カテゴリ:「英知による放棄」( 44 )

第5章 終わりまで

第12段落
マーヤーヴァーディーはエネルギーの変容という理論を避け、ブラーマンそのものの変容という理論に賛同します(to subscribe to~)。そのため彼らは、ブラーマンは非人格的であるという自分たちの信念に凝り固まるようになります(to become fixed in ~)。

至高主は、主がご自分自身をその非人格的な形において顕現する特定の状況を描写なさいました。この点を実証している(substantiating)、聖典からの多くの引用があります。至高主は、ご自分の人格的な特徴と非人格的な特徴の両方を顕現することによって、至高の完全人格(the Supreme Absolute Person)は、計り知れず、そして同時に(inconceivably and simultaneously)、ご自分のエネルギーと同一であり異なる、という原則をしっかりと確立なさいました。

アチンテャ・ベーダーベーダー・タットヴァと呼ばれるこの哲学的な結論は、主クリシュナご自身によってバガヴァッド・ギーター(7.12)において説明されています。

(サンスクリット引用)

「私は、ある意味ではすべてですが、私は独立しています。私は物質自然の相の下にはありません。なぜなら、その反対に、それらは私の内にあるからです。」

第13段落
至高のエネルギー的なものは、すべてのエネルギーの源です。それでも、すべてのエネルギーが主から放射するにも関わらず、主はこれらのエネルギーの働きから離れていらっしゃいます。このことから私たちは、半神たちの並外れた力は至高主の力の本質的な(intrinsic、本来備わっている)部分であり、しかし半神たちは主から離れている、と結論することができます。

そのため、半神によって授けられた恩恵(boons)は、受け取り手に一時的に利益を与えるだけです。主クリシュナはこの事実をバガヴァッド・ギーター(7.23)において確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「知性の低い者(men of small intelligence)は半神を崇拝し、そして彼らの成果は限られており、一時的です。半神を崇拝する者は半神の惑星に行きますが、私の献身者は究極的に私の至高の惑星に至ります。」

第14段落
私たちは既に、もしも結果を求める欲望に満ちた「結果を求めて働く者たち」(訳注:長いので分かりやすくするために括弧に入れています)が半神のところに行く代わりに至高主に近づくなら、それなら彼らが至高主から受け取る恩恵は永遠に続く、ということを論じました。

彼らは自動的にヨガの階段において一段上がります---結果を求める活動からジニャーナ・ヨガ、すなわち完全な知識への道です。これは、この物質的な世界の中で天国のような惑星に上げられる代わりに、彼らがヴァイクンターの惑星、この物質的な世界を超えた主の霊的なお住まいにおいて解放を得る、ということを意味します。

半神崇拝者は、半神たちの惑星、一時的である天国のような惑星に行きます。いったん、人が溜め込んだ徳(piety、敬虔さ)が使い切られると、彼は地球に戻ってこなければなりません。他方で、至高主の献身者がヴァイクンター、霊的な天空の中の主の至高のお住まいに至ると、彼らは決してこの死が運命づけられた世界(this world of mortality)に戻る必要がありません。
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by ammolitering4 | 2014-10-12 04:24 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第5章 11段落まで

第5段落
(人が)どんな欲望を持っているのであれ、それを満たすために、彼は熱情的で(intense、極端、強烈、懸命)断固とした(unfaltering、ぐらつかない)献身(の念)をもって主クリシュナ、至高の人格神に奉仕をしなければなりません。

(この点は、先にシュリーラ・ヴィシュヴァナーター・チャクラヴァルティー・タークラによって論じられました。)もしもこの命令が守られるなら(to be followed)、それなら主クリシュナに反感(aversion、強い嫌悪感)を持つ者たちさえも、やがて主に服従する決意をするでしょう。

第6段落
主クリシュナは至高の統御者であり、至高の完全存在ですが、それでも主は決してご自分の意志を微細な生命体の上に強制なさいません。むしろ、主クリシュナだけが至高の人格神であって他のすべての者は主の従者であると認める(to recognize、はっきり知る)ことは、生命体自身の利益のためです(to ~'s own benefit)。

太陽神と他の半神たちは、主クリシュナのご意志(wishes)に応じて自分たちの義務を果たします。実に、これが彼らが半神と呼ばれる理由です。そして、至高主の献身者もまた、主のご意志に従うので、彼もまたスラ、すなわち半神として知られます。逆に、主のご意志に逆らう者たちはアスラ、悪魔として知られます。

第7段落
半神たちは何らの独立した力も持っていません。事実、彼らは自分たちへの尊敬の念を引き起こす(to invoke、霊的な力などによって心に抱かせる)のに十分な力さえ持ちません(to wield、権力を行使する、掌握)。それは至高主によってなされます。

主クリシュナの部分的な拡張体、超魂は、すべての人の心臓の中にお住まいであり、人の心(heart)のうちに様々な半神への信仰(faith)と尊敬を育む(to instill、しみこませる)のは主(訳注:He、超魂)です。太陽神と他の半神の中に見られる並外れた(extraordinary)力は、事実、至高主の力です。

いったんこれらの並外れた力に惹きつけられると、知性的な人は徐々にその力の源、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic)、主クリシュナに引き寄せられます。半神の崇拝は、間接的で劣っていて、そして非体系的な、至高主の崇拝です。

自分の物質的な欲望を満たすことに過度に執着している者たちは、自然に、エネルギー的なもの、そのエネルギーの源よりも、エネルギーにもっと魅了されます(訳注:エネルギーの源よりもエネルギーそのものに)。そのためバガヴァッド・ギーター(7.21~22)において主クリシュナはこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は超魂としてすべての者の心臓の中にいます。人が何らかの半神を崇拝したいと欲すれば、直ちに、彼が自分自身をその特定の神(deity)に捧げられる(to devote)ように、私は彼の信仰(faith)を堅固(steady)にします。

そのような信仰を授けられ(to be endowed with)、彼は特定の半神を崇拝する努力をし、自分の欲するもの(desires、通常は単数形)を得ます。しかし実際には、これらの恩恵(benefits)は私だけによって授けられます。」

第8段落
半神の力は、王の役人(officers)のそれのようなものです。ジーヴァ、(すなわち)微細な(minute)生命体であるので、半神たちは何の独立した力も持ちません。王の役人は王によって彼に授けられた(to be invested)力のおかげで(because of)、何らかの恩恵(favor)を授けることができます。

同様に、至高主が半神に幾らかの力を与えたので、半神は自分の信者(worshipper、崇拝する者)に恩恵を施す(to shower、浴びせる)ことができます。もしも欲望に満ちた半神崇拝者が、自分が崇拝する半神は主クリシュナの恵み(grace、慈悲)によって自分の欲望を満たしている、という事実に関して少し知れば(to become a little enlightened)、それなら明瞭な知性をもって彼は主クリシュナを直接崇拝し始めるでしょう。

第9段落
異なる半神は異なる力を持っています。太陽神は病を癒す力を持ち、月の神は植物に味と栄養、あるいは医学的な力(訳注:薬用となる力、成分)を与え(to imbue、満たす、染める、育むなど)、女神ドゥルガーは力と勇気を与え、女神サラスヴァティーは学識(learning)を与え、女神ラクシュミーは富を授け、女神チャーンディーは人に肉と陶酔物を消費する機会を与え、そしてガネシャは人の努力における成功を与えます。

しかし、これらすべての力は至高主によって半神の中に授けられており、そしてそのため、主、完全な全体だけがすべての種類の恩恵を授けることができます。井戸と海の間には計り知れない違いがあります。

第10段落
私たちは既に、世界の中のすべてのものは主のクシェトラ・シャクティ(主の劣性なるエネルギー、「活動の場」からなる)と、主のクシェトラジニャ・シャクティ(主の優性なるエネルギー、すなわち「場を知るもの」)の相互作用によって作られた、という点に触れました。

従って、この世界の中のすべてのものは、単に主クリシュナのエネルギーの変容です。ある意味では、エネルギー原則とエネルギー的(なものの)原則は異なるものではありません。ちょうど、火とその燃やす力が切り離され得ず、異なるものではないようにです。

不幸にして、非人格主義者、一元論的な(monistic)哲学者たちは、主のエネルギーの変容に関する彼らの誤って導かれた意見をもって、世界に破壊をもたらしました(to wreak havoc、大惨事)。

第11段落
半神と他のすべての生命体は、エネルギー原則に属しており、物質自然そのものも同様です。主と主の完全(plenary)拡張体だけがエネルギー的な原則の区分にあります。このように(Thus)エネルギーとエネルギー的なものは一つであって、異なります。

主と主のエネルギーの、同時の、計り知れない一体性と相違、というこの精妙な(subtle)原則を理解(to grasp、ことの本質を理解する)できない者は、必ず非人格者、すなわちマーヤーヴァーディーへと堕落するでしょう(to degenerate)。

彼は強制的に献身の道から外され(to be forced from ~)、沈黙するでしょう(to become silent)。至高主、すべての富の源は、エネルギー的な原則です。もしも私たちが主を非人格的であると考えるなら、それなら私たちは主の完全性を制限します。

「至高の完全(Supreme Absolute)」という言葉(words)は主クリシュナだけに当てはまります。主は至高の完全原則、比類するものなく、超えるものもありません(unequalled and unsurpassed)。そのためヴェーダは、主は「唯一無二」であると言います。

主のエネルギーは様々な形で顕現し、そしてこれらの様々な顕現によって惑わされる(to become bewildered)者は多神論者(polytheists)となる結果になります。何であれ、私たちが宇宙の中に見る多様性は至高主の多様なエネルギーの変容に過ぎないということが、すべての人にとって明らかであるべきです(it should be clear to all)。
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by ammolitering4 | 2014-10-11 15:02 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第5章 第4段落まで

第5章 主クリシュナだけが至高神である:他のすべての者は主の従者である

第1段落
一般に、ジニャーニーの傾向は、非人格的で一元論的な(monistic)考えのほうに向かっていく(to veer toward、方向が変わる、それる)というものです。彼らの一元論(monism)に関する考え方はこうです。物質的な存在のはかなさ(transience)と苦さを経験し、結果を求める活動の無益さ(futility、徒労)を認識したので、彼らは今、自分は至高の自己(the Self)、ブラーマン、完全真理であると認識します。

事実は、超越性の認識が完全に完成するとき、人は最高の霊的なお住まいにおける完全真理の個人的な側面を知覚します。そして、至高の人格神の個人的な側面の知覚が深まるとき、人は自然に主クリシュナの完全な超越的な美しさに魅了されるようになります。主はバガヴァッド・ギーター(7.19)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死の後で、本当に知識のある(in knowledge)者は、私を(訳注:が)すべての原因の原因であり存在のすべてであると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」

第2段落
主クリシュナを完全に理解する者は、物質存在全体の中のどこででも、決して何の苦さ(bitterness、苦しみ)も経験しません。彼は、主との自分の(校正:His → his)永遠の関係という知識で成長します(to thrive on ~、~によって栄える、大きくなる)。

実に、彼は世界の中のすべてのものを、そして世界そのものを、クリシュナとの関わりにおいて(in relation to)見ます。このように、彼はこの世界を単にはかない(evanescent、一過性の、消えていく)物体と見なす非人格主義的な救世主義者(salvationists、救世軍の軍人を指すことが多いが、ここでは単に魂の救済を述べ伝える人)とは異なっています。

そのような賢明な献身者は、すべてのものは主クリシュナへの奉仕に携わっていると、何もこの関係から外れて、主クリシュナから独立して存在することはできないと、認識します。言い換えると、献身者にとってこの世界は変容し(to become transformed)、すべてのものの中にクリシュナの存在が満ち溢れる(surcharged with ~ in everything)ようになります。

幻想の力は忘却(oblivion)へと退き(to recede、薄らぐ)、そしてこの世界は霊的な世界、ヴァイクンターの性質を帯びます(to take on)。そのような純粋なクリシュナの献身者は、自分だけが主クリシュナの蓮の御足に服従することの利益を楽しむと考えるほど自己中心的ではありません。

そうではなく(rather)、彼は世界のすべての人を主クリシュナに惹きつけようとします。そして、この努力によって彼はマハートマー、寛大な(magnanimous、度量の大きい、太っ腹な)魂として知られるようになります。そのような寛大な魂は本当に稀です。

第3段落
最初に、この世界全体に主クリシュナの存在が行き渡っている(to be pervaded with~)と認識することなく、多くのいわゆる(so-called、名前だけの)マハートマーたちが、自分たちが主(the Lord and master、同じ意味の言葉を重ねた強調表現)となって、それとして(in that capacity、主として)奉仕されたがるのが見られます。

このようにして彼らは主の幻想の力によって完全に捕らわれます(to be imprisoned、囚人になる)。彼らは、終わりのない欲望によって追い回され(to be hounded、猟犬に追い立てられるような様子)、爆撃されます(to be bombarded、攻撃、砲撃)。

その欲望は最終的に、彼らに至高主よりも劣る半神たちを崇拝し始めることを強います。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.20)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「物質的な欲望によってその知性を盗まれた者は半神に服従し、彼ら自身の性質に応じて特定の規則と規律に従います。」

第4段落
このように無限の欲望によって常に苦しめられている者たちは非常に苦しみ、その苦しみが彼らの知性を駄目にします(~suffer much distress, which spoils their intelligence)。それが、クリシュナが彼らをフリタ・ジニャーナー、「知性を失った者たち」と呼ぶ理由です。

彼らは多神論者(polytheists)となり、様々な半神たちを崇拝することを急ぎます(to hasten)。多神論者たちは「クリシュネ・バークティ・カイレ・サルヴァ・カルマ・クリタ・ハヤ」、「主クリシュナを崇拝することによって人は自動的に他のすべての従属的な義務を果たします(to take care of)」ということを理解することができません。

多神論者たちは、太陽神のような半神たちは至高主クリシュナと同等であると考えます。そのような歪んだ知性を持った者たち(men of distorted intelligence)は、決してクリシュナの蓮の御足により頼む(to take shelter of)ことができません。

他方で、鋭敏な(incisive)知性を持った、高尚な心の(lofty-minded)者たちは、主クリシュナが至高存在であると納得しています。もしもどういうわけか(somehow)彼らが何らかの物質的な欲望を心に抱く(to harbor、船が港に停泊している様子)なら、彼らは直ちに主クリシュナに近づき、主に祈ります。シュリマッド・バーガヴァタム(2.3.10)の中に、私たちはこの節を見出します。

(サンスクリット引用)

「より広い知性を持った者は、すべての(all、ありとあらゆる)物質的な欲望に満ちていようが、全く物質的な欲望がなかろうが、あるいは解放を欲していようが、とにかく(by all means、絶対に、なんとしても)至高の全体(the Supreme Whole)、至高の人格神を崇拝しなければなりません。」
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by ammolitering4 | 2014-10-09 14:42 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4章終わりまで

第9段落
もしも何かの偶然によってマーヤーヴァーディーのサンニャースィーが少しの敬虔さ(piety)を得ることができ、そしてそれから純粋なヴァイシュナヴァの献身者によって恩恵を与えられるなら(to be graced)---ちょうどベナレスのマーヤーヴァーディーたちが主チャイタンニャによってそうされたように---そうすれば彼らは、非人格的なブラーマンあるいは超魂に関する(of)知識は不完全であると簡単に理解する(to realize、はっきりと認識する、悟る)ことができます。

それから彼らは至高の人格神に関する超越的な知識をもって(with)啓蒙されることができます(to be enlightened、霊的で明瞭な理解)。(訳注:この場合の withは、目的語を指して「~に関する超越的な知識を与えられて悟りを開く」というふうにも取れるし、ヴァイシュナヴァたちが教えてくれた~の知識によって啓蒙される、とも取れると思います。大きな違いはないとは思いますけれど。)

偉大なサナカ・リシのような過去の多くの賢人たち、そして有名なシュカデヴァ・ゴスヴァーミーのような、自己を認識した多くの放棄階級者たちは、(自分の)非人格的な修行(disciplines)を実践した後で、至高の人格神に関する知識への味を得ました(訳注:好むようになった)。

それから彼らは、至高主の超越的な娯楽を聞くことによって、得も言われぬ(indescribable、言葉で描写できないような)喜びを味わいました。シュリマッド・バーガヴァタム(2-1-9)において、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーはこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、聖人的な王(パリクスィット)よ、私は確かに超越性の中に位置していましたが、それでも私は、啓蒙された節(enlightened verses)によって描写されている主の娯楽の叙述(delineation、描写)によって魅了されました。」

第10段落
ゴーディーヤ・ヴァイシュナヴァの霊的な継承(line、系列)における猛者(stalwarts、信念の強い者)の一人、シュリーラ・ヴィシュヴァナーター・チャクラヴァルティー・タークラは、主に近づく4種類の敬虔な人々、すなわち苦しんでいる者、物質的な利益を欲している者、知識欲のある者(the inquisitive、知りたがる者)、そして物事をありのままに知っている者について、ご自分の意見を述べられました。彼はこうおしゃいました。

(1)「苦しんでいる者、物質的な利益を必要としている者、そして知識欲のある者---これらの3つは、初心者の、結果を求めて働く(fruitive)献身者です。彼らの献身は、結果を求める欲望と混じっています。かれらのすべては、自分の特定の性質に応じてその欲望を満たしたいと欲します。

最後に、浄化されたとき、彼らは至高主の神聖なるお住まい---ヴァイクンターの惑星(訳注:複数)に辿りつきたいと欲します。彼らは、天国のような惑星(訳注:複数)に辿りつきたがるカルミー、すなわち結果を求めて働く者たちのようではありません。

クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.25)において「ヤーンティ・マッド・ヤージノ・ピ・マーム」:「私を崇拝する者は私の至高の住まいに至ります」とおっしゃいます。ジニャーニー、すなわち物事をありのままに知っている者は、4番目の種類の敬虔な者であり、彼は他の3つの種類(訳注:の者たち)よりも優れています。

彼の献身は知識と混じっているので、彼はより高い結果を得ます。サナカ・リシのように、彼は献身の中立性という味わい(devotional mellow of neutrality)を得ます(訳注:これは何のことかよく分かりません)。さらに、主と主の純粋な献身者が彼の上にいわれのない慈悲をお注ぎになるので、ジニャーニー献身者もまた、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーの場合のように、至高神への純粋な愛を得ることができます。

結果を求める欲望と混じった献身が、それらの結果を求める欲望から自由になるとき、それは自動的に、知識と混じった献身へと変容します(is ~ transformed)。この、知識と混じった献身を実践することの結果は上に言及されています(訳注:先述の通りです)。

(2)「時として、混じりけのある(mixed)献身の部類に属する献身者が奉仕(servitude、隷属)の献身の味わい(mellow)への好みを育み、それを実践するとき、彼らは畏敬(awe)と崇敬(reverence)が混じった、奉仕(servitude)における献身を得ます。

彼らの献身がもっと浄化されるとき、彼らは奉仕(servitude)、友情などの味わいにおける純粋な献身を得て、主への愛のおかげで(due to)彼らは主の永遠の仲間(associates)になります。これらはすべてシュリマッド・バーガヴァタムにおいて明らかに描写されています(to be delineated)。ここで私たちは参考として2、3の要点だけを論じました。
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by ammolitering4 | 2014-10-09 09:54 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4章 8節まで

第7段落
ほとんどの家庭人は、物質的な利益を欲します。特に最近では、ほとんどの人が貧困の危機(the pinch of poverty、 pinchは「ピンチの時」などの意味の他に、苦痛を伴う事態、ひとつまみ、つねって痛みを与えることなどの意味もある)を感じています。

普通の人は、ただ自分の感覚を楽しむためだけにお金を渇望します(to thirst for)。人がいったん、感覚を満足させる者たちとの無駄な関わり(company)の中に落ちると、彼は自分の富を華美な装飾品(fineries)、黄金、そして女性に費やします。

富が増えると(with more wealth)、彼は賞賛(adoration、崇拝、尊敬)と栄誉(distinction、他と違う優秀さ、名声)を求め、そしてこれらに伴って彼は豪邸、自動車などを得ます。この努力にはただ一つの関心事(interest、重要性)があり、そしてそれは感覚を楽しむことです。

人生における唯一の目的が感覚を満足させることである人々は、先に(訳注:前述のように)、知性において劣る、結果を求めて働く者、すなわちカルミーと呼ばれました(to be referred to)。もしも彼らのうちの誰かがたまたま幾らかの敬虔さを持っているなら、それならこれらの選ばれた(select、より抜きの)個人は、単に感覚をくすぐることに自分のすべての時間を浪費する(to fritter away、浅はかに無駄に費やす)のではなく、至高主を崇拝することに幾らかの時間を費やすでしょう。

これらの精鋭の(elite)カルミーたちは主の純粋な献身者とは関わりませんが(to associate with)、彼らは自分たちを霊性主義者(spiritualists)と呼びます。実際は、彼らは自分の肉体的な(carnal、肉感的、現世的)な欲望を満足させる欲望を抱いています(to harbor、心に抱く、かばう。港に停泊させる、という意味から来ている)。

彼らは、至高主がフリシーケシャ、「感覚の至高の主(master)」として知られていることを理解し損ないます(to fail to comprehend)。時として、ジニャーニー(知識を探し求める者)あるいは神秘的なヨガの実践者もまた、主を崇拝します(will worship)が、彼らもまた、究極的には単に感覚的な喜びだけに興味があります。

これらの不純な(adulterated、不純物が混じった)献身者が純粋な献身者になることができるための唯一の方法は、もしも彼らがシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」を読むならばです。この本は、献身奉仕の科学における権威です。

第8段落
本物のジニャーニーは、どのようにすべてのものがブラーマン、完全真理とつながっているかを知っています。彼らは控えめで(humble、謙遜)、高ぶらず(unassuming、でしゃばらない、気取らない)、清潔で、教養があり(brahminical、「ブラーミン」は主にアメリカ東部の社会的なエリート、インテリを指すが、語源はインドのブラーマナ)、そしてグルに対してうやうやしく(reverent toward~)、そして彼らは他の多くの良い性質を持っています。

ほとんどの場合、彼らは放棄階級者(サンニャーサ)となり(to take to the renounced order)、純粋で聖人的な人生を送ります。それでも、頻繁に、これらのサンニャースィーたちは一つの大きな欠点を持つようになります(to develop)。彼らは自分を神だと考えるのです。

彼らはヴェーダの節「アハム・ブラーマースミ」、「私はブラーマンである」の意味を誤って解釈し、そしてそのため彼らはブラーマンに関する(of)純粋な知識をはっきりと理解することができません(to realize)。

彼らは否定(negation、無、非実在)の過程を神聖視する(to deify、神としてあがめる)結果となり、そしてそれは最終的に完全な一元論(monism)につながります。(訳注:「否定の過程を神聖視する」とは何のことか私は分かりません。)

このようにして、完全真理、至高のブラーマンを知りたいと欲する多くのジニャーニーたちが、どういうわけか(somehow)、幻想の力、マーヤーによって誤って導かれます。マーヤー(訳注:女性)は、その(her)最後の致命的な(fatal、運命的)罠、(訳注:すなわち)解放を用意し、それによって彼女は一元論者たち(monists)を物質存在の海の中に取り残されたままにします(stranded、座礁)。

彼女は彼らを、まるで酔った虚脱状態(daze、ぼーっとした状態)の中にいるかのように、「私はあれである」、「私は主(He)である」と考えるように惑わします(to delude)。
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by ammolitering4 | 2014-10-08 13:50 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4章 第6段落まで

第3段落
これらの罪深い活動を相殺するための物質的な方法はありません。痛み止めを処方することは一時的な安堵(訳注:relief、苦痛を取り除いたり軽減したりすること)を提供しますが(訳注:一時しのぎにはなりますが)、病気の根本的な原因を取り去ることはできません。

同様に、罪深い反応を相殺することを目的としたどんな物質的な努力も、究極的な安堵を提供することはできません。人は至高主に服従することによってのみ、最大の恩恵を得ます。「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(献身の甘露)」は、私たちに、主への献身奉仕がどのように罪深い反応、罪深い反応の種、そしてすべての罪の根源である無明を滅ぼすかという、おびただしい(numerous)証拠を提供します。

したがって私たちは、敬虔な者は苦しみのときにただ至高主だけに寄り頼む、ということを見ます(to see、知る)。

第4段落
自分の現在の苦しみを取り除こうとする(to relieve、苦しみを取り除く、軽減する)のは、人間の主たる義務ではありません。人生における探求は、物質的な病気を全て(altogether、全く、完全に)癒すその薬---その万能薬(panacea)---を目的とします。

この病(訳注:物質的な病)は、それ自身を誕生、老い、病、そして死など、無数のあり方で顕現させます(訳注:この病は、~など様々に顕現します)。敬虔な人は聖人的な人々との関わりを探し求め、聖典に従います。そしてこのようにして彼は自分の最善の利益のために(for his greatest good)努力します。

献身奉仕の始まりは、聖典と聖人の言葉への信頼(faith)の発達です(訳注:~への信頼を育むことです)。この信頼は、心(heart)の中のすべての望ましくない(unwanted)欲望を滅ぼし、至高主のご意志(will)への人の服従を増します(to increase one's surrender、人がもっと~に服従するようにします)。

第5段落
無邪気な探求者(innocent enquirers)はジジニャース、「知識欲のある(inquisitive、知りたがる)者」として知られます。これらの無邪気な探求者たちは、未来のための社会の希望です。ほとんどの知性的で無邪気な若い子供たちは知りたがりです。

彼らは両親に多くのことについて問い、答えを覚えます。これらの賢い少年少女が自分の質問(queries、疑問)に明快に(lucidly)答えることのできる両親と教師たちから正しい導きを受け取るとき、彼らは簡単にそれぞれの要点(point)を理解し、徐々にすばらしい(fine)脳を発達させます。

これらの知性的な魂のうちから、特に敬虔な者が神と他の霊的な事柄について熱心に(keenly)問い始めます。卑しい(ignoble)物質的な知識を追求する(to pursue)他の者たちは人生において成功することができず、もみ殻を打つ結果になります(訳注:to beat the chaff、殻だけになった穀物をどんなに叩いても実は得られないことから、ここでは徒労に終わることを意味する。一般的な表現ではないように思われる)。

自己と完全真理、ブラーマンについて知りたがる者は、すばやく主クリシュナと主の献身者に服従します。そのような服従は、彼らの前世(previous births)からもたらされた深い敬虔さ(their good measure of piety、measureは程度や大きさを表す)を証明します。

ブラーマンに関する基礎的な問いかけから始まり、彼らはすばやく(swiftly)高い水準に上げられ
(to become elevated)、主が非人格的なブラーマンの源(basis、基礎、土台)であるという、バガヴァッド・ギーター(14.27)における主クリシュナの言明を理解し、主を崇拝し始めます。

第6段落
しかし、貧弱な敬虔さ(meager piety)を備えた人は(訳注:信仰心の薄い人は)、決して至高主の献身者になることができません。聖典にはこのように述べられています。

(サンスクリット引用)

「おお、王よ。ほとんど敬虔さを持たない人は、決して主ゴヴィンダ、主の慈悲、主の聖なる御名、あるいは主の純粋な献身者への(in)信頼を育むことができません。」
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今日の一言、という副題をつけたほうがいいほどほんのちょっとずつお届けしてます。できればまた明日もほんのちょっとだけでもアップしたいと思っています。でも私のことですから漫画を読んでしまうかもしれないし、鑑定団を見てしまうかもしれません。あの番組は面白いですね。うちにも何かお宝がないかと思っても、あるわけないですね。私の全財産は軽トラック一台あれば楽々運べてしまいます。いっそのことロバが一匹いれば上等、というくらいに減らせればすっきりするかもしれませんね。

でも、クリシュナを描いて途中までで終わっているガラス絵があります。これは私の大きな財産ですよね。いつの日か、これを仕上げる心の準備はできるものでしょうか。
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ああ、そういえば明日からは一つ二つ仕事が入っています。本業である喫茶店のおばちゃんという仕事とはまた別で、冷暖房用の特殊な塗り壁のマニュアルを訳すのと、都市計画に関する市民ワークショップの書記という仕事です。葉子さん、正体見たり何でも屋、、、一句できました。
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by ammolitering4 | 2014-09-22 15:01 | 「英知による放棄」 | Comments(1)

第3章 (たったの)第2段落まで

第4章 至高主を探して

第1段落
ヴァルナーシュラマの宗教は、そのような混沌と暴力の雰囲気の中では行われ得ません。今ヴァルナーシュラマと呼ばれている体系は、実際は不信心な(ungodly、罪深い)で悪魔的な(demoniac)偽りの宗教(religion in disguise)です。

聖なる糸をまとって、この悪魔的な体系の中で浄化の過程を辿ることは、敬虔さ(piety、信心)という結果をもたらしません。(訳注:「聖なる糸」とはヒンズー教の習慣で、聖職者が胸の前に斜めにかけるもの。Yajnopavita と呼ばれる。)

すべての浄化の過程と宗教的な儀式(rites、儀礼、型通りで壮麗なものを指す)を捨てて、カリ・ユガの人々は最大で最強の者になるために互いに競い合います(to vie)。人は、単に頭から聖なる糸をかぶるだけで「ブラーマナ」になります---実に、そのようなことは聖典において予言されていました---が、これは彼に何の敬虔さももたらしません(does not earn him any piety)。

主チャイタンニャは、この種の偽りのヴァルナーシュラマ体系を退けられました(to reject)。カリ・ユガの堕落した状態を予見して、主クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてヴァルナーシュラマの宗教をほとんど論じられず、その代わりに犠牲としての仕事を行うことを強調なさいます。

したがって、主ヴィシュヌ、至高の人格への犠牲を行うことによって主が満足なさり、すべての悪い影響が根絶やしになる(to be eradicated)、と理解されます。

第2段落
病、あるいは他の悲惨さによって苦しめられている(to be afflicted)人々は、アールタ、「苦しんでいる者」として知られます。一般に、病気の人は自分の病気を治すために医者と薬に頼ります。しかし、賢明な(far-sighted、この場合は「遠視の」ではなく、物事を見通せるような卓見のある様子)学者たちは、あらゆる苦しみは過去に行われた罪深い活動の結果であると言います。

普通の人々は、罪深い反応が無明の結果として生じることを理解しません。この無明は、顕現(プラーラブダー)、非顕現(アプラーラブダー)、そして潜在(latent)(クタシュタ)の形で存在します。
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こんばんは。いつもながら長らくお待たせしております。引っ越したりいろいろしていて、なかなか落ち着かないでいました。暗くて寒い地下室の一室でクモと共に暮らすことになったので、これではあまりにも人生が薄暗いと思って、明るい色のカーテンやテーブルクロスなどを買ってきました。1ドルショップのものばかりですが、それでもだいぶ華やかになっていいものです。どうやら私は本質的に流浪の身であるようなので物は増やしたくないのですが、一応ビジュアルアーティストでもあることだし、やはり視覚的にあまりに味気ないと影響を受けて気持ちまで陰鬱になってしまいがちなのです。

引越しを繰り返すうち、物に対する執着心はかなり薄れたような気がします。たくさんたくさんの愛着のある大事なものを手放さなくてはならなかったので、新しい物を手に入れても「どうせこれもしばらく使うだけ」という気持ちがあります。「どうせ」というのともちょっと違うのですが、対価に関してもしばらくの間の使用料という感じです。引越しではない事情でいろんなものを手放したこともあったし、神様が私の物質的な執着心を減らす手助けをしてくださっているのだと思います。ともあれ、いろんなものが去来しても、それでも私の目の前にはいろんなものがあるわけで、それらと共に過ごすしばしの時間を感謝したいと思います。

翻訳はほんのちょっとだけですみません。こんなことをだらだら書いてる間にがんばればいいのですが、お許しください。また続きはのちほどお届けします。おやすみなさいませ。
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by ammolitering4 | 2014-09-21 14:42 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

第3章

第3章 教育システムに関するアン博士の発言

第1段落
私たちは、1957年1月12日のカルカッタ大学会議(convocation、大学の評議会)でのアン博士の演説(address)を聞いて嬉しく思いました。アン博士は現在、ビハール州の名誉知事(the honorable governor)でいらっしゃいます。以下は彼の演説からの抜粋です。

「私たちの(訳注:社会の)若者たちは、宗教とすべての宗教的なものに対する無言の(veiled、覆い隠された)軽蔑 (contempt)という伝統の中で育てられています。霊性主義者(spiritualists)と宗教的な献身者は教育のある若者たちのもの笑いの種(laughing-stock)であり、そして一般大衆は宗教心があって(religious-minded)そのような献身者と霊性主義者に大いなる尊敬と崇敬の念(reverence)を持っているので、彼らは一般に教育のある階層の態度に嫌悪感を感じており(to feel disgusted)、彼らに何の敬意(regard、好意)も持ちません。

教育のある階層も、その人生のあり方が主に宗教的な考え(ideas)によって形作られている大衆に何の愛情(affection)も持ちません。その結果は、教育のある階層は大衆の苦しみの改善(amelioration)のために本当の伝道精神(missionary spirit)をもって働く十分な数の公務員(servants、使用人)を作り出すことができていない、というものです。」

第2段落
アン博士は続けて、学校や大学(schools and colleges)での既存の学究コース(academic courses)は宗教に関する授業を除外している、と言います。

第3段落
私たちは地元の新聞からとったアン博士の演説のこの部分を引用しました。なぜなら、私たちは読者に、大学に宗教学を導入することの緊急の必要性を強く認識していただきたいからです(to impress upon)。

過去には、学校に宗教の授業を含めることに対して強い反対の声が上げられたため、それは除外されました。そして今、今日の若者の中に甚だしい反応(severe reactions)が見られています。私は、教育から霊的な学習を除外することは、人間の心が目覚めて花開くためのすべての機会を妨害する(to thwart)と考えます。

霊的な教育の欠如によって、今日の若者は節操がありません(undisciplined、規律されていない)。早朝に、そして再び夜に、祈ったり瞑想したりしない学生は、徐々に不可知論者(agnostics)になり、そして彼らの心は目的なく漂いまわります(to float about)。

彼らは宗教的な考えと倫理(ethics、道徳原理)を退け、その代わりに論理と議論(argument)を至高として奉じます(to embrace)。往々にして、彼らは誰か非良心的な(unscrupulous)政治家の悪しき支配(vicious grip)の中に落ちます。

大学からの宗教コースの除外は、最近は学生と教師の間の純粋で高尚な(sublime)関係が見られないことの主な理由です。多くの教育者が今日、宗教教育の必要性を感じています。

第4段落
2~3ヶ月前(1957年1月18日)、パトナの政庁(the Government House)でアン博士と会う機会があり、私たちは少し話をしました(to have discussion)。敬虔な人なので、彼は私たちの霊的な話題を喜ぶ(to appreciate、真価を理解する)ことができ、悪魔的な精神性を大規模に撲滅する(to eradicate)ことを目的とした私たちの伝道(missionary)活動への、全面的な支援を提供してくださいました。彼の最近の演説は、私たちに改善の望みを与えてくれます。

第5段落
歪んだ知性を持っているので(possessed of)、悪魔、悪者(rascals)そして愚か者たちは、決して主クリシュナに服従することができません。同様に、主クリシュナは決して彼らにご自分の慈悲をお見せになりません。

至高神の最も鷹揚な(munificent、気前の良い)化身、主チャイタンニャは、罪人ゴパーラ・チャーパラを拒絶(to repudiate)なさいました。なぜなら、彼は主の献身者をねたんでいたからです。このことに関して、至高主はご自分の意見をバガヴァッド・ギーター(4.11)において述べられます。

(サンスクリット引用)

「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」そのため主は悪魔には、生命のますます低い種に滑り落ちて、何百万回も生まれ変わって地獄を苦しむように手配なさいます。16章(19-20)において、主はこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ねたみ深くて悪意のある(mischievous)者たち、人間のうちで最も低い者たちを、私は永久に物質存在の海へ、生命の様々な悪魔的な種へ投げ込みます(to cast into)。生命の悪魔的な種の間に繰り返し生を受けるので、おお、クンティーの息子よ、そのような人々は決して私に近づくことができません。徐々に彼らは、存在の最も忌まわしい種類へと沈み落ちます。」

第6段落
それでも、至高主の献身者は主ご自身よりも慈悲深いので、私たちのような最も低い悪魔にさえ同情的です。

第7段落
主の献身者は、主ご自身が退けられる者たちさえも救うことができます。これが彼らの特徴的な性質です。したがって、主の献身者は、堕落した邪悪な(reprobate、神に見捨てられた)魂を破滅(perdition、地獄に落ちること)から救うために、様々な方法を手配します。

事実、彼らは持っているどんな方法でも---策略(tricks、騙すための企み)さえ使って、彼らを霊的な完成に向けて奨励するために、これらの霊的な落伍者(derelicts、見捨てられた者)たちの間に住みます。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ・プラブパーダ睨下は、ロンドンに学生のホステルを開きたいと望んでおられました。その理屈は、あの堕落した(debauched、放蕩、道楽)学生たちに少々の感覚の満足という形で砂糖がけした薬を与えることが必要だったからです。彼らを神認識の道に加わることに惹き付けるためです(訳注:原文は長い一文)。

第8段落
もしも彼らがそう望むなら、強力な霊的指導者たち、すなわち主の純粋な献身者たちは、直ちに宇宙全体を解放し(to deliver)、すべての者を至高主の蓮の御足の庇護の下へと連れて行くことができます。

シュリーラ・ヴァースデヴァ・ダッタは主チャイタンニャに、もしも主がすべての生命体を一度に解放する意志をお持ちなら(to will)、自分は宇宙の中のすべての生命体のすべての罪深い反応を引き受けて(to take on)、永遠に地獄で苦しむ用意がある、と宣言なさいました。

純粋な献身者は非常に寛大なので(magnanimous)、彼らはいつもすべての魂の霊的な幸せ
(well-being、健康、福祉)を気にかけています(to be concerned)。至高主の慈悲を受け取るための唯一の方法は、そのような純粋な献身者の蓮の御足の埃を浴びることです(to bathe oneself in)。

第9段落
主の献身者は、人々を駄目にして彼らを悪魔的にしたのはマーヤーの影響であると理解しています。そのため、献身者の生来(inherently)高潔な(noble、すばらしい、高貴な)性質(disposition)は彼らを、ねたみに染まる(a tinge of)ことなく、悪魔の利益だけを考えることに導きます。(訳注:~は本来高潔な性質を持っているため、ねたみの心が差すことなく、悪魔の利益だけを考えるようになります。)

したがって献身者は、パティラ・パーヴァナ、「堕落した者の救済者(saviors)」として知られています。事実、献身者は至高主ご自身よりももっと同情的です。もちろん、彼らを主よりも同情的にするのは、至高主の恵みだけです。そして、そのような献身者の慈悲によって、最も低い、罪深い男たちと女たちが、主の蓮の御足に至る(to attain)ことができます。

第10段落
他方で、そのような純粋な献身者を怒らせることは(to offend、機嫌を損ねる、感情を害する)、救いのすべての可能性を終わらせます。もしも人が至高主を怒らせるなら、主の純粋な献身者だけが怒らせた者(offender)を救うことができます。

しかし、もしも人が純粋な献身者を怒らせるなら、それなら至高主さえも怒らせた者を破滅(doom、悪い運命)から救いません。この理由だけのために、純粋な献身者は決して怒りを感じません(to feel offended)。イエス・キリストが十字架に掛けられていたとき、彼はそのことで誰をも責めませんでした。

ハリダーサ・タークラはイスラム教の法官(Muslim Kazi)の見張り番(sentries、歩哨)によって、22ヶ所の市場でひどく鞭打たれました(to be lashed)。それでも彼は主に、自分を苛む者たち(tormentors)を罰しないように祈りました。

主ニテャーナンダは、ジャガーイとマーダーイという二人の悪者によって怪我を負わされましたが、それでも主は、ひどく血を流しながら、一歩も引くことがありませんでした(stood His ground)。主は二人の悪名高い兄弟たちを解放なさり、そしてピティタ・パーヴァナという称号を鮮やかに(brilliantly)例証なさいました(to exemplify)。純粋な献身者の深い(profound)同情心とは、そのようなものです(Such is~)。

第11段落
したがって、堕落者(reprobates)が何らかの信心(piety、敬虔さ)を得る唯一の方法は、献身者との関わりを通してです。私たちは、あの、すべてのヴァイシュナヴァたちの輝かしい(illustrious、華々しい、著名な)宝珠(crest jewel、crestは冠のてっぺんや紋章を指す)、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ・プラブパーダ睨下の信念の固い(stalwart、猛者)弟子たちが、彼らの霊的指導者の祝福を受けて、世界全体の祝福(benediction)のために再び集まり、これ以上時間を無駄にすることなく、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーとシュリーラ・ラグーナータ・ダーサ・ゴスヴァーミーの教えを広める、その時を心待ちにしています。

シュリーラ・ゴーラキショラ・ダーサ・バーバージーは、いつもご自分の弟子シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラに、ご自分がカリ・ユガの要塞(bastion)と考えていらしたカルカッタに行くことを思いとどまらせよう(to dissuade)となさいました。

それでも、一部の人々はシュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラがご自分のグルの命令に逆らったと考えるかもしれませんが、彼はカルカッタだけでなく、ロンドン、ベルリン、ボンベイ、マドラス、そしてデリーなどの、他のカリ・ユガの中心地(capitals)でも布教なさいました。

彼は、どこか静かな場所に寺院を建てて、修道院で受身的で波乱の少ない(passive and uneventful)人生を送ることに、激しく(vehemently)反対なさいました。彼は、人類の霊的な向上(upliftment)のために自分のエネルギーの100%を神への奉仕に活用する、という考えを完璧に代表なさいました(to represent)。

あるグジャラティ(訳注:インド北西部の地方)の友人が彼に、ボンベイの静かな郊外、ヴィル・パールに寺院を建てることを申し出ました。彼は直ちに拒否しました。私たちは、彼がこのように活動して布教するのを見るという、最もすばらしい幸運を持ちました。

そして今、パティラ・パーヴァナの模範(exemplar)、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラの亡き後、私たちが自分の低い(lowly)、堕落したあり方に戻ってしまったのは、私たちの不運(ill fate)です。私たちの解放(deliverance)のために、希望の光(glimmer、ちらちらと見え隠れするかすかな光)はあるでしょうか?

第12段落
完全に堰き止められてしまっていた(to be dammed up)、愛情ある同情心の海から、主ニテャーナンダは至高神への愛という運河を切り開き(to cut a canal of love)、世界中を(訳注:至高神への愛で)みなぎらせました(to flood、洪水を起こす)。

そしてそれから、ゴスヴァーミー階級(caste Gosvamis)と呼ばれる一部の人々が、主の子孫であると主張して、再び自分たちの結果を求める活動と儀式の不正利用(malpractices、職権乱用、不正行為など)をもって、その慈悲の海を堰き止めました(to dam up)。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、再び至高神への愛の運河を切り開き、洪水の水をもたらしました。そして今、他ならぬ私たちが、 ゴスヴァーミー階級のように再びそれを堰き止めようとしているのでしょうか?

主の献身者との良い関わりの影響によって、破壊的で悪魔的な精神性を持った私のような愚かな悪者(a fool and rascal)でさえ、至高主に奉仕をする気持ちになるほどに十分な敬虔さを培うことができます(to accumulate、蓄積、長期に渡って積み上げる)。

第13段落
生来、子供は落ち着きがなく、よく遊ぶものです(playful)。そのため幼稚園では学習に興味を持たせるために彼らにおもちゃとゲームが与えられます。同様に、初心者は犠牲の雰囲気の中で活動を行うように訓練され、そして彼は聖典の命令に応じて神像を崇拝することを奨励されます。

熟達したヴァイシュナヴァの教師(preceptors)は、それから、クリシュナ意識の霊的に強力な(potent)話題を語り、至高主に捧げられた食べ物の残り物を彼に与えることによって、徐々に彼を純粋な献身奉仕の水準に向けて引き寄せます(to draw toward)。

献身生活のこれらの二つの側面は、世界の他の者たち(the rest of the world)と同じく物質的な病によって影響されている(to be affected)初心者に、薬のように働きます。主クリシュナへの献身奉仕は、生命体の永遠の生来の権利(birthright)です。

それは人間の心によってでっちあげられた(to be fabricated)新しい主題ではありません。卑しい(base)愚か者は、主クリシュナへの献身は単に俗的な心の心理的な状態であると考えます。しかし本当は、献身奉仕は私たちの永遠の霊的な実質(substance、資産)---シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.2)によれば「必要不可欠な霊的な現実」(ヴァースタヴァヴァストゥ)です。

主クリシュナへの献身は、献身者の浄化された心の中に自然に引き起こされます(to be invoked)。病が癒されるとき、患者は空腹を覚えます。同様に、初心者が献身者との関わりによって十分な敬虔さを育む(to accrue、自然に増えて利益が増す様子)とき、彼は自分の心の中に献身奉仕への魅力(attraction、魅了される気持ち)を感じます。

第14段落
4種類の敬虔な人々が至高主、クリシュナとの関係を確立します。主はバガヴァッド・ギーター(7.16)(校正 : →. )において、次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタのうちで最良の者よ、4種類の敬虔な人々が私に献身奉仕を捧げ始めます---苦しんでいる者、富を欲する者、知識欲のある者(the inquisitive)、そして完全存在に関する知識を探し求めている者です。」

第15段落
人は、ヴァルナーシュラマ・ダールマの体系、、4つの霊的な階層と4つの社会的な階層を含む社会体系の下で厳密に自分の義務を遂行することによって、もう一つの種類の敬虔さを得ます。学識のある賢人たちは、ずっとこの体系を伝えてきました(to propagate、宣伝、普及)。ヴィシュヌ・プラーナ(3.8.9)にはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神、主ヴィシュヌは、ヴァルナとアーシュラマの体系において、定められた義務の正しい遂行によって崇拝されます。至高の人格神を満足させるための他の方法はありません。人は4つのヴァルナとアーシュラマの制度(institution)に位置していなければなりません。」

第16段落
ブラーマナ(知識人、僧侶階級)、クシャトリヤ(王と管理者(administrators))、ヴァイシャ(商業コミュニティー)、そしてシュードラ(非熟練(menial)労働者)(訳注:この場合は「下層、卑しい、雑用」などの意味)は、4つの社会的な階層、すなわちヴァルナです。

もしも彼らが自分の特定のヴァルナに関係する(pertaining to)聖典の命令に応じて暮らすなら、それなら彼らは敬虔さを培うことができます。同様に、もしも4つのアーシュラマ---つまりブラーマチャーリー(独身の(celibate、宗教的な理由による性的な禁欲)学生)、グリハスター(家庭人)、ヴァーナプラスター(巡礼者)、そしてサンニャースィー(放棄階級者)---の構成員もまた、聖典の命令(edicts)にしたがって(in conformity with)活動するなら、同じく計り知れない(immense、莫大な)敬虔さを得ます。

しかし、カリ・ユガの悪い(ill)影響がこのヴァルナーシュラマ体系を壊す(to corrupt)とき、人間の社会は様々な堕落(degradations、退廃)によって悩まされます(to be beset、付きまとう、取り囲む)。その結果、生命体は主の幻想の力によって引き起こされる様々な自然の惨事(calamities)によって罰せられます。

市民が王の規則に従う(to abide by)とき、王国は滑らかに営まれ(to run)、誰もが豊かで(prosperous、繁栄、順調)満足しています(content)。しかし、泥棒、悪党(rogues)、そして犯罪者という悪魔的な人口が着実に(steadily)増えるとき、王国は混沌と恐怖(terror)に満たされます。
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ぼちぼち進んでおります。みなさま、のんびりお待ちくださってありがとうございます。教育システムに関する今回のお話も興味深いものだと思います。日本では宗教は悪いものの代表みたいに思われている節がありますので、私も母から「あんたは宗教をしているのか!?」と問い詰められたことがあります。何やらあれこれの犯罪をやっているのかと問われるような言い方ですね。しかもインドの宗教ということで、即座にオウムと同一視されますし、返事に困ります、ほんと。

こんな風潮にあっては、学校で霊的なことを教えることなど不可能だろうなという気がします。今でも道徳の授業というのはやっているのでしょうか。あれは霊的なこととは全く関係ないし、変な思想が入り込む隙もいっぱいありそうな気がするのですが、少なくとも日本の学校であれば昔ながらの神道や仏教の教えなどをもうちょっと、せめて一般教養として教えたらどうかと私は思います。お地蔵さんや祠や道祖神の意味、ご神木や注連縄の意味など、知っていれば身近にも感じるだろうし、大切に思う気持ちも育つでしょう。そしたらやがて霊的なことに対しても自然な畏敬の念や探究心もわくと思います。霊的な存在なのに霊的なことをばい菌みたいに嫌って怖がる今の社会の状態は異常です。
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by ammolitering4 | 2014-05-25 12:10 | 「英知による放棄」 | Comments(4)

第2章 最後まで

第19段落
しかし、この完璧な認識への道は、マーヤー、打ち勝ちがたい(insurmountable、克服するのが難しい、あるいは不可能な様子)物質エネルギーによって引き起こされる障害(hindrances、妨害)を伴います(to be fraught with)。このことに関して、人はこう尋ねるかもしれません。

「もしも主クリシュナに奉仕をすることによって人が自動的にすべての従属的な(subsidiary、補助、副次)義務を果たす(to discharge)ことができるなら、それならなぜ世界中のすべての人が主クリシュナに服従して主を至高の完全存在として崇拝しないのですか?

世界のほとんどすべての人は、大なり小なり(more or less)、神は二人あるいはそれ以上ではなく、一人だけだということに同意します。それでも、その唯一無二の(one and only)至高の人格、主クリシュナがこの真理を宣言するために個人的においでになるとき、なぜ人々はまだ、主に服従するのを拒否するのですか?

おそらく、文盲で無知な者は主クリシュナの優越性(supremacy、主権、至上性)を受け入れることができず、したがって主に服従しないというのは理解できます。しかし、聖典を広範に渡って(extensively)議論し、それでもなお主クリシュナの蓮の御足により頼まない、大勢の学識ある(erudite)学者、哲学者、そして社会の指導者たちがいます。なぜでしょうか?」主ご自身がご自分のバガヴァッド・ギーター(7.15)においてこの質問にお答えになります。

(サンスクリット引用)

「ひどく(grossly、悪いことの程度が著しい状態)愚かであり、人間のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれ、そして悪魔の無神論的な性質を帯びた(to partake)それらの悪党たち(miscreants、不信心者)は、私に服従しません。」

第20段落
悪魔的な精神性を持った人々は決して至高主に服従しません。いつも2種類の人間が存在していました。良い、敬虔な人間と、非敬虔な堕落者(reprobates、道楽者、無頼漢)です。これらの2種類の人々はいつも、すべての国と、そして歴史上のいつの時代でも存在します。

敬虔な人々は神の法に従い、そして徐々に上げられます。他方で、非敬虔な人々は気まぐれに(capriciously)神の法を見せびらかし(to flaunt)、独立的であろうとします。(訳注: to flauntは誇らしげに振りかざすことを指します。したがって、ここでは「非敬虔な人々は自分で独自に考えたことを神の法だと言い張る」という意味だと思います。)

人種的な紛争(strife)、内戦(civil wars)、暴力的な革命、そして世界大戦は、現代において非常によくあることで、すべて非敬虔な人々の気まぐれでわがままな性格によって引き起こされます。

第21段落
敬虔な人々はどの国にでも住んで彼らの聖典の教えに従うことができ(訳注:「彼らの」は、この場合は「自分たちの」を指し、「その国の」ではないと思われる。原文は~ can live in any country and adhere to the instructions of their scripture)、あるいは他の国の他の敬虔な人々と関わって知識と認識を交換することができます。

結果として、これらの完全真理の探求者たちは、主クリシュナが至高の人格神であると、確かに知覚することができます。他方で、罪深い人々は一つの関心ごと(interest)を持っています。自分の利己主義的な熱望(egoistic cravings)を満足させることです。

彼らは宗教の先導者(vanguards、先鋒、前衛、アヴァンギャルド)である振りをするかもしれません(to make a show of~)が、この見かけ(facade)の背後で、彼らは自分たちの不埒な(reprehensible、非難すべき)活動を続けます。

彼らは自分の生まれついた宗教(the religion of their birth)の神聖(sanctity)をそしり(to vilify、けなす)、自分の国の利益(interest)に反することをします(to go against)。彼らの自己中心的な暮らしは、彼らが人間の振る舞いの一般的なエチケットに従うことさえも妨げます(to preclude、不可能にする)。

(彼らが)自分の人生を主クリシュナへの献身奉仕に捧げることについては、何をか言わんや?そのような悪魔的な人々は、毒蛇よりも危険です。

第22段落
一般に、ひどい愚か者と無知な結果を求めて働く者たちは、至高主に服従しません。そのような人々は決して完全真理について考えません(to enquire into~、調査、問い合わせ)。彼らは決して「神とは誰だろうか?」、「この世界とは何だろうか?」、「私は誰だろうか?」、「なぜ私は一生ロバのように働いているのだろうか?」、あるいは「私の努力の結果は何だろうか?」などの質問をしません。

ロバは一生、ただ一握りの草のために洗濯屋の重荷を担いで奴隷のように働きます(to slave)。同様に、カルミー(結果を求めて働く者たち)は、単に食べ物と他の必需品の供給を確保するために、疲れを知らずに骨折って働きます(to toil、継続的な労苦)。

ロバは愚かさの象徴です。なぜなら、彼はただ自分の腹を満たし、雌ロバと交尾する(to copulate with ~)ためだけに一所懸命働くからです。ですから、愚かな(asinine、ロバのような)カルミーもまた、愛情と執着から、自分の家、そしてさらには彼らが崇拝に値すると考える、自分が生まれた国を維持するために苦労して、疲れを知らずに働きます。

家では、カルミーの唯一の楽しみの源は、彼のために料理し、彼の惨めな(misery-ridden、-riddenは何かに支配された様子を表す)感覚のために喜びを提供する、彼の妻です。近視眼的なカルミーは、自分自身あるいは自分たちの世界に関する何らの幅広い事柄についても、知りたいとは思いません。

彼らは単に、自分の家庭と身体的な事柄(care、関心事、気がかり、世話)につながれています(to be tethered、鎖をつけて行動を制限する)。そして、人々の感覚的な人生を助長する(to foster、養育)指導者たちは、普通のカルミーよりも大きな(bigger、ひどい)愚か者と悪者です。

したがって、彼らは決してバガヴァッド・ギーターあるいは主クリシュナに触れるようにはなりません(to come in contact with)。「服従する」という言葉は、彼らにとって何の意味もありません。

第23段落
至高主に服従しない人々は、ナラーダーマ、「人間のうちで最も低い者」と呼ばれます。そのような人々は、動物のように振舞って、自分の人間の人生を浪費します(to fritter away、空費、棒に振る)。言い換えると、人がこの稀な人間としての誕生をその実際の目的を達成するために使わず、堕落した活動においてそれを無駄にするとき、彼はナラーダーマと呼ばれます。

物乞いが突然宝を見つけ、それでも物乞いのように暮らし続けるなら、彼は確かに守銭奴(miser、惨めな人)であり、ナラーダーマです。同様に、誰かが人間としての誕生という貴重な(priceless、値段が付けられないほど貴重な様子)贈り物を受け取り、それでもそれを動物のように生きること---単に食べ、眠り、性交し、そして身を守ること---によって浪費する(to squander)とき、それならそのような人はナラーダーマです。

これらの愚か者たちは、より低い種における無数の(many millions)誕生の後で、魂がついに稀な人間としての誕生を受け取るということに気づきません。そして、自分自身を超越的な水準に上げ、完全真理に至り、そして霊的な世界の中の自分のもともとの家に戻るために魂が真摯に努力しなければならないのは、この誕生においてです。

もしもこの人間の人生において、何百万もの前世においてどれほどひどく苦しんだかを知った(to learn)後でさえも、魂が自分の状況を楽にする(to alleviate、苦しみを軽減する)ために何の試みも行わないなら(to make attempt)、それならそのような人は確かに惨めな守銭奴であり、ナラーダーマです。

しかし、もしも人が、ブラーマナの階級に上げられるようになることによって、自己認識のために自分の稀な人間としての誕生を活用しようとするなら、そのとき彼の人生は成功します(his life is successful)。ブラーマナは、生まれによるブラーマナを意味するのではありません。

ブラーマナは、主クリシュナ、ブラーマナたちの主に服従する者です。ナラーダーマは、そうするこができません。したがって、ナラーダーマ(訳注:という言葉)のもう一つの意味は、「献身奉仕を退ける者」です。

第24段落
主クリシュナに服従しない人間のもう一つの階級は、主に頑固に(staunchly、しっかりと、主義や方法に忠実に)反目する(inimical、敵意)悪魔たちです。ラーヴィナ、ヒラニャカシプ、ジャラーサンダー、そしてカムサなどの有名で強力な悪魔の王たちは、学習と厳しい修行(austerities)を通して多くの力を得ました。

しかし、いつも主ラーマ、主ヌリスィムハデヴァ、主ヴィシュヌ、そして主クリシュナなど至高主の様々な化身に挑戦したため、彼らは悪魔として知られています。往々にして、悪魔たちは教育や知性には欠けていませんが、至高主への極悪な(fiendish)精神性のため、彼らの学習と脳の能力(capacity)は無価値(naught)になります。

完全に物質自然の支配(grip、掌握)のうちにあるので、彼らの能力は究極的には彼らから取り去られます。悪魔たちの失敗の理由は先に述べられています。もしも人が主クリシュナに服従しないなら、物質自然を克服する(to surmount)ことは不可能です。

第25段落
クリシュナの献身者を苦しめることは(to torture、拷問)、主ラーマと主クリシュナは死ぬ運命にある普通の存在(ordinary mortals)なので自分たちを罰することはできない、と考える悪魔たちの関心事(preoccupation、没頭する事柄)です。

そのため悪魔たちは、自分たち自身(they themselves)、主ラーマと主クリシュナと同じくらい学識があって知性的であると結論します。ナヴァドヴィーパの無神論的な学徒たちは、主チャイタンニャは普通の人間だと考えました。

そしてそのため、彼らの尊敬を勝ち取るために、主は(訳注:俗世を)放棄していて厳格な(austere)、人生のサンニャーサの階級を受け入れられました(the renounced and and austere sannyasa order of life)。

このようにして主は、ご自分を神聖なる寛大さ(magnanimity)の化身(personification、権化、人格化)としてお見せになりました。悪魔たちはいつでも(invariably、常に、例外なく)物事を混乱させます。彼らは人間を神として崇拝し、神を人間と呼びます。

バガヴァッド・ギーター(9.11)において、主はそのようなひどく愚かな人々を適切に(fittingly)描写なさいます。(サンスクリット引用)「愚か者は、私が人間の形で降臨するとき、私をあざ笑います(to deride)。」

悪魔たちの学習、知性、そして称号は、毒蛇の頭(hood、傘のように広がったコブラの頭部)の上で輝く(to glitter)宝石のようなものです。蛇の頭の上の貴重な宝石の存在は、彼の毒液(venom)を減らしません。

同様に、悪魔の学識(erudition)、知性、そして称号は彼の悪魔らしさを減らすことはなく(~do not make him less of a demon)、そしてそのため、彼は毒のある(venomous)蛇と同じくらい恐ろしい(horrendous、ひどく悪い)のです。

第26段落
死体を飾ってそれを華やかさ(pomp、無駄な飾り)と共に葬式の薪(pyre、火葬のために積み上げた薪壇)に持って行くのは、確かに娯楽のためだけの目に余る見せびらかし(flagrant display)に他なりません。

一般の人々は、至高主の極悪の(arrant、途方もない)競争者である悪魔の上に栄誉(accolades)と
学究的な学位(degrees)が積み重なっているとき、同様に騙されます。現代の大学で若者たちに授けられる無神論的で悪魔的な教育は、単に称号を持った悪魔たちの集団(a bunch of demons、束)を作り出しています。

このことの証拠は、アリガー大学のガーグ学長が、ある学生たちにょって殺された最近の事件です。ウッター・プラデシュ州全体が衝撃を受け、この危険な(vicious、悪意のある)行いを徹底的に調査しました(to open a probe)。

州知事は指導者たちと教師たちの会議を召集しましたが(to call for)、過去にはすべてのそのような会議は同じ残念な結果(frustrating fate、挫折、失敗、落胆の運命)に遭いました。解決策がない、というものです。私たちは、現在の会議もまた、失敗に終わると考えます。

社会における悪魔的な精神性を根絶する(to eradicate)唯一の方法は、クリシュナ意識の科学を教えることです。悪魔たちによってもたらされた(to be wreaked、損害を生じさせる)すべての大惨事(disaster)と堕落(corruption、腐敗)を考慮すると(to take note of)、クリシュナ意識の科学を学んで教えることは、世界のすべての市民の道徳的な責任です。
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by ammolitering4 | 2014-05-20 10:57 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第2章 18段落まで

第13段落
このように、この物質世界の中のすべての現象は、単に至高主の優性なる霊的エネルギーと主の劣性なる物質エネルギーとの相互作用(interactions)です。物質エネルギーはクシェトラ、すなわち活動の場として知られ、そして霊的エネルギーはクシェトラ・ジニャ、すなわち活動の場を知る者として知られます。

生命体のすべての異なる種、そして(with)それぞれの様々な特徴は、クシェトラとクシェトラ・ジニャの相互作用によって作られます。エネルギー的な原則、これらのエネルギー両方の統御者は、至高の人格神、クリシュナです。

主は、この宇宙の顕現の創造、維持、そして破壊の究極の原因として認識されねばなりません。主はバガヴァッド・ギーター(7.6~7)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「すべての創造された存在は、その源をこれらの二つの自然(主の劣性および優性なるエネルギー)のうちに持っています。この世界の中の物質的であるものすべて、そして霊的であるものすべてについて(of)、私が源でもあり消滅(dissolution、溶解、滅亡)でもあると、確かに知りなさい。

おお、富を征服する者よ、私に優る真実はありません。真珠が糸でつながっているように(as pearls are strung on a thread)、すべてのものは私により頼みます(to rest upon)。」

第4段落
ブラーマンに関する、私たちがヴェーダから聞く様々な引用(訳注:ヴェーダの中にある、ブラーマンに関する様々な叙述)---エカム・エヴァードヴィティーヤム・ブラーマナ:「ブラーマンは唯一無二である」、

ネハ・ナーナースティ・キンカナ:「これの他には何も存在しない」、サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ:「すべてのものとすべての場所(everything and everywhere)はブラーマンである」、アハム・ブラーマースミ:「私はもともと(by nature、生来)ブラーマンである」など---は、その結論を上に引用したバガヴァッド・ギーターからの節において見出します。
(訳注:~など様々な叙述がありますが、それらすべての結論は~に集約されています。)6つの超越的な富を完全な水準で備えた至高主は、最高の統御原則です。主に等しい、あるいは優る名士(personality)は他にありません。

主クリシュナはこの点を、「私に優る真実はありません」と言うことによって、そしてそれからご自分がどのようにどこにでも存在していて、ご自分のあまねく存在する(all-pervasive)エネルギーを通してすべてのものと密接に関わっているか、ということを説明することによって、確認なさいます。(訳注:構文がややこしいですが、「どのように」はそれに続く2つの項目に掛かります。)

第15段落
物質自然は、主のエネルギーの変容(transformation)の結果です。エネルギーとエネルギー的なものの両方が計り知れず(inconceivable)、それらは同時に一つであり、異なっています。そのため(Hence)、サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ(「すべてのものはブラーマンである」)という句は、事実、すべてのものは至高主の物質的および霊的なエネルギーの変容から成るということを宣言します。

主のエネルギーの変容は、至高の完全真理を増しもせず、減らしもしません。そのためブラーマンは変化のないものとして描写されます。そして、劣性なるエネルギーは、ブラーマンの反映に過ぎないため、ニラーカーラ、非人格的です。

第16段落
シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、主と主のエネルギーの同時の一体性と相違(訳注:~は同時に一体であって異なる)という哲学を広められました。最高の深遠な(esoteric、秘儀の)真理は、主クリシュナが至高の完全真理であり、生命体と物質世界の両方が主の従属的なエネルギーである、というものです。

この原理を理解し損ねる者は物質主義者であり、他方で、それを理解し、主クリシュナとの自分の関係を再確立しようとしている者は、解放された魂、主の献身者です。主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(7.13-14)において説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「3つの相(徳、熱情および無明)によって幻惑され、世界全体が、相を超えていて尽きることのない(inexhaustible、無尽蔵)私を知りません。物質自然の3つの相から成る、私のこの聖なるエネルギーは、乗り越えるのが困難です。しかし、私に服従した者は容易にそれを越えることができます。」

第17段落
好むと好まざる、良いと悪いなどの二重性は、すべて物質自然の3つの相---徳、熱情、そして無明によるものです。これらの相は、すべての制約された生命体をそれらの支配(sway、ゆらぎ、振動、影響力)の下に保ちます。

したがって、制約された魂にとっては、至高主は完全に霊的であるため3つの相を超えていて、そのためパラム・アヴャヤム、完全に無尽蔵である、と理解するのが困難です。主がこれらの単語、パラム・アヴャヤムをお使いになる理由は、主はご自分の超越的なエネルギーを用いて(by means of)すべてのものに染み渡ります(to permeate)が、永遠に普遍で、完全な全体であり続けるからです。

人は、ブラーマン、至高の完全真理は宇宙の顕現全体に行き渡る(to pervade)ので、したがって主は決定的な(definitive)形あるいは人格を持つことができない、と考える間違いを犯すことを避けるべきです。

火から放射している熱はすべての方向に広がりますが、それでも火は不変のままに留まります。同様に、太陽は記憶にないほどの昔から光と熱を放射していますが、それでもそれはその力を少しも失っていません。

そして、太陽は至高主の無尽蔵な力のほんのわずかな部分を持っているに過ぎません(to possess but a minuscule fraction)。それでは(So)、主の力が変容したり減ったりすることについて、何の問いがあるでしょうか(what question is there)?(訳注:~することがあり得るでしょうか?)

(訳注:「変容」については第15段落に「物質自然は、主のエネルギーの変容(transformation)の結果です。」とありますが、この場合は同じ単語を使ってあっても意味は違うものと思われます。)

主のエネルギーは、火の熱と光のように、どこにでも広がりますが、それでも主のエネルギーはいつでも決して減り(to diminish)得ません。そのためバガヴァッド・ギーターにおいて主は、ご自分をパラム・アヴャヤム、無尽蔵、至高のエネルギー的な原則と描写なさいます。ヴェーダは主を次のように描写します。

(サンスクリット引用)

「何であれ完全な全体から作られるものは、それ自身もまた完全です(also complete in itself)。主は完全な全体でいらっしゃるので、非常に多くの完全体(complete unit)が主から放射するにも関わらず、主は完全な均衡を保たれます。(イーショパニシャッド、祈り)」

第18段落
至高主ご自身のように、自分自身を物質エネルギーの催眠的な(mesmerizing、魔法のように魅了し続ける様子)支配(grip、掌握)から自由にして主に近づくための過程もまた、唯一無二です。ちょうど、太陽を見るための唯一無二の方法は太陽光の助けによってであるように、至高の人格、主クリシュナを見るための唯一の方法は、太陽のようなクリシュナご自身の光(illumination、照明、啓蒙)によってです。

主の蓮の御足に服従し、主に愛情ある献身奉仕をすることによってのみ、人は主に近づくことができます。身体的な努力(strain、骨折り、重い負担)を通しての結果を求める(fruitive)活動も、精神的な体操(gymnastics)を通しての推量的な知識も、人が神意識の最高の完成を得るのを助けません(訳注:~の助けにはなりません)。

バークティ、すなわち献身を通してのみ、至高主に到達し得ます(can be achieved)。推量的な知識と神秘的なヨガは、最良でも人に完全真理の部分的な認識を---つまり、それぞれブラーマンとパラーマートマー(超魂)の認識を与える(to accord、許可などを与える)だけです。

人が至高の人格神、クリシュナ、永遠性と知識と喜びの体現を直接(face to face)知覚することができるのは、唯一、バークティという方法によってのみです。昇る太陽が夜の暗闇を追い払うとき、すべてのものがはっきりと見えるようになります。

同様に、クリシュナという太陽が人の意識の地平線の上に昇るとき、マーヤー、幻想エネルギーの地獄のような陰鬱さ(stygian gloom、stygianは地獄、暗黒、陰鬱、非道などの様子、gloomも同じく陰鬱さを指す)は追い払われ(to drive away)、すべてのもの(objects)のもともとの形がはっきりとした(distinct)焦点のうちにきます(訳注:~がはっきりとします)。このように、完全真理に関する(of)完全な知識と認識は、ただ至高主への献身を通してのみ来ます。
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by ammolitering4 | 2014-05-16 15:21 | 「英知による放棄」 | Comments(0)