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第13章

第13章 すべての完成はバークティ・ヨガから来る

第1段落
何であれ存在しているもの---顕現しているもの、あるいは顕現していないもの、物質的なもの、あるいは霊的なもの---は、一つの最初の(primary)源を持っています。至高主クリシュナです。主は太古の(primeval)、至高の統御者、すべての原因の原因、すべての主の主です。

心臓の中の超魂として、主は超越的に位置する献身者のすべての活動を促します(to inspire、人に何かをする気持ちにさせる)。完全存在に関する本当の知識を持っている者は、従者、友人などの気持ち(mood、気分、雰囲気)で主クリシュナに奉仕をすることができます。

彼らの心はいつも主クリシュナに関する考えに夢中になっており、そして彼らは主の永遠の、超越的な娯楽を知覚して味わうことを切望します(to yearn)。

第2段落
至高主の恵みによって、これらの純粋な献身者たちは主の親密な崇拝(His intimate worship、主を親密に崇拝すること)の神秘を解明する(to unravel、もつれたものをほどく)ことができます。すると、自分たちの主への愛によって(due to、~が原因で)、彼らは主の御名、形、性質、娯楽、仲間、そしてその他諸々の主に関わるものの栄光を聞いたり唱えたりすること無くして自分の暮らしを維持することを困難に感じます。(訳注:~無しでは生きられないようになる)

彼らは心を同じくする(like-minded)献身者との関わりを捜し求め、そして彼らと共に献身の蜜の海に飛び込みます。霊的な自己認識に位置しているので、彼らは霊的な交換(exchange、この場合は他の献身者との関わり)を味わい、主クリシュナの超越的な娯楽の(of、~という、~に関する)完全に縁起の良い話題を聞き、論じ、そして思い出し、そうして九重の献身の過程を実践します。

第3段落
彼らはこの九重の献身奉仕をサーダーナ、すなわち実践の段階において遂行し、そして完成した、すなわちスィッダーの段階において深い満足を感じます。彼らは従者や友人などとしての(servitorship, friendship and so on)超越的で霊的な味わい(mellows )で満たされるようになり(to be saturated、飽和)、そこから神聖な恍惚感を得ます。

(訳注:mellows、一般的な用法ではない。本来は果物などが「円熟した」という意味の形容詞だが、プラブパーダは「円熟した甘く穏やかな関係、およびその味わい」という意味の名詞として使われる。)

主クリシュナは、絶え間ない献身奉仕を通して霊的な満足と神聖な喜びを経験する献身者に、本物の超越的な理解、ブッディー・ヨガを授けます。徐々に彼らの特定の献身の態度(attitude、気持ち、姿勢)は、彼らが神への純粋な愛(pure love of God)を味わうことができるところ(point、地点)まで増します。

(訳注:それによって徐々に献身の念が高まり、彼らは神への純粋な愛を味わうことができるようになります。)

第4段落
バーカ、すなわち恍惚における自発的な(spontaneous、自然に起こる)献身奉仕の段階において、主クリシュナと主の純粋な献身者の間には、関係性の甘い味わい(mellows)の直接的で超越的な交換があります(訳注:~の間では、超越的で円熟した関係の甘い味わいが直接取り交わされます。)

至高主ご自身がご自分の献身者にブッディー・ヨガ、すなわち霊的な知性をお与えになり、そして献身者はその知性をもって活動し、徐々に主の至高のお住まいに近づくまで主に奉仕します。そのような献身者は決して無明によって影響されません。

第5段落
非人格主義者と経験主義的な哲学者は、主の純粋な献身者を感傷的な愚か者と考え、そしてそのため、彼らは献身者をあざ笑います。これは大変な無礼(offense、侮辱)です。そのような無礼は、非人格主義者と偽の(pseudo-)献身者がゆっくりと悪魔的になるようにします(to cause、原因となる)。(訳注:そのような無礼を犯していると、~はだんだん~になっていきます。)

良い感覚と安定した心を失って、彼らは徐々に至高主への敵意(animosity、反感、憎しみ)を育み、自分の人生でのすべての努力(all their life's endeavor)が苦しみと無益さ(futility)に引き下げられる(to be reduced)のに気づきます。(訳注:彼らが人生で為す努力のすべてが苦しみと徒労に終わることになります。)

これらの惑わされた悪魔的な非人格主義者が純粋な献身者に触れて(to come in contact with)、彼の慈悲によって自分の失われた洞察(insight)を取り戻すなら、それなら彼は、自分が侮辱した純粋な献身者は主クリシュナと霊的な味わいを交換しており、そしてそのため永遠に無明と幻想から自由である、ということを理解し始めることができます。

非人格主義者は、超魂として内から活動している至高主は献身者の心からすべての無明を取り除く、ということを理解しなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(10.11)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「彼らに特別の慈悲を見せるために、私は、彼らの心臓の中に住みながら(I, dwelling in their hearts,)、無明から生まれる暗闇を知識の輝く明り(lamp、光明)をもって滅ぼします。」

第6段落
無味乾燥で推量的な哲学者たちは、どうか一つの要点に留意してください(may kindly note one point)。「テシャーム」という単語を使うことによって、主クリシュナはご自分がいつも、(ご自分に)服従した献身者に慈悲深い、と公けに宣言なさいます。

主がご自分を超魂として拡張してすべての者の心臓にお入りになる理由は、経験主義的な哲学者とヨギーを祝福するためではなく、献身者を内から祝福するためです。もしも至高主ご自身が献身者を霊的な知識で啓蒙して彼らを徐々にご自分に近づけたい(to draw ~ closer to ~)と望まれるなら、それなら、そのような献身者が一度でも(ever)無知(nescience、正しい信仰を知らない状態)の魔力(spell)の下に来ることがあり得るでしょうか?(what question is there~?)(訳注:~なら、献身者が無知の闇に陥るということは決してあり得ません)

むしろ、経験主義的な哲学者が自分自身の知性(intellect)の力によって至高の真理に近づこうとすることが、無知だけによるものです(out of nescience only)(訳注:無知そのもの、というような意味合い)。私たちは、至高主はご自分の身体から放射する霊的な光輝で無明の闇を消す(to dissipate)ことがおできになるのを知っています。

経験主義者(empiricists)も同じことをすることができますか?人は、自分自身の努力によってはけっして無知の闇(gloom)を取り除く(to lift)ことができません。無神論者カピラのような経験主義者は、自分自身の努力によって悟り(enlightenment)に至ることができないので、完全真理を不可知であり非顕現であるとして言いくるめ(to explain away、ごまかしやこじつけで言い逃れる)ようとすることに大きな安堵を感じます。(訳注:~だと言って切り捨てて安心してしまっています)

しかし、主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(12.5)において確認なさるように、非顕現なる完全存在という理論に執着したこれらの無味乾燥な推量者たちに大変な苦しみが降りかかります(to befall)。

「その心が至高存在の非顕現にして非人格的な特徴に執着している者にとって、発達は大変困難です。その道(discipline、修行法、分野)において発達することは、身体に閉じ込められた(embodied、身体という形態を持った)者にとっていつも困難です。」

第7段落
一元論者(monist)が行う苦行は、実践(サーダーナ)の最初の段階の間も、完成に達したとされるときも、苦しみを伴います(painful)。非人格主義者は、推量的な理論を通して物体と霊の一体性を確証しよう(to establish)として、大変な(excruciating、耐え難い、激しい苦痛)痛みに苦しみます。

ブラーマンは無力(impotent、無能、男性の性的能力がない)であると考え、詭弁(sophistry)を通して、彼らは主の劣性な物質エネルギーと主の優性な霊的エネルギーを同等に並べようとし(to equate)、こうして本当に学識のある層(circles、職業などの仲間、この場合は知識層)からあざけり(ridicule)を受けます(to reap、報いを受ける)。

完全真理は無限のエネルギーを持った至高の人格神ではあり得ないと証明しようとして、彼らは、これは「不変の(immutable)ブラーマンは実際は変り得る(mutable)」ということを意味するだろう(this would mean、この場合のwould は可能性や推量を表す)、と論じます(訳注:原文は括弧無し)。

こうして彼らの理論はすべての結合力(cohesion、まとまり)を失い、彼らは笑いものになります。パリナーマ・ヴァーダ、すなわち「エネルギーの変容」という確立した理論を論破(to refute)しようとして、シュリーラ・ヴャーサデヴァが「物質宇宙と生命体はすべて主のエネルギーの変容であり、したがって偽り(false、非実在、仮)ではなく本物(real、実在、実存)だ」とおっしゃるとき、間違っているとして彼ら(一元論者)は彼を非難します(訳注:原文は括弧無し)。

そのため、(彼らの)哲学的な議論において、一元論者はすべてのヴェーダの聖典とそれらの必然的な結果(corollaries、ある命題から自然に導かれる結論)の主な意味(purport)と真髄を退け、「タット・トヴァム・アスィ」、「あなたはそれである」などの非本質的な(nonessential)教え(injunctions、命令)にしがみつきます(to hang on to、固執)。

彼らはこれらの副次的な要点(subpoints)を論じる(to deliberate)ことを好みますが、学識のあるヴァイシュナヴァの議論に直面すると(to be confronted with)、彼らは背を向けて戦線(battlefront)から逃げます(to run from)。

第8段落
至高主は超越的な人格(personality。名士)であると理解することなく、一元論者は、究極的でもともとの完全真理としての主の非人格的な側面を瞑想し、自分の感覚を制御する(to restrain、抑制)という無益で非常に(grossly、悪いことを強調する様子)俗的な試みをします。

溢れている川をせき止めることが不可能であるように、非人格的なブラーマンを瞑想することによって感覚を統御することは不可能です。偉大な聖人サナット・クマーラはシュリマッド・バーガヴァタム(4.22.39)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「主の蓮の御足の指への奉仕にいつもいそしんでいる献身者は、結果を求める活動への強い(hard-knotted、結び目が固い)欲望を簡単に克服することができます。これは大変難しいので、感覚の満足の波を止めようとしているにも関わらず、非献身者---ジニャーニーとヨギー---は、そうすることができません。

したがって、あなたはクリシュナ、ヴァスデヴァの息子への献身奉仕に携わることを助言されます(訳注:~するのが良いでしょう)。」

第9段落
主ヴィシュヌの非人格的な側面はブラーマンとして知られます。そのため、ジーヴァ魂、すなわち主ヴィシュヌの優性で霊的なエネルギーがブラーマンと融合することによってサーユジャ・ムクティ、すなわち解放を得るとき、それは全く驚くべきことではありません。

エネルギー的な原則はいつも、それ自身の中に主ご自身のエネルギーを抱える(to enfold、包む、巻き込む)という特権(prerogative)を楽しみますが、それはエネルギーの永遠の個人性(individuality)を滅ぼしません。(訳注:エネルギー的な原則(魂)はいつも主ご自身のエネルギーを内包していますが、それは~滅ぼすものではありません)

ブラーマンと融合することを欲し、それが実現可能(feasible)であると知っている非人格主義者は、それでも、ブラーマーナンダ、「ブラーマンの喜び」に至るための努力において、激しい苦しみを経験します。主の献身者たちは、そのような解放の喜びを地獄よりも悪いと考えます。

非人格主義者は、物質的な形の中に内在する(inherent、固有の、つきものの)幻想を滅ぼそうとして、永遠の霊的な形さえ取り除きます(to do away with、終わらせる、殺す)。それは本当に、大変愚かです。病を癒すために患者を治療するのは一つのあり方(one thing)ですが、病と共に患者(の命)を終わらせるのは馬鹿者の仕業(work)です。(~するために、~ではなく~をするのは、愚か者のすることです)

そのため私たちは、シュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に偉大な権威者ブラーマーからのこの教えを持っています(そのため、~は~において、このように教えられます。)

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも人がその道を放棄して推量的な知識を培うことにいそしむなら、彼らは単に困難な過程を辿り(to undergo、変化を経験する、困難を耐え忍ぶ)、自分の望む結果を得られないでしょう。

空の麦の殻を叩く者が実(grain、穀物)を得ることができないように、単に推量するだけの者(who simply speculates)は自己認識に至ることができません。彼の唯一の得るものは苦しみ(trouble、困難、悩み)です。(訳注:彼が得るのは苦しみだけです)」

第10段落
非人格主義者になって不運と悲惨さを招く代わりに、献身者は主クリシュナに服従し、この世界において決して苦しみません。現在の体を去るとき、彼は物質的な水準を超越し、主の永遠の娯楽に参加することができるようになります(to become eligible、資格を得る)。

超魂として、主クリシュナは心臓の中から献身者を啓蒙し、無明の闇を散らされます(to disperse)。主は献身者に、ご自分に至るための霊的な知性をお与えになります。無知の海は横切るのが大変困難ですが、献身者がそれを横切ろうとするとき、主ご自身が助けるために手助けなさいます(to intervene、介入)。

一人では献身者は必ず溺れますが、主の助けがあれば(with)彼は簡単に横切ります。このように、主の庇護の下に入ることは物質的な存在の海を乗り越える(to surmount)ための最も確実な方法です。主はバガヴァッド・ギーター(12.6-7)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「しかし、すべての活動を私に捧げ(giving up ~ onto Me)、逸れることなく私に献身的であり、献身奉仕に携わり、いつも私を瞑想し、心を私に定めて私を崇拝する者---おお、プリターの息子よ、彼らにとって私は生と死の海からのすばやい救済者(swift deliverer)です。」

第11段落
主クリシュナに服従する者、至高主の人格的な形に(自分の)断固たる(unflinching、to flinchは「ひるむ、たじろぐ」など)信仰を寄せる(to repose)者は、他のすべてのものと共に、自分の精神的(mental)および身体的な活動を主に捧げます。

経験的な知識への欲望、結果を求める活動、あるいは厳しい苦行によって邪魔されない(unencumbered)純粋で一途な献身の念を持って、彼らは笛を吹いておられる主クリシュナの永遠の、美しい、二本の腕を持ったお姿を崇拝し、瞑想します。

そのような純粋な献身者は、心(hearts)がクリシュナへの愛で満たされ、主クリシュナが自ら(personally)彼らをお助けになるので、すばやく、そして簡単に、物質的な存在の循環を超越します。慈悲深い神は、(彼の)献身の程度に応じて一人ひとりに報いを与える(to reciprocate with each one)と約束なさいます。

第12段落
非人格主義者は、至高存在は非人格的であり、最終的な目的はそのブラーマンの存在と融合することであるという考えに取り付かれています(to be obsessed with、夢中になる、思い込む)。もちろん(naturally)、主は反対なさいません(to object)。

もしも患者が自分の人生を終えることによって自分の病を終わらせたがるなら、彼の他に誰が苦しむでしょうか?もっと知性的な人はもちろん(surely)自分の命を終わらせることなく自分の病を癒したいと思うでしょう。

そして、そのためにも(to that end)、彼は自分のもともとの健康を取り戻そうと努力するでしょう(to strive)。同様に、物質的な病に侵された魂は、(自分の)個々の自己認識を滅ぼすことなく、自分の純粋な、もともとの状態に戻ろうと欲すべきです。

主クリシュナはそのような人々を神と一つになろうとするという悪魔的な考え(conception、構想)の顎(jaws、この場合は「噛み付いて離れない危険なもの、呪縛」)から救います。霊魂にとって、自分の本来の(inherent、内在)個別性(individuality)を失おうとするのは自殺行為(suicidal)です。

物質的な存在の呪縛(knots、結び目)から自分自身を解放する(to disentangle、もつれていたものをほどく)ことによって非人格主義者が感じる幸せは、献身奉仕の副産物として、主の献身者には自動的に得られます(available)。ナーラディーヤ・プラーナにはこう述べられています。

「人は、結果を求める活動にいそしんだり、精神的な推量によって知識を培ったりすべきではありません。至高主、ナーラーヤナに献身的な者は、ヨガ、精神的な推量、儀式、犠牲、そして慈善などの他の過程から得られる(to be derived)すべての利益を得ることができます。それが献身奉仕の特定の恩恵(benediction、祝福)です。」

第13段落
そしてクリシュナ・カルナームリタ(107)において、ビルヴァマンガラ・タークラがこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、主よ。もしもあなたへの私たちの献身が逸れないなら、それならあなたの永遠に若々しいお姿が私たちの心の中に自然に(spontaneously)現れるでしょう。そのとき、人格化した解放が女召使(maidservant)のように私たちに奉仕をし、そして信仰心(religiosity、宗教的な熱意)、経済的な発展、そして感覚の満足(ヴェーダの外の3つの目的)は、つつしんで私たちの命令(bidding)を待つでしょう。」

(サンスクリット引用)

「人生の完成を得るための普通の必要事項(requirements)が無くても(訳注:欠けていても、満たしていなくても)、もしも彼が単にナーラーヤナの服従した献身者であるなら、人は完成を得るでしょう。」(ナーラディア・プラーニャ)
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ようやく第2部が終わりました~!!!だらだらとやってましたので、長々とお待たせして申し訳ございませんでした。あと、第3部が残っています。これも完成するのはいつになることやら分かりませんが、ぼちぼち進めますのでどうぞ最後までよろしくお付き合いください。皆様、編集のほうもどうぞよろしくお願いいたします。可能であれば原文と照らし合わせていただき、間違いや抜けがあれば修正してください。そして、読みやすい平易な日本語になって、プラブパーダのお言葉が広まればいいなと思います。まあ、広まったって猫に小判、いや、大判という場合がほとんどだと思いますが、中にはほんの一人か二人、何度も生まれ変わってこの出会いを待っていた、という方がいらっしゃると思うのです。長くも闇路を辿ってました、ろくろっ首になって待ってました、という誰かに本訳文を捧げます。
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by ammolitering4 | 2015-03-19 05:47 | 「英知による放棄」 | Comments(3)

第12章

第12章 「すべての種類の宗教を放棄して私に服従しなさい」

第1段落
いわゆる進歩的な現代の文明は、その罪が多くの生を通して蓄積している堕落した(reprobate、不道徳的、邪悪な)人間を作り出しました(訳注:「いわゆる進歩的な現代の文明が作り出した堕落した人間は、その罪が幾生にも渡って蓄積しています」)。

それでも、もしも彼らが主クリシュナに服従するなら、彼らでさえ、そのすべての罪を永遠に根こそぎにされるでしょう(to be eradicated、撲滅)。献身奉仕の過程と主クリシュナを覚えていることは、彼の心の中から徐々に、望まれない、卑しい(base)欲望を消します(to dissipate、霧が晴れるような様子)。

そして、かつて不滅の切望(yearnings、憧れ、満たされない長期的な強い欲望)を宿していたそれらの心は、完全に清められ、幸先が良くなります(auspicious、縁起が良い、吉祥、めでたい)。

第2段落
罪深い者と困窮した者(the destitute)は、主クリシュナの慈悲によってのみ、自らの過ちと不運を理解します。いったん自分の罪を悔い改め始めて(to repent for)主に服従すれば、彼らは救われます。彼らは浄化され、聖人的な性質を現し始めます(to manifest)。

そして、もしも、たとえ人が献身の過程を始めた(to take to~、習慣的に何かをし始める)あとでさえ、不滅性の痕跡(vestige)(訳注:この場合は「尽きることのない欲望の名残」)が彼の性質の中に残るなら、それもまたすぐに主の恵みによって根こそぎにされるでしょう(to be eradicated)。

決して至高主あるいは主の献身者を傷つけない(to offend、憤慨させる、機嫌を損ねる)一途な(single-minded)献身者は、聖人的な魂であると考えられます。たとえそのような聖人がまだすべての罪深い性質(propensities、傾向)を捨て去っていない(to be rid of、取り除く)ように見えても、彼は決して滅ぼされません。似たような状況にあるヨギーとカルミーも同様です。これを至高主ご自身が宣言なさいます。

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムの中にあるアジャーミラの救済(deliverance)の記述(account)は、この事実を決定的に(conclusively、結論的、確証的)に証明します。主クリシュナへの献身奉仕における揺るぎない(undeviating)信仰(faith)がいったん人の心を貫くと、たとえ彼の外的な活動が罪の名残(residue)を見せるかもしれないとしても、浄化の過程は確実に進んでいます(underway、進行中)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.31)において、主の服従した献身者(His surrendered devotees、「ご自分に服従した献身者」)は決して打ち負かされ(to be vanquished、征服)得ないというご自分の約束を堂々と(boldly、大胆、高らかに)公言なさいました(to broadcast)。(サンスクリット引用)

主クリシュナはいつもご自分の献身者をお守りになるということが、この節において証明されています。特に、主が、約束を自ら宣言する代わりに、ご自分の代理としてそうするように勇敢な(valiant、立派な)王子アルジュナにお頼みになるからです。(訳注:「そうするように」というのは「宣言するように」という意味。)

主はご自分自身の約束を破られるかもしれませんが、主はご自分の献身者に好意的であられる(be favorable to)ので、いつも彼らの約束(訳注:この場合は彼らが他者に対してした約束)を守ろうと(to uphold)なさるでしょう。

クルクシェトラの戦場において、ご自分自身の約束を破り、ビーシュナデヴァのを守ることによって、主は疑いもなく、ご自分に服従した献身者に肩入れなさる(to favor、好意、助力、偏愛、大事にする)ことを証明なさいました。

第4段落
ブラーマナ、あるいは美、富、そして学識に恵まれた高貴な生まれの者は、献身者の中にまだ見られる堕落した習慣の排除(elimination)はアジャーミラのようなブラーマナの場合だけに起き得ると、誤った推論に基づいて(fallaciously)結論するかもしれません。

アジャーミラはブラーマナの生まれでしたが、自分の過去生からの悪い反応によって生じた罪深い活動のせいで(on account of)、彼は忌まわしい活動を始めました。しかし、人生の終わりに彼の至高主の記憶(remembrance、追憶、想起)が彼をすべての罪から放免(to absolve him of)しました(訳注:人生の終わりに至高主を思い出したことで、彼のすべての罪が許されました)。

しかし、救い(deliverance)は高い生まれの者だけでなく、すべての人にとって可能です。もともと(naturally)卑しい活動をしがちな(to be given to、~にふける)最も低い人々でさえ、もしも彼らが単に主の蓮の御足に(at)服従するなら、主クリシュナの霊的なお住まいに至ることができます。主はバガヴァッド・ギーター(9.32)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、私の庇護の下に入る者は(to take shelter in Me)、低い生まれ---女性、ヴァイシャ(商人)、そしてシュードラ(労働者)であっても、至高の目的地に至ることができます。」

第5段落
人間のうちで最も低いものが主クリシュナに服従することによって至高の目的地に至ることができるとき、身分の高い生まれのブラーマナについては言うまでもありません(what to speak of~?、言わずもがな。直訳すると「何をか言わんや?」に近いですが、これは「言葉もない」、「呆れてものが言えない」というような意味らしく、どうやら少し違っているようです)。

至高主への献身奉仕の道を辿る者は、カーストと色(訳注:肌の色など)の差別によって悩まされる(to be hounded、猟犬に追い回されるようにしつこく攻撃される様子)ことがありません。一神教(monotheism)---一つの宗教と一つの信条(creed)---は、主クリシュナの蓮の御足の庇護の下でのみ可能で、他のどの方法によってでもありません(and not in any other way)。

第6段落
幻想の力、マーヤーは、常に現在の争い(Quarrel、口げんか、いさかい)の時代、カリ・ユガの(in)人々を恐怖に陥れ(to terrorize)、束縛します(to shackle、鎖でしばりつける)。霊魂としての自分の本当の自己認識を忘れ、彼ら(訳注:カリ・ユガの人々)は世界に大惨事(disaster)をもたらします。

そのような包囲攻撃(siege)の下で、現代の(modern-day)思想家と哲学者は社会に純粋さ(purity)と統一(unity)をもたらそうと必死に(desperately、絶望的、という意味合いがある)試みています。彼らはこの問題に関する(into)詳しい研究を行っています。しかし主クリシュナははるか昔にバガヴァッド・ギーター(9.34)の中で私たちに、私たちの現代の問題への解決策をお与えになりました。

(サンスクリット引用)

「いつも心で私のことを考え(Engage your mind always in thinking of Me)、私の献身者になり、私に服従し(to offer obeisances)、私を崇拝しなさい。完全に私に夢中になれば(Being completely absorbed in Me)、必ずあなたは私のところに来るでしょう。」

第7段落
おお、世界の人々よ!どうかギーターのメッセージを行動へと替え(to translate、別の形に直す)、あなたの思考を主クリシュナの蓮の御足に向けようと(to channel、水路で繋ぐ様子)してください。あなたの心と身体で主に奉仕をしなさい。

もしもあなたが自分のすべてのエネルギーを主への奉仕に向ける(to dovetail、ぴったり合わせる)なら、そうすればあなたはこの人生において強い喜び(exhilaration)を感じるだけでなく、霊的な世界においても、永遠に主に奉仕をして、永遠の喜びに浸る(to be immersed)でしょう。

至高主の最も寛大な(munificent)化身、主チャイタンニャ・マハープラブは、最近(recently、1486年)このメッセージを広めるためにカリの時代に降臨なさいました。すべてのベンガル人の大いなる幸運によって主はベンガルにお現れになり、ベンガル人(Bengali race)を祝福なさいました。

そのため(Thus)ベンガル人は主の使命と教えを人類全体に説き(to preach、布教)、この惑星(the planet)の人々と自分たち自身を救うことができます。系統的で(systematic)科学的な方法(manner)におけるこの知識の提示(presentation)は普遍的な至高の平和をもたらします(訳注:この知識を系統的かつ科学的に示すことで、~が得られます)。

それでも(Yet)、衝撃的な事実は、13の非公式な(unauthorized)新興宗教(cults)が雨後の筍のように現れ(to mushroom into prominence、”prominence”は目立った様子を指す。”to mushroom”はキノコが生えるように急に現れること)、考えの甘い(naïve、世間知らず、騙されやすい)弟子と共にその不正な(illegitimate、違法)集団(fold、領域、囲いに囲まれた部分、宗教的な集団)を急速に広げていることです。

(訳注:この場合の「~と共に」は「~という」という程度の意味。「しかし、驚くべきことに、13もの非公式な新興宗教が乱立しており、騙されやすい弟子たちを取り入れて急速にその不正な勢力を増しています。」)

(訳注:”cult”は「新興宗教」としていますが、本来は単に儀式や宗派を指す言葉です。近年は「偽宗教」とさえする否定的な意味合いが強まっていますが、プラブパーダもハレ・クリシュナのことを随所で”cult”と自称していらっしゃいます。)

人が理解し損ねるのは(to comprehend)(訳注:「解せないのは」)、どの真正なる霊的指導者からの指導(discipleship、弟子として修行すること)も監督(tutelage、指導、後見)も一度も受け入れたことのないこれらの新興宗教の指導者たちが、どうやって突然自ら霊的指導者の立場に上がることができるのかということです。

人々の間で広められる(to be promulgated)必要のある主題は、彼らを騙すためにある(to be meant to deceive them)何かの安っぽい感傷的なでっちあげではありません。それは、事実、非常に(deeply)深遠で(profound、重大)難解な(esoteric、秘儀)神学です。

主チャイタンニャのお言葉は、愚かな大衆(ignorant mass of people)を感動させる(to impress)ための霊的な感傷を偽る(to fake)無節操な(unscrupulous、非良心的な)自己流の「グル」によっては、決して広められ(to be disseminated)得ません。すべての聖人的な人々よ、気をつけなさい(beware)!

第8段落
私たちの一般的な経験は、推量と詭弁(sophistry)にふけりがちなので(given as they are to ~ and ~)、非人格主義者は主クリシュナを至高の人格神として受け入れることを躊躇する、というものです。そのため彼らはいつも、自分自身の知性の力によって(by dint of)至高の完全真理を知るための努力において、挫折します(to be frustrated)。

彼らは自分たちの中のこの欠点(shortcoming)を知覚することができず、そして、たとえそれがクリシュナ意識の科学を知る人々によって指摘されても、彼らはそれを理解することができません(to grasp)。そのような汚染された意識は主クリシュナへ服従しないことの結果です。

主の名前、形(form、姿)、性質(qualities)、娯楽、そしてその他の主に関わる諸々のこと(paraphernalia)は、すべて超越的で非凡(extraordinary)です。そのため、鈍い(blunt)物質的な感覚はそれらを知覚することができません。

太陽は太陽光の助けによってのみ可視的になります。同様に至高主は、主への献身奉仕に携わっている者だけにご自分を明かされます。

第9段落
私たちの物質的な状態において得られる設備は多数あります。徳の相における私たちの設備は、かすかな要素を見分け(to distinguish)、物質と霊の間の違いを認識し(to discriminate)、そしてこのようにして幻想の下に入ることを避ける能力を私たちに与える、知性です。

徳の相には、忍耐、正直さ、感覚の統御、心の平静(equanimity)、そしてその他のそのような性質があります。加えて(Added to the list)、強い欲望、大胆さ(fearlessness、恐れを知らない様子)、そして揺るぎない決意などの熱情の相における性質、さらに、恐れ、狂気、そして生老病死の(over、~に関する)苦しみ(distress)もあります。

これらすべての設備は、主の外的で物質的なエネルギーの産物です。マーヤーは至高主の統御の下にあるので、上記のすべての性質もまた、クリシュナご自身から放射します。しかし、主クリシュナは私たちの感覚的な体験の枠(periphery、周囲、外周)を越えていらっしゃり、そしてそのため、単に---徳の相にある---より高貴な性質を培うことは、私たちを主の蓮の御足へと上げるための十分な霊的な実践ではありません。

(訳注:単に徳の相に分類されるようなより高貴な性質を培っても、それだけでは主の蓮の御足へと上がるために十分な霊的な実践とはなりません。)マーヤーに打ち勝つ(to overcome、克服)唯一の方法は、主の蓮の御足の完全な庇護の下に入ることです。

クリシュナはギーター(7.14)において、ご自分に服従する者は簡単にマーヤーを越える(to cross beyond)ことができるとおっしゃいます。いったんマーヤーが乗り越えられると(to be surmounted)、人の努力は主クリシュナが至高の人格神であるという認識を授けられます(to be crowned with、栄誉を与える、冠を被せる)。(訳注:「努力は~という至上の認識をもって報われます」)。主ブラーマーは、ブラーマ・サムヒター(5.1)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高の人格神です。主は永遠の、喜びに満ちた霊的な身体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他のどの源も持たず、主はすべての原因のもともとの(prime、主要な、根本的な)原因です。

第10段落
マーヤーの影響から自由であるときだけ、人は至高主の超越的な富、力、名声、美、知識そして放棄を知覚することができます。この超越的な理解をもって、人はバガヴァッド・ギーター(10.8-10)の中の至高主ご自身のお言葉を理解する(to fathom)ことができます。

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心から(with all their hearts)私を崇拝します。私の純粋な献身者の思考は私の中にあり(to dwell、住む)、彼らの人生は完全に私への奉仕に捧げられ(to be devoted)、そして彼らは、いつも互いに啓蒙し合い(to enlighten)、私について語り合うことから、大いなる満足と喜びを得ます。

常に愛情をもって私に奉仕をすることに(自分を)捧げている者に、私はそれによって彼らが私のところに来ることのできる理解を与えます。(訳注:~には、(私が彼らが)私のところへ来ることができるように、必要な理解を与えます。)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ごちゃごちゃと訳注が多くて、読みづらくて申し訳ありません。内容は可能な限り原文に忠実に写し取っているので、適宜編集して読みやすくしてご活用ください。それにしてもプラブパーダ、怒ってらっしゃいますね。ふざけるな!たわけもの!!という声が聞こえてきそうです。
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by ammolitering4 | 2015-03-14 05:42 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第11章

第11章 葉、花、果物あるいは少しの水を捧げる

第1段落
人はいつも、主クリシュナ以外の方を崇拝する必要はないということを心に留めておくべきです。特にこのカリの時代においては、贅沢な(opulent、富裕、壮麗)犠牲や崇拝を行うことは不可能です。最近(Of late)、派手に(with great pomp、豪華で華やかな様子だが、虚飾という意味合いを含む)表立って(publicly、公けに)半神たちを崇拝することがよく行われるようになりました(to become a popular practice)。

そのような崇拝は、聖典の規定に従わず、気まぐれに行われます(to be conducted whimsically)。それは、無明の相の中にいる人々のための、卑しい(base)感覚の楽しみと悪魔的な(fiendish、ひどく不快な)どんちゃん騒ぎ(revelry)にいそしむための口実です。

何の倫理(ethics、道徳)も守られず(to be maintained、意見など主張する、擁護する)、豪勢な(sumptuous)公共のご馳走(feasting)のための何の手配もなされず、何の正統なマントラも唱えられず、神像に何の正しい捧げ物もありません。

これらの催し(occasions)は単に騒々しい(wild、狂乱、興奮)歌や踊り、そして羽目を外す(misbehaving)ための口実です。すべてのそのような崇拝は、正統ではありません(unauthorized)。

第2段落
従って、知性的な人々は神の神聖なる御名を皆で唱える(congregational chanting)という過程を辿り、このようにして、黄金色の肌色(complexion)をしたクリシュナご自身である主ゴーラーンガを崇拝します。主チャイタンニャを崇拝することは高い費用のかかるものではなく、そして主クリシュナを崇拝することよりもっと簡単で、費用も少なくて済みます。

その理由は、一枚の葉、一つの花、一つの果物、あるいは幾らかの水を集めるのに要する少しの(little)努力が、主チャイタンニャの崇拝においては必要とされてさえいないからです。(訳注:~さえ必要とされていない)

しかし、どちらにせよ(in any case)、どちらの至高主も簡単に、どの国でも、どんな状況ででも、誰によっても---その人が愚かであろうと賢かろうと、罪深かろうと敬虔であろうと、身分の高い生まれであろうと、低い生まれであろうと、豊かであろうと、貧しかろうと---簡単に崇拝され得ます。(訳注:どの国でも、どんな状況ででも、誰でも、簡単に~を崇拝できます。)

このため、私たちは主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(9.26)においてこうおっしゃるのを見出します(訳注:~は~とおっしゃいます。)

(サンスクリット引用)

「もしも人が愛と献身の念をもって私に(一枚の)葉、(一つの)花、(一つの)果物、あるいは水を捧げるなら、私はそれを受け取ります。」

第3段落
いったん至高主が満足なさると、世界全体が自動的に満足します。なぜなら(for)主を崇拝することによって人は他の誰もを崇拝するからです。ちょうど、いったん木の根が水を与えられると、木全体---枝、葉など---が水を受け取るように、同じく(so)、主クリシュナが崇拝され満足させられるとき、そのときすべての半神と人間が崇拝され、満足させられます。

第4段落
主クリシュナの崇拝が大きな費用(expenditure)と派手さ(pomp)と共に執り行われねばならない(to be conducted)という言及はどこにもありません。また、時間、場所あるいは状況の、何らの規制もありません。ちょうど、誰もがガンジス河で沐浴する権利を持っているように、同じく誰もが主クリシュナに奉仕をする権利を持っています。

花、果物、葉、そして水はどこででも手に入ります(available)。非常に貧しい者(pauper)でさえ、ほとんど何の努力も要せず(with very little effort)、お金も全くかけずに、これらの4つのものを見つけるために手配をすることができます。このように、主クリシュナを崇拝する過程(process、方法)はとても単純なので、どこの誰でも参加することができます。

第5段落
主クリシュナは生まれたことがなく(unborn)、それでも主は想像し得るいかなる形でも受け入れることがおできになります。そして、主はすべての生命体の至高の主でいらっしゃるので、誰でも---身分の高い生まれのブラーマナ、あるいは社会的に排斥されている者(outcast)でも---主に花、果物、葉、そして水を、愛と献身の念をもって捧げることができます。

そうすれば、主クリシュナ、すべての原因の原因は、この捧げものを受け入れ、そしてそのような霊的な活動によって崇拝者は主の永遠のお住まいに入る資格を得ます(to become eligible)。この簡単で喜ばしい(joyful)過程を退け、そして物質的な存在の蜃気楼(mirage)と、一時的で世俗的な設備(facilities、この場合は「諸々」というような意味)への渇望によって魅了されるようになって(to become captivated)半神たちの庇護の下に入る者よりももっと愚かな者があり得るでしょうか(Who could be more foolish)?

最近の時代は、世界に一体化(unity)、平和、そして調和をもたらす(to bring about)ための、すべての側面(front、活動などの場)での組織だった(concerted、コンサートのように各種のものが協同する様子)、崇高な(noble)努力を目撃しましたが(訳注:近年は~のための~がなされましたが)、これらは人々が主クリシュナを崇拝して主に献身奉仕をするときにのみ可能です。

第6段落
そのような提案は、不合理な(preposterous、途方も無い、馬鹿げた)ものでも、こっけいな(comic)ものでもありません。事実、もしも誰かが完全真理の誠実な探究者(seeker)であるなら、それなら、彼の現在の状況がどのようなものであれ、定期的に至高主に愛と献身の念をもって花、果物、葉、そして水を捧げることによって、彼はたやすく(readily、すぐに)、至高の完全真理、主クリシュナが徐々に自分に近づいていらっしゃることを経験するでしょう。

私たちは、つつしんで(humbly、身を低くして丁重に頼む様子)、私たちのすべての読者に、どうか(kindly)この、主クリシュナの蓮の御足に近づくためのすばらしい方法を試してみることをお願いします。この方法にはお金がかからず(no monetary expenditure)、身体的な努力(exertion)、哲学的な知識、高貴な生まれも必要ありません。

第7段落
半神崇拝者と主クリシュナの献身者の間の違いは大きく(wide)、たくさんあります(numerous)。一般に、人々は一時的で物質的な欲望からのみ半神に近づきますが、他方で献身者は至高主と自分の永遠の愛情ある関係を再び築こうと志します(to aim)。

その目的のために(to that end)、献身者は主に、愛と献身の念と共に、崇拝、贈り物(gifts)、そして何であれ自分が集められるものを捧げ、そして主はこれらすべてをおいしい味わい(relish)と共に受け入れます(訳注:喜んで受け入れる)。そのような献身的な捧げ物は、物質的な利益のための何らの欲求(craving)からも自由です(~には~がない)。

第8段落
対照的に、物質的な利益(gain)のための利己的な動機にまみれた(to be laden with)多神論者(polytheists)の捧げ物は、たとえそれらの捧げ物が豪華(opulent)で手の込んだ(elaborate)ものであっても、決して至高主によって受け入れられません。

半神を崇拝する者は、自分が崇拝する特定の半神への本当の愛や献身の念を持っていませんが、それでも主クリシュナは非常に慈悲深くていらっしゃるので、愚かな半神崇拝者たちの物質的な欲望を満たされます。

第9段落
主クリシュナは決して愛と献身に欠けた(bereft of)何らの捧げ物もお受け取りになりません。空腹でない人は、たとえおいしそうな(delectable)食べものを与えられても、突然食欲を出す(to develop)ことはできません。

同様に、主は愛と献身の念なくして作られた豪華な(opulent)捧げ物に何の魅力も感じられません(to have no attraction for)。私たちは既に、至高主の正統でない崇拝は献身の念の欠如と物質的な欲望の存在から派生する(to stem from)、と論じました。

献身の念に満ちている者は、至高主の感覚を満足させる(to satisfy)ことを目指しますが(to aim)、他方で、物質的な欲望に満ちている者は自分自身の感覚を満足させる(to gratify)ことを目指します。自分の心の中に自分自身を満足される欲望を持っている(to carry)のに至高主に奉仕を捧げる振りをする(to make a show of)者は、決して本当の献身者であることの喜びを経験することができません。

聖典は適切に(aptly、ふさわしく)彼らを金銭ずくで働く人々(mercenaries、傭兵)と描写しました(訳注:聖典には~と描写してありますが、言い得てしかりです)。献身の主要な目的(objective)は、神に至ること(attainment)です。

したがって人は、カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、神秘的なヨガ、禁欲、瞑想などの結果を含み、自分の所有しているものすべて(everything in one's possession)を主に捧げなくてはなりません。この完璧な服従の過程は神への到達に繋がります(to lead to the attainment of God)。このため主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.27)において公けに(openly)宣言なさいます(to proclaim)。

(サンスクリット引用)

「何であれあなたがすること、食べるもの、捧げ、あるいは与えるもの、そして行う苦行(austerities、禁欲)(のすべて)を---それを、おお、クンティーの息子よ、私への捧げ物として行いなさい(whatever you do, whatever you eat~)。」

第10段落
もしも人がこの命令に従い、愛情をもって主に自分の持っているすべてのもの---妻、家、家族、知性、学識、仕事(business)、宗教心(religiosity)、労働、食べ物、水、何であれ身体を維持するために必要なもの、そして欲望(lust, greed、ほぼ同義の繰り返し)や怒りさえも---を捧げるなら、そうすれば主はこれらの捧げ物をお受け取りになり、捧げた人を完全に満足させます。そして死のときに主はそのような服従した魂をご自分の至高のお住まいにお連れになります。

第11段落
半神は、特定の種類の捧げ物だけを受け取る力を授けられていますが、他方で主クリシュナはすべての人のカルマ・パーラ、すなわち「結果を求めて行う活動の結果」(訳注:fruitive results、分かりやすくするために括弧をつけています)を受け取ることができます。

至高主だけが互いに矛盾する(conflicting)「結果を求めて行う活動の結果」と崇拝の雰囲気(mood)を受け取るだけの力をお持ちです。これは、クリシュナの至高の覇権(lordship)と完全な立場を示します。

人類全体が純粋な献身奉仕の科学を理解できるようになるのは考えにくい(unlikely that ~ will be able to~)ですが、それでもすべての人はいつも、主の蓮の御足に至る能力を持っています。
(この一文には”even in the face of striking odds”、「たとえ際立った確率に直面していても」という一節が入りますが、これは文脈から考えると、誰にでも一縷の望みがある、というような意味でしょうか。)

したがって、最良の道(course)はすべてのものを至高主に捧げることです。

第12段落
ニシュカーマ・カルマに関して私たちが論じたすべての要点は聖典に詳細に言及されています。パンディタはニシュカーマ・ヨガを「結果(fruitive gain)あるいは経験的な(empirical)知識への欲望を伴わない(to be free from)活動」と定義します。

そのような超越的な活動だけが主クリシュナに捧げられ得ます。しかし、すべての活動は---言葉によるもの(verbal)、身体的なもの、あるいは精神的なものであれ---、愛と献身の念をもって主に捧げられるなら、超越的です。そして主はそのいわれのない慈悲によって、これらの捧げ物をきちんと(duly)お受け取りになります。

第13段落
しかし、この命令(injunction、この場合は「愛と献身の念をもって主にすべてを捧げなさい」というもの)において、私たちは間違いを犯すことを避けなくてはなりません。私たちの現在の議論は、物質主義的なブラーマナ階層(caste brahmana)が主ナーラーヤナに供物(oblations)あるいは「結果を求めて行う仕事」を捧げることを含みません(訳注:これまでの議論では、~には触れていませんでした。)

そのような捧げ物には欲望が伴うので(not devoid of lust)、それらには愛も献身の念もありません。私たちは既に、主への正しい捧げ物の主な基準(criterion、特徴)は、それが主の感覚の満足のために愛と献身の念をもってなされるということである、と論証しました(We have earlier established that~)。

そのため私たちは、至高主の喜びのためだけに捧げられた物や奉仕(service)だけが実際に主によって受け取られると理解せねばなりません。

第14段落
自分自身の飢えを満たすために努力すること(exerting oneself)はカーマ・カルマ、結果を求める活動ですが、至高主においしいご馳走(delicacies)を捧げるための疲れを知らぬ努力はニシュカーマ・カルマ、主を喜ばせることを目的とした超越的な仕事です。

主を喜ばせることが商業(commerce)と交易(trade、この場合はほぼ同義の繰り返し)、そしてまた研究、科学、慈善活動、禁欲(austerity、苦行)、そして他のすべての活動の唯一の目的であるべきです。そのような実践は人に、主クリシュナに関わる超越的な話題を聞き、唱える気持ちにさせます(to inspire)。

そして、この聞くことと唱えることは、九重の献身活動の最たるもの(foremost)です。ヴェーダの時代には、すべての人間の活動は至高主への献身奉仕と強く結びついていました(to be affiliated)。今日(も)、同じ永遠の原則が当てはまります。すべてのものは主への奉仕のために使われねばなりません。

第15段落
主クリシュナはすべての犠牲の至高の享楽者です。そのため主はすべての者の働き(labor)の結果をお受け取りになり、そしてそうすることによって主はご自分のすべての献身者の努力に輝かしい(glowing、赤々と燃えるような)成功を授けられます(to crown ~ with~、栄冠を与える)。

それが万能の主がお持ちの超越的な力です(Such is ~ possessed by~)。しかし私たちは、献身奉仕を行っている間に、自分の意識に自己増大(self-aggrandizement、増長)や感覚の満足への欲望を決してこっそりと(surreptitiously)滑り込ませないように、注意深い用心(heed)をしなければなりません。

私たちは単に、かつての霊的指導者たちの足跡を辿るべきです。主の存在において(訳注:主の御前では)すべての者が平等です。したがって、ゆるぎない(unwavering)専心(single-mindedness)を持って主に奉仕をする者は、主の親しい仲間のうちに数えられます(to be listed)。

彼らは本当にハリ・ジャナ、主ハリの側近(own men)です。前提となる必要条件(prerequisite、この場合は「資格」)---献身奉仕---を持たない人をハリ・ジャナと呼ぶ(to rubberstamp、ゴム印を押す、深く考えずに認める)のは、献身的な服従の道における馬鹿げた(farce)やっかいな(onerous)妨害物(hindrance)です。

第16段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.29)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は誰もうらやまず、誰にも肩入れしません(partial to )。私はすべてのものに平等です。しかし、誰であれ献身の念をもって(in devotion)私に奉仕をする者は友であり、私の中にあり、そして私もまた彼にとって友です。」

第17段落
人は「サマー」、”平等”という単語の意味を誤解してはいけません。それは、主が非人格的であり、どんな気まぐれな行い、始末に終えない(unruly、節操がない、乱暴)振る舞いであっても祝福なさるということを意味するのではありません。

主は完全に人格的で、神聖な情念(sentiments)の宝庫(reservoir)であり、超越的な娯楽の至高の演者(performer、行う人)です。そして主はすべての生命体の幸せを願う友です。しかし、友情には異なる程度の親密さ(intimacy)があります。

そのため、主の平等の性質(disposition、気持ち、傾向)は、個々の違い(varieties of personalism)のないものではありません。言い換えると、主は私たちの主への愛の強さ(intensity)に応じて私たちに報われます(to reciprocate)。

ギーター(4.11)において、主は(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」主は、すべての異なる献身的な関係(mellow)---従者の愛(servitorship)、友の愛(fraternity)、親の愛(parental affection)、そして恋人の愛(conjugal love)---にお応えになります。

同様に、主は(校正:he →He)ご自分を普通の「死を運命付けられた存在」(mortal、括弧は訳者)だと見なして敬意を払わない者を無視なさいます。逆に(Conversely)、主はいつも、過去の聖人的な指導者たちの足跡を辿って、主を至高主として受け入れ、愛情ある献身の念をもって主に奉仕をする者を庇護し、守られます(to shelter, to protect)。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
クリシュナって、水のようだなという感じがします。おいしい材料を入れればおいしくなるし、まずいものをぶちこめばとても飲めたものではなくなる。。。ちょっと違うかな。鏡のようだ、とも言えるのかもしれませんが、これはやっぱり上等のクリームを見れば鏡の向こうに資生堂のモデルのような自分が見えるというわけにもいかず、、、残念ですね。立ち止まって深く考えてみようと思います。
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by ammolitering4 | 2015-03-08 06:13 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第10章 最後まで

第11段落
人々は一時的で物質的な欲望を満たすために半神を崇拝し、そして彼らがそのような崇拝から得る結果は、同じく一時的で物質的です。しかし、もしも人が、半神は至高主のエネルギーであるという知識をもって彼らを崇拝するなら、それならこの崇拝は正統的(authorized、公認、検定、権威者によって正当・正統であると認められた)であるとして受け入れられ、そして徐々にそのような崇拝者は主クリシュナ、至高神の献身者になります。

しかし、もしも人が、半神は主クリシュナと等しい水準にあるという考えをもって彼らを崇拝するなら、それならそのような崇拝は正統的ではありません(unauthorized)。なぜなら、主クリシュナは至高の人格神、比類するものなく(unequalled、匹敵するものがない)、主より優れたものもないからです(unsurpassed、卓絶)。

したがって、どんな半神も主クリシュナから独立して存在することはできません。主クリシュナはちょうど王のようであり、そして半神たちは彼の大臣のようなものです。大臣は王座(throne)に座って(訳注:統治権を持って)国家の業務(affairs)を管理する(to manage)かもしれませんが、彼は独立してはいません。彼の力は王から来るのです。

第12段落
至高の完全真理であることの力によって(by virtue of)、主クリシュナは永遠に、この物質世界を超越した知識と喜びに満ちていらっしゃいます。物質世界において、私たちはしばしば、立場と力という点で(in terms of、~に関して、~の見地から)、ある人を別の人と比較します。

そしてそのため私たちは、人間と比べると半神は非常に高い立場にあると正しく(rightly、確かに、当然ながら)言うことができます。しかし、至高神と、人間と同じ区分に属する単なる生命体とは、比較になりません(there is no comparison between)。

生命体、すなわちジーヴァは、主の超越的で内的な力から放射する、主の周辺的な力に属しています。したがって、誰であれ半神たちを独立した至高神たちであると考える者は推量しており、完全に間違っています。なぜなら、ジーヴァであるため(as jivas)、彼らは一時的な力と立場を授けられている(to be invested)に過ぎないからです。

第13段落
もしも王の宮廷(court)における地位の高い従者が誤って王として敬われる(to be honored)なら、それは王が従者になることを意味するのではなく、逆もまたしかりです(vice versa)。同様に、主クリシュナは唯一の至高の人格(Supreme Person)であり、他のすべての者は主の従者です。

ブラーマ・サムヒターは主クリシュナと半神の間の関係を明らかに説明します。ヴィシュヌ・タットヴァーの部類に属する存在(訳注:beings、複数)---主ヴィシュヌの水準にある至高の人格たち---は最高の完全存在(訳注:複数)であるという、多数の(numerous)証拠があります。

シュリマッド・バーガヴァタムはこの真実を、すべての種類の崇拝の中で主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナの崇拝が最も高い、と宣言することによって確認します。

第14段落
インドでは、ヒンズー教徒は太陽神、月の神など、多くの神を崇拝します。しかし、崇拝の儀式はいつも主ヴィシュヌの崇拝で始まり、そして最後にすべてが主ヴィシュヌの蓮の御足に捧げられます。主が至高の人格神でいらっしゃるからです。

聖職者階層(priestly class)の一員であるブラーマナは、すべての儀式を至高存在としての(as)主ヴィシュヌに祈る(to invoke)ことによって始めなければなりません。そうしなければ、彼のすべての崇拝と儀式は無駄になります(to be rendered useless、to renderは「~を~にする」というような意味)。

この同じ主ヴィシュヌは、実は(in fact)すべての原因の究極の原因であり、もともとの至高主である主クリシュナの部分的な拡張体です。したがって主クリシュナはすべての捧げ物(oblations)と犠牲の受取人であり、すべての崇拝の究極の恩恵を施す人(benefactor、崇拝の結果として恩恵が施されるが、(それが誰から与えられているように見えても)究極的にそれを施すもともとの人、という意味)です。主はバガヴァッド・ギーター(9.24)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主人(master)です。したがって、私の本当の超越的な性質を認識しない(to recognize、認める、はっきり知る)者は堕落します(to fall down)。」

第15段落
半神を崇拝するときに、主ナーラーヤナ、すなわちクリシュナを儀式あるいは犠牲の至高の享楽者として王座にすえる(to place)理由は、様々な半神たちもまた主を崇拝し、主に犠牲を捧げるからです。したがって主(He)は王(the Lord)であり、すべての犠牲の主人(master)です。

至高主は半神を通して(through the agency of)半神を崇拝する者の望みを叶えます(to fulfill)。半神を崇拝する者は至高主の超越的な立場を知らないので(to be ignorant of)、彼らの正式に認められない(unauthorized)半神崇拝は、彼らを混乱(confusion、困惑、混同)と幻想に導きます。

第16段落
半神を崇拝する者はしばしば、こう考えることによって自分たちの半神の崇拝を合理化しようとします(to rationalize、正当化)。「私はこの半神の献身者であるから、彼はきっと私に恩恵を下さり(to shower his grace upon me)、私の心のすべての望みを叶えてくださるだろう。したがって彼はまことに至高主である。」

しかし、正統な(authorized)聖典はそのような半神崇拝者と彼らの崇拝を、道理的でなく(unethical。非倫理的、非道義的)哲学的に間違っているとして非難します(to condemn)。そのような崇拝者は、クリシュナが至高主、すべてのエネルギーの究極の源であると理解することができません。

半神は、実は(in fact)主のエネルギーの顕現です。しかし(~, though、それなのに)、幻惑された半神崇拝者にとっては、彼らは自分たちの崇拝と献身の究極の対象であるように見えます。この誤解を続ける者は(to persist in~、やめる様子もなく繰り返し行う)、決して完全真理にたどり着けません。

他方で、厳密に聖典の命令に従って(according to)半神を崇拝する者は、自分たちの崇拝の対象は至高主クリシュナに従属している(to be subordinate to~)とすばやく理解します(to realize)。この理解をもって、彼らの幻想は滅ぼされ、彼らは主クリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ります。
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by ammolitering4 | 2015-02-25 01:56 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第10章 第10段落まで

第10章 至高主:献身者の恋人(Lover of His Devotees)

第1段落
いわゆる学識のある階層の人々(members、構成員)は尋ねます。「もしも人がいつもいつも(all the time)主クリシュナに献身奉仕を捧げることに忙しくしているなら、どうやって自分と自分の家族を養うことができるのですか(how is one to maintain ~)?」

いわゆる学識のある人々は、愚か者だけが自分の間近で(immediate、すぐ近くの、当面の、直接的な)身体的な必要性に盲目で、マハートマーの水準に上がれるように献身奉仕で無駄に自分の時間を浪費する、と考えます。

事実、彼らは、本当のマハートマーとは自分の物質的な設備(facilities、利便)を良いものからより良いものへと改善するために努力する者であると考えます。彼らは、世界が食糧生産において大きな危機に直面しているのは経済学者の下手な(poor)計画によるものだと言います。

経済学者と彼らを批判する者(their critics)の両方が、バガヴァッド・ギーター(9.22)に目を向けて、主クリシュナがこの主題についておっしゃることを聞くべきです。

(サンスクリット引用)

「しかし、いつも私だけに対する(exclusive、限定的な)献身の念をもって私を崇拝し、私の超越的な姿(form、形)を(on)瞑想する者---彼らには(to them)私は彼らに欠けているものを与え(to carry)、そして私は彼らが持っているものをそのままにしておきます(to preserve、保存、保護)。(訳注:この場合は「取り上げない」という意味と思われる。)

第2段落
ここで、西洋で、ある無神論的な政府が無知な(innocent、無邪気、単純など)市民に無神論的な見方を受け入れる(to embrace、信奉する)ようにそそのかそうとした(to induce、誘って何かをする気にさせる)ことに言及するのは妥当なことです(relevant、適切、関連がある)。(訳注:~を例に取りましょう)

その政府は、村々の人々の考えを変えさせるために(to proselytize、改宗)、自分たちの政治的な宣伝者(propagandists)を送りました。彼らは無知な村人たちに尋ねました。「なぜあなたたちは皆、教会に行くのですか?何を求めて神に祈るのですか(what do you pray to God for)?」

村人たちは単に(simply)「神様は私たちに食べ物を下さるからです」と答えました。すると無神論者たちは村人たちを教会に連れていき、彼らに神に食べ物を求めて祈るように頼みました。単純な信仰を持った村人たちは神に祈り始めました。

祈りの終わりに、役人たちは彼らに食べ物を受け取ったかどうかと尋ねました。当惑して(Bewildered)、人々は頭を(訳注:横に)振りました。それから無神論者たちは村人たちに、(訳注:神にではなく)自分たちに食べ物を求めて祈るように頼み、村人たちはそうしました。

直ちに、勝ち誇ったような顔で(with a look of triumph、勝利、征服、成功)、無神論者たちはかご一杯のパン(baskets of bread、「かご」は複数で、この場合は単に「山ほどの食べ物」という程度の意味)を持ってきました。村人たちは幸せになり、政府の役人たち(representatives、代理人)は神よりももっと反応がよく(responsive)、生産性が高い(productive)と考えました。

第3段落
ああ(Alas)!主の献身者がそこにいさえすれば、村人たちの献身の念は苦しめられなかったでしょう(to molest、邪魔する、悩ませる)。初心者の献身者のか弱い(tender)献身の念は、いつも傷つけられやすい(susceptible to damage、susceptible は「影響されやすい」)ものです。

しかしパンは、つまるところ(after all)、神から来るのであり(does come, doesを斜体で強調)、無神論者からではありません。もしもそれらの村人たちがもっと聖典に精通していたら(conversant)、無神論者たちは決してその邪悪な計画において成功しなかったでしょう。

単純な村人たちは学がなく(illiterate、読み書きができない、教育がない)、そしてそのため(hence)彼らは至高主だけが彼らに食べ物を与えることができるということを全く知りませんでした(had no idea)。

もしも地球が穀物を作り出さなかったら(did not)、そうしたら無神論者たちは、その発達した物質的な科学にも関わらず、決してパンもその他の食べ物も作ることが出来ません(could never, 時制がdid notに対応)。

第4段落
多くの人々は、近年において(in modern age)物質的な科学者たちが農作物の収穫高(agricultural yield)を増すのを助けたと主張します。しかし私たちは、世界を現在の厳しい(acute)食糧難に陥れた(to bring)のはまさにそのような無神論的な見方であると、恐れることなく宣言します。

もしも私たちが注意深くなければ、果物はただ皮と種だけになり、牛の乳房(udders)は干上がり、そして田畑(paddy fields)は草だけを生やすときがもうすぐ(soon、すぐに)訪れるでしょう。聖典は、これらのことがカリユガにおいて起こる(to come to pass、実現する)と予言します。

第5段落
現実には、至高主がいつも私たちを守っていらっしゃいます。刑務所の囚人は政府によって罰されていますが、それでも同じ政府が彼らに食べ物を与え、彼らの世話をします。同様に、罪深い、無神論的な人々は、主の幻想エネルギー(ドゥルガー・デヴィーとして人格化したマーヤー)によって罰されているにも関わらず、それでも(still)主ご自身によって食べ物を与えられ、面倒を見てもらっています。

そして、もしも至高主が最も悪い悪人(reprobates、堕落した者)、そして救いようのない(helpless)魂たちさえ食べ物を与えて養われるのなら、それなら主の蓮の御足に永遠に服従した者については何をか言わんや?

主は、自分の家来(subjects)を良く世話する(to take proper care of)けれど、自分の親密な(near and dear、近くて愛しい)親戚の必要性を特に世話する王のようなものです。したがって、「快適な暮らしは結果を求める活動(action)と経験的な(empirical)知識から自由な(訳注:free from~、~がない)献身者によってではなく、普通の徳のある活動(activities)を行う者によってのみ楽しまれ得る」というのは本当ではありません。(訳注:分かりやすくするために括弧を入れました。)

献身者はいつも苦しむのではありません(The devotees do not always suffer)。なぜなら、至高主が個人的に(personally、自ら)彼らの面倒を見られるからです。献身者は主の親戚であり家族です。ちょうど、普通の人々が自分の家族の必要性と快適さの面倒を見るときに喜びと満足を感じるように、主もまた、ご自分の献身者の幸せの世話をする(to tend to the well-being)ときに喜びを感じられます(校正:he →He)。

このため(Thus)、至高主はバークタ・ヴァツァラ、「献身者を養う方」として知られます。しかし、主は決してカルミー・ヴァツァラ、「結果を求めて働く者を養う方」と、あるいはジニャーニー・ヴァツァラ、「経験主義的な哲学者を養う方」と呼ばれる(to be referred to as~)ことはありません。

第6段落
主の献身者はすべてのものに関して(for)完全に主に依存しており、そしてそのため、何であれ彼らが自分自身と自分の家族を養うために行うことは、献身的な服従にとって良いものです(favorable)。

そのような純粋な魂は、いつも献身に心を定めており(fixed in ~)、主への奉仕に関係のない(outside the Lord's service)活動には決して一瞬も無駄にしません。彼らがすることのすべては主の喜びのためであるため、彼らは物質主義的な欲望によって悩まされません(to assail、攻撃)。したがって彼らだけが本当に平和的です。

第7段落
献身者自身は、献身奉仕を遂行するに当たって生じる(to incur)すべての費用(expenditures)のために手配します(to arrange)(訳注:献身者は、~に当たって生じる~をまかなうために、自ら稼ぎます・働きます)。

普通の目には、このようにお金を稼いで使うことは、感覚の満足のように見えるかもしれません。しかし、献身者に物質的な欲望が全くないとき(devoid of all ~)、至高主は彼のすべての必要性を満たすことに大きな満足を感じられます。

従順な息子は自分の欲求(wants)を自分の父親に決して表さないかもしれませんが、愛情ある父親は自発的に(spontaneously)自分の息子を幸せにしようとし、そしてそうすることから喜びを得ます(to derive ~ from ~)。したがって、主の献身者は、物質的にさえ、決して何も事欠きません。

そして、この人生に終わりに、体を去った後、彼らは永遠の喜びに位置します。これが献身者が受け取る(to inherit、受け継ぐ、相続)超越的な富です。他の者たち---結果を求めて働く者、経験主義的な哲学者、半神を崇拝する者、そして神秘的なヨギー---は、永遠の喜びを得ることができません。

第8段落
主クリシュナは、すべての者に平等でいらっしゃる(to be equally disposed)にも関わらず、主はそれでも特にご自分の献身者の幸せについて気遣われます(to be concerned)。しかし、人は主が縁者びいき(nepotistic)であると結論づけるべきではありません。

主はバガヴァッド・ギーター(4.11)においてこう宣言なさいます。(サンスクリット引用)「すべての者が私に服従するとき(As all surrender unto Me)、私は彼らに相応に報いを与えます。」献身者には欲望がなく、要求もしませんが(desireless and undemanding)、主はいつも彼らの必要を気におかけになります(to see to ~、注意する、取り計らう)。

献身者は主からそのような恵みを受け取ってとても幸せ(ever-joyful、いつも、とても)であり、そして主の恩恵を受け取ることには何の無礼(offense)も罪もありません。

第9段落
ここで、人は疑問を持つ(to pose、問題を提示する)かもしれません。「なぜ主クリシュナの献身者だけが主の超越的なお住まいに至るのだろうか?結局、半神たちは単にクリシュナのエネルギーであり、そして聖典の結論は、エネルギーとエネルギー的なものは異ならない(nondifferent)というものだ。したがって(therefore)、なぜ半神、クリシュナのエネルギーを崇拝する者が主の超越的なお住まいに至れないことがあろうか?」

第10段落
答えとして、まず、主クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーター(9.23)においてこの主題に関しておっしゃることを参照します。

(サンスクリット引用)

「他の神々の献身者であり、信仰をもって彼らを崇拝する者は、実際には私だけを崇拝します、おお、クンティーの息子よ、しかし彼らは間違った方法でそうします。」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
う~む、やっぱりさすがはプラブパーダ、と改めて思います。皆様、緑の革命を覚えていらっしゃいますか?若い方はご存じないかもしれませんが、あれは鳴り物入りで華々しく登場したのに結果はさんざんなものでした。インドの農民が大勢自殺しましたね。こちらのサイトに日本語でいろいろ書いてありますが、プラブパーダのこのお話がなされたのは革命がまだまだ現在進行形だった頃だと思いますので、その洞察には本当に敬服いたします。はっきり言って、政府が大々的にやろうとしていることを「これは大失敗する!」と真っ向から否定していらっしゃるわけですから、政府としても「坊さんでなかったら叩きのめすぞ、この野郎」くらいには思ったかもしれません。ともあれ、21世紀になった今でもやっぱり世の中はプラブパーダのおっしゃるとおりに進んでるように見えますね。世紀の初めなのに既に世紀末の様相を呈している今日この頃、続きをお届けしますまでどうぞご無事でお過ごしくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-02-09 14:01 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

第9章 自己を認識した聖人たちの足跡を辿る

第9章 自己を認識した聖人たちの足跡を辿る

第1段落
無神論者たちは徐々に悪魔的な性質を育み、世界の中で名声(訳注:name, fame、同義の繰り返し)富などを追って物乞いのように生きます。常にマーヤーによって惑わされているので、彼らは無駄な人生を生きます。

一方で、至高主に奉仕をすることに本当に身を捧げている(dedicated、専念)人は、決してそのような悪魔的な精神性によって魅了されません。これらの偉大な魂は、「マハートマー」という称号を飾り(appendage、付属品)として持っている(to carry)のではありません。

悪魔的な道を辿り、いつも至高主に挑む者は、自分(訳注:挑む者)をマハートマーであると考えるように人々を騙そうとする(to fool)かもしれませんが(訳注:マハートマーの振りをして、人々にそう思いこませようとする)、実際のマハートマーの性質(characteristics)はバガヴァッド・ギーターの中に見出されます。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、惑わされていない者、聖なる魂は、神聖なる自然の庇護の下にあります。彼らは私をもともとの、無尽蔵の(inexhaustible)至高の人格神として知っているので、完全に献身奉仕に携わっています。」

第2段落
本当のマハートマーは自分の心を感覚の満足と物質的な欲望で悩ませず(to distract、気を
逸らす、惑わす)、そうではなく(but)一途な(single-minded、ひたむきな)決意(resolve)をもって彼らは至高主への献身奉仕にいそしみます。

主の神聖なるエネルギーの庇護の下にあるので、彼らは主クリシュナがすべての原因の至高の原因であることを理解します。そのような人々だけがすべての聖人的な性質を持っています(to possess)。主クリシュナの献身者は並外れた(exceptional)名士たち(personalities)です。

なぜなら、彼らはいつでも、半神たちによってさえ滅多に得られない並外れた(extraordinary)性質を備えているからです(to be embellished with、~で飾られている)。この世界に平和の時代を迎え入れる(to usher in)ために、そのようなマハートマーたちの存在は必須(imperative、緊急、肝要)です。

第3段落
最近、ニューデリーで開かれた医学会議において、我が国の首相(our honorable prime minister、honorableは敬称。the Honorableとすることが多い)がスピーチで次のように述べました(to make observation、所見を述べる)。

「私たちは、人々が病気になるのを待ってそれから彼らを治療するのではなく(rather than)、公衆衛生(public health)、衛生施設(sanitation、衛生のための設備、対策)、その他諸々の予防策をとります(to go in for、求める、志す)。

その原則をもっと大きな領域に当てはめ、治療しないままで放置しておくと将来もっと難しい形で直面しなければならなくなる社会的な病気を予防しようではありませんか。ですから、皆さんのような賢明な人々が共に集まるとき、おそらく皆さんは、非常に多くの対立(conflicts)や問題を生じさせ、人間の進歩を阻む(to impede、邪魔する)人類全体(humanity as a whole)の病(ills and diseases、同義の繰り返し)のことをお考えになるでしょう。」

第4段落
事実は、何であれ世界に持ち上がる(to crop up、突然生じる)問題は、心によって生じさせられるというものです。パンディタ(訳注;複数)は聖典を詳しく(thoroughly、徹底的に)調べ、この主題について多くの議論をしました。

もしも私たちが、彼(アムバリーサ王)の指導の下で彼ら(パンディタたち)の心を主クリシュナの蓮の御足に集中させた、アムバリーサ王の主題によって示される例を辿るなら(訳注:アムバリーサ王はその指導の下でパンディタたちの心を主クリシュナの蓮の御足に集中させましたが、もしも私たちがその主題によって示される例を辿るなら)、

それなら心はすべての病から癒され得ます。他のどんな過程(process、方法)も、プラーラーダ・マハーラージャによってシュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)に描写された運命を私たちにもたらします。(サンスクリット引用)

「献身奉仕を行わず(devoid of、~が欠けている)、物質的な活動に携わっている者は、何の良い性質も持ちません。たとえ彼が神秘的なヨガの実践や、自分の家族と親戚を維持するという(of)正直な努力に熟達している(adept at)としても、彼は必ず(must)自分自身の物質的な推量によって突き動かされ(to be driven by)、そして必ず主の外的なエネルギーへの奉仕に携わります。そのような人にどうして何らの良い性質があり得るでしょうか?」

第5段落
この精神的な病を治すための唯一の方法は、クリシュナの聖なる御名を唱えるという主チャイタンニャの教えに誠心誠意(wholeheartedly)従うことです。これは心のすべての汚れ(impurities、不純物)を清めます。

この深遠な(esoteric、秘儀、奥義、難解な)真実が広く伝えられない(to be propagated、思想を宣伝する)限り、世界はすべての精神的な病を治す万能薬(panacea)がないままに留まるでしょう(to remain deprived of)。

我が国の首相はこれを真剣に考慮すべきです。もしも主クリシュナの献身者の数がほんの少しでも増えるなら、直ちに世界に平和と繁栄の復活(resurgence)があるでしょう。人間が半神の栄えある高さに上がるためには、彼は自分の潜在的な(latent)クリシュナ意識を蘇らせねば(to revive)ならないだけです。このように、クリシュナ意識は人類への最も偉大な恩恵(boon)です。

第6段落
マハートマーは他の素晴らしい性質も持っており、そのいくつかを主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.14)において描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏しており、これらの偉大な魂たちは絶えず(perpetually、永久に)献身の念を持って私を崇拝します。」

第7段落
この一文は、どうやって主クリシュナの献身者になるかということの幾つかのヒントを与えます。サタタム(「いつも」)という言葉は、人の意識を浄化する過程は、結果を求める活動、経験主義的な(empiric)知識、ヨガ、あるいは時間、場所、状況などによらない(does not depend on、左右されない)、ということを示すのに使われてきました(has been used)。

第8段落
生命体は、自分は主クリシュナの永遠の従者であると認めれば直ちに、すべての苦しみから自由になります。そのような主の従者は、結果を求める活動をしたり、経験主義的な知識を培ったりする必要がなく、また、他のどんな浄化の過程を辿る(to undergo、変化を経験する、苦難に耐える)必要もありません。唯一の絶対に必要な要素(factor)は、主への献身奉仕への彼の激しい欲求(intense greed)です。

第9段落
主クリシュナへの極度な渇望(extreme longing)が、主に到達するための唯一の手段です。このように(Thus)、激しくて(intense)揺るがない(unflinching)献身奉仕は、マハートマーのもう一つのしるしです。

これらのマハートマーたちは、主クリシュナの御名、姿(form、形)、性質、娯楽、そして関連する諸々(paraphernalia)を聞き、唱え、そして覚えていることに始まり、献身奉仕の9つの枝(limbs、この場合は「側面」の意味)のすべてを遂行します。

そのような献身奉仕は、時間、場所、あるいは状況といういかなる俗的な考慮(consideration、理由、動機)をも超越しています。マハートマーは、いつも主へ愛情ある献身奉仕をすることに熱心です。彼らは疲れを知らずに自分の人生、エネルギー、言葉、知性、体、社会---すべて---を主への奉仕に捧げます。

第10段落
献身奉仕を遂行するためにマハートマーが行う(to undertake、引き受ける)大変な(great)努力は、普通の人が自分の家族と家を維持するために過度な苦痛(pains and troubles)を自発的に受け入れることよりももっと激しい(intense)ものです。

家族と親戚を維持するための努力は幻想、すなわちマーヤーです。したがって(Hence)それは本当に苦しいものです(distressing、悲惨)。対照的に、人が至高主に奉仕をすることにおいて受け入れる困難は超越的であり、したがってそれは至高の喜びの源です。

さらに、至高主に奉仕をする者は自動的に自分の家族に奉仕をします。しかし、その反対は真実ではありません。家族に奉仕をすることは主に奉仕をすることと等しくはありません(not equivalent)。すべてのマハートマーはこの点で同意します。

至高主に奉仕をする人は自分の親戚に奉仕をするだけでなく、動く生命体と動かない生命体の(of、~という、~からなる)すべての世界に奉仕をします。(訳注:the entire world of moving and nonmoving living beings、世界中の生きとし生けるものすべて、という意味だと思われますが、プラブパーダの他の文章から、「動かない生命体」には山や海なども含まれるものと考えられます。)

このように、主クリシュナへの奉仕は世界の平和と調和の主要な原因です。

第11段落
マハートマーはいつも大いなる決意をもって主にそのような奉仕をする用意があります。このことに関して、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ睨下が、かつて講演でこのように述べられました。

「初心者のヴァイシュナヴァ献身者が至高主の神像の崇拝の間に一度だけ鐘を鳴らすことでさえ、霊的にもそうでない面でも(spiritually and otherwise)、慈善心に富んだ(charitable)「結果を求めて働く者」(訳注:原文は括弧なし)が多くの病院を建てたり、何千人もの貧困者に食べ物を与えたり、家を建てたりすることよりも、あるいは、経験主義的な哲学者のヴェーダ研究、瞑想、禁欲(austerities)や苦行(penances)さえよりも、100万倍もの価値があります。」

第12段落
マハートマーたちは慈善(charity)の完璧な道---主への献身奉仕---を示しました。誰であれ、もしもこの道を無視して、その代わりに病院を建てるなら、人類を助けるための彼の努力は単なる(mere)見せかけ(pretense)です。

人類はそのような活動からは決して何らの恒久的な利益(advantage)も得る(to reap、刈り取る、成果を上げる)ことができません。実に、病院の数に合わせて、患者の数は増えるだけです。そして、貧しい者に食べ物を与えることについては、これは決して貧困を根絶せず(to eradicate)、そうではなく、それを助長します(to encourage)。

はっきり言うと(Frankly speaking)、私たちは病院を開くことや貧しい人々に食べ物を与えることや、その他のどのようなそうした人道的な奉仕にも反対ではありません。しかし、私たちが敬愛する霊的指導者から学んだのは、主への献身奉仕がないがしろにされるとき、他のすべての活動は幻想的で無駄(futile、役に立たない、空しい)だということです。

主チャイタンニャの流れ(line)を厳密に辿らない霊的な団体は、これを理解することができません。なぜなら、彼らはマハートマーの教えに従う(to abide by)ことを望まないからです。彼らは「一本の草よりも謙虚(humble)である」ようにという主チャイタンニャの命令(injunction)に従いません。

もしも彼らがそのように謙虚であるなら、彼らは、良い行い(good deeds)をする人、最も賢い人、最も献身的、などであるという自分たちの驕り(pride)を捨てるでしょう。

第13段落
マハートマーを見習おう(to emulate)と努力する(to strive)者は、決して不活動(passivity)と退行(regression、成長が早い段階で止まっている状態、退化)に陥りません(to fall prey to、餌食になる)。主に奉仕をすることへの彼らの熱意と決意は着実に(steadily)増します。

そのような信者(followers)は、かつてのアーチャーリャやマハートマーたちが勧めたように、主の喜びのためにジャンマースタミー(注1)やエカーダシー(注2)などの霊的な祭事(occasions、行事、儀式)を執り行います(to observe)。この献身奉仕は正しいものです。

マハートマーは一本の草よりも謙虚なので、彼らは主クリシュナと主に関わるすべてのものを崇拝します。しかし無神論者は全く違う精神性を見せます。彼らは自分の能力と慈悲深い性質(charitable disposition)を見せびらかしたがります(to flaunt)。

彼らは主クリシュナに奉仕をする振りをするかもしれませんが、彼らの目的はいったん完成を得たら「主の頭上に座る」ことです。言い換えると、彼らは主の立場を奪いたがるのです(to usurp)。したがって彼らは本当に主クリシュナに奉仕をするのではなく、主は彼らの本当の崇拝の対象でもありません。

マハートマーは決してこれらの悪魔的な人々と関わりません。彼らは主に奉仕をするという自分の決意(resolve)を固めており(to be fixed in)、そしてそのため彼らはいつも献身奉仕を通して主と結びついたままです。

注1)ジャンマスタミーは主クリシュナの降誕の祭。
注2)エカーダシー---文字通り11日目(を意味する)。太陰暦(lunar month)では満ち欠けする(waxing and waning)月の11日目に当たる。ヴァイシュナヴァはこの日、穀物を慎む(to abstain)。
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by ammolitering4 | 2015-01-29 08:11 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第2部第8章

第8章 至高主はいつも永遠のヴァイクンターの惑星にお住まいになる

第1段落
この物質的な創造(creation被造物)は、主ブラーマーの昼と夜の間に顕現し、そののち(subsequently)滅ぼされます。しかし、この物質的な世界を超えたところに(beyond)、創造と破壊によって影響されない(untouched)永遠の存在---霊的な天空があります。

その霊的なお住まい(abode)はヴァイクンターの惑星(訳注:複数)として知られます。この物質的な創造が滅ぼされるときでさえ、ヴァイクンターの惑星は無傷(unscathed)でそのまま(intact、完全、無傷)であり続けます。

誰であれ、いったんこれらの惑星に入ると、彼は決して再び、地上の(earthly、この場合は「俗世、物質界の」)存在にとって避けられない誕生と死の繰り返しに苦しむことはありません。物質的な世界が物質的な天空によって覆われ、満たされている(pervaded、充満)一方で、霊的な惑星はパラヴョマとして知られる霊的な天空に浮かんでいます(suspended、浮遊させられている)。

パラヴョマの中のすべての惑星系は、至高主がご自分の娯楽を永遠に行われる(to perform)超越的なお住まいです。

第2段落
先に私たちは、至高主は物質的なエネルギーと霊的なエネルギーという二つの主なエネルギーをお持ちであると論じました。ヴァイクンターの惑星は主の霊的なエネルギーの産物です。生命体はこの霊的なエネルギーに属しますが、彼らは霊的な世界または物質的な世界のどちらにも住むことができるので、もともとは霊的であるにも関わらず、彼らはタタスカー・シャクティ、すなわち「周辺的な力」と呼ばれます(to be designated as)。

第3段落
ヴァイクンターの惑星は主の内的な力の顕現であり、他方で物質的な世界は主の外的な力の顕現です。至高主はすべてのエネルギーの主であるため、主が霊的な世界と物質的な世界の両方を完全に統御していらっしゃる(to be in full control of)というのは否定できない(irrefutable)事実です。

完璧な類似(analogy)は土鍋(earthen pot、土で作った壷や鍋)です。土鍋を作るのに必要とされるのは、粘土、ろくろ(potter's wheel)、そして作り手(potter、陶芸家)です。粘土は素材(material)、すなわち原料となる原因(ingredient cause)、ろくろは道具となる(instrumental)、あるいは効率を上げる原因(efficient cause)、そして作り手は主要な原因(prime cause)です。

同様に、物質エネルギーがこの宇宙の創造の材料となる、そして効率を上げる原因である一方で、至高主、クリシュナは主要な原因です。影のように、物質エネルギーは厳密に至高主の命令(dictates)に従って働きます。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.10)において次のように説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「私のエネルギーの一つであるこの物質自然は私の命令の下で働いており、おお、クンティーの息子よ、すべての動くものと動かないものを作り出しています。その統御の下で(under its rule、この場合のits は「物質自然の」と思われる)、この顕現(訳注:物質的な宇宙を指すと思われる)は繰り返し繰り返し造られ、滅ぼされます。」

第4段落
悲しい事実は、クリシュナがご自分に関する真実をバガヴァッド・ギーターおよび他のヴェーダ文献全体で(throughout)明かされるにも関わらず、不運な(luckless)大衆(poplulace)は主を至高主と見なす(to regard ~as)ことができません。

特に、宗教的な熱意(religiosity、狂信的な宗教性や信仰)の砦(bastion、砦となるような人物も含む)であるという大げさな(tall)主張をする非人格主義的な哲学者たちは、至高主を死を運命付けられた平凡な存在(mediocre mortal)に引き下げ(to reduce)、そうして(thereby)重い罪を犯します(to accrue)。

そのような無神論的な罪人(offender、無礼者)たちは、自分自身の力(merit)によっては決して神という主題に近づくことができません。至高主と主の(主に)服従した従者たちは、様々な方法で至高の完全存在に関する知識を明らかにし(to clarify)、伝えましたが(to transmit)、至高主と主の献身者を侮辱する(offend)者は、決してそのような話題(topics)を理解することできません。

シュリー・プラーラーダ・マハーラージャはシュリーマッド・バーガヴァタム(7.5.30-31)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「(自分の)統御されない感覚が原因で、物質主義的な人生に過度に執着している者は地獄のような状態へ進み(to make progress toward~)、既に噛まれているものを繰り返し噛みます(訳注:徒労を繰り返す、という意味)。クリシュナへの好み(inclination、傾向)は、他の者たちからの教えによっても、彼ら自身の努力によっても、あるいはそれら両方によっても、決して呼び覚まされません(to be aroused)。

物質的な人生を楽しむという意識によって強くとらわれており、そしてそのため自分の指導者、あるいはグルとして、同様に外的な感覚の対象に執着した盲目の人(man)を受け入れた者たちは、人生の目的は家へ、至高主のもとへ帰り、そして主ヴィシュヌへの奉仕に携わることだというのを理解することができません。

もう一人の盲目の人に導かれた盲目の人たちが正しい道を外れて溝に落ちるように、もう一人の物質的に執着した人によって導かれた、物質的に執着した人々は、非常に強い紐(cords)でできた結果を求める労働という縄によって縛られ、物質的な人生において何度も何度も(訳注:生き)続け、三重の悲惨さに苦しみます。」

第5段落
主クリシュナもまた、このような人々をバガヴァッド・ギーター(9.11)において描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「私が人間の姿で降臨するとき、愚か者たちは私をあざ笑います(to deride)。彼らは、すべてのもの(all that be)の至高の主としての私の超越的な性質を知りません。」

第6段落
取るに足らない(puny、ちっぽけな、虚弱な)人間は、鍋(pots)や皿(pans)(訳注:potもpanも形状の違いはあっても壷や鍋などの容器を指す)、工場などの取るに足らないものしか作ることができません。

したがって、それほど遠くない昔にマトゥーラーに生まれ、人間のように見える名士(personality)が宇宙の顕現全体の至高の統御者、すべての主の主、そしてすべての完全な性質の持ち主として紹介されるとき、どんなに明らかにこれらの真実を説明しても、一般の人々は彼らのとても小さくて(dog's-bent-tail)な知性が原因で、それらを受け入れる(to absorb)ことができません。

(訳注: dog's-bent-tailは文脈から「小さくてつまらないもの」を意味する形容詞的な言葉であることが想像できますが、他の用例を探すことはできませんでした。)

こうして(Thus)彼らは一元論的で(monistic)非人格主義的な哲学を奉じます(to embrace、考えなどを取り入れる)。主クリシュナだけが神であることを否定し、彼らは自分たちもまた「神」であると言い張ります(to insist)。

このようにして彼らはすべての礼儀(etiquette)と堅固な(sound)哲学的な結論を無視し(to disregard)、自分たち自身と神についてひどく(grossly)愚かな考えを奉じ(to embrace)、主と競おうとします。

第7段落
西洋の霊性主義者たち(spiritualists)はしばしば、そのような無神論的な人々は悪魔に取り付かれていると結論づけます。その昔(in bygone ages)、多くのそのような悪魔的な人々---ラーヴァナ、ヒラニャカシプ、ジャラーサンダー、カムサ---が至高主の権威に挑みました。

現在では、彼らは着実に倍増しています(to have steadily multiplied)。これらの悪魔たちは、主チャイタンニャ・マハープラブでさえ侮辱し(to insult)、「シャチーおばさんの息子」という軽蔑的な(derogatory)悪態(name-calling、誹謗中傷)で主を退けました(to dismiss、~を~として片付ける)。

第8段落
考慮すべき点は、誰も本当に神と競うことはできないということです。至高主は比類するものなく(unparalleled)、唯一無二(second to none、誰にも負けない、髄一)です。チャイタンニャ・チャリタームリタには、(サンスクリット引用)と述べられています。

「主クリシュナだけが至高の人格神であり、他のすべての者たちは主の従者です。」人生を運命によって蹴散らされるままに生き(to go through life being kicked about by fate)、腹を満たし、頭上に屋根(がある状態)を維持するために(訳注:衣食住のために)奴隷のように働く者たちだけが、万能の(omnipotent)至高の統御者と競うなどという非常にばかげた望み(so preposterous a wish as ~)を持つ(to harbor)ことができます。

それは滑稽な(ludicrous)ことです。主の至高で超越的な立場を全く知らないので(ignorant of)、彼らは大胆にもそのような欲望を心に抱きます(to dare harbor)。

それでも至高主は非常に慈悲深くていらっしゃるので(compassionate)、様々な技(tricks)によって、これらの愚か者にさえ主はご自分の超越的で至高の立場という事実を教えようとなさいます。そして、主の内密な従者たちもまた、多くの困難(hazards、危険)と痛みを受け入れ、無神論という(of)悪魔(demon)によって取り付かれているこれらの人々から悪魔(Satan)を払う(to exorcise)ための、可能な限りのすべての方法を試みます。

第9段落
そして、自分たちだけが聖典を知っており、他のすべての者たちは学のない(illiterate)愚か者だと主張する、いわゆる学者たちがいます。そのような「学者たち」は、聖なる文献(texts)の研究は、カーラノダカシャイー・ヴィシュヌがこの物質的な創造の原因であり、ヴァスデヴァとデヴァキーの息子である主クリシュナは良くても(at best)ヴィシュヌの部分的な拡張体であると明らかに示す(to clearly reveal)、と言います。(訳注:~を研究すれば~であることは明らかだ)

こうして私たちは、知性的な者たちでさえ時として幻想の力、マーヤーによって惑わされ、悪魔的な考えを持つ(to subscribe to)というのを見ます。そのような惑わされた魂にとって、主クリシュナが至高の人格神、すべての原因の原因であると受け入れることがどうして可能でしょうか?

第10段落
もしもこの主題に関してシュルティとスムリティの聖典を調べるなら(to consult)、私たちは、主ゴヴィンダ、クリシュナがカーラノダカシャイー・ヴィシュヌの源であるということを証明する多くの言及(references)を見つけます(訳注:~を調べると、~を証明する言及がたくさんあることが分かります)。逆ではありません。例えば、ブラーマ・サムヒター(5.47)にはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します(to adore)。主はご自分自身の素晴らしい精神的な(subjective、主観的、肉体によらず精神の活動による)形をしておられ(to assume、装う)、セサという名前をお持ちであり、すべてを受け入れる(all-accommodating)力を備えておられ(to replete with)、そしてご自分の毛の毛穴の中に無数の世界を持って(with the infinity of the worlds in the pores of His hair)、原因の海(Causal Ocean)に横たわって(to repose)創造的な眠り(ヨガニドラー)を楽しんでおられます。」(訳注:原文の構文は多少違いますが、意味は同じです。同様の構文の変化はときどきありますのでご了承ください。)

第11段落
聖書には、「神はご自分自身の姿になぞらえて人間をお作りになった」と書いてあります。この言明によれば、人間は神と似た形を持っているので、二本の手(hands)を持っています。しかし、これは、二つの手を持っておいでになるから神は人間である、ということを意味するのではありません。

人間の姿(form)でお現れになったからといって主クリシュナの立場を小さくしようとする(to diminish)のは憎むべき(heinous)罪(offense)です。主の神聖なる力と至高の立場に関する真実は、自己を認識した霊的指導者、聖人的な魂、そして明かされた聖典から学ばれるべきです。

第12段落
悪魔的な人々は人間の人生の本当の目的を理解し損ないます。その代わり、彼らはいつもすぐに主クリシュナの至高の立場を小さくしよう(to diminish)とします。そのような無神論者たちは、非常に高い望み(ambitions、野望)を持っているかもしれず、大変な(great、大いなる)、気高い(noble)行為(deeds)を行うかもしれません(訳注:偉業を成し遂げるかもしれません)が、彼らの野望と功績は主クリシュナへの愛情ある関係から切り離されているので、それらはすべて無駄です。

悪魔ラーヴァナは、階段を作ることによって天国に至りたいと欲しましたが、彼は失敗しました。そして、すべての無神論者の野望(all atheists' ambitions)はそのようなものです。数字の1の横に置かれたゼロは10を作り、その次のゼロは100を作り、というふうに続きます。

数字の1がある限り、ゼロが増えるごとに値は上がっていきます。しかし、数字の1がないと、どんなにゼロが増えても値はありません(valueless)。同様に、もしも人が「1」---主クリシュナ---との関係なくして、単に物質的な富、名声、そして学識という「ゼロ」を増やして一生を過ごすなら、それなら彼の人生全体が無価値です。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.12)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「このように惑わされた者たちは悪魔的で無神論的な見方(views)に惹きつけられます。その惑わされた(deluded)状態において、彼らの解放への望み、彼らの結果を求める活動、そして彼らの培った知識(their culture of knowledge)はすべて打ち負かされます。」

第13段落
人は自分自身を主クリシュナの献身者であると呼ぶかもしれませんが、もしも彼がクリシュナを人間であると考えたり、主が最初は人間で、それから神に進化した(今はやっているように(in vogue))、非常に多くの「化身」が雨後の竹の子のように出てきている(to mushroom))と考えるなら、それならそのような人は献身者ではなく、偽物(imposer)です。

(訳注:「神が最初は人間で、それから神に進化した」という考えが今はやっていて、そのため「化身」もうじゃうじゃいる、という意味)

人はしばしば、主クリシュナの献身者の振りをしている一元論者(monists)や偽の(pseudo-)献身者に出会いますが、やがて彼らはクリシュナの立場を奪おうとします(to usurp)。彼らは自分が主クリシュナでありたいと欲します。そのような狡猾な(insidious)望みを持つ人々は完全に惑わされています。

もしも結果を求めて働く人が、主クリシュナが普通の、死を運命づけられた存在(mortal)であると考えるなら、彼は自分の結果を求める働きの目標---天国のような惑星へ上げられること---を達成しません。

そして、もしも擬人主義者(anthropomorphist、擬人主義は「人間以外のものを人物として、人間の性質・特徴を与える比喩の方法」ウィキデピアより)がたまたまジニャーニー、 経験主義的な(empirical)哲学者であるなら、それなら彼もまた自分の知識の追求の目的---物質的な相からの解放---を達成するのに失敗します。
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ぼちぼち、ぼちぼちと進んでおります。今年もまたのんびりお付き合いくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-01-12 13:25 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

第7章

第7章 マーヤーの幻想の下で人間はクリシュナを主クリシュナを忘れてしまった

第1段落
カルミー、ジニャーニー、そしてヨギー、および一般の政治家と、この物質世界において快適で平和な状況を作るために一生懸命働いている他の誰もが、世界は一時的(transitory、はかない、つかの間の)で悲惨さに満ちていると、非常にはっきりと理解しなければなりません(訳注:to clearly realize、はっきりと理解する、という動詞を同義の副詞で強調)。

この世界の中に永遠の居場所(settlement、居留地、開拓地など)を作るために人がどれだけ骨折って働いても(however much one may toil to ~)、最後には誰もが去ることを強制されます。ここに留まる限り、人は苦しみという(of)現実を受け止めなければなりません(to come to grips with、直面する、真っ向から取り組む)。

記憶にないほどの昔から、魂は来たり去ったりし続けています。しかし主の献身者は、この世界において幸せに暮らすだけでなく、ここを去った後、主の永遠で常に喜びに満ちたお住まいに入ります。主はバガヴァッド・ギーター(8.15)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私のところに至ったあと、献身におけるヨギーである偉大な魂たちは、決して悲惨さに満ちたこの一時的な世界に戻りません。なぜなら、彼らは最高の完成に至ったからです。」(訳注:原文は長い一文。)

第2段落
上の節によれば、献身者は最高の完成に至ります---つまり(that is)、彼らは主の永遠の仲間たちの高い(elevated、高く上げられた)一団(corps、軍団や部隊のような共同体)に加わります。神秘的なヨギーの八重の神秘的な完成は、献身者のパラ・スィッディー、すなわち「最高の完成」と同じではありません。

神秘的なヨガが物質的で一時的な完成をもたらす一方で、至高主への献身奉仕は超越的で永遠な、完全な完成をもたらします。至高主は、ご自分がお作りになったこの無限の物質宇宙の中で、ご自分の常に若々しい(ever-fresh、新しい、鮮明な、生き生きとした)超越的な娯楽を絶えず(incessantly、絶え間なく)顕現なさいます。

ボーマ・リーラーとして知られるこれらの娯楽は、記憶にないほどの昔から続いています。太陽は一つの場所に留まりますが、それでも地上のどこかで人々はそれが昇るのを見て、一方で他のところでは人々はそれが沈むのを見ます。

この夜明けと日没(rising and setting)は創造の始まりのとき(dawn、物事の始まり、夜明け)から続いています。同様に、主クリシュナは永遠にご自分の永遠のお住まいであるゴロカにお住まいになるにも関わらず、主はこの宇宙の創造の無数の宇宙の中で常に(at every moment)ご自分の超越的な娯楽を顕現なさいます。

太陽が昇ったり沈んだりすると考えるのが間違いであるように、主クリシュナがいついつの日に生まれて、いついつの日に誰かによって殺された(slain)と考えるのはひどい思い違いです(gross misconception)。

主の誕生と活動はすべて(all、全く)超越的で奇跡的です。(訳注:この場合の allは構文的には「すべて、いずれも」という意味ですが、原書はインドの言葉からの古い翻訳でハイフンや大文字小文字の使い方が独特な場合も多いので、「全く」と読んでも差し支えないかと思います。)

そして、この深遠な(esoteric、奥義、秘儀、難解)真実を理解することができる者は最高の完成を得ます。主はバガヴァッド・ギーター(4.9)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「私の顕現と活動の超越的な性質を知る者は、体を去るときに(upon leaving the body)この物質世界において再び生を受けることはなく、(but、その代わり、そうではなく)、私の永遠の住まいに至ります、おお、アルジュナよ。」

第3段落
主クリシュナがご自分の地上での(earthly、この世、俗世での)娯楽を顕現したいと望まれるとき、主はご自分の永遠の両親、シュリーマティー・デヴァキーとシュリー・ヴァスデヴァを通してお現れになり、のちにご自分の育ての両親(foster parents)、母ヤショダーとナンダ・マハーラージャによって育てられます。

主の永遠の両親の足跡を辿ることによって自分の献身奉仕を完成させる聖人的な魂は、至高主の永遠の仲間という(as)最高の立場に上げられます。いったん主の永遠の超越的な娯楽に入ると、これらの偉大な魂たちは至高主への恍惚的な愛において非常にすばらしい(superexcellent)献身の甘さ(mellows、一般的には形容詞。熟成、円熟など)を味わいます。

第4段落
無数の宇宙において、主クリシュナはご自分の親密な友人であり永遠の仲間であるアルジュナと共に、ご自分の俗世の(earthly)娯楽を明かされます。主はバガヴァッド・ギーターの二つの節(4.5-6)においてこれを明らかになさいます。

(サンスクリット引用)

「私とあなたはたくさん、たくさんの人生を過ごしました(Many, many births both you and I have passed)。私はそれらすべてを思い出すことができますが、あなたはできません、おお、敵を征服する者よ(subduer、鎮圧)!私は生まれたことがなく(I am unborn)、そして私の超越的な体は決して滅びません(to deteriorate、悪化、劣化)が、そして私はすべての生命体の主ではありますが、私はそれでも自分のもともとの超越的な形において時代ごとに(in every millennium)現れます。」

第5段落
至高主の永遠の娯楽に入るという至高の目的に向かって努力せず(to strive for)、その代わり、究極的に人を天国のような惑星に上げるカルマ、ジニャーナそしてヨガという俗的な実践(mundane practice)に魅了されるようになる不運な魂たちに関して言えば、そのような魂は再びこの物質世界に生を受けねばなりません。

この宇宙の体系(cosmic system)において高い水準に至るかもしれませんが、彼らは観覧車(ferris wheel)の上にいるかのように降りてこなければなりません。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(8.16)においてこの現象を描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「物質的な世界の中の最も高い惑星から最も低いものまで、すべては悲惨さの場所であり、そこでは(wherein、その中)繰り返す誕生と死が起こります(訳注:~が繰り返されます)。しかし、私の住まいに至る者は、おお、クンティーの息子よ、決して再び誕生しません。」

第6段落
この物質的な世界の中の、より高い惑星系は、バーロカ、バーヴァーロカ、スヴァーガロカ、マハーロカ、ジャナロカ、タポロカ、そして上はサテャロカ、すなわち(or)ブラーマロカまであります。次の生においてこれらの惑星のうちのいずれに上がるのであれ、人は最後には地上(訳注:earth、この場合は小文字ということもあり、特にこの地球という惑星に限定しているのではなく、天国のようなところと相対してのこの世を指すと思われます)に戻らねばなりません。

来世のことは言わずもがな(what to speak of)、この(訳注:斜体で強調)生においてさえ、相当な努力ののちに得る高い立場---王、皇帝、大臣、知事(governor、長官)、あるいは大統領など---は、しばらくすると(after some time)失われ、人は身分の低い(mean and humble、同義の言葉を重ねて強調)地位に投げ戻されます。

このような屈辱(humiliation)を経験した指導者たちだけがそれに伴う戦慄(trepidation、身が震えるような恐怖、動揺)を知ることができます。しかし、人生のどの段階においてでも、もしもギーターにおいて描写されたひどく(grossly)愚かな悪者たち(miscreants、不信心者)が主クリシュナへ献身奉仕を捧げることを決心するなら、彼らはカルマの観覧車(ferris wheel)を逃れることができます。

この輪の上では、時として人は天国へ、そして時として地獄へ行き、時として人は王として、そして時として奴隷として生まれ、時として人はブラーマナに、そして時としてシュードラになり、そしてそのようにしてそれは続きます(and so it goes on)。

しかし、人がいったん至高主の霊的なお住まいに入ると、彼は自分のもともとの本来の立場において自分の永遠の人生を始めます。

第7段落
カルマの影響によって、物質的な体と心に執着している者は何度も生まれ変って(life after life)体を替えなければなりません。このようにして魂は、時として上がり、時として下がり、この物質的な宇宙の中の14の惑星系をさまよいます(to roam)。

これらの惑星は一時的(transitory)です---単にその上で魂が自分の俗的な存在を演じる(to enact)舞台(theatrical stages)に過ぎません。しかし、生命体が霊的な完成に上げられ、すべての俗的な呼称(designations)がない(devoid of)(訳注:いかなる俗的な呼称とも無縁な)自分の純粋な永遠の自己認識に位置するとき、彼は霊魂の自然な住みか(habitat)、(すなわち)この物質的な創造ならびに非顕現なるブラーマンの光輝という(of)中間の(intermediary)領域を超越した、超俗的な領域(supramundane realm)に至ります。

第8段落
土、水、火そして空気などの物質的な材料でできた(to be made up of)物質的な体は滅びる運命にあります(mortal)。同様に、この物質的な宇宙は土、水、火、空気などの混合物(amalgam)であるため、それもまた一時的(transitory)です(訳注:~も~なので~です)。

しかし、(ついでながら(incidently)、度重なる努力にも関わらず実験室において複製されていない)霊魂は不滅(imperishable)であり、その自然で永遠な家---神の王国も同様です。永遠の魂を彼(訳注:魂)の永遠の家に連れて行く過程(process)はサナータナ・ダールマ、すなわち「永遠の宗教」と呼ばれます。

第9段落
カピラのような経験主義的で(empirical)無神論的な哲学者は、この宇宙の創造の物質的な現象を研究して、非常に多くの冗長な時間を過ごしました(訳注:innumerable tedious hours、~をうんざりするほど長々と研究しました)。それでも、この顕現している物質的な世界を超越して、(それより)はるかに優れている領域が存在するということを理解するのは、彼らの限られた知性の理解(grasp)を超えたままでした。(訳注:~をもってしては、~を理解することは叶いませんでした。)

ついに、彼らの徹底的に探りを入れる(probing)心が推量の海に(in)陸地を見出す(to sight)ことに失敗したとき、彼らは完全真理は非顕現であると結論づけました。

第10段落
他の種と比べると、人間は確かに優れた(good)知性を授けられていますが(to be endowed with)、それでも主の献身者でない限り彼らのすべての思考は俗的な境界(boundaries)の中に限られます。したがって、俗的な心にとって超越性に近づくことは不可能です。

しかし、至高主あるいは主の代理人に服従する代わりに、経験主義的な(empirical)哲学者たちは自分たちの俗的な心を超えたものを「非顕現」として言いぬけようとします(to explain away、うまい言葉を使って言い逃れる、ごまかす、片付ける)。これは井戸の中のカエルの論理として知られています。

第11段落
とても小さな生命体がどれだけ大きな思考者であろうと(no matter how big a thinker a tiny living entity may be)、彼のすべての活動は俗的な境界によって限られます。ちょうど、井戸の中のカエルが決して自分の小さな領域(domain)の外に海などというものが存在すると理解することができないようにです。

彼は、自分のとても小さな水溜りより無限に(infinitely)大きな大量の水があり得る(a mass of water ~ can at all be possible)と認める(to acknowledge、事実や存在を認める)ことを拒みます。同様に、私たちは自分の体と心という暗い井戸に閉じ込められています(to be trapped)。

そして、私たちは自分の限界を乗り越えるためにヨガあるいは経験主義的な推量を通して大変な努力をする(to try hard)かもしれませんが、私たちがどんなに博識(erudite)であっても、私たちの自分で作った井戸(our self-made well)の限界を超えることは不可能です。

第12段落
それでは(So)、誰が私たちに大きな(great)海の知らせを持ってくることができるのでしょうか?この物質世界の井戸の中で浮かんでい続けるために(to stay afloat)、時としてより高い惑星に上がり、時として下りてきながら、私たちがどれほど長く水の中で苦しんでいるか、何らかの記録はあるでしょうか?

至高主ご自身あるいは、主の、力を与えられた代理人(訳注:His empowered representative、主が力をお授けになった代理人)だけが、この暗い井戸の幽閉(confinement)から私たちを自由にすることができます(訳注:can possibly、強調表現。この場合は、そうでなければ絶対に無理、という意味合いがある)。

彼らの指導の下で、私たちは霊的な天空という(of)無限の海について知ることができるようになります(to come to know of)。より高い権威者から聞くというこの過程は、知識の演繹的な(deductive、えんえき)、あるいは降下的な(descending、下方性)過程と呼ばれます。

それは超越的な知識を学ぶための唯一の正式に認められた方法です。この方法によってのみ、永遠の真理が伝えられます(to be transmitted)。

第13段落
そして、私たちはこの過程によって何を学ぶことができるでしょうか?主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(8.17-20)において霊的な世界と物質的な世界を次のように描写なさいます。

「人間の計算で1,000の時代が合わさったものが(a thousand ages taken together)ブラーマーの一つの昼(one day)の長さを成します。そして彼の夜の長さも同じです。ブラーマーの一日の始まりにおいて、すべての生命体が非顕現の状態から顕現し(to become manifest)、そしてそれからは(thereafter)、夜が訪れるとき、彼らは再び非顕現に同化します(to be merged into、交じり合う)。

繰り返し繰り返し、ブラーマーの昼(day)が訪れるとき、すべての生命体は現れ(to come into being)、そしてブラーマーの夜の訪れと共に彼らは非力にも滅ぼされます。それでも、永遠で、この顕現したり非顕現だったりする物体を超越した、もう一つの非顕現なる自然があります。

それは至高であり、決して滅ぼされません。この世界の中のすべてが滅ぼされるとき、その部分はそのままです(to remain as it is)。」

第14段落
ブラーマロカにおける寿命は何百万年もあるということを知る(to learn)とき、人々は畏怖の念に打たれます(to become awestruck)。ブラーマロカに至るために、人は放棄階級者となって厳しい禁欲(austerities)と放棄(renuncitation)を耐えねばなりません(to undergo、辛い経験を耐え忍ぶ)。

しかし、私たちは一つの非常に重要な(essential)事実を考慮しなければなりません:その惑星の主神(presiding deity)である主ブラーマーでさえ不滅ではないということです。ヴェーダの聖典を詳しく(in depth)研究した者は、ブラーマーの寿命(lifetime)を計算することができます。

人間はその一年に365日を数え、4つのユガの周期(cycle)はおよそ4,320,000(432万)のそのような年から成ります。4つのユガの1,000周期が主ブラーマーの人生の一つの昼(12時間)を成します。このようにして、彼の月と年が計算でき、そしてブラーマーは自分の時間の100年を生きます。

しかし、この長大な(vast)寿命---311兆400億年(311 trillion 40 billion)---にも関わらず、主ブラーマーは滅びることを運命づけられた(mortal)存在であり、彼によって作られたこの宇宙もまた滅びる運命にあります(perishable)。

そのため、同じく彼の創造である人間もまた滅びる(訳注:should、この場合「~であるというのは」という意味)というのは不思議ではありません。とても小さな虫には人間が不滅であるように見えるように、主ブラーマーと半神たちもまた、私たちには不滅に見えます。しかし事実は、いかなる形のどの物質的な体も、決して永遠ではありません。

第15段落
ブラーマーの昼の終わりに夜が近づく(to approach)とき、部分的な溶解(dissolution、分解、解散)が半神たちの住まいであるスヴァルガロカまで宇宙を水浸しにします(to inundate)。この世界のすべての生命体は主ブラーマーの昼の始まり(dawn)のときに作られ、日没のときに滅ぼされ、この創造と破壊(annihilation)は継続的な循環において続きます。
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毎度お待たせ致しております。ようやく第7章をお届けします。それにしても、311兆400億年ねえ。。。私は非常に数字に弱いという特技がありまして、その昔、血迷って会計学の入門コースを取ったときに絶対的な自信を得ました。何がどう間違っても自分は会計士には向いていないという自信です。311兆とか言われても、ゼロがいったいいくつつくのか、バケツですくえるほどたくさんあるのですから分かろうはずもありません。

大きな数字と言えば日本の国家予算ってどれくらいかな、と思って見てみたら、220兆円という数字が出てきました。どこからひねり出した数字かということは分かりませんが、要するにブラーマー様の寿命は国家予算より多いということで、比較対象になってない気もしますけれど、どことなく納得しました。1円稼ぐのに1年かかるとして、一年半分の国家予算を一人で稼ぐのにかかる時間、、、そうね、がんばってみようかな。
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by ammolitering4 | 2014-11-30 16:05 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第6章 終わりまで

慣性の法則というのがありますね。私の人生に当てはめると惰性の法則と言ったほうが当たってるような気もするわけですが、それについては深く考察しないこととして、要するにこれはボールは投げた方向に飛んでいくしかないということであると理解してよろしいかと思います。生きている間中ろくでもないことを考えたり行動したりしていて、しかし死んだら反対方向に行きたいというのは無理というものです。野球の投手のように大きく振りかざして、手から離れたボールが真後ろに飛んでいくことを期待するようなものです。

別の例を挙げれば、記憶の草原があって、地獄行きの小道を何度も何度も通ってしっかり高速道路ができてしまっていたら、それはもちろん一直線にそっちへ行くのが自然です。反対に、神様のことを何度も何度も思い出していれば、嫌でも自動的にそっち方向に魂が進んでいくことでしょう。私みたいにあちこちうろうろと歩き回って方々に獣道ばっかり作っていると、体から放たれたときに魂がうろうろして迷ってしまいそうです。ガラス絵の神様のほうに行きかけ、クリシュナのほうも横目で見て、いや、やっぱり行ったことのないロシアにも未練があるし日本の温泉にも入りたいし、地獄にも温泉があるならそれでもいいかなと心が揺らぎ、、、どうしましょう。

目を転じてみますと、私が今こうしているということは、そしてこんなふうに生まれてしまったということは、良かれ悪しかれ私がこっち方面に向かってしまったからであって、ということはつまり、、、褒めるべきも責めるべきも自分でしかないのだなと思います。もうちょっと美人でもよかったのにとか、もっと頭が切れてても一向に構わなかったのにとかぶつぶつ言っても始まりませんね。ここにこうしているというところから始めるしかないのです。後ろから寄せる波のような惰性や慣性に流されつつも、少しずつでもちらちらとクリシュナのほうを見やりつづけたいものです。

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第7段落
したがって、幻惑と二重性の手が届かないところに留まるために、人はいつも、黒っぽい(darkish)肌色をして(ご自分の)笛を吹いておられる主クリシュナの祝福に満ちた(beatific、幸福に輝く、至福を与えるような)姿をいつも思い出して、それを瞑想しなければなりません(to meditate on~)。

人はまた、主と同じであり(nondifferent、違わない)、その性質は永遠で、完全で、純粋で、そして独立している、クリシュナの聖なる御名も思い出して唱えなければなりません。バガヴァッド・ギーター(8.6-7)において、主クリシュナはいつもご自分を思い出していることの大切さを説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「何であれ人が自分の体を去る(to quit)ときに覚えている状態を、おお、クンティーの息子よ、その状態を彼は必ず得ます。したがって、アルジュナよ。 あなたはいつもクリシュナの形で私のことを考え、同時に、戦うことという(of)あなたの定められた(prescribed)義務を果たすべきです。

あなたの活動が私に捧げられ、あなたの心と知性が私に定められているとき(with your activities dedicated to Me and your mind and intelligence fixed on Me)、疑いもなく、あなたは私のところに至るでしょう。」

第8段落
死のとき、私たちの意識の状態が私たちの次の生を決定します。死は5つの粗い(gross、密度の濃い)要素からなる体を滅ぼしますが、心、知性、および偽りの自我からなる精妙な(subtle、密度の薄い)体は残ります。

ちょうど空気が(それが)上を吹く場所の香りを運ぶように、そのように魂は、心、知性、および偽りの自我という(of)人の精妙な体を、意識の状態と共に次の生に運び(to carry ~ on to ~)、そして彼の体は相応に決定されます。

風が花園(garden)の上を吹くとき、それは(with it、それと共に)花の香りを運びますが、それがゴミの上を吹くとき、風は悪臭(stench)で満たされます。同様に、人が自分の生涯の間に行うことは継続して彼の精神性に影響を与え、そして死のときにこれらの活動の累積した(cumulative)効果が彼の意識の状態を決定します。

こうして、人の生涯の間に形作られた精妙な体は、人の次の生に持ち越され、魂の次の密度の濃い体(gross body、肉体)として顕現します。したがって、自然と、密度の濃い体は人の意識の状態を反映します。よく知られたことわざにあるように、「顔は心の鏡」(The face is the index of the mind)です。

そして心は人の現在および過去の人生の活動の産物です。言い換えると、この生および過去の生における(人の)習慣によって影響される、人の心、知性、および偽りの自我は、人が次の生において得る体と精神性の種類を決定する鋳型(matrix、基盤、発生源、原盤など)を形成します。このように(Hence)、人の過去、現在そして未来の生の間の結びつきは、心、知性、および偽りの自我です(訳注:~を結びつけるものは~です)。

第9段落
日中の活動は夜に夢を生じさせ(to evoke)、それらの活動に応じた(appropriate)感情を引き起こします(to induce)。同様に、人の生涯において行われた活動は、死の瞬間に人の心に瞬間的に蘇り(to flash across one's mind)、人の次の生を決定します。

したがって、もしも人の現在の活動が、主の美しさ、性質、娯楽、仲間、そしてその他の主に関わる事柄(paraphernalia)と共に、至高主の超越的な御名を唱えること、聞くこと、そして覚えていることに向けられるなら、それなら人が自分の体を去る瞬間の意識は自動的に主に惹き付けられるでしょう。

死の瞬間のそのような意識の霊的な状態は、彼の直後の(very next、すぐ次の)生における、至高主の永遠のお住まいへの魂の入場を確実にします。(訳注:死の瞬間に意識がそのような霊的な状態にあると、魂はそのすぐ後に生まれ変わるとき、必ず主の永遠のお住まいに入ることができます。)

この霊的な意識を目覚めさせることが人生における人間の主要な目的(goal)です。したがって私たちは、制約された魂への同情(compassion)から、主クリシュナがアルジュナに、戦い、そして同時に主を覚えているようにお教えになるのを見ます。(訳注:そのため主はアルジュナに~とお教えになります。)

これはカルマ・ヨガと呼ばれます。したがって献身者は、自分のすべての活動において---食べ物と安全のための努力において、そして戦争で戦っている間に戦場の只中においてさえ---いつも主を思い出します。

人生は、その中で人がいつでも死ぬかもしれない戦場のようなものなので(Life being like a battle field, in which one may die at any time)、献身者はどの瞬間でも主を思い出していて、そして主はすすんで(willingly)彼らの、戦車にも似た体の御者になられます。

彼らの体、心、そして言葉の活動は、こうして至高主のご意志によって駆り立てられ(to be prompted、促す)、そして最後には、彼らが自分の密度の濃い体と密度の薄い体を去るとき、彼らは直接、霊的な天空に行きます。

第10段落
純粋な献身奉仕の主要なしるし(symptom)は、聖なる御名を常に唱え、聞き、そして覚えていることです。先に論じたように、混じり気のある献身奉仕とはカルマ(結果を求める欲望)とジニャーナ(知識への執着)によって混ぜ物をした(to be adulterated、混ぜ物をしたことで質が落とされた)献身奉仕です。

そのような献身奉仕は、往々にして、人がたまたま陥った特定の状況や人間関係によって(by the particular situation or association a person finds himself in)妨げられます(to be impeded)。しかし、純粋な献身奉仕には決して何らの妨げ(impediment)もありません。

至高主の完璧な認識(realization、はっきりとした理解)は、人が混じり気のない献身奉仕に堅固に位置するまで生じません。主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(18.15)において確認なさいます。(サンスクリット引用)

「人は、純粋な献身奉仕によってのみ、私をありのままに(to understand Me as I am、私を私として)
(without deviation)、至高の人格神として、理解することができます。」そして8.14の節において、主はこの純粋な献身奉仕の主要な特徴に言及なさいます。

(サンスクリット引用)

「それることなく(without deviation)いつも私を覚えている者にとって、私は得るのが簡単です、おお、プリターの息子よ。なぜなら、彼はいつも献身奉仕に携わっているからです。」(訳注:原文は長い一文。)

第11段落
至高主へのぶれることのない集中は、純粋な献身の最初のしるしです。言い換えると、純粋な献身者とは、至高主への断固たる(unflinching、ひるむことのない)献身奉仕に関係のないすべての欲望と思考を払いのける(to ward off、撃退する)者です。

多くの霊的な猛者(stalwarts、信念の固い者)が純粋な献身奉仕について言及しています(to comment upon~)。例えば、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの時代の偉大な霊的な教師たち(preceptors)の筆頭であるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、自著「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」(1.1.11)においてこう書きました。

(サンスクリット引用)

「人は、至高主クリシュナに好意的に、そして結果を求める活動や哲学的な推量を通した物質的な利益(profit or gain。訳注:同義の言葉)への欲望なく、超越的な愛情ある奉仕をするべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」

第12段落
人々は自分の物質的な欲望を満足させるために半神たちの機嫌をとります(to propitiate)。病から逃れるために(in order to escape ill health)太陽神のような半神たちをなだめようとする(to appease)、あの、クリシュナの初心者の献身者たちは、主クリシュナの至高の神性(divinity、神格)についての深刻な(serious)疑念に屈する(to succumb to~)ので、そうします。(訳注;~が~するのは~であるためです。)

アニャービーラーシャ(「主クリシュナに奉仕をすることに向けられたもの以外の欲望」)という言葉を分析するとき(in analyzing)、私たちは、人が、至高主の力の顕現に過ぎない太陽神は人を病(ill health)から守ることができるが至高主クリシュナはできない、と考えるとき、この種の歪んだ知性を心に抱く(to foster)、ということを見出します。

これらの心を曇らせる疑いがいったん晴れると(to disperse)、人は純粋な献身奉仕の扉をくぐります。カルミーとジニャーニーもまた、物質的な欲望によって汚されています(to be tainted)---それぞれ、自分の感覚を楽しみたいという欲望と、解放を求める欲望です。

純粋な献身奉仕は、これらの物質的な欲望が消え(to be dissipated)、人が主クリシュナに途切れず(unbroken)好意的な献身奉仕を行うときにだけ得られます。偉大な聖人ナーラダはこう言いました。

(サンスクリット引用)

「バークティ、すなわち献身奉仕は、私たちのすべての感覚を主、至高の人格神、すべての感覚の主への奉仕に携わらせることを意味します。霊魂が主に奉仕をするとき、二つの副作用があります---人はすべての物質的な区分(designations、呼称)から解放され、そして単に主への奉仕に携わることによって(by being employed in ~)、人の感覚は浄化されます。」(ナーラダ・パンチャラートラ)

第13段落
人が自分の心と体に関係して受け入れる(to adopt)様々な自己認識(identities)は、すべて物質的な区分(designations)です。純粋な魂はそのような俗的な区分によって煩わされません(to be unencumbered、心配や負担がない)。

なぜなら、彼が持つ唯一の自己認識は、至高主の従者であり切り離せ得ない部分である、というそれだからです。そのため(Thus)、すべての偽りの区分が剥がれ落ちること(shedding)に伴って、人は超越性の状態(state)に入り、そして超越性に堅固に位置するとき、人は純粋になります。

そのような浄化された感覚をもって至高主、すべての感覚の主に奉仕をすることが、混じり気のない献身奉仕です。

第14段落
バガヴァッド・ギーターの8章14節において、アナニャ・チェター(それることなく)とニテャ・ユクタ(常に、定期的にregularly)という二つの単語は大変重要です。人は、それることのない信仰に堅固に位置することなくしては(being fixed in ~)、献身の実践においてそれないようになることはできません。

人がこの信仰をもって常に至高主に奉仕をするとき、彼は自動的に、結果を求める活動、推量的な知識、半神の崇拝、そして儀式的な敬虔な活動へのすべての欲望を失い、そして彼は(自分の)献身奉仕においてそれないようになります。

サタラム(「いつも」、always)という単語は、献身奉仕は時間、場所、状況、逆境(adversity、不運、災難)などと関係がない(to be independent of~)ということを暗示する(to imply)として理解されねばなりません。

人種、カースト、性、あるいは他の物質的な区分に関わらず、すべての人が精神的な推量、結果を求める活動、およびヨガの実践を放棄し、それることなく主クリシュナの蓮の御足の完全な庇護の下に入ることができます。

ニテャという単語は、「毎日(daily)」、「定期的に(regularly)」、あるいは「常に(constantly)」を意味します。主クリシュナの蓮の御足に(on)常に瞑想する者は、簡単に主に至ることができます。主ブラーマーは、「ブラーマ・サムヒター」(5.33)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主はヴェーダにとっては到達し得ず(inaccessible to the Vedas)、しかし魂の純粋な混じり気のない献身によって得られ得ます(obtainable)。主は唯一無二であり、滅びることがなく(not subject to decay)、主は始まりがなく、主の形は終わりがなく、主は始まりであり、永遠のプルシャです。それでいて主は(咲き誇る花のような)若々しい美しさ(the beauty of blooming youth)を持つ人格(person)です。」(訳注:原文は長い一文。)

第15段落
宗教的な義務を遂行すること、結果を求める活動を行うこと、経験主義的な(empiric)知識を培うこと、そして神秘的なヨガを実践する過程で、多くの労力、時間、そしてお金が使われます。人は、そのような活動の良い(pious、敬虔な)結果と共に、悪い(sinful、罪深い)反応も受け入れなければなりません。

これらの結果と反応を無にする(to nullify、無効にする)唯一の方法は、至高主クリシュナを崇拝することです。このように(Thus)、主クリシュナを崇拝して(主に)奉仕をすることは、世界全体にとって唯一の有利な(advantageous)活動です。

第16段落
至高主は永遠の喜びの体現(embodiment)であり、いつも超越的な娯楽にいそしんでおられます。主を崇拝するために唯一必要とされるものは、それることのない献身です---虚飾(ostentation、誇示)は主を喜ばせません。

主クリシュナへの献身奉仕は憎しみやねたみを作り出しません。不可知論的な(agnostic、神の存在を否定はしないが、その存在の確かな理解は不可能だとする理論)ならず者(reprobates)だけが、主への献身奉仕と主の献身者に強く反対します。

人は献身奉仕において最大の喜びを得ます。実に、人がついに主を得るとき、それは無限の至福(ecstasy)の海でおぼれるようなものです。主クリシュナの献身者だけが、この至福を味わい、いつも喜びに満ちていることができます。
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by ammolitering4 | 2014-11-08 13:58 | 「英知による放棄」 | Comments(1)

第6章 第6段落まで

第6章 主クリシュナはカリ・ユガにおいてご自分の聖なる御名として化身なさる

第1段落
貧弱な(meagre)知性を持った人は、はかない(fleeting、あっというまに過ぎていく)幸運のために半神を崇拝します。そのため、人はこう尋ねるかもしれません。「もしも至高主を崇拝することによって人が自分のすべての欲望を満たしてもらうことができるなら、なぜ誰もが主を崇拝しないのですか?」

デヴァルシ・ナーラダは、かつて、ユディースティーラ・マハーラージャによって出された(to be posed、問題や要求を提出する)同様の質問に答えました。

(サンスクリット引用)

「おお、王よ。ほとんど敬虔さ(piety)を持たない人は、決して主ゴヴィンダ、主の慈悲、主の聖なる御名、あるいは主の純粋な献身者への信頼(faith、信仰)を育むことができません。」

第2段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.28)においてこれを確証なさいました(to corroborate)。

(サンスクリット引用)

「過去生とこの生において、敬虔に活動し、その(訳注:自分の)罪深い活動が完全に根こそぎにされた(eradicated、撲滅)者は、幻想の二重性から解放され、そして彼らは決意をもって私への奉仕にいそしみます。」

第3段落
悪魔的な精神性を持った者は、罪にまみれています(to be steeped in sin、~に没頭している)。そのため、霊的な知識の大切さに関する彼らの理解は無(nil)です。自分の社会的および霊的な階層の命令(dictates、神や良心や理性の命令)に従って暮らすことによって自分の罪を根こそぎにする(to eradicate)ことができ、そしてそのようにして十分な敬虔さ(piety)を得た者は、カルマ・ヨガを実践する資格があります。

徐々に彼らはジニャーナ・ヨガへと進み、そしてついに、瞑想において、彼らは主の超越的で至高の立場に気づきます。そのような、大いに(highly)幸運な、自己を認識した魂は、自分の心臓(heart)の中に、シャーマスンダラとして知られる、笛を吹いておられ、永遠で超越的で、二本の腕を持った 至高主のお姿を見ることができます。シュリー・ブラーマサムヒター(5.30)の中の主の描写は次のようなものです。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主は(ご自分の)笛を吹くのに熟達(adept)しておられ、蓮の花びらのような美しい(blooming、咲き誇る花のように美しい)目、孔雀の羽で飾られた頭、青い雲の色(hue、色調)に染まった(tinged、薄く色づいた)美しい体(the figure of beauty)、そして何百万ものキューピッドを魅了する(主の)独特の愛らしさをお持ちです(訳注:原文は長い一文)。」

第4段落
不正な(illicit、恥となるような不誠実さ)性交、あら捜し、不当な(unjustified)暴力などの罪を犯している者は、滅多に自己認識という(of)霊的な知識を得ません(to attain、努力して獲得する、高みに到達する)。

罪深い活動は無知の暗い暗闇(gloom、心の陰鬱さ)を深め、一方で敬虔な活動は超越的な知識の光を人の人生にもたらします。この知識はついにクリシュナの認識となります(to culminate、最高に達する)。しかし、単に敬虔な活動を行うことは、人に神認識の資格を与えません。

人が敬虔な活動をして聖人的な人々と関わるときにのみ、霊的な知識は彼の意識の上に訪れます(to dawn on ~、夜明けが訪れるように何かについて分かり始める)。それから、二重性の水準を超越するとき---特に彼がもはや完全真理の一重的あるいは二重的な(monistic or dualistic、一元論的あるいは二元論的)存在に関する論争(controversy)に加わらないとき---彼は主クリシュナを自分の悟り(enlightenment)において見て、主を唯一無二、比類するものなく至高であるとして、決意をもって崇拝します。

敬虔な活動の完成された段階において、徳の相が意識を支配し、無明の相の産物である無知(nescience)と幻想の闇を消します。熱情の相が完全に抑えられれば(to be subdued、静められる)
直ちに、霊的な認識が人の意識の天空を照らします。

第5段落
この重大時に(at this juncture)考えるべき点は、現在の時代、カリ・ユガにおいて、火の犠牲、慈善における施し、苦行(penances)、あるいは禁欲(austerities)などの敬虔な活動を正しく行う手段を持っている者がいるか、ということです。

カリ・ユガの不運な人々はそのような豪華(訳注:な儀式など)(extravagances、浪費、過度の贅沢)を行う(to undertake、請け負う、企てる)ことが全くできないというのは、共通して(universally、普遍的に)受け入れられています。

この理由により、至高神の最も寛大な(munificent)化身でありカリ・ユガの救世主(savior)である主チャイタンニャは、ブリハン・ナーラディーヤ・プラーナから次のマントラの真実を宣言なさいました(訳注:~が真実であることを、という意味だと思われる)。

(サンスクリット引用)

「このいさかいと偽善(hypocrisy)の時代において、救済(deliverance、魂の救済)のための(of)唯一の方法は、主の聖なる御名を唱えること、主の聖なる御名を唱えること、主の聖なる御名を唱えることです。他の方法はありません。他の方法はありません。他の方法はありません。」

第6段落
カリの時代において、完成を得るための唯一の方法は至高主の聖なる御名を聞き、唱え、覚えている(to remember、思い出す)ことです。(訳注;複数の)聖典からの無数の引用文がこれを確証します(to substantiate)。

すべての不吉さ(inauspiciousness、縁起の悪さ)は、主クリシュナの完全に縁起のよい(all-auspicious)御名を唱えることによって滅ぼされます。シュリマッド・バーガヴァタム(12.12.55)はこれを確認します。

(サンスクリット引用)

「主クリシュナの蓮の御足を覚えていること(remembrance、思い出すこと)は、すべての不吉な(inauspicious)ものを滅ぼし、最大の幸運をもたらします(to award)。それは、自己認識(realization)と放棄によってより豊かにされた(enriched)知識を伴って(along with~)、心を浄化し、至高の魂への献身を授けます。」
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by ammolitering4 | 2014-10-12 04:30 | 「英知による放棄」 | Comments(0)