カテゴリ:「英知による放棄」( 44 )

英知による放棄 第1部 第3章

第3章 神を信じない(godless、神を恐れぬ 、不信心な)悪魔たち

(第1段落)甚だしく物質主義的な悪魔たちは、あまりにも完全に霊的な知識に欠けています。そのため、常に物質的な体のはかなさを知覚するにも関わらず、彼らのすべての活動は体を中心とします。彼らは、体の中の魂は永遠で必要不可欠な物質(substance)であり、そして体は変わりやすくて一時的である、ということを理解することができません。

ヴィヴァルタヴァーダ(進化論)によって、最初は魅了され、それから幻惑されて、彼らは宇宙全体(the entire cosmic body)もまた魂を持たないと結論します。彼らが自分たち自身の物質的な存在に当てはめるその誤った推論に基づく(fallacious)理論が彼らをして体の中にいる魂の存在へのいかなる研究も拒絶するようにするため(訳注:彼らはその誤った推論に基づく理論を自分たち自身の物質的な存在に当てはめるため、自分たちの体の中にいる魂の存在を対象としたいかなる研究も拒絶するようになります。そのため)、彼らは宇宙の顕現という巨大な体の中にある超魂の存在を知覚し損ねます。

彼らは誤って、体がすべてである、それを超えるものは何もない(there is nothing beyond it)、と結論します。同様に彼らは、物質的な創造、すなわち宇宙(the material creation, which is the universal body)は実際に自然の法だけで司られていると考えます。

この主題に関するいかなる議論も、彼らの「自然はすべてであって究極である(the be-all and end-all、唯一最高の目的)」という主張によって必ず時期尚早な死に直面させられます(訳注;きちんと論じられることなく潰されます)。

彼らの中のより知性的な者は、この議論を少し先に進め、非人格主義がすべてのものの真髄であると仮定します。しかし、顕現と非顕現の物質自然というこの領域のはるか向こうに、超越的で永遠な状態があります。それでも、無神論者たちはその特徴上、その存在を信じることができません。

(第2段落)このようにして、その先見の明(farsightedness)に欠けた歪んだ心をもってして、悪魔的な者たちは人々に悲惨さだけをもたらす活動を行います。そして、多くのそのような望まれない(unwanted、不必要な)活動の結果として、原子爆弾が発見(to discover)されました。

これらの悪魔的な人々が立てる終わりのない計画は、決して人類のために良い兆候となることはできません。過去においてラーヴァニャは、これは人類の利益のためだと主張して、天国への階段を造ろうとしました。実際は、彼は至高主ラーマチャンドラを騙そうとしていました。

しかし、彼は失敗しました(he was unsuccessful)。歴史は繰り返します。今では(for now、今のところ)、私たちはラーヴァニャの子孫たちが社会に利益を与えるための計画と称して主を騙そうとしているのを見ます(訳注:今、世界を見渡すと、~が~しています)。

注目すべきことは、どの悪魔も他の悪魔の計画を褒めないということです。すべての悪魔は、自分の計画が最も素晴らしいので、他のすべての者は自分に投票しなければならない、と主張します。

すると対抗者は、実際は自分の計画こそ(訳注:hisを斜体で強調)が最良であり、したがって自分は当然(rightfully、当然の権利として)すべての票を与えられるべきである、と言います。この投票の時代には、誰が実際に票を得るかということを巡る争いは、早々に(untimely、早過ぎる、時ならずして)天国へのすべての階段を壊しました。

もしも事実を落ち着いて考えるなら、その近視眼的な視野(vision、想像力、先見の明、ビジョン)をもって、悪魔の歪んだ脳によって作られたこれらすべての計画は決して世界に平和をもたらすことはできない、と、人は簡単に結論づけるでしょう。(訳注:落ち着いて事実を考察するなら、悪魔がその歪んだ脳と近視眼的なビジョンをもって練り上げた計画は決して世界に平和をもたらしはしない、ということは簡単に分かるでしょう。)

もちろん、すべての悪魔たちはある一つの事柄においては容易に同意します。そしてそれは、主ご自身に関する(of)知識なくして(訳注:主を知ろうとすることなく)、幸運の女神であり至高主の永遠の妃であるラクシュミーをこっそりと楽しむ、ということです。

(第3段落) すべての悪魔は、誰も自分よりもっと知性的でも人気(esteemed、非常に評判が良く、敬愛されている様子)でもない、と考えて、無駄に得意がります。したがって、様々な活動をすることを彼に促す(to urge on、強く強制的に促す)圧倒的な欲望は、彼によれば、究極的に人間社会にとって利益となります。(訳注:自分は誰よりも素晴らしいので、自分が強い衝動を感じるようなことは人類のためになる、と考える様子。)

もちろん、最後には彼の望みのすべては幻想的で非現実的であるということが必ず明らかにされます。それでも、この明白な事実(revelation、暴露、明らかになった事実)にも関わらず、悪魔たちはごまかし(manipulation、巧妙な操作)と嘘を通して大衆に影響を与え続けます。

(第4段落)これらの不潔で幻惑された悪魔たちの想像力には限界がありません。彼らは自称指導者を気取り(they pose as self-styled leaders)、社会の福祉について際限なく心配します。例えば、彼らは市場で買い物をするために来た人々をどこに泊まらせるかについて心配します。

彼らが実際に考えるのは、彼ら自身の、そして彼らの子供たちの、彼らの孫たちの、そして彼らの曾孫たちの楽しみ、世界の最終的な滅亡に至るまでの永続する楽しみを確保するための確実な手配をいかにして為すか、ということです。

しかし、喜びの代わりに苦しみを経験するとき、悪魔たちは富を蓄積するために自分の仲間たちに対する暴力に逆戻りします。彼らの物質的な欲望は満たされることがなく、そしてそのため、何億ドルものお金でさえも彼らを慰める(to appease、痛みなどを和らげる)ことができません。

誰であれ、非合法的に巨大な富を貯めこむことに長けている者が勝者(top dog)になります。悪魔たちは、憎悪、怒り、欲望などに満ちています。そして彼らは、単に自分の感覚的な衝動を満足させるために不正に巨大な富を貯めこむための努力において、疲れを知りません。

他方で、彼らの競合者も彼らの黒い富を騙し取ることにおいて引けを取りません。互いの非合法に稼いだお金を盗むことを目的としたそのような非常な競争が、どうして平和と繁栄をもたらすことができるでしょうか?そのため悪魔たちは、「天の配剤において、人類は何らの休息も得ることができない」と言って嘆く人を決して助けることができません。

(第5段落)悪魔はいつも自分の銀行の残高をどうやって増やすかについて思い巡らしています。「今日、株が上がった。そして私の利益も増した。明日、もしもこれらの他の物(commodity、鉱物や農産物などの産物、有用な品物)がより高く(dearer、この場合は値段が高いことを表す)なるなら、私の銀行の残高はさらに増すだろう。そしてそのため、私の未来は明るく繁栄して見える。」

悪魔は考え続けますが、今度は少し異なる事柄についてです。「私の敵の一人は既に滅ぼされた。そして、もう一人もすぐに終わりを迎えるだろう(to meet his end、死、または社会的な生命の終わり)。これは私をもっと安全な立場に置く。

だから、今では私は自分の敵たちを排除するのに熟達したので(now that~)、私は万能の神だ。なぜ神を探さねばならないということがあるだろうか?(Why must you look in search of God?)何百もの『神』が目の前に漂っている。」

そのような考えと行いが悪魔をますます無神論的にし、そしてそのため彼らは神の超越的な言葉(message)を聞くことを拒みます。彼らは誇らしげに宣言します。「神は誰だろうか?おお、私が神だ!(Why, I am God!) 私が非合法的にお金を操ることができ、そして非常に裕福なためにこの世の全てを楽しむことができるなら(when I can~)、それなら私は本当に万能の神だ。

私は強く、幸せで、成功している(accomplished、上流社会のたしなみを身につけている)。お金と富(means、富、〔目的・成功のための〕手段)を持たない弱者たちは、私を神として尊敬しなければならない。他の神々を求めることが何の役に立つだろうか?(What is the use of crying after any other God?)」

(第6段落)悪魔たちは、自分よりも豊かで人気のある(popular)者はいないと思っています。彼らは、自分の富は何らかの霊によってどうにかして(somehow、どういうわけか)守られると考え、そしてこのようにして彼らは幻惑されます。彼らの最終的な行き先は地獄です。

(第7段落)悪魔たちが為すわずかな宗教的な行いは、単なる見世物です。それらは、彼らの偽りの自我を得意がらせて、彼らにより多くの知名度(recognition、承認、認識)と尊敬をもたらすためだけのものです。彼らはそれらを自分自身の感覚の楽しみのためだけに行い、そしてそれらは常に暴力行為(acts of violence)です。悪魔は聖典の定めに従うことなく、単に自分の虚栄心を満たすためだけに、これらの儀式に携わります。

(第8段落)偽りの誇り、力、怒り、欲望などでふんぞり返り、悪魔は「これは私の体だ、私はインド人、
ベンガル人その他だ、彼はイスラム教徒だ、彼はヒンズー教徒だ、彼はドイツ人だ」と考えて、完全に身体的な意識に浸るようになります。

このようにして、彼らは他の者たちに暴力行為をしでかします。至高主は、これらの非常に(most)忌まわしい、見下げ果てた罪人たちを、繰り返し非常に苦しみの多い状態に置き、常に彼らをご自分の厳しい自然の法、すなわちダイヴィー・マーヤーで罰されます。

こうして悪魔として繰り返し生を受けるので、これらの堕落者(reprobate)たちは決して至高主の超越的な娯楽、御名、美しさなどを喜ぶ(to appreciate、真価を認める)ことができません。至高存在に関する(of)非人格的な知識を徐々に培うので、彼らは最もひどい人生(the worst possible life)を苦しむことが運命づけられています。
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by ammolitering4 | 2013-05-19 12:54 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

英知による放棄 第1部 第2章

第2章 苦しみの原因

(第1段落)悪の力の化身であった最も強力な悪魔マヒーシャースラ(*)は、知性、教育、富、厳しい苦行を行って多くの崇拝者を惹き付ける能力などを実際に授けられていました。全く同じ資質を持つ彼の現在の信奉者たちは、聖なるエネルギーを略奪することにおいて同じく積極的で熟達しています。

彼らは、巨額のお金、膨大な時間、エネルギー、知性、人材などを浪費(to misspend、〔お金の〕誤った使い方をする)して、手の込んだ科学的な研究を行います。しかし、彼らがこれらの研究を通して発見するものは、平和と喜びの代わりに人類にとって計り知れない悲惨さを作り出す結果となります。

これは、ダイヴィー・マーヤーの投げる力(agency)の働きの完璧な例です。これらすべての邪悪な活動は、人間の社会に甚大な損失をもたらします。この悪の結果として、俗的な科学者たちは彼らの本当の知性を滅ぼす重大な罪を犯します(to incur、損害を受ける)。

そして、この知性の損失が彼らをして神から離れさせ、主に服従する機会を奪います。このため、バーガヴァッド・ギーター(7.15)において至高主はおっしゃいます。(サンスクリット引用)「非常に愚かで、人間のうちで最も低く、その知識は幻想によって奪われ、そして悪魔たちの無神論的な性質を持つそれらの悪者たちは、私に服従しません。」

(*)マヒシャースラの父、ラムバーは、太陽神から自分の息子が決して打ち負かされないという恩恵を受けました。この恩恵によって、マヒシャースラはすべてのものの上に統治権を得ました。半神たちはヴィシュヌに保護を求め、主は彼らに女性(a female、一人の女性)だけが彼の敗北を生じさせることができると告げました。主は(デヴィと呼ばれる)女性の形で現れ、激しい戦いにおいて(この)悪魔を殺しました。

(第2段落)バーガヴァッド・ギーター(16.7-20)において、至高主はそのような無神論的な悪魔たちの性質を余すところなく描写なさいました。

「(1)悪魔的である者たちは、何をすべきで何をすべきでないかを知りません。彼らの中には、清潔さも、正しい振る舞いも、真実も見られません。彼らは、この世界は非現実であり、基盤がなく、統御している神もいない、と言います。

彼らは、それ(この世界)は性の欲望によって作られ、欲望以外の原因を持たない、と言います。そのような結論にしたがって、自分を見失い、何の知性も持たない悪魔的な人々は、世界を滅ぼすためにある(meant to~)有益でない、恐ろしい仕事にいそしみます。

満たされることのない欲望に従い(to take shelter of)、思い上がり(pride、高慢)と偽りの名誉という自負心(conceit、うぬぼれ)において、そのように幻惑された悪魔的な人々は、いつも非永遠なるものに魅了されて清潔でない仕事に誓いを立てます。

(2)彼らは、感覚を満足させることが人間の文明の主要な必要性であると信じます。このため、人生の終わりまで彼らの不安は計り知れません。何百、何千もの欲望の網の目に縛られ、そして貪欲と怒りに浸り、彼らは感覚の満足のために非合法な方法によってお金を確保します。

悪魔的な人々はこう考えます。「私は今日、これだけの富を持っており、私の計画によれば、もっと得るだろう。今はこれだけが私のもので、それは将来、もっともっと増えるだろう。彼は私の敵で、そして私は彼を殺した。そして私の他の敵たちもまた、殺されるだろう。

私はすべてのものの主である。私は享楽者である。私は完璧で、強力で、幸せだ。私は貴族的な親戚に囲まれた、最も豊かな者だ。私ほど強力で幸せな者はいない。私は犠牲を捧げ、いくらかの慈善を施し、そして、そのため(thus、そのようにして)私は歓喜するだろう。」

このようにして、そのような人々は無知によって惑わされます。このように様々な不安によって当惑させられ、幻想の網の目に縛られて、彼らは感覚の満足に過度に執着するようになり、地獄に落ちます。

(3)独りよがりで、いつも厚かましく、富と偽りの名誉によって幻惑されているため、彼らは時として名目上だけで、何らの規則や規律にも従うことなく、誇らしげに犠牲を捧げます。偽りの自我、力、高慢さ、欲、そして怒りに惑わされ、悪魔たちは彼ら自身の体の中と他の者たちの体の中にいる至高の人格神をうらやむようになり、本当の宗教を冒涜します。

(これらの)妬み深く悪意のある者、人間の中で最も低い者たちを、私は永遠に物質的な存在の中へ、生命の様々な悪魔的な種の中に投げ込みます。生命の悪魔的な種の中に繰り返し生を受けるので、おお、クンティーの息子よ、そのような人々は決して私に近付くことができません。徐々に彼らは存在の最も忌まわしい種類へと沈み落ちます。

(第3段落)ギーターからのこれらの節は、悪魔的な性質を巧みに描写します。

(第4段落)いつも、献身者と悪魔という2種類の人間が存在しています(There have always existed、昔から今までずっと)。はるか昔、ラーヴァニャ(*)という名の強大な悪魔がいました。彼はサンニャスィー、放棄階級の托鉢修道者であると自分を偽り、至高主ラーマチャンドラの妻を盗もうとしました。彼女は幸運の女神スィーター・デヴィーでした。このようにして、この悪魔は自らの破滅を招きました。

(第5段落)しかし今、現代では、ラーヴァニャの帝国は何百万にも増えました。これは多くの異なる意見を生み、それが悪魔たちを互いに対して不和(inimical、敵対、反目)にしました。こうして彼らは皆、幸運の女神スィーター・デヴィーをさらおうとして必死に(tooth and nail)競い合っています。

それぞれが「私は最も悪賢い。だから私は自分だけでスィーター・デヴィーを楽しむだろう」と考えています。しかし、ラーヴァニャのように、これらすべての悪魔たちは、彼らのすべての家族とともに滅ぼされています。

非常に多くのヒトラーのような強大な指導者たちが現れましたが、至高主のエネルギーと妃、すなわちスィーター・デヴィー、幸運の女神を楽しみ略奪するという幻想によって魅惑され、彼らすべては過去において妨害されて押しつぶされ、今現在、妨害されて押しつぶされ、そして未来において妨害され押しつぶされるでしょう。「天の配剤において人類は何らの休息も得ることができない」という前述の嘆きの根本的な原因は、主の聖なるエネルギーを略奪して楽しもうというこの悪魔的な精神性です。

(第6段落)悪魔たちは、いつ、あるいはどこで放棄すべきかを知らず、また、いつ、あるいはどこで受け入れたり受け取ったりすべきかも知りません。患者を診察するときには、人はこの受容と拒絶の原則を正しく判断しなければなりません。

そのため、人間の社会の中にある、スィーター・デヴィーを盗もうとするラーヴァニャのような行動様式の原因となる悪魔的な精神性を治すためには、悪魔的な性質が一変されることが絶対に必要です。どのような治療でも、二つの重要な要素は、患者が清潔な環境にいることと、彼の薬と食べ物が時間通りに与えられることです。

同様に、悪魔的な精神性を一変させるためには、人々は規律的(disciplined)で正直でなければなりません。この目的(end)は、「ヤタ・マット・タタ・パトー」、すなわち「意見の数と同じく数多くの救済への方法がある」という理論を唱えることによっては果たせません(to serve)。

なぜなら、人はそのようにして大衆を困惑させ、騙すからです。清潔と不潔、規律と不規律、正直と不正直を同じ水準に持ってくることによっては、人はどんな患者でも治すことも、治療することさえも不可能だと分かるでしょう。

(*)ラーヴァニャは至高主ラーマチャンドラに対抗した悪魔の王でした。(校正:発音記号が抜けている。)この歴史は、聖人ヴァルミキの作とされている「ラーマーヤナ」の中で語られています。
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by ammolitering4 | 2013-05-10 09:40 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

英知による放棄 第1部 第1章

第1部 バーガヴァーネル・カター - 至高存在に関する知識

第1章 この物質自然は悲惨さに満ちている


(第1段落)アッラハバッドで発行されている日刊紙「アムリタ・バザー・パトリカ」の編集者は、先日、やや悲しい調子で社説を始めました。

「我が国の(今)週は『ジャルヒアンワラー・バーグ(*)』の記憶で始まり、そして政治的な農奴制はもはや私たちを悩ませない。しかし、私たちの問題は終わりからは程遠い。天の配剤において、人類は何らの休息も得ることはできない。もしも一種の問題が去れば、次のものが直ちに続く。政治的に自由なインドは、外国の支配の下での問題に劣らず深刻な困難に直面している。」

(*)1919年4月13日、インドのジャルヒアンワラー・バーグでイギリス軍によって1516名が殺傷された。祈りの集会に対するこのいわれのない攻撃は憤慨を生み、イギリスとインドの関係における転換点と見なされた。ガンジーを含むインドの指導者たちは、イギリスはインドの支配を簡単には放棄しないということを、ついに認識した。(訳注:別名アムリットサル事件。以下、ウィキデピアより引用。)

http://ja.wikipedia.org
アムリットサル事件(アムリットサルじけん,Amritsar Massacre)は1919年4月13日、インドのパンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装のインド人市民に対して、グルカ族およびイスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃した事件。アムリットサル虐殺事件、事件の起きた市内の地名をとってジャリヤーンワーラー・バーグ事件Jallianwala Bagh massacreとも呼ばれる。

1917年の英国インド相エドウィン・モンタギューが行った戦後自治の約束(インドの自治を漸進的に実現していくという内容)は形式だけの自治を認めるインド統治法の発布に終わり、1919年3月にはローラット法(インド政庁発布の、破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた法規)が発布された。
4月に入ると、アムリットサル市を中心としてパンジャーブ州では大暴動が発生し、銀行、駅、電話局、教会などが暴徒に襲われ、十数人のイギリス人が殺害されたため、治安部隊が投入され、集会の禁止が通達された。集会の禁止が通達されたものの、4月13日には2人の民族指導者の逮捕に抗議する非武装の集会がアムリットサル市で行われた。
女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為も無かったこの集会の参加者に対してイギリス人のレジナルド・ダイヤー准 将率いるグルカ兵からなるイギリス領インド帝国軍一個小隊が乗り込み、いきなり参加者に対する発砲を始めた。さらに避難する人々の背中に向けて10分から 15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。この後、戒厳令が発令され、暴動は一気に収束したが、この弾圧によってイ ンドの反英運動は激化することになった。
パンジャーブ地方はこののち戒厳令が敷かれたが、すでに1919年4月6日にマハトマ・ガンディーによって始められていた非暴力抵抗運動(サティヤーグラハ(英語版))はこの事件を契機にして大きく進展することとなった。サティヤーグラハの運動理念は、のちにガンディーがインド独立運動を指導するさいにも引き継がれた。
ダイヤー准将の行動は、イギリス政府からも厳しく非難され、大佐に降格の上に罷免された。だが、上院の保守派がかばったことと、本人の健康状態の悪化によって訴追されることはなかった(ダイヤーは1927年に死去)。1940年3月13日、事件時のパンジャーブ州知事だったサー・マイケル・オドワヤーが、事件の生存者によってロンドンで射殺された。

(第2段落)さて、もしも人がインドの農奴制と自由の勘定帳簿を調べ、そしてその内容を霊的な視点から見るなら、結論は次のようなものになるでしょう。サッテャ、トレター、ドヴァーパラ、そしてカリという4つのユガ、すなわち時代は、合計432万年になります。

43万2千年続くカリ・ユガは、およそ5千年前、マハーラージャ・パリークスィットの支配の時代に始まりました。この5千年のうち、およそ千年の間、すなわち西暦1050年のモハンマド・ゴーリの侵略以来、インドは外国による支配を経験しています。

言い換えると、聖典に基づいて計算するなら、インドはマハーラージャ・パリークスィットの支配まで388万8千年の間、地球という惑星全体に完全な統治権を持っていました。このため、わずか千年の外国による支配はそれほど嘆くようなことではありません。

過去においても現在においても、インドの政治的な農奴制または自由は、そのようなことの実際の価値をよく知っていたインドの非常に偉大な(訳注:greatest、この場合はtheが付いていないので、「最も偉大な」ではなく「非常に~な」という形容詞になります)思索家や哲学者の(訳注:~にとっては)主な懸念ではありません。

マハーラージャ・パリークスィットにいたるまで、インドの王は世界中を支配することができました。そして、わずか2世紀ではなく、何百年も何千年もです。彼らの支配の理由は政治的なものではありませんでした。

(第3段落)インドの往時の賢者たちは、私たち人間が苦しむことを運命づけられている三重の悲惨さは、外国の支配であれ、それからの自由であれ、国を支配している政治的な状況によっては決して軽減され得ない、と簡単に認識しました。

現代(訳注:カリの時代)の歴史の始まりの頃、インドで政治的な問題を巡って戦われた大決戦(Armageddon 、ハルマゲドン)はわずか18日間続きました。その歴史的な戦場で人間の苦しみの問題とその永遠の解決策が議論され、この議論はバーガヴァッド・ギーターという形に編纂されました。

(第4段落)このように、数千年の昔、バーガヴァッド・ギーターは「アムリタ・バザー・パトリカ」の編集者が「もしも一種の問題が去れば、次のものが直ちに続く」と意気消沈した論調で書くのと同じ主題を包括的に論じました。

ギーター(7.14)の中で、主クリシュナはおっしゃいます。「物質自然の3つの相から成る私のこの聖なるエネルギーは、克服するのが困難です。」ここで使われるダイヴィー・マーヤーというサンスクリットの言葉は、現代の用語では「自然の法」と訳され得ます。

私たちが新聞にたくさんの記事を書いても、あるいは大きな会議で動議を山ほど上程しても、この自然の法は非常に厳しいので、それを統御することは不可能です。自然の法の支配から私たちを守ることを目的とした、私たちの発達した技術的な、そして科学的な努力は無益です。

なぜなら、それらはみな、全く同じ自然の法、すなわちダイヴィー・マーヤーによって統御されているからです。したがって、自然の法を打ち負かすために俗世の科学を利用しようとするのは、フランケンシュタインを作ろうとするようなものです。

発達した技術を通して人間の苦しみを根絶し、永続的な幸せをもたらす努力は、私たちを「原子の時代」に連れてきました。西洋の思索家たちは、原子爆発が発生させ得る破壊の程度について深く(訳注:gravely、危機的なゆゆしい事態であると思うこと)懸念しています。

一部の指導者たちは原子エネルギーが平和的な目的のためだけに使われる予定だ(how ~ is to be used)ということに関する決まり文句をもって警戒を鎮めようとしていますが、これはダイヴィー・マーヤー、すなわち自然の法によって起こされたごまかしのもう一つの形です。

(第5段落)誰にとっても、ダイヴィー・マーヤーの二面攻撃、すなわち彼女(訳注:このエネルギーはクリシュナの女性エネルギーであるため「彼女」という表現がなされる)の覆う力と投げる力に打ち勝つことは不可能です。

この聖なるエネルギー(訳注:「邪悪」と見なされるダイヴィー・マーヤーの力)を征服しようとすればするほど、彼女が私たちを熱情の相を通して興奮させ、すべてを貪る(訳注:all-devouring、本来は動物の形容で、雑食で植物も肉も何でも食べる性質を表す)死に極まる三重の悲惨さを持って私たちを罰し、私たちはもっと力強く打ち負かされます。

聖なるエネルギーと邪悪な力との間の戦いは永遠です。この戦いを理解することに関する私たちの能力の無さが、私たちを嘆きに導きました。「天の配剤において、人類は何らの休息も得ることはできない。」

(第6段落)
聖なるエネルギーの手で繰り返し敗北を味わったにも関わらず、邪悪な力はなぜ「人類は何らの休息も得ることはできない」かということを理解することができません。それでもバーガヴァッド・ギーターの中で至高の人格神は明らかにこれを説明なさいます。

まず主は邪悪な力に、これらの言葉をもって断固として警告なさいます。(サンスクリット引用)「物質自然の3つの相から成る私のこの聖なるエネルギーは克服するのが困難です。」そして次の行で主は彼らにどうやってこの聖なるエネルギーを克服するかをお教えになります。「しかし、私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」

(訳注:聖なる力と邪悪な力という表現がたくさん出てきますが、ダイヴィー・マーヤーの力はクリシュナの「邪悪な」側面であり、あくまで無敵の聖なる力です。敗北を喫するほうの「邪悪な力」は人類の俗的な努力を指します。)
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by ammolitering4 | 2013-05-10 02:21 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

はじめに

英知による放棄(Renunciation Through Wisdom)

はじめに

(第1段落)国際クリシュナ意識協会は、その膨大なヴェーダ文献、すなわち「バガヴァッド・ギーター」、「シュリマッド・バーガヴァタム」、「チャイタンニャ・チャリタームリタ」を含むバークティ・ヨガに関する本でよく知られるようになりました。

(クリシュナ意識)運動の創設者であって霊的な指導者(guide)であるA.C.バークティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下によるこれら3つの著作は、サンスクリット語とベンガル語の古典を英語に訳して注釈を付けた膨大なものです。

驚くべきことに、シュリーラ・プラブパーダはこれら三作および他の多数のより小さな著作を、1966年から1977年の間のわずか12年間に、各地を旅行し、クリシュナ意識運動の成長を監督する傍らで著しました。

(第2段落)しかし、恐らく多くの人が知らないと思いますが、西洋に来る前、シュリーラ・プラブパーダは母国語であるベンガル語でクリシュナ意識について長年多くの著述をなさっていました。1976年、クリシュナ意識運動に加わったすぐ後、私はシュリーラ・プラブパーダの初期のベンガル語の著述を発見しました。それは、プラブパーダが編集した「ゴーディーヤ・パトリカ」と題する月刊誌の中のエッセイ・シリーズでした。

(第3段落)これらの長いエッセイの一つ、「バーガヴァーネル・カター(至高存在に関する(of)知識)」と題したものは、1948年と1949年、インドが独立を勝ち取ったすぐ後に「ゴーディーヤ・パトリカ」に連載されました。

私は、これがプラブパーダの母国であるベンガル地方で増えている信奉者たちのための素晴らしい小冊子になると思いました。そして、新しく印刷したその小冊子を1977年初めにカルカッタでお見せしたら、プラブパーダは非常に喜んでくださいました。

プラブパーダは明るく輝く顔で私を見て、大きな笑みを浮かべておっしゃいました。「ありがとう。本当にありがとう。どうか私の本を印刷し続けてください。」

(第4段落)非常に勇気づけられたので、私はすぐに「ゴーディーヤ・パトリカ」からできる限りたくさんのプラブパーダのベンガル語の著述を集め、それらを「バークティ・カター(献身の科学)」、「ジニャーナ・カター(霊的な科学の主題)」、「ムニ・ガーネラ・マティ・ブラーマ(幻惑された思考者)」、および「ブッディー・ヨガ(英知の最高の用途)」と題した4冊の小冊子として印刷しました。

最後に、私はすべての小冊子を「ヴァイラギャ・ヴィデャー」という堅表紙の本に編纂しました。それは現在では英訳されて「英知による放棄」と題した本になっています。

(第5段落)私の親しい友人でありゴッドブラザー(訳注:キリスト教圏には子供が生まれたときに親の知人などが宗教的な後見人となって洗礼を受けさせる風習があり、それをゴッドペアレントと言う。ゴッドブラザーはその息子に当たる。この風習は現在では宗教的な意味合いが薄れ、形骸化している。)であるサルヴァバーヴァナ・ダーサが翻訳し、非常に良い仕事をしました。

もともとのベンガル語の随筆の中ではシュリーラ・プラブパーダの深遠な霊的な英知が輝いており(to shine through、光が漏れる、差し込む)、サルヴァバーヴァナ・プラブはこの英知を自分の翻訳の中で巧みに伝えました。

(第6段落)これらの随筆を書いたとき、シュリーラ・プラブパーダはご自分の霊的指導者であるシュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラが創設したクリシュナ意識協会であるゴーディヤ・マターで一介の献身者の役割を演じていた家庭人でした。

それでも、そのときの慎ましい立場にも関わらず、シュリーラ・プラブパーダの著述は彼が紛うことなき純粋な献身者であることを表しています。開かれた心(an open mind)と慈悲深い心(a gracious heart:graciousは目下の者に対して寛大で礼儀正しく慈悲深い様子を表す言葉)を持つ者は誰であれ、その著述からシュリーラ・プラブパーダがずっと自己を認識した魂だったということが分かるでしょう。

(第7段落)ご自分の霊的指導者がそうであったように、シュリーラ・プラブパーダはクリシュナ意識を提示するにあたってシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの教えに厳密に従いました。その教えは、「献身奉仕を実践することから生まれる英知による放棄」を意味する「ヴァイラーギャ・ヴィデャ・ニジャ・バークティ・ヨガ」という言葉に集約されます。

主チャイタンニャの親密な弟子たちの一人であるシュリーラ・サールヴボーマ・バーッターチャーリャによる有名な節の中のこの一句は、本書「英知による放棄」の題の着想の源となりました。

(第8段落)放棄を生じさせるこの英知とは何でしょうか?それはクリシュナへの献身奉仕の成果の一つです。献身奉仕の甘露を経験してヴェーダ文献の知識に浸るようになるとき、人は自然に感覚の満足を嫌うようになり、物質的な呪縛からの自由を得ます。

主クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの中でヴェーダの英知の真髄を語られました。「ギーター・マーハートミャ」、すなわち「バガヴァッド・ギーターの栄光」は、それを次のような詩的な類推法によって表しています。

「牛飼いの少年クリシュナは、子牛アルジュナのためにウパニシャッド(複数、ヴェーダの哲学的な真髄)という牛の乳を搾りました。そして、そうして得られた牛乳がバガヴァッド・ギーターです。自分の霊的な幸せ(welfare)について真剣に考えている聖人的な人々は、その素晴らしい蜜のような牛乳を飲み、味わいます。」

(第9段落)「英知による放棄」の中で、シュリーラ・プラブパーダはバガヴァッド・ギーターの教えを
私たちの理解のために単純化しました。この蜜を飲むと、私たちの望ましくない(unwanted)物質的な欲求によって生じた無知の闇を超越的な知識の輝く日光がすぐにも消し去り、そして私たちの心にクリシュナへの愛が芽生える(to dawn、現れ始める、夜が明け始める)でしょう。

(第10段落)超越的な知識は永遠です。それは決して古びず、流行遅れになることもありません。そうではなく、いつも、いつの時代も、どの場所にも当てはまります。したがって、現代のインドの歴史という状況の中で40年以上も前に書かれたにも関わらず、「英知による放棄」は世界のどこででも、誰もを啓蒙することができます。実に、この英知はすべての時代のすべての人のものなのです。

バークティ・カル・スワミ
ニューヨーク、1991年7月

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皆様お元気でいらっしゃいますか?大変長らくお待たせいたしました。これだけ待たせた上に「はじめに」だけとは何事か、という声が聞こえてきそうですが、ほんとにどうもすみません。あれこれと道草を食うのに忙しく、呆れるほどに遅くなってしまいました。折を見て続きをお届けしますので、またまた気長にお待ちください。今度の本はこちらです。
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by ammolitering4 | 2013-05-01 13:39 | 「英知による放棄」 | Comments(2)