カテゴリ:「英知による放棄」( 44 )

第2章途中まで

第2章 主クリシュナは至高の完全真理である

第1段落
有名な無神論者カピラは、サーンキャーの哲学を広めました(to propagate、思想を普及させる)。彼は、物質世界は24個の物質的な要素から成ると結論しました。すなわち、土、水、火、空気、そしてエーテル;形、味、匂い、音、そして触覚(touch);目、舌、鼻、耳、そして肌;口、手、脚、肛門、そして性器;心、知性、そして偽りの自我;そして自然の3つの相の非顕現なる状態(プラーダーナ)です。

カピラが24個の要素を分析した後で非顕現なる魂を知覚できなかったとき(訳注:~は~の後でも~を知覚できなかったので)、彼は神は存在しないと結論しました。そのため、献身者のコミュニティーは(訳注:献身者たちは)カピラを無神論者と見なします。

第2段落
デヴァフーティの息子である主カピラは、無神論的なカピラとは別人です。主カピラは、至高の人格神の、権限を与えられた化身(an empowered incarnation of the Supreme Godhead)として受け入れられています。

バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、無神論者カピラのサーンキャー哲学と、非顕現なる魂は不存在であるというその主張(contention、論点)を論駁なさいます(to refute、誤りを明らかにする)。ギーター(7.4)において、主クリシュナはまた、物質的な材料はすべてご自分の統御と監督の下にあるとも立証なさいます(to establish、確証)。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、そして偽りの自我---これらの8つは、総合して私の離れた物質的なエネルギーを構成します。」

第3段落
主クリシュナとは誰で、主のもともとの形とは何でしょうか?主の富(opulence、贅沢で豊富な様子)、力、名声、美、知識、そして放棄について知らない限り、人は決して純粋な献身奉仕の領域に入ることはできません。チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)にはこのように述べられています。

(サンスクリット引用)

「真摯な学徒は、論争の的になる(controversial、議論の余地がある)と考えて、そのような哲学的な結論の議論(訳注:~について議論すること)を怠る(to neglect、軽視する、無視する)べきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。そのようにして、人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」

第4段落
クリシュナの知識のうちに位置し、それに応じて活動する者は、献身奉仕を遂行しています。カピラによって伝授された(to be initiated)過程を辿る(to pursue、遂行、追求)にあたって、人間は何百年も何千年もの間、同じことを見抜く(to fathom)ことに失敗してきました。(訳注:文脈から、「同じこと」とは「カピラによって伝授された過程」を指すものと思われます。)

至高主クリシュナは、ほんのいくつかの言葉で神秘の覆い(shroud)を持ち上げ(to lift、取り除く)、真理を明らかになさいました。「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、そして偽りの自我---これらの8つは、総合して私の離れた物質的なエネルギーを構成します。

これらの他に、おお、強大なる(might-armed、mightは腕力や権力、armは武器や武力を指す)アルジュナよ、もう一つの、私の優性なるエネルギーがあり、それはこの物質的な、劣性なる自然の資源を搾取している生命体から成ります(to comprise)。

すべての作られたものは、これら二つの自然にその源を持っています。この世界の中の物質的であるもののすべて、そして霊的であるもののすべてについて(Of all that is material and all that is spiritual in this world)、私が源でもあり終わり(dissolution、溶解、解体、解散)でもあると、確かに知りなさい。」

第5段落
この真理を理解できない者は献身奉仕の科学から遠いままに留まり、他方でそれを理解する者は自分の献身生活において強められます。主クリシュナは至高の人格神、至高の男性です。そのため、至高の男性が存在するとき、自動的に物質自然、主の女性の片割れ(counterpart、相対物、対になったものの片方)は、主に奉仕をするために存在します。

偽って至高の人格の振りをする者は、物質自然を支配した(to have ~ at their disposal、~を自由にする)と主張し、自然はもはや主クリシュナの支配下(beck and call)にはないと結論します。もちろん(naturally)、これは馬鹿げており(absurd、不合理)、愚か者だけがそのような主張をします。

第6段落
同様に、至高の人格はプラクリティ、すなわち自然に従属している(subservient、卑屈、屈従)と提議する(to propound、説を述べる)哲学的な学派もまた、真理から遠くかけ離れています。人が自然についてだけ考えるとき(when one thinks about nature and nothing further)、考えは不完全なままになります。

人は、「それは誰の自然だろうか」と問わねばなりません。自然は誰かに所属しなければなりません;彼女は自分だけで存在することはできません。そのため、確立されなくてはならないのは、至高の人格、すなわちプルシャの自己認識(identity)---男性の要素(factor)です。

プラクリティはシャクティ、すなわちエネルギーと同じです。エネルギーを通して、知性的な人はエネルギーの所有者を探し求めます。ウパニシャッドと他のヴェーダの聖典は、ブラーマンが完全真理、そして様々な(multifarious)エネルギーの所有者であり源であると、明らかに述べます。

バガヴァッド・ギーター(14.27)において、このブラーマンはクリシュナの身体的な光輝であると言われます(ブラーマノ・ヒ・プラティシュターハム)。これはブラーマ・サムヒター(5.40)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主の光輝は、ウパニシャッドにおいて言及されている、区別されていない(nondifferentiated)ブラーマンの源です。俗的な宇宙の栄光の無限( infinity)から区別されているので(differentiated)、分割できない(indivisible)、無限の(infinite)、限りない(limitless)真理であるように見えます。」(訳注:原文は長い一文)。

第7段落
ブラーマンは、この現象の世界において、あまねく存在する(all-pervading)エネルギーとして存在します。したがってヴェーダはブラーマンを、形がない、非人格的、純粋などと定義しました。しかし、ブラーマンの源は、物質的な形は持たないけれど、霊的な力とすべての神聖なる性質に満ちた超越的な形を持つ、永遠の人格(personality)です。

主は至高の人格神、永遠性と知識と喜びの体現です。主は六つすべての超越的な富を無限の(infinite)程度に持っておられ、主は非常にすばらしい(superexcellent)娯楽をなさり、そして主だけがすべての聖典において捜し求められ、知られています。

物質主義的な、結果を求めて働く者たちは、この至高の超越的な人格(personality、名士)が俗的であると考える間違いを犯し、そしてそのため彼らは偽の献身者へと堕落することになります。

そして、無味乾燥な推量者たちは、完全存在に関する知識を求める探求において、物質的な現象によってはねつけられた(to be repulsed、後退させられた)ため、至高の人格神の超越的な形もまた反発的(repulsive、ぞっとするほど不快な様子、という意味もある)であると考え、そうして、知識を得るための自分たちの上昇的な(ascending、昇順)過程は不十分で劣っていると、明らかに証明しています(to prove)。

(訳注:「上昇的な知識」の反対は「下降的な知識」、すなわち「権威のあるものから従順に学んで得る知識」であり、知るべくもない事柄について限られた能力と経験からあれこれと推量する人々は、その過程で「はねつけられる」、つまり壁にぶつかって嫌な思いをする。そして、そのような不快な経験を元に推量して、至高の人格神についても不快さを投影した考え方をする、というような意味と思われます。)

これらのグループはどちらも霊的に痛ましい(pathetic、哀れ)状態にあります。したがって、彼らの上にご自分のいわれのない慈悲を授ける(to shower、浴びせかける)ために、至高主はご自身とご自分の超越的な力に関する真理をバガヴァッド・ギーターにおいて明かされました。

第8段落
前述の8つの材料が物質自然、すなわち至高主の外的な力を構成します。これらの物質的な材料---土、水、火、空気など---は自由意志を持たず(to be devoid of~、欠けている)、そしてそのため、それらは主の劣性なエネルギーとして知られています。

対照的に、劣性なエネルギーを活性化させる力は、主の優性なエネルギー、すなわち霊的な力として知られています。本質的に(on principle、主義として)、エネルギーは享楽者ではあり得ません。一つのエネルギーがもう一つのエネルギーを楽しむこともできません。エネルギーは楽しまれる者であり、エネルギー的なもの(the energetic)が享楽者です。

第9段落
生命体は主の優性な、霊的なエネルギーの産物であり、そしてそのため彼らは、常に意思力(volition)を持たない(devoid of)土、水、火などより優れています。しかしそれは、生命体が完全な統御原則である至高主と同じ水準にあることを意味するのではありません。

不活性な(inert、自動力のない)物体に対する霊の優位性を識別する(discern、はっきりと分かる)のは簡単です。ジーヴァの原則は、動いて(to set into motion)この物質世界の中のすべてのものを維持する(to sustain、支える、養う)ことです。

そしてもしもジーヴァが物質自然を支配しようとしなかったなら、それならこの現象の世界に多様性
(訳注:variegatedness、一般的な言葉ではなく、インドの霊的な文章において限定的に用いられる。variegatedは葉のまだら模様を指す言葉)はなかったでしょう。

物質的な要素は、もしもジーヴァがそれらを統御して楽しむ傾向を持たなかったなら変わらないままだったでしょう。物質エネルギーの、意識的な生命体との結びつきを通してのみ(訳注:~が~と結びつくことによって初めて)、土、木、石、そして鉄などの物質(substances)は、巨大で立派な建物、工場、そして都市などを生じさせるように組織化(to be orchestrated、統合)され得ます。物体はそれ自身を組織化することはできません。

第10段落
上述のこと(foregoing)から、この巨大な宇宙の創造、およびその無数の惑星系と天体(heavenly bodies)は、何らかの優性で強力な意識の干渉(interference)を通してのみ生じた(to come about)と、(人は)理解することができます。

物体は不活性で、自発的な活動をする能力がなく、そして意識が24個の物質的な材料を活性化して物質自然の中に多様性を見せるようにしたというのは、疑いの余地がありません。これらすべては、物質自然の中の生来の不十分さと部完全さを証明します(to go to prove)。

そのため、超越的な幸せは霊的な多様性においてのみ可能です。バガヴァッド・ギーター(7.5)において主クリシュナは、ジーヴァがご自分の優性なるエネルギーに属すると確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「これらの他におお、強大なるアルジュナよ、もう一つの、私の優性なるエネルギーがあり、それはこの物質的な、劣性なる自然の資源を搾取している生命体から成ります。」(訳注:これは第4段落で引用されたものと同じ。)

第11段落
霊魂(ジーヴァ)は、主の優性なる、霊的なエネルギーから生まれるため、それは物質エネルギーとはほとんど共通するところがありません。ちょうど、水生生物が陸に何の関係(affinity、密接な関係、親近感)も持たず、陸の獣は水中では場違いであるようなものです。

物質的なエネルギーと霊的なエネルギーの間の外見上の(apparent)密接な関わりは、実は幻想です。ジーヴァは霊的なエネルギーの産物であるため、物質エネルギーを搾取しようとします。しかし、究極的にそのような試みは失敗します。

なぜなら、一つのエネルギーにとって、もう一つのエネルギーをいつも搾取して支配するのは不可能だからです。しかし、ジーヴァは永遠に、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic)、主クリシュナに奉仕をすることができます。

ジーヴァが主に奉仕をするための努力において物質エネルギーを搾取するとき、その活動は超越的---犠牲の遂行です。他のどの種類の活動も、(訳注:結果として)物質主義的な、結果を求める仕事だけになります(to amount to~、本来は数量が最終的に特定の数となって計上されることを指す)。

第12段落
ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)において、3つの種類のエネルギーについて読むことができます(訳注:~についての記述があります)。

(サンスクリット引用)

「主ヴィシュヌの力は、3つの区分に要約されます---すなわち、霊的な力、生命体、そして無明です。霊的な力は知識に満ちています。生命体は、霊的な力に属してはいますが、幻惑の影響下にあります(subject to bewilderment)。そして、無明に満ちた第三のエネルギーは、いつも、結果を求める活動において見られます。」
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ほんのちょっとですみません。翻訳そのものは第4章まで進んでますが、最近どうも忙しくてくたびれているので、家に帰って清書する気力があんまりないのです。最近はほぼ毎日プールで歩いて運動しています。泳げばもっといい運動になると思うのですが、泳ぐのはあまり上手じゃないし、水に顔をつけるのがあまり好きではないという情けない理由もあって、歩いているのです。それからジェットバスに入って温まり、さらにサウナに入って蒸し上がる、という日課です。そのおかげですご~く健康になったかというと、そうでもないような気もするのですが、まあ、基礎体力をつけるためにできるだけ続けようと思っています。
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by ammolitering4 | 2014-05-15 15:09 | 「英知による放棄」 | Comments(6)

「英知による放棄」 第2部 第1章

第2部 バークティ・カター、献身の科学

第1章 主クリシュナに奉仕をすることによってすべてが得られる

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕の科学について教えておられる間に、主チャイタンニャは物質世界と生命体について幾らかの詳細を論じられました。主は、生命の840万種---90万の水生生物、200万の植物、110万の虫、100万種の鳥、300万種の獣、そして40万種の人間のうち、ホモ・サピエンスは明らかに少数派に属すると指摘なさいました。

さらに、人間は3つの区分に分けられます。すなわち、文明化されていない者、半分文明化された者、そして文明化された者です。また、文明化された部類に属するはずの多くの者たちが、楽しみという目的のためだけに制約も規律もなく(without restraint and discipline)振舞います。

このようにして彼らは他の者たちに(for the rest)混沌を作り出します。人生における彼らの唯一の目的(intention、意図、意思)が自分の感覚(楽しみのための彼らの道具)を満足させることであるため、彼らはいつも自分の感覚を良好な動作状態に(fit working condition)保とうとします。

彼らは、若さの活力(vigor、精力、元気)をもって楽しむのに年を取りすぎると、自分の体に猿の臓器を移植することさえします(to go to the extent of~)。

第2段落
そのような全くの(gross)感覚享楽者たちは、心は感覚器官(sense organs)よりも精妙(subtle)で、それらより優れている(superior)ということを理解しません。心より優れているのは知性であり、そして知性の背後には偽りの自我があります。

それは知性より遥かに優れており、霊魂を覆っています。魂の存在に関する哲学的な探究(inquiry)は、これらの全くの物質主義者にとって手の届かないものであり続けるでしょう。全くの感覚享楽者は、実際は動物の中に数えられます。

なぜなら、人間には単に自分の感覚をくすぐる(to titillate、(性的に)刺激する)より他に、取り組むべきもっと真剣な事柄があるからです。そのため、彼(訳注:人間)はすべての生命体の中で最も発達していると考えられます。

そして実に、私たちは一部の人間が人間の人生の重さ(gravity、重大さ)を理解しているのを見出します(訳注:そして実際、一部の人々は人間の人生の重さを理解しています)。彼らは混沌とした暮らしを注意深く避け、聖人的な人々の模範的な人生を熱心に見習い(to emulate、手本として真似る)、そして自分の人生を人間の人生の目的を満たすように方向付けます(to direct)。

第3段落
様々な宗教---キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、仏教など---の信者は皆、自分の信仰(belief)の強さと彼らのそれぞれの国における状況に応じて、自分の信仰(faith)の規則に従います。主クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(7.3)において、これらの人々のことをこう語られます。

(サンスクリット引用)
「何千人もの人々のうち、一人が完成のために努力するかもしれません。そして、完成を得た者のうち、ほとんど一人も私を本当には知りません(hardly one knows Me in truth)。」

第4段落
記憶にないほどの昔から、生命体は多くの、より低い生命の種を通り抜けて来ており、徐々に進化の過程を通して上がってきて、そして何らかの幸運が原因で人間の生を受けます。より低い生命の種においては、霊魂は物質的な相に厚く覆われており、そしてそのため、肉欲(carnal appetites、肉体的、現世的な欲求、色情など)が彼らの人生を支配します(to dominate)。

人間の種の中では、一部の人々は感覚の喜びを弾劾し(to denounce、公然と非難する様子)、聖人、ヨギー、哲学者、学者などとして称えられます(to be honored)。彼らは鈍い(gross)感覚的な経験よりはるかに優れた精神的な(mental)知覚(perceptions、認識、理解、物の見方)を経験し、そして優れた知性(fine intellect、理知、英知)という、さらに精妙な水準に至るかもしれません。

しかし、知性(intellect)よりもさらにもっと精妙なのが霊魂です。そのため、本当の霊性(spirituality)、すなわち生命体の本当の宗教は、自己のうちに位置することを意味します。

第5段落
自己の宗教以外、すべての道と宗教は、食べること、眠ること、性交すること、そして危険から身を守ることのみから成る、偽りの(pseudo-)霊的な練習(exercises、運動、儀式)です。これらは、動物の主要な活動です。

より低い種は、自己、すなわち魂の宗教を遂行することによって自分自身を上げることができません。しかし、人間は本質的に(inherently、生得的)に自己の宗教を実践する(to practice)ことができるので、一部の者は完成に至るために努力します。

人間としてのみ、人は「自分は誰だろうか?」そして「なぜ三重の悲惨さがいつも私に問題(trouble)を与えるのだろうか?」などの問いかけをすることができます。

第6段落
人間の人生だけが人に終わりのない幸せを得る機会を与えます(to afford~the chance to~)。この人生において、人はこう考えるべきです。「私は苦しみを欲しないにも関わらず、それはそれでもやってくる。私は死を望まないにも関わらず、それは力づくで私の命を取り去る。

私は老いを嫌悪する(to detest、忌み嫌う、憎悪)にも関わらず、若さが終わると私は必ず老い始めるだろう。そして私は病気と災害から自由であろうとするが、それらは決して私を一人にしておかない。」これらすべての苦しみを見るにも関わらず、愚か者は自分の人生を快適にするために一所懸命に働きます。

他方で、知性的な人は自分の状況を冷静に考え、自分の苦しみを完全に(once and for all、これを最後にきっぱりと、一思いに)終わらせるための最良の方法を考えます。そのような考えが頻繁で真摯(sincere、嘘偽りのない、心からの誠実な気持ち)になるとき、彼の探求は彼を完全真理について問うことに導きます(訳注:~になるとき、彼は~について探求し始めます)。」

そのような人は自己認識の道を歩み始めます(to take up)。彼は多くの義務を持っているかもしれませんが、過去の徳のある活動のおかげで、そのような賢い人はこれらの義務を果たし、同時に、誕生、死、老いと病気という現実に向き合います(to confront、直面し、大胆に立ち向かう)。

第7段落
完成のために努力する者たちの、より低い階級(stratum、層)は、カルミー、すなわち自分の感覚を満足させることを求める(to look to~、関心を向ける)、結果を求めて活動する者たち(fruitive workers)です。彼らより上なのはジニャーニー、すなわち知識を求める者であり、彼らは自分の感覚の衝動(urges)を抑制し(to restrain)、精妙な、精神的な水準に位置するようになります。

彼らより優れているのは、神秘的な完成を求めるヨギーたちです。主チャイタンニャは、これらすべての人たちをアシャーンタ、落ち着きがないと表現なさいました。彼らの中で、すべての物質的な呼称(designation)から自由で、偽りの自我を捨て去っていて、自己のうちに位置していて、そうして解放されている者---彼らだけが主クリシュナ、至高の人格を真に理解することができます。

彼らがクリシュナ意識の科学に完全に精通するようになるとき、そのような聖人的な魂は、いかなる外的な呼称にも関わらず、すべての人類にとって霊的指導者として活動することができます。主チャイタンニャはこれをチャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー8.128)において確認なさいます。

(サンスクリット引用)
「人がブラーマナ、サンニャースィー、あるいはシュードラ---何であれ---もしもクリシュナの科学を知っているなら、彼は霊的指導者になることができます。」

第8段落
したがって私たちは、カルミーもジニャーニーも、クリシュナへの献身奉仕の科学の深さを見抜く
(to fathom、深さや心中を推し量る)ことができないと結論することができます。特に愚かなカルミーは資格がありません(to be disqualified)。

なぜなら、彼らは主クリシュナを死ぬべき運命にある存在(mortal)と考え、主へのこの軽視(disregard)が彼らを、バガヴァッド・ギーターにおける主のお言葉の意味を誤解する(to misconstrue、解釈を誤る)ことに導くからです(訳注:彼らは~と考え、そのように主を軽視することで~するようになるからです)。

第9段落
今はカリの時代の邪悪な影響の呪縛のうちにある人類は、いかなる霊的な文化にも無感覚(callous)になりました。そのため人々は自分の時間を、食べること、眠ること、性交すること、そして身を守ることという動物的な活動において過ごします。

至高主、クリシュナに関する霊的な知識を培うことに関しては何をか言わんや?彼らは宗教的な儀式や超越的な知識の探求に時間を割くことさえできません。もしもカルマとジニャーナを培うための霊的な指針に厳密に従うなら、人はクリシュナの科学をある程度理解するのに十分なほど、自分の意識を浄化することができます。

ジニャーナの最終的な結論は、人がいったん完全存在との一体化の段階に至れば、そのとき、より高い水準、すなわち主クリシュナへの献身奉仕の扉が開く、というものです。この一体化の段階はカリ・ユガの人々にとって到達するのがほぼ不可能なので、バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が、ご自分にどうやって献身奉仕をするかという科学をお教えになりました。

それから、この時代の不運な人間たちはご自分自身(訳注:クリシュナ)のお言葉さえも誤解することをご存知だったので、主クリシュナはご自分の個人的な例を通してバガヴァッド・ギーターの真髄を世界に教えるために、再び---今度は主の純粋な献身者、チャイタンニャ・マハープラブという形で---お現れになりました。

第10段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、ご自分がすべてのものの源であるとおっしゃいます。ねたみ深くてずる賢い(cunning)人々はこの事実を論駁(to refute、論破、異議を唱える)しようとします。そのため主は主チャイタンニャとして現れ、主クリシュナがすべてのものの源であるとお教えになりました。

主クリシュナの教えと主チャイタンニャのそれとの間には、何の違いもありません。崇拝の対象は同じです。それでも、この時代の不運な人々は、これらの教えを受け入れることを拒否します。彼らにクリシュナ意識を与えようとするのは、有名なことわざ(expression)にあるように、「豚に真珠(casting pearls before a herd of swine)」です。

カリ・ユガによって苦しめられている(to be afflicted)人間たちは、豚の群れのようです。主は、主ブラーマーによってさえ滅多に得られないクリシュナへの献身奉仕の科学を広く教えることによって、彼らに限りない慈悲をお見せになりました。

それでも、彼らにとってこの貴重で稀なもの(commodity、価値があって役にたつ物)を手に入れる(to come by)のがとても簡単だったので、彼らは自分たちに見せられた慈悲を悪用しました(to abuse、粗末に扱う)。これは彼らの不運のもう一つの顕現です。

彼らに自己認識の科学を教えることによって、主クリシュナはこの時代の人々を肉体的な(carnal)喜びの中で屈服する(to grovel、這いつくばる、卑屈になる)ことから救おうとして、二度、個人的に試みられました。そしてどちらのときも、彼らはそれらの神聖なる教えを感覚の満足を追及するための方法(means)と口実(excuse)に変えました(to convert、改造する)。

第11段落
色鮮やかなガラスの人形とダイヤモンドを見せられたとき、子供は自然に、高価な(priceless、値段がつけられないほど大変に貴重な)ダイヤモンドではなく、人形に魅了されます。同様に、カリ・ユガの人々は限られた知性を授けられているので、クリシュナへの献身奉仕という高価なダイヤモンドを退け、代わりに、結果を求める活動と無味乾燥な推量という安い人形を選びました。

ちょうど、子供が貴重な(invaluable)ダイヤモンドで何千もの安いガラスの人形が買えることを理解できないように、カリ・ユガの知性に劣る人々は(サンスクリット引用)ということを理解できません:「主クリシュナに超越的な献身奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての従属的な(subsidiary)活動を行います。」

第12段落
クリシュナ意識の科学を知る者は、自動的に、結果を求める活動、推量的な知識、ヨガ、慈善、苦行(penance)、禁欲(austerity)、そしてマントラを唱えることなどの従属的な主題(subsidiary subjects)を知ります(to know of~、何かを間接的に知る様子)。

主クリシュナはこれをシュリマッド・バーガヴァタムにおいて確認なさいます。「私への献身奉仕を行うことによって、私の献身者は簡単に、苦行(penances)、結果を求める活動、哲学的な推量、放棄、ヨガ、慈善、宗教性、そしてその他の徳のある行いをすることによって得られるすべてのものを得ます。」
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ずいぶんお待たせいたしました。「英知による放棄」を再開します。分厚いのは嫌だ、という理由でためらっていたいたので、とんでもないことと知りながらも、本を分割して薄くしてしまいました。プラブパーダ、ごめんなさい。。。まあ、その甲斐あって軽く小さくなったので気分的にも楽で、あちこち持ち歩いては隙間の時間に進めています。続きはまたそのうちにお届けします。ごきげんよう。
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by ammolitering4 | 2014-05-05 05:03 | 「英知による放棄」 | Comments(4)

第1部 第9章 最後まで

第26段落
カルマ・ヨガについては何をか言わんや。八重のヨガの下位の(lesser)修行法においてさえ、ヨギーがサマーディーという目的地に至る道で為すいかなる進歩も、たとえ彼が一度の人生に究極の目的地に至れなかったにしても(although he many not reach~)無駄にはなりません。次の人生(next life、来世)で彼は進歩を続けます。

対照的に、結果を求めて働く者が死ぬとき、何であれ彼が得た富と教育は、それらを得るために為された努力と共に、すべてがゼロ(null、無効)で無(void、虚無)になります。純粋なカルマ・ヨギー、すなわち献身者に関して言えば、彼の献身的な活動はすべて心と体の水準を超えています。

それらは魂と至高の魂(the Supreme Soul)に関わっており、そしてそのため彼の活動は彼の純粋で永遠な魂の富になります。ちょうど魂が決して体の崩壊と共に滅ぼされることがないように、そのためこの献身奉仕という(of)富は決して価値を失いません。

そのためバガヴァッド・ギーターは、カルマ・ヨギーはいつも自分の魂の利益と上昇のために働く、そしてこの努力とその結果は今世と来世において恒久的な霊的な財産であり続ける、と述べます。これらの霊的な財産は、決して失われません(to liquidate、倒産して資産を整理する)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.40)においてこうおっしゃいます。「プリターの息子よ、縁起の良い(auspicious)活動に携わる超越主義者は、この世界においても霊的な世界においても、破滅を迎える(to meet with destruction)ことがありません。善を為す者は、我が友よ、決して悪によって打ち負かされません。」

第27段落
人間は二つの部類に分けられます。法に従う者たちと法を破る者たちです。自分の感覚を満足させることだけを気にして規律(discipline)や法律に従わない者は、全く統御されておらず、動物のようです。そのような統御されていない人が文化的であろうがなかろうが、教育があろうがなかろうが、弱かろうが強かろうが、彼の行為はいつも動物的(bestial、獣のような、野蛮な)です。彼らは決して誰にも利益を与えることはできません。

第28段落
法に従う人間は、さらに3つの部類に分けられます。カルミー、すなわち結果を求めて働く人々、ジニャーニー、すなわち知識を探し求める人々、そしてバークタ、すなわち献身者です。カルミーは二つの区分に分けられます。サカーマ・カルミー、すなわち自分の労働の結果を楽しみたい結果を求めて働く人々、そして、行為の結果を放棄するニシュカーマ・カルミーです。(訳注:文字の区切りが分かりにくいですが、「結果を求めて働く人々」が一つの区切りです。)

サカーマ・カルミーは、取るに足らない、つかの間の幸せを貪欲に追い求めます。彼らは自分の俗的な活動において進歩し、来世で(in the life hereafter)天国的な惑星を楽しみますが、その楽しみのすべては一時的です。したがって、魂の本当の利益は彼らを避けます(to evade)(訳注:~は得られません)。

第29段落
物質的な呪縛の消散(dissipation)の後でのみ来る、本当の永遠の幸せを得ることは、魂にとって本当の利益です。そのため、この至高の目的地---永遠の超越的な幸せ---を魂が追い求めることに繋がらないあらゆる道は、役に立たないと考えられます。

永遠の喜びが儀式的な活動(カルマ・カーンダ)の目的地であるとき、そのときそれらはカルマ・ヨガに変わります(transformed)。カルマ・ヨガの実践を通して、心は物質的な汚染から清められ(purified of~)、そして人は完全存在に関する(of)知識を得ます。

その後、人は完全存在への(on)瞑想に位置するようになり、そして最終的に人はバークティ、純粋な献身奉仕に至ります。カルマ・カーンダの過程において、人は一時的に(for a time)身体的な喜びを放棄することが勧められます。そのため、カルミーは時として苦行者(ascetic、禁欲主義者)と呼ばれるかもしれません。

それでも、カルミーがどれだけ苦行を行おうと、究極的にこの苦行は感覚的な喜びのもう一つの形です。なぜなら、それがその究極の目的地だからです。悪魔もまた、自分の力を増すために苦行を行いますが、それはすべて単に自分の感覚を楽しむためです。

生命体がいったん感覚的な喜びを追い求める段階を超越すると、彼は簡単に、全ての点において(in all respects)善(good)であるカルマ・ヨガの段階に来ます。そのような人だけが社会に利益を与えることができます。

第30段落
カルマ・ヨギーがこの人生(this lifetime)において為す霊的な発達は完全なままで(intact、損なわれない)留まり、そして彼は来世においてその時点(point)から続けます。バガヴァッド・ギーター(6.43)において主クリシュナはおっしゃいます。

「そのような生を受けて、彼は前世の神聖な意識を蘇らせ、そして再び完全な成功を得るためにさらなる発達をしようとします、おお、クルの息子よ。」次の生において、不成功に終わったヨギーは敬虔なブラーマナあるいは裕福な商人の家庭に生まれるかもしれません。

ヨガにおける失敗について語るとき、私たちはカルマ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、そしてジニャーナ・ヨギーを指しています。これらの道を辿る者の中で、カルマ・ヨギーは純粋な献身者になるのに一番近いところにいます。彼は自分の活動を至高主への奉仕に捧げたからです。徐々に、このように活動することで、彼はバークティ・ヨギーになります。そのようなヨギーは最も高い階級にあり、そして彼は他のすべてのヨギーを教え導く資格があります(fit to instruct)。

第31段落
バガヴァッド・ギーター(6.47)で主クリシュナはおっしゃいます。「そして、すべてのヨギーの中で、いつも私の中に留まり、大いなる信仰(faith)があり、自分の中で私のことを考え、そして私に超越的な愛情ある奉仕をする者---彼はヨガにおいて私と最も親密に結びついており、そしてすべての者のなかで最も高い者です。それが私の意見です。」

第32段落
結果を求めて働く者は、ヨギーのうちには数えられ得ません。本当のヨギーは、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、アシュターンガ・ヨギー、そしてバークティ・ヨギーです。事実としては、彼らは異なる名前を与えられてはいますが、同じです。ヨガの過程は、人が完全真理という最終的な目的地にむけて徐々に上がるハシゴのようなものです。

ニシュカーマ・カルマ、すなわち自分の労働の結果を放棄することは、このハシゴの最初の一段です。それに知識と禁欲が加えられるとき、それはジニャーナ・ヨガ、このハシゴの第二の段になります。そして至高存在への瞑想がジニャーナ・ヨガに加えられるとき、第三の段階、すなわちアシュターンガ・ヨガに至ります。

最後に、アシュターンガ・ヨガとともに至高主への愛情ある献身奉仕が実践されるとき、それはバークティ・ヨガに変わります。この段階的な過程全体がヨガです。ヨガという主題の正確で明瞭な叙述のために、4つの段階のすべてが別々に説明される必要があります。

人類にとって最良のものを望む者は、ヨガの道を辿ります(to take to、習慣づける)。ヨガにおいて発達するための過程は、まず、決意と、それぞれの段階での修行を厳しく遂行することを必要とします。人がある段階にしっかりと位置しているとき、彼はそれから次の(next higher)段階に自らを上げるために、その段階の修練(practices)への執着と固守を放棄(to relinquish)しなければなりません。

何らかの理由で頂点に至ることができず、4つの段階のどこか一つで止まってしまった(to get stuck)者は、その特定の段階の名称を得ます。そうして、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、アシュターンガ・ヨギー、そしてバークティ・ヨギーがあるのです。

主クリシュナはアルジュナに、ご自分、至高主に愛情ある献身奉仕を捧げる者はすべてのヨギーの中で最も高い者であり、アルジュナはそのため、そのようなバークティ・ヨギーになろうと努力すべきである、とお教えになります。

第33段落
段階的な、順を追った霊的な道は、物質的な世界における順を追った発達と同じではありません。俗的な過程では、発達の規則は厳密であり、飛び越えられ得ません。もしも人が大学で博士号を得たいと望むなら、彼は小学校の段階から始めて徐々に上へ向かって努力せねばなりません。

その前の学校教育無しで直接大学に行くことは不可能です。しかし、霊的な人生では、厳密な規則があるにも関わらず、至高主の恵み(grace)によって、人は多くの中間的な段階を飛び越え、頂点、すなわち「博士号」という段階に至ることができます。

人はこの神聖な恵みを、至高主との親密で絶え間ない関わりによって得ることができます。そしてそのような主との親密な関わりは、至高主の純粋な献身者との内密な関わり(confidential exchange)を通してもたらされます(to come about)。私たち一人一人は、至高主と親密に、そして永遠に関係しています。しかし、マーヤーの悪い影響によって、私たちは主との自分の関係を忘れてしまいました。

第34段落
生命体は主の息子のようなものであり、そしてそのため彼らは自分の裕福な父親の巨大な富の正当な継承者です。しかし、前世で犯した罪への反応のために(because of)、彼らは家を持たず、厳しい貧困に苦しみながらさまよっています。

生命体が苦しんでいるというのは誰の目にも明らかです。しかし、彼らは自分の裕福な父親が誰であるか、あるいは自分の価値ある遺産を受け取る(to reclaim、取り戻す)ためにどこに行けばよいのかを知りません。正しい知識無くして、彼らは無駄に(in vain、徒労に終わる)貧困から逃げ出そうとしています。

貧しい物乞いのように目的もなくさまよいながら、彼らは自分を助けてくれると約束する多くの者たちに出会いますが、最後にはそれらの助っ人たちは自らも物乞いであることが分かります。これらの見知らぬ者たちの中の2~3人は豊かで繁栄しているように見えますが、彼が出す指示は父の家には至りません。

そしてそのため、生命体の貧困には終わりがありません。豊かな見知らぬ人々は、カルマ、ジニャーナ、デャーナなど多くの道を勧めますが、貧困という問題は解決されないままです。生命体は、至高主への献身奉仕の科学を学んで実践することによってのみ、貧困から抜け出すことができます。

至高の人格神でありすべての化身の源であるチャイタンニャ・マハープラブは、プラヤーガ(アッラハバッド)でシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕の科学を説明しました。これらの教えは、すべての人類にとって教えの至宝(crest jewel)です。

シュリー・チャイタンニャ・チャイタームリタ(マデャー19.151)において、主はおっしゃいます。「自分のカルマに応じて、すべての生命体は宇宙全体をさまよっています。一部の者は上位の惑星系に上げられており、別の者たちは低位の惑星系に下がります。

無数の(many millions)さまよう生命体の中で、非常に幸運な者は主クリシュナの恵みによって本物の霊的指導者と関わる機会を得ます。主クリシュナと霊的指導者の両方の慈悲によって、そのような人は献身奉仕のつる草の種を受け取ります。」

第35段落
主クリシュナの慈悲によって、この献身の種はバガヴァッド・ギーターの中で得られます。この献身の種を受け取ることのできる者だけがバガヴァッド・ギーターの解説を理解することができます。そうでなければ、単にバガヴァッド・ギーターを繰り返し読むこととその教えを議論することは、何らの結果も生じさせません。

第36段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分に関する真理を明かされます。普通の、命に限りのある者が自伝を書くとき、彼は多くの賞賛を受け取ります。しかし、至高主がご自分についてお書きになるとき、私たちは不幸にして主のお言葉を完全に信じません。

さらに、私たちは主の文章の中の極めて重要な(cardinal)事柄を見落とし、あまり重要でない(lesser)主題について、でっちあげた含意(connotation)と意味(meaning)を与えることでそれらを拡大しようとして、つまらない議論をします。

この実践はあまりの不条理さ(absurdity、馬鹿らしさ、愚かさ)にまで引き伸ばされているので、もともとの意味が失われ、一方に傾いた(lopsided)結論が読者から嘲笑だけを惹き付けます(訳注:馬鹿馬鹿しいまでに歪んだ拡大解釈がなされているので、本来の意味は失われて一方的な結論が出され、読む人に嘲笑される結果となっています)。

バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、明解に(unequivocally)、ご自分が至高の完全真理であり、ご自分に愛情ある献身奉仕を捧げることがすべての者の義務であると宣言なさいます。バガヴァッド・ギーターは、これらの二つの主要な点を説明するという唯一の目的のために明かされました。

それらを理解する者は、初心者の献身者として霊的な人生を始める資格があります。シュラーッダー、すなわち信仰(faith)は、霊的な人生における最初の必修事項であり、初心者の献身と同義であると描写されています。このため、シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.62)にはこう述べられています。

「クリシュナに超越的な愛情ある奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての補助的な活動を行います。献身奉仕の遂行にとって好ましい、この揺るぎない(confident、確信した、自信に満ちた)堅固な信仰は、シュラーッダーと呼ばれます。」

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以上で第一部を終わります。第2部は、、、またそのうち忘れた頃にお届けいたします。。。どうぞ気長にお待ちくださいませ。
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by ammolitering4 | 2013-08-28 15:16 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第1部 第9章 25段落まで

第12段落
このように振舞う人は次第に物体から離れ、主クリシュナへの献身奉仕に執着するようになります。こうして彼らは自分の心の鏡を清め、物質的な存在の山火事を消し、そして自分のもともとの霊的な立場に位置するようになることができます。

彼らは完全存在の非人格的な認識よりもはるかに高い認識の水準に存在します。なぜなら、彼らはいたずらに(vainly、徒労に終わる様子。うぬぼれた様子を表す意味もある)至高存在と同化しようとすること、そして主の完全な立場を奪おうとすること、という汚染から自由だからです(訳注:~や~などの邪な考えを持たないからです)。

彼らは決してこの意識の段階から落ちることがありません。自分自身の超越的な自己認識に完全に没頭しているので、彼らは自分の感覚の完全な主人です。彼らは、もしもそうしたいと思うのであれば、この宇宙を支配するための完璧な人々です(訳注:~するのにもっともふさわしい人々です)。

そして、彼らだけがすべての人に幸運をもたらします。しかし、制約された魂たちはどんな方法でも世界に利益を与えることはできません。浄化された稀な魂は、絶え間なくカルマ・ヨガを行い、いつも解放された状態にいます。

バガヴァッド・ギーター(5.7)にはこう述べられています。「献身において働く者、純粋な魂であり、自分の心と感覚を統御する者は、すべての人にとって友であり(dear to ~)、すべての人は彼の友です(dear to ~)。いつも働いているにも関わらず、そのような人は決して呪縛されません。」

第13段落
純粋な魂のそれと全く反対の在り方で生き、行動する者、いつもカルマ・ヨガにおいて行動している者たちがいます。そのような結果を求めて働く人々は、至高主、クリシュナと何の関わりも持ちません。したがって、彼らは自分の心から物質的な汚染を拭い去る(to cleanse)ことができません。

彼らは自分の感覚的な衝動の奴隷であり、思いつきに従って感覚を満たすことに自分の時間を使います。それでも彼らは恥知らずにも、自分のすべての行動は至高主によって促されている(to prompt)と言います。ペテン師であり、無神論者であるため、自分の非敬虔な行いが受容されるように(may be acceptable)、彼らはこのように話します。

そして、こうして彼らは世界に甚だしい(untold)不運と惨事(calamity、大きな不幸)をもたらします。対照的に、純粋な、自己を認識した魂は、常に自分の体と心と言葉で主クリシュナの蓮の御足に奉仕をすることに没頭しています。彼らは決して無神論的な人々と関わりません。

これらの聖人的な人々は、霊魂は微細であるけれど、それでもいつも小さな自由意志を授けられている、と知っています。至高主は完全に独立しており、すべてのものの上に(over all、全体に渡って)完全な自由意志を行使することができます。霊魂は至高主と性質的に同じであるため、主は彼の小さな自由意志を無効になさいません(to annul、取り消す、無にする)。

第14段落
不幸にして、霊魂はこの神に与えられた小さな自由意志を誤用し、無知と幻想の暗い井戸に落ちます。霊魂がいったんマーヤー、幻想的な物質エネルギーの手中に落ちると(to take shelter of)、彼は徳、熱情、無明という物質的な性質を育みます。

霊魂は自分のもともとの性質を失い、物質自然の3つの相によって統御される新しい性質を育みます。そしてこれは彼がそれらを超越するときまで続きます。彼の行動は相応に促されます。もしもそれが、どんなものであれ他の方法で起こったなら、それなら物質的な多様性はこの現象の世界において見えなかったでしょう(訳注:そうでなかったら、この現象の世界に物質的な多様性は存在しなかったでしょう)。

そのため、もしも人が物質自然の非常にかすかな法と働きについて自分に知らせ損なったなら(訳注:学び損なったなら)、そして同時に、すべての活動は至高主によって認められ、導かれた(to inspire、霊感で示唆する)ものだと論じるなら、それなら彼は至高主の立場を低め(to reduce)、主を不完全(partial、不公平)で不公平(unjust、不条理)であると理解しています(to make out、人の性質などを~と理解する)。

主は決して、ある者をひいきし、別の者を差別することはなさいません。事実は、主はすべての人に、本質的に不安定で一時的なすべての物質的な活動を放棄するように助言なさいます。神を忘れてしまうことにより、人は無明の永遠の犠牲者となり、それはそうして彼のすべての行動を染めます(to color、影響する)(訳注:それは彼の行動すべてに影響します)。

バガヴァッド・ギーター(5.14)には、このように述べられています。「自分の体という都市の主人、体を持った(embodied)霊は、活動を作り出すことはなく、人々に行動するように促すこともなく、行動の結果を作り出すこともありません。このすべては物質自然の相によって演じられます。」

第15段落
したがって、主ヴィシュヌへの犠牲として行われたものを除くすべての活動は、自分自身の意思(volition)によって(of)なされた気まぐれな行動です。それらは至高主の指示あるいは認可の下で行われてはいません。そのような活動は自然の物質的な相から生じる(to stem)ので、それらは自動的に自然の完全な統御の下にあります。至高主は、そのような活動の単なる公平で静かな目撃者です。

第16段落
カルマ・ヨギー、あるいは献身者の活動は、いつも完全真理と繋がっています。そのため、献身者は俗的な領域をはるかに超えた超越的な水準に位置し続けます。そのような(自己を)認識した(realized)立場では、彼はこの物質的な創造を至高主から離れたものとしてではなく、主のエネルギーが形を変えたもの(transformation)として見ます。

そのような知覚は、自然の物質的な相によって妨げられていません。実に、すべてのものの主クリシュナとの本来の(inherent、内在的な)繋がりというカルマ・ヨギーの認識は、均衡が取れており(equipoised)、超越的です。ギーター(5.18)にはこのように述べられています。「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は、学識があって穏やかなブラーマナ、牛、象、犬、犬食い(賎民)を同じ見方で見ます。」

第17段落
そのような学識(learning)を授けられたブラーマナは、主に徳の物質相にあります。動物の中では、牛も徳の相にあります。象、ライオンなどは主に熱情の相に位置しています。犬と一部の人間(チャンダーラとその他の賎民)は無明の相にあります。

いつも至高存在を(on)瞑想しているカルマ・ヨギーは、決して魂のこれらの外側の覆いを見ず、その代わり(but rather) 純粋な魂そのもの(proper)を見ます。これが至高存在との関係における(in relation to)本当の平等な見方です。カルマ・ヨギーは、この世界のすべての生命体は主クリシュナの永遠の従者であると知覚します。

魂の外側の覆いである体を考慮に入れるのをやめ、そうではなく(but rather) 魂の「主に奉仕をする」という生来の(innate)性質をしっかりと認識するとき(be established in)、人は平等な見方の最も純粋な段階に至ります。

この段階において、主ヴィシュヌを喜ばせるための犠牲の材料として使うことによって、人はすべてのものを至高主への献身奉仕において使います(to engage ~ in)。

第18段落
カルマ・ヨギーは、主クリシュナがすべての物質的なものの唯一の享楽者および利用者(to exploit、普通は使用人などを私的な目的のために利用することを指す言葉)であり、そして主はすべての生命体の唯一の主(Lord)であり主人(master)であると知っています。

主クリシュナとのこの関係を忘れているため、生命体はマーヤー、幻想の手中(clutches)に落ちます。マーヤーの影響の下で、彼は無駄に享楽者あるいは放棄階級者(renouncer)の役割を演じようとします。しかし、これはすべて単なる幻想(fantasy、空想)です。

事実、生命体の本当の不幸の原因(affliction)は、自分が享楽者あるいは放棄階級者であるという振りをすること(pretence)です。すべての種類の良い、敬虔な活動---ヨガ、知識を培うこと、禁欲および放棄など---は、もしもそれらが至高主に関する事柄(topics)への愛情ある魅了の炎を心の中に灯すことができないなら、誤用された労働(misapplied labor)です(訳注:どんなに敬虔な活動をしても、それによって神に関する事柄を愛する心が芽生えないなら、それは見当違いな努力である)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(5.29)においてこのように宣言なさいます。「私を完全に意識している者は、私をすべての犠牲と禁欲の究極の受領者、すべての惑星と半神たちの至高主、そしてすべての生命体に恩恵を施す者であり幸せを願う者と知って、物質的な悲惨さという(of)苦しみから(逃れて)平和を得ます。」

第19段落
この本の初めのほうで、仕事を犠牲として行うことの必要性を論じました。そして今、この節から、主クリシュナがもともとの至高の人格、すべての犠牲の享楽者であるという真実が明らかになります(to come out with clarity)。カルマ・ヨギーによって捧げられた犠牲の結果、および知識を求める者たちの禁欲は、すべて主クリシュナただ一人によって楽しまれるためのものであると理解されねばなりません。

ヨギーの瞑想の対象、心臓の中の超魂は、実際は主クリシュナの部分的な拡張体です。この主題は、この本のあとのほうで論じます。

第20段落
主クリシュナは、すべての異なる修行法---カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、アシュターンガ・ヨガ(瞑想)そしてバークティ・ヨガ---の信奉者(followers)の幸せを願う方(well-wisher)です。そして、主クリシュナはすべての者の幸せを願う方であるため、主は時代(millennium、本来は千年の期間を指す)ごとに正しい宗教的な教えを確立するためにご自分の近しい仲間たちを世界にお送りになります。

主クリシュナはすべての惑星の至高の主人、もともとの主、そしてすべての原因の原因です。平和への唯一の道は、完全真理、主クリシュナの認識につながる(leading to)カルマ・ヨガにおける段階的な(gradual)上昇です。

第21段落
既に主クリシュナの満足のために自分の仕事を遂行している者は、純粋なクリシュナ意識の水準上にない犠牲、禁欲、あるいは瞑想を別に行うことは必要ありません。以前に、純粋なカルマ・ヨギーは自動的にブラーマナ、サンニャースィー、そしてヨギーであると説明しました。

カルミー、すなわち結果を求めて働く者のように、彼は犠牲を捧げることと自分の義務を果たすことにおいて卓越しています。ジニャーニー、すなわち知識を探し求める者のように、彼は放棄していて禁欲的です。そしてヨギーのように、彼は自分の仕事の結果からも離れていて、自分の感覚を統御の下に置きました。

結果を求めるすべての仕事から離れ、至高主と主への愛情ある奉仕に魅了されるようになった者は、同時にすべての良い性質で飾られます(訳注:to ornament、~を備えます)。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.1)でおっしゃいます。

「自分の仕事の結果に非執着である者、そしてするべき義務を果たす者は、放棄階級にあり、そして彼は本当の神秘主義者です。(訳注:犠牲のための)火を灯さず、何の義務も果たさない者ではありません(訳注:もともとの文はつながっていて、「放棄階級にあって本当の神秘主義者であるのは前者であって後者ではない」という内容です)。」

第22段落
カルマ・ヨギーは自分のすべての活動の結果の究極的な享楽者は主クリシュナであることを知っているため、彼は結果を追い求めず、それから離れています。彼はいつも、すべてのことを主クリシュナのためにすることを考えます。

そのような非執着なるカルマ・ヨギーは、決して「クリシュナ意識における活動は感覚的な喜びを楽しんだり痛みを避けたりするためのものだ」とは考えません。サンニャースィーは、完全存在に関する知識を培うことのほうを選んで(in favor of)、聖典によって定められた活動も含めてすべてを放棄します。

ヨギーは活動的な奉仕から退き、自分の心臓の中の超魂を見たいと望んで、半分閉じた目で瞑想をすることで日々を過ごします。しかし、自分の仕事が至高存在の満足のための犠牲である者は、自分の身体的な必要性のために努力をしません。

彼は至高主への献身奉仕に携わっているため、聖典の中で勧められている儀式的な活動を遂行することを求められません(~する必要がありません)。そのような非執着な(detached)カルマ・ヨギーは、単に自分の仕事の結果に非執着である者よりも優れています。カルマ・ヨギーは自動的に、サンニャースィーが探し求める完全存在に関する知識と、瞑想するヨギーが欲する8つの神秘的な完成において達成しています。

第23段落
本当のカルマ・ヨギーは、事実、至高主の献身者です。完成に達したので、彼らは利益、賞賛(adoration)、あるいは栄誉(distinction)を追い求めません。完成の状態において、すべての知識と神秘的な力が自動的に彼らを飾ります(to embellish)。望ましいすべてのものが手に入るとき、なぜ彼らは他の何かを必要とすべきでしょうか(訳注:他に必要なものなどあるでしょうか)?

第24段落
パタンジャリの八重の道を辿り、瞑想的なヨギーは徐々に自らを高めます。サマーディー、すなわち超魂への没頭の段階に至るまで、様々な段階を習得して、完成に至りたいという望みの中で、彼らはあらゆる逆境(all sorts of adversities)と苦しみを耐え、自分の目標に心を定めたままでいます(remain fixed on)。

究極的に、彼らはこの物質世界の何物とも比べられ得ない意識の状態に至ります。この神秘的な完成の状態においては、いかなる苦しみも---死でさえ---恐ろしく(formidable、恐るべき、手に負えない)見えません。そのようなヨギーに関する主クリシュナの言明は、バガヴァッド・ギーター(6.22)に記録されています。

「このように確立すると、人は決して真理から離れず、そしてこれを得ると(upon gaining this)彼はこれに優る得(gain)はないと考えます。そのような立場に位置すると、人は大変な(greatest)困難の只中にあってさえ、決して動揺しません。」

第25段落
この節への解説の中で、シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、感覚的な世界から離れて(to detach oneself)サマーディー、完全真理への完全な没頭に位置するようになるとき、人は純粋な霊的な自己を知覚し、強烈な喜びをもって報われる、とおっしゃいます。

そのようなヨギーは、決して完全真理、自分の瞑想の対象から集中をそらしません。ヨギーが修行(discipline)の間に得る8つの神秘的な完成---アニマー、ラギーマー、プラープティ、プラーカーミャなど(*)---は、彼のヨガの実践の副産物です。

(*)8つの神秘的な完成は、主クリシュナによってシュリマッド・バーガヴァタム11.15.4-5においてウッダーヴァに描写されています:アニマー(一番小さなものより小さくなること)、マヒマー(一番大きなものより大きくなること)、ラギーマー(一番軽いものより軽くなること)、プラープティ(望むものを何でも得ること)、プラーカーミャ(この世でも来世でも、楽しむべきどんな対象でも経験すること)、イスィーター(マーヤーの副次的な力(subpotency)を操作すること)、ヴァスィーター(自然の3つの相によって妨げられないこと(to impede、妨げる)、カーマーヴァサーイター(どこからでも、可能な限り最も高い限界まで、何でも得ること)

サマーディーにおいて、ヨギーはこれらすべての神秘的な完成を取るに足らないと見なします。多くのヨギーは、これらの神秘的な完成の幾つか(a few)を習得したあとで、それらをすべて習得した振りをします。そして、落ち着きのない心のせいで、彼らは永遠のサマーディーという目標から逸れます。

他方で、カルマ・ヨギー、主の献身者にとっては、そのような可能性はありません。彼の心と集中は目標に定まったままです。なぜなら、彼はいつも主クリシュナの喜びのために働くからです。彼はいつもサマーディー、ヨギーの究極の目的地(destination)にいます。

主への献身奉仕において、献身者はいつも新鮮な(ever-fresh)感情を経験し、そして彼の完成がもっと成熟するにつれて、彼が味わう超越的な喜びは、俗的な欲得ずくで動く者(mercenary)には不可解で計り知れません(訳注:~は、目先の損得で動く俗人にはますます不可解で計り知れないものとなります)。
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by ammolitering4 | 2013-08-28 15:12 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第9章 (第11段落まで)

第9章 至高主の献身者を讃えて

(第1段落)敬虔で聖人的なヴァイシュナヴァは、バガヴァッド・ギーターの正しい(exact)意味を理解します。ギーターの単純な教え(message)は、太陽のように自ら輝きます。その知識は非人格主義の陰鬱な覆い(shroud、死体を包む布)の下に隠されてはいません。

実際は、何らかの代替的な意味を引き出して、それからそれにいわゆる奥義の(esoteric、深遠な、難解な)論文(dissertation、長い学術論文)を与える余地はありません。主クリシュナの献身者だけがギーターの教え(instruction)を完全に心に留める(to take to heart、肝に銘じる)ことができ、そしてそれに従って行動することによって彼らはカルマの循環の恐るべき(awesome)永遠の呪縛から解放されます。

そのような人々は特定の国、人種、あるいは社会に制限されません。主の献身者は彼ら自身の階級に属します---彼らは地理的な制約によって妨げられない霊的な社会を形成します。神は何らの特定の集団の独占物(monopoly)でもありません。

したがって、ギーターの教えは普遍的であるため、誰もが(anyone and everyone)従うことができます。そもそも(after all)、主クリシュナが無条件にこう宣言なさったのはギーター(9.32)においてです。「おお、プリターの息子よ、私に依り頼む者は、たとえ低い生まれの者であっても---女性、ヴァイシャ(商人)、およびシュードラ(労働者)---至高の目的地に至ることができます。」

(第2段落)悪魔たちは、カーストと社会的な区分(division)に関する主クリシュナの言葉を誤解し、それに基づいて気まぐれに(capriciously)振舞います。しかし、これは主クリシュナあるいは主のお言葉を傷つける(to blemish、美や完全さを損なわせる)ことはできません。

バガヴァッド・ギーター(4.13)において、主クリシュナは明らかにおっしゃいます。「物質自然の3つの相、およびそれに関わる仕事に応じて、人間の社会の4つの区分が私によって作られました。そして、私がこの体系の創造者ではありますが、(私は)不変であるために、それでも私は非行為者であると、あなたは知るべきです」(訳注:私はこの体系の創造者ではあるが、不変であるために非行為者である、ということを覚えていてください)

(第3段落)社会の4つの区分---すなわち知識人、管理者、商人および労働者---は、ちょうど人が生得権によってではなく実力(merit、賞賛に値する価値、~にふさわしい優秀さ、功労)のみによって医者や裁判官になるように、生得権ではなく実力によって定められるべきです。

この物質自然の3つの相という世界において、社会的な階層はいつも存在していました。したがって、人の生まれは決して社会における彼のカーストあるいは階級を定めるべきではありません。4つの階級は人の資質(qualification)に応じて作られました。

(第4段落)医者はすべての国と社会にいます(available)。同様に、4つの階級の人々もすべての国と社会に存在します。医者のもとに生まれた息子は必ずしも成長して医者になるとは限りません。同様に、社会の4つの階級の子孫は、彼らの親のそれに応じて彼らの未来の仕事(career)を自動的に固定することはありません。(the progeny of the four classes of society do not automatically fix their future career according to that of their parents. 現実にはそうなっているので、「本来そうなるべきではない」という意味。)

聖典は社会の区分を詳細に、それらの固有の(inherent、本来持っている)特徴と共に描写します。したがって、様々な階級の人々を特定の国や人種に属すると見なすとき、私たちは深刻な間違いを犯します。今日のインド文化は、世襲制のカースト制度によって制限され、井戸の中のカエルのような心の狭い人々によって閉じ込められています(kept in the custody of narrow-minded people)。

もしもその代わりにインドが気高い(noble)ブラーマナにふさわしい寛大な方法(manner)でバガヴァッド・ギーターの超越的な教えを広めていたなら、それならこの世界において平和と落ち着き(tranquility、静穏)はそれほどひどく不足することはなかったでしょう。

ブラーマナの文化の普及(propagation)によって、世界は大いに繁栄したことでしょう。その代わり(instead、この場合「現実には」)、ヴェーダ文化は世襲制のカースト制度を負わされること(imposition、重荷などを負わせること)によって深刻に傷つけられました(to maim、不具になるほど傷つける)。

そしてこれは世界にひどく(grievously、罪や傷が非常に重い様子)不運な(adverse、反対の、不利な)効果をもたらしました。主チャイタンニャとしてのご自分の化身において至高主は、主が魂の宗教とお呼びになるブラーマナの文化を広めることによって、平和な暮らしへの多くの道を開かれました。幸運な者は、主の人生に倣い(to emulate、負けないように熱心に見習う)、主の聖なる教えに従い、そして自分の人生を完成させることができます。

(第5段落)ヴァルニャーシュラマ・ダールマ、すなわち人生の4つの霊的な階級と4つの社会的な階級は、2種類あります。悪魔的なものと超越的なものです。それらの間に共通項はありません。聖典の中で言及されている社会の区分は、いつの時代もどの場所でも存在します。

もしも聖典の知識のある者が様々な社会を詳しく調べるなら、彼は簡単に4つの階級を見て取る(to discern、~であると分かる、識別する)ことができます。様々な程度にブラーマナの、すなわち聖職者らしい性質を持つ人は、ほとんど(practically)すべての社会において見られます。

現代の言葉では、彼らは知識人と呼ばれます。他のすべての階級もまた存在します。したがって、実力に応じた社会の4つの区分は今も昔も将来も(are, were and will be)、どこにでも存在するというのは、確かな(established)事実です。

(第6段落)ブラーマナと他の3つのカーストがインド社会だけに存在すると考える者は、悲しいかな(sadly)間違っています。聖典は、カリ・ユガにおいてはすべての人がシュードラ、すなわち卑しい(menial、主に家庭内の仕事、雑用、熟練の要らない仕事の形容)労働者、4番目の階級の一員として生まれる、と宣言します。

それでもインドには高い、ブラーマン的な性質を授けられた多くの人々がおり、疑いもなく、そのような人々は他のすべての国にも見られます。すべての国に、実力によって定められたこれらの4つの階層の人々がいます。

事実、シュードラ以下の人々---チャンダーラ、あるいは犬食いの人々でさえ、献身奉仕をする機会があります。もしもチャンダーラが主の高められた献身者になるなら、それなら彼の実力に基づいて、彼は他のすべての階層によって尊敬されるべきです。

このことに関して、多くの聖典上の証拠があります。ハリ・バークティ・ヴィラーサ(10.91)には、こう述べられています。「献身者であるチャンダーラは、献身者であるブラーマナと同じ霊的な成功を得ます。」そしてバーガヴァタム(7.9.10)においてプラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。

「献身者であるチャンダーラは、普通の儀礼的なブラーマナより何倍も高い(elevated)のです。」実に、そのような献身者であるチャンダーラは、ブラーマナのグルであり得ます。これは歴史を通して、低いカーストに生まれたけれど、より高いカーストの人々を教えた(to initiate、初歩を教える、入門させる、奥義を伝授する)多くの霊的な教師(preceptor、教訓者、師)によって示されています。

そのため、カーストは実力と活動に応じて分類されていますが、主の純粋な献身者はこれらすべての分類を超えています。彼は物質的なすべてのものを超越しています。すべてのカーストを超えて上げられた者、聖人は、単にブラーマナとしてだけ崇拝されるなら、どうやって十分に崇拝されるでしょうか?(訳注:~を単なるブラーマナと同じように崇拝して十分だということがあるでしょうか?)

したがって、至高の人格神に依り頼む者は、すべての国で、そしていつの時代でも、すべての幸運の受取人です。バガヴァッド・ギーターは、これを幾つかの箇所で言及しています。

(第7段落)この世界のどの部分に属していても、もしもバガヴァッド・ギーターの中の至高主の教えに従うなら、それなら彼は超越的な水準に至り、ブラーマナよりももっと高く上げられ得ます。主クリシュナはギーター(4.24)においておっしゃいます。

「完全にクリシュナ意識に浸っている者は、彼の霊的な活動への完全な貢献のおかげで、必ず霊的な王国に至ります。その(霊的な活動の)中で、頂点(consummation、到達点、極致)は完全であり、捧げられるもの(that which is offered)は同じ霊的な性質です。」(訳注:「霊的な活動においては、捧げるものも捧げられるものも同じく霊的で完全な性質を持ちます」、とすると自然な日本語になりますが、厳密には列記されているのは「礼拝の対象(頂点)」と「捧げ物」の二つです。)

(第8段落)この節は、人がいかにして、至高主を喜ばせる活動を行うことによって霊的な知識を得ることができるかを説明します。

(第9段落)シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」、すなわち「もともと(by nature)すべてのものはブラーマン、霊である」などの節を引用して、非人格主義の理論を定義しました。シャンカラーチャーリャの理論は、確立された聖典の結論に関して大きな混乱(confusion)を引き起こしましたが、この節は明らかに上に引用したギーターの節を裏付けます。(to support)

(第10段落)この時点で、いかにして人が至高主の喜びのために献身奉仕を行うことができるかを論じることが緊急に必要です(urgent)。このことに関して、ジャナカ王などの聖人的な指導者たちがいかに犠牲を捧げる(to perform)ことによってカルマ・ヨガ、すなわち献身奉仕を行ったかということもまた、特筆すべきです。

すべての犠牲の目的は、至高主、ヴィシュヌすなわち(or)クリシュナを喜ばせることであるべきです。物質との接触は、私たちの現在の制約された状態では不可避です。なぜなら、体を維持するため、そして他の目的を達成するための活動を行う中で、私たちは物質自然と密接になるからです。

しかし、もしも私たちがこれらの活動の一つ一つすべてをブラーマン、至高の完全真理への奉仕として行うことによって(これらを)霊化することができるなら、それならこれらの活動はヤジニャ、すなわち犠牲になります。

「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」というヴェーダの節がこのように解釈されるとき、それは受け入れることができます(acceptable)。言い換えると、人がすべてのものの中に霊的、あるいは超越的、あるは完全なもの(the spiritual or transcendental or absolute)を呼び起こす(to invoke、霊などを呼び出す)とき、そのとき物体はその俗性(mundaneness)を失い、そしてそのとき初めて人は「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」という節の完全な意味を認識することができます。

ヴァイシュナヴァは、何であれ献身奉仕において主と関わっている(connected)ものは超越的であると言います。言い換えると、それは至高主ご自身、マーダーヴァと違うものではありません(nondifferent)。

ちょうど、長い間ずっと(long and constant touch)火に触れている鉄が鉄の性質を失って火のようになるように、そのため(so)犠牲において完全存在(the Absolute、神)、あるいは超越存在(the Transcendence、神)に捧げられたすべてのものは完全、あるいは超越的になります。

(第11段落)バガヴァッド・ギーター(14.27)において、主クリシュナはおっしゃいます。「そして私は、不死、不滅、そして永遠(immortal, imperishable and eternal)であり、そして究極の幸せの本来的な立場である、非人格的なブラーマンの基盤(basis)です。」

この節は、疑いの余地もなく、ブラーマンが主クリシュナの身体的な光輝であると宣言します。主クリシュナがブラーマンの源であるため、主クリシュナへの献身奉仕は「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」の本当の意味を確立します。

犠牲はすべての犠牲の材料---捧げ物、火、ギーなど---が主クリシュナとの接触によって霊化される、あるいはブラーマンの段階に至るときだけ正しく行われます。そして、犠牲の行いは主ヴィシュヌへの本当の愛の顕現において極まる(to culminate)ので、主ヴィシュヌへの愛情ある献身奉仕は犠牲の最良の形です。そのような段階は、ブラーマンへの(in)完全な没頭(absorption)としても描写され得ます。
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by ammolitering4 | 2013-07-07 05:51 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

第8章

第8章 生命体の本当の自己認識(real identity、正体)

(第1段落)ある人の、自分の姉妹の夫との関係は、彼の姉妹との関係に基づいています。姉妹との結婚の前、義理の兄弟は彼にとって全くの他人でした。そして、彼らの子供たちが彼の姪と甥になるとき、彼らとの関係もまた、彼の姉妹に基づいています。

生まれた国を中心として、同様の関係が人種と国籍の間に(among)育ちます。こうして、ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒などができます。しかし、私たちがどんなに努力しても、そのような自己の部分的な人格を受け入れようと(to adopt)努力しても、そして私たちがどんなにこれらの断片的な自己認識(identity)の数を増やそうとしても、私たちは微小で部分的なままです。

至高主の欠かすべからざる小片として、もしも私たちが主に奉仕をしたいと望まないなら、それなら私たちは自分の実際の自己認識を失い(to forego、過失で権利を失う)、無知に落ちます。適切な同時進行(parallel、この場合は「協働」を意味する)は体の機能です。

もしも手足(limb、四肢を指すが、単に「体の一部」という意味で使われることもある)がその普通の義務を行うことを拒むなら、それは体にとって役に立たなくなります。同様に、もしも私たちの活動が主クリシュナに焦点を当てていないなら、それらは無力(impotent)で価値がないと見なされます(to render、判決を下す)。

自己の永遠にして本来の立場は、至高主クリシュナに奉仕をするというものです。実は、私たちのすべての苦しみは、主クリシュナの永遠の従者としての自分の本来の立場(capacity)において振舞うことを、私たちが拒絶することから始まります。

したがって、すべての生命体の主要な義務は、彼らのもともとの、本来の立場に再び任ぜられることです(to re-instate)。その目的のための最初の一歩は、カルマ・ヨガを行うことです。チャイタンニャ・チャリタームリタには、こう述べられています。「生命体は、マーヤーの鎖によって首の周りを縛られています。なぜなら、彼は自分が永遠にクリシュナの従者であることを忘れてしまったからです。」

(第2段落)人々は一般に無明であり、結果を求める活動に耽っています(to be addicted、中毒している)。彼らの心を乱すことなく、主クリシュナの従者としての人の永遠の立場について真実を説明することによって、カルマ・ヨガは彼らに利益を与えることができます。

このため、バガヴァッド・ギーター(3.26)において、主クリシュナはお教えになります。「定められた義務の結果(fruitive result)に執着している無明な人々の心を混乱させないように、学識のある人は彼らに仕事を止めるように促すべきではありません。むしろ、献身の精神において働くことによってクリシュナ意識を段階的に発達させるために、彼らを様々な活動に携わらせるべきです。」

(第3段落)結果を求める活動に固執している者に、彼らは主クリシュナに献身奉仕を捧げるべきだということを納得させるのは、非常に困難です。その理由は、ほとんどの結果を求めて働く者は愚かで、堕落していて、不信心だからです。

したがって、彼らのすべての活動は気まぐれで、悪によって動機付けられます。彼らの知性と技能は、こうして至高主に対する反抗(defiance、公然たる反抗、無視)において使われます。彼らは完全に幻想の力、マーヤーの統御の中にあり、そしてそのため、彼らは自分が至高主自身であると、あるいは少なくとも悪魔シシュパーラのような主の最大の競合者だと想像します。

彼らは単に、この物質世界を様々な方法で楽しもうとします。実は、この世界を楽しみたいという(
for)彼らの望みは単なる幻想(make-believe、偽り、作り事)、すなわちマーヤーであり、そしてこの幻想の熱望は彼らを絶望的に騙された状態にします。

それでも彼らは楽しみたいという望みを諦めることができません。そして、彼らが結果を求める活動は空しいと気づき、大なり小なりそれらを放棄するように強いられるとき、そのような放棄は単により大きな楽しみのためのもう一つの幻想の企み(scheme、計画、仕組み)になります。

(第4段落)自分の活動の結果を追い求める者は、自分の仕事を遂行する中で多くの苦しみを引き受け、彼らの想像力は繋ぎ縄をつけていない雄牛のようにさまよいます。そして、その間ずっと、彼らの心は彼らに、自分が実際の享楽者であると命令します。

したがって、これらの愚かで歪んだカルミーたちの心を混乱させることなく、知性的な人は彼らを自分が長けていることをすることに携わらせ、その結果を主クリシュナへの奉仕に使うようにさせるべきです。そのような一連の活動は、自動的に、結果を求めて働く者の主クリシュナとの永遠の関係を明らかにします(to uncover)。

そのため、人々を彼らの利益のために教えるため、結果を求める活動の反応から自由なクリシュナの従者は、結果を求めて働く者のそれと一見似ている人生を送りますが、実際は彼はその間ずっとカルマ・ヨガを行っています。

(第5段落)もしも主クリシュナが慈悲深くもご自分の献身者シュリー・アルジュナにカルマ・ヨガの過程を教えていらっしゃらなければ、無明な魂はずっと(for all time)惨めに苦しんだことでしょう。これらの哀れなカルミーたちは、常に自分の首の周りにマーヤーの輪縄(noose、引くと輪が締まる結び方をした縄)を巻きつけており、そして一つの苦しみからもう一つの苦しみへと生きています。

しかし、主の幻惑させる力が彼らの知性を覆い隠すので、彼らはこのいずれも(訳注:これを全く)理解することができません。どんなに統御者である振りをしようとも、彼らは継続的に彼らを無力(helpless)で非力(impotent)なままにするマーヤーによって追い立てられています。

主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(3.27)において説明なさいました。「偽りの自我の影響によって惑わされている霊魂は自分のことを、実際には物質自然の3つの相によって実行されている活動の、行為者であると考えます。」

(第6段落)愚かなカルミーは、主クリシュナを忘れて、主の立場を奪おうとしているので、主の外的な力、マーヤーが彼の首の周りに自然の3つの相という縄で輪縄を結び、彼に耐え難い痛みを味わわせている(to suffer、苦しむ)ということを理解することができません。

彼のすべての活動は物質自然の3つの相の統御の中にあり、マーヤーによって巧みに操られているにも関わらず、それでも全く愚かなカルミーは、自分は自分の状況の主人であると信じます。こうして彼らは、二重性の世界における暮らしのためのより良い手配をしようとして、忙しく働きます。

(第7段落)主クリシュナは、私たち生命体はご自分の離れた(separated)部分であるとお教えになります。部分の義務は全体に奉仕をすることです。完全な体は、手、脚、目や耳などの様々な部分(parts and limb)を持っています。手と脚は最もよく働きます(work the hardest)が、彼らは胃に食べ物を与えることを拒否しません。

胃はほとんど何もしない(does very little)にも関わらずです。他方で、もしも手と脚が相容れないふうに(contrarily)行動し、実際に胃に食べ物を与えることを拒否するなら、そうすればどうしようもない(impossible)状況が作られます。

この状況において、手と脚が楽しもうとするのは不可能です(there is no question of、余地がない)。なぜなら、胃に食べ物が欠けていることで、手と脚は弱く、役に立たなくなるからです。ヒトパデシャという本は、「腹と感覚」という話の中でこの点を詳細に説明しています。

(第8段落)主クリシュナは、宇宙全体という(of)巨大な体の生命(訳注:life air、一般的な表現ではない。あえて言えば「命の息吹」のようなものと思われる)と魂のようなものです。バガヴァッド・ギーターの幾つかの場所で、主クリシュナはこの点を、すなわち主がすべてのものの源であり原因である、ということを明言なさいます(to make this point、主張が正しいことを証明する)。

特筆すべきは、7.7「私に優る真理はありません」と9.24「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主です」というものです。したがって、クリシュナが至高主であり、生命体は主の永遠の従者であるということに、どうしてまだ疑いがありえるでしょうか?

私たちはこの単純な真理を忘れてしまいました。そしてそのため、自分の心と感覚を至高主への奉仕のために使う代わりに、私たち自身が小さな至高主の振りをして、自分の心と感覚をこの物質世界を楽しむために使っています。これはマーヤーです。

(第9段落)今日では、様々な協会(societies)がキノコのように湧き出ています。中でも目立つ(that has made its presence felt、その存在を感じさせるようになった)そのような協会の一つは、主ラーマチャンドラの理想の王国を確立する(to establish、設立する)ために運動を始めたと主張します。

しかし、その協会が宣伝している(to propagate、主義などを宣伝する)ラーマの王国は、主ラーマを欠いているように見えます。主ラーマの最大の競合者はラーヴァニャという名前の悪魔であり、そしてラーヴァニャの現代の子孫たちもまた、主ラーマを殺そうとして躍起になっています(busy trying to kill)。

そのため、(彼らが)主ラーマの黄金の時代を招き入れたい(to usher in)と思う可能性がどこにあるでしょうか(Where is the question of wanting to usher in)?もしも人が主ラーマの理想の王国を築くことにおいて誠実であるなら、それなら世界のすべてが主ラーマへの奉仕に使われるべきです。

しかし、主ラーマの地位と威光を減らそうという試みは、実際は悪魔の王ラーヴァニャの圧政的な統治を確立しようとする試みです。そして、もしもそのような間違いが犯されるなら、それなら主ラーマの勇敢で無敵な従者ハヌマーンがやってきて、悪魔の一族すべて(the entire race of demons)を滅ぼすことによって状況を正さねばならないでしょう。

そもそも(at the outset、始まりのときに)この間違いを避けるために(訳注:そもそもそういう状況になることがないように)、私たちは主クリシュナによって教えられたカルマ・ヨガの道を辿らねばなりません。

(第10段落)カルミーは愚かで無明であり、他方でカルマ・ヨギーは賢明で学識があります。これらの賢人たちは、物質的な相と物質的な活動の性質は、魂のそれと全く反対であることを知っています。この理由により、カルマ・ヨギーは決して、カルミーがするように物質自然の相の下で物質的な活動に携わることはありません。

そうではなく(but rather)、主ヴィシュヌを満足させることを目的としたカルマ・ヨガを行います。そのような賢人たちはいつも、この現象の世界との密接な関わりから離れています(to keep themselves aloof)。なぜなら、彼らは魂をそのもともとの霊的な立場に上げたいと思っているからです。

彼らは、妙な配剤(freak arrangement、「不可解な偶然」のような意味)によってのみ、魂は物質(matter)と関わるようになった(to come into contact、接触)と理解しています。したがって、彼らの耳、目、そして他の感覚はこの現象の世界において(物質と)関わりを持っているにも関わらず、賢人たちは物質的な活動を控えます(to refrain from)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(3.28)においてこうおっしゃいます。「完全真理を知る者は、おお、無敵の(mighty-armed)者よ、献身における仕事と結果のための仕事の間の違いをよく知って、感覚と感覚の満足に携わりません(訳注:感覚に振り回されたり、感覚の満足に耽ったりすることはありません)。」

(第11段落)それから、第3章30-31において、主クリシュナはそのような解放された水準に至るための方法を描写なさいます。「したがって、おお、アルジュナよ、あなたのすべての仕事を私に捧げ(to surrender、服従する、明け渡す)、私を完全に知り、利益を求めず、所有権を主張せず、そして無気力(lethargy、甚だしく元気や活力がないこと)になることなく、戦いなさい。

私の命令に従って自分の義務を果たす者、そして羨むことなくこの教えに忠実に従う者は、結果を求める活動の呪縛から自由になります。」

(第12段落)自己を物質的な体と心であると考えること(to identify)、あるいは魂は物質的であると考えること、あるいは体に関わるすべてのものは自分に属すると考えること---そのような幻想は人を無明のままに、そして自己認識が欠けたままに留めます。

したがって、主クリシュナは私たちに、自己を知っておくように(to be situated in knowledge of the self)助言なさいます。霊的に目覚めるとき私たちは、「私」、あるいは自己は体や心ではないと理解することができます。

私たちは、自分は至高主の優性な(superior)、霊的なエネルギーの産物であり、したがって完全に霊的で永遠である、と認識することができます。これらの超越的な真理の認識に伴って、純粋な形における物質エネルギーの本当の性質という知識が得られます。

そして、それらの霊的な認識が徐々に成熟するとき、人は物質自然の二重性から自然な距離を得ます。霊的な発達のこの段階で、偽りの自我は滅ぼされ、すべての偽りの自己認識(identity)と肩書き(title)は取り除かれ、そして私たちは、超越性(the Transcendence、大文字であるため、この場合は「神」と同義)との霊的な関わりのおかげで、幻想的で物質的なエネルギーの呪縛から解放されます。もはやマーヤーは私たちを物質的な活動に縛り付けません。

(第13段落)主クリシュナが至高の完全真理であるということを実証する十分な聖典の証拠があります。聖書やコーランのような聖典でさえ、完全真理は万能で全知の至高の人格であると宣言します。ヴェーダ文献全体を通して、至高の人格は主クリシュナであると宣言されています。

そしてバガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が、自分が完全真理であるとおっしゃいます。そのため、単にクリシュナと何らかの形で(somehow、どうにかして、どういうわけか)関わることによって、私たちは聖なる自己(Self、大文字)について知る(to illuminate、知識の光で照らす、啓蒙する)ようになることができます。

朝、太陽が昇るとき、すべてのものが再び日光の中で目に見えるようになります。同様に、主クリシュナという太陽が私たちの認識という超越的で霊的な天空の地平線の上に昇るとき、幻想の闇は直ちにかき消されます。そのとき初めて(Then only)、人は浄化され、清純な美で輝きます。

(第14段落)これらの事実は、愚かな人には、誇張されている、あるいは神話である(mythical)と聞こえるかもしれません。しかし、これらは小さな子供(little boys)のためのおとぎ話ではありません。現実であり、真理です。主クリシュナに依り頼む者、すなわち主の献身者は、この主題の真価を知り、理解する(to fathom、真理を見抜く)ことができます。

この真理を受け入れない唯一の者は、主クリシュナに対して敵意のある者、そして歪んだ心のために
(because of)自ら至高主になりたがる者です。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.11)で、「私が人間の形で降臨するとき、愚か者は私をあざ笑います」とおっしゃいます。

そのような人々は主を妬んでいます(envious)。主クリシュナに関する真理と主の超越的な立場は、決してそのような混乱して幻惑された脳には入りません。
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by ammolitering4 | 2013-06-29 14:32 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第7章

第7章 物質的な病を治すには

(第1段落)一般の大衆(populace)は、単に指導者たちの命令(dictates)と決定に従います。そして、その指導者たちが何らの霊的な認識も持ち合わせていません(The general populace simply follows ~the leaders, who are~)。したがって、社会の指導者たちは責任を持って行動すべきだということが助言されます。(訳注:「大衆は指導者たちに霊的な認識があろうがなかろうが彼らの命令に従うので、指導者たちは責任を持って行動すべきだ」)

これらの指導者たちがカルマ・ヨガの教え(precept)を知性的に実践するとき、繁栄への簡単な道が開きます(訳注:「繁栄への道が簡単に開きます」としたほうが自然な日本語になり、意味も変わりません)。まず自分自身の病を癒すことに熟達することなくして、なぜ多くの患者を治療しようとするのですか(訳注:「多くの患者を治療することなどできるでしょうか」)?これは理不尽です。

まず、指導者は自分自身の人生にカルマ・ヨガの原則を受け入れなければなりません。彼はそれから人々の病を診断せねばなりません。それから薬が処方され、正しい食事療法(diet)が与えられます(訳注:「指示されます」)。苦しむ人々に、単に彼らの感覚をくすぐる(to titillate、楽しく、または性的に刺激する)感覚の満足という治療を施すこと---これは彼らを健康にはしません。むしろ、これは病をさらに広め、やがて医者自身が侵され、ついにはそれで死にます。

(第2段落)至高主、ヴィシュヌを忘れていること(forgetfulness)が、人間の社会の本当の、もともとの病です。そのため、もしも人がこの病気(ailment、慢性の病)を治療せず、しかしその代わりに患者たちに不誠実で浅い関心(concern、気にかけること、心配)を見せるなら、人は彼らに何らかの一時的な救済(relief、安堵)と喜びを与えるかもしれませんが、究極的にそのような一連の行動(a course of action)は彼らを恒久的に治すことはできません。

もしも患者が正しい薬と食事療法を求めて行って、しかしその代わりに悪い薬と食事療法を処方されたら、それなら彼は確かに死の脅し(jaws、顎)の中にあります(訳注:「死の恐怖にさらされています」)。

(第3段落)至高主に捧げられた食べ物の残り、プラサーダムは、すべての患者にとって最高の食事療法です。そして、至高主を讃える話(topics)を議論することと聞くこと、主の神像(deity form)を見て主を崇拝すること、そして完全に主に服従すること---これらが最高の薬、万能薬です(to constitute、ある要素が何かを形成する)。

これらの活動は繁栄への唯一の確かな道であり、他方で、他の活動は大惨事をもたらします。主への献身奉仕を実践することは、決して社会に害を与えません。むしろ、それは単に機会と恩恵の時代を招き入れる(to usher in)ことができるだけです。日和見主義者(opportunist)で経済的な相場師(financial speculator)である者たちは、これらの事実を落ち着いて考慮すべきです。

(第4段落)マハトマ・ガンディーのような社会の猛者は、様々な方法で平和の時代を招きいれようとしましたが、そのような努力は霊的に進化した聖人たちによって霊的に導かれておらず(to inspire、霊感を与える、霊感で導く)、祝福されてもいないので、成功しておらず、未来においても成果を上げることはありません。

一元論者、すなわちマーヤーヴァーディーの神は、食べることも見ることも聞くこともできません。そのようなでっち上げられた、形のない神は、決して世界に平和をもたらすことはできません。感覚器官を持たない神が、どうやって人々の悲惨さを見たり、彼らの心からの祈りを聞いたりすることができるでしょうか?

霊的な真実を探るという名目でそのような形のない神を崇拝することは、世界に不運をもたらすことができるだけです。決して幸運をもたらすのではありません。哲学のマーヤーヴァーディー学派では、純粋な知識に関する議論が完全真理の本当の性質に幾らかの光を当てることができますが、それらは至高の完全存在の秘儀的で(esoteric、深遠な)個人的な側面を完全に明らかにすることはできません。

これらの無味乾燥な、経験主義的な議論は、その対象、すなわち完全真理の完全な理解には、遠く及びません。したがって、マハトマ・ガンディーのような指導者が、形のないエネルギーではなく至高の完全人格を認識しようと励みさえすれば、彼らは本当に人間社会に恩恵を与えることができます。

(第5段落)制約された人間は、この物質の体と心の扱いに長けています。これらの全くの(gross、「卑しい」という意味もある)物質主義者たち、物質的な活動を超えたものを見ることができない者たちは、私たちの物質的な宇宙の他に霊的な宇宙が存在するということを信じるのを不可能だと思います(「信じることができません」)。

自分を完全に体と思い込んでいるため(to identify with)、そのような物質主義者たちは単に食べ、眠り、性交し、身を守っており、動物のようです。彼らはこれらの4つの動物的な性質によって非常に魅了されているので、罪深い活動と敬虔な活動の間の違いを知る力を失います。

彼らはわずかな感覚の満足のために疲れを知らずに努力しますが、彼らのすべての努力は無益に終わります。多くの現代の科学者たちは、利益がなく破滅的な(fatal、致命的な)そのような卑しい(gross)活動を促す(to facilitate、容易にする)神父の役割を買ってでました(to take up the role of)。

これらの科学者たちは、単に感覚をくすぐることを目的とした様々な製品を作り出し、そうして物質主義者たちの間に非常に危険な(deadly)競合的な雰囲気を作り出し、それは次に社会に不快な(obnoxious)雰囲気を作り出しました。

人々は、そのような感覚的な活動を通して自由で独立した状態になると考えます。しかし事実は、彼らは鎖にもっと強く縛られるようになります。彼らが蓄えた富が大きければ大きいほど、彼らの不安と悪行(depravity、堕落、腐敗)も大きくなります。

唯一の享楽者であるという至高主の立場を彼らが奪おうとすれば、彼らはその分だけ、そしてそれ以上に、恐ろしい死の脅し(jaws、顎)に引きずり込まれます(「ますます死の恐怖に晒されます」)。そしてこれらの活動は、ほんのわずかな栄養だけを必要とする、体を維持するなどのとても単純で基本的な活動を(訳注:「体を維持することは本来わずかな栄養を要するだけの活動であり、そのような本来とても単純で基本的な活動を」)、非常に困難な(herculean、ヘラクレスのような大力を要する)仕事にします。

(第6段落)全くの(gross、「卑しい」という意味もある)物質主義者のこの卑しい(mean、さもしい、下品な)階級より一段高いのは、魂の転生を信じる者たちです。これらは、施しをするなどの敬虔な行いをする、結果を求めて働く者たちですが、彼らの唯一の目的は、自分の次の生が贅沢と感覚の楽しみのそれであるようにする、というものです。

これらの、結果を求めて働く者たちのどちらの階級も、敬虔な活動と罪深い活動の両方が呪縛を生じさせるということを知りません。これらの物質主義者たちは、カルマ・ヨガ、すなわち結果を求める欲求なくして行われる活動が活動の最良の形であることを知りません。

したがって彼らはしばしば、カルマ・ヨギーは全くの物質主義者と同じくらいこの物質世界に執着していると考えます。しかし、カルマ・ヨガの唯一の目的は、社会の人々を彼らの利益のために指導することです。主クリシュナとして、至高の人格神はバガヴァッド・ギーター(3.25)においてこうおっしゃいます。

「無明な人々が結果に執着しつつ自分の義務を果たすように、学識のある人々も、人々を正しい道において導くために、しかし執着はなくして、同様に活動するかもしれません。」

(第7段落)他の人々のように、完全真理を知った賢人も自分の体を維持します。しかし違いは、彼らのすべての活動の目的は主ヴィシュヌを満足させることだということです。一般の大衆は間違って、賢人の活動は自分たちのそれと同じだ、と考えるかもしれませんが、実は賢人たちは結果を求める活動ではなくカルマ・ヨガを行っています。

(第8段落)現代では、私たちの世界の中に様々な形で現代の科学と技術の大きな広がりが見られ、それは社会をカルマの危険な循環の中にもっともっと呪縛させました。巨大な工場、大学、病院などは、確かに社会をカルマの循環に絡み付けます。

過去の時代には、全くの物質的な活動のためのそのような巨大な、複雑な仕組み(arrangements)は全くありませんでした。間違っていて、単に悪い関わりが、無知な(innocent、罪の無い)大衆を卑しい活動に固く縛り付けました。しかし、学識のある人々、すなわちカルマ・ヨギーたちは、どうやってこれらすべての活動を主の満足のために行うかを社会に見せることができます。

(第9段落)かつて、賢人たちはほとんどすべての家庭で主ヴィシュヌの神像が崇拝されるように手配し、それによって人々がカルマ・ヨギーになる雰囲気を作りました。同様に、今、巨大な工場、会社(merchantile firm、商業企業)、病院などで主ヴィシュヌを崇拝して奉仕をするための同様の手配が緊急になされねばなりません。

これは、霊的な旗印の下で人々の間に本当の平等を確かに確立することができます。主ナーラーヤナは貧しくありません。主は主たちの至高の主です。そしてそのため、貧しい人々が「ナーラーヤナ」であると言おうとする試みは愚かです(訳注:貧しい人に物質的な施しをすることをNarayana Seva(ナーラーヤナ・セヴァ)『主への奉仕』という) 。

むしろ、主の崇拝と奉仕を広く組織することで、人は貧しい人々を含め、すべての人に大いに恩恵を与えることができます。至高の人格神はご自分を多くの形に顕現なさいますが、一般に賢人たちは、神像として奉仕して崇拝するために、主の様々な形の(うちの)3つを選びました。

それらは、ラクシュミー・ナーラーヤナ、スィーター・ラーマ、そしてラーダー・クリシュナです。これらの3つの神像の御二人(couple)は、インド亜大陸全体で広く崇拝されています。したがって、私たちは大きな工場と企業の所有者たちに、自分の会社(establishment)でこれらの3つの神像のどれかの崇拝と奉仕を習慣づける(to establish、確立する)ことをお願いします。

それから所有者たちは、プラサーダム、お供えの食べ物を皆に配ることができます。この実践は、労働者と所有者の間のいかなる意見の相違も繕うことができます。なぜなら、どちらもカルマ・ヨギーになるからです。

(第10段落)ほとんどの工場労働者や他の単純労働者(laboror)は良い性質を維持することができず、そのため悪行に滑り落ちます。そしてもしもそのような落伍者(derelict、見捨てられた者)が人口の中に増えると、世界は豊かで幸運な未来への機会を持ちません(世界に~は望むべくもありません)。

しかし、もしも所有者たちが自分の労働者や事務員たち(office staff)にプラサーダムを与えるなら、それなら与える者と受け取る者の両方が徐々に浄化され、至高主にもっと魅了されるようになります。社会全体が高められ、文明化され、調和の中で結びつくようになります。

他方で、自分の自己中心的な利益(interest)だけを達成しようとすることによって、所有者たちは、いかなる調和や結びつきも、脆いだけでなく危険であるような状況を作ります。そして、所有者が自分の愚かな(crass、愚鈍な)自己利益を追求する中でこれらの堕落した労働者たちを解雇するとき、所有者自身も労働者も利益を受けません。まもなく、労働者たちは自動的に自分たちの雇用者に対して敵意を持つようになります。

(第11段落)労働者たちと上司たちが、主ヴィシュヌを喜ばせるためのものではなく、実際に主にとってやっかいな(troublesome)活動を行うとき、彼らは互いに言い争って戦う結果になり、そうして社会にひどい状況を作り出します。

共産主義者と社会主義者は、自分たちの主義を宣伝するのにお金と知性と、そして生命さえも費やしています。ボルシェヴィキ(共産党員)たちは、ロシアの地全体を崩壊させ、大規模な豊かな家庭生活という人々の夢を叶えることを約束して反乱を起こしました。

労働組合は常に雇用者と争っています(at odds)。これらすべての複雑な問題には、一つの単純な解決策があります。誰もがカルマ・ヨガ、すなわち至高主を喜ばせるための仕事をすべきだ、というものです。

(第12段落)互いに密接で調和のとれた関係を築くために人間が行った努力は、国際連合に極まりました。この組織は、家族(family unit)という概念に基づいています。家族から大きな地域共同体へ、村へ、州(state)へ、国へ、そして最後には大陸へと徐々に拡大することが、国際連合の形成のための糸口となりました。

しかし、注意すべきはその中心です。何が中心的な魅力でしょうか?もしも拡大の過程が反対にされるなら、私たちは基本単位として人間の体に行き着きます。体では、感覚が最も大切です。感覚よりもっと大事なのは心、それから知性、そして最終的に偽りの自我です。そして、偽りの自我よりもっと大切なのは本当の自己、至高主ヴィシュヌの欠かすべからざる小片である純粋な霊的な存在です。したがって結論は、すべてのものの源泉は主ヴィシュヌであるというものです。

この理由により、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいました。「物質的な人生を楽しむという意識によって強く囚われている者たち、そして、したがって自分たちの指導者、すなわちグルとして、外的な感覚の対象に執着している似たような盲目の者を受け入れた者たちは、人生の目的は家に、至高神のもとに戻ること、そして主ヴィシュヌへの奉仕に携わることである、ということを理解することができません。」

(第13段落)中心を見失い、外的なものに魅了される者は、浅はかであり、誤って導かれています。これらの誤って導かれた人々は、ある意味では盲目です。そのため、世界は彼らに、啓蒙(enlightenment)への何らの導きをすることも期待することはできません。しかし、多くのこれらの盲目の人々は、他の盲目の人々を導いて利益を与える振りをするかもしれず、事実は彼らは天の意思によって完全に統御されています。

私たちは、すべてのものの原因と源は主ヴィシュヌ、完全真理であるということを、そしてこの完全真理の最も完全な顕現は主ヴィシュヌの源でさえある主クリシュナであるということを、理解する努力をすべきです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.7)においてこうおっしゃいます。「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。」

(第14段落)このように、すべてのものの究極の源は、まことに主クリシュナご自身、すべてを魅了する至高の人格神です。相当な熟考の後、過去の賢人たちは、主クリシュナが至高存在、至高の完全真理のすべての拡張体と顕現の源である、と結論づけました。シュリマッド・バーガヴァタム(1.3.28)は、このように宣言します。

「上記の化身のすべては、主の完全な部分、あるいは完全な部分の部分ですが、主シュリー・クリシュナがもともとの至高の人格神です。。。」

後に、私たちは主ヴィシュヌの拡張体という主題をもっと完全に論じますが、今は主クリシュナが至高存在の最高の側面であるということを確立させましょう。ブラーマ・サムヒター(5.1)は、これを確認しています。「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは、至高の人格神です。主は永遠の、喜びに溢れた霊的な体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他に源を持たず、主はすべての原因の根源的な(prime)原因です。」

(第15段落)このように、もしも私たちが物質的な体とその身体的な関係(訳注:physical relationships、家族その他の関係を指すものと思います)を超越して、主クリシュナ、もともとの至高神を通して誰もと繋がるようになるなら、わたしたちは真実と現実の水準において(互いに)関係することができます。そうすれば、同胞愛(fraternity、兄弟愛、人類愛)と平等の実際の意味が結晶化するでしょう。                                                               
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by ammolitering4 | 2013-06-28 16:02 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第1部 第6章

第6章 人生の唯一の目的地

(第1段落)私たちの目標は、物質的な世界で得られる一時的な平和と幸せではありません。生命体である(as living entities)私たちは永遠であり、そしてそのため、永遠の幸せが私たちの主な目的(motive、衝動、動機)であるべきです。

それでも私たち魂は、14の物質的な惑星系を上がったり下がったりし、幻想の平和と喜びを追い、大量の血とエネルギーを費やして、何百万もの体を替えます。私たちが悪魔に取り付かれたように(demonically)追う永遠の平和と幸せは、常に私たちを避けます(to elude、巧みに身をかわして逃げる)。私たちは、本当の平和と幸せがどこで得られるか知りません。プラーラーダ・マハーラージャはシュリマッド・バーガヴァタム(7.9.25)の中でこうおっしゃいます。

「この物質世界の中で、すべての生命体はちょうど砂漠の中の蜃気楼のような何らかの未来の幸せを欲します。砂漠の中で、水はどこにあるのでしょうか?あるいは、言い換えれば、この物質世界の中で幸せはどこにあるのでしょうか?」

(第2段落)真実を探し求める中で、私たちは道を外れ、物質的な体と心という船に依り頼み、どこにも陸地が見えないままで物質的な存在という海の中を目的もなく旅します。無慈悲に翻弄され、私たちは鬱々と考え込みます。「天の配剤において、人は何らの休息も得ることができない。」

私たちの究極の目的地は主ヴィシュヌ、至高の人格神であることを知っていさえすれば!そうすれば、私たちは自分の苦しみを終わらせることができます。この事実に関する私たちの無知をかき消すために、私たちはすべての活動を主ヴィシュヌの満足のための犠牲として行わなければならない、と主クリシュナは私たちにお教えになりました。

リグ・ヴェーダはこれを確認しています。「主ヴィシュヌはすべてのものの至高の拠り所(shelter、避難所)です。すべての半神たちは常に主を瞑想しています。」このように、私たちは半神たちもまた主ヴィシュヌの蓮の御足を自分たちの至高の目的地と考えていることを知ります。

そして彼らは、単にすべての活動を主の喜びのために行うことによって解放されます。危険な(vicious、悪意のある、凶暴な)カルマの循環からの解放を望む者は、自分の最終的な目的地として主ヴィシュヌの蓮の御足を定めねばなりません(to have)。そうでなければ、彼は悪魔的になるしかありません(will have to)。

(第3段落)ヴァルニャーシュラマの生き方、すなわちサナータナ・ダールマを辿る者は、今ではヒンズー教徒と呼ばれます。彼らの先祖たち、特に上位のカースト、すなわちブラーマナ、クシャトリヤ、そしてヴァイシャに属していた者たちは、自分たちの人生の中心に主ヴィシュヌを置きました。

人生のすべての段階において、特に家庭人の段階において、人々は主の満足のために献身奉仕を行って、家庭で主ヴィシュヌを崇拝しました。ごく少数の非常に献身的な魂は、今日でさえそうし続けています。彼らは主への奉仕のためだけにお金を集めます。

彼らはそのお金で穀物と野菜を買い、それを献身の念をもって料理し、そして主ヴィシュヌに捧げます。その後、献身者はこのプラサーダム、すなわち食べ物の形をした主の恵みに対し、それを食べることによって敬意を払います。

これらすべての活動の中で、主ヴィシュヌが享楽者であり、人は主を喜ばせる方法を探し求めます(one seeks to please Him)。過去において、時代はそのような活動に伝導的でした(訳注:かつてはそのような活動が広く行われていました。)そして今でさえ、それらは多くの場所で実践されています。実際は、そのような献身奉仕は、すべての人に、すべての場所に、そしてすべての時(to all times)にあてはまります。

(第4段落)主ヴィシュヌは至高の人格神、すべてのものの目的地です。すべての仕事を主の満足のために行うことは、結果を求める活動の循環、すなわちカルマからの解放の道を開く唯一の方法です。すべての前向きで(progressive)利益のある活動が至高主、ヴィシュヌの喜びのために為されることが勧められています(訳注:~のために~をすることが勧められています)。

聖典の言葉を繰り返して、学識のある賢人たちは、「主ヴィシュヌの蓮の御足に至ることは解放されることと同じである」と宣言します。カルマ・ヨガの過程における最後の段階は主ヴィシュヌを満足させることであり、その時点で人の独自の欲求(one's own desire)は自動的に満たされます。

この点を明確に述べながら(to delineate)、主クリシュナは、もしも仕事がご自分の満足のために為されないなら、それならすべての活動は罪で汚され、罪深い反応という結果になり、それは社会に大混乱をもたらす、とおっしゃいます。

バガヴァッド・ギーター(3.13)において、主クリシュナはこうおっしゃいます。「主の献身者は、あらゆる種類の罪から解放されます。なぜなら、彼らはまず犠牲のために捧げられた食べ物を食べるからです。個人的な感覚の楽しみのために食物を調理する他の者たちは、まことに罪だけを食べます。」

(第5段落)上に述べられたような方法で食べ物を調理して食べることは、至高主ヴィシュヌへの奉仕です。時として、それを為すことにおいて何らかの罪が犯されているように見えるかもしれません。しかし、もしも人が犠牲、すなわち主ヴィシュヌへの捧げ物の残りを取って食べる(to honor、敬意を払う)なら、それなら人は自動的にすべての呪縛する反応を免れ、解放されます。

私たちは罪を避け、そして非暴力の道を厳しく辿ろうとして非常に注意深く生きるかもしれませんが、それでも私たちの人生はカルマの反応の循環によって統御されます。したがって、私たちは知らずに多くの種類の罪を犯すことを強いられます。

私たちは仕事の上で(business transactions)、普通のやり取りで(common human dealings)、日々の雑用で(daily chores)、そして特に政治的および行政的(administrative)な活動において、非常に多くの罪を犯します。

大声で非暴力を支えるのは構いません(it is fine)が、実際の暮らしにおいて人は暴力行為を犯すことを強いられます。人は多くの種類の罪を避けることに成功するかもしれませんが、パンチャ・スーナーと呼ばれる5つの大きな罪を犯すことを逃れることは不可能です。

道を歩いているとき、私たちは望まずして多くの蟻を潰して殺すかもしれません。家を掃除している間に、私たちは多くの虫を潰して殺すかもしれません。穀物を挽いて粉にしたり火を灯したりする間に、私たちは多くの小さな命を滅ぼします。

このようにして、普通の、日々の雑用を為す間に、私たちは暴力をふるって多くの罪のない命を奪うことを強いられます。意図的に、あるいは意図せずして、私たちは罪を犯します。そのため、人間の脳によってでっち上げられた宗教が人にそれ(宗教)自身のために非暴力の道を辿るように促すとき(訳注:「それ自身のため」というのはその宗教の独自の教えに基づいてという意味と思われる)、それは必ずある者に利益を与え、別の者に困難を与えます。

(第6段落)精神的に(mentally、頭で)作り上げられた信念(belief)によって起こされた災難を免れることは不可能です。人工の法律によれば、もしもある人が別の人を殺せば、彼は絞首刑を宣告されますが、動物を殺すことに対しては、その人に対して何らの行為も為されません。

天の法はそのようなものではありません。神の法は、人と動物の両方の殺害者を罰するというものです。無神論者は、神の存在を否定します。なぜなら、彼らはそうすることで妨げられずに罪を犯すことができると考えるからです。

しかし、すべての明かされた、権威ある聖典は、家庭人は自分の普通の日々の活動を行う間に、罪のない生き物を殺すことによって、意図的に、あるいは意図せずして多くの罪を犯す、と述べます。これらの罪からの解放を得るために、家庭人は特定の犠牲を捧げることを命じられます。これらのうちで主要なものは、主ヴィシュヌに捧げられた食べ物の残りを食べて敬意を払うことです。

自分の感覚的な喜びのためだけで、主ヴィシュヌへの奉仕のためではなく食物を料理する自己中心的な家庭人に関して言えば、料理して食べている間に起こったすべての罪深い反応を苦しまねばなりません。これが天の法です。したがって、これらの罪を捨てるために、ヴェーダの宗教の信者たちは自分の家庭の活動を主ヴィシュヌへの奉仕に捧げます。

(第7段落)したがって、社会の指導者たちは主ヴィシュヌの満足のために献身奉仕をすることが勧められます。彼ら自身の利益のため、そして彼らが導く者たちの利益のためです。主クリシュナは、シュリー・アルジュナにバガヴァッド・ギーター(3.21)においておっしゃいます。

「何であれ、偉大な人の為すことを一般の人々はなぞります(to follow)。そして、何であれ彼が手本となるような行いによって定める水準を世界中が追求します。」誰もが彼らの例に倣うので、指導者たちは主ヴィシュヌへの献身奉仕の過程を注意深く研究することを要求されます。

これらは彼らの義務です。そのため、人間の社会の利益のために、献身奉仕の知識を教える(to impart、知識を授ける)大学を建てる大いなる必要性があります。

(第8段落)悲しいかな!今は社会の指導者や猛者(stalwart、強い信念を持った頑強な人)と見なされる人々が、他の人々よりももっと激しく(viciously、悪意をもって)神に反目している時代です(The times are such that ~)。

したがって、主ヴィシュヌの満足のための何の献身奉仕を彼らは為すことができるでしょうか?そして、もしも彼らが献身奉仕を為すことができないなら、それなら彼らはどうやって自分の無数の罪からの解放を得るでしょうか?

もしも社会の猛者に、主ヴィシュヌが偏在する完全真理であると、そして主は同時に人(person)であり無形でもあるためにあまねく存在する、と宣言する意思がないなら、それなら、より劣った者、路上の者は、この深遠な主題について何を理解することができるでしょうか?

至高主はすべてのものの唯一の所有者です。私たちはこの物質世界の享楽者および所有者の立場を取ることはできません。何であれ、至高主が慈悲深く私たちにご自分の残り物として与えてくださるもの、それだけを私たちは受け入れるべきです。

私たちは決して他者の所有物を欲してはなりません(must never、非常に強い否定)。イーショパニシャッドにはこう述べられています。「宇宙の中の動くものと動かないもののすべては、主によって統御され、所有されています。

したがって人は、自分の分として取り分けられた、自分にとって必要なものだけを受け入れるべきです。そして、人はそれが誰に属しているかをよく知って、他のものを受け入れるべきではありません。」

(第9段落)社会の指導者たちが自分のすべての活動の中心に至高主、ヴィシュヌを置くときにだけ、これらの活動は指導者自身に、そして彼らに従う者たちにも幸運と恵みをもたらします。しかし、もしも指導者たちが自分の活動を主ヴィシュヌのために行うことを避け、そしてその代わりに自らヴィシュヌの振りをするなら、つまり自分に従う者たちから崇拝と富と賞賛を受け、そして彼らに同じものを残り物として返すなら、それなら他の者たちは彼らの偽りの放棄に魅了され、そうして滅亡への道を辿るかもしれません。

しかし、それ以上の何も得られません。そのような指導者たちは、自分の無知な追従者(sycophant、ゴマをする者)を無駄に興奮させ、彼らに多くの罪深い活動をさせます(to induce、誘って何かをする気持ちにさせる)。

このようにして、そのような自己中心的な指導者たちは、単に自分自身の栄誉、崇拝、そして富を増すためだけに、自分に従う者たちの滅亡をもたらします。不幸にして指導者たちは、これらのわずかな量の栄誉、崇拝、そして富は彼らの死と共に焼かれて灰になる、ということを知りません。

しかし、これらの一時的な物質的な利益を得るために使われた罪深い方法は結果を生じさせ、それはそれから非常に微妙に(subtly)彼らのかすかな(subtle、繊細な、薄い)体、すなわち心、知性、および偽りの自我と混ざります。

そしてこれらの結果は後にさらなる罪深い行いの種となり、それは幾生も繰り返してカルマの反応の循環の中に魂を呪縛し、彼が多くの異なる生命の種を辿ることを強います。
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by ammolitering4 | 2013-06-06 09:21 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

英知による放棄 第1部 第5章

第5章 平和のための公式(formula)

(第1段落)主クリシュナは、生命体の苦しみの多い状態をご覧になり、彼らの暗い未来を予見なさって、人類のための明白な教えを含んだ、バガヴァッド・ギーターとして知られる聖典を語られました。これらの教えは、物質的な存在の燃え盛る山火事の上に降り注ぐ涼しい(cooling)平和の雨のようなものです。普通の人間の活動は、シュリマッド・バーガヴァタムの中で勧められる活動とは相当に異なります。

この違いを理解することは、私たちにとって非常に大切です。今の時代では(in our times)、(自分は)カルマ・ヨギーであると主張する多くの「結果を求めて行動する者」(訳注:原文は括弧なし)が見られますが、事実は(彼らは)自分の働きの結果を楽しんでいるのが見られます。(訳注:結果を求めて行動し、自分はカルマ・ヨギーだと主張する者が大勢いますが、彼らは実際には自分の働きの結果を楽しんでいます。)

必要とされるのは、この偽りのカルマ・ヨガではなく、主クリシュナがバガヴァッド・ギーターの中で数回説明なさった本当のブッディー・ヨガです。ブッディー・ヨガは「至高主への献身」を意味します。主はギーター(10.10)においてこうおっしゃいます。「愛情をもって私に奉仕をすることに常に献身的である者に対し、私は(それによって)彼らが私のところに来ることができるような理解を与えます。」

したがって、ブッディー・ヨガは至高主に至るための方法であるため、それならブッディー・ヨガは献身奉仕に他なりません。至高主には、愛情ある献身奉仕を通して至ることができます。この事実はよく知られています。そのため主は、バークタ・ヴァツァラ、「ご自分の献身者を特に気にかけられる方」としても知られています。

(第2段落)人がブッディー・ヨガを遂行することを通して選ぶ活動の流れは、まさに人類にとって永続的な平和を得るための方法です。そのような活動の流れは、「天の配剤において」人が休息を見つけるのを可能にします。

私たちは、バガヴァッド・ギーター(第2章39-40)からブッディー・ヨガの真髄をはっきりと理解することができます。「これまでのところ、私は分析的な研究を通してあなたにこの知識を描写してきました。次に(now)、結果(fruitive result)なしで働くことに関して、それを説明するのを聞きなさい。

おお、プリターの息子よ、そのような知識を持って行動するとき、あなたは仕事の呪縛から自分を自由にすることができます。この努力においては、損失や減少はありません。そして、この道におけるわずかな発達は、人をもっとも危険な種類の恐怖から守ることができます。」

(第3段落)サーンキャ・ヨガの過程を通して平和を得ることは、現代の人類にとってはほとんど不可能です。しかし、ブッディー・ヨガの過程、すなわち至高主への愛情ある献身奉仕を通して、平和は容易に得られます。そしてこの平和は最も高い性質のものです。

それは他のどの過程を通して経験される幸せをも、はるかに凌ぎます。献身奉仕に直接繋がっている活動は何らの外的なものによっても妨げられずに花咲き、発達します。人が行う献身的な活動の量はつねにそのまま(intact、損なわれない)です。

それは行為者にとって、決して無駄になることのない(to render futile:futile は「無駄、無益」、to render は「判決を言い渡す」という意味。つまり、「結果的に無駄になる」)恒久的な利益です。わずかな献身奉仕の遂行でさえ、人を最も恐ろしい(the greatest)種類の恐怖から救うのに十分です。

(第4段落)純粋な献身奉仕の過程は一つです。同時に、ギーターはジニャーナ、すなわち分析的な研究、およびカルマ、すなわち結果を求める行動を通してブッディー・ヨガを遂行するための方法を指摘しています。

ブッディー・ヨガが結果を求める活動と一緒に遂行されるとき、それはカルマ・ヨガとして知られます。同様に、それが分析的な研究と一緒に遂行されるとき、それはジニャーナ・ヨガと呼ばれます。そして、ブッディー・ヨガ、すなわち献身奉仕がカルマ・ヨガとジニャーナ・ヨガの両方を超越して完全に純粋になるとき、その献身は純粋なバークティ・ヨガ、すなわち至高主への愛情ある献身奉仕と呼ばれます。

(第5段落)人がこの世界で行う結果を求める活動は、社会的な水準(norm)によるのであれ、あるいはヴェーダの水準(standard)によるのであれ、(様々に)異なる結果をもたらします。そしてさらに(Again)、それらの働きの結果を経験することによって、人は新しい一連の活動とそれらに付随する結果を作り出し、それらは続いて(in turn、今度は、順番に)さらに新しい一連の活動と、「その」(原文は斜体で強調)結果を生じさせます。

これらすべての活動とそれらの結果は、自動的にカルマ・ヨガであると認定される(to label、レッテルを貼る)ことはできません。結果を求める活動を行うこととその結果を経験するという過程は、無限に枝と小枝を伸ばし続ける巨大な木のようだ、ということを私たちは見てとることができます。

その巨大な木の無限の果実を経験する活動の行為者は、ただの一度でも(ever)平和と祝福を楽しむことができるでしょうか?いいえ。したがって、「天の配剤において、人類は何らの休息も得ることができない」と言われます。

この人生(this lifetime、今回の人生)においてさえ、結果を求める働きを行う者は、物質的な存在という木の上に座るので、完全にカルマの循環の中に絡まっています。その結果、魂は840万(校正:ピリオド →コンマ)の種に入って三重の悲惨さに苦しまねばならず、決して何らの休息も平和も見出しません。

(第6段落)それでも人々は、結果を求める活動を放棄することを不可能であると感じます(to find it impossible to~)。そのような活動を放棄したと見せかけるいわゆるサンニャースィーでさえ、それでも、少なくとも自分の空腹を紛らすために多くの活動を行わねばなりません。

シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、当時の(during his time)サンニャースィーの状態を見て、「人は単に自分の胃を満たすためだけに多くの異なる外観(garb、職業や身分などに特有の身なり)を取る」とおっしゃいました。

そして、すべての活動を放棄しようとすることは解決策ではありません。戦士であるシュリー・アルジュナが戦争をするという自分の義務を捨てたがったとき、至高主クリシュナは彼にこう助言しました。「あなたの定められた義務を果たしなさい。なぜなら、それをすることは働かないことより良いからです。人は働くこと(work)なくしては自分の身体的な体を維持することさえできません。」(BG3.8)

(第7段落)人は決して聖典による認可なくして自分の定められた義務を放棄すべきではありません。なぜなら、それは世界に混沌を生じさせるからです。活動なくして体を維持することは不可能であるため、完全に活動を放棄することは不可能です。

他方で、結果を求める活動とその結果によって繁栄する物質的な呪縛の木は、決して平和への何らの希望ももたらすことはできません。人がどのように活動を行うべきかを至高主が説明なさったのは、この理由のためです。

「ヴィシュヌのための犠牲として為される仕事が行われなければなりません。そうでなければ、(仕事は)この物質世界への呪縛を生じさせます。したがって、おお、クンティーの息子よ、主の満足のためにあなたの定められた義務を行いなさい。そしてこのようにして、あなたはいつも呪縛から自由でい続けるでしょう。」(BG3.9)

(第8段落)活動の結果が人を縛らないとき、それは別の種類の「天の配剤」です。主ヴィシュヌの満足のための犠牲としてのみ、すべての活動を行うことは、活動の結果からの本当の自由、すなわちカルマ・ヨガの本当のあり方(the real art of)です。

このカルマ・ヨガの過程を通して、人は結果(fruitive results)の束縛から自由になり、そして至高主への(人の)生来の、永遠の愛情ある献身が徐々に顕現します。この種類のカルマ・ヨガは、欲望を伴わない活動、すなわちナイシュカルミャ、あるいは言い換えれば、何らの感覚の満足の期待もなく行われる活動とも呼ばれます。このようにして働く者は、自分の活動のすべての結果を、自分で楽しむのではなく至高主に捧げます。

(第9段落)私たちは皆、幾らであれ、自分たち自身と家族を養うのに必要な額のお金を稼ごうとしなければなりません。十分な食べ物がないと、体は弱く、役に立たなくなり、そしてそれから、体は自分の維持のための更なる手段を作り出すことができなくなります(訳注:働けなくなる)。

どちらが原因でどちらが結果かは、判断するのが非常に困難です。結果を求める活動の循環はそのようなものです。何度も生まれ変わりを繰り返す私たちの物質的な存在は(our material existence birth after birth)、結果を求める活動の巨大な循環を巡ることから成ります。

もしも、至高主あるいは主の純粋な代理人の慈悲によって、この回り続ける(turning)輪の只中に捉えられた幸運な魂が自分の苦しみの多い状態を理解することができるなら(訳注:~に捉えられた魂が幸運にも~を理解することができるなら)、彼は自分をこの呪縛から解放する活動を行い始めることができます。
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by ammolitering4 | 2013-05-20 07:30 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

英知による放棄 第1部 第4章

第4章 悪魔的な精神性の原因

(第1段落)悪魔的な精神性にはおびただしい数の原因がありますが、この小論では3つだけ、すなわち熱望(lust)、怒り、および貪欲(greed)を広く調べることにします。(訳注: lust とgreedはどちらも欲を指しますが、前者は色欲などの意味合いが濃く、切望、渇望などの強い欲を意味します。後者は必要以上にたくさん欲しがる貪欲さを指します。)

バガヴァッド・ギーター(16.21)において、主クリシュナはこれらの3つの特徴を、「自己を滅ぼすもの-地獄に至る門」として描写なさいます。

(第2段落)至高の人格神は、すべてのものの唯一の所有者であり、享楽者です。生命体がこの事実を忘れるとき、彼らはこの現象の世界を楽しみたいという強烈な欲求を育みます。しかし、彼らはそのような努力によって完全に満足することはできず、そしてそのため怒りが脹らみます。

うまくいかなかったキツネと「酸っぱいブドウ」の話のように、怒りは不満(frustration、苛立ち)を生みます。そのため、生命体は放棄者の振りをすることを強いられます。しかし、そのような放棄の底には、強欲と、楽しみへの欲望の大いなる炎が燃えています(訳注:楽しみたいという熱望と強欲が渦を巻いています)。

これは物質的な欲望のもう一つの段階に過ぎません。したがって、物質的な(physical、身体的な)喜びの受容と拒絶というこの段階を超越して永遠の自己の水準に位置しない限り、人は主の崇高なお言葉(message)を理解することができません。そして、この理解なくしては、人は悪魔的な精神性を育み続けます。

(第3段落)悪魔的な堕落(depravity、悪行、腐敗)の深みから自己認識の道へと自らを上げるための唯一の方法は、聖典の命令(injunctions、〔禁止〕命令、教え)を学んで、それにしたがって行動することです。聖典の命令に反する、混沌としていて規律のない活動は、欲に根ざしてなされる行いです。そのような欲の行いを通して怒りと貪欲さを根絶するのは可能ではありません。また、本当の幸せと神聖な高み(elevation、高尚さ)を経験することも可能ではありません。

したがって、もしも私たちが霊的な上昇(upliftment)と永遠の平和への道、すなわち「天の配剤において、人類は何らの休息も得ることはできない」という嘆きの中で表されている必要性を見つけることを望むなら、明かされた聖典は私たちの唯一の指針です。単に聖典の命令を遂行することによって、私たちは欲の行いと混沌とした暮らし(living)から自由になることができます。

(第4段落)現在、私たちはカリ・ユガ(*)の只中(in the thick of)に生きています。

(*)カリ・ユガ - 現在の時代(historical age)。(進行的に堕落している4つの時代の永遠に繰り返す循環にあって、4番目にして最後の時代。)

この時代の人々は主に短命で、誤って導かれ、不運で、いつも病気と災難(distress、心身の苦痛、貧苦、災難)で苦しめられています。したがって、彼らにとって聖典の言葉の真価を認める(to appreciate)のは簡単ではありません。

ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒などの世界の様々な宗教の信者たちは、様々な程度に自分たち自身の信仰の聖典の命令に背き、自分たちの好きなように生きています。多くの人々は、聖典の命令に従うどころか、聖なる文書をあざ笑い、そうして徐々に制限されない感覚の楽しみという悪魔的な人生に滑り落ちます。

至高主と主の献身者は、カリ・ユガの邪悪な影響によって苦しめられているこれらの制約された魂の救済について、非常に心配しています。献身者、すなわちヴァイシュナヴァは最も同情的で聖人的な魂であり、そしてそのため彼らは、堕落した生命体を救いたいと強く望みます。

至高主はいつもこれらのヴァイシュナヴァの望みにお応えになり、そしてそのため主はカリ・ユガのこれらの苦しんでいる魂の救いを求める彼らの祈りを叶えられます(to answer)。

(第5段落)カリ・ユガにおける生命体の悲惨な状況を見て、堕落した魂の救い主である主チャイタンニャは、彼らの救いのための方法を詳しく説明なさいました。この方法は聖典から取られたものであり、誰にでもできます(applicable、あてはまる)。

以前の時代(複数)には、人はヴェーダを学習してそれらの教えに従って生きることによって自分を浄化することができました。しかし、現代の人々にとっては、(性的な)禁欲の誓いを厳しく守ることを含むこれらのヴェーダの命令を正しく遂行することは不可能です。

はなはだしく堕落して罪深い者は、ヴェーダを学習することによって自己認識(realization)への正しい道を見つける、ということができません。正しい躾(up-bringing、養育)と規律に欠けるそのような人々にヴェーダの意味を説明するのは時間の無駄でさえあります。

主チャイタンニャは、これらのカリ・ユガの人々の上に本当に(indeed、じつに、まことに)ご自分の慈悲を注がれました。そのため、主チャイタンニャからのこの慈悲を受け取ることさえできない者が永遠に救いの恵み(saving grace)を得られないのは、疑いようがありません。

主チャイタンニャの慈悲の素晴らしさに気づいた後でそれを受け入れた幸運な魂について言えば、彼らはマーヤーの罰、あるいは「天の配剤」をまぬがれました。しかし、カルマの反応の循環の影響下に来ることに同意し、マーヤーによって乱打(to pummel/pommel about、殴り続ける)されている者のためには、至高主はカルマ・ヨガの過程、すなわち至高主への犠牲という目的を持った結果を求める活動を配剤なさいました。

(第6段落)学識のある賢人たちは、生命体は840万の生命の種を通り過ぎると言います。90万の水中の種、200万の植物や山やその他の動かない種、110万の昆虫と這う虫の種、100万の鳥の種、300万の動物の種、そして40万の人間の種です。

これらの種のすべてを通り過ぎた後で、魂は最後にバーラタ・ヴァルシャ、すなわちインドに人間として生まれます。彼は、自分の意識を徐々に目覚めさせることによってこの生を得ます。魂が上記の生命の種のそれぞれを通り過ぎる間に、何百万年もの時間が過ぎます(to flash by、またたくまに過ぎる)。

そのため、これらすべての後でさえ、もしも魂がインドに人間として生まれたにも関わらずマーヤーによって従属され続け、「天の配剤」の渦の中を回るなら、それなら彼の不運に限度はありません。したがって、シュリーラ・クリシュナダーサ・カヴラージャはこう書きました。(サンスクリット引用)

「インド(バーラタ・ヴァルシャ)の地に人間として生まれた者は、自分の人生を成功させ、他のすべての人々の利益のために働くべきである。」

(第7段落)人間は、昔からずっと(all along)正しい道を示してきたインドの偉大な賢人たちの足跡を辿ることによって自分の人生を完成させることができます。このことの理由は単純です。マーヤーの攻撃の完全な停止を見つけ、そして至高主(校正:Sが小文字になっている)の蓮の御足の永遠の埃の粒になるために、インドの賢人たちが努力したようなあり方(manner、方法)の例を、私たちは他のどこにも見つけることができないからです。

他の国々では、特に西洋(Occident⇔Orient)では、物質的な科学の様々な分野において大変な進歩がありました。しかし、それはすべて、マーヤー、すなわち幻想の力の創造物である物質的な心と体に基づいています。

西洋人が「天の配剤において、人類は何らの休息も得ることができない」と言って嘆くのは、この理由によります。現在では、インド人も西洋のあり方を猿真似することによって、自己の破滅の道を同様に辿り始めました(have taken to、頼る、習慣的に何かをし始める)。

彼らは自分たち自身の文化を捨て、(その)神聖を汚して、他者の戸口に立つ物乞いになりました。彼らは今、自分たちの独立の旗をたなびかせていますが、これもまたマーヤーの配剤です。事実は、彼らはそれから何も得ることはできません。

西洋は、微小な魂と無限な至高の全体との間の永遠の関係の発達における3つの段階について、決して調べませんでした。これらの段階は、以下のものです。(訳注:長いので箇条書きにしました。)

1、至高主との最初の接触、および主と自分の関係の再認識
2、主と自分の永遠の関係を得るための方法の実践
3、その関係が愛の関係へと花開くこと、および魂の主への完全な依存

(第8段落)西洋の人々は、俗世の事柄においては素晴らしく発達しましたが、絶望と憂鬱(listlessness、活力に欠ける様子、無関心、気だるさ)の海の中でもてあそばれています(to toss about、あちこちに放り投げる)。同様に、インド人たちは、自分たちの俗世的な発達に対して有難く感じようとしているにも関わらず、同じ憂鬱と不満足を経験しています。

奇妙なことに、今では西洋の思索家たちは平和と平穏を見つけるためにインドに目を向けています。私たちは、平和の言葉がまもなく彼らの耳に届くという固い信念を確実に心に抱くことができます。

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皆様、こんにちは。いや~、それにしても耳が、耳が痛みます。プラブパーダのご本を読んでると内耳炎になるかもしれません。現代の文明について、その中で適当に生きている自分について、反論のしようのない言葉を冷静にまっすぐに投げかけてくださいます。我が身を振りかえらねばと思うものの、振り返るのが怖い。。。 ともあれ、続きはまた後ほどお届けします。
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by ammolitering4 | 2013-05-20 04:40 | 「英知による放棄」 | Comments(0)