で辞めたこともあります。

それから古着のバイヤーを3年ほどやって、パナソニックの機械のマニュアルを書き、ベビーシッター、年寄りの世話、ウェイトレス(すぐ首になりました)、ロボットの会社の論文の翻訳、グラフィックソフトの会社の製品パッケージデザイナー(兼、翻訳・校正その他)、フリーで翻訳、お歳暮だったかお中元だったかの発送アルバイトなどやって、、、

それからお土産屋さんの店員、ファストフードの店員、お茶やメープルシロップの専門店の店員、スタバのお姉ちゃん、皿洗いの少女、山小屋掃除のモモレンジャー(レンジャーという職名だったのです)、ゲストハウスの掃除のおばさん、露天の絵描き、改装工事の手伝い、よその家の掃除、ロシア公民館のイベントの手伝い(主に台所スタッフ)、英語と日本語の家庭教師、日本人留学生の論文の添削、日本から来た心理学者の通訳、ガラス絵の講習会、粘土絵の講習会(ユダヤ人のお年寄り向け)、紫外線対策商品のリサーチ、、、ほんの数えるほどですが、ガラス絵を売ったこともあります。ああ、そういえばクリスマスの頃など、商店の窓に絵を描く商売もやってました。ゆっくり思い出せば、他にもいろいろあると思います。めちゃくちゃですね。

資格らしい資格は何一つありません。英語に関しては昔々に英検2級に合格した覚えがあります。翻訳の勉強をしたこともないし、翻訳ソフトも使ったことがありません。21世紀にして、私が使うのは紙とペンなのです。辞書はオンラインのを使いますけれど。タイプをすることはできるけど、表計算ソフトとかフォトショップとか、面倒で難しいことは何もできず、オフィスでは使い物にならないと思います。車の運転もできないし、ガラス絵も独学だし、貯金も何もありません。すべてがこうやって中途半端な私が今までなぜか生き延びているのは、一つの奇跡と言えるのかもしれません。そしてそうやって綱渡りをしながら、お金にならない絵を描いたり、お金にならない翻訳をしたり、お金にならない公民館活動をしたりして生きてきました。

そして今再びスタバのお姉ちゃんとして返り咲くことになりましたが、厳密に言えばやはりこれはスタバのおばちゃんであり、確実に人生の時間が(かなり無為に)過ぎていっていることは否めません。これではいけない、とは思うものの、この齢まで無計画にやってきた私がこれから急に堅実な人生に方向転換することがありえるだろうかと思うのです。しかも、この間にいったい何度の引越しを重ねたことか。生まれてくるときに人は人生の青写真を持ってくるなどと言いますが、私はきっとどこかに置き忘れてきたのでしょう。クリシュナ、助けて、と思います、ほんとに。

どんなに計画を立てても、私たちには未来は分かりません。どんなに立派なものを作っても一瞬で壊れるし、溜め込んだものは失われるし、生きていた体は死にます。掴んだと思った幸せは消えるし、ほっと一息ついた足元は崩れるし、自分だと思っていた心さえも狂います。天を仰ぐより他はないところにいるんだな、と思うのです。
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by ammolitering4 | 2014-04-12 13:36 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

8-5まで

8章3-C 物質的な幸せという夢を退ける(to reject)

第1段落
ちょうど蛾が火によって魅了されるように、私たちはこの物質世界の輝き(glitter)によって惹きつけられます(to be enamored)。死ぬということを知らずに、蛾はものすごい(great)速さで火に入ります。彼らが無理に火に入ること(their forceful entrance into fire)は、確かな死を意味します。

同様に、現代の科学は一時的な楽しみのために幾らかのいわゆる快適さを作り出しましたが、同時に私たちは非常に多くの危険な状況という危険性を負います。シュリマッド・バーガヴァタムには、パダム・パダム・ヤッド・ヴィパダームと書かれています。「この世界には常に危険がある(there is danger at every step)。」

第2段落
快適でないこと(discomfort、不快さ)を和らげようとする(to mitigate、苦痛を減らす)私たちの試みは、重い荷物(heavy burden)を運んでいるときの労働者の、幾らかの安らぎ(relief、苦痛からの解放)を得ようとする試みのようです(訳注:~ときに労働者が~)。

あまりにも不快なとき(too uncomfortable)、彼は荷物を自分の頭から肩へ移動します。しかし、それは荷物を運ぶことの難しさを取り除く(to eliminate)ことはしません。同様に、私たちは非常に多くの科学的な発明を作り出すことによって物質的な快適さを得ようとしていますが、それらは実際には幸せを提供しません。

私たちは単に自分の荷物の位置を変えています。例えば、アメリカでは単に自動車で運転して回るだけのために(just to drive around in their motorcars)人々は非常に多くの危険を受け入れなくてはなりません。彼らは交通を改善することによって自分の幸せを増やそうとするかもしれませんが、彼らは単に荷物を移動させています(to shift ~ around)。

したがって、彼らはもっともっと多くの問題を作り出します。あまりにもたくさんの車を持っているので、彼らはもっと多くの道と高速道路を、道の上に道を重ねて(one on top of another)作らねばなりません。それでも彼らは交通渋滞、事故、公害、そして不快さを経験します。これは無駄な努力です。

科学者たちは、自分たちは人生の問題を解決していると考えますが、人生の不快さは、それでも存在します(still there)。そして科学者たちは必ず失敗します(must fail)。なぜなら、クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーターにおいて確認なさるように、この物質の世界は本来(by nature)不快さに満ちているからです:ドゥーカーラヤム・アシャーシュヴァタム。それなら、どうして(how)それを幸せな場所にすることができるでしょうか?

第3段落
私たちは、何か危険なものの夢、虎や蛇が来ている(is coming)という夢を見るかもしれません。そしてそのとき、私たちは別の夢に変えたいと思います。同様に、幸せのための何らかの人工的な方法(some artificial means of happiness)を作り出すことによってこの物質世界で幸せになろうという私たちの試みは、単に役に立たない夢です。本当の幸せは、クリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ることです(to take shelter of)。

8-3-D 純粋な献身者はバークティだけを欲する(nothing but~)

第1段落
ハリ・バークティ・スドーダヤの中で、主の偉大な献身者であるプラーラーダ・マハーラージャが次のようにヌリスィムハデヴァ(半分ライオンで半分人間の化身)に祈ったと述べられています。「我が親愛なる主よ、献身奉仕において単により強くあることができるように(I may simply be stronger in ~)、私は繰り返しあなたの蓮の御足に祈ります。

私は単に自分のクリシュナ意識がもっと強く安定している(steady)ようにと(may)祈ります。なぜなら、クリシュナ意識と献身奉仕から得られる幸せはとても力強いので、それをもって人は、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、そしてさらには(even)物質的な存在からの解放を得ることという、他のすべての完成を持つことができるからです。」

第2段落
実際は、純粋な献身者はこれらの完成のいずれも欲しません。なぜなら、クリシュナ意識における献身奉仕から得られる幸せは非常に超越的で非常に無限なので、他のどの幸せもそれに比べられないからです。

クリシュナ意識における幸せの一滴さえも、他のどの活動から得られる幸せの海をはるかに超えています(to stand beyond comparison with~、比較を超えた場所に位置する)。このように、純粋な献身奉仕のほんの少量でさえも発達させた人は誰でも、非常に簡単に、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、そして解放から得られる他のすべての種類の幸せを追い出す(to kick out)ことができます。(訳注そのような幸せを欲する欲望を心から追い出す、という意味)

第3段落
コーラーヴェチャー・シュリーダーラとして知られる、非常に貧しい、主チャイタンニャの偉大な献身者がいました。彼は調理用バナナ(plantain、プランタン)の木の葉から作ったコップを売る小さな商売をしており、彼の収入はほとんど無に等しいものでした。

それでも彼は自分の乏しい収入の50%をガンジスの崇拝に使い、残る50%でどうにか(somehow)暮らしていました。主チャイタンニャはこの内密な(confidential)献身者コーラーヴェチャー・シュリーダーラに、一度ご自身を明かされ、望むどんな富(opulence)でも与えると彼に申し出ました。

しかしシュリーダーラは主に、自分は何らの物質的な富も欲しくないと告げました。彼は自分の現在の立場でとても幸せ(quite happy)であり、主チャイタンニャの蓮の御足へのゆるぎない信頼(unflinching faith)と献身を得ることだけを欲していました。それが純粋な献身者の立場です。もしも毎日24時間、献身奉仕に携わることができるなら、彼らは他の何も、解放の幸せや至高存在と一つになることさえも欲しません。

第4段落
ナーラダ・パンチャラートラにおいても、誰であれ、ほんの少量の献身奉仕でさえも発達させた者は、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、あるいは5種類の解放から得られるどんな種類の幸せも全く気にしない(訳注:doesn't care a fig for~、取るに足らないものとして一瞥もしない)と述べられています。

(訳注:原文は(In ~ it is also said that ~)であり、これは「~においては~とも述べられている」という形ですが、述べられている内容が前のと全く同じなので、このようにしています。)宗教性、解放、あるいは感覚の満足から得られるいかなる種類の幸せも、純粋な献身者の心(heart)に入ってこようとすることさえできません(cannot even dare to~)。

女王の個人的な召使たち(personal attendants and maidservants、召使と女中)が全くの(all)敬意と服従(obeisances)をもって女王に従う(to follow)ように、同様に、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、そして解放という喜びは、主への献身奉仕に従います(to follow、あとに続く)。

言い換えると、純粋な献身者はどの源から得られるどんな種類の幸せにも欠けていません。彼はクリシュナへの奉仕以外の何も欲しません(does not want anything but~)が、たとえ彼が他の望みを持っているとしても(should)、主は献身者が頼まなくても(without ~'s asking)それを満たします。

8-4 純粋な献身奉仕の稀少さ

第1段落
霊的な人生の予備的な段階(preliminary phase)においては、自己認識を得るための様々な種類の禁欲、苦行(penances)、そして似通った方法(processes)があります(訳注:「そして似通った方法があります」は「などの方法があります」と同義)。

しかし、これらの方法の遂行者が何らの物質的な欲望も持たないとしても、彼らはそれでも献身奉仕を得ることはできません。そして、献身奉仕を得るためにただ一人で欲すること(aspiring by oneself alone、~しようと一人で努力すること)もまた、あまり希望の持てるものではありません。

なぜなら、クリシュナは単に誰にでも(to merely anyone)献身奉仕を授けることには同意なさらないからです。クリシュナは簡単に人に物質的な幸せや、あるいは解放さえも与える(to offer)ことがおできになりますが、主はご自分への献身奉仕に携わることを与えることには、あまり簡単に同意なさいません。

献身奉仕は、実に(in fact)、純粋な献身者の慈悲を通してのみ得られます。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー19.151)において、こう述べられています。「純粋な献身者である霊的指導者の慈悲によって、そしてクリシュナの慈悲によって、人は献身奉仕の水準に至ることができます。他の方法はありません。」

第2段落
献身奉仕の稀少さは、タントラ・シャーストラにおいても確認されており、そこで主シヴァはサティーにこうおっしゃいます。「我が親愛なるサティーよ、、もしも人がとても立派な(fine)哲学者であり、知識の様々に異なる過程を分析するなら、彼は物質的な呪縛からの解放を得ることができます。

ヴェーダにおいて勧められている儀式的な犠牲を行うことによって、人は徳のある活動の水準に上げられることができ、そしてそこで(thereby)人生の物質的な快適さを最大限に楽しむことができます。

しかし、そのような努力のすべては主への献身奉仕をほとんど誰にも与えることができません(all such endeavors can hardly offer anyone ~)。たとえ人がそれを求めてそのような方法で何千回も何千回も生まれ変わって努力したとしてもです。」

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムにおいてプラーラーダ・マハーラージャは、単に個人的な努力によって、あるいはより高い権威からの指導(instruction)によっては、人は献身奉仕の段階に至ることはできない、と確認なさいます。人は、物質的な欲望という汚染から完全に解放された純粋な献身者の蓮の御足の埃によって祝福されるようにならねばなりません。

8-4-A バークティの蜜(honey)を味わう

第1段落
献身奉仕はクリシュナと主の献身者の慈悲に依存しています。私たちが純粋な献身者の蓮の御足に服従しない限り、純粋な献身奉仕の水準に来るのは可能ではありません。自分自身の努力によっては、蜂は瓶の中の蜜(honey)を味わうことはできません。

より優れた者(a superior)によって瓶が開けられねばなりません。もしも蜂が単に瓶の外側を舐めて「今、私は蜜を味わっている」と考えるなら、彼は幻想の中にいます。同様に、献身者によって扉が開けられない限り、誰も献身奉仕に入ることはできません。

したがってルーパ・ゴスヴァーミーは、アーダウ・グルヴァーシュラヤムとおっしゃいます。献身奉仕における最初の一歩は、バークティの原則を辿る師弟継承からのグルを受け入れることです。そうすれば人(you)は献身奉仕の道に簡単に入るでしょう。

人はニシュキーンチャナ、「物質的な欲望のない」グルを選ばねばなりません。主の蓮の御足を受け入れた者は、すべての物質的な欲望を卒業しています(to have finished with、切り上げる、済ませる)。そのような純粋な献身者は、どんなものであれ自分のいる(訳注:置かれた)人生の状況の中で、主への奉仕に携わっていることだけを望みます。

第2段落
ユディースティラ王は、そのような純粋な献身者でした。シュリマッド・バーガヴァタムの5巻(5.6.18)においてナーラダはユディースティラにこう言います。「我が親愛なる王よ、パーンダヴァ家(the ~s)とヤドゥ家の永遠の保護者であるのは、ムクンダとして知られる主クリシュナです。

主は、あらゆる点で(in every respect)あなたの霊的指導者と教師(instructor)でもあります。主はあなたにとって唯一の崇拝すべき(worshipable、~に値する)神です。主はとても高貴で(訳注:dear、この場合は「親愛なる」ではなく、値段や価値などが高いことを表す形容詞)愛情深く、そして主は個人として、そして家族としての両方で(both individual and familial)、あなたのすべての活動の指導者(director)です。

そしてさらに(what's more、おまけに)、主はときとして、まるであなたの使者(messenger)であるかのように、あなたの命令を遂行なさいます!我が親愛なる王よ、あなたは何と非常に幸運でいらっしゃることでしょう。

なぜなら、他の者たちにとっては、至高主によってあなたに与えられたこれらすべての恩恵(favors)は、夢に見ることさえできないからです(would not even be dreamt of)。」この節への解説は、主は簡単に解放をお授けになりますが、魂に献身奉仕を授けることには滅多に同意なさらないということです。なぜなら、献身奉仕によって主ご自身が献身者によって購入されるようになるからです。

8-5 バークティは至高存在と一つになることの幸せを最小化する

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、もしもブラーマーナンダ、すなわち至高存在と一つになることの幸せが1兆倍になったら(to be multiplied by one trillion fold)、それはそれでも献身奉仕の海から得られる幸せのほんの一部(atomic fraction、原子のような小片)にも比べられない、とおっしゃいます。

プラーラーダ・マハーラージャは、ご自分の祈りで主ヌリスィムハデヴァを満足させながら、こうおっしゃいます。「我が親愛なる宇宙の主よ、あなたの存在の中で私は超越的な喜びを感じており、幸せの海に溶け込みました(to have become merged in)。

私は今、ブラーマーナンダの幸せを、この幸せ(bliss)の海と比べると、地面の上に牛のひづめ(hoof)によって残されたくぼみ(impression)の中の水より多いものではないと考えます。」同様に、シュリマッド・バーガヴァタムへのシュリーダーラ・スヴァーミーの解説書(commentary)であるバーヴァルター・ディピカーの中で、このように確認されています。

「我が親愛なる主よ、あなたへの献身の蜜(Your nectar of devotion)の海の中で泳いでおり、そしてあなたの娯楽の物語(narration、語り)の蜜を味わっている一部の幸運な人々は、確かに、宗教性、経済的な発達、感覚の満足そして解放から得られる幸せの価値を直ちに最小化する恍惚(ecstasies)を知っています。そのような超越的な献身者は、献身奉仕以外のいかなる種類の幸せも、道の上の麦わらより優れたものではないと見なします。
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by ammolitering4 | 2014-04-09 14:49 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

8-3-Bまで

8-2 クリシュナ意識は全く縁起が良い(All-Auspicious)

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、縁起の良さの定義を与えています。彼は、実際の縁起の良さは、世界のすべての人々のための福祉の(welfare、繁栄、幸福、福利)活動を意味するとおっしゃいます。現時点では、社会、共同体、あるいは国の立場から(in terms of、~の立場・見地から)、ばらばらのグループ(groups of people、人々の複数の集団)が福祉の活動に携わっています。

世界を助ける(world-help)活動のための、国際連合という形における試みさえあります。しかし、限られた国家的な活動の短所(shortcomings、欠点)が原因で、世界全体のためのそのような全般的な集団福祉計画(general mass welfare program)は現実的には可能ではありません。

しかし、クリシュナ意識運動はとてもすばらしい(nice)ので、人類全体に最高の利益を与える(to render)ことができます。誰もがこの運動に魅了されることができ、そして誰もが結果を感じることができます。したがって、ルーパ・ゴスヴァーミーと他の学識ある学者たちは、世界中での献身奉仕というクリシュナ意識運動のための幅広いプロパガンダ(訳注:主義主張の宣伝)計画は、最高の人道主義的な(humanitarian)福祉の活動であるということに同意します。

8-2-A すべての苦しみの終わり

第1段落
私たちは、自分の罪深い活動のために(because of)苦しみ、自分の徳のある活動のために楽しみます。しかし、この物質の世界では、私たちが楽しむのであれ、苦しむのであれ、共通する要素(factor)は苦しみです。

たとえば、来世において、今回の人生(this life)における徳のある活動が原因で、私が良い誕生を得ると仮定しましょう---私は十分な富、良い教育、そして身体的な美しさを持つかもしれません。しかし、たとえ私が金持ちの家庭に生まれたとしても、生まれてくる苦しみ(suffering of taking birth)は貧しい家庭に生まれる子供のそれと同じでしょう。

生まれてくる苦しみは、貧しい者にも豊かな者にも平等です。同様に、何らかの病気---たとえば熱があるとき、貧しい者よりも豊かな者のほうが痛みが少ない(less painful for ~than ~)というのではありません。痛みは同じです。

したがって、物質的な存在がある限り、この苦しむことと楽しむことは同じ水準に留まります:究極的に痛みがあるのです。しかし、もしも私たちがクリシュナ意識を習慣づけるなら、クリシュナは私たちに保証なさいます(to assure)。アハム・トヴァーム・サルヴァ・パーペブヒョ・モクシャイシャーミー、「私はあなたをすべての罪とすべての苦しみから解放します。」それが本当の縁起の良さです。

第2段落
クリシュナが私たちの面倒をみられるとき、主は私たちを徐々に内と外から教育なさり、私が家へ、至高神のもとへ戻れるように(may)なさいます。物質的な視点からは、富、教育、美、身分の高い両親(high parentage)などを得るのは縁起の良いことですが、これらすべては非常に多くの苦しみが混ぜられています(to be adulterated、不純物が混じって品質を落とす)。

したがって、それらは実際には縁起が良くありません。本当の縁起の良さは、喜びと知識の永遠の人生のために家へ、至高神のもとへ帰ることです。そしてそれは、何らの物質的な動機もなく主クリシュナへの純粋な献身奉仕に携わることによってのみ得られます。

そのため、純粋な献身奉仕に携わることは全くの縁起の良さ(all auspiciousness、または「すべての~」)の始まりです。そして、それを得るためには私たちは規則と規律に従い、日々ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱え、いつも主への奉仕に携わらなくてはなりません。

8-3 クリシュナ意識は至高の幸せを作り出す

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは幸せの様々な(different)源を分析しました(to analyze)。彼は幸せを次のような3つの区分に分けました。
(1)物質的な楽しみから得られる幸せ
(2)自己を至高のブラーマンと同一視すること(to identify)によって得られる幸せ、そして
(3)クリシュナ意識から得られる幸せです。

第2段落
タントラ・シャーストラにおいて、主シヴァはご自分の妻サティーにこのようにお話しになります。「我が親愛なる妻よ、ゴヴィンダの蓮の御足の下に(at)服従した者、そしてそのようにして純粋なクリシュナ意識を育んだ者は、非人格主義者によって欲せられる(訳注:~が欲する)すべての完成を非常に簡単に授けられ得ます(to be awarded、報いとして与えられる)。そしてさらに(beyond this、これより先)、彼は純粋な献身者によって得られる幸せを(も)楽しむことができます。」

第3段落
純粋な献身奉仕から得られる幸せは永遠なので、最高のものです。他方で、物質的な完成から、あるいは自分自身をブラーマンであると理解することから得られる幸せは、一時的なので、劣っています。

人が物質的な幸せから落ちることを阻むものはなく(there is no preventing)、そして自己を非人格的なブラーマンとして認識することから得られる霊的な幸せからさえも、落ちる可能性は幾らでもあります(there is even every chance)(訳注:この場合、「落ちる」は「失う」と同義)。

第4段落
偉大なマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたち---非常に高い教育を受けていて、ほとんど自己を認識した魂たち---が、時として政治的な活動や社会的な福祉の活動をする(to take to、習慣的に何かをし始める)ことが見られています(訳注:~の中には、時として~をする人々がいます)。

理由は、彼らは実際には非人格的な理解において究極の超越的な幸せを得ず、したがって物質的な水準(platform)に下りてきて、そのような俗的な事柄(affairs)に頼らねばならないからです(to take to、~に頼る、習慣的に何かをし始める)。

特にインドでは、これらのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちが再び物質的な水準に下りてくる多くの例(instances、場合)があります。しかし、完全にクリシュナ意識にある者は、決して何らの物質的な水準にも戻りません。それらがどんなに誘惑的(alluring)で魅力的であっても、彼はいつも、どんな物質的な福祉の活動もクリシュナ意識の霊的な活動には比べられないと知っています。

8-3-A 非献身的なヨガからの幸せは劣っている

第1段落
実際に成功したヨギーによって得られる(訳注:~が得る)神秘的な完成には8つあります。アニマー・スィッディーは、それによって人がとても小さくなって石に入ることができる力を指します。しかし、現代の科学的な発達(improvement)もまた、私たちが石に入るのを可能にします。

なぜなら、それらは非常に多くの地下鉄を掘る(to excavate)こと、丘を貫くことなどを提供する(to provide for、この場合は「可能にする」のような意味)からです。そのため、アニマー・スィッディー、石に入ろうとする神秘的な完成は、物質科学によっても得られています。

同様に、ヨガ・スィッディー、すなわち完成のすべては物質的な術です。たとえば、あるヨガ・スィッディーにおいては、非常に軽くなって空中や水の上に浮くことができる力の発達があります。それもまた物質的な科学によって得られています。それは私たちが空中を飛んだり、水の表面に浮いたり、水の下を移動したりする(to travel)ことを可能にしました。

第2段落
もちろん、神秘的な完成の区分(categories)の中には、物質的な科学者がまだ開発し得ていない特定の過程もあります。たとえば、神秘的なヨギーは単に太陽光(the rays of the sunshine)を使うことによって太陽(the sun planet)に入ることができます。この完成はラギーマーと呼ばれます。

同様に、ヨギーは指で月に触ることができます。現代の宇宙飛行士は、宇宙船の助けによって月に行きますが、彼らは多くの困難を経験します。一方で、神秘的な完成を持った人は、自分の手を伸ばして指で月に触ることができます。

このスィッディーは、プラープティ、すなわち取得(acquisition)と呼ばれます。このプラープティ・スィッディーによって(with)、完全な神秘的なヨギーは月に触れるだけでなく、どこにでも手を伸ばして好きなものを何でも取ることができます。彼は特定の場所から何千マイルも離れたところに座っているかもしれませんが、もしもそうしたいなら、彼はそこにある庭から果物を取ることができます。これがプラープティ・スィッディーです。

第3段落
現代の科学者たちは、それによってこの惑星の取るに足らない(insignificant、ほんの少し)部分を滅ぼすことのできる核兵器を作り出しましたが、イーシターとして知られるヨガ・スィッディーによって、人は単に意思するだけで(simply at will)惑星全体を作ったり滅ぼしたりすることができます。

もう一つの完成はヴァシターと呼ばれ、この完成によって人は誰もを自分の統御の下に置くことができます。これはほとんど抗し難い(irresistible)催眠術の一種です。時として、このヴァシターの神秘的な力において少しの完成を得たらしい(may)ヨギーが人々の間に出てきて様々な無意味なことを言い、彼らの心を統御し、彼らを搾取し、彼らのお金を取って去っていくことが見られます。

第4段落
プラーカーミャ(magic、魔法)として知られるもう一つの神秘的な完成があります。このプラーカーミャの力によって、人は何であれ好きなものを得ることができます。例えば、人は水を自分の目に入らせ、再び目から出てこさせることができます。単に自分の意思によって彼はそのようなすばらしい活動を行うことができます。

第5段落
神秘的な力の最高の完成はカーマーヴァサーイターと呼ばれます。これもまた魔法ですが、プラーカーミャが自然という範囲の中で(within the scope of nature)すばらしい効果を作り出すために活動する一方で、カーマーヴァサーイターは人に、自然と矛盾する(to contradict)ことを許します---言い換えると、不可能なことを行うことです。もちろん、人はそのようなヨガの物質主義的な完成を得ることによって大変な量の一時的な幸せを得ることができます。

8-3-B 物質的な幸せ:最高でも一時的

愚かにも、現在の物質主義的な発達のきらめきに夢中になった(enamored)人々は、クリシュナ意識運動はあまり知性的でない(less intelligent)人のためのものだと考えています。「私は自分の物質的な快適さ---良いアパート、家族、そして性生活を維持することに忙しくしているほうがいい(I am better off~)」。

これらの人々は、自分がいつでも自分の物質的な状況から追い出され得るということを知りません。無明が原因で、彼らは本当の人生は永遠であるということを知りません。体の一時的な快適さは人生の目的(goal)ではなく、そして人々が物質的な快適さのかすかな(glimmering、ちらちらとかすかに光る様子)発展に惹きつけられるようになるのは、ひとえに、最も暗い無明が原因です。

したがって、シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、物質的な知識の発達は人をもっと愚かにする(renders a person more foolish)、なぜならそれは人にその煌き(glitter、ぴかぴかと光る様子)によって自分の本当の自己を忘れさせるからだ、とおっしゃいました。

これは彼(訳注:人)にとって破滅(doom、悪い運命)です。なぜなら、この人生の人間の体は、物質的な汚染から出て行くためにあるからです。物質的な知識の発達によって、人々はますます物質的な存在に絡まってきています。彼らはこの災難(catastrophe、破局、破滅)から解放されるための何の希望も持ちません。
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by ammolitering4 | 2014-04-09 10:05 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

第8章 1-Bまで

8-1-A 罪人アジャーミラが救われる
(訳注:見出し番号は便宜のために訳者がつけたもの。)

第1段落
このことに関して、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、シュリマッド・バーガヴァタムの6巻(6.2.17)においてアジャーミラの話を語られます。彼は立派(fine、申し分のない)で忠順な(dutiful、本分を守る)ブラーマナとして人生を始めましたが、若い大人だったころ(in his young manhood)、売春婦によって完全に堕落してしまいました(to become corrupted)。

その不道徳な(wicked、不正な)人生の最後に、単に「ナーラーヤナ(クリシュナ)」という名を呼ぶことによって、彼は、非常に多くの罪にも関わらず、救われました。シュカデヴァは、罪深い活動を相殺する(to counteract)ために禁欲(austerity)、慈善(charity)、そして儀式を行うことが勧められているが、若いときのアジャーミラの場合のように、それらを行うことによっては人は心臓から罪深い欲望の種を取り除くことはできない、と指摘なさいます。

罪深い欲望の種は、クリシュナ意識を得ることによってのみ、取り除かれ得ます。そしてこれはシュリー・チャイタンニャ・マハープラブによって勧められているように、マハーマントラ、すなわちハレ・クリシュナ・マントラを唱えることによって非常に簡単に達成され得ます。言い換えると、献身奉仕の道を受け入れない限り、人はすべての罪深い反応から100%清められる(to be clean)ことはあり得ません。

第2段落
ヴェーダの儀式的な活動を行うことによって、慈善においてお金を与えることによって、そして禁欲を行うことによって(to undergo、苦難や変化を経験する、耐える)、人は一時的に罪深い活動の反応から自由になることができますが、次の瞬間に人は必ず再び罪深い活動に携わるようになります(must)。

例えば、性生活に過度にふけったことによって性病(venereal disease)に苦しんでいる人は、治療において何らかのひどい痛みを受けねばなりません。そして、そうすれば彼はしばらくは(for the time being)癒されます。

しかし、自分の心臓から性的な欲望を取り除くことができないので、彼は必ず再び同じものにふけり、同じ病気の犠牲者になります。ですから、治療はそのような性病の苦しみから一時的な解放(relief、安堵、痛みの除去)を与えるかもしれませんが、人が性生活は忌まわしい(abominable)と理解するように訓練されない限り、そのような繰り返す苦しみから救われることは不可能です。

同様に、ヴェーダにおいて勧められている、儀式を行うこと、慈善、そして禁欲は、人が罪深いやり方で活動することを一時的に止めるかもしれませんが、心臓が清められていない限り(clear)、人は何度も何度も罪深い行いを繰り返さねばならないでしょう。

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムにおいて与えられているもう一つの例は、湖に入って非常に真剣に水浴びをして自分の体を完全に(thoroughly)きれいにしている象に関するものです。それから、岸に上がれば直ちに、彼は再び地面(the earth)から幾らかの埃(dust)を取り、それを自分の体にかけます。

同様に、クリシュナ意識において訓練されていない者は、罪深い活動への欲望から完全に自由になることはできません。瞑想的なヨガの過程も、哲学的な推量も、結果を求める活動も、罪深い欲望の種から人を救うことはできません。献身奉仕に携わっていることによってのみ、これはなされ得ます。

第4段落
シュリマッド・バーガヴァタムの4巻(4.22.39)には、もう一つの証拠があり、そこでサナット・クマーラはこう言います。「我が親愛なる王よ、人間の偽りの自我は非常に強いので、まるで強い縄で縛られたように、それは彼を物質的な存在の中に保ちます。献身者だけが、自らをクリシュナ意識に携わらせることによって(訳注:~に携わることによって)、この強い縄の結び目を非常に簡単に切る(to cut off)ことができます。

クリシュナ意識でなく、偉大な神秘主義者や偉大な儀式を行う人になろうとしている他の者たちは、献身者のように発達することができません。したがって、偽りの自我の固い結び目と物質的な活動における携わりから解放されるために、自己をクリシュナ意識の活動に携わらせることは(訳注:~に携わることは)、すべての人の義務です。

第5段落
偽りの自我のこの固い結び目は、無明によるものです。人が自分の自己認識(identity)に関して無知である限り、彼は必ず誤ったふうに活動し、そうして物質的な汚染の中に絡まるようになります。この、事実を知らないということ(this ignorance of factual knowledge)もまた、パドマ・プラーナの中で次のように確認されているように、クリシュナ意識によって消され得ます(to be dissipated、霧や恐怖などを晴らすように消す)。

「クリシュナ意識における純粋な献身奉仕は最高の悟り(enlightenment)であり、そのような悟りがあるとき、それはちょうど、すべての縁起の悪い欲望の蛇を殺す、燃えさかる山火事(forest fire)のようです。」このことに関して、山火事があるときは広範な炎(extensive blazing)が自動的に森のすべての蛇を殺すという例が挙げられています。

森の地面の上にはたくさん、たくさんの蛇がいて、火事になるとそれは乾いた葉(foliage、草木の木の葉全体を指す)を燃やし、蛇は直ちに攻撃されます。4本の脚を持つ動物は火から逃げる(to flee)ことができ、あるいは少なくとも逃げようとすることができますが、蛇は直ちに殺されます。同様に、クリシュナ意識に燃えさかる炎は非常に強いので、無明の蛇は直ちに殺されます。

8-1-B クリシュナの約束

第1段落
物質世界の中のすべての者は不安(anxieties)に満ちています。それが物質的な存在の性質です。次から次に問題がやってきます。ですから、もしも誰かが私たちに「ただ、私に頼りなさい。私はあなたのすべての問題を解決してあげましょう」と約束するなら、私たちはどれほどの安堵を感じるでしょう!ただ、想像してください!

もちろん、私たちはそれを信じないかもしれません。もしも誰か普通の人間が私たちに「心配するな。私はあなたのすべての問題に責任を持つ(I will take charge of all your affairs)」と言うなら、私たちはそうするための彼の能力を疑うかもしれません。

なぜなら、私たちは彼の限界を知っているからです。しかし、クリシュナが「私は責任を持ってあなたの面倒を見る(I will take charge of you)」とおっしゃるとき、私たちは主のお言葉に完全な信頼(faith)を持ち、大いなる安堵を感じるでしょう(should)。

クリシュナは普通の人間(man)ではありません---主は万能の(all-powerful)至高の人格神です。主はヨゲシュヴァラ、すべての神秘的な力の主(master)であり、主は完全真理です。したがって、主がバガヴァッド・ギーターにおいて「自分の問題を解決するための他のすべての試みを放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたに責任を持ち(will)、あなたのすべての罪深い反応を無にします(to nullify)」と約束なさるとき、私たちは自分のすべての罪深い活動の反応から解放されると確信するでしょう(we should feel assured、納得、安心)。

(図)苦しみの循環
アヴィデャー(無明)
ビージャム(罪深い欲望)
クータム(罪深い傾向)(disposition、気質)
パーパム(罪深い活動)
アプラーラブダー(顕現していない反応)
プラーラブダー(顕現した反応)
苦しみ
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苦しみの根源的な原因はアヴィデャー、主クリシュナの永遠の従者としての自分の(our)本当の自己認識を知らないこと(ignorance)です。この無知(無明)のため、私たちは感覚の対象に触れると(in contact with~)罪深い欲望(ビージャム)を得がちです。

これらの欲望に基づいて(on)活動するとき、私たちは罪を犯します(パーパム)。罪深い反応は、最初は顕現していませんが(アプラーラブダー)、やがて(over time)(前世や来世までも含め)(even over lifetimes)、罪への反応は苦しみ(プラーラブダー)および更なる罪を犯す傾向(クータム)として顕現します。バークティ、すなわちクリシュナ意識の過程は、これらすべての苦しみの段階を相殺します(to counteract)。
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by ammolitering4 | 2014-04-08 14:06 | 「永遠の愛の術」 | Comments(2)

第8章 8-1まで

第8章 純粋なバークティの6つの特徴

次にルーパ・ゴスヴァーミーは純粋な献身奉仕の6つの独特の特徴を挙げられます。
(1)純粋な献身奉仕は、あらゆる物質的な苦しみからの瞬時の解放をもたらす(訳注:~から直ちに解放する)。
(2)純粋な献身奉仕は、すべての縁起の良さの始まりである。(訳注:all auspiciousness、これはハイフンが入っていないが、「完全な縁起の良さ」という熟語とも取れる。)
(3)純粋な献身奉仕は、自動的に人を超越的な喜びに置く。(訳注:~に~をもたらす)
(4)純粋な献身奉仕は、滅多に得られない。
(5)純粋な献身奉仕のうちにある者(訳注:~をしている者)は、解放の概念(conception)さえあざ笑う(to deride)。
(6)純粋な献身奉仕は、クリシュナを魅了するための唯一の方法である。

(校正:ここで一行空ける。)クリシュナはすべてのものを魅了しますが(all-attractive)、純粋な献身奉仕は主さえも魅了します。これは、純粋な献身奉仕はクリシュナご自身さえよりも超越的に強いことを意味します。なぜなら、それはクリシュナの内的な力だからです。

8-1 クリシュナ意識はすべての物質的な苦しみからの解放をもたらす

第1段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、人は他のすべての仕事(engagements、携わっていること)を放棄してご自分に服従すべきである、とおっしゃいます。主はまた、そこで、服従した魂をご自分がすべての罪深い活動の反応から守る、というお言葉も与えられます。

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、罪深い活動からの苦しみは、今の自分自身の罪(訳注:the sins themselves、「罪そのもの」という意味ですが、それでは意味が通じないのでこうしています。今の生において犯した罪、という意味だと考えられます)と、自分の過去生において犯した罪が原因である、とおっしゃいます。

一般に、人は無明が原因で罪深い活動をします(to commit、罪を犯す)。しかし、無明(ignorance、無知)は、反応---苦しみを避ける(to evade、敵などを巧みに避ける、かわす)言い訳(excuse)にはなりません。罪深い活動には2種類あります。

時が満ちたもの(mature、成熟、満期)と、時が満ちていないものです。それを原因として私たちが現時点で苦しんでいる罪深い活動は、時が満ちていると呼ばれます。私たちの中に蓄えられており、私たちがまだそのために苦しんでいないものは、時が満ちていないと考えられます。

例えば、ある人は犯罪を犯して、まだそのために逮捕されていないかもしれません。ところが(Now)、見つかれば直ちに、逮捕が彼を待っています。同様に、自分の罪深い活動の幾つかに対して、私たちは未来における苦しみを待っており、そして時が満ちているその他のものに対しては、私たちは現時点で苦しんでいます。

第2段落
このように、罪深い活動とそれらに付随する(concomitant)苦しみの鎖があり、制約された魂はこれらの罪が原因で何度も生まれ変わって(life after life)苦しんでいます。彼は現在の人生で自分の過去の人生(訳注:his past life、この場合はこの人生の過去も含む)からの罪深い活動の結果に苦しんでおり、そして彼はその間に、自分の未来の人生のために、さらなる苦しみを作り出しています。時の満ちた罪深い活動は、もしも人が何らかの慢性的な病気に苦しんでいるなら、もしも人が何らかの法的な問題(implication、係わり合い)に苦しんでいるなら、もしも人が身分が低くて堕落した(degraded)家庭に生まれたか、あるいは教育がないか、非常に醜いなら、現されています。

第3段落
それを原因として私たちが現時点で苦しんでいる過去の罪深い活動の多くの結果があり(訳注:私たちは、数多くの過去の罪深い活動の結果に今現在、苦しんでおり)、そして私たちは未来において、自分の現在の罪深い活動が原因で苦しんでいるかもしれません。

しかし、罪深い行い(deeds)へのこれらの反応のすべては、もしも私たちがクリシュナ意識を習慣づけるなら、直ちに止められ得ます。このことへの証拠として、ルーパ・ゴスヴァーミーは、シュリマッド・バーガヴァタム(11.14.19)から節を引用なさいます。

その節は、主クリシュナのウッダーヴァへの教えに関するもので、そこで主は「我が親愛なるウッダーヴァよ、私への献身奉仕は、ちょうど、それに注がれる無限の燃料を燃やして灰にする、燃えさかる火のようなものです」とおっしゃいます。

解説は、燃えさかる火がどれだけの量の燃料でも燃やして灰にできるように、クリシュナ意識における主への献身奉仕は、罪深い活動という燃料のすべてを燃やし尽くす(to burn up)ことができる、というものです。

たとえばギーターにおいてアルジュナは戦うことは罪深い活動だと考えましたが、クリシュナはご自分の命令の下で彼を戦場において働かせ(to engage him on~)、そしてそのため、戦うことが献身奉仕になりました。したがって、アルジュナはいかなる罪深い反応の影響下にもありませんでした。

第4段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、シュリマッド・バーガヴァタムの第3巻(3.33.6)から節を引用なさいます。そこでデヴァフーティ(訳注:女性)は、サーンキャと呼ばれる種類のヨガを教えた自分の息子カピラデヴァ、クリシュナの化身に呼びかけ(to address)、こう言います。

「我が親愛なる主よ、聞くことと唱えることから始まり、9つの異なる種類の献身奉仕があります。あなたの娯楽について聞く者、あなたの栄光について唱える者、あなたに敬意を払う者(to offer obeisances、敬意、服従)、あなたのことを考える者、そしてこのようにして9種の献身奉仕のいずれかを遂行する者は誰でも---たとえ彼が犬食い(人類のうちで最も低い階層)の家庭に生まれたとしても---直ちに犠牲を行う資格を得ます。」

そうであれば(As such、しかるに)、誰であれ完全なクリシュナ意識において実際に献身奉仕に携わっている者が清められるようにならないということが、どうして可能でしょうか?それは可能ではありません。クリシュナ意識と献身奉仕に携わっている者は、疑いなく、物質的な罪深い活動のすべての汚染から解放されました(has become freed)。

したがって献身奉仕は実際に罪深い行いへのあらゆる(all kinds of)反応を無にする(to nullify)力を持っています。それでも(nevertheless)、献身者はいつも、どんな罪深い活動も行わないように(to commit)気をつけています(alert)。これが献身者としての彼の特定の性質です。

このように、シュリマッド・バーガヴァタムは、献身奉仕を行うことによって、犬食いの家庭に生まれた者でさえヴェーダにおいて勧められている儀式(ritualistic ceremonies)に参加する資格が得られる(to become eligible)と述べます。

この言明において、犬食いの家庭に生まれた者は一般的にヤジニャ、すなわち犠牲を行うのにふさわしくない(not fit for~)ということが暗に示されています(implicit)。ヴェーダにおいて勧められているこれらの儀式を行うことを司る(to be in charge of~)僧侶階級(priestly caste)は、ブラーマナ階層(order)と呼ばれます。ブラーマナでない限り、彼はこれらの儀式を行うことはできません。

第5段落
人は、自分の過去の活動に応じて、ブラーマナの家庭、あるいは犬食いの家庭に生まれます。もしも人が犬食いの家庭に生まれたなら、それは彼の過去の活動がすべて罪深かったことを意味します。

(訳注:all sinfulは「全く罪深かった」ともとれる。allはall-attractive, all-powerfulというふうに、「全く、完全に」という使い方をされる場合があります。普通はハイフンでつながっていますが、この本はレクチャーを文字にしてあるので、どちらとも取れます。意味はほぼ同じです。)

しかし、もしもそのような人でさえ献身奉仕の道を習慣づけ(to take to~)、主の聖なる御名---ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ---を唱え始めるなら、彼は直ちに儀式を行うのにふさわしくなります(he is at once fit to~)。これは、彼の罪深い反応が直ちに無効になった(to be neutralized、中和)ことを意味します。

(第6段落)
パドマ・プラーナにおいて、罪深い活動を原因とする4種の結果(effects、原因causeの反対語)があると述べられており、それらは以下のように挙げられています。
(1)まだ実を結んでいない(to be fructified)結果、
(2)種として横たわっている結果、
(3)既に時が満ちている結果、そして
(4)ほとんど時が満ちている結果です。

また、至高の人格神に服従し、完全なクリシュナ意識において主への献身奉仕に携わるようになる者にとって、これらの4つの結果のすべてはただちに克服される(to be vanquished、征服、打ち負かす)とも述べられています。

(第7段落)
「ほとんど時が満ちている」と描写された結果は、人が現在それが原因で(from)苦しんでいるものを指し(?)(訳注:これは間違いと思われます。「ほとんど」は不要)、そして「種として横たわっている」結果は、種のような罪深い欲望のある程度の蓄積(certain stock)がある、心臓の中心にあります(訳注:「種~」は心臓の中心にあり、そこには罪深い欲望がある程度溜まっていて、それは種のようなものだ)。

クータムというサンスクリットの単語は、それらがほぼ種を、あるいは種の結果(the effect of the seed)を作る準備ができていることを意味します。「時が満ちていない結果」は、芽生えが始まっていない場合(case)を指します。

パドマ・プラーナのこの言明から、物質的な汚染は非常に精妙(subtle)であると理解されます。その始まり、その結実(fruition)と結果、そして人がどのようにそのような結果を苦しみ(distress)という形で味わう(to suffer、苦しむ)のかは、巨大な連鎖(great chain)の一部です。

人が何らかの病気になるとき(to catch disease)、往々にして病気の原因、それがどこから来たか(to originate)、そしてそれがどのように発達しているか(to mature)を確かめる(to ascertain)のは非常に困難です。しかし、病気の苦しみは突然現れることはありません。それは実際に時間がかかります。

そして、医学の分野において、予防を目的として(for precaution's sake)医者が汚染の拡大(growing)を防ぐためにワクチンを打つのと同様に、私たちの罪深い活動の種のすべての結実(fructifications)を止めるための実際的な(practical)注射は、単にクリシュナ意識への携わりです。

(訳注:医学の分野では汚染が広まるのを防ぐために医者がワクチンを打って予防するように、私たちの罪深い活動という種が育って実を結ぶのを防ぐためには、クリシュナ意識になるという注射が現実的で有効です。)
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by ammolitering4 | 2014-04-06 14:00 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

第3章から第7章まで

第3章 バークティによって得られる利益(Benefits of Bhakti)

第1段落
このバークティ・ラサへの永遠の携わり(this eternal engagement in~)は、「献身の甘露」を学ぶことによって(upon)真剣な生徒によって理解され得ます(訳注:~は、~によって、この永遠に~に携わるということを理解することができます)。

バークティ・ラサ、すなわちクリシュナ意識を受け入れる(to adopt)ことは、人を直ちに不安(anxiety)のない、縁起の良い(auspicious)人生に連れて行き、人を超越的な存在で祝福し、そうして解放の価値を最小化します(訳注:~すると、人生は直ちに不安のない、幸いなものとなり、人は超越的な存在となって、解放が取るに足らぬものに思えるでしょう)。

バークティ・ラサそれ自体が、解放の気持ち(feeling、解放されたという感覚)を作り出すのに十分です。なぜなら、それは至高主、クリシュナの関心を惹きつけるからです。一般に、初心者の献身者はしきりにクリシュナ、すなわち神を見たがりますが(anxious to see)、神は私たちの現在の物質的に鈍い(blunt)な感覚によっては見られ、あるいは知られ得ません。

「献身の甘露」において勧められている(as it is recommended)献身奉仕の過程は、徐々に人を人生の物質的な状態(condition)から霊的な状態(status)に上げて、そこで(wherein)献身者はすべての呼称(designation、日本人、女性、絵描き、などの身体的な区分)から清められます(to become purified of)。

そのとき感覚はバークティ・ラサと常に触れ合っていることで汚染がなくなります。浄化された感覚が主への奉仕のために使われるとき、人はバークティ・ラサの人生に位置するようになり、この人生の超越的なバークティ・ラサの段階においてクリシュナの満足のために行われたいかなる活動も、永遠に味わわれ得ます。

人がこのように献身奉仕に携わるとき、すべての種類のラサ、すなわち甘い関係(mellow)は永遠になります(to turn into eternity)。最初は、人はアーチャーリャ、すなわち霊的指導者の導きの下で規律の原則に応じて訓練されます。

そして徐々に、人が(訳注:高い水準に)上げられるとき、献身奉仕はクリシュナに奉仕をすることへの自動的で自発的な(spontaneous)熱意になります。「献身の甘露」において説明されている12種類のラサがあり、5つの主要なラサにおいてクリシュナとの自分の関係を回復させる(to renovate、修復、刷新)ことによって、私たちは完全な知識と喜びにおいて永遠に生きることができます。

第2段落
生きている状態(living condition)の基本的な原則は、私たちは誰かを愛する一般的な傾向(propensity、性質)を持っているというものです。誰も、誰か他のものを愛することなく生きることはできません。この傾向はすべての生命体の中に存在します。

虎のような動物さえも、この愛する傾向を少なくとも休眠状態(dormant)で持っており、そしてそれは確かに人間の中に存在します。しかし、見失われている(missing、欠けている)要点は、誰もが幸せになることができるようにするためには、私たちの愛をどこに置く(to repose、信頼を置く、望みをかける)かということです。

その見失われている要点はクリシュナであり、そして「献身の甘露」は私たちに、どうやってクリシュナへの自分のもともとの愛を刺激(to stimulate、鼓舞、活性化)することができるか、そしてどうやって私たちが喜びに溢れた人生を楽しめる立場に位置することができるかを教えます。

第3段落
最初の段階で、子供は自分の両親を、それから兄弟姉妹を愛し、そして日々育つにつれて彼は自分の家族、社会、共同体(community)、国(country)、国家(nation)、あるいは人間社会全体さえも愛し始めます。しかし、愛する傾向は人間社会すべてを愛することによってさえ満足されません。

その愛する傾向は、私たちが至高の愛される者は誰かを知るまで、不完全に満足されるに留まります。私たちの愛は、それがクリシュナに向けられる(to be reposed)ときだけ、完全に満足されます。この主題(theme)が、どうやってクリシュナを5つの異なる超越的な甘い関係(mellows)において愛するかを私たちに教える「献身の甘露」の真髄(sum and substance)です。

第4章 無限の(Boundless)愛
第1段落
私たちの愛する傾向は、ちょうど光の振動あるいは空気(訳注:光あるいは空気の振動、とも読める)が広がるように広がりますが、私たちはそれがどこで終わるか知りません。「献身の甘露」は私たちに、クリシュナを愛するという簡単な方法によって生命体の一つ一つすべて(every one of the living entities)を完全に愛する科学(the science of loving~)を教えます。

私たちは、国際連合のような大変な試み(great attempts as~)によってさえ、人間社会に平和と調和を作ることに失敗しました。なぜなら、私たちは正しい方法を知らないからです。その方法は非常に単純ですが、人はそれを冷静な頭で理解しなければなりません。

「献身の甘露」はすべての人に、クリシュナ、至高の人格神を愛する単純で自然な方法をどうやって行うかを教えます。もしも私たちがどうやってクリシュナを愛するかを学ぶなら、それならすべての生命体(living beings)を直ちに、そして同時に愛するのは非常に簡単です。

それは木の根に水を注ぐこと、あるいは人の胃に食べ物を与えることのようです。私たち一人一人が経験したように、木の根に水を注ぐことや胃に食べ物を与えることは、普遍的に(universally)科学的で実際的です。

誰もが、私たちが何かを食べるとき、あるいは言い換えると、私たちが胃に食べ物を入れるとき、そのような活動によって作られたエネルギーは直ちに体全体に配られることをよく知っています。同様に、私たちが根に水をそそぐとき、そうして作られたエネルギーは直ちに、最大の木でさえ全体にくまなく(throughout the entirety of even the largest tree)配られます。

木に部分ごとに水やりするのは可能ではなく、体の部分に別々に食べさせるのも可能ではありません。「献身の甘露」は私たちに、どうやってすべてのもの、すべての場所を直ちに明るくする一つのスイッチを入れるか(turn the one switch)を教えます。この方法を知らない者は、人生の要点を見失っています。

第2段落
物質的な必要性に関して言えば、現時点での人間の文明は心地よく暮らすことにおいて極めて(very much)発達していますが、それでも私たちは幸せではありません。なぜなら、私たちは要点を見失っているからです。

人生の物質的な心地よさだけでは、私たちを幸せにするのに十分ではありません。私たちの不満足の根源的な原因は、物質主義的な人生のあり方における私たちの大変な発達にも関わらず、私たちの休眠状態にある愛する傾向(dormant loving propensity)が満たされていないことです。

「献身の甘露」は私たちに、私たちがどうやって物質世界の中で献身奉仕に完全に携わって生きて、そうしてこの人生と来世において自分のすべての欲求(desires)を満たすことができるかを教えます。

第3段落
「献身の甘露」は物質主義的な人生のいかなるあり方を非難する(to condemn)ために著されたものではなく、(その)意図するところ(the attempts、試み)は、宗教家、哲学者、そして一般の人々に、どうやってクリシュナを愛するかという情報を教えることです。

人は物質的な挫折(discomfiture、失敗)なしに住んでいるかもしれませんが(訳注:安楽な暮らしをしているかもしれませんが)、しかし同時に人はクリシュナを愛する術を学ぶべきです。現時点では、私たちは自分の愛する傾向を利用する非常に多くの方法を発明していますが、事実としては(factually)私たちは本当の要点、クリシュナを見失っています。

私たちは木のすべての部分に水をやっていますが、木の根を忘れています(to miss、~しそこなう)。私たちはすべての方法によって(by all means、ありとあらゆる方法で)自分の体を健康に保とうとしていますが、胃に食べものを与えることを怠っています(to neglect)。

クリシュナを見失うことは人の自己を見失うことも意味します。本当の自己認識とクリシュナの認識は同時に生じます(to go together simultaneously、連動)。例えば、朝、自分自身を見ることは、日の出を見ることも意味します。日光を見ずしては、誰も自分自身を見ることはできません。同様に、クリシュナを認識しない限り、自己認識はあり得ません。

第5章 純粋な献身奉仕の定義

第1段落
バークティ、すなわち献身奉仕の権威ある定義は、以前のアーチャーリャたちの足跡を辿って、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによる次の言明に要約され得ます。「第一級の献身奉仕は、人の、完全にクリシュナ奉仕に携わり、主に好意的に(favorably)奉仕をする、という傾向によって知られます。」

解説は、人は非好意的(unfavorably)にクリシュナ意識であるかもしれないが、それは純粋は献身奉仕としては数えられない、というものです。純粋な献身奉仕は、いかなる物質的な利益、あるいは感覚の満足への欲望からも自由であるべきです。

なぜなら、これらの欲望は結果を求める活動と哲学的な推量を通して培われるからです。一般に、人々は何らかの物質的な利益を得るためにさまざまな(different)活動に携わりますが、一方でほとんどの哲学者はたくさんの(volumes of、書物何巻もの)巧みな言葉(word jugglery、言葉を巧みに操ること)と推量を通して、超越的な認識を提案する(to propose)ことに携わっています。

純粋な献身奉仕は、いつも必ず、そのような結果を求める活動と哲学的な推量から自由でなければなりません。人はクリシュナ意識、すなわち純粋な献身奉仕を自発的な愛情ある奉仕によって、権威のあるもの(authority)から学ばねばなりません。

第6章 クリシュナのために活動する:バークティの真髄
第1段落
この献身奉仕というものは、一種の修養(cultivation、修練)です。それは、非活動的であること、あるいは自分の時間を静寂なる瞑想に捧げることを好む人々のための単なる不活動(inaction)ではありません。

これを欲する人々のための多くの異なる方法がありますが、クリシュナ意識の修養は異なります。このことに関連して、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって使われた特定の言葉はアヌスィーラナ、すなわち前任の(predecessor)教師たち(アーチャーリャ)を辿ることによる修養です。

修養といえば直ちに、私たちは活動に言及しなければなりません(to refer to)。活動なしでは、意識だけでは私たちを助けることはできません(訳注:意識だけで活動が伴わなければ助けにならない)。すべての活動は二つの階級に分けられるでしょう(may):

一つの階級は特定の目的を達成するためであり、そしてもう一つは、何らかの好ましくない状況を避けるためのものでしょう(may)。サンスクリット語では、これらの活動はプラヴリッティとニヴィリッティ---肯定的および否定的な活動と呼ばれます。否定的な活動の多くの例があります。例えば、病気の人は自分の病気をより悪くするのを避けるために、注意深くあり、薬を飲まねばなりません。

第2段落
霊的な人生を修養しており、献身奉仕を遂行している者は、いつも活動に携わっています。そのような活動は体で、あるいは心で行われ得ます。考えること、感じること、そして意志すること(willing)はすべて心の活動であり、そして私たちが何かをすることを意志するとき、鈍い(訳注:gross、精神の感覚より鈍い、密度の濃い)身体的な感覚によって活動が顕現するようになります。

こうして、自分の精神的な活動において私たちはいつも、偉大なアーチャーリャたちと個人的な霊的指導者の足跡を辿り、クリシュナのことを考えようとすべきであり、どうやって主を喜ばせるかと計画しようとすべきです。

体の活動、心の活動、そして言葉(speech)の活動があります。クリシュナ意識の人は自分の言葉(words)を主の栄光を広める(to preach the glories)ことに携わらせます(訳注:使います)。これはキールタナと呼ばれます。

そして自分の心によって、クリシュナ意識の人はいつも主の活動のことを考えます---主がクルクシェトラの戦場でお話しになっていることや、ヴリンダーヴァンでご自分の献身者たちとさまざまな娯楽に携わっていらっしゃることなどです。このようにして人はいつも主の活動と娯楽のことを考えることができます。これがクリシュナ意識の精神的な修養(mental culture、この場合のculture はcultivationと同じような意味)です。

第3段落
同様に、私たちは自分の身体的な活動で多くの奉仕を提供することができます。しかし、すべてのそのような活動はクリシュナと関わっていなければなりません。この関係は師弟継承におけるクリシュナの直接の代理人である真正なる霊的指導者と自分自身を結びつけることによって確立されます。

したがって、体でのクリシュナ意識の活動は霊的指導者によって指示され、そして信頼(faith)をもって行われるべきです。霊的指導者との結びつきは入門(initiation)と呼ばれます。霊的指導者による入門の日から、クリシュナとクリシュナ意識を培っている人の間の結びつきが確立されます。真正なる霊的指導者による入門なくしては、クリシュナ意識との実際の結びつきは決して行われません。

第4段落
このクリシュナ意識の修養は物質的ではありません。主は3つの主な(general)エネルギー、すなわち外的なエネルギー、内的なエネルギー、そして周辺的なエネルギーをお持ちです。生命体は周辺的なエネルギーと呼ばれ、物質的な宇宙の顕現は外的、すなわち物質的なエネルギーの活動です。

そして、霊的な世界があり、それは内的なエネルギーの顕現です。周辺的なエネルギーと呼ばれる生命体は、劣性な外的エネルギーの下で活動しているとき、物質的な活動を行います。そして彼らが内的な霊的エネルギーの下で活動に携わるとき、彼らの活動はクリシュナ意識であると呼ばれます。

これは、偉大な魂あるいは偉大な献身者である者は、物質的なエネルギーの魔力(spell)の下で活動せず、そうではなく変わりに霊的なエネルギーの保護の下で活動する、ということを意味します。献身奉仕において、あるいはクリシュナ意識においてなされるあらゆる活動は、直接、霊的なエネルギーの統御の下にあります。言い換えると、エネルギーは一種の力(strength)であり、そしてこの力は真正なる霊的指導者とクリシュナ両方の慈悲によって霊化され得ます。

第5段落
クリシュナダーサ・カヴラージャ・ゴスヴァーミーによる「チャイタンニャ・チャリタームリタ」において、主チャイタンニャは、クリシュナの恵み(grace)によって真正なる霊的指導者と巡り合うのは幸運な人である、と述べられます。

霊的な人生に関して真剣な者に、クリシュナは真正なる霊的指導者に巡り合う知性を与え、そしてそれから霊的指導者の慈悲によって、人はクリシュナ意識において発達するようになります。このように、クリシュナ意識の管轄(jurisdiction、権限、支配権)全体が直接、霊的なエネルギー---クリシュナと霊的指導者の下にあります。

第7章 純粋な献身者の定義
第1段落
ルーパ・ゴスヴァーミーによって彼の著作「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」において与えられている純粋な献身者の定義は、このように要約され得ます:彼の奉仕はクリシュナに好意的であり、いつもクリシュナに関わっている、というものです。

そのようなクリシュナ意識の活動の純粋性を保つために、人はすべての物質的な欲望と哲学的な推量から解放されなければなりません。主への奉仕に対するものを除くすべての欲望は、物質的な欲望と呼ばれます。

そして「哲学的な推量」は、究極的に虚無主義あるいは非人格主義という結論に達する種類の推量です。この結論は、クリシュナ意識の人には役に立ちません。哲学的な推量によって人がヴァースデヴァ、すなわちクリシュナを崇拝するという結論に達することは稀です(Only rarely by ~ can one reach ~)。

これはバガヴァッド・ギーターそのものにおいて確認されています。哲学的な推量の究極的な終着点は、それなら、クリシュナがすべて、すべての原因の原因であり、したがって人は主に服従すべきである、という理解をもって、クリシュナでなければなりません(訳注:そうであれば、~という理解をもってすると、~は~でなければなりません)。

もしもこの究極の目的地に至るなら、哲学的な発達は好ましいものですが、もしも哲学的な推量の結論が虚無主義、あるいは非人格主義であるなら、それはバークティではありません。

第2段落
カルマ、すなわち結果を求める活動は、時として儀式的な活動から成るように理解されます。ヴェーダにおいて、儀式的な活動に非常に魅了されている多くの人々が描写されています。しかし、もしも人がクリシュナを理解することなく単に儀式的な活動に魅了されるようになるなら、彼の活動はクリシュナ意識にとって好ましくありません。

実際は、クリシュナ意識は単にクリシュナにつして聞くこと、主について唱えること、主を思い出すことなどに基づき得ます。シュリマッド・バーガヴァタムは9つの異なる過程を描写しており、それ以外には為されるすべてのことがクリシュナ意識にとって好ましくありません(訳注:それ以外のものはすべて~)。

第3段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはまた、次のように「ナーラダ・パンチャラートラ」からも定義を引用なさいました。「人はすべての物質的な呼称(designation)から自由であるべきであり、そしてクリシュナ意識によってすべての物質的な汚染を洗い清められねばなりません。

彼は自分の純粋な自己認識(identity)に戻される(to be restored)べきであり、そこにおいて彼は自分の感覚を感覚の所有者への奉仕に携わらせます。」ですから、私たちの感覚がクリシュナ、感覚の実際の所有者のために使われるとき(to be engaged)、その活動は献身奉仕と呼ばれます。

制約された状態において、私たちの感覚は身体的な要求(demands)に奉仕することに携わっています。同じ感覚がクリシュナの命令を遂行することに携わるとき、私たちの活動はバークティと呼ばれます。

第4段落
人が自分自身を特定の家族、特定の社会、あるいは特定の国に属すると認識する限り(to identify、同一視する)、彼は呼称によって覆われていると言われます。人が自分はどの家族、社会、あるいは国にも属せず、そうではなく永遠にクリシュナと関係があると完全に気づくとき、彼はそのとき、自分のエネルギーはいわゆる家族、社会、あるいは国の利益のためではなくクリシュナの利益のために使われるべきであると気づきます。

これが目的の純粋性(purity of purpose)であり、クリシュナ意識における純粋な献身奉仕の水準です。
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by ammolitering4 | 2014-03-29 13:38 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

第1章と第2章

第1章 「献身の甘露」とは何か

第1段落
「献身の甘露」は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダによってサンスクリット語で書かれた「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥ」の要約(summary study)です。彼は主チャイタンニャ・マハープラブの直弟子であった6人のゴスヴァーミーたち(Six Gosvamis)の筆頭者(chief、長)でした。

主チャイタンニャに初めて会ったとき、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダはインドのベンガル地方のイスラム教政府で大臣として働いていました。彼と彼の兄弟のサナータナは、それぞれダビラ・カーサとサーカラ・マッリカと名付けられており、彼らはナワブ・フセイン・シャーの大臣として責任のある役職に就いていました。

そのころ、500年前、ヒンズー教の社会は非常に厳格(rigid)で、もしもブラーマナの階層の者がイスラム教の支配者の下での仕事(a position of service、奉仕の立場)を受け入れたなら、彼は直ちにブラーマナの社会から退けられました。

それがダビラ・カーサとサーカラ・マッリカという二人の兄弟の立場でした。彼らは非常に位の高いサーラスヴァタ・ブラーマナの社会に属していましたが、フセイン・シャーの政府で大臣の役職を受け入れたことによって追放されていました(to be ostracized、排斥)。

これらの二人の身分の高い(exalted、高貴な)名士たちをご自分の弟子として受け入れ、彼らをブラーマナの文化における最も高い地位であるゴスヴァーミーの地位にまで上げたのは、主チャイタンニャのお恵みです。同様に、主チャイタンニャはハリダーサ・タークラもご自分の弟子として受け入れられました。

ハリダーサはイスラム教の家庭に生まれついたにも関わらずです。そして主チャイタンニャは、後に彼を主の聖なる御名、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることのアーチャーリャになさいました。

第2段落
主チャイタンニャの原則は普遍的です。クリシュナ意識の科学を知って、主への奉仕に携わっている者は誰でも、ブラーマナの家庭に生まれた者よりも高い地位にあるとして受け入れられます。それがすべてのヴェーダ文献によって受け入れられているもともとの原則です。すべての人を教育してゴスヴァーミーという(of)卓越した役職に上げるという(the principle ~ in educating and ~)主チャイタンニャの運動の原則は、「献身の甘露」の中で教えられています。

第3段落
主チャイタンニャは、マルダー地方にあるラーマケリとして知られる村でダビラ・カーサとサーカラ・マッリカの二人の兄弟に会いました。そしてその面会(meeting、出会い)のあと、兄弟たちは政府の仕事を退いて主チャイタンニャに加わる決心をしました。

のちにルーパ・ゴスヴァーミーとなったダビラ・カーサは、退職して、働いていた間に貯めたすべてのお金を集めました。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、彼が金貨として集めた貯金は何百万ドルにも匹敵し、大きな船を一杯にしたと描写されています。

彼はお金を非常に模範的な方法で分けました。それは特に献身者によって、そして人類一般(humanity in general)によって倣われるべきものです。彼の集めた富の50%はクリシュナ意識の人々、つまりブラーマナとヴァイシュナヴァに配られました。

25%は親類に配られ、そして25%は緊急時のための費用(emergency expenditures)と個人的な困難に備えて保たれました。そののち、サーカラ・マッリカもまた退職の意を申し出たとき、ナワブは非常に動揺して(to be agitated)、彼を牢に入れました。

しかし、のちにシュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーとなったサーカラ・マッリカは、村の銀行家の元に預けられていた彼の兄弟の個人的なお金を利用して、フセイン・シャーの刑務所から逃げ出しました。このようにして、兄弟は二人とも主チャイタンニャ・マハープラブに加わりました。

第4段落
ルーパ・ゴスヴァーミーは後にプラヤーガ(インドのアッラハバッド)で主チャイタンニャに会い、その聖なる都市のダシャースヴァメダー沐浴ガータ(訳注:on the Dasasvamedha bathing ghata of that holy city、ガンジス河沿いの沐浴の場。ghataは階段状の沐浴の場所を指す。ダーシャシュワメード・ガート )において、主は10日間通して彼にお教えになりました。

主は特にルーパ・ゴスヴァーミーにクリシュナ意識の科学について教えました。主チャイタンニャの、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダへのこれらの教えは、私たちの本「主チャイタンニャの教え」の中で語られています(to be narrated)。

第5段落
のちにシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダは、主の教えを、明かされた聖典に関する深遠な(profound、学識の深い)知識と様々なヴェーダ文献からの権威ある参照をもって(with)詳述しました(to elaborate)。

シュリーラ・シュリーニヴァーサ・アーチャーリャは、6人のゴスヴァーミーたちへのご自分の祈りの中で、彼らは皆、サンスクリット語だけでなくペルシャ語やアラビア語などの外国語においても非常に学識のある学者たちだったと描写しています。

彼らは、チャイタンニャ・マハープラブの運動をヴェーダの知識の権威ある原則(authorized principles)の上に確立するために、非常に詳しく(scrutinizingly、じろじろと見る様子)すべてのヴェーダ文献を研究しました。

現在のクリシュナ意識運動もまた、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダの権威に基づいています。したがって、私たちは一般にルーパーヌガ、すなわちシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダの足跡を辿る者として知られます。

現在「献身の甘露」として提示されている(presented in the form of~)「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥ」という著作をシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーが用意なさったのは、私たちを導くためだけにです(It is only for our guidance)。

第2章 バークティとは何か?
第1段落
バークティは「献身奉仕」を意味します。すべての奉仕は、奉仕者(servitor、お供をする人)をますます(progressively on and on、前進的に継続して)駆り立てる(to drive~、人をある状態にしたり、何かさせたりする)何らかの魅力的な特徴を持っています。

この世界の中の私たち一人一人は永久に何らかの種類の奉仕に携わっており、そしてそのような奉仕のための刺激(impetus、機動力)は、私たちがそれから得る(to derive from)喜びです。自分の妻と子供たちへの愛情によって駆り立てられ、家庭人は昼も夜も働きます。

博愛主義者(philanthropist)は、より大きな家族への(of)愛のために、そして国家主義者(nationalist)は自分の国と同胞(countrymen)の主義(cause、主張、正当な理由)のために、同じように働きます。博愛主義者、家庭人、そして国家主義者を駆り立てるその力は、ラーサ、すなわちその味が非常に甘い、一種の芳醇な(mellow、円熟した)(関係)と呼ばれます。

(訳注:原文ではmellow (relationship)というふうに括弧付きで付け加えられていますが、これはプラブパーダが独特の表現をなさっていたためです。mellowは本来形容詞で、何かが時間とともに丸く柔らかく味わい深くなった状態を指しますが、プラブパーダはこれを「甘い関係」という意味の名詞としてお使いになることがよくあります。これが昔のインド辺りの独特の表現だったのかどうかは分かりませんが、こういう例はときどきあります。)

第2段落
バークティ・ラサは俗的なことのために働く者(mundane workers)が楽しむ普通のラサとは違う関係(mellow)です。俗的なことのために働く者は、感覚の満足として理解される特定の種類のラサを味わうために昼も夜も非常に一所懸命に働きます。

俗的なラサの味わい(訳注:relish or taste、どちらも同じ意味)は長持ちせず、したがって俗的なことのために働く者は、いつも自分の楽しみの立場を変えがち(apt to~、ともすれば~する)です。ビジネスマンは、一週間ずっと働くことでは満足しません。

したがって、彼は週末には変化を求めて、自分のビジネスの活動を忘れようとする場所に行きます(訳注:どこかに行って忘れようとする)。それから、週末が忘却において費やされたあと、彼は再び自分の立場を変え、自分の実際のビジネスの活動を再開します。

物質的な仕事(material engagement)は、特定の状態(status、立場)をしばらくの間受け入れ、そしてそれからそれを変えることを意味します。行ったり来たりするというこの立場(this position of changing back and forth)は、厳密にはボーガ・テャーガとして知られており、それは感覚の満足と放棄が交替に現れる立場(a position of alternating~)を意味します。

第3段落
生命体は、感覚の満足にも放棄にも安定して留まることができません。変化は永久に続いており、そして私たちは、私たちの永遠の、本来の立場のため(because of~)、どちらの状態でも幸せであることはできません(訳注:私たちは本来、永遠であるため~)。

感覚の満足は長くはもたず、したがってそれはチャパラ・スカー、すなわち点滅する(flickering、ちかちかと点滅するように不安定な)幸せと呼ばれます。例えば、昼も夜も一所懸命に働いて自分の家族(the members of his family)に心地よさ(comforts)を与えることに成功している普通の家庭人は、そして一種の甘い関係(mellow)を味わいますが、彼の物質的な幸せの発達全体は、彼の人生が終われば直ちに、彼の体と共にたちどころに終わります。

したがって死は無神論的な人々(atheistic class of men)にとっては神の代理人として受け取られます。献身者は献身奉仕によって神の存在に気づきます(to realize)が、他方で無神論者は神の存在を死の形で(in the shape of death)気づきます。

死のとき、すべてが終わります。そして人は新しい状況で、おそらくは、その前のものより高いか、低いかで、人生の新しい章を始めなければなりません。どんな活動の分野においても―――政治的、社会的、国家的あるいは国際的―――私たちの活動の結果は人生の終わりと共に終わります。それは確かです。

第4段落
しかし、バークティ・ラサ、主への超越的な愛情ある奉仕において味わわれる甘い関係(mellow)は、人生の終わりに伴って終わることはありません。それは永久に続き、したがってそれはアムリタ、死なず、永遠に存在するもの、と呼ばれます。

これはすべてのヴェーダ文献において確認されています。バガヴァッド・ギーターは、バークティ・ラサにおけるほんの少しの(a little)発達は献身者を最も大きな危険―――来世において人間となる機会を失うことから救うことができると言います。

社会生活、家庭生活、あるいは利他主義(altruism)や博愛主義(philanthropy)、国家主義、社会主義、共産主義などの拡大した家庭生活(greater family life)における私たちの気持ちから得られるラサは、人の来世が人間としてであるということを保証しません。

私たちは自分の来世を現在の人生における自分の実際の活動によって準備します。生命体は、現在の体における自分の活動の結果として(訳注:来世において)特定の種類の体を与えられます(~is offered)。(訳注:ここでは~will be offeredとしたほうが分かりやすい。)

これらの活動は、ダイヴァ、すなわち神の権威として知られる優位な権威(superior authority)によって考慮されます(to be taken into account、計上)。このダイヴァは、バガヴァッド・ギーターにおいてすべてのもののもともとの原因(prime cause)として説明されており、そしてシュリマッド・バーガヴァタムにおいて、人は自分の次の体を、至高存在の権威による(of)監督(supervision、管理)を意味するダイヴァ・ネトレナによって得る(to take)と述べられています。

普通の意味では、ダイヴァは「運命(destiny)」として説明されます。ダイヴァによる監督は、私たちに840万種の形から選ばれた体を与えます。その選択は私たちの選択によるものではなく(the choice does not depend on our selection)、私たちの運命に応じて授けられます(to be awarded、報いとして与えられる)。

もしも現在の私たちの体(our body at present)がクリシュナ意識の活動にいそしんでいるなら、それなら私たちは来世において少なくとも人間の体を得ることは保証されます。クリシュナ意識に携わる人間は、たとえバークティ・ヨガの過程を完成させることができなくても、人間の社会の、より高い地位(division、区分)に生まれます。

自動的にクリシュナ意識における自分の発達を進める(to further、さらに深める)ことができるようになるためです。したがって、クリシュナ意識におけるすべての真正なる活動はアムリタ、すなわち永遠です。これが「献身の甘露」の主題です。
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by ammolitering4 | 2014-03-26 06:27 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

バークティ・ヨガ、永遠の愛の術 「はじめに」

Bhakti-yoga --- The Art of Eternal Love
バークティ・ヨガ、永遠の愛の術

はじめに

第1段落
愛とは、私たちが最も多く使い、最も理解していない言葉の一つです。問題は、多くの種類の愛が存在することです。異なる種類の愛を区別するための違いの一つ(One of the distinctions we can make between~)は、時間、期間―――愛がどれくらい長持ちするかということです。ある愛は2~3日もち、あるものは生涯もち、そしてあるものは永遠にもちます。ほとんどの恋人たちは後者を望みますが、徒労に終わります(in vain)。

第2段落
体の間の愛はどうしても一時的です(bound to be、避けられない)。なぜなら、恋人たちの体が一時的なものだからです。ああ、しかし、魂についてはどうでしょうか?恋人たちは永遠の霊的な世界で会って、そこで永遠の(deathless、死のない、終わりのない)愛を楽しむのではないでしょうか?

第3段落
そうかもしれません。しかし問題(question)は、「私たちはどうやって霊的な世界に辿り着くのか?」ということです。それは特別な種類の愛、個々の魂と至高の魂、神との間の愛を必要とします。実際は、どうやって神を愛するかを忘れてしまっているので、私たちは一時的で満足できない愛情関係の網にかかってしまっています。

ですから、個々の魂と至高の魂の間の霊的な愛は、最も大切な種類の愛です。それは、真に永遠な唯一の愛です。実際は、私たちが経験する他のすべての種類の愛は、個々の魂と至高の魂の間のもともとの愛情ある交換の単なる反映です。この特別の愛はサンスクリット語でバークティと呼ばれます。そして、その愛を目覚めさせるための過程はバークティ・ヨガ、永遠の愛の術(art)と呼ばれます。

第4段落
バークティには3つのものが関わります:愛する者、愛される者、そして愛情ある関係です。バークティにおいては、3つどれもが永遠です。愛する者、(すなわち)個々の魂は永遠です;そして愛される者、至高の魂は永遠です;そして愛情ある関係、バークティもまた永遠です。

第5段落
16世紀において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーという名前の、バークティ・ヨガにおける傑出して発達した熟達者が、その理論と実践に関する手引き(handbook)を書きました。彼はその本を「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」、すなわち「神聖なる愛の蜜の海」と呼びました。

長い間、その秘密は古い(ancient)サンスクリット語に閉じ込められていました。私たちにとって幸いなことに、バークティ・ヨガの知識と技法の現代の師(master)であるA.C.バークティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ(広くシュリーラ・プラブパーダとして知られる)(校正:原文は閉じ括弧が抜けている)がこの本を英語に翻訳し、弟子(students)たちにその神秘(mysteries)を教え(to train、訓練する)始めました。シュリーラ・プラブパーダは訳書を「献身の甘露」と題されました。

第6段落
愛は、その物質的な顕現において、通常、場所と関わっています―――パリのような都会の春の季節、あるいは人が愛する人と歩いた浜辺などです。同じように、霊的な愛も場所と関わっています。そのような場所の中で最も高いのは、神が霊的な天空においてご自分の永遠の仲間たちと愛情ある娯楽をお楽しみになる永遠の霊的な場所の、地上の顕現である、ヴリンダーヴァンです。

ヴリンダーヴァンには多くの寺院があり、そしてその一つであるラーダー・ダーモダラ寺院は、永遠にルーパ・ゴスヴァーミーと関わっています。なぜなら、彼の身体的な体がそこで埋葬された(to be interred)からです。(サマーディーと呼ばれる)彼への小さな記念碑が、寺院の中庭の一つに建てられています。

第7段落
1965年にアメリカに来る前、シュリーラ・プラブパーダはラーダー・ダーモダラ寺院の中の静かな部屋に住み、そして自室の窓からルーパ・ゴスヴァーミーのサマーディーを見て、それから霊的な刺激を得る(to draw inspiration)ことができました。

7年後、シュリーラ・プラブパーダはラーダー・ダーモダラ寺院に戻られました。そして中庭にて、ルーパ・ゴスヴァーミーのサマーディーの近くで、弟子たちに「献身の甘露」について一連の講義をなさいました。バークティへの深い霊的な洞察に満ちたそれらの講義の一部(selection、選んだもの)は、「献身の甘露」からの抜粋と織り交ぜられ(to be interwoven)、この本の中身を形成しています。

第8段落
バークティ・ヨガ、永遠の愛の術に関するルーパ・ゴスヴァーミーの教えを、師弟継承によって現代の主要な(foremost)信者(follower)から私たちへと下りてきた姿のままに、皆さんと分かち合いたいと思います。もしも私たちがバークティ・ヨガを通して神を愛することを学ぶことができるなら、それなら私たちは他のすべてのものとすべての人を正しい方法で、私たちに最大の幸せ、最良の幸せ、永遠の愛の幸せをもたらす方法で、愛することを学ぶことができます。

編集者(複数)
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こんにちは。「はじめに」だけですけれど、ご覧ください。本文はまたそのうちにお届けします。ところで、私はこのところ現代文明との折り合いがはなはだよろしくなく、あれこれの家電は壊れる、携帯電話は壊れる、コンピューターにはなぜか変なプログラムが入ってしまってどうやっても取れない(マルウェアという迷惑なやつです)など、えらい目に遭ってます。苦労の末、今のところFireFoxの「ツール→アドオン→拡張機能」という順路を辿って「AdBlockPlus」というのをオンにしたら、だいぶおさまっています。こういうのはほんとに苦手なのですが、皆さんも妙な広告が出てきて困る事態になってしまったらお試しください。
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by ammolitering4 | 2014-03-21 05:40 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)