カテゴリ:「クリシュナ、喜びの宝庫」( 5 )

第2部 後半

第14段落
さて、バガヴァッド・ギーターにおいて描写されている過程全体は、目覚めているためのものです(~is to be awake)。あなたは純粋な意識―――霊魂です。そして、目覚めているためだけでなく、それに応じて活動するためでもあります(訳注:to act accordingly、この場合は「目覚めている者として、目覚めている状態で」などの意味)。

これは、それによって、究極の最後のときにあなたの純粋な意識がこの身体的な呪縛から解放されるようになるためです(訳注:原文は前の「そして~」から繋がる長い一文)。そのときあなたは健康な人生を得るでしょう。これは、この物質的な人生は、病です(This is a disease, this material life)。

この身体的な体は、私の人生の病んだ形(my diseased form of life)のしるしです。私は実際は誕生と死の影響下にはありません(subject to~)。私は永遠です。私は決して生まれません(I never take my birth)。私は決して死にません。これが私の本当の立場です。それなら、この誕生と死とは何でしょうか?それはこの体によるものです(due to~、原因)。衣服(dress)のように体を替えることが誕生と死と呼ばれます。しかし実際は私は純粋な魂です。

第15段落
今、人々は神が死んだと言っています。この理論は人気があります。彼らは、主がお亡くなりになったというプロパガンダを広めています(to make)。しかし、神も私たちも決して死にません。また、私たちは生まれもしません。バガヴァッド・ギーターにおいて、バーガヴァーン、至高の人格神シュリー・クリシュナは、こうおっしゃいます。

「アルジュナよ、なぜあなたは戦うことを恐れているのですか?私自身、あなた自身、私たちの前に集まったこれらすべての王たちと兵士たち―――彼らすべて―――彼らは以前、存在していて、そして今、存在していて、そして未来も存在し続けるでしょう。誕生と死はありません。

ですから、この戦争(warfare)は身体上のものです(訳注:This warfare should be on the condition of the body、体の状態に関するもの。この場合のshould は単に未来のことを表す)。それを恐れてはいけません。」

第16段落
この点を私たちは既に論じました。人はこの点を理解しなければなりません:私は純粋な魂である。純粋な魂としての私の存在は、私の意識がそのしるしです(to be symptomatized、特徴づけられる)。私は人生で過去に何が起こったか(what has happened in my past life)を知っています。

そして、今起こっていること(what is happening)、それも私は覚えていることができます。そして、私は自分の未来の人生(my future life)について推測する(to guess)ことができます。少なくとも、私は自分の未来のために計画を立てます。未来を持たないなら(unless、~でない限り)、なぜ私は計画を立てるべきでしょうか?

しかし、私はこの過去、現在と未来を超えています(beyond)。私は永遠です。主は永遠であり、至高神の欠かすべからざる小片として私も永遠です。したがって、私の自己利益はその永遠の人生を得る(to attain)ことです。完全な喜びの人生。完全な知識の人生。

それが私の人生の使命(mission、任務、役目)です。そして、その立場を真剣に受け止める者、この人生の使命を果たし始めた(訳注:who has taken up this mission of life、to take upは「申し出や約束に応じる、問題を取り上げる、特定の能力を要する仕事を始める」など)者、そしてその完成のために努力している者、彼は実際に目覚めています。

そして、この地点にいない他の者たち、彼らは眠っています。これが眠っている者のしるし(mark)です。一日中、熱心に(strenuously)働いている者、彼は実際には目覚めていません。彼の本当の知性が眠っているので、彼は眠っています。彼は自分の自己利益を失ってしまっています(he has lost)。彼は、人間の人生の本当の利益は何であるかを知りません。

第17段落
すべてのヴェーダ文献はこのように私たちに嘆願しています(to implore)。「眠ってはいけません!眠ってはいけません!目覚めていなさい!目覚めていなさい!起き上がりなさい(to get up)!この眠りから起き上がりなさい!あなたが今持っている恩恵(boon)を活用しなさい。愚かであってはいけません。」

第18段落
人々は一所懸命に働き、食べるのに十分なお金を稼いでいます。特に皆さんの国では、食べることのために十分な手段(means)があり、誰も飢えていません。それは良い(That's all right)のですが、彼らはそれでも(still)満足していません。私はこれを非常に注意深く研究しました(to study)。

若者たち(younger people)は皆、不満があるように(to be frustrated、失望、挫折)見えます。国の未来の希望である若い世代が、希望がないと感じるのは、あまり良い状態ではありません。彼らの未来は暗黒(dark)です。なぜでしょうか?なぜなら、彼らは方向(direction、指導、指示)を持たないからです。

人生の目的(aim)は何でしょうか?彼らは何になるでしょうか?(訳注:彼らに与えられている)哲学は、一所懸命に働き、お金を稼ぎ、好きなように楽しむというものです。これは誤った導き(misguidance)です。したがって、若者たち(the young)は幸せではありません。

そのため彼らは満足のために、好ましくない何か(something which is objectionable)に頼ります(訳注:to take center of とあるが、レクチャーなのでto take shelter ofの聞き取り違いではないかと思われる。好ましくないものとは麻薬その他の退廃したものを指す)。しかし、それは完全な満足を与えることはできません。

第19段落
今、ここに機会があります。バガヴァッド・ギーターはあなたに、あなたの実際の人生を見せることができます。それを利用してください。特に若者たち(younger people)に(訳注:そうするように)頼んでください(to appeal、訴える、懇願する)。不満を持っていてはいけません(to be frustrated、挫折、失敗);落胆していてはいけません。

あなたの未来には完全な楽しみがあります。あなたがたは皆、至高存在の欠かすべからざる小片です。イーシュヴァラ・パラマ・クリシュナ、サック・チット・アーナンダ・ヴィグラハ。主は、こうおっしゃいます。「おお、これらの気の毒な生命体よ。彼らは非常に苦しんでいます。彼らは不満に感じています。おお、彼らは私の欠かすべからざる小片です。」

そのため主は、あなたを取り戻しに(to claim、返還を要求する)いらっしゃいます。「我が愛しい息子たち(boys)よ、なぜあなたたちは苦しんでいるのですか?私の言葉を聞いてください(Please hear me)。あなたのすべての仕事(engagement)を放棄しなさい。ただ、私の言葉を聞きなさい。

私の言うことに従おうとしなさい。私はあなたを罪のすべての反応から自由にします(shall)。」あなたはバガヴァッド・ギーターの中で、これが保証されているのを見るでしょう。単に主に服従しなさい。もちろん、シュリー・クリシュナだけではありません。

主イエス・キリストもまた、同じようにお話しになりました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 (『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年 )

(“Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest. Take my yoke upon you, and learn of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls. For my yoke is easy, and my burden is light.” (Matthew: 11/28-30))

それが霊的な世界から―――至高神の王国から来るすべての人のメッセージです。それが唯一のメッセージです。

第20段落
そのため実際には、このバガヴァッド・ギーターはあなたに幸せな人生への光を与えています。この機会を逃してはなりません。それを聞こうと、得ようと(to have)しなさい。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、それを非常に簡単になさいました。

私たちの人生の使命を果たすために(to fulfill the mission of our life)、献身奉仕の9つの異なる過程があります。聞くこと、唱えること、覚えていること、崇拝すること、受け入れること、奉仕をすること(service)、すべてを差し出すこと、友情、そして祈ることです。

これらの9つの中で、主たる、そして基本の(訳注:principal and primary、どちらも同じような意味で、基本的で主要なものを形容する)ものである最初の二つの過程は、シュラヴァナム・ナールタナム・ヴィシュヌです。聞き、讃えなさい。それは非常に多くの人生を通して(for so many lifetimes)溜まった埃をあなたの心(heart)から洗い落とし、そしてあなたは物事を非常にはっきりと見るようになるでしょう。

第21段落
スヴァーミンとゴスヴァーミンは、「感覚を完全に統御している者」を意味する同義(synonymous)語です。自分は感覚を統御することができない、と考えていてはいけません。誰もがそうできます。あなたはこの過程によって力を得るでしょう。

この、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ、ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることは、あなたを助けるでしょう。自分には力がないと考えることによって落胆してはいけません(to be dejected)。あなたは力を得るでしょう。この過程を続けなさい。

キールタム・シュラヴァナムは、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレを唱えることを意味します。そして、バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムからいくつかの節(passage)を聞きなさい(訳注:この場合は文脈上、「~を聞くことも意味します」という意味)。これらの二つの過程を利用しなさい。そうすれば(and)あなたは自分の霊的な人生のための力を見出すでしょう。人はその感覚の統御という立場に位置するようにならねばなりません。

第22段落
さて、海を見たことがあるので、あなたは何の疑いも持ちません。なんと満ち溢れていることでしょう!(How full it is!)海はとても力強いので、もしもそれが上がったなら、ニューヨーク市全体が水の下に沈む(to be submerged)でしょう。しかしそれは私たちの心を乱しません(to disturb)。

それはその限界以上には行きません。例えば、ナロー水道(訳注:the Narrows、ニューヨーク港に通じる ロング・アイランドとスタテン・アイランドとの間の狭い海峡 )は、海の境界線(brink)です。海はナロー海峡の反対側には来ません。これが例です。感覚を統御したとき、私たちはちょうど大きな海のようになります―――霊的な知識に満ちていますが、誰の心も乱さず、そして(訳注:何者にも)心を乱されず、穏やかで静か。平安です。

第23段落
ベンガル地方にはおよそ500本の川があります。これらすべての川が水を海へ運びます(~flow down water, to the ocean)。しかしそれでも、海、ベンガル湾は穏やかで静かです。静かなのです。同様に、海と同じくらい満ちて大きくなった(as full and as big as the ocean)者にとって、物質的な欲望は来るかもしれませんが、彼らは心乱されません。

非常に多くの川が水を運んでいるにも関わらず、それ(訳注:海)は全く溢れることなく(訳注:you won't see an inch of water out of it、1インチの水さえ出てくるのを見出せない)、そしてどれだけでも水を注ぎいれることができます。水面の高さ(sea level)はいつも同じです。この例が与えられています。

欲望は、私たちは必ず持っています(Desires we must have)。私たちは欲望を消す(to extinguish、火を消す)ことはできません。自分は欲望を抑える(to subdue)ことができると考えるのは愚かさです。欲望は生命のしるしです。欲望は存在するに任せなさい(Let there be desires)。

もしも私が生命と意識を持っているなら、それなら欲望もまた、必ずそこにあります(desire must also be there)。ちょうど、水が川から海へ流れるときに海が乱されないように、人はこれらの欲望によって心乱されるには及びません(need not be、必要がない)。これが術(art、技量、技能、芸術、熟練)です。これがあなたの人生の完成の秘密です。

第24段落
欲望は来るかもしれませんが、もしもあなたが正しい理解をしっかりと持っているなら(to be fixed with~)、あなたは自分の欲望を転換します(to convert)。過程全体は、あなたの欲望を主のとぴったり合わせる(to dovetail、繋げる、緊密に結びつく)ことです。

例は、アルジュナは戦わないことを望みますが、バガヴァッド・ギーターを聞いた後で彼の欲望が変わったことです。彼は「はい、私は戦います!」と言いました。彼は戦うことを欲しました。ですから、欲望がありました。欲望の相(mode)が変わりました。それだけです。

同様に、私たちは欲することを止めることはできません。それは可能ではありません。しかし私たちは欲望の性質を変えなければなりません。それだけです。それはあまり難しくありません:私はこれをしよう、私はこれをすまい(I shall do this, I shall not do this)。

バガヴァッド・ギーターは、私たちにこれらのことを見せるためにあります。バガヴァッド・ギーターを聞く前に、アルジュナは何かを欲しており、そしてバガヴァッド・ギーターを聞いた後で彼は他の何かを欲しました。欲望の性質が変わりました。

同様に、ギーターを聞くことによってあなたは自分の欲望を変えることができます。あなたは自分の欲望を止める必要はありません。あなたは単に自分の欲望を浄化しなければならないだけです。そうすればあなたはそれらによって心乱されないでしょう。

自分の欲望があなたの心を乱すとき、あなたは、自分はまだ霊的に確立していないと知るでしょう(you may know)。そしてあなたの欲望があなたを啓発し(to enlighten)、あなたを元気づけ(to enliven)、あなたに幸せを与えるとき―――あなたはその欲望は霊的であると知るでしょう。ちょうどアルジュナのときのように(just as with~)、欲望は変えられねばなりません。

第25段落
欲望をあるに任せなさい。今、あなたは欲望を変えることができます。クリシュナのために欲しなさい(Desire for Krishna)。自分自身のために欲してはいけません。クリシュナのために欲しなさい。私はどうやってクリシュナのために欲することができるでしょうか?

実際的な例を挙げましょう(Take a practical example)。クリシュナは私たちにこう呼びかけるためにこの物質世界においでになりました。「我が愛しい息子たちよ、あなたのすべての意味のない仕事(nonsensical engagement)を放棄してください。私の信者(follower)になりなさい。

そうすれば(and)私はあなたを守ります。」これがクリシュナのメッセージです。今、バガヴァッド・ギーターが存在します。クリシュナのメッセージです。もしもあなたがこのギーターのメッセージを世界の人々に布教したい(to preach)と望むなら、それはあなたが自分の欲望を変えたことを意味します。

そしてあなたはそれによって(thereby)自分自身を浄化することができます。欲望を遂行する(to execute)ための十分な活動があるでしょう(訳注:~ためにたくさんのことをするでしょう)。しかし、これらすべての活動は浄化されるでしょう。

第26段落
そのため、私たちは自分の活動も、欲望も、止める必要はありません。しかし私たちは、アルジュナがしたように、それらを主の欲望とぴったり合わせなければなりません。自分の欲望をシュリー・クリシュナのとぴったり合わせたあと、彼の活動はもっと責任のあるものになりました。

ちょうど臆病者(coward)のように、彼は戦うことを拒否していました。彼はクシャトリヤ、軍人でした。彼の義務は正義(a good cause、正当な理由)のために戦うことでした。そして、正義とは何でしょうか?シュリー・クリシュナは彼に戦うように命じました(to instruct、はっきりと指示する、教える)。

「これが私の計画です。」これより良い理由があるでしょうか(what can be a better cause than this)?至高の人格神がこれが私の望みであるとおっしゃるとき、何がもっと重要であり得るでしょうか?そして、何が至高の人格神から直接来ているものより良い目的であり得るでしょうか?

第27段落
私たちが至高主の欲望にぴったり合わせるとき、そのとき私たちの責任はもっと重要(imperative、ぜひとも果たすべき、緊急の、断固とした、必須の)になり、そして私たちはもっと(than we are otherwise)活動的になります。物質的な活動では、人は疲れます(you will get tired)。

これが物質的な活動と霊的な活動の違いです。霊的な活動に携わっているとき、人は疲れません。あなたは活動するためのますます新しい(newer and newer)力を得るでしょう。したがって、欲望は止められるべきではありません。

何であれあなたが自分の内に持っている力は、それは至高主によって与えられたものです。なぜならあなたは至高主の欠かすべからざる小片だからです。そして、もしもあなたがそれを至高主の目的のために活用するなら、それならあなたは主とぴったりと合うようになり、そしてあなたの人生は成功します(to become successful)。

あなたは物質的な欲望によって心乱されません;あなたは平和を得るでしょう。何度も生まれ変わって、いつもいつも求めていた平和(The peace for which you are hankering in life after life, moment after moment)―――あなたの欲望が浄化され、主のとぴったり合ったとき、そのときにあなたはその平和を得るでしょう。

感覚の満足、物質的な満足の楽しみを欲する者は、決して幸せになりません(will never be happy)。それは可能ではありません。もしもあなたが平和を望むなら、もしもあなたが幸せを望むなら、もしもあなたが人生における完成を望むなら、それなら、ただ、あなたの欲望、活動、そして力(potential、潜在能力、可能性)を至高の人格神にぴったり合わせ始めなさい。そうすればあなたは、本当の幸せとは何かを知るでしょう(you will see)。そして、誰が本当に(訳注:本当は誰が)狂っているのかを見分けることができるでしょう(will be able to tell)。
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以上で本書の翻訳を終わります。

今回のはほんとに小さな本でしたが、いつもながら学ぶところの多い内容でしたね。さて、こうして字面で眺めたことが実際に血となり肉となってくれるでしょうか。それは私の努力次第ということなのでしょうけれど、世の中には睡眠学習とか(今もやってる人がいるのかな)速読術とか、個人の努力とあんまり関係なく情報が染み込んでくるような現象もあるようですから、日々なんとなく見ているうちにいつのまにか立派な人になっている、というようなことを期待しております。

続きましては、同じく小さくてすぐに完成しそうな「Bhakti-Yoga、The Art of Eternal Love」を予定しています。他に翻訳があるかどうかは、あまり気にしないことにしました。自分の勉強として、気が向いたのを訳していこうと思います。まだ全然手をつけてませんので、のんびりお待ちください。
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by ammolitering4 | 2014-03-14 13:03 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)

第2部 前半

第2部 誰が狂っているのか?(訳注:狂っているのは誰か?)

第1段落
主シュリー・クリシュナはこうおっしゃいます。「我が親愛なるアルジュナよ。異なる階級の人間が存在します。一つの階級の人間たちは、彼らは眠っています。そしてもう一つの階級の人間たち、彼らは目覚めています。彼らは眠っていません。」

そして、これはどうしてそうなのでしょうか(how is this so)?私たちがちょうどいま行った、この唱えることは、眠っている魂のための目覚めの(wakening)過程です。魂は、この物質的な体に覆われて眠っています。これらの身体的な活動は、眠っている状態(stage、段階)にあります。

ちょうど私たちが眠っている状態で夢を見るように、同様に、これらすべての身体的な活動は夢です。ただ、自分で考えてみてください(Just think for yourself)。あなたの人生の過去において(訳注:in your past life、この場合はいわゆる過去生ではない)、幾つの出来事が起こりましたか?

もしもあなたがそれらのことを考えるなら、それらはちょうど夢のように見えるでしょう。少なくとも私にとってはそうです(for myself this is the case)。私はインドで生まれ、教育を受け、それから結婚し、それから妻と非常に良い日々を過ごし(to have)、何人かの子供を得て、そのうちの何人かは死に、何人かは生きており、何人かは結婚しました。

今、彼らは子供をもうけました(訳注:to begetは男性が子供をもうけるという意味で、女性の場合はto bear、産む )。これらすべてが私の人生の過去において起こりました。今、それらはすべて夢です。私はそれと何の結びつきもありません。

同様に、夢の中で私は時として自分が王様になったのを見出します。おお、非常に多くの富(riches)と非常に多くの栄華(訳注:opulence、どちらも同じような意味だが、前者は財宝や巨万の富を表し、後者は豪華絢爛で贅沢な様子を表す)があります。そして、夢が終われば直ちに私は家に戻り、すべては去ってしまいます(all is gone)。

第2段落
そのため実際は、私たちが今いそしんでいるこれらの身体的な活動は、私たちの実際の人生ではありません。したがってヴェーダのマントラはこう言います。「おお、人類よ、目覚めてください。あなたが今持っている機会を活用しなさい(to utilize)。」

あなたは特別の機会を持っています。そして、それは何でしょうか?この、生命の人間の形です。活用しなさい:それを無駄にしてはいけません。眠り続けていてはいけません。この全く同じ事柄がシュリー・クリシュナによって取り上げられています(to take up、問題を取り上げる)。

ヨガの過程に慣れている(to be accustomed to~)者は、これを知っています。ヨガの過程の最初の原則は感覚を統御することです。これはすべての過程にとってそうです。霊的な認識のためのいかなる真正なる過程においても、最初の原則は感覚を統御することです。これは、感覚が私たちを人生の最も暗い領域(region)に引きずり込んでいるからです。しかし、私たちはこれを理解しません。

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムの中に、良い(nice)節があります。それは、まず、人間はこの人生の物質主義的なあり方(way)に過度に依存している(to be addicted、中毒)と言います。物質主義的な人生のあり方(way of life)は、食べること、お酒を飲むこと、遊び興じること(to make merry、酔って騒ぐ)と楽しむことに関わります。

それだけ―――それだけです(That's it---that's all)。とてもおいしい食べ物を食べ、よく眠り、自分の国や、あるいは家に敵が入って来ないように身を守る。そして心行くまで(to your heart's content)性的な楽しみにふける。これが物質主義的な人生のあり方です。

しかし、そのように眠っている人は(persons who are so sleeping)自分の本当の自己利益(self-interest)は(訳注:それとは)異なるということを理解しません。私たちの本当の自己利益は、私たちは至高の完全真理との自分の失われた関係を知らねばならないというものです。

第4段落
至高の完全真理は、非人格的なブラーマン、あるいは局在的な超魂、あるいは至高の人格神シュリー・クリシュナという異なる視点から理解されます。至高の人格神シュリー・クリシュナを理解する者は、自動的に他の二つの形(feature、特徴、容貌)を理解します。

しかし、至高の完全真理の非人格的な形だけに近付いた者は、至高の人格神シュリー・クリシュナについて(of)何の情報も持ちません。さて、ここで、バガヴァッド・ギーターにおいて、至高の人格神があなたの前にいらっしゃいます(to be present)。

第5段落
ここに、シュリー・クリシュナと主の(校正:his →His)永遠の恋人(訳注:consort、普通は妃を意味する)シュリーマティー・ラーダーラーニー、すなわち主の喜びの力の絵があります。この物質の世界では、シュリー・クリシュナと主の喜びの力は歪んだ形で(pervertedly)存在しています。

この絵の中で見ることができるように、シュリー・クリシュナはいつも シュリーマティー・ラーダーラーニーとご一緒です(to consort with~、付き合う、交わる)。主の特徴はヴェーダ文献において描写されています。主は、とても美しい(nice)曲線状の(curved、曲がった、湾曲した)姿勢でお立ちになり、横笛を吹いておられます。この絵は芸術的な想像から描かれたのではありません。それはヴェーダ文献からの描写的な絵です。この描写はヴェーダ文献の中にあります。

第6段落
さて(So)、物質世界にはシュリー・クリシュナのラーダーラーニーとの娯楽(pastime)の歪んだ反映があります。それは、そう見えはしても、私たちが持っているような性生活ではありません。それは超越的です。しかし、ここで私たちが求めているもの(that which we are after here)―――それは本物です。

若い男は若い女を欲し、そして若い女は若い男を欲します―――これは自然です。これは人工的ではありません。私たちは皆、その至高存在クリシュナの欠かすべからざる小片であるので、これは自然です。私は主の欠かすべからざる小片であるため、主の気持ち(attitude、心構え、姿勢、態度)は私の中にあります。

ちょうど、金の性質が微小な(minute)金の粒の中にも存在するようにです。金の化学的な成分(composition)は、金の小さな粒の中に100%存在しています。質的には、です。したがって、私たちが男と女の間に欲する楽しみは、愛と友情の歪んだもの(perversion、曲解、こじつけ)ではありません。

それは単に歪んだ反映(斜線で強調)です。本当の楽しみ(enjoyment)は、至高主シュリー・クリシュナとの関わりにおいて目覚めさせられます。それは同じ喜び(pleasure)ですが、その純粋な形にあります。その同じ喜び(bliss)があなたのためにありますが、楽しみのこの歪んだ形の中に呪縛されるようになってはいけません(don't become entangled)。眠ったままでいてはいけません。この、夢を見ている状態に留まってはいけません。本当のものを持ちなさい。夢から覚めなさい。それがヴェーダのメッセージです。

第7段落
これが機会です(訳注:あなたは今、その機会を手にしている)。もしもあなたが生命の人間の形―――発達した意識―――におけるこの機会を逃すなら、あなたは再び、ある形から別の形へと発達している生命の840万種の循環へと滑り落ちるでしょう。それが進化の段階的な過程です。

私たちはまだ進化の過程の中にいますが、その進化の過程は前向き、前進的(forward, progressive)であるべきです。退化ではありません(not degraded)。滑り落ちてはいけません。下向きに行ってはいけません。長年の努力によって、あなたは生命のこの段階に上がってきました(you have come forward)。今、更なる発達をしなさい。シュリー・クリシュナへの発達です。戻ってはいけません。

第8段落
シュリマッド・バーガヴァタムは、ほとんどの人は人生における自分の自己利益を知らないと言います。それは十字路(crossroad、交差点)に来て方向を知らないようなものです。たとえば、あなたがフィラデルフィアに行こうとしていて、ニューヨーク市を横切ったあと、十字路を見ますが、道を知らないと仮定しましょう。

もちろんアメリカには道路上に非常に効率的な方向体系があります。そのため(that way)、道に迷うことはありません(you have no misguidance)。同様に、聖典の中ではヴェーダ文献があなたに道を示します(to give direction)。はい、ここが横断するところ(crossing)です。

もしもあなたがこちらに行きたいなら、そうして構いません(you may)。ですから、バーガヴァタムは、人は発達するための方向を知らないと言います。人は、自分はヴィシュヌに向かって更なる進歩をしなければならないと知らねばなりません。なぜでしょうか?なぜなら、これは非常に高く発達した人生だからです。

生命のこの形において、私たちは非常に高い知性を持っています。私たちは、猫や犬や他の動物たちよりももっと多くの知性を持っています。なぜそれを誤用する(to misdirect、誤った方向に導く)のですか?迷い(misdirection)は、生命のこの身体的な概念に魅了されたことによります。人は、「私は、体と感覚を最大限に(to the utmost)活用して幸せになろう」と考えています。

第9段落
自分の前進的な人生とは何かを知らないので、私たちはこの体からエキス(essence、真髄)を搾り取ろうとしています。それを楽しむためです。バーガヴァタムの中に、これらの愚かな人々について語った
(to cite)非常に良い例があります。彼らはラクダに例えられます。

ラクダは、棘のある小枝を非常に好む、砂漠の動物です。彼らは非常に長い首を持っており、そして彼らは棘のある小枝を口に入れ(to take a bunch of~)、噛み始めます。棘が刺さって、舌から血が染み出ます(to ooze out)。もちろん(Naturally)、棘を噛めば舌が切れます。

そのため、彼らがこれらの棘を口に入れて噛み始めると、血が出ます。そしてそのように(in that form)混ざると、彼らはそれを食べます。なぜなら、血は彼が好きな味をしているからです。彼は、棘のある小枝はとてもおいしいと考えます。私たちの性生活もそのようなものです。単にそれを体から搾り出し、そして私たちは自分がそれを楽しんでいると考えます。これが私たちの立場です。

第10段落
もう一つの例が挙げられています。インドでは、洗濯屋はロバを飼います。彼らはロバにできるだけたくさんの荷物を積みます。ロバは一日中働き、そして夕べには幾らかの草を与えられ、そして彼は満足しています。

一掴みの草(a morsel of grass)のために、彼は背中に重い(a half ton of、半トンの)衣類を積んで一日中働く用意があります。同様に、私たちもまた、カルミンたちは、昼も夜もずっと(all day and all night)非常に忙しく働いています。そして家に帰ってきたとき、私たちは一切れのパンだけを食べます。

10セントもしないパン一切れのために、人は昼も夜もずっと働いています。そのため、ロバに比べられます(the comparison is to the ass)。ロバは誰のために自分がそれほど一所懸命に働いているかを知らず、幾らかのパンを食べます(to take)。「これが私の人生の目的です。」

それは私の人生の目的でしょうか―――何か食べて眠り、そして幾らかの性的な喜びを持ち、そしてそれから死ぬことが?いいえ、これは人生の目的ではありません。あなたの人生の目的は、自分自身を―――自分は至高の完全人格神シュリー・クリシュナの欠かすべからざる小片であると理解することであるべきです。クリシュナはあなたの到着を待っておられます。あなたが主との関わりにおいて人生を楽しむことができるようにです。

第11段落
人は、人生の前進的なあり方とは何かを知りません。なぜでしょうか?なぜなら、彼はこの感覚的な楽しみが人生の最大の(greatest)喜びであると理解したからです。彼は愚かにも、この感覚の楽しみによって自分は幸せになると考えています。

これはちょうど、正しく馬勒(ばろく。くつわや手綱などの総称)をつけて(bridled)いない馬を持っているようなものです。それは走って走って(it is running on, running on)、そしてあなたはどこでそれがあなたを投げ落とす(to throw)か知りません。

同様に、統御されない感覚はちょうどあなたの戦車を引きずっている、馬勒をつけていない(unbridled)馬のようです。あなたは、それがどこであなたを投げ落とすか知りません。私たちは、自分がすべての行動にどれほど責任があるかを理解していません。

私たちの行動のすべての小さな部分に、反応があります。そして、私たちの統御されない感覚は私たちを行動と反応(action and reaction、作用と反作用)の鎖に投げ込んでおり(to put us through~)、私たちを宇宙の最も暗い部分に引きずり込んでいます。

第12段落
したがって、主シュリー・クリシュナは、どうやって感覚を統御するかを学んだ者はスヴァーミーンと呼ばれる、とおっしゃいます。統御の取れた(controlled)人にとって、世俗的な(worldly)活動は暗闇です。純粋な意識の中に位置する者は、単に食べること、眠ること、性交することと身を守ることのために一所懸命に働く人々―――これらの人々は眠っていると見ます。

そして、これらの物質的な活動に携わっている人々にとって、私たちは眠っています。彼らは、スヴァーミージー(訳注:プラブパーダのこと)は私たちを非活動的にする何かを布教するためにアメリカに来た、と見ます。

彼はただ私たちを普通の仕事(general engagement)から引き摺り下ろそうとしていて、そして彼は私たちがキールタンとバガヴァッド・ギーターを聞いて時間を無駄にするように仕向けている(he is trying to engage us in the process of~)。ですから、彼らは私たちが眠っていると信じています。

誰かはこう考えるかもしれません。「これらの気の毒な連中(fellows)は、意味もなく、何ももたらさない(to bring forth)、無味乾燥な何かを論じることで時間を無駄にするためにここに集まった。そこから何か得られるように、何かのビジネスの話をしよう。」私たちは(斜体で強調)これらの人々が眠っているのを、そして彼らは(斜体で強調)私たちが眠っているのを見ます。

第13段落
さて、実際には誰が眠っているのでしょうか?私はこの体ではない―――私は意識であるという意識の水準に来る者は目覚めています(He is awake who~)。私はこの体ではない、私は意識であるというこの単純な事実を理解した者は目覚めています(One is awake who~)。

意識がなくては、私の体は役に立ちません。したがって、私は実際は意識です。私は純粋な意識であり、私の存在のしるしは意識です。私はこの体ではありません。深く考えるとき、私はこれは私の(斜体で強調)体であると理解することができます。これは「私は」体ではありません(This is not I, body)。これは私の(斜体で強調)体です。そのため、これを理解した者―――彼は目覚めています。
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by ammolitering4 | 2014-03-10 05:55 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(7)

第1部 最後まで

第21段落
私たちは自分自身が人生のすべての状況において喜びに溢れているのに気づく(to find)でしょう。私たちは決して不機嫌(morose、気難しい、むっつりした)に感じません。バガヴァッド・ギーターにおいて
私たちは、これが私たちのブラーマ・ブータ(徳の最も高い段階)な状態であるということを見出します。

ヴェーダは私たちに、私たちはこの物体ではない、ということを教えます。私たちはブラーマンです。アハム・ブラーマースミ。主シャンカラーチャーリャは、世界にこの福音を布教なさいました。私たちはこの物体ではありません。私たちはブラーマン、霊です。

霊的な認識が実際に達成されたとき、そのとき私たちのしるし(symptoms)は何でしょうか?人が自分の(his own)霊的な認識に位置しているとき、そのとき彼は何の切望(hankering、手の届かないものへの渇望)も何の嘆きも持たないでしょう。

嘆きは失ったもの(loss、失うこと、損失)のためであり、そして切望は得られないもの(gain、得ること、利益)のためです(訳注:hankeringが得られないものを求める気持ちであることから、この場合のgainは「まだ得られていない、あるいはとうてい得られない利益」となるため、否定形にしています)。

二つの病気がこの物質世界を特徴づけます。持っていないものを私たちは切望します(to hanker after、飢えたように欲しがる、ないものねだりをする)。「もしもこれらのものを得たら、私は幸せになるだろう。私はお金を持っていないが、もしも100万ドル得れば、そうすれば私は幸せになるだろう。」

そして私たちが100万ドルを持っているとき、どういうわけかそれは失われるでしょう。そのため私たちは泣きます。「おお、私はそれを失ってしまった!」私たちが収入(earning)を求める(to hanker for~、ここではfor ですが、afterでも意味は同じ)とき、それは一種の苦しみ(distress)です。

そして私たちが損失に苦しむとき、それも苦しみです。しかし、もしもわたしたちがブラーマ・ブータに位置しているなら、私たちは苦しむことも切望することもありません。私たちはすべての人とすべてのものを平等に見るでしょう。たとえ燃え盛る炎のような(fiery)動乱(turbulence、社会不安、騒乱、乱気流)のなかにあっても、私たちは心を乱されないでしょう(will not be disturbed)。それが徳の相です。

第22段落
バーガヴァタムは神の科学を意味します。もしも神の科学が固守されるなら(to persevere in、続ける、忍耐する)、私たちはブラーマ・ブータの状態(status、地位)に位置するでしょう。ブラーマ・ブータの状態から、私たちは働かねばなりません。なぜなら、ここで仕事が勧められているからです。

この物質の体を持っている限り、私たちは働かねばなりません。私たちは働くことを止めることはできません。それは可能ではありません。しかし私たちはヨガの方策(tactics、戦術)を取り入れ(to adopt、採用する、自分のものとして取り入れる)なければならず、そしてこのようにして(訳注:~なりません。そうすれば)、たとえ運命あるいは状況によって私たちに強いられた(to be put into)何らかの普通の仕事をすることによっても(訳注:~をしても)、害はありません。

たとえば、自分の仕事において、嘘を言わなければビジネスが続かないと仮定しましょう。嘘をつくのはあまり良いことではありません。そのため人は、そのビジネスはあまり道徳的な(moral)原則に基づいておらず、したがって自分はそれを放棄すべきだと結論します。

しかしバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、放棄すべきではないという(not to give it up)教えを見出します。たとえ私たちが何らかの不公正な(unfair)実践なくしては自分の生計が続かないような状況に入れられたとしても、私たちはそれを放棄すべきではありません。

しかし、私たちはそれを浄化しようとすべきです。それはどのように浄化されるでしょうか?私たちは仕事の結果(fruitive results)を取る(to take)べきではありません。それは神のためのものです(to be meant for)。

第23段落
スクリタは敬虔な活動を意味します。そしてドゥシクリタは不敬虔な活動を意味します。物質的な水準において、私たちは敬虔、あるいは不敬虔であることができます。私たちは、何らかの敬虔な活動を行っているか、あるいは何らかの不敬虔な活動を行っているか―――あるいは私たちは敬虔と不敬虔の混じったものを持っています(訳注:~活動をしています)。

主クリシュナは、私たちは至高存在に関する知識、あるいは至高存在への献身の念を持って活動すべきであると助言なさいます。その知識とは何を意味するのでしょうか?それは、私は至高の意識の欠かすべからざる小片である、あるいは私はこの体ではない、ということを意味します。

もしも私が自分をアメリカ人として、インド人として、あるいはこれやあれと考える(to identify、同一視する)なら、それなら私は物質的な水準(plane、段階)にいます。私たちは自分をアメリカ人としてでもインド人としてでもなく、純粋な意識と考えるべきです。

私は至高の意識の従属的な(subordinate)意識です。言い換えれば、私は神の従者です。神は至高の意識であり、そして私は主の従者です。そのため、私たちの現在の理解にとっては、従属的とは従者を意味します。

第24段落
私たちは普通は神との関係において従者としての仕事を行いません(to carry out、実行する)。誰も従者でありたいと願わず、そうではなく誰もが主人でありたがります。なぜなら、従者であることはあまり心地よい(palatable、楽しい、快い)ことではないからです。

しかし、神の従者になることはこのようなものではありません(not exactly like this、これとは少し違う)。時として、神の従者は神の主人になります。生命体の本当の立場は神の従者であることですが、バガヴァッド・ギーターにおいて私たちは主人、クリシュナが、アルジュナの従者になったのを見ることができます。

アルジュナは戦車に座っていて、そしてクリシュナは彼の運転手です。アルジュナは戦車の持ち主ではありませんが、霊的な関係においては、私たちは物質的な関係という(of)概念に執着すべきではありません(訳注:「クリシュナは戦車の持ち主ではない」の間違い?戦車というのが運転手の持ち物なのか戦士の持ち物なのか分かりませんが、たぶん単なる間違いだと思います)。

ちょうどこの世界において私たちがその経験を持っているように、関係全体は霊的な世界に存在しますが、その関係は物体によって汚染されていません(訳注:この場合は、「主人と従者という」関係そのものは物質世界にも霊的世界にもあるが、霊的な世界のそれは汚染されていない、という意味)。

したがって、それは純粋で超越的です。それは異なる性質を持っています(it is of a different nature)。生命の霊的な概念において発達するにつれて、私たちは霊的な、超越的な世界における(訳注:生命体の)本当の立場は何であるかを理解することができます。

第25段落
ここで主は私たちにブッディー・ヨガについて(in)お教えになります。ブッディー・ヨガは、私たちが自分はこの体ではないという完全な意識を持つことを意味します。そして、もしも私がこの理解をもって活動するなら、それなら私は体ではありません―――私は意識です。それは事実です。さて、もしも私たちが意識の水準において活動するなら、それなら私たちは良い仕事あるいは悪い仕事の結果(fruitive results)を乗り越えることができます。それは超越的な段階です。

第26段落
それは私たちが別の誰かのために(on another's account)―――至高存在のために活動していることを意味します。私たちは損失あるいは利益に責任がありません。利益があるとき、私たちは思い上がる(to be puffed up)べきではありません。私たちは「この利益は主のためだ」と考えるべきです。

そして損失があるとき、私たちはこれは自分の責任ではないことを知るべきです。それは神の仕事―――主のです。そうすれば私たちは幸せになります(Then we will be happy)。これを私たちは実践(to practice)しなければなりません:すべてを至高存在のために(on account of)。

この超越的な性質を私たちは育まねばなりません。これが、これらの現在の状況の下で仕事を行う秘訣(trick、要領、コツ)です。身体的な意識の水準において働けば直ちに、私たちは自分の仕事の反応によって縛られるようになります。しかし、霊的な意識を通して働くとき、私たちは敬虔な活動によっても、悪い(vicious)活動によっても縛られません。それが技法(technique)です。

第27段落
マニーシナー―――、この言葉は大変重要(significant)です。マニーシンは思慮深いこと(thoughtful)を意味します。思慮深くない限り、人は自分がこの体ではないと理解することができません。しかし、もしも人が少し思慮深いなら、彼は「おお、私はこの体ではない。私は意識だ」と理解することができます。

時として、暇なときに(in our leisure time)、私たちは「おお、これは私の指で、これは私の手だ。これは私の耳で、これは私の鼻だ。すべて私のものだが、私は何か、私は何か?」と見ることができます。私はこれを私のものだと、そして私がいると感じています(訳注:I am feeling this is mine, and that I am、「I am」というのは「私は存在する、私は私である」という感覚)。

単に少しの思考が必要とされます。すべてのものが私のものです―――私の目、私の指、私の手。私の、私の、私の、そしてその私とは何でしょうか(what is the I)?その私とは、そこで私が「これは私のものだ」と考えている、その意識です。

第28段落
さて、もしも私がこの体でないなら、それならなぜ私はこの体のために活動すべきでしょうか?私は私自身のために活動すべきです。それでは、私はどうやって自分自身のために活動することができるでしょうか?私の立場は何でしょうか?私は意識です。しかし、どんな種類の意識でしょうか?

従属的な意識―――私は至高の意識の一部です。それでは、私の活動とは何になるでしょうか?私の活動は至高の意識の導きの下になります(will be)。ちょうど、事務所において、管理者(managing director)が至高の意識であるようにです。

たとえば、事務所では誰もが管理者の指示の下で働いています。したがって、彼らは責任を持ちません。彼らは自分の義務を果たさねばならないだけです。敬虔な義務であれ不敬虔な義務であれ―――気にしてはいけません(never mind)。

軍隊(military line)でも、隊長(captain)あるいは司令官(commander)の命令があります。兵士はそれを遂行しなければなりません。彼はそれが敬虔であるか不敬虔であるかを考慮しません。それは関係ありません。彼は単に活動しなければなりません。そのとき彼は本当の兵士です。

彼はそのように行動し、そして彼は褒美を得ます(to be rewarded、報われる)。彼は称号と栄誉を得ます。彼は気にしません。司令官が「ただ、行って敵を殺しなさい」と言い、彼は褒美を得ます。殺すことによって人が褒美を得ると思いますか?いいえ―――それは遂行された義務に対してです。

第29段落
同様に、ここで状況はクリシュナがアルジュナに教えているというものです。クリシュナは至高の意識です。私は意識、至高の意識の欠かすべからざる小片です。そのため私の義務は、その至高の意識に応じて活動するというものです。

例えば、私は自分の手を自分の体の一部だと考えます。今、それは独自に(in its own way)動いています(訳注:これは「独自に動いてはいない」の間違いであると思われます)。「私が望むように手を動かそう(let my hand be moved)、脚を動かそう。目を開けて見よう(let my eyes be open and see)。」

ですから、私が命令していて(to dictate)、そしてこれらの部分が働いています。同様に、私たちは皆、至高存在の欠かすべからざる小片です。私たちが自分を至高の意識に従って(in accordance with~)活動するように訓練するとき、そのとき私たちはこれらすべての敬虔あるいは不敬虔な活動を超越するようになります(to become transcendental to~)。それが技法です。この技法の結果は何でしょうか?私たちは誕生と死の呪縛から自由になります。もはや誕生と死はありません。

第30段落
現代の科学者と哲学者は、誕生、死、病、そして老いというこれらの4つのことについて考えません。彼らはそれらを脇に置きます。「おお、幸せになりましょう。この人生を楽しみましょう。」しかし、人間の人生はこの誕生、死、病および老いという呪縛への解決策を見つけるためにあります。

もしも、どの文明であっても(any civilization)これらの4つの問題への解決策を見つけていないなら、それならそれは人間の文明ではありません。人間の文明は、これらのことに完全な解決策を見つけるためにあります。

第31段落
さて、ここでバガヴァッド・ギーターの中で主はカルマ・ジャム・ブッディーユクターとおっしゃいます。カルマ・ジャムは、行為(action、作用)があるときはいつでも何らかの反応(reaction、反作用)があるということを意味します。もしも人が悪(badness)において振舞うなら、悪い反応があるでしょう。

しかし、良いものであれ悪いものであれ、反応は、より高い意味では、すべて苦しみです。たとえば、良い行いによって私が良い誕生、美しい(fine)身体的な特徴、そして良い教育を得ると仮定しましょう。これらすべての良いものを私は持っているかもしれませんが、それは私が物質的な痛みから自由であることを意味しません。

物質的な痛みは、誕生、死、老い、そして病です。たとえ私が富裕な人、美しい人、教育のある人、貴族の(aristocratic)家庭に生まれた等であっても、私はそれでも死、老い、そして病を避けることはできません。

第32段落
ですから私たちは、敬虔な活動や不敬虔な活動に関わってはなりません(訳注:to be concerned with~、関わる、携わる)。私たちは超越的な活動だけに関わらねばなりません。それは私たちをこの誕生、死、老いと病の呪縛から救います。それが人生における私たちの目標であるべきです。

私たちは良いことあるいは悪いことを切望している(to hanker after~)べきではありません(訳注:損失を嘆いたり利益を欲しがったりするべきではない)。たとえば、人が何かの病気に苦しんでいると仮定しましょう。彼は寝床に横たわり、食べ、不快さを感じながら排泄し(passing nature's call uncomfortably)、苦い薬を飲んでいます。

彼はいつも看護人たちによって清潔に保たれなければなりません。そうでなければひどい匂いがします。彼がこのような状態で横たわっている間に、何人かの友人たちがやってきて、大丈夫か(how he is feeling)と聞きます。「はい、私は大丈夫です(I am feeling well)。」この大丈夫とは何でしょうか?

不快さを感じながら寝床に横たわり、苦い薬を飲み、動くことができません!それでも、これらすべての不便にも関わらず、彼は「私は大丈夫だ」と言います。同様に、私たちが持っている人生の物質的な概念において(in our material conception of life)、もしも私たちが「私は幸せだ」と考えるなら、それは愚かさです。

物質的な人生には幸せはありません。ここで幸せを得ることは不可能です。この状態において、私たちは幸せの意味を知りません。それが、他でもないこの言葉(this very word)マニーシナー―――「思慮深さ」が使われる理由です。

第33段落
私たちは何らかの外部的(extraneous、外来性の、外側から来る)で人工的な方法によって幸せを探しますが、それらはどれくらい長くもつでしょうか?それは長持ちしません(It will not endure)。私たちは再び悲しみ(sorrow、不幸)に戻ってきます。

たとえば、陶酔物を摂取すること(intoxication、中毒状態)によって私たちが幸せに感じると仮定しましょう。それは私たちの本当の幸せではありません。たとえば、私がクロロフォルムによって無意識にされ、手術の痛みを感じないとしましょう。それは私が手術を受けていないことを意味するのではありません。これは人工的です。本当の喜び、本当の人生が存在します。

第34段落
シュリー・クリシュナによってバガヴァッド・ギーターにおいて命令されているように、思慮深い者は純粋な意識の水準に位置して、仕事の反応を放棄します。結果は、この誕生と死、病と老いの呪縛が終わるというものです。

この終わりは、本当の自己認識(identity)、クリシュナ、喜びと永遠の幸せの宝庫との調和です。(訳注:この一文は分かりにくいです。in union with~はin unison with~、すなわち「ユニゾン、調和や一致」の間違いと思われます。「ユニオン、結びつき」でも意味は通りますが、一般的な表現とは言えません。また、原文はin union with the true identity, Krishna, the reservoir of pleasure and eternal blissですが、どこでどう区切って理解したものやら判然としません。)

実に、そこに私たちが得るべき本当の幸せ(訳注:the true happiness for which we are intended、 to intendは意図を示す)があります。

(訳注:このレクチャーの場所と年代の表示がない。)
翻訳の元にしているのはKrishna Booksが2001年に発行した小冊子です。原本は1960年代後半から1970年代初めに発行されたという表示があります。
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とりあえずこれで第1部がおしまいですが、どうも何だか間違いが多いような気がします。このあと第2部があるので、それもそのうちお届けします。
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by ammolitering4 | 2014-03-09 05:14 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)

第1部 20段落まで

第10段落
自分の最後のカルマ、すなわち活動に応じて、人(訳注:one、ここでは「人」としていますが、生命体全体を指します)は楽しむために、あるいは苦しむために、この体を得ます。それが誕生と死の過程です。そして、この人生を終えたあと、再び人は死に、そして再びある母親の子宮に入ります。それからもう一つの種類の体が出てきます。これが輪廻転生の過程です。

第11段落
私たちは、どうやってこの繰り返す誕生と死と体の交代(change of body)という過程を止める(to discontinue)ことができるかということについて、非常に熱心に学ぶ(diligent、熱心に学ぶ様子)べきです。それが生命の人間の形の特典(prerogative)です。

私たちは、誕生と死を通した繰り返す変化(repeated change through birth and death)というこの過程を止めることができます。私たちは自分の本当の霊的な形を再び得て、喜びに満ちた状態、知識に満ち、そして永遠の生命(訳注:のある状態)になることができます。(訳注:原文は説法の文字起こしであるため、やや文法の乱れがある。)

それが進化の目的です。私たちはこれを得損なう(to miss)べきではありません。解放の過程全体が、ちょうど今、私たちがこの唱えることと聞くことを始めたことで始まります(~ begins just as we have now begun~)。私は、この、神の聖なる御名を唱えること(ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」と、ギーターの真実を聞くことは、クリシュナとの身体的な関わりと同じくらい良いのであるということを指摘したいと思います。

それはギーターの中に述べられています。この過程はキールタナと呼ばれます。たとえ人が言語(the language、この場合はマントラのサンスクリット語)を理解しなくても、それでも単に聞くことによって、彼は何らかの信心(piety、祈り、敬虔さ)を得ます。たとえ彼が理解しなくても、彼の財産(訳注:assets、貴重なもの、この場合はマントラを聞くことによって得られた信心を指す)は彼を敬虔な(pious)人生に導きます―――それはそのような力を持っています。

第12段落
クリシュナに関して2つの話題(topics)があります。正しくは2種類の話題です。一つの話題はこのバガヴァッド・ギーターです。それはクリシュナによって(訳注:byを斜体で強調)話されます。そしてクリシュナに関するもう一つの話題はシュリマッド・バーガヴァタムです。

それはクリシュナについて(訳注:aboutを斜体で強調)話されます。ですから(So)2種類のクリシュナ・カター(話題)があり、どちらも同じく力があります(both of them are equally potent)。なぜなら、それらはクリシュナと結びついているからです(to be connected)。

第13段落
バガヴァッド・ギーターはクルクシェトラの戦場で語られているので、一部の人々は私たちが戦場と何の関係があるのか(what we have to do with the battlefield)と尋ねました。私たちはどの戦場とも何の関係もありません。私たちは霊的な領域(sphere、分野)の知識を探し求めています(we are after~)。

それなら、なぜ私たちはこの戦場に関心を持つべきでしょうか(why should we bother about~)?クリシュナが戦場にいらっしゃるので、そしてそのため、戦場全体がクリシュナ化しました(to have become Krishna-ized)。ちょうど、何かの金属に電流が流れるとき、金属全体が電力で満たされる(訳注:to be surcharged、過度に入る、という意味だが、この場合は単に「帯びる」という意味だと思われる)ようなものです。

そのため同様に(so too)、クリシュナが何かの物体(matter、事柄)に興味を持たれるとき、その物体はクリシュナ化します。そうでないなら、クルクシェトラの戦場を論じる必要はありません。それが主の万能性です。

第14段落
この万能性はシュリマッド・バーガヴァタムにおいても描写されています。多くのクリシュナ・カターが存在します。ヴェーダ文献はそれらに溢れています。ヴェーダ(複数)は、それらがクリシュナ・カターであることを意味します。

ヴェーダを含め、聖典(訳注:文法的には整合しない単数となっているが、「一つの聖典は他のものから」、すなわち互いに違うという意味)は異なっているように見えるかも知れませんが、それらはすべてクリシュナ・カターのためにあります(they are all meant for~、用途、目的、意図)。もしも私たちが単にクリシュナに関するこれらの話題を聞くなら、それならそれなら結果は何でしょうか?それは純粋な超越的な振動であり、そして結果は霊的な意識です(will be)。

第15段落
たくさん、たくさんの誕生の間の(during the course of~)物質的な汚染によって(due to~)、私たちは心(hearts)の中にたくさんの縁起の悪い(inauspicious、忌まわしい)ものを溜め込みました(to accumulate)。たくさん、たくさんの誕生―――この(訳注:今回の)誕生だけでなく、過去の誕生もです。

そのため、私たちがクリシュナ・カターをもって(with)自分の心の中を調べる(to search into~、調査、詮索)とき、そのとき私たちが溜め込んだ汚染は洗い流されます。私たちの心からすべてのゴミ(rubbish)が洗い落とされます(to be cleansed of~)。そして、すべてのゴミが取り除かれれば直ちに、そのとき私たちは純粋な意識に位置します。

第16段落
自分自身からすべての偽りの呼称(designation)を根こそぎにする(to eradicate)のは非常に困難です。たとえば、私はインド人です。私はインド人ではなく純粋な魂だと直ちに考えるのはあまり簡単ではありません。同様に、これらの身体的な呼称との同一視(identification、身元確認)を終わらせるのは、誰にとってもあまり簡単な仕事(task、課題)ではありません。

しかしそれでも、もしも私たちがクリシュナ・カターを聞き続けるなら、それは非常に簡単になります(it will be)。実験をしてください(Make an experiment.)。どれほど簡単にあなたが自分自身をこれらすべての呼称から解放することができるかを見るために、実験をしてください。もちろん、突然、心(mind)からゴミを取り除く(to clear out)のは可能ではありませんが、私たちは物質自然の影響が弱まった(to be slackened、ゆるんだ)ことに直ちに気づきます。

第17段落
物質自然は、3つの相―――徳、熱情、および無明において働いています。無明は望みのない(hopeless)人生です。熱情は物質主義的です。熱情の相によって影響されている人は、物質存在のこの偽りの楽しみを欲します。

真実を知らないので、彼は単にこの物体を楽しむために体のエネルギーを搾り出したいと望みます。それが熱情の相と呼ばれます。無明の相の中にいる者に関して言えば、彼らは熱情も徳も持ちません。彼らは人生の最も深い暗闇の中にいます。

徳の相に位置すれば(Situated in the mode of goodness)、私たちは少なくとも理論上は(theoretically)、私は何であるか、この世界は何であるか、神は何であるか、そして私たちの相互関係(inter-relationship)は何かということを理解することができます。これが徳の相です。

第18段落
クリシュナ・カターを聞くことによって、私たちは無明と熱情の段階から自由になります。私たちは徳の相に位置するようになります(we will be situated~)。少なくとも、私たちは本当の知識―――私たちは何であるかという知識を持つようになります。無明は動物の存在のようなものです。

動物の人生は苦しみに満ちていますが、動物は自分が苦しんでいることを知りません。豚を例に取りましょう。もちろん、ここニューヨーク市では豚は見られません。しかしインドの村では豚を見かけます。おお、彼の人生の何と惨めなことか。非常に汚い(filthy)ところに住み、糞を食べ、いつも不潔です。

それでも豚は、糞を食べ、そして雌豚(she-hog)と絶え間ない性交をし、ただ太っていくだけで、とても幸せです。豚はそこにある楽しみの精神によって(because of the spirit of enjoyment which is there)大変太ります―――しかし(although)彼にとって、それは感覚的な楽しみです。(訳注:「そこにある楽しみの精神によって」太るというのは何のことか私は分かりません。)

第19段落
私たちは、誤って自分は非常に幸せであると考える豚のようであるべきではありません。昼も夜も(all day and night)熱心に働き、それからいくらかの性生活を持つ―――私たちはこのようにして自分は非常に幸せだと考えます。しかしこれは幸せではありません。これはバーガヴァタムにおいて豚の幸せと描写されています。人間の幸せは、彼が徳の相に位置しているときです。そのとき彼は本当の幸せは何であるかを理解することができます。

第20段落
私たちの日常の仕事(routine、決まりきった仕事)において、もしもこのクリシュナ・カターを聞くなら(訳注:毎日欠かさず~を聞くなら)、結果は、何度も生まれ変わって(life after life)溜まった、心の中のすべての汚れたものが取り除かれる(to be cleared out)というものです。事実、私たちは自分がもはや無明あるいは熱情の中におらず、そうではなく徳の相に位置しているのを見るでしょう(訳注:~に気づくでしょう)。その立場(position)とは何でしょうか?
......................................................................
さあ、いったい何でしょうか!?来週をお楽しみに!、、、という連続ドラマのような展開になってきましたが、ここで終わったのは私のノートのページがなくなったから、という即物的な理由によります。案外早く前回の続きが来ましたね。仕事がなくてヒマですので、こういうときはやっぱり進みますね。しかし、喜んでばかりもいられないのが困ったところです。隕石に乗って何か降ってこないかなあ。今は仕事だけじゃなくて住むところも探さなくちゃいけませんので、どうぞ皆さん、気の毒な葉子さんに少々の現世利益があるように色づけしたマントラをお願いいたします。
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by ammolitering4 | 2014-03-05 04:28 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)

第1章第9段落まで

クリシュナ、喜びの宝庫(Krishna, the Reservoir of Pleasure)
(訳注:「著者について」は省略します。)

第1部:クリシュナ、喜びの宝庫
( 訳注:Reservoirは貯水池を意味する言葉で、知識や富や人材など、良いものが豊富にある状態を表すのにも使われる。)

第1段落
クリシュナ―――この音は超越的です。クリシュナとは、最も高い喜びを意味します。私たちは皆、すべての生命体は、喜びを探し求めます。しかし、私たちはどうやって完璧に喜びを探し求めるかを知りません。

人生の物質主義的な概念を持って、私たちは自分の喜び(訳注:~への渇望)を満足させることにおいて、絶えず(at every step)挫折しています(to be frustrated、失敗する、不満が募る)。なぜなら、本当の喜びを持つ水準(the real level on which to have~)について、何の情報も持たないからです(訳注:どこに~を見出せばよいのかを知らないからです)。

過去2~3週間、私たちは、自分はこの体ではないということを学んできました;私たちは意識です。厳密には意識ではありません。なぜなら、意識は実際は私たちの本当の自己(identity)のしるし(symptom、兆候、徴候)だからです。

私たちは純粋な魂であり、今はこの物質の体と同化しています(to be merged within~、溶け込む)。現代の物質的な科学は、このことに全く重点を置きません(to lay no stress on~)。したがって、科学者たちは時として、霊魂の理解において誤って導かれます。

しかし、霊魂は誰もが意識の存在によって理解することができる事実です。どの子供も、意識は霊魂のしるしであると理解することができます。

第2段落
さて(Now)、私たちがバガヴァッド・ギーター(神の歌)から学ぼうとしている過程(process)全体は、どうやって私たち自身を意識のこの水準に持ってくるかというものです。そして、もしも私たちが意識の水準から行動するなら、それなら私たちはこの身体的な概念という水準に再び押し入れられないかもしれません。

そして、もしも私たちがその水準において続けることができるなら、もしも私たちが純粋な意識において活動し続けることができるなら、それならこの体の終わりに私たちは物質的な汚染から解放され、私たちの霊的な人生が蘇り(to be revived)、そして究極の結果は、私たちの来世において、この体を去った後で、私たちは完全な(full)、永遠の霊的な命(life)を得るというものです。既に論じたように、霊は永遠と描写されます。

第3段落
この体の滅亡(destruction)の後でさえ、意識は滅ぼされません。そうではなく、意識は別の種類(type)の体に移され、再び私たちに生命の物質的な概念に気づかせます(to make us aware of~)。それもまたバガヴァッド・ギーターにおいて描写されています。

死のときに、もしも私たちの意識が純粋なら、私たちの未来は物質的ではない―――私たちの来世は霊的であることは確かです(we can be sure that~)。もしも死のときに私たちの意識が純粋でないなら、それなら、この体を去ったあとで、私たちはもう一つの物質的な体を取らねばならないでしょう。それが続いている過程です(訳注:この過程がずっと続いています)。それが自然の法です。

第4段落
私たちは今、最終的な体を持っています。私たちが見る体は、密度の濃い(gross)体です。それはちょうど、シャツやコートのようなものです。コートの中にシャツがあり、そしてシャツの中に体があります。同様に、純粋な魂はシャツとコートによって覆われています。

衣服(garments)は心、知性、そして偽りの自我です。偽りの自我とは、私は物体(matter)である、私はこの物質世界の産物である、という思い違い(misconception)を意味します。この思い違いは、私を局在化させます(to make me localized)。

例えば、私はインドで生まれたので、私は自分をインド人だと考えます。私はアメリカで生まれたので、私は自分をアメリカ人だと考えます。しかし、純粋な魂として、私はインド人でもアメリカ人でもありません。私は純粋な魂です。これらの他のものは呼称(designations、区分して識別すること)です。

アメリカ人、あるいはインド人、あるいはドイツ人、あるいはイギリス人;猫や犬、あるいは蜂やコウモリ、夫(man)や妻:これらすべては呼称です。霊的な意識において、私たちはすべてのそうした呼称から自由になります。その自由は、私たちが至高の霊、クリシュナと常に触れ合っているとき(constantly in touch)、得られます。

第5段落
クリシュナ意識協会は、単に私たちがいつもクリシュナと触れ合っているようにすることを目的としています(to be intended、意図する)。主は全能(omnipotent、omniは「すべて」を意味する接頭語、potentは能力を意味する)でいらっしゃるので、クリシュナは常に私たちと共にいることがおできになります(Krishna can be in constant companionship with us)。

したがって、主はご自分の言葉によって完全に私たちと触れ合っていることができます。主のお言葉と主は異なりません。それが全能性(omnipotence)です。全能性とは、主に関連するすべてのものが同じ力を持つことを意味します。

例えば、ここ物質世界においては、もしも私たちが喉が渇いて水が欲しいなら、単に「水、水、水、水」と繰り返すことは私たちの乾きを癒しません(to satisfy、満足させる)。なぜなら、この言葉は水そのものと同じ力を持たないからです。私たちは実体としての水(the water in substance)を必要とします。

そうすれば私たちの乾きは癒されます。しかし、超越的な、完全な世界にあっては、そのような違いはありません。クリシュナの名前、クリシュナの性質、クリシュナの言葉―――すべてがクリシュナであり、同じ満足を提供します。

第6段落
アルジュナはクリシュナが目の前にいらしたから主と話していたのだ、しかし(whereas、~に反して)私の場合はクリシュナがいらっしゃらない、と論じる人々がいます。だから、どうやって私が導き(directions)を得られるだろうか?しかし、それは事実ではありません。

クリシュナはご自分の言葉―――バガヴァッド・ギーターによって存在していらっしゃいます。インドでは、バガヴァッド・ギーター、あるいはシュリマッド・バーガヴァタムについて話すとき(to speak on~、この場合はある話題について説教をするとき)、私たちはいつも(regularly)、定められたように(as it is required for worshipping)(校正:worshiping→ worshipping)、花、あるいは他のもの(paraphernalia、関連する付属品)を使って儀式を行います(to perform worship)。

シーク教でも、何らの神像も持たないとはいえ、彼らはグランターサヒブという本を崇拝します。おそらく、皆さんの中にはこのシーク教の社会に馴染みのある方もおいででしょう(to be acquainted with this Sikh community)。彼らはこのグランターを崇拝します。

同様に、イスラム教徒はコーランを崇拝します。同様に、キリスト教の世界では、聖書が崇拝されます。主イエス・キリストがご自分のお言葉によって存在なさるというのは事実です。クリシュナもまた、ご自分の言葉によって存在なさいます。

第7段落
神あるいは神の息子であれ、超越的な世界から来るこれらの名士たち(personalities)は、物質世界によって汚染されることなく、ご自分たちの超越的な自己認識(identity)をお保ちになります。それが彼らの全能性です。私たちは習慣的に神は全能であると言います(we are in the habit of saying~)。

全能性とは、主がご自分の名前から、ご自分の性質から、ご自分の娯楽から、ご自分の教えから、異なっていないことを意味します。したがって、バガヴァッド・ギーターの議論(訳注:~を論じること)は、クリシュナご自身との議論と同じほど良いのです。

第8段落
クリシュナはあなたの心臓に、そして私の心臓にも座っていらっしゃいます。イーシュヴァラー・サルヴァ・ブーターナーム・フリド・デシェ・リジュナ・ティシュターティ。神はすべての者の心臓の中に位置しておいでです。神は私たちから離れていらっしゃいません。主は存在していらっしゃいます。

主は非常に友好的でいらっしゃるので、私たちの繰り返す転生においても(in our repeated change of births)、私たちと共に留まられます。主は、私たちがいつご自分のほうを振り返るか
(to turn to Him、関心を寄せる、頼る)と待っておられます(He is waiting to see when~)。

主は非常に親切なので、私たちは主を忘れるかもしれないにも関わらず、主は決して私たちを忘れません。息子は自分の父親を忘れるかもしれませんが、父親は決して自分の息子を忘れません。同様に、すべての物、すべての者、すべての生命体のもともとの父親である神は、決して私たちをお見捨てになりません(to forsake)。

私たちは異なる体を持っているかもしれませんが、それらは私たちのシャツとコート(訳注:shirt-coats、シャツ型の短いコートやカーディガンを指しますが、この場合は文脈から単にシャツやコートとしています)です。それは私たちの本当の姿(real identity)とは何の関係もありません。

私たちの本当の姿は純粋な魂であり、そしてその純粋な魂は至高主の欠かすべからざる小片です。840万の生命の種が存在します。生物学者と人類学者(anthropologist)でさえ、これを正確に計算することはできませんが、権威のある、明かされた聖典から、私たちはこの情報を得ます。

人間(human beings)はそのうちの40万種を占め(to represent)、800万の他の種があります。しかしクリシュナ、至高主は、それらすべて、獣(beast)、人間、ヘビ、神、準神(semi-god)、半神―――何でもかんでも(anything whatever)―――それらすべてが実際に(in reality)ご自分の息子であると主張なさいます。

第9段落
父親は種を与え、そして母親が種を受け取ります。それから母親の体に応じて体が形作られます。そして体が完全に形作られたとき、それは出てきます―――猫から、あるいは犬から、あるいは人からであれ。それが生物の発生(generation、世代)の過程です。

父親が種を与え、そしてそれは母親の子宮の中で二種類の分泌液(secretion)によって乳化され(to be emulsified)、そして最初の夜に体はちょうどエンドウマメのように形作られます。それから徐々にそれは発達します。9つの穴ができます(There are nine holes that develop):二つの耳、二つの目、鼻腔、口、へそ、陰茎、そして肛門です。
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こんにちは。ほんのちょっとだけお届けします。こういうのを英語でteaseと言います。ちらっとだけ見せて期待を持たせ、じらしていじめる性悪な様子を指す言葉です。非常に勉強になるブログサイトですね~、と我ながら大変自慢です。そういうわけで、続きは再び「まだか、まだか」と辛抱強くお待ちくださいませ。
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by ammolitering4 | 2014-03-03 08:19 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)