カテゴリ:「クリシュナへの途上」( 13 )

第5段落 後半

第15段落
クリシュナは、完全真理は3つの側面―――ブラーマン、パラマートマー、およびバーガヴァーン―――非人格的なブラーマンの光輝、局在的な超魂、および至高の人格神において知られる、と宣言なさいます。このように、人が完全真理を想起できる(may envision、心に描く)3つの視点(angle)があります。

人は山を遠距離から見るかもしれず、そしてそのようにして、それをある(一つの)視点(angle of vision)から知覚します。近付くにつれて彼は山の木々や枝葉(foliage、一本の木全体の葉)を見るかもしれず、そしてもしも彼が山を登り始めるなら、彼は木、草、そして動物に、非常に多くの多様性
(variegatedness、あまり一般的な用語ではない。古い表現で、インドの霊的な文献で限定的に使われているようです。)を見出すでしょう。

対象は同じですが、異なる視点により(due to~、~が原因で)、賢人たちは完全真理について(of)異なる概念を持っています。もう一つの例を挙げましょう:太陽光、太陽(sun disc、discは円盤。校正:ここではハイフンなし)、そして太陽神が存在します。太陽光の中にいる者は、自分は太陽そのものの上にいると主張することはできず、そして太陽の中に(in)位置している者は、視点という観点から見ると(from the point of view of vision)、より良い場所にいます。

太陽光は、あまねく広がるブラーマジョティの光輝に比べられるかもしれず、局在的な太陽(sun-disc)は超魂の局在的な側面に比べられるかもしれず、そして太陽の中に住む太陽神は至高の人格神に比べられるかもしれません。

この地球(校正:earth→Earth)という惑星の上で私たちが生命体の多様さ(multi-variety)を持っているように(訳注:~に~があるように)、私たちはヴェーダ文献から、太陽にも(in)また多様な生命体がいることを理解することができますが、ちょうど私たちの体は土(earth)でできているように、彼らの体は火でできています。

第16段落
物質自然の中には5つの濃い(gross、「かすかな、subtle」の反対語)要素があります:土、水、空気、火、そして空間(space、別の書籍ではエーテルとして出てくることもある)です。異なる惑星には、これらの5つの要素の一つが優勢(prevailing)であることによって、異なる大気(atmosphere、環境、雰囲気)があり、そして何であれ、ある特定の惑星において主体である(predominant)要素から成る、生命体のための異なる体があります(訳注:それぞれの惑星において優勢な要素があり、独自の環境が形成されます。そして、それぞれの惑星に住む生命体の体は、そこで主体となる要素からできています。)

私たちは、すべての惑星は同じ生命(life)の質(quality、特質)を持っていると考えるべきではありませんが、それでも、これらの5つの要素が何らかの形で(in some form or other)存在しているという意味では均一性があります。

このように、ある惑星では土が主体で、火が主体で、水が主体で、そして空気と空間が主体です。したがって私たちは、ある惑星が主に土からできていないからといって、あるいは大気(atmosphere、環境)が私たちのと同じでない(does not duplicate ours)からといって、これらの惑星には生命がないと考えるべきではありません。

ヴェーダ文献は私たちに、異なる種類の体を持つ生命体に満ち溢れた無数の惑星があるという情報を与えます。ちょうど、何らかの物質的な調整をすることによって私たちが異なる物質的な惑星に入る資格を得るように、資格によって、私たちは至高神がお住まいの霊的な惑星に入ることができます。

(サンスクリット引用)

「半神たちを崇拝する者は半神たちの中に生まれます:先祖を崇拝する者は先祖のところに行きます:そして私を崇拝する者は私と共に暮らします。」(Bg.9.25)

第17段落
より高い惑星に入ろうとしている者たちはそこに行くことができ、そしてゴロカ・ヴリンダーヴァン、クリシュナの惑星に入るための資格を得ようとしている者たちも、クリシュナ意識の過程によってそこに入ることができます。

インドに行く前に、私たちはその国がどんなふうであるかという描写を入手するかもしれません:その場所について聞くことは最初の経験です。同様に、もしも私たちが神がお住まいになっている惑星についての情報を得たいなら、私たちは聞かねばなりません。

私たちは、直ちに実験をしてそこに行くことはできません。それは可能ではありません。しかし、私たちはヴェーダ文献の中に、至高の惑星に関する非常に多くの描写を持っています(~には~があります)。たとえば、ブラーマ・サムヒターはこう述べます。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主、最初の祖先(progenitor)を崇拝します。主は牛の世話をなさっており、すべての望みを満たしておられます。霊的な宝石で作られたお住まいにおいて、何百万本もの願いを叶える木に囲まれ、いつも、何百何千のラクシュミー、すなわちゴピーたちによって、大いなる崇敬の念(reverence)と愛情をもって奉仕されていらっしゃいます。」(訳注:原文は長い一文。)特にブラーマ・サムヒターの中に、他の詳細な描写もあります。

第18段落
完全真理を認識しようとしている者は、彼らが集中する完全真理の側面に応じて区分されます。ブラーマンに集中する者、非人格主義者たちは、ブラーマヴァーディーと呼ばれます。一般的に、完全真理を認識しようとしている者は、まずブラーマジョティを認識します。

超魂、パラマートマーと呼ばれる、心臓の中の局在的な形に集中する者は、パラマートマーヴァーディーとして知られます。至高主は、ご自分の完全部分(plenary portion)によって、すべての者の心臓の中に座っておられ、そして瞑想と集中によって、人はこの形を知覚することができます。

主はすべての者の心臓の中におられるだけでなく、主は創造(されたもの)のすべての原子の中にもおいでになります。このパラマートマー認識が第二段階です。第三にして最後の段階は、バーガヴァーン、至高の人格神の認識です。

認識の3つの主な段階があるので、至高の完全真理には1回の誕生では到達されません(not attained)。バフーマーム・ジャンマナーム・アンテ。もしも人が幸運なら、彼は究極存在(校正:the ultimate→the Ultimate)を一秒で得ることができます。しかし一般的に、神が何であるかを認識するには何年も何年も、幾世も幾世も(many, many births)かかります。

(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界(訳注:複数)の源です。すべてのものが私から放射します。これを完全に知る賢者は、私への献身奉仕に携わり、そして心から私を崇拝します。」(Bg.10.8)

第19段落
ヴェダーンタ・スートラもまた、完全真理はそこからすべてのものが生まれる主であると確認します。もしも私たちがクリシュナがすべてのものの源であると本当に信じるなら、そしてもしも私たちが主を崇拝するなら、私たちの勘定書(account、賃借勘定の口座)は直ちに(in one second、1秒で)閉じられます。

しかし、もしも人が信じず、「おお、私は神が何であるかを見たい」と言うなら、彼は段階を追っていかねばなりません。(まず)非人格的なブラーマンの光輝を認識し、それからパラマートマー、局在的な
特徴(feature)、そしてやっと(before finally coming to~)認識の最後の段階にきます:「おお、ここに至高の人格神がいらっしゃる」。(訳注:原文は長い一文)

しかし、この過程はもっと時間がかかると理解されるべきです。人が多年の研究を通して完全真理を認識するようになるとき、彼はヴァースデヴァー・サルヴァム・イティ―――「ヴァースデヴァが存在のすべてである」と結論します。

ヴァースデヴァはクリシュナの(for)名前であり、そしてそれは「どこにでも住んでいる方」を意味します。ヴァースデヴァがすべてのものの根源である―――マーム・プラパデャテ―――と認識して、彼は服従します。服従の過程は究極の目的地です。

人はそれを直ちに行うか、あるいは何度も生まれかわって研究してのちかです(after many births of research work)。どちらの場合でも、「神は偉大であり、そして私は主の従者である」と認識することによる服従がなくてはなりません。

第20段落
これを理解して、賢い者は直ちに服従し、幾度もの誕生をすることを待ちません。彼は、この情報は至高主によって、主の制約された魂への無限の慈悲から与えられていると理解しています。私たちは皆、この物質世界の三重の悲惨さに苦しんでいる制約された魂です。今、至高主は私たちに、服従の過程によってこれらの悲惨さを逃れる機会を与えてくださいます。

第21段落
この時点で、人は、もしも至高の人格(神)が究極の目的地で、人は主に服従しなければならないなら、なぜ世界には非常に多くの異なる崇拝の方法(process)があるのかと尋ねるかもしれません。この質問は、次の節において答えられます。

(サンスクリット引用)

「心が物質的な欲望によって歪められている者は、半神たちに服従し、そして彼ら自身の性質(nature)に応じて、特定の規則と規律に従います。」(Bg.7.20)

第22段落
世界には多くの異なる種類の人々がおり、そして彼らは物質自然の異なる相の下で機能しています。一般的に言えば、ほとんどの人は解放を求めていません。もしも彼らが霊性(spirituality)を習慣づける(to take to~)なら、彼らは霊的な力によって何かを得たいと望みます。(訳注:彼らが霊性に興味を持つのは、その力で何かを得たいときです)

インドでは、人がスヴァーミーのところに行って、「スヴァーミージー、私に幾らかの薬をくださいませんか?私はこの病気に苦しんでいます」と言うのが珍しくありません。彼は、医者は高すぎるので、奇跡を起こすことのできるスヴァーミーのところへ行くことができる、と考えます。

インドには、人々の家に行って、「もしもあなたが私に1オンスの金をくれるなら、私はそれを100オンスの金にすることができます」と教える(to preach、福音などを説教する)スヴァーミーたちもいます。人々は、「私は5オンスの金を持っている。これを彼にあげて、500オンス手に入れよう」と考えます。

このようにして、スヴァーミーは村のすべての金を集め、そして集めたあとで彼は消え去ります。これが私たちの病です:私たちがスヴァーミー、あるいは寺院や教会に行くとき、私たちの心は物質的な欲望に満ちています。

霊的な人生から何らかの物質的な利益を欲して、私たちは単に健康を維持するために(to keep our health fit)ヨガを実践します(to practice、練習する)。しかし、健康であるために、なぜヨガに頼るのですか?私たちは規則正しい運動と規則正しい食生活を通して健康になることができます。

なぜヨガに頼るのですか(to resort to~)?なぜなら:カーマイス・タイス・タイル・フリター・ジニャーナー。私たちは、健康でいたい、そして教会に行って神を注文品提供者(order-supplier、命令されたことを遂行する人)にすることによって人生を楽しみたいという物質的な欲望を持っています(訳注:持っているからです)。

第23段落
物質的な欲望を持っているので、人は様々な半神を崇拝します。彼らは、どうやって物質(matter)から逃れるか(to get out of~)全く知りません。彼らは物質世界を最大限に活用したいと思っています。例えば、ヴェーダ文献の中で非常に多くのことが勧められています。

もしも人が自分の病を癒したいなら彼は太陽を崇拝し、あるいは、もしも女の子が良い夫を望むなら彼女は主シヴァを崇拝し、あるいは、もしも人が美しくなりたいなら彼はどれそれの(such and such)神を崇拝し、あるいはもしも人が教育を得たいなら(to become educated、教養)、彼は女神サラスヴァティーを崇拝します。

このようにして、西洋人はしばしば、ヒンズー教徒は多神教(polytheistic)であると考えますが、実際はこの崇拝は神に対してではなく、半神に対してです。私たちは、半神は神である、と考えるべきではありません。神は一つですが、ちょうど私たちと同じような生命体である半神たちがいます。

違いは、彼らは相当な力(considerable amount of power)を持っているということです。この地球上には、王様や大統領や独裁者がいるかもしれません―――これらは私たちのような人間ですが、彼らは幾らかの並外れた(extraordinary)力を持っており、そして彼らから恩寵を得るために、彼らの力を利用するために、私たちは彼らを何らかの方法で(in one way or another)崇拝します。

しかしバガヴァッド・ギーターは半神の崇拝を非難します(to condemn)。この節は明らかに、人々はカーマ、物質的な欲望(lust)のために(due to~、~が理由で)半神を崇拝する、と述べます。

第24段落
この物質的な人生は単に欲望に基づいています。私たちはこの世界を楽しみたいと望み、そして、自分の感覚を満足させたいので、私たちはこの物質世界を愛しています。この欲望は、私たちの神への愛(love of God)の歪んだ反映です。

もともとの本来の立場(original constitution)において、私たちは神を愛するように作られています。しかし、神を忘れてしまったので、私たちは物体を愛しています。愛はそこにあります。私たちが物体を愛するか、あるいは神を愛するかです。

しかし、どちらの場合でも、私たちはこの愛する傾向(propensity、生まれつきの傾向、性癖)から逃れることはできません。実に、私たちはしばしば、子供を持たないとき、人が猫や犬を愛するのを見ます。なぜでしょうか?なぜなら、私たちは何かを愛したいと欲し、愛することを必要としているからです。

現実の不在において、私たちは猫と犬に自分の信仰(faith、信頼)を置きます。愛はいつもそこにありますが、それは欲望の形に歪められています。この欲望が満たされないとき(baffled、挫折、失敗)、私たちは怒ります。怒るとき、私たちは幻惑されます。そして幻惑されるとき、私たちは不運になります(to be doomed)。

これが進行している過程ですが、私たちはこの過程を反転して欲望を愛に変えなければなりません。もしも私たちが神を愛するなら、私たちはすべてのものを愛します。しかし、もしも私たちが神を愛さないなら、何をも愛することは可能ではありません。

私たちはそれは愛であると考えるかもしれませんが、それは単に欲望の美化された(glamorized)形です。欲望の犬になった者は、すべての良識(good sense、思慮分別)を失ったと言われます:カーマイス・タイス・タイル・フリタジニャーナー。

第25段落
聖典には、半神の崇拝のための多くの規則と規律があり、人は、なぜヴェーダ文献は彼らの崇拝を勧めたのかと尋ねるかもしれません。必要性があるのです。欲望によって動機づけられた(to be motivated)者は、何かを愛する機会を欲しており、そして半神たちは至高神の役人(officers)として認められています(to be acknowledged)。

目的は(The idea is~)、人がこれらの半神たちを崇拝するにつれて、彼が徐々にクリシュナ意識を育む、というものです。しかし、もしも人が完全に無神論的で、何らの権威に対しても不従順(disobedient)で反抗的(rebellious)であるなら、何の望みがあるでしょうか?そのため、より高い名士(personality)への服従(obedience)は半神から始まります。

第26段落
しかし、もしも私たちが直接至高主の崇拝を習慣づけるなら(to take to~)、半神の崇拝は必要ありません。至高主を直接崇拝する者は、半神たちに心からの敬意を表します(to show all respect)が、彼らは半神たちを崇拝する必要はありません。

なぜなら彼らは、半神たちの背後の至高の権威は至高の人格神であることを知っており、主を崇拝することに携わっているからです。どの場合でも、それでも敬意はあります。主の献身者は、アリにさえも敬意を表します。半神においては何をか言わんや?

献身者は、すべての生命体は至高主の欠かすべからざる小片であり、彼らは異なる役割を演じているだけだということを認識しています(to be aware)。

第27段落
至高主との関係において、すべての存在(being)は尊重されるべきです(are to be respected)。したがって、献身者は他者を「我が親愛なる旦那さま、我が親愛なるご主人(my dear sir, my dear lord)」を意味する「プラブ」と呼びます。

従順さ(submissiveness、素直さ)は主の献身者の資格(qualifications)です。献身者は親切で従順(kind and obedient)であり、彼らはすべての良い資格を持っています。結論として、もしも人が主の献身者になるなら、すべての良い資格は自動的に育まれます。

もともと(by nature)、生命体は完璧ですが、欲望による(of)汚染によって、彼は悪くなります(vicious、様々な悪い状態を表す言葉)。金の小片(that which is part and parcel of gold)もまた金であり、何であれ完全完璧存在(the Complete Perfect)の小片であるものもまた完璧です。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神は完璧で完全です。主は完璧に完全でいらっしゃるので、この現象の(phenomenal、知覚可能な)世界のような主からのすべての放射は、完全な全体として完璧に装備されています(to be equipped)。何であれ完全な全体から作られるものは、それ自体でまた、完全です。

主は完全な全体であるので、非常に多くの完全な一部(unit)が主から放射するにも関わらず、主は完全な均衡をお保ちになります。」(シュリー・イーショパニシャッド、祈り)

第28段落
物体による(of)汚染によって、完璧な生命体が堕落しますが、このクリシュナ意識の過程は再び彼を完璧にします。それを通して、彼は本当に幸せになることができ、そして物質の体を去った後で、永遠の生命(life)、喜びと完全な知識のある王国に入ります。
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以上で本書の翻訳を終わります。辛抱強くお待ちいただきましてありがとうございました。

さ~て次は、、、既に翻訳があるかもしれませんが、"The Perfection of Yoga"、「ヨガの完成」を翻訳しようと思っています。手の平サイズでたった56ページで薄いから、という安直な理由でこれを先に済ませようとたくらんでいるのです。他にも既に翻訳があるかもしれない小冊子があります。"Krishna:The Reservoir of Pleasure", "Bhakti:The Art of Eternal Love", "The Laws of Nature:An Infallible Justice", "Dharma:The Way of Transcendence"の4冊です。どれが翻訳済みなのか、以前に伺っていたのに忘れてしまいました。これはもうある、というのがありましたら教えてください。よろしくお願いいたします。
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by ammolitering4 | 2014-02-23 15:28 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(4)

第5章 前半

第5章 至高存在に向けて舵を取る

第1段落
(サンスクリット引用)

「これらすべての献身者たちは疑いもなく寛容な(magnanimous、高貴で寛大な様子)魂ですが、私に関する知識のうちに位置する者(訳注:~を持っている者)は、たしかに(verily)私の内に住む(to dwell in Me)と私は考えます(he who is ~ I consider~)。」(Bg.7.18)

第2段落
ここでクリシュナは、主のもとにやってくるすべての者―――苦しんでいる、お金を必要としている、好奇心がある、など何であれ(whether they be~)―――は歓迎されるが、彼らのうちで、知識のある者が主にとって最も愛しい、とおっしゃいます。

しかし一般的に、人が利益を求めて教会に行き、お金が得られないとき(the money doesn't come)、彼は神に近付くことは無意味(non-sense)であると結論し、そして彼は教会とのすべての関わりを放棄します。それが隠された動機(ulterior motive、下心)で神に近付くことの危険です。

例えば、第2次世界大戦の間、多くのドイツ兵の妻たちが夫の無事な帰還のために祈るために教会に行ったと報告されましたが、彼らが戦いで殺されたことを知ったとき、彼女らは無神論的になりました(訳注:構文の関係で、「~と報告されました」が前の部分だけにかかるのか全体にかかるのか、よく分かりません。このような構文は頻繁に見られ、どちらでもそれほどの違いはない場合が多いので、読むときにはご自分で適宜ご判断ください。)

このように私たちは神に、私たちの命令を遂行する者(order-supplier、注文の品を提供する人)となることを望み、そして主が私たちの命令を遂行しないとき(訳注:願いを叶えてくださらないとき、という意味)、私たちは神はいないと言います。それが物質的なものを求めて祈ることの効果(effect、影響)です。

第3段落
このことに関して、5歳ほどでドゥルヴァという名前の、王族に属する小さな男の子の話があります。時が経つうちに、彼の父親、王は、彼の母親に嫌気が差し(tired of~、うんざりする)、彼女を彼の妃(の地位)から退けました(to depose、高い位から退ける)。

彼はそれから別の女性を妃として迎え、そして彼女は男の子の継母になりました。彼女は彼を非常に妬んでおり(envious)、そしてある日、ドゥルヴァが父の膝(knee、単数)に座っていると、彼女は彼を侮辱しました(to insult)。

「おお、あなたはあなたのお父さんの膝の上に座ることはできません」と彼女は言いました。「なぜなら、あなたは私から生まれたのではないからです。」彼女はドゥルヴァを彼の父親の膝から引きずり下ろし、そして男の子は非常に立腹しました。

彼はクシャトリヤの息子であり、そしてクシャトリヤはカッとしやすいこと(quick temper、短気)で知られています(notorious、悪名高い)。ドゥルヴァはこれを重大な侮辱(great insult)として受けとり、そして彼は退けられていた自分の母親のところに行きました。

第4段落
「お母さん(校正:M→ m)」と彼は言いました。「私の継母は、私をお父さんの膝から引きずり下ろすことによって私を侮辱しました。」

「愛しい息子よ」と母親は答えました。「私に何ができるでしょうか?私は無力(helpless)で、あなたのお父さんはもはや私を好きではありません(to care for)。」

「では(Well)、私はどうやって仕返しができるでしょうか(to take revenge)?」と少年は尋ねました。

「我が愛しい子よ、あなたは無力です。神様が助けてくださるなら、それで初めてあなたは仕返しをすることができます(Only if Good helps you can ~)。」

「おお、神様はどこにいらっしゃるのですか?」とドゥルヴァは熱心に尋ねました。

「非常に多くの賢人たちが神様を見るために密林や森に行くそうです(I understand~)」と母親は答えました。「彼らはそこで神様を見つけるために大変な苦行(penances)と禁欲(austerities、耐乏生活)をします(to undergo、苦難に耐える)。」

第5段落
ドゥルヴァは直ちに森に行き、虎や象に「おお、あなたは神様ですか?あなたは神様ですか?」と尋ね始めました。このようにして彼はすべての動物に尋ねていました。ドゥルヴァが非常に知りたがっている(very much inquisitive)のを見て、シュリー・クリシュナは状況に対処する(to see about、取り計らう、処置をする)ためにナーラダ・ムニを遣わしました。ナーラダはすぐに森へ行ってドゥルヴァを見つけました。

第6段落
「我が親愛なる少年よ」とナーラダは言いました。「あなたは王家に属しています。あなたはこれらすべての苦行と禁欲(penances and austerities)に苦しむことはできません(cannot、この場合は禁止の意味。こんな苦行や禁欲をしていてはいけません)。家に帰ってください。あなたのお母さんとお父さんは、あなたのことを大変心配しています。」

「そのように私(の心)をそらそうとしないでください(to divert)」と少年は言いました。「もしもあなたが神様について何か知っているなら、あるいはもしもあなたが、私がどうやって神様を見る(to see、会う)ことができるかを知っているなら、教えてください。そうでなければ、去って、私を邪魔しないでください。」

第7段落
ドゥルヴァが非常に決意が固い(determined)ことを見て取ったとき、ナーラダは彼を弟子として入門させ(to initiate)、彼に「オーム・ナモ・バーガヴァテ・ヴァースデヴァーヤ」というマントラを与えました。ドゥルヴァはこのマントラを唱えて完璧になり、そして神様が彼の前に現れました。

第8段落
我が親愛なるドゥルヴァよ、あなたは何が欲しいですか?あなたは私から何であれあなたが欲しいものを取ることができます。」

「我が親愛なる主よ」と少年は答えました。「私は単に私の父の王国と土地のために大変厳しい苦行をしていましたが、今、私はあなたを見ました。偉大な賢人や聖人でさえ、あなたを見ることができません。私の利益は何でしょうか?

私は、ただ(merely)幾らかのガラス片とゴミ(some scraps of glass and rubbish)を見つけるために家を出て、そしてその代わりに私は大変価値のあるダイヤモンドを見つけました。今、私は満足しています。私はあなたから何も求める必要はありません(I have no need to ask anything of You)。」

第9段落
このように、たとえ人が非常に貧しくても(poverty-stricken)、あるいは苦しんでいたとしても(one may be~)、もしも彼がドゥルヴァと同じ決意を持って、神を見て主の恩恵を受けることに熱心になって(intent on~、一心に、没頭して)神のところに行くなら(訳注:何が何でも~しようとして)、そしてもしも彼がたまたま神を見るなら、彼はもはや何らの物質的なものも欲しません。

彼は、物質的な所有の愚かさを理解するようになり、そして彼は本当のもののために幻想を脇に置きます。人がドゥルヴァ・マハーラージャのようにクリシュナ意識に位置するようになるとき、彼は完全に満足するようになり、何も欲しません。

第10段落
ジニャーニー、賢人は、物質的なものはうつろいやすい(flickering、不安定に光る、ちらつく)と知っています。彼はまた、すべての物質的な益(gain)を複雑にする(to complicate、事を紛糾させる)3つの側面があることを知っています―――

人は自分の仕事から利益を欲すること、人は自分の富(riches)のために(because of)他者から崇敬(adoration)を欲すること、そして人は自分の富(wealth)のために名声を欲することです。どの場合でも、彼はこれらすべては体だけにあてはまるのであり(all of these apply but to the body)、そして体が終わるときそれらもまた去る、ということを知っています。

体が死ぬとき、人はもはや金持ちではなく霊魂であり、そして自分の仕事に応じて彼は別の体に入らなくてはなりません。ギーターは、賢人はこれによって惑わされないと言います。なぜなら、彼は物事をありのままに知っているからです(he knows what is what、何が何かを心得ている)。

それなら、なぜ彼はわざわざ物質的な富を得ようとすべきでしょうか(why ~ bother himself attaining)?彼の態度は次のようなものです。「私は、クリシュナ、至高神と永遠の繋がりを持っている。今、クリシュナが私をご自分の王国に連れ帰ってくださるように、その関係を確かなものにしよう(establish ~ firmly)。」

第11段落
宇宙の状況(cosmic situation)は私たちに、クリシュナとのこの関係を再確立して至高神のもとに戻るためのすべての設備を与えています(訳注:宇宙には私たちが~するための手はずがすべて整っています)。これが人生における私たちの使命であるべきです。私たちが必要なものすべて―――土地、穀物、果物、牛乳、住まい(shelter)と衣類―――は、神によって与えられています。

私たちはただ、平和に暮らしてクリシュナ意識を育まねばならないだけです。それが人生における私たちの使命であるべきです。したがって私たちは、神が食べ物、住まい、防御(defence)、および性交の形で与えてくださったもので満足しているべきであり、もっと、もっと、もっと、と欲しがるべきではありません。

最良の種類の文明は、「簡素な暮らしと高い思考」という格言(maxim、金言、行動原理)に適う(to ascribe to ~、~に帰する)ものです。工場で食べ物と性を作り出すことはできません。これら、および他の何であれ私たちが必要とするものは、神によって供給されます。私たちの仕事は、これらのものを利用して神意識になることです。

第12段落
神が私たちに、この地上で平和に暮らし、クリシュナ意識を育み、そしてついに主のもとに至るためのすべての設備を下さったにも関わらず、この時代において私たちは不運です。私たちの寿命は短く(we are short-lived)、そして、食物、住まい、結婚した人生、あるいは自然の猛襲(onslaught)からの防御のない、非常に多くの人々がいます。

これはこのカリの時代の影響によるものです。したがって主チャイタンニャ・マハープラブは、この時代におけるひどい状況をご覧になって、霊的な人生を育むことの全くの必要性を強調なさいました。そして、私たちはそれをどのように行うべきでしょうか?チャイタンニャ・マハープラブは方法をお与えになりました。

(サンスクリット引用)

「ただ、いつもハレ・クリシュナを唱えなさい。」あなたが工場にいるか、あるいは地獄か、掘っ立て小屋(shack)か、あるいは高層ビルかを気にしてはなりません(Never mind)―――それは関係ありません。ただ、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレと唱え続けなさい。

お金はかからず、障害物(impediment)はなく、カースト(による区別)はなく、教義(creed)(による区別)はなく、色(訳注:肌や目の色)(による区別)はありません―――誰でもそれをすることができます。ただ、唱え、そして聞きなさい。

第13段落
どうにかして(somehow or other)、もしも人がクリシュナ意識に触れ、真正なる指導者(guide)の導きの下で過程を実践する(to execute the process)なら、彼は必ず神のもとへ戻ります。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死のあとで、実際に知識のある者は、私をすべての原因の原因であり、存在するすべてである(all that is)と知って、私に服従します。」(Bg.7.19)

第14段落
神の科学への(into)哲学的な研究は、何度も生まれ変わって(for many births)なされねばなりません。神認識はとても簡単ですが、同時に非常に難しくもあります。それは、クリシュナの言葉を真実として受け入れる者には簡単ですが、研究(research work)を通して、知識の発達の力によって(by dint of)理解しようとする者は、非常に多くの研究を終えたあとで自分の信仰を作らねばならず、この過程は多くの誕生を必要とします(this process takes many births)。

完全真理を知っている、タットヴァヴィットと呼ばれる、異なる種類の超越主義者たちがいます(There are different types of transcendentalists, called tattvavit, who know the Absolute Truth、単数?)。超越主義者たちは完全真理を、「その中に二重性のないもの(that in which there is no duality)」と呼びます(訳注:原文はカッコなし)。

完全真理の中には二重性はありません―――すべては同じ水準にあります。これを本当に知っている者(one who knows this in truth)はタットヴァヴィットと呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2014-02-23 10:44 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第4章 後半

第11段落
この体の父親に服従することには何らかの困難があるかもしれません。なぜなら、彼は限定された知識と力を持っているからです。しかし、クリシュナは普通の父親のようではありません。クリシュナは無限であり、完全な知識、完全な力、完全な富、完全な美しさ、完全な名声と完全な放棄を持っています。

私たちは、そのような父(father→ Father)のところへ行って彼の(His)財産を楽しむ自分を幸運だと考えるべきではありませんか?それでも、誰もこれについて関心を持たないように(to care about)見え、そして今、誰もが神はいないという宣伝をしています(to make propaganda、propagandaは主義や主張の宣伝)。

なぜ人々は主を探し求めないのでしょうか(to seek Him out)?答えはバガヴァッド・ギーターの次の節において与えられています。

(サンスクリット引用)

「非常に(grossly、良くないことを強調する表現)愚かで、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれており、そして悪魔の無神論的な性質を帯びた(to partake of)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」(Bg.7.15)

第12段落
このように愚か者は区分されています。ドゥシュクリティーは、いつも聖典の命令に反して活動しています。現在の文明の仕事(business、関心事)は聖典の規則を破ること―――それがすべてです。定義によって、敬虔な人とは、そうしない人です。

ドゥシュクリティー(悪を為す者)とスクリティー(敬虔な人)を区別する何らかの水準がなくてはなりません。すべての文明化された国は、何らかの聖典を持っています―――それはキリスト教、ヒンズー教、イスラム教、あるいは仏教であるかもしれません。

それは関係ありません。要点は、権威の書、聖典があるということです。その命令に従わない者は、無法者(outlaw)と考えられます。

第13段落
この節において言及されているもう一つの区分は、ムーダー、一番の愚か者です。ナーラーダーマは人間の基準において低い者で、マーヤヤーパーリタ・ジニャーナは、その知識がマーヤー、すなわち幻想によって運び去られている(to be carried away)者を指します(訳注:幻想によって知識を見失っている者)。

アースラム・バーヴァム・アーシュリターは、全くの(out and out)無神論者である者を指します。父(Father)に服従することには何の不利益(disadvantage)もないにも関わらず、このように区分される人々は、決してそうしません。

その結果、彼らは常に父(Father)の代理人たちによって罰せられています。彼らは、ひどく叩かれ、鞭打たれ(caned)、蹴られねばならず、そして彼らは苦しまねばなりません。ちょうど、父親が自分の手に負えない(unruly、言うことを聞かない)息子を罰せねば(to chastise、体罰などで厳しく罰する)ならないように、そのため物質自然は特定の罰を与えねば(to employ、適用する)なりません。

同時に、自然は食物と他の必要なものを供給することによって私たちに恵みを与えています(to nourish、栄養を与える)。私たちがすべてのうちで最も豊かな父(Father)の息子であるため、両方の過程が続いています。そして、私たちが主に服従しないにも関わらず、クリシュナは親切です。

それなのに、父(Father)によって非常に良く待遇されている(to be furnished、設備などを与えられる)にも関わらず、ドゥスクリティーはそれでも、許されていない(unsanctioned、はっきりとした公の許可を得ていない)行為を行います。

人は、もしも罰されることに固執するなら(to persist in being punished)愚かであり、もしも生命のこの人間の形をクリシュナを理解するために使わないなら、人間の基準において低位に位置します。もしも人が自分の人生を、自分の本当の父(Father)との間に持っている関係を呼び覚ます(to reawaken)ために使わないなら、彼は人間の基準において堕落していると考えられるべきです(he is to be considered)。

第14段落
動物は単に食べ、眠り、身を守り、性交し、死にます。彼らはより高い意識を利用しません(to avail himself of)。なぜならそれは、生命の、より低い形においては、可能ではないからです。もしも人間が動物の活動に倣って(to follow)、自分の意識を高める能力を利用しないなら(to avail himself of)、彼は人間の基準(の中)を落ちて(he falls down the human scale)、来世における動物の体のために準備をします。

クリシュナの恵み(grace)によって、私たちは高度に発達した体と知性を与えられていますが、もしも私たちがそれを使わないなら、なぜ主はそれらを再び私たちに与えるべきでしょうか?私たちは、この人間の体は何百万年何千万年(millions and millions of years)という進化のあとで発達し、それ自体が(in itself)、その中で800万以上の生命の種が進化する誕生と死の循環から抜け出す機会であると、理解しなければなりません。

この機会は、クリシュナの恵みによって与えられます。そして、もしも私たちがそれを受け取らない(to take)なら、私たちは人間の中で最も低い者ではありませんか?人はどこかの大学からの学位保持者―――修士号(M.A.)、博士号など―――であるかもしれませんが、幻想エネルギーはこの俗的な知識を取り去ります。

本当に知性的である者は、自分は誰であるか、神は誰であるか、物質自然とは何か、なぜ自分は物質自然の中で苦しんでいるのか、そしてこの苦しみへの治療法(remedy)は何かを理解することに自分の知性を使います(to apply)。

第15段落
私たちは、感覚の満足のために自動車、ラジオ、あるいはテレビを製造することに自分の知性を使うかもしれませんが、私たちはこれは知性的ではないと理解しなければなりません。そうではなく(Rather)、これは奪われた(plundered、価値のあるものを取り去られた)知性です。

知性は人生の問題を理解するために人間に与えられましたが、それは誤用されています。人々は、自動車をどうやって製造して運転するかを知っているので、自分たちは知識を得たと考えています。しかし、自動車が現れる前(before the car was here)、人々はそれでも(still)一つの場所から別の場所へ行っていました。

道具(the facility)が増えたというだけですが、この道具と共に、さらなる問題―――空気の汚染と過度に混雑した高速道路―――が訪れます。これはマーヤーです。私たちは道具を作り出していますが、これらの道具は今度は(in their turn、順番に、次に)非常に多くの問題を作り出しています。

第16段落
非常に多くの道具と現代的な設備(amenities)を手に入れる(to supply ourselves with~)ために自分のエネルギーを無駄にする代わりに、私たちは自分は誰で何であるかを理解するために知性を使うべきです。私たちは苦しみたくありません(we do not like to suffer)が、私たちはなぜ苦しみが自分に強いられている(suffering is being forced upon us)かを理解すべきです。

いわゆる知識によって、私たちは単に原子爆弾を製造することに成功しました。こうして、殺す過程が加速しました(killing process has been accelerated)。私たちは、これが知識の発達だと考えて非常に誇っていますが(we are so proud to think~)、もしも死を止めることのできる何かを製造することができるなら、私たちは本当に知識において発達しました(~と言えます)。

死は既に物質自然の中にありますが、私たちは一撃で(at one drop)誰もを殺すことによってそれを促進することに非常に熱心です(so eager to promote it by~)―――これはマーヤヤーパーリタ・ジニャーナ、幻想によってさらわれた(to be carried away)知識と呼ばれます。

第17段落
アースラ、悪魔と、公に宣言した(proclaimed、自他共に認める)無神論者は、実際に主に挑戦します。もしも私たちの至高の主のおかげでなかったら(it it were not for~)、私たちは日の光を見ることもできないでしょう(we would not see the light of the day、日の目を見る、という意味もあるが、この場合は文字通りの解釈でいいと思われる)。

それでは(so)、主に挑戦することの意味(the point)は何でしょうか?ヴェーダにおいて、二つの階層の人間、デヴァとアースラ、半神と悪魔がいると述べられています。デヴァとは誰でしょうか?至高主の献身者はデヴァと呼ばれます。なぜなら、彼らもまた神のようになるからです。

他方で、至高存在の権威を侮る(to defy、挑む、無視する)者はアースラ、すなわち悪魔と呼ばれます。これらの二つの階層はいつも人間の社会の中に見られます。

第18段落
ちょうど、決してクリシュナに服従しない4種類の悪者がいるように、主を崇拝する4種類の幸運な人間がおり、そして彼らは次の節において区分されています。

(サンスクリット引用)
「おお、バーラタの中で最良の者(アルジュナ)よ、4種類の敬虔な人々が私に献身奉仕を行います(to render)―――苦しんでいる者、富を求める者、知識を求める者(the inquisitive)、そして完全存在に関する知識を探し求めている者です。」(Bg.7.16)

第19段落
この物質世界は苦しみに満ちており、そして敬虔な者と非敬虔な者の両方がその影響下にあります。冬の寒さは誰もを同じように扱います(to treat everyone alike)。それは敬虔か非敬虔か(校正:theが抜けている)、富める者か貧しい者かを気にしません(it does not care for)。

しかし、敬虔な者と非敬虔な者の違いは、敬虔な者は自分が悲惨な状況にいるときに神のことを考えるということです。しばしば、苦しんでいるとき、人は教会に行って祈ります。「おお、我が主よ。私は困難な状態にあります。どうか助けてください。」

何らかの物質的な必要物のために祈ってはいるものの、そのような人は、それでも敬虔であると考えられるべきです。なぜなら、彼は苦しみの中で神のところに来たからです。同様に、貧しい人は教会に行って祈るかもしれません。「我が親愛なる主よ、どうか幾らかのお金をください。」

他方で、知識を求める人は普通は知性的です。彼らは物事を理解するためにいつも研究しています(to research)。彼らは、「神とは何だろうか」と尋ねるかもしれず、そしてそれから、(それを)知るために(to find out)科学的な研究をします。彼らもまた敬虔であると考えられます。

なぜなら、彼らの研究は正しい対象に向けられているからです。知識のある者(the man in knowledge)はジニャーニー、自分の本来の立場を理解した者と呼ばれます。そのようなジニャーニーは神について(of)非人格的な概念を持っているかもしれませんが、究極存在(the ultimate)(校正:u→ U)、至高の完全真理の庇護の下にあるので、彼もまた敬虔であると考えられるべきです。

これらの4つの種類の人々はスクリティー、敬虔と呼ばれます―――なぜなら、彼らは皆、神を求めているからです(they are all after God)。

(サンスクリット引用)

「これらの中で、純粋な献身奉仕を通して私との繋がりにおいて(in union with Me)完全な知識を持っている者(in full knowledge)が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく(dear)、そして彼は私にとって非常に愛しいからです。」(Bg.7.17)

第20段落
神に近付く4つの階層の人々のうち、神の性質を哲学的に理解しようとしている者、クリシュナ意識になろうとしている者―――ヴィシシャテ―――が最良の資格があります(best qualified)。実に、クリシュナは、彼(訳注: ヴィシシャテ)は神を理解することの他に仕事を持たない(to have no other business、~にしか関心がない)ので、そのような人はご自分にとって非常に愛しいとおっしゃいます。

その他の者たちは劣っています。誰も、何らのものを求めても神に祈る必要はなく(No one has to ~ to ask for anything)、そしてそうする者は愚かです。なぜなら、彼はすべてをご存知の神が彼の心臓の中におられ、彼が苦しんでいるとき、あるいはお金が必要なときはよく分かっておられる(to be well aware)ことを知らないからです。

賢い人はこれを認識し、物質的な悲惨さからの解放のために祈りません。むしろ、彼は神を讃えて、他の者たちに主がいかに偉大かを知らせるために祈ります。彼は、自分の個人的な利益(interest)、パン、衣服、あるいは住居のために祈りません。

純粋な献身者は、苦しんでいるとき、こう言います。「親愛なる主よ、これはあなたの親切です。あなたはただ私(の過ち)を正す(to rectify、修正する、直す、矯正する)ために私を苦しみの中に置かれました。私はもっと大きな苦しみの中に置かれるべきですが、慈悲からあなたはこれを最小化なさいました。」これが惑わされていない(not disturbed)純粋な献身者の見方です。

第21段落
クリシュナ意識にある者は、物質的な苦しみ、侮辱(insult)、あるいは栄誉を気にしません(to care for)。なぜなら、彼はこれらすべてから離れているからです。彼は、苦しみ、栄誉、そして侮辱は体だけに関係する(to pertain to)のであり、自分は体ではない、とよく知っています。

例えば、魂の不滅を信じていたソクラテスは、死刑を宣告され(to be condemned to death、condemnは判決を下すという意味)、そしてどのように埋葬して(to bury)欲しいかと尋ねられたとき、答えました。「まず、あなたは私を捕まえなくてはならないでしょう(may)。」

このように(so)、自分は体ではないと知っている者は惑わされません(to be disturbed)。なぜなら彼は、魂は捕まえられ得ず、拷問され得ず、殺され得ず、あるいは埋められ得ないと知っているからです。クリシュナの科学に精通している(conversant)者は、自分は体ではなく、自分はクリシュナの欠かすべからざる小片であり、自分の本当の関係はクリシュナとであり、そして自分は物質の体に入れられたにも関わらず、どうにかして(somehow or other)物質自然の3つの性質から離れたままでいなければならない(to remain)と完全に(perfectly well)知っています。

彼は、徳、熱情、あるいは無明の相にではなく、クリシュナに関心があります(to be concerned with、関係がある、関心がある)。これを理解する者はジニャーニー、賢者であり、彼はクリシュナにとって非常に愛しい者です。

苦しんでいる者は、栄華(opulence)の中に置かれたときは神を忘れるかもしれませんが、神の本当の立場を知るジニャーニーは、決して主を忘れないでしょう。

第22段落
非人格的な存在を崇拝するのは難し過ぎるので、神の形(a form of God)が想像されねばならない、と言う、非人格主義者と呼ばれるジニャーニーの階層があります(訳注:~と呼ばれる~は、~なので~しなければならないと言います)。

これらは本当のジニャーニーではありません―――彼らは愚か者です。誰も神の形を想像することはできません。なぜなら、神は非常に偉大だからです。人は何らかの形を想像するかもしれませんが、それはでっちあげたもの(concoction)です。それは本当の形ではありません。

神の形を想像する者たちがおり、神の形を否定する者たちがいます。どちらもジニャーニーではありません。形を想像するものは聖像破壊主義者(iconoclasts)と呼ばれます。インドでのヒンズー教徒とイスラム教徒の戦い(riots)の間、一部のヒンズー教徒たちはイスラム教徒の寺院(mosque)に行って神の彫刻や像(statues and images)を壊し、イスラム教徒も同じような方法で報復しました(to reciprocate)。

(訳注:このくだりは内容がよく分かりません。イスラム教の神像とは何のことか、また、形を想像する者が聖像破壊主義者になるのもなぜか分かりません。)

このようにして彼らはどちらも「私たちはヒンズー教の神を殺した。私たちはイスラム教徒の神を殺した」などと考えていました。同様に、ガンジーが自分の抵抗運動を率いていたとき、多くのインド人は道に行って郵便箱を壊し、そしてこのようにして自分たちは政府の郵便制度(postal service)を滅ぼしていると考えました。

そのような精神性の人々はジニャーニーではありません。ヒンズー教徒とイスラム教徒、そしてキリスト教徒と非キリスト教徒の間の宗教的な戦争は、すべて無明に基づいて行われました(to be conducted、指揮する、行う)。知識のある者は、神は一つであると知っています。主は、イスラム教徒、ヒンズー教徒、あるいはキリスト教徒ではあり得ません。

第23段落
神はああであり、こうである(such and such and such and such)というのは、私たちの想像です。それはすべて想像です。本当の賢者は、神は超越的であると知っています。神は物質的な相を超越していると知っている者は、本当に神を知っています。

神はいつも私たちの傍らに、私たちの心臓の中にいらっしゃいます。私たちが体を去るとき、神は私たちと共にいらっしゃいます(to go)。そして私たちがもう一つの体を得る(to take on)とき、主は、ただ私たちが何をしているかを見るために、私たちと共にそこに行かれます。

私たちはいつ自分の顔を主に向けるのでしょうか?主はいつも待っておられます。私たちが自分の顔を神に向ければ直ちに、主はおっしゃいます。「我が親愛なる息子よ、いらっしゃい―――サ・チャ・ママ・プリヤー―――あなたは永遠に私にとって愛しい者です。今、あなたは自分の顔を私に向けており、そして私は大変喜んでいます。」

第24段落
賢者、ジニャーニーは、実際に神の科学を理解しています。「神は良い」とだけ理解する者は予備的な(preliminary、準備の)段階にありますが、神がいかに偉大で良いかを実際に理解する者たちは、さらに発達しています。その知識は、シュリマッド・バーガヴァタムとバガヴァッド・ギーターにおいて得られます(~is to be had)。実際に神に興味のある者は、神の科学、バガヴァッド・ギーターを学ぶべきです。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるアルジュナよ、あなたは決して私を羨まない(envious、ねたむ)ので、わたしはあなたにこの最も秘密な知恵(wisdom)を授けます(to impart)。それを知ると、あなたは物質的な存在の悲惨さから解放されるでしょう。」(Bg.9.1)

第25段落
バガヴァッド・ギーターにおいて授けられた神の知識は非常にかすか(subtle、微妙、繊細、難解)で内密(confidential)です。それはジニャーナ、形而上学的な知恵(metaphysical wisdom、抽象的、哲学的、難解)、そしてヴィジニャーナ、科学的な知識に満ちています。そしてそれは神秘に満ちてもいます。

人はどうやってこの知識を理解することができるでしょうか?それは神ご自身、あるいは神の真正なる代理人によって授けられねばなりません。したがってシュリー・クリシュナは、神の科学を理解することに意見の不一致(discrepancy、矛盾、食い違い)があるときは、いつでも自らおいでになる(He incarnates Himself)とおっしゃいます。

第26段落
また、知識は感傷から来るのでもありません。献身は感傷ではありません。それは科学です。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはこうおっしゃいます。「ヴェーダの知識への参照がない霊性の見せびらかし(show)は、単に社会への妨害(disturbance、邪魔、騒動の種)です。」

人は、道理(reason、理性、判断力、良識)、議論、そして知識によって献身の甘露を味わわねばならず、そしてそれから彼はそれを他の者たちに渡さねば(to pass it on to、次にまわす)なりません。人はクリシュナ意識は単なる感傷だと考えるべきではありません。

踊ることと歌うことは、すべて科学的です。科学があり、そして愛情ある交換(reciprocation、返礼)もあります。クリシュナは賢者にとって非常に愛しく、そして賢者はクリシュナにとって非常に愛しいのです。クリシュナは私たちの愛を千倍にしてお返しになります。

私たち有限な(finite)生物は、クリシュナを愛するためのどんな力(capacity)を持っているでしょうか?しかし、クリシュナは愛のための莫大な(immense)力―――無限の力をお持ちです。
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さてさて、苦しいときはどう言えばよいか、ちゃ~んと書いてありましたね。さすがはプラブパーダ、私の現在の苦境をお見通しです。なかなか素直にそう言えないのですが、胸に手を当てて反省すれば、うーん、確かにほんとはもっとでっかい罰をくらっても仕方のないようなことをしてしまったかもしれないような。。。そう、したよね、やっぱり。。。というわけで、ただいま個人的にちょっと割引サービスの艱難辛苦を頂戴しております。因果応報、こういうときはおとなしく反省してクリシュナに反省文を提出し、刑期満了を待とうと思います。
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by ammolitering4 | 2014-02-21 14:56 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(2)

第4章 前半

第4章 愚者の道と賢者の道
The Roads of the Foolish and the Wise

第1段落
クリシュナはこのようにご自分をありのままにご説明なさっています。それでも私たちは主に魅了されていません。これはなぜでしょうか?理由はクリシュナご自身によって与えられています。

(サンスクリット引用)
「物質自然の3つの相から成る、私のこの神聖なるエネルギーは、乗り越える(to overcome)のが困難です。しかし、私に服従した者は、簡単にそれを乗り越える(to cross beyond)ことができます。」(Bg.7.14)(訳注:この引用文は本文の内容と合っていない。)

第2段落
物質世界には物質自然の3つの性質が満ちています(is pervaded by、浸透する、充満する)。すべての生命体は、これらの性質によって影響されます。もしも主として徳の相によって影響されるなら、彼らはブラーマナと呼ばれ、そしてもしも熱情の相によって影響されるなら彼らはクシャトリヤと呼ばれます。

もしも熱情と無明の相によって影響されるなら彼らはヴァイシャであり、そしてもしも無明によって影響されるなら、彼らはシュードラです。これは誕生あるいは社会的な階級による人工的な押し付け(imposition、義務などを課すこと)ではなく、人がその下で機能しているグナ、すなわち自然の相に応じたものです。

(サンスクリット引用)
「物質自然の3つの相、およびそれらに対応する(ascribed to、~に帰する)仕事に応じて、人間社会の4つの区分が私によって作られました。そして、私はこの制度の創造者ではありますが、不変であるため、私はそれでも非行為者であると、あなたは知るべきです。」(Bg.4.13)

第3段落
この制度がインドの歪んだカースト制度を指しているというのではありません。シュリー・クリシュナは特にこう述べられます。グナ・カルマ・ヴィヴァーガシャー、人はその下で自分が機能しているグナ、すなわち相に応じて区分され、そしてこれは宇宙全体の人々に当てはまります。

クリシュナがお話しになるとき、私たちは、何であれ主がおっしゃることは制限されておらず、宇宙全体で(universally、普遍的に)正しいと理解しなければなりません。主はすべての生命体の父であると主張なさいます―――動物、水生生物、木、草(plants)、毛虫(worms、這う虫)、鳥、そして蜂さえも、皆、主の息子たちである、と主張されます。

シュリー・クリシュナは、宇宙全体が物質自然の3つの性質の相互作用によって幻惑されていて、私たちはその幻想の魔力の下にある、と断言なさいます(to assert)。したがって、私たちは神が何であるか理解することができません。

第4段落
この幻想の性質(nature)は何で、そしてそれはどうやって乗り越えられ得るでしょうか?それもまた、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。

(サンスクリット引用)

「物質自然の3つの相から成る、私のこの神聖なるエネルギーは、乗り越える(to overcome)のが困難です。しかし、私に服従した者は、簡単にそれを乗り越える(to cross beyond)ことができます。」(Bg.7.14)(訳注:第1段落に出てきた引用文と同一。)

第5段落
誰も、精神的な推量によって物質自然の3つの性質の呪縛(entanglement)を捨てることはできません。3つのグナは非常に強く、乗り越えるのは困難です。私たちは、自分がいかに物質自然の呪縛(grip、掴むこと)の中にあるかを感じることができませんか?

グナ(相)という単語は、縄も意味します。ある人が3本の強い縄で縛られているとき、彼は確かに非常にしっかりと捕らえられています。私たちの手と脚はすべて、徳、熱情、そして無明という強い縄によって縛られています。

それでは、私たちは望みを捨てるべきでしょうか(Are we therefore to abandon hope?)?いいえ、なぜなら、ここでシュリー・クリシュナが、誰であれご自分に服従する者は直ちに自由になると約束なさるからです。人がクリシュナ意識になるとき―――この方法であれ、あの方法であれ(訳注:どんな方法ででも)――-彼は自由になります。

第6段落
私たちは皆、クリシュナと関係があります(to be related)。なぜなら、私たちは皆、主の息子だからです。息子は自分の父親と意見の不一致があるかもしれませんが、彼にとってその関係を壊すことは可能ではありません。

人生において(in the course of his life)、彼は自分が誰であるかと尋ねられます。そして彼は、「私は誰それの息子です」と答えねばなりません。その関係は壊され得ません。私たちは皆、神の息子であり、主とのその関係は永遠ですが、私たちは単に忘れてしまっています。

クリシュナは完全に力強く(all-powerful)、完全に有名で、完全に豊かで、完全に美しく、完全に知識があり、そして主は放棄にも満ちています。そのような素晴らしい人物(personality、強烈で魅力的な性質の持ち主、名士)の友人であるにも関わらず、私たちはそれを忘れてしまいました。

もしも豊かな人の息子が自分の父親を忘れ、家を離れて狂うなら、彼は路上に横たわって眠りにつくかもしれず、あるいは食物のためにお金を乞うかもしれません。しかし、これらすべては彼の忘却によるものです。

しかし、もしも誰かが彼に、彼は単に自分の父親の家を去ったから苦しんでおり(simply suffering because~)、そして大変な金持ちで、莫大な財産(vast property、広大な土地)の所有者である彼の父親は、彼が戻るのを待ち望んでいるという情報を与えるなら―――その人は偉大な恩人(benefactor)です。

第7段落
この物質世界では、私たちはいつも三重の悲惨さ―――体と心から、他の生命体から、そして天災から生じる悲惨さの下で苦しんでいます。幻想によって、物質自然の相によって覆われているので、私たちはこれらの悲惨さを考慮しません(to take account of)。

しかし、私たちはいつも、物質世界においては私たちは非常に多くの苦しみを受けている(to undergo、苦しみを耐え忍ぶ、経験する)と知っているべきです。十分に意識を発達させた者、知性的な者は、なぜ自分は苦しんでいるのかと問います。

「私は悲惨さを望まない。なぜ私は苦しんでいるのだろう?」この問いが生じるとき、クリシュナ意識になるための機会があります。

第8段落
クリシュナに服従すれば直ちに、主は私たちを非常に手厚く(cordially)迎えられます。それはちょうど、自分の父のもとに戻ってこう言う、迷っていた子供のようなものです。「我が親愛なるお父さん、何らかの誤解のせいで、私はあなたの保護を離れましたが、私は苦しみました。今、私はあなたのもとに戻ります。」

父親は自分の息子を抱きしめ、こう言います。「我が親愛なる息子よ、いらっしゃい。私はあなたがいなくなっていた日々、ずっと、非常にあなたを案じていました。そして今、あなたが戻ってきて、私は非常に幸せです。」

父親は非常に親切です。私たちは同じ立場にいます。私たちはクリシュナに服従せねばならず、それはあまり難しくありません。息子が父親に服従するとき、それは非常に難しい仕事でしょうか?それは非常に自然で、父親はいつも息子を受け入れるのを待っています。無礼(insult、侵害、侮辱)の可能性はありません。

もしも私たちが自分の至高の父の前にひれ伏して(to bow down)、主の御足に触れるなら、私たちに害(harm、差し支え、不都合、危害)はなく、それは難しくもありません。実に、それは私たちにとって名誉(glorious)なことです。なぜ私たちはそうせずにおくべきでしょうか(Why should we not?、そうしない理由があるだろうか、ぜひそうしよう)?

クリシュナに服従することによって私たちは直ちに主の保護の下に来て、すべての悲惨さから解放されます。これはすべての聖典によって確認されています(to validate)。バガヴァッド・ギーターの終わりにシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)
「すべての種類の宗教を放棄して、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」(Bg.18.66)

第9段落
自分を神の足元に投げ出すとき、私たちは主の保護の下に来て、そしてそのときから先は私たちには恐れはありません。子供たちが自分の親たち(parents)の保護の下にあるとき、彼らは恐れを知りません(fearless)。

なぜなら、彼らは自分の親たちは自分に危害が加わるようにはしないと(訳注:親たちがいる限り自分は安全だと)知っているからです。マーム・エヴァ・イェ・プラパデャンテ、クリシュナは、ご自分に服従する者は恐れの原因を持たない(訳注:何も恐れるものはない)と約束なさいます。

第10段落
もしもクリシュナに服従することがそんなに簡単なことなら、それならなぜ人々はそれをしないのでしょうか。その代わり、自然と科学がすべてであり、神は無である(God is nothing、この場合のnothing には、取るに足らないつまらないものという意味がある)と主張して神の存在そのものに挑戦している多くの人々がいます。

いわゆる、知識における文明の発達は、大衆(populace)がもっと狂ってきているということを意味します。癒される代わりに、病が増えています。人々は神は好みません(to care for~)が、自然は好み、そして三重の悲惨さという形で苦しみを与える(to give kicks)のは自然の仕事です。

彼女(訳注:自然)は、いつも、一日24時間これらの苦しみを与えて(to administer、薬などを与える、規則や儀式を執り行う)います。しかし、私たちは蹴られる(訳注:苦しめられる)ことに非常に慣れてしまっているので、それで構わない(all right)と考え、それを物事の普通のあり方であると考えます。

私たちは自分たちの教育を非常に誇らしく思うようになりましたが、私たちは物質自然にこう言います。「私を蹴ってくれて本当にありがとうございます。さあ、続けてください。」こうして幻惑されているので、私たちは自分たちは物質自然を征服さえしたと考えます。

しかし、どうしてこれがそうなのでしょうか(訳注:そんなことがあるでしょうか)?自然は今も私たちの上に、誕生、老い、病、そして死という悲惨さを与えています(to inflict upon~)。誰か(any one)これらの問題を解決したでしょうか?

それなら、私たちは知識と文明において、実際に何の発達をしたでしょうか?私たちは物質自然の非常に厳しい(stringent)規則の下にありますが、それでも私たちは、自分たちは征服したと考えています。これはマーヤーと呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2014-02-19 14:10 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(2)

第3章 最後まで

第16段落
このシュラヴァナム・キールタム―――聞くことと唱えること―――という方法(process)は、主チャイタンニャ・マハープラブによって認められました。主チャイタンニャが主の友人であって偉大な献身者であるラーマーナンダ・ラーヤと話しておられたとき、主は彼に霊的な認識の方法についてお尋ねになりました。

ラーマーナンダはヴァルナーシュラマ・ダーマ、サンニャーサ、仕事の放棄、そして非常に多くの他の方法を勧めましたが、主チャイタンニャは「いいえ、これらすべては、あまり良くありません」とおっしゃいました。ラーマーナンダ・ラーヤが何かを提案するたびに、主は霊的な発達のためのより良い方法を求めて(to request)それを却下しました。

最後にラーマーナンダ・ラーヤは、推量によって究極の真理に至ることは可能ではないため、人が神を理解するための精神的な推量におけるすべての不必要な努力を放棄することを勧めるヴェーダの格言(aphorism)を引用しました。

例えば科学者は遠い星や惑星について推量するかもしれませんが、彼らは経験なくしては決して何らの結論にも達することはできません。人は生涯を通して推量し続け、決して何らの結論にも至らないかもしれません。

第17段落
神について推量することは特に無駄です。したがってシュリマッド・バーガヴァタムは、あらゆる推量は放棄されるべきであると勧めます。その代わり、人は自分が取るに足らない生き物であるだけでなく、この地球は大きな(great)宇宙の中の一つの点に過ぎないことを認識して従順(submissive)になることが勧められています。(訳注: submissiveを「受動的、消極的」と訳してある場合もあるようですが、素直に聞いて受け入れる、という意味なので「従順」のほうが適切であるように思います。)

ニューヨーク市は非常に大きいように見えるかもしれませんが、地球はとても小さな場所(spot)で、地球上でアメリカ合衆国も小さな点に過ぎず、そして合衆国の中でニューヨーク市は小さな点に過ぎず、そしてニューヨークの中で個人は何百万人の中の一人に過ぎないことを認識するとき、そのとき人は自分は結局それほど重要でもない(not so very important)ことを理解することができます。

宇宙と神の前での(in the face of ~)自分の取るに足らなさを認識して、私たちは人工的に驕り高ぶる(to be puffed-up)べきではなく、従順であるべきです。私たちはカエルの哲学に陥らないように(to fall prey to ~)非常に注意深くあるべきです。

昔、井戸にカエルがいて、友人に大西洋の存在を教えられると、彼は友人に尋ねました。「おお、この大西洋というのは何ですか?」

「それは巨大な水溜り(a vast body of water)です」と彼の友人は答えました。

「どれくらい巨大なのですか?(How vast?)それはこの井戸の2倍くらいですか?」

「いえいえ、もっともっと大きいのです」と彼の友人は答えました。

「どれくらい大きいのですか?(How much larger?)10倍ですか?」このようにしてカエルは計算し続けました。しかし、彼が大海の大きさ(the depths and far reaches)を理解する可能性が少しでもあるでしょうか(what is the possibility of his ever understanding ~)?

私たちの能力(faculties)、経験、そして推量の力はいつも限られています。私たちはそのようなカエルの哲学を生む(to give rise to ~)ことができるだけです。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは、至高存在を理解しようとすることにおいて時間の無駄であるとして、推量という方法を放棄することを勧めます。

第18段落
推量を放棄した後で、私たちは何をすべきでしょうか?バーガヴァタムは、私たちが従順になって神の言葉(message)を従順に聞くことを勧めます。この言葉はバガヴァッド・ギーターそして他のヴェーダ文献の中にも―――どの真正なる聖典の中にも―――あるかもしれず、あるいは自己を認識した魂から聞かれるかもしれません。

要点は、人は推量すべきではなく、単に神について聞くべきであるというものです。そのようにして聞くことの結果は何でしょうか?人が何であれ―――貧しい人であれ豊かな人であれ、アメリカ人、ヨーロッパ人、あるいはインド人であれ、ブラーマナ、シュードラ、あるいは他の何であれ―――もしも人が神の超越的な言葉を聞くことさえすれば、どのような力(power or force)によっても決して征服され得ない主は、愛によって征服されます。

アルジュナはクリシュナの友人でしたが、至高神でありながらクリシュナはアルジュナの戦車の運転手、
卑しい(訳注:menial、身分が卑しいという意味ではなく、仕事が熟練を要しないいわゆる単純労働や召使いの仕事である形容)従者になりました。

アルジュナはクリシュナを愛しており、クリシュナは彼の愛をこのようにして報いられました(to reciprocate)。同様に、クリシュナが子供だったとき、主はふざけて(playfully)ご自分の父、ナンダ・マハーラージャの靴を取り、それらをご自分の頭に乗せました。

人々は神と一つになるために非常に熱心に試みるかもしれませんが、実際は私たちはそれを超えることができます―――私たちは神の父親になることができるのです。もちろん、神はすべての生き物の父であり、主はご自分では父親をお持ちでありません。

しかし、主はご自分の献身者、ご自分の恋人(His lover)を父親として受け入れられます。クリシュナは愛のために(out of love)ご自分の献身者によって征服されることに同意なさいます。人がしなければならないことのすべては、主のお言葉を非常に注意深く聞くことです(人は~しなければならないだけです。)

第19段落
バガヴァッド・ギーターの第7章において、シュリー・クリシュナは、主が人生のすべての歩みにおいて知覚され得る更なる方法を示されます(訳注:常に主を感じているための~)。
(サンスクリット引用)
「私は土(訳注:the earth、普通はthe をつけてEを大文字にした場合が「地球」ですが、そうしない場合もあります。この場合は次が「火」なので対応して単に「土」であると思われます)のもともとの香りであり、私は火の中の熱です。私はすべての生けるものの命であり、そして私はすべての苦行者(ascetics)の苦行(penances)です。」(Bg.7.9)

第20段落
プニョ・ガンダーという言葉は香りを指します。クリシュナだけが味(flavors)と香りを作り出すことができます。私たちは人工的に何らかの匂いや香りを作るかもしれませんが、これらは自然の中に生じるもともとのものほど良くありません。良い自然の香りを嗅ぐとき、私たちは「おお、ここに神がいる。ここにクリシュナがいる」と考えることができます。

あるいは、何らかの自然の美を見るとき、私たちは「おお、ここにクリシュナがいる」と考えることができます。あるいは、何か珍しい(uncommon)、力強い、あるいは素晴らしいものを見るとき、私たちは「ここにクリシュナがいる」と考えることができます。

あるいは、何らかの生命の形を見るとき、それが木、植物、あるいは動物、あるいは人間においてであれ、私たちはこの生命はクリシュナの欠かすべからざる小片であると理解すべきです。なぜなら、クリシュナの欠かすべからざる小片である霊的な火花が体から取り除かれれば、直ちに体は朽ちる(to disintegrate、組織が崩壊する)からです。
(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、私はすべての存在のもともとの種、知的な者の知性、そしてすべての力強い者の力(prowess)であると知りなさい。」(Bg.7.10)

第21段落
ここで再び、クリシュナはすべての生ける者の生命である、と明白に(explicitly)述べられています。そのため(Thus、こうして)常に(at every step)私たちは神を見ることができます。人々は「あなたは私に神を見せることができますか?」と尋ねるかもしれません。はい、もちろんです。

神は非常に多くの方法(ways)で見られ得ます。しかし、もしも人が自分の目を閉じて「私は神を見まい」と言うなら、それなら主はどうやって見せられ得るでしょうか?

第22段落
上の節で、ビージャムという単語は種を意味し、そしてその種は永遠(サナータム)であると宣言(to proclaim)されます。人は巨大な木を見るかもしれませんが、この木の源は何でしょうか?それは種であり、そしてその種は永遠です。存在の種はすべての生命体の内にあります。

体そのものは非常に多くの変化を経るかもしれません―――それは母親の子宮の中で育ち、小さな赤ん坊として出てきて、子供時代と大人の時期を通して発達するかもしれません―――しかし、内にあるその存在の種は永遠です。したがって、それはサナータムです。

知らず知らずのうちに(訳注:Imperceivably、”perceivable”は「知覚できる」の意)、私たちは毎瞬間に、毎秒ごとに自分の体を変えています。しかしビーシャム、種、霊的な火花は変わりません。クリシュナはご自分をすべての存在の中のこの永遠の種であると宣言なさいます。

主は知的な人の知性でもあります。クリシュナによって恵まれる(to be favored)ことなくしては、人は卓越して知性的になることはできません。誰もが他の者たちより知性的であろうとしていますが、クリシュナの恵みなくしてはこれは可能ではありません。

したがって、卓越した知性を持った誰かに会った(to encounter、偶然出会う、遭遇する)ときはいつでも、私たちは「その知性はクリシュナだ」と考えるべきです。同様に、非常に影響力の強い(influential)人の影響力(influence)もまたクリシュナです。
(サンスクリット引用)

「私は、強く、熱情と欲望のない者の力です(I am the strength of the strong, devoid of passion and desire)。私は宗教的な原則に反しない(not contrary)性生活です、おお、バーラタの主(アルジュナ)よ。」(Bg.7.11)

第23段落
象とゴリラは非常に強い動物であり、私たちは彼らは自分の力をクリシュナから得ると理解すべきです。人間は自分自身の努力によってそのような力を得ることはできませんが、もしもクリシュナがそのように恵みを与えるなら、人間は象を何千倍も超える力を得ることができます。

クルクシェトラの戦いで戦った偉大な戦士ビーマは、象の一万倍の力を持っていると言われました。同様に、欲求あるいは宗教的な原則に反しない欲望(lust、主に性的な欲望を指す)(カーマ)もまたクリシュナとして見られるべきです。この欲望とは何でしょうか?

欲望は一般的には性生活を意味しますが、ここでカーマは宗教的な原則に反しない性生活、つまり良い子供を得る(to beget)ための性交を指します。もしも人が良いクリシュナ意識の子供を得ることができるなら、彼は何千回も性交をすることができます。

しかし、もしも彼が猫や犬の意識において育てられる子供を作ることしかできないなら、彼の性生活は非宗教的であると考えられます。宗教的で文明化された社会では、結婚は夫婦が良い子供たちを得るために性交にいそしむことのしるし(indication)となることを意図しています(is intended)(~のためにあります)。

したがって、結婚における性生活は宗教的だと考えられ、そして結婚によらない性生活は非宗教的だと考えられます。実際は、もしも家庭人の性的な活動が宗教的な原則に基づいているなら、サンニャースィーと家庭人の間に違いはありません。
(サンスクリット引用)

「存在のすべての状態(訳注:All states of being、どんな状態のどんなものも)は―――それが徳、熱情あるいは無明のものであれ―――私のエネルギーによって顕現します。私は、ある意味では、すべてです―――しかし私は独立しています。私はこの物質自然の相の下にありません。」(Bg.7.12)

第24段落
人はクリシュナにこのように尋ねるかもしれません。「あなたは、ご自分は音、水、光、香り、すべてのものの種、力、そしてカーマであるとおっしゃいます―――それはあなた(you →You)が単に徳の相に存在するということを意味するのですか?」

物質世界には、徳、熱情、そして無明の相があります。これまでのところ、クリシュナはご自分を良いもの(例えば宗教的な原則にのっとった結婚における性交)として描写なさいました。しかし、他の相に関してはどうでしょうか?クリシュナはそれらには存在なさらないのでしょうか?

答えとして、クリシュナは、何であれ物質世界において見られるものは物質自然の3つの相の相互作用によるとお答えになります。何であれ見られる(to observe)ものは徳、熱情あるいは無明の組み合わせであり、すべての場合において、これらの3つの状態は「私によって作られます」。

クリシュナによって作られるため、それらの立場は主の内にありますが、主はそれらの中にはありません。なぜなら、クリシュナご自身は3つの相を超越していらっしゃるからです。このように、別の意味では、無明によって作られる悪くて邪悪なものもまた、それらがクリシュナによって用いられる(to apply、当てはめる、適用する)とき、クリシュナです。これはどういうことでしょうか?

たとえば、電気技師は電気的なエネルギーを作り出しています。家庭では私たちはこの電気エネルギーを冷蔵庫では冷たさとして、あるいは電気ストーブ(訳注:stove、調理用コンロという意味もある)では熱として経験しています。しかし、発電所では電気エネルギーは冷たくも熱くもありません。

このエネルギーの顕現は生命体にとっては異なるかもしれませんが、クリシュナにとってはそれらは異なりません。したがって、クリシュナは時として熱情あるいは無明の原則であるように見えるものに基づいて活動なさいますが、クリシュナにとってはクリシュナしかありません。

ちょうど、電気技師にとっては電気エネルギーは単に電気であって他の何でもないようなものです。彼は、これは「冷たい電気」あるいはあれは「熱い電気」といって区別することはしません。

第25段落
すべてはクリシュナによって作られています(to generate、引き起こす、発生させる、生成する)。実に、ヴェダーンタ・スートラはこう確認します。アタート・ブラーマ・ジジニャーサー・ジャンマーディ・アシャ・ヤター、すべては至高の完全真理から流れ出しています。

生命体が良いあるいは悪いと考えているものは、生命体にとってだけ、そうです。なぜなら彼は制約されているからです。しかしクリシュナは制約されていないので、主にとっては悪いあるいは良いという可能性はありません(there is no question of ~、~ということはありえません)。私たちは制約されているので、私たちは二重性によって(from)苦しんでいます。しかし、主にとってはすべては完璧です。
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by ammolitering4 | 2014-01-21 19:34 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第3章 第15段落まで

第13段落
オームで始まるヴェーダのマントラを唱えるときも、私たちはクリシュナを思い出すことができます。ハレ・クリシュナのように、オームもまた神を指すものであり(an address to God)、そしてオームはクリシュナでもあります(訳注:om is also Krishna、「オームもまたクリシュナです」とも読めます)。

「シャブダー」は音を意味し、そして何かしらの音を聞くときはいつでも、私たちはそれはもともとの音、純粋な霊的な音オームすなわちハレ・クリシュナの振動であると知るべきです。何であれ私たちが物質世界において聞く音は、そのもともとの霊的な音オームの反映に他なりません(is but a reflection of ~)。

このように、音を聞くとき、水を飲むとき、何らかの光を見るとき、私たちは神を思い出すことができます。もしもこれをすることができるなら、それならいつ私たちは神を思い出さずにいるでしょうか(When will we not ~)?

このように、私たちはクリシュナを一日24時間思い出していることができ、そしてこのようにしてクリシュナは私たちと共にいらっしゃいます。もちろん、クリシュナはいつも私たちと共にいらっしゃいますが、私たちがこれを思い出せば直ちに、主の存在は事実的であり(訳注:is factual, ~となり)、感じられます。

第14段落
神と関わるための9つの異なる方法(processes)があり、最初の関わり方(method)はシュラヴァナム―――聞くことです。バガヴァッド・ギーターを読むことによって、私たちはシュリー・クリシュナのお話を聞き、それは私たちが実際にクリシュナすなわち神と関わっていることを意味します。

(私たちは、クリシュナについて話すときは神を指しているということを、いつも覚えているべきです。)
私たちが神と関わる限り(Inasmuch)、そして私たちがクリシュナの言葉と主の御名(訳注:複数)を聞き続けるにつれて(as we go on hearing)、物質自然の汚染は減ります。

クリシュナが音、光、水、そして非常に多くの他のものであると理解すると(in understanding that ~)、クリシュナを避けるのは不可能になります。もしも私たちがクリシュナをこのように思い出していることができるなら、私たちの主との関わりは永遠です。

第15段落
クリシュナとの関わりは、太陽光との関わりのようなものです。太陽光があるところには、汚染はありません。人が外に出て太陽の紫外線の中にいる限り(out in the ultraviolet rays)、彼は病気になりません。西洋の医学では太陽光が様々な病気に勧められており、ヴェーダによれば病人は治癒のために太陽を崇拝すべきです。

同様に、もしも私たちがクリシュナ意識においてクリシュナと関わるなら、私たちの病(訳注:maladies、主に慢性的な病を指す)は癒されます。ハレ・クリシュナを唱えることによって私たちはクリシュナと関わることができ、そして私たちは水をクリシュナとして、太陽と月をクリシュナとして見ることができ、そして私たちは音の中にクリシュナを聞くことができ、水の中に主を味わうことができます。

不幸にして、現在の状況では、私たちはクリシュナを忘れてしまっています。しかし今、私たちは主を思い出すことによって自分の霊的な人生を蘇らせねばなりません(to revive)。
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都合でほんのちょっとだけお届けします。マイペースでのんびりと、しかし一歩一歩着実に、、、いや、実際には途中で道草とか回り道とか、3歩進んで2歩下がったりしていますけど、それでもぼちぼちとクリシュナのもとへ歩み続けたいものです。
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by ammolitering4 | 2014-01-07 07:12 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第3章 第12段落まで

第3章 どこででも、そしていつでもクリシュナを見る

第1段落
私たちの実際の(practical)人生において、クリシュナは私たちにどのようにしてクリシュナ意識を目覚めさせる(to invoke、霊などを呼び出す、想起させる)かをお教えになります。私たちが自分の義務を果たすのを止めるべきである(we are to ~)、あるいは活動をしなくなる(to cease from)べきである、というのではありません。

そうではなく(Rather)、活動はクリシュナ意識においてなされねばなりません。誰もが人生において仕事(vocation、職業。適性、使命などの意味もある)を持っていますが、どのような(what)意識において彼はそれをするでしょうか(to enter upon、職務につく、始める)。

誰もが「おお、私は自分の家族を維持するために仕事(vocation)を持たねばならない」と考えています。社会、政府、あるいは家族が満足させられねばならず、誰もそのような意識から自由ではありません。どのような活動でも、よく(nicely)遂行するためには人は正しい意識にあらねばなりません(to be in proper consciousness)。

意識がかき乱されている(agitated)者、狂人のようである者は、どんな義務も果たすことができません。私たちは自分の義務を正しく遂行すべきですが、クリシュナを満足させることを考えながらそれをすべきです。自分の仕事の過程(our process of work)を変えねばならないというのではありませんが、私たちは自分が誰のために働いているかを考えねばなりません。

どんな活動であれ、遂行しなければならないことを私たちはしなければなりませんが、私たちはカーマ、欲望によって流されるべきではありません。カーマというサンスクリットの単語は、欲(lust)、望み(desire)、あるいは感覚の満足を指すために使われます。

シュリー・クリシュナは、私たちはカーマすなわち(or)自分の欲(our own lust)の満足のために働くべきではないとお教えになります。バガヴァッド・ギーターの教えのすべてはこの原則に基づいています。

第2段落
アルジュナは、自分の親戚と戦うことから退く(to refrain from)ことによって自分の感覚を満足させたがりましたが、クリシュナは至高存在の満足のために自分の義務を遂行することを納得させるために(to convince him to ~)彼にお話しになりました。

物質的には、彼が王国への権利(claim)を放棄して自分の親戚を殺すことを拒んでいるというのは非常に敬虔(pious)であるように見えるかもしれませんが、クリシュナはこれを認めませんでした。なぜなら、アルジュナの決心の原則(principle)は自分自身の感覚を満足させることだったからです。

人の事業(business)あるいは職業は変えられる必要がありません(need not be changed)―――ちょうど、アルジュナのそれが変えられなかったように―――しかし人は自分の意識は変えねばなりません(one does have to change、強調表現)。

この意識を変えるためには、しかし、知識が必要とされます。その知識は、「私はクリシュナの、クリシュナの優性なるエネルギーの欠かすべからざる小片(part and parcel)である」と知ることです。それが本当の知識です。相対的な知識は私たちにどうやって機械を直すかを教えるかもしれませんが、本当の知識は、クリシュナにとって必須である(integral、完全体を成すのに不可欠な)という私たちの立場を知ることです。

主の部分であるため、部分的であるわたしたちの喜びは(our pleasure, which is partial)全体に依存しています。たとえば、私の手はそれが私の体についていてそれに奉仕をするとき、喜びを感じます(to take pleasure)。それは他の人の体に奉仕をすることには喜びを感じません(It does not take pleasure in serving another's body)。

私たちはクリシュナの一部であるため、私たちの喜びは主に奉仕をすることにあります。「私はあなたに奉仕をして幸せにはなれない(I cannot be happy serving you)」(訳注:ここで youは小文字になっていますが、クリシュナに対する呼びかけと考えるなら大文字にすべきところです。)と誰もが考えています。しかし、誰も自分(the self)が誰かを知りません。その自分(that self)はクリシュナです。
(サンスクリット引用)

「この制約された世界の中の生命体は私の永遠の小片(eternal, fragmental parts)です。制約された人生(life)のため(due to ~、~が原因で)、彼らは心を含む6つの感覚で大変苦しんでいます。」(Bg. 15.7)

第3段落
ジーヴァ、すなわち生命体は、今は物質的な接触が原因で全体から切り離されています。したがって、私たちにとって、自分の中にある(latent、潜んでいる、潜在的な)クリシュナ意識を通して再び自分自身を(訳注:クリシュナに)つけようとすることが必要です。

人工的に、私たちはクリシュナを忘れて独立的に生きようとしていますが、これは可能ではありません。クリシュナから独立して生きようとするとき、私たちは物質自然の法の影響の下に来ます。もしも人が自分はクリシュナから独立していると考えるなら、彼はクリシュナの幻想エネルギーに依存するようになります。

ちょうど、もしも人が自分は政府とその規則から独立していると考えると、彼は警察(police force)に依存するようになるようにです。誰もが独立的になろうとしており、そしてこれはマーヤー、幻想と呼ばれます。個人でも、共同体としても、社会としても、国家としても、あるいは宇宙としても(universally)、独立的になることは可能ではありません。

自分は依存的であると気づくようになるとき、私たちは知識を得たのです(we will have attained knowledge)。今日では、非常に多くの人々が世界の平和のために(for peace in the world)努力していますが、彼らはどうやってその平和の方法(formula)を実行する(to implement)かを知りません。国際連合は長年の間、平和のために努力していますが、それでも戦争は続いています。
(サンスクリット引用)

「さらに、おお、アルジュナよ、私はすべての存在のもともとの(generating)種です。動くものであれ、動かないものであれ、私なくして存在することのできるもの(being)はありません。」(Bg. 10.39)

第4段落
クリシュナは、このようにすべてのものの所有者(proprietor)であり、すべての結果の究極の受益者(beneficiary)であり、受領者(receiver)です。私たちは自分を自分の労働の結果の所有者であると考えるかもしれませんが、これは思い違い(misconception)です。

私たちは、クリシュナが私たちの働きすべての結果の究極の所有者であると理解するようにならねばなりません。何百人もの人が事務所で働いているかもしれませんが、彼らは何であれ会社(the business、事業)が生む収益は所有者に属すると理解しています。

銀行の窓口係が「おお、私は非常に多くのお金を持っている。私は所有者だ。家に持ち帰ろう」と考えれば、直ちに彼の困難(trouble)が始まります。もしも私たちが、どれだけであれ自分が溜め込んだ(to amass)富を自分自身の感覚の満足のために使うことができると考えるなら、私たちはカーマ、欲に基づいて(out of)活動しています。

しかし、もしも私たちが自分が持っているすべてのものはクリシュナに属すると理解するようになるなら、私たちは解放されます。私たちは自分の手に同じお金を持っているかもしれませんが、自分は所有者であると考えれば、直ちに私たちはマーヤーの影響下に入ります(we are under ~)。すべてのものはクリシュナに属するという意識の下に位置している者は本当の学識のある人(an actual learned man)です。
(サンスクリット引用)

「宇宙の中にある動くもの、あるいは動かないものすべては、主によって統御され、所有されています。したがって、人は自分の取り分として取り分けられた、自分に必要なものだけを受け取るべきであり、人は物(they = other things)が誰に属するかをよく知って、他のものを受け取ってはなりません(one must not accept other things, knowing well to whom (w→W) they belong.)。」(シュリー・イショパニシャッド、マントラ1)

第5段落
このイーシャーヴァーシャ―――すべてのものはクリシュナに属するという意識が呼び覚まされなければなりません(to revive)。個人的にだけでなく、国家的、そして宇宙的にもです。そうすれば平和があるでしょう。私たちはしばしば、博愛的(philanthropic)で利他的(altruistic)でありがちであり、そして私たちは自分の同胞(countrymen)、自分の家族と、そして世界のすべての人々と友人であろうと努力します―――しかし、これは誤った概念(conception)に基づいています。

本当の友人はクリシュナであり、そしてもしも私たちが自分の家族、国、あるいは惑星に利益を与えたいと望むなら、私たちは主のために働くでしょう。もしも自分の家族の幸せ(welfare)を心に抱くなら、私たちはすべての家族員(members)をクリシュナ意識にしようとするでしょう。

自分の家族に利益を与えようとしている人々が非常にたくさんいますが、不幸にして彼らは成功しません。彼らは本当の問題が何かを知りません。バーガヴァタムが述べるように、人は自分の子供を死から、物質自然の支配(grip、掌握、掴むこと)から救えない限り、父、あるいは母、あるいは教師になろうとすべきではありません。

父親はクリシュナに関する知識を持っているべきであり(in knowledge of)、そして彼は自分に託された無知な(innocent、無邪気な)子供たちが誕生と死の循環を再び経験(to undergo、苦しみを経験する)しなくてよいように決意しているべきです(to be determined)。

彼は自分の子供たちを、もはや誕生と死の苦しい(painful)循環の影響下に(to be subjected to ~)なくていいように(in such a way)訓練すると心に決めているべきです(to be resolved)。しかし、これができる前に、彼は自分自身を熟達者にしなければなりません。もしも彼がクリシュナ意識において熟達者になれば、彼は自分の子供たちだけでなく、自分の社会と国も助けることができます。

しかし、もしも彼自身が無知によって縛られているなら、彼はどうやって同じく縛られている他の者たちを自由にする(to untie、結び目をほどく)ことができるでしょうか?他の者たちを自由にすることができる前に、彼は自分自身が自由でなければなりません。実際は誰も自由ではありません(no one is a free man)。なぜなら、誰もが物質自然の魔力(spell)の下にあるからです。

しかし、クリシュナに服従した者はマーヤーによって触れられ得ません。すべての者のなかで、彼こそは自由です(He, of all men, is free.)。もしも人が太陽光の中に身を置くなら、暗闇の可能性はありません(there is no question of ~)。

しかし、もしも人が人工的な光の中に身を置くなら、それは点滅し、消えるかもしれません。クリシュナはちょうど太陽光のようなものです。主がいらっしゃるところでは、暗闇と無知の可能性はありません。賢者、マハートマーはこれを理解します。
(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界(訳注:複数)の源です。すべてのものが私から生じます(to emanate from ~、放射する)。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心を込めて(with all their hearts)私を崇拝します。」(Bg. 10.8)

第6段落
この節の中でブッダーという単語が使われており、それは賢者あるいは学識のある人を指します。彼の特徴(symptom)は何でしょうか?彼は、クリシュナがすべてのものの、すべての放射物(emanation)の源(fountainhead)であると知っています。

彼は、何であれ自分が見るものはクリシュナの放射物に他ならない(whatever he sees is but an emanation of Krishna)と知っています。物質世界において、性生活は最も目立った(prominent)要素です。性的な魅了はすべての生命の種において見られ、そして人はそれがどこから来るのかと尋ねるかもしれません。

賢者は、この傾向はクリシュナの中にあり、そしてそれは主のヴラジャの高貴な娘たち(damsel)との関係において明らかにされていると理解しています。何であれこの物質世界において(in)見られるものは、クリシュナにおいても完全に見られます。

違いは、物質世界においてはすべては歪んだ形で現れるということです。クリシュナにおいては、これらすべての傾向と顕現は、純粋な意識、霊において存在します。これを知り、完全な知識を備えた者は(one who knows this, in full knowledge,)、クリシュナの純粋な献身者になります。
(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、聖なる自然の保護の下にあります。彼らは私を至高の人格神、源であり、尽きることがない(inexhaustible)と知っているので、完全に献身奉仕にいそしんでいます。

いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前に頭を垂れ(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に(perpetually)献身の念をもって私を崇拝します。」(Bg. 9.13-14)

第7段落
偉大な魂、マハートマーとは誰でしょうか?それは優性なるエネルギーの影響下にある者です。現在では私たちはクリシュナの劣性なるエネルギーの影響下にあります。生命体として、私たちの立場は境界的です―――私たちは自らを二つのエネルギーのどちらかに移す(to transfer)ことができます。

クリシュナは完全に独立しており、そして私たちは主の欠かすべからざる小片であるため、私たちもまたこの独立性という性質(quality)を持っています。したがって私たちは、どちらのエネルギーの下で自分が機能するかという選択肢を持っています。

優勢な性質(nature、自然)について無知なので、私たちは劣勢な性質の下に留まるより他はありません(we have no alternative but to ~)。

第8段落
一部の哲学は、私たちが現在経験しているものの他に自然はなく、そしてこのことへの唯一の解決策はそれを無にして(to nullify、取り消す、無効にする)無(void)になることだ、と提議します(to propound)。しかし、私たちは無ではあり得ません。なぜなら、私たちは生命体だからです。

単に体を変えるから私たちは終わるというのではありません(It does not mean that we are finished~)。物質自然の影響から逃れることができる前に、私たちは自分の立場が実際にはどこであるか(where our place actually is)、私たちはどこへ行くべきか(where we are to go)を理解しなければなりません。

もしもどこに行くかを知らないなら、それなら私たちは単に「おお、私たちは何が優性で(何が)劣性かを知らない。私たちが知っているのはこれだけだ、だからここに留まって朽ちよう(to rot、腐る)」と言うでしょう。しかしバガヴァッド・ギーターは私たちに優性なエネルギー、優性な性質に関する情報を与えます。

第9段落
クリシュナがお話しになることは、主は永遠のためにお話しになります(What Krishna speaks, He speaks for all eternity. 訳注:クリシュナのお話は永遠です)。それは変わりません。私たちの現在の職業が何であるか、あるいはアルジュナの職業が何であったかは関係ありません―――私たちはただ、自分の意識を変えなければならないだけです。

現在では、私たちは自己の利益(self-interest)という意識によって導かれていますが、私たちは自分の本当の自己利益が何であるかを知りません。実際は私たちは自己利益を持たず、そうではなく感覚の利益を持っています。

何であれ私たちがしていることは、私たちは感覚を満足させるためにしています。変えられなければならないのは、この意識です。その代わりに、私たちは自分の本当の自己利益―――クリシュナ意識を植えつけなければなりません(to implant)。

第10段落
これはどのようにしてなされるでしょうか?私たちの人生のすべての歩みにおいて(in every step、常に)クリシュナ意識になることは、どのようにして可能でしょうか?実際にはクリシュナはそれを私たちにとって(for、~のために)非常に容易になさいます。
(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子(アルジュナ)よ、私は水の味、太陽と月の光、ヴェーダのマントラの中のオームの音節です。私はエーテルの中の音であり、人の中の能力です。」(Bg. 7.8)

第11段落
この節において、シュリー・クリシュナは、私たちがどうやって人生のすべての場面(stages)において完全にクリシュナ意識になることができるかを描写なさっています。すべての生命体は水を飲まねばなりません。水の味はとてもおいしい(nice)ので、喉が渇いているとき、渇きを癒せるのは水しかないように見えます(when we are thirsty nothing but water seems to do)。

どの製造業者も、水の純粋な味を作り出すことはできません。こうして私たちは水を飲むときクリシュナ、すなわち神を思い出すことができます。誰も人生において毎日水を飲むことを避けることはできません。そのため、神意識はそこにあります―――私たちはどうやって忘れることができるでしょうか?

第12段落
同様に、何らかの光があるとき、それもまたクリシュナです。霊的な天空におけるもともとの光輝、ブラーマジョティは、クリシュナの体から放射します。この物質の世界は覆われています。物質的な宇宙の本質的な性質(the very nature)は、私たちが夜に経験する闇です。

それは太陽によって、月の反射された光によって、そして電気によって人工的に照らされています。この光はどこから来ているのでしょうか?太陽はブラーマジョティ、すなわち霊的な世界の明るい光輝によって照らされています。霊的な世界では、太陽、月、あるいは電気の必要はありません。

なぜなら、そこではすべてはブラーマジョティによって照らされているからです。しかしこの地球上では、私たちはいつであれ、太陽からの何らかの光を見るときにクリシュナを思い出すことができます。
(an address to God)
..........................................................................
こんにちは。第3章の翻訳が途中までできました。この本はまだ第5章まであるし、今年中に済ませることはできませんでしたが、まあいいでしょう。毎晩YouTubeで笑点を見ていなければもっと進むのですけれど。。。ともあれ、今年も辛抱強くお待ちくださいまして、ほんとうにありがとうございました。もう少しでカナダでも年が明けます。闇に浮かぶ地球を太陽が照らし、その循環を朝と呼び、新年と呼んでありがたがっていますが、せめて自分が闇の中にはまり込んでしまっていることを覚えていたいものです。来年が皆様にとってますます永遠の光を希求する年となりますよう。

葉子
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by ammolitering4 | 2014-01-01 13:24 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第2章 終わりまで

クリシュナはすべての聖人的な人々の友人であり、そしてクリシュナ意識になろうとする試みは聖人的な努力(saintly endeavor)です。シュラヴァナム・キールタナム―――マントラを唱えることと聞くことによって(by chanting and hearing)、人はクリシュナの科学を理解するようになることができ(can come to understand)、そして、その結果(hereby)クリシュナを理解するようになります(to come to understand)。

そして、いったんクリシュナを理解すると(upon understanding Krishna)、人は死の瞬間に直ちに霊的な世界の中の主のお住まいに行くことができます。この霊的な世界はバガヴァッド・ギーターにおいて次のように描写されています。

(サンスクリット引用)
「その私の住まいは、太陽、あるいは月、あるいは電気によっても照らされていません。そこに至る者は、決してこの物質世界に戻りません。」(Bg 15.6)

第20段落
この物質世界はいつも暗黒です。したがって、私たちは太陽、月、そして電気を必要とします。ヴェーダは私たちに、この暗闇に留まるのではなく、光(illumination)の世界へ、霊的な世界へ移る(to transfer ourselves、自分を移す)ように命じます(to enjoin)。暗闇という単語は二重の意味を持っています。それは光がないことを意味するだけでなく、無知をも意味します。

第21段落
至高主は多くの(manifold)エネルギーをお持ちです。主(校正:he→He)がこの物質世界に活動を行いにいらっしゃる、というのではありません。ヴェーダにおいて、至高主は何もすることがない、と述べられています。バガヴァッド・ギーターにおいて、シュリー・クリシュナはこのようにもおっしゃいます。

(サンスクリット引用)
「おお、プリターの息子よ、三つの惑星系すべての中に、私に課された(prescribed)仕事はありません。また、私には何も不足しておらず(in want of、不足して、必要としている)、何かを得る必要もありません(nor have I need to obtain anything)―――そして、それでも私は仕事にいそしんでいます。」(Bg 3.22)

第22段落
したがって私たちは、クリシュナはこの物質世界に降臨して非常に多くの活動に携わる必要がある(is required to ~)、と考えるべきではありません。誰もクリシュナと同等でもクリシュナより偉大でも(greater)ありません。そして主はもともと(naturally)すべての知識をお持ちです。

主が知識を得る(to acquire)ために苦行を行わなければならない(to undergo penances)、あるいは主がどの時点であれ(at any time)知識を受け取ったり知識を得たり(to attain)しなければならない、というのではありません。

いつでも、そしてどんな状況でも(at all times and in all conditions)、主は知識に満ちています。主はバガヴァッド・ギーターをアルジュナに語っていらっしゃるかもしれませんが、いつのときでも主は決してバガヴァッド・ギーターを(訳注:誰かに)教えられてはいらっしゃいません。

これがクリシュナの立場であると理解することのできる者は、この物質世界の中の誕生と死の循環に戻る必要がありません。幻想の影響の下にあるため、私たちは生涯をこの物質的な環境(atmosphere)を調整しようとして(to make adjustments to ~)過ごしますが、これは人間の人生の目的ではありません。人間の人生は、クリシュナの科学を理解するためにあります。

第23段落
私たちの物質的な必要性は、食べること、性交をすること、眠ること、身を守ること、そして感覚の満足を得ることの問題です(Our material needs are these: ~)。これらは人間と動物に共通しています。動物はこれらの問題を解決しようとして忙しく働いています(busily engaged trying to solve ~)。

そして、もしも私たちもまた、それらを解決することにのみいそしんでいるなら、私たちは動物と(from)どのように異なっているでしょうか?しかし人間は、それによって(whereby)超越的なクリシュナ意識を育むことのできる特別な資格を持っています。

しかし、もしも彼がこれを自分のために役立てないなら(does not avail himself of)、彼は動物の区分の中にあります。現代の文明の欠陥は、それがこれらの生存に関わる(survival)問題に過度の重点を置くことです。

霊的な生命体として、自分をこの誕生と死の呪縛(entanglement)から救い出す(to extricate、脱出させる)ことは、私たちにとっての義務です(incumbent upon us)。したがって私たちは人間の人生という(of)特別な機会を失わない(to miss、~しそこなう)ように、注意深くあるべきです。

バガヴァッド・ギーターを授け(to deliver)、そして私たちが神意識になるのを助けるために、シュリー・クリシュナご自身がおいでになります。実に、この物質的な創造そのもの(this very material creation)が、この修養(cultivation、修練、養成)のために使うために、私たちに与えられています。

しかし、もしも、この機会とこの人間の人生という贈り物を受け取った後で、私たちがそれらをクリシュナ意識を培うために使わないなら、私たちはこの希少な機会を失うでしょう(we shall be missing ~、未来のある時点において、貴重な機会を進行形で利用しそこなっている)。

修養のための過程は非常に単純(simple)です:シュラヴァナム・キールタナム―――聞くことと、マントラを唱えることです。私たちには聞くことの他には何もすることはなく、そして注意深く聞くことによって悟り(enlightenment)は必ず訪れます。クリシュナは必ず助けてくださいます。なぜなら、主は(私たちの)内に座っておいでだからです。

私たちはただ、努力をして少しの時間を割かねばならないだけです。私たちは、(自分が)進歩しているかどうかと(私たちに)尋ねる誰をも必要としません(訳注:自分の進歩は自分で分かります)。私たちはそれを自動的に知るでしょう。ちょうど、空腹な人が十分な食事によって、自分が満足したと知るように。

第24段落
実際は、このクリシュナ意識あるいは自己認識の過程はあまり難しくありません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中でそれをアルジュナにお教えになりました。そして、もしも私たちがバガヴァッド・ギーターをちょうどアルジュナがしたように理解するなら、私たちは完成した段階に至るのに何の問題もないでしょう。

しかし、もしも私たちがバガヴァッド・ギーターを自分の独自の俗的で学究的な精神性(mundane academic mentality)に応じて解釈しようとするなら、私たちはそれをすっかり駄目にします(we spoil it all)。

第25段落
前述のように、このハレ・クリシュナを唱えることは、それによって物質的な関わりによるすべての汚染が心の鏡から取り除かれる過程です。私たちのクリシュナ意識を取り戻すにあたって(in reviving)、外的な助けは必要ありません。

なぜなら、クリシュナ意識は自己の中で休止状態(dormant)にあるからです。事実、それは自己の性質そのものです(the very quality)。私たちはそれを、この過程によって呼び覚まさねば(to invoke、霊などを呼び出す)ならないだけです。

クリシュナ意識は永遠の事実です。それは何らかの組織によって押し付けられた(to impose)教義(doctrine)や一群の信条(set of beliefs)ではありません。それは、人間であれ動物であれ、すべての生命体の中にあります。

主チャイタンニャ・マハープラブがおよそ(some)五百年前に南インドのジャングルを通り抜けていらしたとき、主はハレ・クリシュナを唱え、そしてすべての動物たち―――虎、象、そして鹿―――が、主が聖なる御名に合わせて(to)踊るのに加わりました。

もちろん、これはマントラを唱えることの純粋性によります(to depend on~)。私たちがマントラを唱えることにおいて発達するにつれて、浄化は必ず訪れます。
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ようやく第2章が終わりました。まだ第5章まであるのです。この調子でいったら終わるのは来年か再来年か、、、と、先の心配ばかりしていてはいけませんね。鬼が笑う声が聞こえてくるようです。未来は私たちの領分ではありません。今できることをしましょう。それは何かというと、目の前にあるドライチェリーを延々と食べ続けるのをやめることです。これでおしまい、あと2個でおしまい、そして袋を閉じて手の届かないところにもっていきましょう。

私は鳥のエサのような食べ物が好きで、今日はチアシードというのを買って食べてみました。これはゴマみたいな小さな粒々で、水をかけると脹らみ、ぬるぬると粘りが出てきます。水(またはお湯)がちょうどよい量だと、オートミールみたいな感じになっておいしいです。私はこれにヘンプシード(麻の実)とかフラックス(亜麻の実)とか入れてみました。鉄分が多いらしくて、ベジタリアンにはお勧めの食材だそうです。ただ、食べ過ぎてはいけないそうです。

レンティルもよく食べます。単に水だけ入れて煮て、カレー粉と塩で味付けし、仕上げにヘンプオイルをかけて食べます。ココナッツオイルでもおいしいです。甘くしたいときはレーズンを入れて煮て、仕上げにメープルシロップや蜂蜜やクリームをかけたりします。

炊飯器で小豆もよく煮ています。水を替えたり捨てたりする面倒なことはせず、単に豆を洗って水をたくさん入れてスイッチを入れるだけ。ところがこれが私にとってはとてもおいしくて、黒砂糖とココナッツミルクなどかけるととても幸せな気分になります。他の豆でもすべて同じような手抜きな調理をしますが、多少のアクはスパイスと思っています。それに、炊飯器で煮た小豆は変なエグミなど全然ないように感じます。

私はしばらく前にちょっと体調を崩してからヘルシーに目覚め、食生活その他の改善を決意しました。今年の目標というには多少時期が遅いですが、あんまり早くから目標を立てると忘れてしまうので、このくらいがよろしいのです。いけないと思いつつも多少のインスタントや化学調味料入りの物があったのを処分し、体質的に合わないらしい食材を減らし、新しいものをいろいろと試してみています。体はクリシュナからの借り物です。お許しが出るまでは代替品無しでやり過ごさねばならないので、最大100年もたせることを前提としてメンテナンスをしようと思います。(個人的にはもうちょっと少なく、91年を目安としています。あとうん十年ありますが、その時間のうちどれだけを私は本来の成長のために使えるものでしょうか。どうもあんまり自信がないなあ、3分の1は寝ていて、3分の1は日銭を稼ぐのに使い、残り3分の1の半分くらいは何かしょうもないことをしている自信があります。。。)
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by ammolitering4 | 2013-12-07 15:56 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(2)

第2章 第19段落途中まで

第10段落
このことに関して、聖なる町への巡礼の旅に出た泥棒の話があり、途中で彼と他の巡礼者たちは宿屋で一晩泊まって休むために歩を止めました。盗む癖があったので(being addicted to stealing)、泥棒は他の巡礼者たちの荷物を盗む計画を立て始めましたが、彼は考えました。

「私は巡礼の旅に出ている。だから、私がこの荷物を盗むのは正しい(appropriate)ようには見えない。いや、私はそれをすまい(No, I shall not do it)。」それでも、習慣によって、彼は荷物を触らずにはいられませんでした。

そのため彼は、ある人の袋を取り上げて他の場所に置き、そしてそれから別の人の袋を取ってそれを他の所に置きました。彼は一晩中たくさんの袋を様々に置き換えて過ごしましたが(placing different bags in different places)、良心が彼を苦しめたので、彼はそれらから何も取ることができませんでした。

朝、巡礼者たちが目覚めたとき、彼らは自分の袋を探して辺りを見て(looked around for~)、それを見つけることができませんでした。大きな声が上がり(there was a great row、rowは驚きや怒鳴り声などの騒々しさを指す)、そしてやがて、一つ、また一つ、彼らは袋を様々な場所で見つけ始めました。

それらがすべて見つかったあと、泥棒は説明しました。「皆さん、私は泥棒を生業としています(I am a thief by occupation)。夜に盗む習慣があるので、私は皆さんの袋から何か盗みたいと思いました。しかし、私はこの聖なる場所に向かっているので、盗むことは可能ではないと考えました。

そのため私は荷物を置き換えたかもしれませんが(I may have rearranged)、どうか許してください。」これが悪い習慣の特徴です。彼はもはや盗みを働きたくありませんが、習慣があるので、時として彼はそうします。

そのためクリシュナは、自分の不道徳な習慣から離れて(to refrain from ~)クリシュナ意識において発達する決心をした者は、たとえ過去の習慣あるいは偶然によって自分の欠陥に負ける(to yield to his fault)としても、サードゥーであると考えられる、とおっしゃいます。次の節において、私たちはシュリー・クリシュナがこうおっしゃるのを見ます(~は~とおっしゃいます)。

(サンスクリット引用)

「彼は素早く正しく(righteous)なり、永続的な平和を得ます。おお、クンティーの息子よ、私の献身者は決して滅びないと、高らかに宣言しなさい(declare it boldly that)。」(Bg 9.31)

第11段落
人がクリシュナ意識を決意したので(to commit himself to)、シュリー・クリシュナによってここに、ごく短い間に彼は聖人的になると宣言されています(to proclaim)。(訳注:~は、~を決意すると人は~になる、と宣言なさいます。)

人は扇風機のコンセントを抜くかもしれず、そして扇風機は電源を抜かれても動き続けるかもしれませんが、扇風機はすぐに止まる(come to a stop)と理解されます。いったんクリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ると、私たちは自分のカルマ的な活動のスイッチを切り、そしてこれらの活動はそれでも回る(to revolve)かもしれませんが、それらはすぐに消えると理解されるべきです(it is to be understood)。

クリシュナ意識を習慣づける(to take to~)者は誰であれ、良い人になるために別に(independently、それとは別に)努力をする必要はないというのは事実です。すべての良い性質(qualifications)は自動的に来ます。

シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、クリシュナ意識に至った者は同時にすべての良い性質(qualities)を得たのであると述べられています。一方で、もしも人が神意識を持たず、それでも多くの良い性質を持っているなら、彼の良い性質は役に立たない(useless)と考えられます。

なぜなら、彼は望ましくないことをすることから全く禁じられていない(he will not in any way be prohibited from~)からです(訳注:彼を止めるものが何もないからです)。もしも人がクリシュナ意識を持たないなら、彼はこの物質の世界において必ず悪事を犯します。

(サンスクリット引用)

「私の顕現と活動の超越的な性質を知る者は、体を去るとき(upon leaving the body)、この物質世界に再び生まれず、そうではなく(but)私の永遠の住処に至ります、おお、アルジュナよ。」(Bg 4.9)

第12段落
クリシュナがお現れになる目的(mission、使命)は、ここでさらに説明されます。主が何かの目的を持っておいでになるとき、何らかの活動があります。もちろん、神が化身としておいでになるということを信じない哲学者もいます。彼らは、「なぜ神がこの腐った世界に来るべきだろうか?」と言います。

しかし、バガヴァッド・ギーターから私たちは、そうではないと(otherwise)理解します。私たちはいつも、バガヴァッド・ギーターを聖典として読むということを覚えているべきです。そして、何であれバガヴァッド・ギーターにおいて語られていることは受け入れられねばなりません。

そうでなければ、それを読む理由はありません。ギーターの中でクリシュナは、自分は目的を持って化身として来たのだ、とおっしゃいます。そして主の目的に伴って、何らかの活動があります。例えば私たちは、クリシュナはアルジュナの戦車の運転手として活動的であり、そしてクルクシェトラの戦場で非常に多くの活動にいそしまれるのを見ることができます。

ちょうど、戦争があるとき、ある人あるいは国は別の人あるいは国に味方して偏向(partiality、ひいき、偏愛)を見せるかもしれないように、戦場での主クリシュナは幾らかの偏向を見せ、アルジュナに味方なさいます。実際はクリシュナは誰にも偏向してはいませんが(partial)、外的には主は偏向的であるように見えます。しかしこの偏向性は普通の意味で受け入れられるべきではありません。

第13段落
この節において、クリシュナはまた、ご自分の物質世界への降臨は超越的であると指摘なさいます。ディヴャムという単語は超越的を意味します。主の活動は全く(not in any way)普通(ordinary)ではありません。

今日でさえ、インドでは8月の終わりに人々は宗派(sect)を問わずクリシュナの誕生日を祝う習慣があります(are accustomed to~)。ちょうど西洋世界ではイエス・キリストの誕生日がクリスマスに祝われるようなものです。

クリシュナの誕生日はジャンマースタミーと呼ばれ、この節においてクリシュナは「私の生誕」を指してジャンマという単語をお使いになります。誕生があるので、何らかの活動があります。クリシュナの誕生と活動は超越的であり、それは、それらが普通の誕生や活動のようではないということを意味します。

人は、どうして主の活動が超越的なのか(how it is~)と尋ねるかもしれません。主はお生まれになり、種はアルジュナと共に戦いに参加し、主は(校正:he →He)ヴァスデヴァという名の父親とデヴァキーという名の母親と家族をお持ちです―――何が超越的だと考えられるでしょうか?

クリシュナは、エヴァム・ヨ・ヴェッティ・タットヴァターとおっしゃいます―――私たちは主の生誕と活動を正しく(in truth)知らねばなりません。人がクリシュナの生誕と活動を正しく知るとき、結果はテャクトヴァー・デハム・プナー・ジャンマ・ナイティ・マーム・エティ・ソ・ルジュナ―――この物質の体を去るとき、彼は再び生まれず、そうではなく、直接クリシュナのところに行きます。

これは彼が解放された魂になることを意味します。彼は永遠の霊的な世界に行き、喜びと知識と永遠性に溢れた彼の本来の立場に至ります(to attain)。これらすべてが、単にクリシュナの誕生と活動の超越的な性質を正しく知ることによって得られます。

第14段落
普通は、人が体を去るとき、彼はもう一つの体を取らねばなりません(to take up)。生命体の人生(lives)は、単に生命体がその働きに応じて一つの体から別のそれへと衣服を変えること―――魂の転生―――によって続いています。

現在では、私たちはこの物質の体が自分の本当の体であると考えるかもしれませんが、それは衣服のようなものです。現実には、私たちは本当の体、霊的な体を持っています(we do have)。この物質の体は、生命体の本当の霊的な体に比べると表面的です。

この物質の体が古くなって擦り切れると(old and worn out)、あるいは何らかの事故によって使い物にならなくなるとき(rendered useless)、汚れた、あるいは駄目になったスーツを捨てるように(as we might put aside)、私たちはそれを捨てて別の物質の体を取ります。

(サンスクリット引用)

「人が古いものを捨てて新しい衣服を着るように、同様に、魂は古くて役に立たないものを捨てて新しい物質的な体を受け入れます。」(Bg 2.22)

第15段落
初めに、体はエンドウ豆の大きさです。それからそれは育って、赤ん坊、それから子供、少年、若者、大人、そして老人となり、そして最後にそれが役に立たなくなるとき、生命体は別の体に変わります(to change into、着替える)。したがって、体はいつも変化しており、そして死は単に現在の体の究極的な変化です。

(サンスクリット引用)

「体に入った魂がこの体の中で少年時代から青年時代(youth)から老年へと絶え間なく通り過ぎるように(to pass)、魂は同様に死のときに別の体へと移ります(to pass into)。自己を認識した魂は、そのような変化によって惑わされません(bewildered)。」(Bg 2.13)

第16段落
体は変わっていきますが(is changing)、体の中に住んでいる者は同じままです。少年は大人へと育ちますが、体の中の生命体は変わっていません(is not changed)。少年のときにそこにいた(who was there as a boy)自己が去ってしまったというのではありません。

医学は、毎瞬間、物質の体が変わっているということに同意します。ちょうど、生命体はこれによって惑わされないように(bewildered)、悟りを開いた(enlightened)人は体が死のときにその究極の変化をする(to undergo、変化や苦しみを経験する)とき、惑わされません。

しかし、物事をありのままに理解しない者は嘆き悲しみます(to lament)。物質的な状態において、私たちはいつでも単に体を変えています。それが私たちの病気です。私たちはいつも人間に変わるのではありません。私たちは自分の活動に応じて、動物の体、あるいは半神の体に変わるかもしれません。

パドマ・プラーナによれば、840万種の生命があります。私たちは死のときにそのどれでも取る可能性があります(We can take on any of them)。しかしクリシュナは、主の誕生と活動を正しく知る者はこの転生の循環から解放されると約束なさいます。

第17段落
人はどうやってクリシュナの誕生と活動を正しく理解することができるでしょうか?これはバガヴァッド・ギーターの18章において説明されています。

(サンスクリット引用)

「人は献身奉仕によってのみ至高人格をありのままに理解することができます。そして人がそのような献身によって至高主を完全に意識するとき(in full consciousness of~)、彼は神の王国に入ることができます。」(Bg 18.55)

第18段落
ここで再びタットヴァター、「正しく」という単語が使われています。人は献身者になることによって、クリシュナの科学を正しく理解することができます。献身者でない者、クリシュナ意識を求めて努力しない(to strive for)者は、理解することができません。

第4章の初めにおいても、クリシュナはアルジュナに、アルジュナは「私の献身者であり、私の友人」であるからご自分はこのヨガの古代の科学(ancient science of yoga、ヨガという太古の科学)を彼に説明しているのだ、とおっしゃいます。(Bg 4.3)

単にバガヴァッド・ギーターの学究的な研究をする者にとっては、クリシュナの科学は神秘のままで留まります。バガヴァッド・ギーターは、人が単に書店で買って学究だけによって理解することのできる本ではありません。

アルジュナは偉大な学者(scholar)ではなく、ヴェーダ学者(Vedantist)、哲学者、ブラーマナ、また放棄階級者でもありませんでした。彼は家庭人であり、軍人でした。しかしそれでもクリシュナは彼をバガヴァッド・ギーターの受取人として、そして師弟継承の最初の権威者として選びました。

なぜでしょうか?「なぜならあなたは私の献身者だからです」それがバガヴァッド・ギーターをありのままに理解するための資格です―――人はクリシュナ意識にならねばなりません。

第19段落
そして、このクリシュナ意識とは何でしょうか?それは、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ / ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることを通して心の鏡から埃を取り除く過程です。

このマントラを唱えることによって、そしてバガヴァッド・ギーターを聞くことによって、私たちは徐々にクリシュナ意識に至ることができます。イーシュヴァラー・サルヴァー・ブーターナーム―――クリシュナはいつも私たちの心臓の中にいらっしゃいます。

個々の魂と超魂はどちらも体の木の中に座っています。個々の魂(ジーヴァ)は木の果実(fruit)を食べており、そして超魂(パラマートマー)は見守っています(to witness)。個々の魂が献身奉仕の過程を始めて徐々に自分のクリシュナ意識を育み始めるとき、内に座っている超魂は、彼が心の鏡からすべての不純物を取りさる(to dust)のを助け始めます。
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by ammolitering4 | 2013-11-26 14:40 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第2章 第9段落まで

第2章 マントラを唱え、クリシュナを知る方法(The Way of Chanting and Knowing Krishna)

第1段落
ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラマ、ラマ、ハレ、ハレ。これは超越的な音の振動です。それは私たちが心の鏡から埃を洗い清める(to cleanse)のを助けます。

ちょうど、(ニューヨーク市の)二番街には、重交通(heavy traffic)によってすべてのものの上に埃をスス(soot)があるようなものです。私たちの物質的な活動の巧妙な操作(manipulation)によって(私たちが~を巧妙に操作することによって)、たくさんの(a great deal of)埃が私たちの心の透明な鏡の上にたまり、そしてその結果、私たちは物事を正しく(in perspective、全体的な視野で真相を正しく見ること)見ることができません。

この超越的な音(ハレ・クリシュナ・マントラ)の振動は、この埃を洗い流し、私たちが自分の本当の本来の立場をはっきりと見ることを可能にします。私たちが「私はこの体ではない:私は霊魂であり、そして私の状態(symptom、兆候、きざし、病状)は意識である」と理解するようになれば(to come to understand)直ちに、私たちは本当の幸せにおいて自らを確立することができるでしょう(訳注:本当の幸せを確かに感じることができるでしょう)。

私たちの意識がハレ・クリシュナを唱えるこの過程によって浄化されるにつれて、私たちの物質的な悲惨さのすべては消えます。この物質的な世界の上をいつも吹き荒れている(to blaze over ~)火があり、誰もがそれを消そうとしていますが、私たちが自分の純粋な意識に、私たちの霊的な人生に位置しない限り、物質自然の悲惨さというこの火を消せる可能性はありません。

第2段落 
主クリシュナの降臨、すなわち(or)この物質世界での現れの目的の一つは、ダールマを
論述する(setting forth、明らかにする、発表する)ことによってすべての生命体のために(for)物質的な存在の火を消すことです。

(サンスクリット引用)

「いつであれ、そしてどこであれ、宗教的な実践に衰え(decline、衰退、堕落)が、おお、バーラタの子孫よ、そして非宗教の優勢な高まり(predominant rise)があるとき―――そのとき私は降臨します。敬虔な者(the pious)を救い、そして悪人(the miscreants)を滅ぼすために、そして宗教の原則を再確立するために、私は時代ごとに(millennium after millennium)降臨します。」(Bg 4.7-8)

第3段落
この節の中で、ダールマという単語が使われています。この単語は様々に英語に翻訳されています。時としてそれは「信仰(faith、信頼、確信など)」と翻訳されますが、ヴェーダ文献によれば、ダールマは信仰の一種ではありません。

信仰は変わるかもしれませんが、ダールマは変わり得ません。水の液体性は変わり得ません。もしもそれが変わるなら―――、もしも、例えば水が個体になるなら―――それは実際はもはやその本来の立場にありません。それは特定の限定的な(qualifying)状態の下に存在しています。

私たちのダールマ、すなわち本来の立場は、私たちは至高存在の欠かすべからざる小片であるというものです。そしてそのため(this being the case)、私たちは自分の意識を至高存在に適合させる
(to dovetail、ぴったりと合わせる)、あるいは従属させ(to subjugate)なければなりません。

第4段落
この、至高全体(the Supreme Whole)への超越的な奉仕という立場は、物質的な接触によって(due to)誤用されています。奉仕は私たちの本来の立場において絶対的な(implicit、潜在的、内在的、暗示的な)ものです。誰もが従者であり、そして誰も主人ではありません。

誰もが誰か(someone or other、あの人でなければこの人)に奉仕をしています。大統領は国家の首長(the chief executive)であるかもしれませんが、それでも彼は国家に奉仕をしており、そして彼の奉仕がもはや必要とされないとき、国家は彼を捨てます。

自分で「私は自分が見渡す(to survey)すべてのものの主人である」と考えるのは、マーヤー、幻想と呼ばれます。このように、物質的な意識において私たちの奉仕は様々な区分(designations)の下で誤用されています。

私たちがこれらの区分(designations)から自由になるとき、つまり(that is to say)心の鏡から埃が取り去られた(to clear、汚れや曇りを取る)とき、私たちは自分をクリシュナの永遠の従者としての自分の本当の立場において見ることができるでしょう。

第5段落
人は、物質世界における自分の奉仕と、霊的な環境(atmosphere)における自分の奉仕が同じであると考えるべきではありません。私たちは、「おお、解放の後で私はまだ従者になるのだろうか(will I still be a servant)?」と考えて身震いする(to shudder、恐れや嫌悪で震える)かもしれません。

これは、私たちは物質的な世界において従者であるのはあまり楽しく(enjoyable)ないという経験を持っているからですが、超越的な奉仕はこのようではありません。霊的な世界においては、従者と主人の間に違いはありません。

ここ(訳注:物質世界)ではもちろん、区別(distinction)があります。しかし、完全な世界(in the absolute world、絶対的な世界)では、すべてのものが一つです。例えば、バガヴァッド・ギータにおいて私たちはクリシュナがアルジュナの戦車(chariot)の運転手として従者の立場を取ったのを見ることができます。

その(his)本来の立場において、アルジュナはクリシュナの従者です。しかし、振る舞い(behavior)において、私たちは時として主が従者の従者になるのを見ることができます。そのため私たちは、霊的な領域(realm)に物質的な考え(ideas)を持ち込むことのないように注意深くあるべきです。

何であれ私たちが物質的に経験したことは、霊的な人生(life)における物事の歪んだ反映に過ぎません(~ is but ~)。

第6段落
私たちの本来の立場、すなわちダールマが物質の汚染によって悪くなる(to deteriorate、堕落する、劣化する)とき、主ご自身が化身としておいでになるか、あるいはご自分の腹心の(confidential)従者の誰かをお送りになります。

主イエス・キリストはご自分を「神の息子」と呼びました。そしてそのため、(主イエス・キリストは)至高存在の代理人です。同様に、モハメッドは自分を至高主の従者と称しました(to identify himself)。このように、私たちの本来の立場における矛盾(discrepancy、食い違い)があるときはいつでも(訳注:本来の立場に関する理解が衰えたり誤解が生じたりする、というような意味)、私たちに生命体の本当の立場を知らせるために、至高存在が自らおいでになるか、あるいはご自分の代理人をお送りになります。

第7段落
したがって、人はダールマとは作られた信仰(created faith)であると考える間違いを犯すべきではありません。その正しい意味において、ダールマは生命体から全く離され得ません(cannot be divorced)。それは生命体にとって、砂糖にとって甘さが、あるいは塩にとって塩辛さが、あるいは石にとって硬さがそうであるようなものです(It is to the living entity what sweetness is to sugar, or ~)。

それは決して(in no case)切り離され得ません。生命体のダールマは奉仕することであり、そして私たちは、すべての生命体は自分自身あるいは他者に奉仕をする傾向を持っているということを簡単に見ることができます。

どうやってクリシュナに奉仕をするか、どうやって自分を物質主義的な奉仕から解放するか(to disentangle、絡まっているのをほどく)、どうやってクリシュナ意識を得て(to attain)、そして物質的な区分(designations)から自由になるかが、すべてバガヴァッド・ギーターにおいてシュリー・クリシュナによって科学として教えられています。

第8段落
上に引用された、パリトラーナーヤ・サードゥーナームで始まる節の中のサードゥーという単語は、聖者あるいは聖人的な人(a holy man or a saintly person)を指します。聖人的な人は忍耐強く、誰もに非常に親切で、すべての生命体の友であり(a friend to ~)、誰の敵でもなく、いつも温和(peaceful、平穏、平和的など)です。

聖者には26の基本的な性質(qualifications、資格、能力)があり、そしてバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、シュリー・クリシュナご自身が次の裁断(verdict、判決、決定、意見、審判)を与えるのを見ます。

(サンスクリット引用)

「たとえ人が最も忌まわしい振る舞いをしても(to commit ~ actions)、もしも彼が献身奉仕に携わっているなら、正しく位置しているので、彼は聖人的であると考えられます。」(Bg 9.30)

第9段落
俗的な水準(platform)においては、ある人にとっての道徳(morality)は別の人にとっての不道徳(immorality)であり、ある人にとっての不道徳は別の人にとっての道徳です。ヒンズー教の概念によればワイン(訳注:ブドウ酒に限らず酒類全体を指すこともある)を飲むことは不道徳ですが、他方で西洋世界ではワインを飲むことは不道徳とは考えられておらず、一般的なことです。

そのため、道徳性は時、場所、状況、社会的な立場その他によって変わります(dependent)。しかし、道徳性と不道徳性の感覚はすべての社会にあります。この節においてクリシュナは、たとえ人が不道徳な活動にいそしんでいても、同時に完全にクリシュナ意識であるなら、彼はサードゥー、すなわち聖人であると考えられる、と指摘なさいます。

言い換えると(校正:”.” →“,”)、ある人は彼の過去の関わりによって何らかの不道徳な習慣を持っているかもしれませんが(although a person may have ~)、もしも彼が完全にクリシュナ意識であるなら(engaged fully in ~)、これらの習慣は重要であるとは考えられません。

どのような場合であれ(whatever the case)、もしも人がクリシュナ意識になるなら、彼は徐々に浄化され、サードゥーになるでしょう。人がクリシュナ意識を遂行することにおいて進歩するにつれて、彼の悪い習慣は消え(to diminish)、そして彼は聖人的な完成に至ります(to attain to)。
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by ammolitering4 | 2013-11-21 15:13 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)