カテゴリ:「英知による放棄」( 44 )

第4部 第2章最後まで

16段落

そしてギーターのあとのほうで(15.15)、主はこうおっしゃいます。


(サンスクリット引用)


「私はすべての者の心臓の中に座っており、そして私から記憶(remembrance)、知識、そして忘却(forgetfulness)が来ます。すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです。(訳注:By all the Vedas, I am to be known. これは時々引用されますが、ヴェーダを通して知るべきことは私である、ヴェーダが書かれた理由は私を知ることにある、ヴェーダの真髄は私である、などの意味だと思います。)


実に、私はヴェダーンタを編纂した者であり、そして私はヴェーダを知る者です。」


17段落

完璧な知識を持った賢者たち---例えば、自分の物質主義的な知性を浄化して、そしてそのため霊的な知識に位置している者たち---は、主クリシュナをすべてのものの源として理解することができます。


知性(intellect)が浄化され、霊化されていない限り、最も学識のある哲学者や最も偉大な神秘的なヨギーでさえ、主クリシュナを理解しようとして当惑するでしょう(perplexed、混乱する、困る)。主はバガヴァッド・ギーター(7.3)においてこうおっしゃいます。


(サンスクリット引用)


「完成を得た者のうち、ほとんど誰も私を正しく(in truth)知る者はいません。」


18段落

至高主の名前、形、性質、娯楽、仲間たち、そして主に関わる諸々のものは、すべて同じ霊的な性質を持っています。事実、主クリシュナに関わるあらゆるものは、主と異なるものではありません。パドマ・プラーナには、こう述べられています。


(サンスクリット引用)


「クリシュナの聖なる御名は、超越的に喜びに満ちています(transcendentally blissful)。それはすべての霊的な恩恵を授けます。なぜなら、それはクリシュナご自身、すべての喜びの源(reservoir)であるからです。


クリシュナの御名は完全であり、それはすべての超越的な味わい(訳注:mellows、ときどき出てくるこの単語は、本来は「まろやかな」などを意味する形容詞ですが、プラブパーダの独特の言い回しでは「味わい」に準ずるような意味になります。昔のインドで限定的に使われていた表現かもしれません)の形です。


それは決して(under any condition、どのような状況であっても)物質的な名前ではなく、(それは)クリシュナご自身よりも力が弱いものではありません(no less powerful)。クリシュナの御名は物質的な性質によって汚染されていないので、それがマーヤーと関わっているということはありえません(there is no question of ~)


クリシュナの御名は、いつも解放されていて霊的です。それは決して物質自然の法則によって制約されません。これはクリシュナの御名とクリシュナご自身が同一だからです。」


19段落

聖人的な魂だけがこれらの言明の真理を知覚することができます。その知性がマーヤーヴァーダ哲学によって堕落させられている者(to have been corrupted、損なわれる、間違いが多くなる、など)は、理解することができません。


20段落

一般に、一元論者(monists)は非二元論(nondualism)の難解な(intricate)哲学を理解する(to grasp)ことができません。そのためラーダークリシュナン博士は、それによって二元論(dualism)を非二元論(nondualism)において確立しようとする理論を、自分の空想から紡ぎ出しました。


(訳注:そのため~は空想をめぐらせ、非二元論において二元論を確立するための理論を編み出しました。)


ラーダークリシュナン博士が私たちは「クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠のもの」に服従しなければならないと書くとき、彼は、服従について話しているのはクリシュナの中にいる非人格的なブラーマンである、ということを暗示します(to imply)


いったん、非人格的なブラーマンが話すことができるということが確立されれば(Once~)、それなら主(He)は話すための道具、すなわち舌を持っていなければならない、ということになります。こうして私たちは、ラーダークリシュナン博士の非人格主義の概念全体が直ちに根底から揺らぐ(undermined、侵食して土台が削られる)のを見ます(訳注:~が分かります)。


聖典の中には、話すことのできる者は歩くこともできると結論づける十分な証拠があります。そして、話すことと歩くことのできる存在は、実に必ずすべての感覚を授けられています(must indeed be endowed with ~)


それなら、主(He)は食べたり眠ったりなどの他の活動も行うことができるに違いありません。それでは(So)、どうしてラーダークリシュナン博士は、彼の(訳注:述べる)始まりのない、永遠の存在(object)が非人格的であると主張することができるのでしょうか。


第21段落

自著「入門的な随筆」の62ページにおいて、ラーダークリシュナン博士はこう書いています。「私たちから自己がなくなると(When we are emptied of our self (?))(訳注:疑問符は原文のまま)、神が私たちを所有します(God takes possession of us)


この、神が(訳注:私たちを)所有すること(God-possession)の障害は、私たち自身の美徳(virtue、善行)、自尊心(pride、誇り、思いあがり)、知識、私たちのかすかな要求(demand)、そして私たちの無意識な断定(assumptions、証拠もなく決め込む)と偏見(prejudices、先入観)です。」


22段落

彼自身の議論から、私たちは安全に(safely)、ラーダークリシュナン博士は彼の不注意と以前の養育(upbringing、しつけ)から、主クリシュナの体と主の魂の間に違いを見ていると推量する(to surmise)ことができます(訳注:ラーダークリシュナン博士自身の議論から、彼は、その生い立ちと不注意さが原因で、~を見ている、と推量して問題ないでしょう)。


彼はまだ、「自己からなくなる」はずの偽りの自我から自由でないのです(He is still not free from false ego, that is, “emptied of self.”)。したがって、彼の美徳、誇り、知識、かすかな欲求、そして無意識な断定と先入観がすべて、彼が超越的な真理を理解するのを阻んでいるのです。


彼はマーヤーヴァーダの思想の雰囲気(atmosphere、環境)の中で育てられたに違いありません。この理由により、彼は真理を理解することができませんでした。


23段落

マーヤーヴァーダ哲学の創始者(founder)であり宣伝者(propagator)であるシュリーラ・シャンカラーチャーリャは、物質の世界は幻想---ミテャー---であると証明し、そしてそのため、彼は熱心に(diligently)禁欲(austerity)と放棄(renunciation)の道を探求し、そして彼はそれを自分の教えの中で強調しました。


彼は、この幻想の物質世界を支配しようとして(to lord it over、偉そうに振舞う)貴重な時間を無駄にすることはしませんでした。しかし、もしも彼が自分が提議した(to propound)哲学の現在の状態を見たら、(彼は)恥ずかしく思ったことでしょう。


私たちは、ラーダークリシュナン博士が彼に影響されたことを疑いません。これは彼の著述から明らかです。それでも、自著「入門的な随筆」の25ページで、彼はこう書きます。「ギーターの重点は、ご自分の自然(Nature、プラクリティ)によって、知覚できる世界を創造なさる、人格的な神としての至高存在にあります。


主はすべての存在の心臓の中に住まわれます。主は享楽者であり、犠牲の主です。主は私たちの心を献身にかき立て(to stir ~ to devotion強い刺激を与えてその気持をあおる)、私たちの願いを叶えられます(to grant prayer)


主は価値の源であり、維持する者(retainer)です。主は崇拝と祈りにおいて私たちと個人的な関係に入られます。」


24段落

これを書いて、このようにギーターの本当の意味(purport)を受け入れたあとで、どうして後からラーダークリシュナン博士は、主クリシュナの体と魂が異なっていると述べることができるのでしょうか?そのような考えは、彼の物質主義的な教育の結果に違いありません。


完全真理、非二元論的な(nondual)至高存在が推定では(supposedly、~と思われる)ご自分の内的な存在から離れているとは、何と奇妙な一元論を彼は提議するのでしょうか!(訳注:二元論的ではない完全真理、至高存在がご自分の内的な存在とは別個であるとするとは、~!)


ラーダークリシュナン博士は、自分の哲学におけるこれらの明白な欠陥(flaws)を説明することができるでしょうか?至高主ご自身が全知の(omniscient)超魂として皆の心臓の中にいらっしゃるとき(訳注:when、~なら)、それなら他の誰が主の(訳注:斜線で強調)心臓の中に座ることができるでしょうか?


ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分の超越的な性質について語られ、自分の物質的な学識で武装したラーダークリシュナン博士が否定するための(to contradict、否認、逆らう、矛盾する)程度の低い試みをしただけだ(buta feeble)ということを述べられます(making statement)


(訳注:ギーターにおいて主が~と語られたことからも、ラーダークリシュナン博士が自分の学識を頼りに下手にあがいて(ギーターの意味を)否定しようとしただけということが分かります。)


そのような愚かさを通してラーダークリシュナン博士は教育を広める振りをしましたが(to make a show of)、事実は、彼は真実ではないこと(untruth)を教えたのです(to preach、布教)


25段落

ブラーマン、パラマートマー(超魂)、そしてバーガヴァーン(至高の人格神)---3つすべてが、同じ、非二元論的な至高の完全存在です。ラーダークリシュナン博士がこの主題を知らないと言うのは馬鹿げています(ridiculous)が、それでも私たちは、至高主が化身なさるとき主はマーヤーの影響(sway)の下にくる、という彼の主張の中に論理を見出しかねます。


主は疑いの余地なく(unequivocally)、ギーターにおいて、(ご自分が)顕現するとき、(主は)ご自分のもともとの超越的な形においてそうする、と述べられます。したがって、主と主の体の間には違いはありえないのです。主はさらに、ご自分の姿(appearance)、活動などはすべて超越的であり、物質の領域(realm)を超えている、と述べられます。


主は永遠であり、至高に純粋であり、もともとの至高の人格であり、至高のブラーマンです。私たちは皆、ジーヴァはマーヤーによって覆われていると同意しますが、もしも至高のブラーマン、すなわちパラブラーマンもまたマーヤーによって覆われているのであれば、それならマーヤーはパラブラーマンよりも優れているのでしょうか?


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by ammolitering4 | 2016-03-17 09:14 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4部 第2章途中まで

第2章 超越的な献身奉仕は主の本当の姿を明らかにする


第1段落

私たちはシュリマッド・バーガヴァタムから、生命体が霊的な実践から堕落するようにさせるマーヤーが原因で、一部の(certain)不快な(obnoxious)無神論者たちは、主を一般大衆(generalpopulace)から隠し続けておくために、至高主のまわりに哲学的な専門用語(jargon、普通の人には分からないような難しい用語)の煙幕を作ろうとして大変な努力をする、ということを知ります(tolearn)


(訳注:「無神論者の中には、生命体を霊的な道から堕落させるマーヤーに惑わされて、無駄に難しい言葉を多用して庶民を煙にまき、わざわざ主を理解できないようにしようとする鼻持ちならない者たちがいる」とSBに書いてあります。)


この努力の結果もまた、バーガヴァタム(12.3.43)に描写されています。


(サンスクリット引用)


「おお、主よ!カリの時代において(in→In)、人々の知性は無神論によって(訳注:霊的な道から)逸らされるでしょう(tobe diverted)。そして彼らは、宇宙の至高の霊的指導者である至高の人格神に、ほとんど全く犠牲を捧げないでしょう。


三つの世界を統御する偉大な名士たちが皆、至高主の蓮の御足にひれ伏すにも関わらず、この時代の取るに足らない(petty、劣った)、惨めな人類はそうしないでしょう。」


第2段落

民衆(thepublic)を惑わすことを目的としたそのような哲学的な専門用語の良い例が、ラーダークリシュナン博士が「アーヌクーリャシャ・サンカルパー」を、正しい意味である「至高主に服従する」の代わりに「すべてのものへの好意」と訳したことです。


そのような解釈(interpretation説明、通訳)は、私たちが俗的な学者から期待することのできるものです(訳注:俗的な学者のすることです)。


第3段落

献身奉仕における最初の言葉は服従です(訳注:何よりも大事なこと、という意味)。服従の唯一の意味は、人が神の従者であると受け入れることです。ラーダークリシュナン博士のような偉大な学者や哲学者でさえ、(彼らが)服従の過程に従う(toyield to ~、身をゆだねる、この場合は「始める」という意味)前に、たくさんの(heapsof、山ほどの)禁欲(austerities、修行)や苦行(penances)を行わなければなりません。


これがバガヴァッド・ギーターの結論です。ラーダークリシュナン博士の、服従の6つの根幹(limbs、手足にあたるもの、主題)の説明は表面的(superficial)です。もともとはヴァイシュナヴァの文書(text)において定義された、服従のこれらの6つの根幹(limbs)は、主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナに関わっています(topertain to ~)


アヌクーリャは「主クリシュナへの愛情ある奉仕」を意味します。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーは、(サンスクリット引用)と述べます。「人は好意的に(favorably)主クリシュナに超越的な愛情ある奉仕をすべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」


第4段落

世界のすべての人は、何らかの形で(inone way oranother)主クリシュナに奉仕をしています。ある者たちは好意的にそれをしており、そして他の者たちは相反して(antagonistically、矛盾して、この場合は「非好意的に、悪意を持って」)そうしています。


悪意を持って(unfavorably)奉仕をしている者は有害な(inimical、敵意のある)無神論者、愚かな非献身者です。一方、喜んでそれをする者は、本当に知性的です。言い換えると、クリシュナの献身者は非常に知性的であり、一方で俗的な学者たちはカムサやジャラーサンダーを筆頭とした(ledby、~に率いられる)非献身者の無神論者と同じ区分の内にあります。


第5段落

バガヴァッド・ギーターにおける主要な教えは、完全に主クリシュナの庇護の下に入ることです。それなのに、主クリシュナご自身の蓮の唇から発せられたこの極めて重要な(cardinal、基本的な、主要な)結論は、ラーダークリシュナン博士が人は人格としてのクリシュナではなく「クリシュナを通して語る、生まれず、始まりがなく、永遠の存在」に服従すべきであると書くとき、彼によってさかさまにされています(tobe reversed、この場合は「完全に否定されている」という意味)


自分の博識(erudition)を仰々しく(ostentatiously、これ見よがしに)ひけらかす(todislay)ために、ギーターを議論のためだけに取り上げ(totakeup)、そしてそのため愚かにも、バガヴァッド・ギーターの話者である主クリシュナが、単なる、死を運命づけられた存在であると結論するほどまでに文章を誤解するというのは、徒労(anexercise in futility、無駄に終わることが決まりきっている行為)です。


神は存在しないと宣言する(topronounce)ため、という、ヴェーダの知識のこの使い方は、悪意をもってクリシュナに奉仕することの明らかな例です。


第6段落

ヴェーダの名において無神論を広めるラーダークリシュナン博士のような学者を、主クリシュナはどのように描写なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーター(7.15)において、私たちはこの言明を見出します(訳注:~には~と書かれています)。


(サンスクリット引用)


「全く愚かであり、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれていて、そして悪魔の無神論的な性質を持つ(topartake)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」


第7段落

カムサやジャラーサンダーのような主の敵たちは、いつもクリシュナのことを瞑想しますが、悪意を持ってです。これらの悪魔たちに似ているのが、いつもバガヴァッド・ギーターの本当の教えに挑戦し、それを誤って解釈する無神論的な学者たちです。


彼らは主について考えますが、(彼らは)敵意(enmity)を持ってそうします。なぜなら、彼らの知性はマーヤーによって覆われてしまっているからです。カムサとジャラーサンダーもまた、博識な(erudite)学者でしたが、敵意においてクリシュナに執着していた(obsessed)ので、彼らは悪魔でした。


第8段落

主チャイタンニャの教えと模範的な行動から、私たちは、バガヴァッド・ギーターの教えに好意的に従うのが私たちの義務であると理解します。主チャイタンニャの南インドの旅の間に、主がシュリー・ランガナーター寺院の構内(premises、建物あるいは敷地の中)に入ったとき、主は、バガヴァッド・ギーターを読むことに没頭していた(tobeengrossed)1人の単純な(simple、純真、お人好し、愚か、身分の低い、などの意味がある。この場合は「朴訥」か?)ブラーマナに出会いました。


主は、そのブラーマナがいかに注意深く(attentively)読んでいるか、そしていかに涙が彼の頬を伝って流れているかを見て、大変喜ばれました(overjoyed)。近くに座っていた他のブラーマナたちは、彼が文盲であることを知っていたので、いったいどうして彼がギーターを読むことができるのかと不思議に思いました。


第9段落

主チャイタンニャは、この問題を簡単に解決なさいました。主は、(もしも彼が)完全に服従した魂であるなら、教育のない人でさえ超越的な言葉を理解することができる、とおっしゃいました。しかし、服従の気持ち(mood)がなければ、バガヴァッド・ギーターは理解できないままです(toremain incomprehensible)


第10段落

ブラーマナが泣いているのをご覧になったとき、主チャイタンニャは彼に、ギーターのどの部分に泣くほど感動したのかとお尋ねになりました。正しいヴァイシュナヴァの謙遜をもって、ブラーマナは答えました。


「私は単にギーターを読む振りをしているだけです。本当は私は文盲です。しかし、私のグルは、(私が)文字が読めなくても(unlettered)バガヴァッド・ギーターを定期的に読むようにと、(私に)お教えになりました。


(私の)グルに背き(todisobey)たくないので、私は自分の義務を遂行しようとします。そしてそのため、私はギーターを読んでいる振りをするのです。」


第11段落

主はそれから彼に、なぜ泣いていたのかとお尋ねになりました。ブラーマナは答えました。「私がギーターを読むために座るといつでも、パールター・サーラティー(アルジュナの戦車の運転手)としての主クリシュナの姿が私の心に現れます。


そしてこの姿を見たらすぐに、私は直ちに、いかに主がバークタ・ヴァツァラ(主の献身者に特に親切である)であるかを思い出します。この考えが私を泣かせます。」


第12段落

マーヤーヴァーディーはいつでも、非二元論的な(nondual)至高のブラーマンと同化して神になることに大変熱心です。しかし、彼らの小さな脳は、どうやって(how)至高の人格神がご自分の献身者の運転手(charioteer、戦車の運転手)になって彼の命令を実行するのかを理解することができません。


本当は、至高主とジーヴァは永遠に関係があり(related)、そしてこの関係のため、多くの素晴らしいことが可能です。しかしマーヤーヴァーディーはこの真実を理解することができず、彼らに理解させようと試みた多くの人々が惨めに失敗しました。


シュルティ(シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッド6.23)において、私たちはこの言明を見出します(~と書いてあります)。


(サンスクリット引用)


主と霊的指導者の両方に絶対的な(implicit、盲目的な)信頼(faith)を持つ偉大な魂だけに、ヴェーダの知識のすべての意味(imports、重要性)が自動的に明かされます。


13段落

ギーターを読んでいたときの南インドのブラーマナの献身を見て(uponseeing ~ as he read theGita)、主チャイタンニャは彼を抱擁し、それから彼に、彼はギーターを読むことを完成したとおっしゃいました。


主チャイタンニャの認定が何百万もの大学の博士号(doctorates)よりも遥かに優れていることを、どの愚か者が否定するでしょうか?(訳注:~であることを誰が否定するでしょうか?いくらなんでもそんな馬鹿なことは言う者はいません)。


主からのこの賞賛(accolade)は、バガヴァッド・ギーターは物質的な知性によって研究され得ない、ということを証明します。ギーターの知識は、師弟継承において伝わっている、アーチャーリャ、すなわち霊的指導者の鎖(chain)を通して受け取られなければなりません。


これが唯一の方法です。そうでなければ、ギーターを学ぶことは徒労に終わります(anexercise infutility)。聖典の結論は、至高主は超越的であるので主の言葉もまた超越的であり、そしてそのため、バガヴァッド・ギーターの深遠な(esoteric)主題は、等しく超越的である師弟継承を通してのみ受け取られ得る、というものです。パドマ・プラーナには次のように述べられています。


(サンスクリット引用)


「誰も自分の物質的に汚染された感覚を通してシュリー・クリシュナの名前、形、性質、そして娯楽の超越的な性質を理解することはできません。主への超越的な奉仕によって人が霊的に位置するようになるときだけ(訳注:~になって初めて)、主の超越的な名前、形、性質、そして娯楽が彼に明かされます。これはバガヴァッド・ギーター(5.38)において確認されています。


(サンスクリット引用)


「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であられ、計り知れない(inconceivable)無数の特質(attribute)をお持ちであり、純粋な献身者は彼らの心の中に愛の軟膏(salve)が薄く塗られた(tinge)献身の目で主を見ます。」


(訳注:軟膏うんぬんというのはときどき使われる表現で、ちょっと違いますが「色眼鏡」、または「媚薬」に当たるかと思います。これが塗られると心がその色や気持ちに染まる、というような意味で、物質としての軟膏とは関係ありません。)


14段落

したがって、聖典の結論は、ラーダークリシュナン博士のような俗的な哲学者は霊的な主題を探求する(todelveinto~)資格がない、というものです。主の献身者だけが、主クリシュナを理解する資格があります。他の誰にも(その)資格はありません。バガヴァッド・ギーター(18.55)において、クリシュナご自身が次のように述べておられます。


(サンスクリット引用)


「人は、献身奉仕によってのみ、私をありのままに、至高の人格神として理解することができます。」


15段落

ラーダークリシュナン博士のような学者は、主クリシュナの内には主クリシュナだけがある(onlyLord Krishna and nothingelse)ということを理解すべきです。主クリシュナの体と魂は同じです。ギーターの結論は、非二元論的な(nondual)真実はクリシュナ、完全至高存在である、というものです。


しかしラーダークリシュナン博士は、どういうわけかクリシュナの中にもう一つの、第二の存在を見つけました。それでは、この発見はラーダークリシュナン博士を二元論(dualism)の信者に変えます(toconvert)


すべてのジーヴァの心臓の中に住む完全真理の顕現は、主クリシュナによってバガヴァッド・ギーターの中に明瞭に(lucidly)描写されています。バガヴァッド・ギーター(10.8)において、主クリシュナは、すべてのジーヴァの心臓の中に住んでいる存在が誰であるかを説明なさいます。


(サンスクリット引用)


「私はすべての霊的および物質的な世界(worlds)の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心のすべてをもって(withall their hearts、心から)私を崇拝します。



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by ammolitering4 | 2016-03-07 06:54 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第1章終わりまで

第10段落

この物質世界に降臨し、それによって影響されないままでいて、それから離れているのは、至高主の特別な特権(prerogative)です。そして、主のように、主の純粋な献身者たちもまた、現象の(phenomenal)世界の華々しさ(glare、まぶしい光)によって惹きつけられないままで留まります(訳注:~に惑わされないでいることができます)。


至高主が永遠で、解放されていて、そして純粋であるように、主の献身者もまた、どのような状況にあっても同様です。これは単純な例を通して簡単に理解され得ます。技術的な発達は、自然が既に提供する(~has to offer、これは「~のすべて」を意味する熟語であり、義務などを表すhas to の意味はない)魅力的なもののすべて(attractions)に映画などを加えました。


(訳注:自然は既に様々な素晴らしいものを与えてくれていますが、技術的な発達によって、それに映画などの新しい魅力が加わりました。)


そしてそれでも不思議なことに、今日に至るまで、これらの幻想的な誘惑(enticements)は本当の聖人や隠遁者(hermits、仙人)を魅了し損ねています。そして、私たちは一部のいわゆる現代の聖人たちや托鉢僧たち(mendicants)が大麻(cannabis)や煙草に中毒しているのを見るにも関わらず(訳注:~が見受けられますが)、彼らでさえ多くの他の現代の感覚的な、気を散らすようなもの(distraction)を跳ねつけています(tobe repulsed、拒絶、退ける)


もしも幻想的な物質世界が主の献身者にほとんど何の(little or no)魅力もないなら、主ご自身はさらにどれほど少なくそれに魅了されておいででしょうか!したがって、無明のせいで人は単なる死を運命づけられた者(mere mortals)が神であると主張するかもしれませんが、それは現実を変えません---人はいつも人であり、神はいつも神であり、決してそうではないということはない(never otherwise)という現実を。


第11段落

かつて、私たちのアーシュラマのブラーマチャーリーの1人が、一種の霊性主義者(a spiritualist of sorts)であり博学な(erudite)学者であるサルヴァパリ・ラーダークリシュナン博士に会いました。ラーダークリシュナン博士は、私がこの随筆を書いている現在、インドの副大統領です。


彼に会ったとき、私たちのブラーマチャーリーは彼から贈り物としてバガヴァッド・ギーターを一冊受け取りました。ラーダークリシュナン博士はこのギーターを英語に翻訳し、それに解説を書いており、そしてそれは当時(1954年)、市場で10ルピーでよく売れました。


第12段落

そのブラーマチャーリーはその本を読み、その本自体は大変深遠であった(deeply esoteric)のですが、やや不満に感じて私たちのところに来ました。彼の不満の理由は、ラーダークリシュナン博士の文章が霊的な洞察(insight)に欠けていたということでした。


多くの箇所で、彼は文(text)を誤って扱ったり(to mishandle)、誤って解釈したり(to misinterprete)していました。そしてそのため、彼は自分の本を、純粋な献身を受け継ぐ(in the line of pure devotion)霊性主義者たちにとって受け入れられないものにしていました。


これは、「主によって、もっとも偉大な賢人たちや半神たちでさえ幻想の中に入れられます」(ムヒャンティ・ヤット・スーラヤー)というシュリマッド・バーガヴァタムの言明(1.1.1)の完璧な例です。主がいかにも簡単に主ブラーマー、主シヴァ、主インドラ、そして他の偉大な宇宙の統御者たちを惑わすとき、ラーダークリシュナン博士が幻想に入れられる(訳注:惑わされる)のは全く驚くべきことではありません。


第13段落

そのブラーマチャーリーは、彼の本の254ページに現れる、第9章第34文節(Text 34)の、ラーダークリシュナン博士の誤解釈によって特に衝撃を受け、傷つきました。彼は非常に陰鬱として、この一文(passage)を論じたいと思って私たちのところに来ました。


その本には、次のような言葉が書いてありました。「私たちが自分自身を完全に捧げるべきは(to whom we have to give ourselves up utterly)人格的な(personal)クリシュナではなく、クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠の神です(the Unborn, Beginningless, Eternal)。」


14段落

私たちは、ラーダークリシュナン博士のような世界的に有名な哲学者に議論を突きつける(to confront ~ with arguments)気は毛頭ありませんが、それでも、ブラーマチャーリーが再三頼むので、私たちは文を詳しく調べて(to scrutinize)矛盾(discrepancies)を指摘しなければなりません。


私たちは、ラーダークリシュナン博士に大いなる敬意を持っています。彼が私たちの国の副大統領であるからだけではなく、彼の学識と、ヒンズー教の哲学の博学な(erudite)師匠(master、指導者、熟練者)としての彼の立場のためでもあります。


さらに、彼は自分の出自(to hail from、出身)であるブラーマンの(brahminical)伝統に忠実で、マーヤーヴァーダの学派の学徒(follower)です。愚かな友よりも学識のある敵を持つほうが良いという、

たびたび引き合いに出される言葉(oft-quoted dictum)に照らすと(going by、基づく)、私はこの事柄に関して勇気づけられます。


知性的な敵(opponent、対抗者)は合理的な(reasonable、筋の通った)反証(rebuttals)を挙げますが、無知な友は彼のもがき(floundering、不器用にもがき苦しむ様子)をもって大きな災難(disaster)をもたらすかもしれません(訳注:訳の分からないことを言ってひどい結果をもたらすかもしれない)。


したがって、私たちはラーダークリシュナン博士がバガヴァッド・ギーターの解説において論じる事柄(to make points)に対して強く反論することに関して何の呵責(compunction、良心の咎め)も感じません。


15段落

有名なベンガル地方の諺があります。「ラーマーヤナ全体を読んだあとで、あなたはシーターは誰の父かと尋ねるのか?」この問いは馬鹿げています(ludicrous)。なぜならシーターは主ラーマの妻であり、そしてそのため、そのような問い(query)は当然、皮肉(quips)と笑いを招きます(訳注:顰蹙を買う、嘲笑される)。


私たちは、ラーダークリシュナン博士のギーターの英語の解説において同じ不条理さ(absurdity、馬鹿馬鹿しさ)を見出します(訳注:~が見受けられます)。彼は、私たちは人格としてのクリシュナ(the person Krishna)ではなく、クリシュナの中の「生まれず、始まりがなく、永遠であるもの」に服従しなければならない、と書きます。


これは、主クリシュナと主の「内的な自己」が二つの異なる自己(identities)であることを暗示します(to imply)。ラーダークリシュナン博士によれば、クリシュナの体と主の魂の間には違いがあるので、私たちはクリシュナの体ではなく魂に服従しなければなりません。


宗教的な哲学の分野におけるこの新しい発見は、上で参照したラーマーヤナの「パンディタ」を私たちに思い起こさせます(訳注:彷彿とさせます)。バガヴァッド・ギーターを語ることにおける主シュリー・クリシュナの唯一の目的は、主の蓮の御足に服従することを私たちに納得させることです。


しかし、そもそもの最初から(right at the outset)、ラーダークリシュナン博士はこの点を受け入れる意思がありません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(18.66)において中心的な教えを与えられます。


(サンスクリット引用)


「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」


16段落

主クリシュナは、アルジュナが主に服従するようにするために、これらの言葉を彼に語られました。このギーターの文におけるサラナムというサンスクリットの言葉は、「服従する(to surrender)」を意味します。彼の「入門的な随筆」の62ページで、ラーダークリシュナン博士は服従に関する考え方もやや詳しく論じました。彼は次のように書きます。


「プラパッティ(服従)の内訳は、以下のようなものです(to have the following accessories)。(訳注:サンスクリットは省略しました。)


1.(校正:(i)が抜けている)すべてのものへの愛情(goodwill to all)

2.悪意がないこと(absence of ill will)

3.主が守ってくださるという信頼(faith that the Lord will protect)

4.救い主(savior)としての主に拠り頼むこと(resort to Him as savior)

5.完全な無力感(absence of utter helplessness、非力)

6.完全な服従(complete surrender)


17段落

これらの服従の6つの根幹(limbs、手足)は、クリシュナ、すなわちヴィシュヌに関連して従われるべきです。なぜなら、服従の過程に関するこれらの教えは、ヴァイシュナヴァの聖典の中に見られるからです(to appear in ~)


ラーダークリシュナン博士は、最初の教え(limb)(サンスクリット省略)を「すべてのものへの愛情」と訳しました。問い:すべての者に服従することは可能ですか?服従は、至高主のみに向けられるべきです。ラーダークリシュナン博士の提案は非現実的(impractical)であり、実際、不可能です。


ラーダークリシュナン博士がこの(his)解説を書くずっと前に、有名なヴリンダーヴァンのゴスヴァーミーたちを含む、自己を認識した多くの霊的な先人たち(preceptors)が、「アーヌクーリャシャ・サンカルパーという言葉は、人は至高主クリシュナに好意的に(favorably)奉仕をすべきである、ということを意味する」(訳注:括弧は訳者)と説明しました。


他のすべての霊的な権威者を無視して(to disregard)ラーダークリシュナン博士の見解(version)を受け入れようという本物の学者はいません(訳注:まっとうな学者であれば~はしない)。


18段落

ラーダークリシュナン博士が「主への信頼(faith)」という言葉を使うとき、彼は確かに至高の人格神を指しています。どのような論理によって、彼は「主」が非人格的なブラーマンだけを意味するというのでしょうか(By what logic does he say “Lord” but mean the impersonal Brahman? この場合のbutは「ほんの~だけ」という意味)


アルジュナは、(サンスクリット引用)(BG 2.7)「今、私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうか私を導いてください(to instruct)」と言うとき、確かに人格としての(person)クリシュナを意味します。これらの言葉をもって、彼はバガヴァッド・ギーターの初めにクリシュナを呼びます。


ギーターのこの段階において、非人格的なブラーマンはまだ論じられていません。非人格的なブラーマンという主題がとうとう提示されたとき、主クリシュナは明確に(unequivocally、疑いの余地なく)ご自分が非人格的なブラーマンの源であると宣言なさいます。


堅固たる論理は、人は非人格的なものや形のないものに服従することはできないと言います(訳注:~というのは論理的に確かなことです)。非人格的なブラーマンに過度に執着している者は、この形のない概念に服従することを非常に辛く(painful)、そして実に、不可能であると感じ、そしてもしも彼らがこの道に沿って歩み続けるなら(to persist along this path)、彼らは自分の妻、家族、そして親戚に服従する結果になるでしょう。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


どうも毎度お待たせいたしまして、、、ようやく第1章が終わりました。でもまだまだ手元には何十ページもある。。。まあそのうちにぼちぼちと続きをお届けいたします。皆様、どうか見捨てずに辛抱強くお待ちくださいませ。それにしても、今年もまた何かと荒れそうな気配が、のんびり漂ってるどころか充満して渦巻いて吹き荒れてますね。どうなりますやら分かりませんが、お手元の傘なりランプなりは手放さず、精神的な保身を第一にお過ごしくださいませ。ごきげんよう。


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by ammolitering4 | 2016-02-14 08:05 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4部 第1章途中まで

4部 ムニ・ガネラ・マティブラム - 幻惑された思考者たち(thinker、思想家、思索家)


1章 基盤となる(fundamental)問いが博学な(erudite)学者を避ける(to evade、よける、当然すべきことを回避する)(訳注:この場合、「博学な学者が最も基本的なところを見落とす」という意味。)


1段落

シュリマッド・バーガヴァタムの第1巻(canto)の、最初の章の一番初めの節において、最高の真理がこれらの言葉によって提示されました(to propound)


(サンスクリット引用)


「私は主シュリー・クリシュナを瞑想します。なぜなら主は完全真理であり、顕現した宇宙の創造、維持(sustenance)、そして破壊のすべての原因の根源的な(primeval)原因であられるからです。主はすべての顕現を直接的に、そして間接的に意識しておられ、そして、主を超える(beyond)他のどんな原因もないので、主は独立しておられます。


もともとの生命体であるブラーマージの心(heart)にヴェーダの知識を最初に授けた(to impart)のは主だけです。ちょうど、人が火の中に見える水、あるいは水の上に見える土地の幻想的な投影(illusory representation)によって惑わされるように、主によって、偉大な聖人たちと半神たちでさえ幻想の中に入れられます(to be placed into~、惑わされる)


主によってのみ(only because ofHim)、自然の3つの相の反応によって一時的に顕現している物質宇宙は、非現実(unreal)であるにも関わらず、本当(factual)であるように見えます。したがって私は、物質世界の幻想的な顕れ(representations)から永遠に自由である超越的なお住まいに永遠に存在しておられる神(Him)、主シュリー・クリシュナを瞑想します。主は完全真理であられるので、私は主を瞑想します。


2段落

完全真理を定義し(to define)、ヴェーダ、プラーナ、そして膨大なその他の関連する(corollary、系、ある命題から当然引き出される結論、この場合は上記の二つに基づいた関連文献)文献において、それについてさらに詳しく述べた(toexpand upon~)あとで、シュリーラ・ヴャーサデヴァはそれでも不満(disconteted)に感じました。


彼の霊的指導者、デヴァルシ・ナーラダは、自分の弟子が非常に打ちひしがれている(dejected、落胆、しょげる)のを見て、彼に内側へ、深い瞑想に入る(to go)ように勧めました(to inspire、鼓舞、激励)


その状態において、彼は何らの幻想にも惑わされない(free from the slightest illusion)最高の完全真理を知覚しました。上に引用した節は、シュリーラ・ヴャーサデヴァの霊的な知覚を反映しています。ナーラダは自分の弟子に、至高主の超越的な名前、形、性質(qualities)、娯楽、主に関わるもの(paraphernalia)、そして仲間たちの性質(nature)を明かすように教えました。


シュリーラ・ヴャーサデヴァの努力の結果は、完璧な(spotless)プラーナ、シュリマッド・バーガヴァタムです。


3段落

シュリーラ・ヴャーサデヴァはバダリカーシュラマに行き、近くのサムヤープラーサというところでサマーディーに入り、至高の人格神を見ました。彼はまた、制約された魂を幻惑する、主の神聖なる力、マーヤーも見ました。この、真理を認識した(realized)意識において、シュリーラ・ヴャーサデヴァは完全真理、至高の人格神を、完全に独立しており超越的である、と描写しました。


これは、主に優るものはなく、主に等しいものもない、ということを暗示します(toimply)。物質的な世界においては、主ブラーマーは生命体の中で最も高い人格(personality、名士)として受け入れられています。


しかし、ここでアーディ・カヴィ、もともとの知性的な存在として描写されている主ブラーマーでさえ、完全に独立した至高主に従属しています(subservient)。実に、最初に主ブラーマーにヴェーダの知識を授けた(toimpart)のは至高主でした。


4段落

普通の、死を運命づけられた存在(ordinary mortals)については、何をか言わんや?偉大な賢人たちや強力な半神たちでさえ、至高主を知ろうとする努力において完全に惑わされるのです(訳注:原文は長い一文。whatto speak of ~, (when) even ~)


ディーマヒ、「私は~を瞑想する(Imeditate upon~)」という言葉の解説(purport)は、ガーヤトリー・マントラを唱えることを完成した者だけが至高に独立した主を理解することができる、というものです。ガーヤトリー・マントラを唱える資格があるのは誰でしょうか?


無明と熱情の相によって支配されている者は決してガーヤトリー・マントラを唱えることはできず、それを唱えることを完成する(attaining perfection in chanting it、この場合はおそらく「完璧に唱えられるようになる」という意味と思われます)ことは何をか言わんや?


ブラーマーの性質を持ち、徳の相に位置する者だけが、ガーヤトリー・マントラを唱える資格があります。徐々に、常に唱えることによって、彼らはパラブラーマン(至高のブラーマン)、すなわち完全真理を理解できるようになります(to come to realize)


そうしてはじめて、彼らは至高の人格神、そして(along with ~)主の超越的な名前、形、性質、娯楽と、主に関わる諸々のもの、さらに(aswell as)ヴァイクンターの惑星(訳注:複数)、そしてヴァイクンターの惑星(訳注:複数)の主、ナーラーヤナを知覚することができます。


そして、人が主への超越的な奉仕に正しく携わることを好むようになり(to develop a taste for ~)、献身の至高の味わい(mellows)をはっきりと理解する(torealize)とき、人は主ヴァスデヴァ、クリシュナを見ることができます。


5段落

知識の上昇的な(ascending)過程(訳注:経験による学習から真理を求める)を通して至高存在に至ろうとする俗的な哲学者たちは、決して目的を達成することができません。当然(naturally)彼らを困惑させる、そのような試みの唯一の結果は、人は神であり、その逆もまたしかり、という彼らの誤解を確固たるものにし(they become rooted in the misunderstanding that~)、そうして彼らは地獄に落ちることになります(clearing their way to hell)


彼らのうちのごく少数の者たち(a few)は、一瞬、超越性を見ることがあるかもしれませんが(mayhave a moment's glimpse oftranscendence)、すべてを逆に結論づけることになります。彼らは誤った(erroneous)非人格的な原則の餌食になります。


6段落

完全存在のこの非人格的な概念(conception)の誤りを明らかにするために(to refute、論破)、シュリマッド・バーガヴァタムからの、先ほど引用した節は、明確に(unequivocally、疑いの余地なく)、完全真理は人格(a person)であると述べます。


この超越的な名士(personality、人格)は非常に強力なので、主は主ブラーマーにさえヴェーダの知識を授けることがおできになり(could)、主ブラーマーはそれから物質宇宙の創造を始められました(went on to create)


主ブラーマーは創造の後にこの非凡なヴェーダの知識を受け取ったのではなく、創造の働きを始める前に受け取られました。俗的な自然が存在するようになる(comeinto being)前に存在した知識は超越的であり、サムヴィットとして知られます。


ヴィシュヌ・プラーナは、サンディーニー、サムヴィット、そしてフラーディニー、すなわち存在、知識、および喜びという主の力(the Lord's potencies of existence, knowledge, and pleasure)、という主題に分かれています(to delve into~)


全部合わせて、これらは主の内的な力、すなわち霊的な力として知られます。シュリマッド・バーガヴァタムもまた、主の内的な力という主題を論じます。この優性なる力は3つの物質的な相によって特徴づけられる(to be qualified)主の劣性な、外的な力と相当に(quite)異なります。


主の優性な、霊的な力の一つの例は、ジーヴァです。ジーヴァは主の内的な力の産物であり、主の外的な力のそれではない、と理解することのできる者は、直ちにこれらの二つの力の間の違いを理解する(to grasp)ことができます。


7段落

幻想(delusion)は現実の歪んだ映像(image)であり、主の外的なエネルギー、マーヤーの証明(hallmark、太鼓判)です。この幻想は、主の内的な、霊的な力の中には完全に不在です。ジーヴァは主の優性な、超越的なエネルギーの産物ですが、彼(ジーヴァ)は自分の体を自分自身であると見なす(to identify ~ as ~)ように幻惑されます(to become deluded into ~)


いったんこの無明が消えると、彼らは直ちに体の実際の性質を理解することができます。幻想(illusion)は俗的な領域(plane)においては可能ですが、霊的なエネルギーにおいては決して可能ではありません。


8段落

物質的な自然において可視的な多様性は、主の霊的なエネルギーの影響によるものです。言い換えると、物質自然は霊的なエネルギーの歪んだ反映に他なりません(~is but ~)。例えば、太陽光はいつも存在していますが(ever existing)、太陽光が水に反射されると、創造、維持、そして破壊という循環を受け入れなくてはならない、新しい光の源が生じます(there comes into being a new source of light)


もともとの太陽は、もちろん、そのような変化によって縛られません。物質的な自然は幻想(illusory)です。時としてそれはあり、別のときにはありません。この幻想的で一時的な「あったりなかったりする」という存在が完全に取り除かれ、代わりに主の名前、形、性質、仲間、関連するもの、そして住みかが顕現するとき、人は、ここでニラスタクハカム、「物質的な世界の幻想的な顕れ(representation)から永遠に自由である」として(校正:has→ as)描写される、サテャムパラム、完全真理の水準(platform)にあります。


第9段落

ジーヴァは、主の周辺的な力と呼ばれてきています(has been referred to as)。ジーヴァは予測がつきません(unpredictable)。時として彼は物質的なエネルギーの統御の下にあり、そして別のときには霊的なエネルギーの庇護の下にあります。


しかし、至高の絶対に誤りのない(infallible)主は、ご自分のエネルギーのいずれの影響(sway、統治、揺れ動くこと)の下にも来られません。主は永遠に完全な独裁者(autocrat)、すべてのエネルギーの主人、至高の人格神、ヴァースデヴァであり続けられます。


すべてのエネルギーは主から放射し、そしてそのため主は至高のエネルギー的な原則でいらっしゃいます。スヴァ・ラート(「独立した」)とパラム(「至高の」)という二つの単語が、ある生命体(an entity)を描写するのに用いられるとき、そのとき彼(He)は必ず(must be)至高の人格神、すべての原因の永遠の原因です。


至高主が決してマーヤーの影響の下に来られないということは、シュリマッド・バーガヴァタムの他のところ(1.11.38)においても確認されています。


(サンスクリット引用)


「これは至高の人格神の神性(divinity)です。主は物質自然に触れられるにも関わらず、その性質によって影響されません。同様に、主の庇護の下に入った献身者も、物質的な性質によって影響されるようにはなりません(to become influenced)。」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


。。。忘れた頃にやってくる災害のような頻度となっていて、まことに申し訳ございません。第1章の残り半分もできているので、近いうちに清書してお届けしようと思います。少数ながら熱心に読んでくださる皆様、いつもどうもありがとうございます。実は最近は私の年代者のコンピューターの調子があんまりよろしくなく、仕事に差し支えが出始めているのです。直りますように、というお祈りのほど、どうぞよろしくご協力くださいませ。


私は最近もまだ絵を描いていて、これは技術の上手下手に関わらず、ようやく絵が自分の道具と感じられるようになった感覚があって嬉しいです。せっかくですので無理矢理見せびらかすことにしましょう。

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by ammolitering4 | 2016-02-10 10:06 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第3部 第5章

第5章 解放のための手段(The means to Liberation)

第1段落
ウパニシャッドにあるサルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマという言明を理解するために人は欲望を滅ぼさねばならないとは、ヴェーダの聖典のどこにも書いてありません。しかし、欲望の性質が変容されるべきであるということを勧める多くの言明があります。

世界の中のすべての活動が行われるのは欲望の力によるものであり、そしてバガヴァッド・ギーター(10.4-11)において主クリシュナは、欲望がこれらの活動に影響を与える様々な(multifarious)方法を論じられます。

(1)知性、知識、疑いと幻惑からの自由(訳注:~がないこと)、許すこと、正直であること、感覚の制御、心の制御、幸せと苦しみ、誕生、死、恐れ、恐れないこと、非暴力、落ち着き(equanimity、心の平静さ)、満足、禁欲、慈善、名声と不名誉(infamy)---これらの様々な生命体の性質は、私だけによって作られました。

(2)7人の偉大な賢人たちと、彼らの前の4人の他の偉大な賢人たちとマヌたち(人類の先祖たち(progenitors))は私から来ており、私の心から生まれました。そして、様々な惑星に住んでいるすべての生命体は彼らの子孫です(to descend from)。

(3)私のこの偉大さ(opulence)と神秘的な力を事実として(factually)納得している者は、純粋な献身奉仕に携わります。このことに疑いの余地はありません。

(4)私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものは私から放射します。これを完全に知っている賢い者は私への献身奉仕にいそしみ、心をこめて(with all their hearts)私を崇拝します。

私の純粋な献身者の思いは私の中に住み(訳注:~はいつも私のことを考え)、彼らの人生は私への奉仕に完全に捧げられており、そして彼らはいつも互いを啓蒙し、私について語り合う(to converse)ことから大きな満足と喜びを得ます。

愛情をもって私に奉仕をすることにいつも献身的である者に、私はそれによって彼らが私のところへ来ることのできる理解を与えます。彼らに特別な慈悲を見せるために、彼らの心臓の中に住んでいる私は、知識の輝く灯りで無明から生じる闇を滅ぼします。

第2段落
人間の様々な(multifarious)欲望は至高のブラーマンの欲望の反映であるということを理解する者は、それらを捨てるのではなく主への奉仕において使うように注意を払います。はるか昔、7人の偉大な賢人たちとマヌたちは皆、神から与えられた自分たちの欲望を主への奉仕において(訳注~のために):使いました。

そして、今日これらの輝かしい(illustrious、有名、華々しい)先祖たちの例を見習う(to emulate)者は誰でも、決して欲望を俗的であるとも、霊的な発達への障害(impediment)であるとも見なさないでしょう。

もしもラマナ・マハーリシが私たちに欲望を打ち消す(to negate、否定)ように助言するなら、それなら私たちは、彼はサルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマというヴェーダの言明を誤解していると結論づけなければなりません。

すべての欲望と感情はももともとブラーマンであると理解した者、そしてそのためそれらを至高主への奉仕のために使うもの(to engage ~ in)は、完璧な魂と考えられるべきです。彼らは完全に無知(nescience)から自由です(訳注:~がない)。

これらの自己を認識した、高く上げられた、喜びに満ちた献身者たちの欲望は、非常に浄化されるので、何の無明も(not an iota of ~、~が少しもない)彼らの意識に影響を与えることができないほどです。なぜなら、主ご自身が彼らの心臓の中の無明を滅ぼされるからです。

第3段落
無明を無くす(to nullify、無にする)ための彼らの個々の努力と、至高主が慈悲深くもご自分の献身者を啓蒙なさる(to enlighten)のとの間には大きな隔たり(a wide gulf of difference)があると理解することに、マーヤーヴァーディーは悪戦苦闘しています(hard pressed)。

マーヤーヴァーディーはいつも、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic、神)から主の力を否定することに熱心です。彼らは、主の力を奪おうとしたラーヴァナ、そして主を公然と(outright)殺そうとしたカムサのような悪魔よりも優れたものではありません。

このような振る舞いは悪魔のそれです(is expected of demons、悪魔と聞いて予期されるようなもの)。邪悪な力を欲して、彼らは主への献身奉仕を放棄し、罪深い活動に手を染めます(to take to~、習慣的にし始める)。このようにして彼らはすべての知識を失います(to forfeit、没収される、権利を失う)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.15)において、いみじくも(aptly、適切に)彼らをマーヤーパーリタ・ジニャーナー、「その知識が幻想によって盗まれた者」と描写なさいます。たくさん、たくさんの哲学者、学者、そしていわゆる無敵の(invincible)勇者たち(heroes)が、至高主を無力で(impotent)形がなく、非人格的なものにしようとしましたが(to make ~ impotent, formless, and impersonal)、結局(in the end)彼らはいつもひどく苦しみました。

第4段落
そのためシュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に、私たちは主ブラーマーによるこの言明を見出します。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも誰かがその道を外れ(to give up)、推量的な知識を培うことに携わるなら、彼は単に苦しみの多い(troublesome)過程を辿り、望む結果を達成しないでしょう。

麦の空(empty、から)のもみ殻(husk)を叩く者が穀物を得られないように、単に推量する者は自己認識を得ることができません。唯一彼が得るものは困難です(His only gain is trouble.)。

第5段落
人はどこで、知性、知識、疑いからの自由(訳注:~がない状態)、喜び、悲しみ、恐れ、恐れのなさ、非暴力、落ち着き(equanimity)、満足(contentment)、禁欲、慈善、名声、そして不名誉(infamy)などの性質を見ることができるでしょうか?

これらの性質は意識の暗示(indicative、表示、意識の存在を示すもの)であり、そのためそれらはどこであれ意識が存在するところに存在します。至高主は、これらの性質はご自分のものであり、そしてそれらはご自分から生じた(to have sprung)と宣言なさいました。

そして、カター・ウパニシャッドは(サンスクリット引用)と述べます。「すべての永遠の、意識のある生命体のうち、他のすべてのものに彼らの必要なものを供給する一つの至高の意識体(conscious being)が存在します。」

したがって、これらの性質はすべての意識体の中にもともとある(inherent、生来、内在)ことを否定し、そしてこのようにして微小な生命体と至高の魂の両方を生命のない物体(dead matter)と同列に置く(to equate)ことは、完全な困惑(confusion、混乱)という結果を招き、(訳注:そのようにして同列に置くことは)確かに、見識(insight、洞察力)の甚だしい欠落の証拠です(to demonstrate、証明する)。

マーヤーヴァーディーは、意識の存在を否定する(to refute、反論、論破)するか、またはそれを受け入れることが彼らに満足(contentment)を与えるかどうかということについて困惑しています(The Mayavadies are confused as to whether refuting the existence of consciousness or accepting it will give them contentment.)。

(訳注:文字通り訳すと、 whetherは「~であるかどうか」という意味なので、『否定するか、あるいは受け入れることが、自分たちに満足を与えてくれるかどうか』が分かりかねている、ということになります。どういう意味なのかどうもよく分からないのですが、「意識の存在を否定したとしても受け入れたとしても、どちらにしてもそれで満足できるかどうか分からない」という意味かもしれません。)

意識体はいつも不活性な物体を統御します。一つの単純な例がこの点を証明します。私たちは、カラスのような取るに足らない(puny)意識体が、ある勇者(some hero)の石の彫刻の頭の上に恐れ気もなく糞をし(to defecate)、そのようにして動的な霊による生命のない物体の支配を表しているのを見ます(thus demonstrating the conquest of ~ over ~)。

石のような知性を持った者だけが至高の意識体を感情のない、形のない物体(unfeeling, formless object)にしようとします。そのような試みは全くの愚かさです。

第6段落
シュリー・オーロビンドは、今日の学識のある社会(circles)に「新しい」概念を示すことによって、立派な(commendable、賞賛に値する)何事かを成し遂げました。意識の生来の性質を否定しようとする代わりに、主の神聖な力の指示のもとで至高主への奉仕に携わることによって、人は自分の俗的な意識を超精神的な(supramental)意識に変容させるべきです。

もちろん、昔(bygone ages)の自己を認識した魂(realized souls)よりも現代の哲学者たちを見習う(to emulate)ことのほうを好む者は、シュリー・オーロビンドの提示(presentation、発表)を奇抜(novel、目新しい)だと思うでしょう(will find)。

しかし、正当な(authorized)師弟継承に繋がった、主の純粋な、愛情ある献身者たちの足跡を辿る者は、シュリー・オーロビンドの言葉が古い(age-old)英知の記録(annals、年代史)をそのまま繰り返している(to echo)と知っています。実に、それらはヴェーダの真髄に似ています(sound close to ~)。

第7段落
ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちは、ヴェーダのこの非凡で深遠な(esoteric、秘儀)真髄を発掘し(to excavate)、主の内的な力の働きを描写しました。主チャイタンニャのご降臨の前は、この性質の主題は、どの霊的な権威によっても、一度もこれほど詳しく論じられたことがありませんでした。

シュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーは、ご自分の劇、「ヴィダグダー・マーダーヴァ」の中で、主チャイタンニャの人類への比類のない(unique)貢献を称えます。

(サンスクリット引用)

「シュリーマティー・シャチデヴィーの息子として知られる主が、あなたの心の一番中心のところ(the innermost core)に超越的に位置されますように。溶けた(molten)金の輝き(radiance)に輝き(resplendent)、主は、どの化身も以前に決して与えなかった(to offer)もの、献身奉仕の最も高い味わい(mellow、一般的な用法ではない)、恋人としての愛という味わいを授けるために、ご自分のいわれのない慈悲によって、カリの時代に降誕なさいました。

(訳注:「溶けた~」の部分では「輝き」を繰り返していますが、resplendentは特に「美しさ」を強調する意味合いがあるので、「溶けた金のように輝くばかりにお美しく」というのが自然な表現だと思います)

第8段落
「服従と(訳注:心を)開くこと(“Surrender and Opening”)」と題した随筆の中で、シュリー・オーロビンドはこう書きます。

(1)「このヨガの原則全体(the whole principle of yoga)は、自分自身(oneself)を完全に神(the Divine)だけに捧げ、そして他の何者にも何物にも捧げない、ということです。そして、神聖なる母との結びつきによって私たち自身にすべての超越的な光、力、大きさ(breadth、幅、広がり)、場所、純粋さ、真実、意識、そして超精神的な神聖さのアナンダ(Ananda of the Supramental Divine)を招く(to bring down、下ろす)ことです。

(2)ラーダーは神への完全な愛の人格化、彼女の(Her)存在のすべての部分において完全で統合的(integral)、最も高い霊的なものから物理的なものまで、完全なセルフ・ゴーイング(self-going、これは何のことか分かりません)とすべての存在の完全な神聖化(consecration)をもたらし、体と最も物質的な自然に至高のアナンダ(the supreme Ananda)を祈り求めます(to call down)。」

第9段落
上の言明の中の結論には不一致(disparities、極端な不釣合いを指す。この場合は本文自体の意味がよく分からないので、どのような不一致または矛盾を指すのか私は分かりません)がありますが、それでもシュリー・オーロビンドは独自に(on his own)正しい方向を指し示しました。

服従の雰囲気(mood)なくしては、霊的な味わいのうちで最も高く輝かしい(brilliant、すばらしい)恋人の(conjugal)味わいを理解することは不可能です。マーヤーヴァーディーは、この服従の態度(attitude)が完全に欠落しています(bereft of)。

したがって、自分たちだけで非二重的な概念を理解しようとするとき、彼らは非人格主義者になってしまいます(to end up becoming)。これらのマーヤーヴァーディーについてシュリー・オーロビンドが述べるところを読んでみましょう。

「非人格的なものを求めるのは、人生から退きたい者の方法です。普通、そのような非人格主義者は、自分たちをより高い力に開くことによって、あるいは服従という方法によってではなく、独自の努力によって(訳注:非人格的なものを求めることを)試みます。

なぜなら、非人格的なものは導いたり助けたりするものではなく、得られるべきものだからです。そして、それはそれぞれの人がそれ(訳注:非人格的なもの)を自分の性質のあり方(way)と能力(capacity)に応じて得るに任せます(訳注:原文は「普通、~」からの長い一文。)

他方で、母なる存在に(訳注:心を)開いて服従することによって、人は非人格的な存在(the Impersonal)と真理の他のすべての側面も理解することができます。」

第10段落
マーヤーヴァーディーは、自分の独自の努力の力によっては、解放を得るための努力において決して成功しません。幻想を克服して解放を得るための唯一の方法は、6つの完全な富を完全に備えた(complete with six absolute opulences)至高主に服従することです。

主クリシュナはギーター(7.14)においてはっきりと述べられます。マーム・エヴァ・イェ・プラパデャンテ・マーヤーム・エターン・タランティ・テ、「私に服従する者は簡単にそれ(物質自然の相)を超えることができます。」

第11段落
主に服従する過程を学ぶことにおける最初の一歩は、主の純粋な献身者に服従することです。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー20.120および122)には、次のような言明があるのが見られます。

(サンスクリット引用)

(1)もしも制約された魂が、自発的に霊的な教え(injunctions、普通は命令や禁止命令を指すが、プラブパーダの著書では「教え」という意味合いの用法が多い)を教える(to preach)聖人的な人々の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、彼はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します(he is liberated from the clutches of Maya, who gives him up)。

(2)制約された魂は自分の独自の努力によっては自分のクリシュナ意識を蘇らせる(to revive)ことはできません。しかし、いわれのない慈悲によって(out of)、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました。

第12段落
すべてのヴェーダとプラーナは、主クリシュナの主題を扱います。バガヴァッド・ギーター(15.5)の中の主ご自身のお言葉にはこうあります。「ヴェダイス・チャ・サルヴァイル・アハム・エヴァ・ヴェデョ、「すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです(By all the Vedas, I am to be known.)。」
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大変長らくお待たせいたしました。これにてようやく第3部が終わりまして、さらに第4部、第5部と続いております。いったいいつになったら完成することやら。。。

いつだったか占いの人に「あなたはいろんなことに手を出してどれも中途半端になる傾向がある。どれか一つに絞れば大きな成果を残せる」と言われました。収入の道も複数ある、とも言われましたが、どうやらどっちもばっちり当たっているようなのです。半端に手を出していることと言ったら、万年下っ端で満足しているスタバのバイト、チャリティーショップでの折り紙ブックの販売、売る気の全くないガラス絵、全く営業活動をしないフリーランスの翻訳の仕事、門外漢なのになぜか首を突っ込んでいる都市計画における市民参加などというテーマ(ときたま市民ワークショップのボランティアもします)、そしてこのプラブパーダのご本の翻訳、、、二兎を追うものは一兎をも得ずといいますが、5匹も6匹も追う場合はどうなるでしょうか。

そしてその間にもやっぱり洗濯物は溜まるし、たまには掃除もしなくてはならないし、死なない程度に料理だってしなければなりません。私はときたまアルバムを作って実家に送るので、そういうのだってそれなりに時間と手間がかかります。自分が散り散りになっているようで、本気で人生を見直さないといけないという気持ちが募っています。

あと3日くらいで死ぬとしたら、いや、せめて3ヶ月くらいあったほうがいいかな、どっちにしても今の状態であとそれくらいで死んでしまったら、人生にどんな未練があるでしょうか。アートの技術を磨くことに全力を尽くさなかったことも後悔するだろうし、プラブパーダのご本の翻訳できてないのがまだ山ほどあることも悔やむだろうし、都市計画の本の出版に漕ぎつけなかったこともきっとすごく申し訳なく思うと思います。これは実はあるお友達の本で、そろそろ90歳になられる建築家です。寿命のことがあるのでご存命のうちに日本語の本にして差し上げたいのですが、とりあえず門外漢の私が適当な翻訳をしただけで終わってしまっていて、正直言ってそれだけで満足してしまってその後の努力をしていないのです。

こうやってだらだらと書きながら考えているわけですが、やっぱりここは都市計画の本を出版することに努力したほうがいいでしょうね。どなたか建築学や都市計画にお詳しい方はいらっしゃいませんか?英語圏では非常に高く評価されている手法に関する本で、今買うと古本で一冊3万円くらいします。この原稿をタダでご覧に入れますので、ぜひとも詳しくチェックしていただきたいのです。出版関係の方をご存知の方もいらしたら、どうかお尋ねいただけませんでしょうか。

スタンレー・キングさんという方が開発したコ・デザインという方法で、カナダをはじめとしてアメリカやイギリスなどで多数応用されていて、大きな成果を残しています。都市計画をかじった方であれば、世界的な成功例の一つとしてカナダのグランビルアイランドやフォールスクリークのことをお聞きになったかもしれません。スタンレーさんはこのプロジェクトのコンセプト作りの段階で非常に大きな役割を果たした方です。彼の手法はサステイナビリティー教育にも応用されていて、あちこちの学校で採用されているので、これを体験した若い後継者も育ってきています。最新の例としては、カナダ最後のフロンティアと称される土地で(未開の地というわけではありません)一から町を作るというプロジェクトや、広大な精神病院跡地での開発などがあります。後者のケースでは、精神病院そのものも縮小されて存続することが前提になっています。この手法は開発者と近隣住民の摩擦を最小限に抑える上で非常に有効で、座り込みなどの抗議活動が起こったときに慌てて声がかかったりしますが、ほんとはそうなる前に平和的に活用するのが一番です。

日本とは土壌が違うとはいえ、学ぶところの大きい手法であることは間違いありません。いいかげんで怠けるのをやめて次のステップを踏み出さねば、、、去年も同じことを言ってたのですよね、実は。このブログをご覧の皆様、どうかよろしくご協力をお願いします。
ブログサイトはこちらです。ちらっとでも興味のありそうな方がいらしたら、ぜひとも宣伝してください。そして、よろしかったらご感想をお知らせください。スタンレーさんは日本文化に大きな敬意を持っていらして、日本での反応はどうだろうかと気にしていらっしゃるのです。反応があればきっとすごくお喜びになると思います。

スタンレーさんと奥さんのマーガレットさん。私が描いたガラス絵ですが、この首のシワは何だ!と言って奥様には極めて不評でした。
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by ammolitering4 | 2015-08-11 13:48 | 「英知による放棄」 | Comments(1)

第4章

第4章 本来、ジーヴァはクリシュナの永遠の従者である

第1段落
主チャイタンニャがシュリー・サナータナ・ゴスヴァーミーへの教えの中の二、三の(aphorism、警句、金言、教え、戒め)格言において明かされた、深遠な(profound)奥義の(esoteric、秘儀、難解な)結論は、シュリー・オーロビンドのすべての作品の中で、部分的に論じられているだけです。

複雑な構文(syntax、文法、語法)とあいまいな(obscure)用語(terms)に満ちた言葉で、シュリー・オーロビンドはヴァイディー・バークティ、(すなわち)権威ある霊的指導者と聖典によって与えられる規則に応じてなされる献身奉仕の(、その)実践を通じて簡単に得られる知識を表そうとします。

彼の大げさな(high-flown、誇張した)文体、そして他の技術的な理由により、シュリー・オーロビンドの著作は一般的な読者には容易には理解されず、そしてそのため彼の作品は、言ってみれば効果がありません(ineffectual、無駄、空しい)。

第2段落
主チャイタンニャは、主クリシュナの従者としてのジーヴァの永遠の、本来の立場と、至高の享楽者であろうとしたときにジーヴァがいかに幻想に入れられたかを、詳細に論じられます。主チャイタンニャはさらに、主クリシュナの従者としての自分の永遠の立場を忘れるとき、ジーヴァは永遠に制約され、幻惑される、と説明なさいます。

こうしてマーヤーはジーヴァに物質的な人生の悲惨さを与えます(to inflict ~ upon、傷を負わせる、罰を与える)。もしも人が不自然に(artificially。人為的に)違う何か(something he is not)であろうとすれば、それなら彼を待つのは悲惨さだけです(he can expect only misery、悲惨さだけを予期することができる、ろくなことにならない)。

このことに関して、子供の頃に学校で読んだ、孔雀になろうとしたカラスの短い話を思い出します。この宇宙の創造者と主人は、その正当な(rightful)所有者でもあります。そのため主はすべてのものの唯一の享楽者です。

しかし、もしも創造者の多くの従者のうちの一人が主の立場を奪って(to usurp、横領、王座や権力を奪う)主および享楽者の役割を演じようとしたら、彼はどうして苦しみ以外の何かを予期することができるでしょうか?

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタム(10.87.30)において、4人のクマーラの一人、サナンダナは、ジャナロカに集まった賢人たちに、人格化されたヴェーダ(訳注:4人のクマーラのこと)が以前に至高主に吟唱した(to recite)祈りを吟唱します。

(one of the four Kumaras, Sanandana, recites to an assembly of sages in Janaloca the prayers the personified Vedas previously recited to the Supreme Lord.) (訳注:これは何のことだろうとしばらく考えてしまいました。原文を参照なさる場合はthe personified Vedasをtheyに置き換えて読むと分かりやすいと思います。日本語では「自分たちが」とするのが良いかと思います。)

祈りの一つは以下のようなものです。

(サンスクリット引用)

「もしも無数の生命体が、あまたに存在し(all-pervading)、決して変わることのない形を持っていたとしたら、あなたは決して彼らの完全な統御者ではありえません、おお、不変の(immutable)方よ。しかし、彼らはあなたの局地的な拡張体であり、彼らの形は変わり得るものであり(subject to change)、あなたは彼らを統御なさいます(do control、強調表現)。

実に、何かの発生(generation)に材料を提供する者は、必然的にその統御者です。なぜなら、産物は決してその材料の源(ingredient cause)から離れては存在しないからです。その拡張体のそれぞれにおいて平等に存在なさる至高主を自分は知っている、と考えるのは単に幻想です(It is simply illusion for someone to think that he knows~)。

なぜなら、何であれ人が物質的な手段によって得る知識は、必ず不完全だからです。」

第4段落
究極の知識(the last word in knowledge)は、確かに、自己認識(realization)やブラーマン認識ではありません。理解すべき(to realize、はっきり理解する)ことは他にもあります。すなわち、ジーヴァは主クリシュナの永遠の従者であるということです。

この認識は超精神的な(supramental)意識の目覚めであり、そしてジーヴァがそのような意識において行う活動は、彼の永遠の人生の始まりです。主の内的で霊的なエネルギーの指揮(direction)のもとでジーヴァが自分のすべての活動を行うとき、彼はブラーマンの認識の幸せよりも一億(a billion)倍大きな(訳注:比べ物にならないほど大きな)、永遠の超越的な喜びを楽しみます。

両者の間の超越的な喜びにおける違いは、広大な海と、子牛のひづめの跡に溜まった水の違いのようです。シュリー・オーロビンドが「神聖なる母」について書いたとき、彼はおそらく(likely)この内的な、霊的なエネルギー、(すなわち)永遠の超越的な喜び(bliss)の支配神(predominating Deity)を指していました。

彼はまた、劣性の、物質的なエネルギーの活動は、この霊的な力のそれと間違われるべきではない、と指摘しました。かつて、有名な非人格主義者であり一元論者であるサンニャースィー、マドラスのラマナ・マハリシは、外国人の弟子にこう尋ねられました。「神と人の間の違いは何ですか?」

彼のあいまいな(cryptic、謎めいた、暗号の)答えは、「神に欲望を足すと人に等しく、そして人から欲望を差し引くと神に等しい」というものでした。私たちは、人は決して欲望無しではいられない(can never be free of desire)と言います。

この永遠の制約された存在において、ジーヴァは物質を楽しむ欲望に満ちています。一方で、(自分の)永遠の解放された状態において、彼(ジーヴァ)は主に献身奉仕を捧げる欲望に満ちています(訳注:「永遠に解放された状態では、ジーヴァは~に満ちています」)。

このため(Thus)、ジーヴァは決して神になることはできません。人を神と同等にする(to equate、同等視する)こと、あるいはその反対は、全くの(sheer)狂気です。自分の意識的な自己の生来の性質を否定するというマーヤーヴァーディーの不自然な欲望は、彼を解放を得ることから遠ざけるその同じ欲望そのものです(訳注:まさに~というその欲望そのもののせいで、~は~を得られません)。

従って(Hence)、マーヤーヴァーディーの誤っていて傲慢な解放の主張は、単に彼らの歪んだ知性の証明(demonstration、論証)に過ぎません。

第5段落
シュリマッド・バーガヴァタムによれば、欲望は決して無にされ得ません(to nullify、破棄する、無効にする)。制約されている間、ジーヴァはチャトゥル・ヴァルガ、(すなわち)ヴェーダ文献において宣言(to enunciate)される人間の人生の4つの目的(宗教性、経済的な発展、感覚の満足、および解放)として要約される無限の物質的な欲望の貯蔵庫(repository、宝庫)です(訳注:~に満ち溢れている)。

しかし、主の内的な、霊的エネルギーの指揮のもとで活動することによって作られる解放された状態において、ジーヴァの本当の、霊的な欲望が顕現します。シュリー・オーロビンドはこの主題を(詳細ではないながらも)論じ、このため私たちは彼をラマナ・マハリシよりも評価します。

ラマナ・マハリシは、ほぼ(more or less)、欲望から命を完全に窒息(to choke)させようとしました(抹殺しようとしました)。この力ずくの欲望の排除(elimination、消去)は、霊的な自殺です。患者の病気を治すことなくその命を終わらせる(to finish off)ことには何の栄誉(credit)もありません。

医者は、病を癒し、患者を救うことができるとき、資格があります。上に述べられた4つのヴェーダの目的地を、非人格的な解放までさえも目指す(to pursue)者は、自分の感覚によって捕らわれ(to be imprisoned)、自分の欲望によって奴隷にされます。

他方で、(自分の)日々の活動を至高主への奉仕に使うための方法を人々に教えることのできる者は、人類の本当の恩人(benefactor)です。

第6段落
バガヴァッド・ギーター(9.4)において、主クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私によって、私の非顕現なる形において、この宇宙全体が満たされています(to pervade、充満)。すべての存在(beings)は私の中にありますが、私は彼らの中にはありません。」

第7段落
その非顕現で非人格的な形において、主クリシュナはご自分の外的なエネルギーの変容であるこの宇宙全体を満たされます(to pervade)。したがって、物質的な創造の中のすべての生命体は、主のエネルギーに依存します(to rest)。

エネルギーは、エネルギー的な源無くしてそれ自身だけで(by itself)存在することはできません。このように(Thus)。物質エネルギーと至高のエネルギー的なもの、(すなわち)主クリシュナは、原則として(in principle)一つですが、エネルギー的なものは主のエネルギーの働きから遠く離れています。

ジーヴァは、周辺的であるため、主の外的なエネルギー---この物理的な世界---の顕現、または主の優性な内的な力の拡張体である霊的な世界において、主ご自身に奉仕をする、という欲望によって動かされます。

言い換えると、すべての状況においてジーヴァは従者としての自分の本来の立場を維持します。そのため彼は、奉仕をするという自分の欲望を人為的に放棄することによって、この物質自然の従者として経験する(to undergo、変化を経験する、苦しみを耐え忍ぶ、手術などを受ける)苦しみを和らげる(to relieve)ことはできません。

本質的に(inherently)従者であるので、ジーヴァは奉仕をするという自分の欲求を捨てる(to forsake、習慣などをやめる)ことは決してできません。しかし、もしもそう望むなら、彼は悪い奉仕をやめて良い奉仕をすることができます(to quite ~ for ~)。

彼は、奉仕をするという自分の欲求を完全に抑圧する(to throttle the life out of、息の根を止める、窒息させる)非人格的な解放を含むヴェーダの4つの目的への(of)奉仕を放棄し、注意深く、主に奉仕をするという自分の本来の霊的な欲求を顕現しようとすべきです。

(訳注:ヴェーダの目的への奉仕、というのは、それに向けて努力する、自分のエネルギーをその目的のために注ぐ、ということを指すのだと思います。)

オーロビンドは、上に引用した一文の中で、この同じ点に言及しています。

もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。 」(第3章14段落(3))

第8段落
もしも人間が自我、欲望、感情、嫌悪など無しで存在しようとすれば、彼は不活性な(inert、自動力のない)物体に変えられるでしょう。これは霊的な上昇ではありません。人が物質的な知覚から霊的な知覚へと徐々に進歩するとき、彼はそれまでずっと(so long)無明によって汚染されていた自分の俗的な欲求、感情、嫌悪などがいかに取るに足らない(trivial、つまらない、ささいな)かを明らかに理解することができます。

この無明が消えるにつれて、俗的な欲求は些細になっていきます(to become insignificant、重要でなくなる)。欲求は残りますが、それらはもはや俗的ではありません。それらは超越的になります。その状態において、人はブラーマン、超魂、そして至高主を一つのものとして知覚します。

そのようなより高い知覚は、一足飛びに至ることは不可能である状態、(すなわち)人の心と感覚が超越的であるときだけ、可能です。不可能なことを試みる者は非合理的で、過度に野心的です。誰でも、次の歩を進める前に先の一歩を確実に地に着け(to place)、徐々に進まねばなりません。このようにして、人は究極的に目的地に到達します。

第9段落
「ヨガ」と題する随筆において、シュリー・オーロビンドは欲望を滅ぼすことを勧めてはおらず、そうではなくその性質を変えることを勧めています。ジーヴァはもともと主クリシュナの永遠の従者であるというのは、永久の(perennial)真理です。

制約されていようと解放されていようと、ジーヴァは他のどんな自己認識(identity、正体、アイデンティティー)も持ちません。彼の立場は、ある国の市民のそれに似ています。彼はいつも、牢屋に入っていようがいまいが、政府の法律の影響下にあります(subject to)。牢屋の中にいるとき、彼のすべての活動は苦痛を伴いますが、自由な市民として、彼は自分のすることのすべてにおいて満足(content)に感じます。それは単に自分の性質を変えることに関わります(merely a matter of changing his character)。

(訳注:多少意訳になりますが、「悪事を働けば牢屋に入れられて苦しめられ、悪事を働かなければ閉じ込められもせず、罰を与えられて苦しめられることもありません。すべては自分の行い次第です」という意味かと思います。)

第10段落
同様に、ジーヴァが至高のエネルギー的なもの、(すなわち)シュリー・クリシュナに奉仕をすることを拒否して、代わりに主の幻想エネルギー、マーヤーに奉仕をするときでさえ、彼は主の従者であり続けます。

しかし、その状態においては、彼は主への献身奉仕の喜びを知りません(to be ignorant of)。ジーヴァが自分の俗的な性質を投げ捨てる(to cast away)ときにだけ、彼は献身奉仕において超越的な喜びを経験することができます。

それでも、どんな状況ででも、ジーヴァは決してクリシュナの永遠の従者としての自分の生来の性質を放棄することはありません。なぜなら、彼は主の周辺的な力から放射しているからです。

............................................................
皆様、こんにちは。いつもながら長らくお待たせしてしまいまして、申し訳ございませんでした。怠けていてほんとにすみません。それでも熱心に読んでくださる方が小数ながらいらっしゃることをとてもありがたく思っています。もとより大勢の人に受けいれられることは期待していませんが、プラブパーダの声が届くべきところに届くための一助となっているのは、考えてみたらすごいことです。私ってラッキー、と思います。たぶん、前世でクモを3匹ばかり助けたのでしょう。奉仕が喜びであるというのはなんだか実感できる気がします。

そういえば、シングルマザーだった私の友だちは子供の手が離れてからネズミを飼い続けています。それはそれは私も飼ってもらいたいほどの扱いで、わざわざ特別製のケージを輸入するわ、四季折々のオーガニック野菜や山羊のヨーグルトを与えるわ、オーガニックレモンとヒマラヤの塩のお風呂に入れるわで、完全にねずみの召使状態です。一緒に出かけていても、ネズミに薬を飲ませる時間だから、と言って急いで帰ります。病気をしたら医療費も高いので、自分の食費を削ってまでネズミの治療に費やしてました。それにしても、世の中にはネズミの脳腫瘍手術というのが存在するのです。ご存知でしたか?そういう離れ業ができる医者は人間の脳移植なんか踊りながらでもできそうですね。

ネズミの命は短いので、彼女が飼っているネズミたちは3代目です。先代で家計が相当傾いたので、しばらくはネズミは飼わないと心に決めていたようですが、愛を捧げる相手がいないと耐えられない、と言って3ヶ月ももたずに次のを飼い始めました。魂の本来の姿は、物質世界の波打つ水面にいろんな形で映っていますね。
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by ammolitering4 | 2015-07-31 06:12 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第3章 後半

第12段落
自分たち自身の取るに足らない(puny、小さくて弱々しい)努力を通して至高存在を知ろうと試みた現代の霊性主義者(spiritualists)のうち、シュリー・オーロビンドはある程度の悟り(realization)を得たというのが一般的な意見です。

彼の成功の理由は、彼の研究の対象(object)が物質的な知識ではなかったからである、とされています(it is claimed、主張)。マーヤーヴァーディーはすべてのものの一体性を知ろうと試みますが、彼らの研究は非人格的で非二元論的な(nondual、二重性がない)ブラーマンの認識にしか繋がりません(~ takes them only up to ~)。

彼らは、「病から自由になることは完成ではなく、病んだ物質的な状態(condition)の後には霊的な存在という(of)健康的な状態(state)がきて、そこでは解放された魂は変わらず(still、それでもなお)人格を持った個人である」ということを知りません(訳注:括弧は訳者)。この事実は彼らにとって理解不能です。

第13段落
シュリー・オーロビンドは、この限られた思考の領域(limited sphere of thinking)を超え、「神聖なる人生(Life Divine)」などの本において「超精神的な(supramental)意識」について語りました。私たちはこの本を、至高主の超越的な力を表す(to present、提示)ための漠然とした(hazy、かすみがかかったようにぼんやりしてよく分からない様子)試みであると考えます。

彼は至高主には超越的な力がある(~ is endowed with ~)ということを受け入れました。そしてそのため私たちは多少は彼を評価します(we have some appreciation for him)が、私たちは、多くの人はシュリー・オーロビンドの本における超越性に関する彼の説明を理解することができない、と感じます。

彼は比較的簡単な(simple)英語を用いますが、読者は困惑したままです(to remain puzzled)。ヴィシスタードヴァイタ、スィダードバイタ、ドヴァイタードヴァイタ、そしてついには主チャイタンニャのアチンテャ・ベーダーベーダー・タットヴァなどのヴァイシュナヴァ哲学に馴染みのない(unacquainted)者は、シュリー・オーロビンドを理解することができません。

そして、非人格的な哲学だけを学んだ者(are learned only in~)、非二元論的なブラーマンを探している者は、シュリー・オーロビンドの研究(works、著作)をますます理解できません(to have even less access to ~'s works)。

第14段落
シュリー・オーロビンドの一連の思考の多くはヴァイシュナヴァ哲学から借り出されています。「ヨガに光を当てる(Light on Yoga)」、および「目的地(“The Goal”)」と題した随筆において、次の文(passages)が見出されます。

(1)
動的な悟り(dynamic realization)を得るためには、プルシャをプラクリティへの従属(subjugation、征服された状態)から救うだけでは十分ではありません。人はプルシャの忠誠(allegiance)を、無知なる力というその働きをもって(with its play of ignorant forces)、より低いプラクリティから至高の神聖なるシャクティ---母なる存在へ移行(to transfer)しなければなりません。

(訳注:「その働き(play)を持って」という部分の「その」は、シャクティを指すものと思われます。なお、番号は引用部分の段落番号を示します。)

(2)
母なる存在(the Mother)を、より低いプラクリティとその力の仕組み(mechanism、機能)と同一視するのは間違いです。ここでプラクリティとは無明の進化のために形成された仕組みに過ぎません。無知なる精神的、生体的(vital、生命の)、あるいは肉体的な存在が、神(the Divine)から来ているにも関わらず自らは神ではないように、プラクリティの仕組みは神聖なる母(the Divine Mother)ではありません。

彼女(訳注:ここではherとなっており、Herと大文字表記ではないが、神を指す)の何かが、それを進化という目的のために維持し、この仕組みの中と背後にある(存在している)ことは、疑いの余地がありませんが、彼女自身はアヴィデャのシャクティではなく、神聖なる意識、力(the Power)、光、そしてパラ・プラクリティで、その存在に(to whom)私たちは解放と神聖なる満たしを求めます(to turn for)。

(3)
もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。

それぞれの段階に独自の真理があります。これらの真理のいくつかは、私たちがより高い段階に上がると、もはや必要ありません。たとえば、欲望と自我は精神的、生体的(vital)、そして肉体的な段階の真理です。

なぜなら(as)、その段階にあって自我または欲望のない人は単なる機械人間(automaton)だからです。より高く上がるにつれて、自我と欲望はもはや真理ではないように見えるようになります。それらは、本当の人格(person)と本当の意志(will)を歪めている(to disfigure)偽り(falsehoods)です。

光の力と闇の力の間の戦い(struggle、せめぎ合い)はここでは真理ですが、人がより高く上がるにつれてそれはだんだん真理ではなくなっていき、そして超心(supermind)においてはそれは何の真理も有しません。

他の真理は留まりますが、(それらは)その性質、重要性、そして全体における位置づけを変えます。人格性と非人格性の対照は上心(overmind)の真理です。超心(supermind)の中には、それらの切り離された真理(separate truth of them)はありません。

(訳注: supermindと overmindの訳語は他に思いつかないので適当にあてはめています。適切なものがあればお知らせください。)

それらは切り離され得ず、一つです。しかし、より低い段階を克服(to master、完了)していない者は、超精神的な(supermental)真理に至ることができません。人の心の無能な(incompetent)奢り(pride、自尊心、思いあがりなど。「誇り」よりも否定的な意味合いのある言葉)は、鋭い区別(distinction)をつけ、他のすべてのものを非真理と呼びたがり、直ちに最高の真理へと、それが何であれ、飛び跳ねたがります(to leap、段階をすっとばしていく)。

しかし、それは野心的で奢り高ぶった間違いです。人は、頂に至るためには、階段を上り、一歩ごとにしっかりと足を踏みしめなければなりません。

第15段落
もしも人が人生の本当の意味について真剣であるなら、それならマーヤーの壊滅的な(crippling、機能不全にさせるようなひどい打撃)呪縛を逃れるための単純な努力(endeavoring)は、唯一の仕事(undertaking)ではありません。

究極の目的は、私たち自身を幻想エネルギーの魅惑(enthrallment)から解放し、超越的な霊的エネルギーに完全に従属的(subservient)になることです。

第16段落
チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて(マデャー20.108-09、111、117-8、120、および122)、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに幾らかの啓発的な(illuminating、無明の闇に光を当てるような)助言をなさいます。

(1)
クリシュナの永遠の従者であることは、生命体の本来の立場です。なぜなら、彼はクリシュナの周辺的なエネルギーであり、ちょうど太陽光や火の原子の粒のように、主と同時に一つであって異なる顕現であるからです。

(2)
主クリシュナはもともと3つのエネルギー的な変容体を持っておられ、これらは霊的な力、生命体の力、そして幻想の力として知られます。。。クリシュナを忘れて、生命体は記憶にないほどの昔から外的な特徴に惹き付けられてきました。

したがって、幻想エネルギー(マーヤー)は彼に、その物質的な存在において様々な悲惨さを与えます。物質的な状態において、生命体は時としてより高い惑星系と物質的な豊かさに上げられ、そして時として地獄のような状況において溺れさせられます。

彼の状態はちょうど、王が水につけたり引き上げたりして罰を与える犯罪者のようです。。。もしも制約された魂が、自発的に霊的な命令(injunctions、この場合は「教え」)を教えて彼がクリシュナ意識になるのを助ける聖人的な人の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、制約された魂はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します。

(訳注:修飾語が長くて分かりにくいですが、「もしも聖人的な人が現れて、慈悲深くも率先して霊的なことを教えてくれて、そのおかげで彼がクリシュナ意識になったら」という意味。)

制約された魂は、自分自身の努力によってクリシュナ意識を蘇らせることはできません(to revive)。しかし、いわれのない慈悲によって、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました(to compile、一つにまとめる)。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
わたくし、、、困惑しております。皆様はいかがですか?オーロビンド様の言葉、分かりにくいですね。やっぱりプラブパーダのすっきりした文体が一番、と改めて思いました。
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by ammolitering4 | 2015-06-20 09:31 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

第3章 前半

第3章 心が物質への執着から清められる(訳注:心が清められ、~がなくなる)

第1段落
ウパニシャッドの格言(aphorism、金言、名句、警句)、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」の意味により多くの光を当てる(to shed、何かに対して光を発する、放つ)ために、ヴィシュヌ・プラーナからの一節(1.22.56)を引用します(to cite、例証)。

(サンスクリット引用)

「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」

第2段落
彼らの哲学的な議論において、マーヤーヴァーディーは至高主の多面的な(multifarious、様々な)エネルギーの存在を否定します。そのような基準値以下の(sub-standard)討論は、実に、幼稚園の水準にあります。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラによれば、マーヤーヴァーディーは知識に乏しく(to have a poor fund of knowledge)、そしてそのため、至高のブラーマンは6つの富を完全に備えているということを理解できません(to be prevented from understanding ~)。」

これらの気の毒なマーヤーヴァーディーの非人格主義者たちを哲学的な疲弊(impoverishment、窮乏化、衰え)から救うために、主クリシュナは慈悲深くもバガヴァッド・ギーター(7.19)において彼らにお教えになりました。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死のあとで、本当に知識のある(in knowledge)者は、私がすべての原因とすべての存在(all that is)の原因であると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」

第3段落
「つながれた牛は縄の長さの分だけ動く(A tethered cow goes as far as the rope)」と、ことわざにもあります。同様に、究極的な知識を探求するために帰納的な(inductive)方法を使う者は失敗します。人は、俗的な心をもって超俗的な(the supermundane)ことを知ることはできないので、彼の努力は無駄(futile、無益)です。

完全真理の完全な理解は、神聖ではない(unholy、不浄、邪悪、罪深い)、悪魔的な心をもってしては不可能です。

人が、究極的に万能な(supremely omnipotent)至高の人格神を非人格的なブラーマンに引き落とそう(to reduce)とする悪魔的な精神性を持っているとき(to be possessed of)、すべてのいわゆる哲学的な討論は、完全な知識の領域(realm)、あるいは二重性でないもの(nondual substance、二元論的でないもの)に関する真理を発見しそこなうでしょう(訳注:どれだけ議論しても見つかりはしない)。ヴァイシュナヴァだけがそのような知識を培う資格があります。

第4段落
もちろん、すべての非人格主義者が悪魔的なのではありません。非人格主義者が、完全真理はすべての超越的な性質を持った(to be endowed with)人格(a person)であるとはっきり理解すれば(to realize)、彼は直ちに神に奉仕をし始めます。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.7.10)において次のように確認されています。

(サンスクリット引用)

「すべての異なる種類のアートマーラーマ(アートマー、すなわち霊的な自己に喜びを感じる
(to take pleasure)者)、特に自己認識の道において確立している者は、すべての種類の物質的な呪縛から解放されているにも関わらず、至高の人格神に純粋な献身奉仕を捧げたいと欲します。

これは、主が超越的な性質を持っておられ、そしてそのため、解放された魂を含め、すべての者を惹きつけることがおできになるということを意味します。」

第5段落
主の超越的な性質によって魅了され、そのため主に服従する、その偉大な魂を見つけるのは稀です。至高主に服従することのできる唯一の人は、主から主の人格を奪おうとはせず、そうではなく、物質自然を主の様々な(multifarious)エネルギーの変容と見なす者です。

そのため、マーヤーヴァーディーは決してマハートマー、すなわち「偉大な魂」とは呼ばれ得ません。非二元論的な(nondual)完全真理が6つの富を完全に備えた至高の人格神に他ならないということをはっきりと理解するときにのみ、彼らはマハートマーと呼ばれ得ます。

第6段落
ヴァイシュナヴァのマハートマーは、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」という格言(aphorism)を次のように説明しました。ヴィシスタードヴァイタとして知られる哲学的な学派は、「至高主はチット・シャクティ、すなわち霊的な力、そしてアチット・シャクティ、すなわち物質的な力という、ご自分の二つの主要な力をもって永遠に存在なさる」という考えを提議しました(to propound)(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました)。

一つの非二元論的な存在(one nondual entity)でいらっしゃるにも関わらず、主はご自分が完全に統御なさるチットとアチットの力という主な区分(headings、見出し、項目)の下でご自分の様々なエネルギーを顕現なさり、動的に(dynamically)存在なさいます。

無限の力の源であられるにも関わらず、主はご自分の超越的で個人的なお姿において永遠に存在なさいます。この形は3つの側面において顕現します。すなわち、主がご自分自身をご覧になるように、愛情ある献身者が主を見るように、そして主がご自分の競争者と敵によって見られるように、です。

シュリー・ラーマーヌジャーチャーリャによって率いられるシュリー・ヴァイシュナヴァの師弟継承(disciplic succession)は、主と主のエネルギーの立場(situation、状態)を説明するために、私たちが先に引用したものと同じ文を引用します。「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」

第7段落
このように、創造全体が主の存在の証拠です。完全な知識を持っている(in complete knowledge)者は、完全真理はすべてのエネルギーの源ならびに統御者として永遠に存在する至高の人格神である、ということを理解します。

マハートマーはこの知識を完全に理解し、そして主の超越的なエネルギー(チット・シャクティ)の庇護の下に入って、永遠に主に愛情ある献身奉仕を捧げます。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.13-14)においてこれを確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、神聖な自然の保護の下にあります。私を至高の人格神、源(original)であって尽きることがない(inexhaustible)として知っているので、彼らは完全に献身奉仕に携わります。

いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏し(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に献身の念をもって私を崇拝します。」

第8段落
精神的な推量者と論理学者、そして経験主義的で(empirical)帰納的な(inductive)過程に拠り頼む初心者であるマーヤーヴァーディーは、完全真理をはっきりと理解した、主の純粋な献身者の立場を正しく理解すべきです。バガヴァッド・ギーター(4.23)において主クリシュナは献身者の活動について(of)このような説明をなさっています。

(サンスクリット引用)

「物質自然の相に非執着であり、完全に超越的な知識のうちに位置している者の仕事は、完全に超越性に同化します。」

第9段落
犠牲として行われた活動は、すべて献身奉仕です。ヤジニャというサンスクリット語の単語は「犠牲」を意味しますが、それはまた主ヴィシュヌご自身を意味するものでもあります(it can also mean)。自分の活動を超越的な献身奉仕として行うことは、完全真理に完全に位置した、発達した魂にとってのみ可能です。再び、クリシュナはご自分の献身者をバガヴァッド・ギーター(7.17)において描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「これらの中で、完全な知識を持ち、いつも純粋な献身奉仕に携わっている者が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく、そして彼は私にとって愛しいからです。」

第10段落
もしもいくらかの徳(piety、敬虔さ)によって非人格主義的な哲学者が至高主への献身奉仕にいそしむなら、そのとき初めて(then only)彼は主にとって愛しくなります。しかし、非人格主義者が至高主から主の神聖な力を奪おうとする限り、彼らは決して主にとって愛しくはあり得ず、また、マハートマーとも呼ばれ得ません。

彼らは、主の幻想の力によって幻惑された悪魔的な無神論者のうちに数えられ続けます。これらの無神論者たちは賢人ではありません。彼らは単に、主に無礼を働く、普通の、死を運命づけられた存在です(ordinary mortals who are offenders against the Lord)。

第11段落
ヴェーダ文献の中でジニャーナという言葉が現れるところではどこでも、サムバンダー・ジニャーナ、主と主のエネルギーの間の関係に関する知識を意味する、と理解されるべきです。それは至高存在に関する非人格主義的な(impersonalist)概念を指すのではありません。

サムバンダー・ジニャーナを理解したあと、人はアビーデーヤ・ジニャーナ、至高主との(自分の)関係においていかに振舞うか、ということに関する知識の段階に来ます。これが解放された魂によって実践される献身奉仕です(This is devotional service, practiced by ~)。

アビーデーヤ・ジニャーナという(of)成熟した段階は、人を至高神への愛、すべての生命体の究極の目的地に導きます。
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ほんのちょこっとだけお届けします。アパートの掃除と片付けに忙しい毎日なのです。狭いのによくもまあ要らない物がたくさんあるものです。残りもできるだけ早く清書しようと思います。
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by ammolitering4 | 2015-06-19 09:11 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第2章

第2章 献身の念は至高存在に関する完全な知識の中に宿る

第1段落
もしも微小な魂が自分の個別性(individuality)、すなわち生来の(inherent)人格を無限大の存在と同化させるなら、それならその個別性は無価値になります(to render)。自分の個別性を犠牲にすることによって霊的な自殺をしたがる者は、特殊な人々です(a breed by themselves、自分たちだけの種族)。

そのような自己破壊者(self-destroyers)は純粋な一元論者(monists)として知られます。他方で、自分の個別性を維持したいと欲する者は、二元論者、すなわち人格主義者です。

第2段落
ジーヴァがいったん自分のもともとの超越的な性質を顕現すると、彼は簡単に物質的な制約から解放されますが、それでも、そのような高い(elevated)状態においてさえ、彼は霊魂としての自分の個々の自己認識(identity)を失いません。

事実、その純粋な状態において彼は至高主への永遠の奉仕に携わり、荘厳な(sublime、気高い、卓越した)喜びの不滅の蜜を味わいます。

第3段落
遠い昔から(For eons、eonは無限に長い時間を指す)、世界中でクシェトラとクシェトラ・ジニャという主題(subject)に関する研究が続いています。インドでは6つの哲学的な学派(注)がこの主題(topic)を広範に(extensively)論じましたが、この議論は単に、賢人たちの間での多くの異なる意見につながった、論理(logic)と詭弁(sophistry)における練習(exercise)であるに過ぎません(to have been、今も続いていることを示す)。

そのため、これらの学派のうちのいずれも、本当にジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への道を実践していません。クシェトラとクシェトラ・ジニャの議論が主への奉仕に適用される(to apply)ときだけ、その練習(the exercise)はジニャーナ・ヨガになります。

(注)6つの哲学的な学派とその提唱者(proponants、これはproponentsのラテン語綴りであり、一般的ではない)は以下の通り:
サー・キャー --- カピラ(無神論的)
パタンジャリ・ヨガ --- パタンジャリ
ニャーヤ --- ゴータマ
ヴァイシェスィカ --- カナーダ
ミマムサ --- ジャイミニ
ヴェダーンタ --- ヴャサデヴァ

第4段落
ジニャーナ・ヨガの過程はヴェダーンタ・スートラ、ヴェーダの哲学的な真髄の中において詳述されています(to be delineated)。至高主クリシュナはヴェダーンタ・スートラの権威を受け入れられ、(その)哲学的な提示を正しい(proper)と考えられます。

現在(present day)まで、非人格主義者の学派においてさえ、すべての霊的な系統(line)がその哲学的な権威をヴェダーンタ・スートラにのっとっています。そして、シュリマッド・バーガヴァタムはヴェダーンタ・スートラに関する自然で欠点のない論評(commentary、記録、解説)です。これが主チャイタンニャのご意見です。

第5段落
学識のある階層の人々(circles)は、ヴェダーンタ・スートラに関する論評(commentary)の欠けた(bereft of)師弟系統(desciplic line)を、正統ではなく無益であると考えます。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャの「シャーリーラカ・バーシャ」と題したヴェダーンタの論評は、非人格主義的で一元論的な学派の主な論評です。

ヴァイシュナヴァの中では、シュリーパーダ・ラーマーヌジャーチャーリャの論評の他には、マードヴァー・ゴーディーヤ・サムプラダーヤとして知られる主チャイタンニャの系統において、シュリーラ・バラデヴァ・ヴィデャーブーサナの「ゴヴィンダ・バーシャ」が主な論評です。

第6段落
聖典の深遠な(esoteric、奥義、難解)結論に関する深い議論に携わることを好む(keen)者は、確かに、ヴェダーンタ・スートラの哲学を掘り下げるべきです(to delve into)。強調されるべき点は、造詣の深い(well-versed、精通)ヴェダーンタの哲学者はシャンカラーチャーリャの系統に属する(in)哲学者ではなく、実際はヴァイシュナヴァの霊的な教師(preceptor)、解放された魂であるということです。

第7段落
ヴェーダと賢人たちによれば、5つの「密度の濃い(gross)要素」は、「土、水、火、空気、そしてエーテル」です。物質自然は、「偽りの自我(アハンカーラ)、物質エネルギーの材料(マハット・タットヴァ)、そしてマハット・タットヴァの原因(プラクリティ)」の組み合わせから作られます。

5つの「知識を集める感覚」と、5つの「働く感覚」が存在します。心は内的な感覚、六つ目の「知識を集める感覚」です。「形(form、姿)、味、匂い、触感(touch)、そして音」が5つの「感覚の対象」です。(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました。これらの要素を合計すると24個になります。5+3+5+5+1+5=24)

第8段落
私たちは既に、無心論者カピラのサーンキャー哲学の描写において、これらの物質的な材料を列挙しました(to enumerate)。クシェトラ、すなわち「場」は、上記の24個の材料の組み合わせです。これらの24個の材料が関わりあう(to interact、相互作用)とき、結果は物質自然の変容(transformation)であり、それは、物質的な欲望、嫌悪、楽しみ、嘆きなどの結果として、5つの密度の濃い要素(パーンチャ・マハーブーター)からなる密度の濃い体を生じさせます。

心と意志(will)の形を取った意識の影(shadow)がその場(field)の変容です。

(原文は”The shadow of consciousness in the form of mind and will are transformations of that field. ” ここで主語となる The shadowは単数となっており、述語の複数形と呼応していません。mind and will に引きずられた単なる間違いなのかもしれませんが、この一文自体が難解で意味がよく分かりません。意識の影、すなわち意識の反映が、心と意志という二つの形で現れ、それらが「場」、すなわち物質自然を変容させる、または変容そのものである、というような意味なのだと思います。そうであれば述語が複数形になるのも理解できますが、やはり多少文法的に整っていない感じがするので、私は以下のように読もうと思います。”The shadows of consciousness are manifested in the form of mind and will, and they are transformations of that field.” ご意見があればお寄せください。なお、この場合のformは不加算名詞なので単数形です。)


第9段落
まもなく論じられるのは、クシェトラ・ジニャはクシェトラおよびその変容と全く異なるということです。しかし、クシェトラとクシェトラ・ジニャに関する知識を正しく理解するためには、人はまず、バガヴァッド・ギーター(13.8-2)に挙げられている少なくとも20個の良い性質を培わねばなりません。

「謙虚さ、奢らないこと、非暴力、忍耐、簡素さ、真正なる霊的指導者に近づくこと、清潔さ、堅実さ、自己統制、感覚の満足の対象の放棄、偽りの自我がないこと、生老病死の悪を知覚すること、非執着、子・妻・家庭その他とのもつれからの自由、喜ばしいことと喜ばしくない事々にあって心が安定していること、私への継続的で混じり気のない献身の念、孤独な場所に住むことを欲すること、一般大衆から離れること、自己認識の重要性を受け入れること、そして完全真理を求める哲学的な探求---これらすべてを、私は知識であると宣言します。そして、この他のものは何であれすべて無明です。」

(Humility; pridelessness; nonviolence; tolerance; simplicity; approaching a bona fide spiritual master; cleanliness; steadiness; self-control; renunciation of the objects of sense gratification; absence of false ego; the perception of the evil of birth, death, old age and disease; detachment; freedom from entanglement with children, wife, home, and the rest; even-mindedness amid pleasant and unpleasant events; constant and unalloyed devotion to Me; aspiring to live in a solitary place; detachment from the general mass of people; accepting the importance of self-realization; and philosophical search for the Absolute Truth – All these I declare to be knowledge, and besides this whatever there may be is ignorance.)

第10段落
これらの性質を持たない(bereft of)人々は、霊的な話題を論じる資格がありません。偽者の論理学者(logician)は、制約された魂を解放に導くためにある上記の性質を、欲望、怒り、嫌悪などの、心の変容の結果として得られる俗的な性質と取り違えます(to mistake ~ for ~)。しかし事実は、上記の性質は霊的な知識を表します(to represent)。

たとえ人が、完全な知識のための必要条件(prerequisites、前提、予備知識)として、「主クリシュナがギーターにおいて列挙なさった性質は精神的な(mental)変容である」という、偽者の論理学者の議論を受け入れるにしても、それでも私たちは、「これらの変容は全くの無明から結果として生じる欲望(lust)、強欲(greed)、怒り、そして幻想などの性質と同等である(equivalent)」ということに同意することはできません。(訳注:ややこしいので分かりやすくするために括弧を入れています。)

ある種の精神的な変容は魂を堕落(depravity)へと引きずりおろし、他方で他(の精神的な変容)は魂を破滅(doom)から救います(to redeem)。病気も薬も物質自然の産物ですが、一つは人を死の淵(the jaws of death、死に脅かされた状態)に押しやり、他方は彼を破滅から救います。

そのため人は、ヤタ・マタ、タタ・パトー、「すべての道は真理に通じる」という愚かな理論を受け入れて、これに基づいて薬と病気は全く同じである(one and the same)と公言する(to profess)ことによって社会の笑いもの(laughing-stock)になることを避けねばなりません。

第11段落
クリシュナが挙げられた20個の性質の中で、特に注目すべき(noteworthy)一つの性質があり、そしてそれは(サンスクリット引用)です。「私への継続的(constant)で純粋な献身の念」です。他の性質は意識を清めるために必要とされます。

いったん心の鏡が浄化され、物質的な存在の燃え盛る火が消されると、主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が心(heart)の地平線上に現れ始めます。偉大で聖人的な霊的指導者シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラはこう歌われました。

「私の心はいつ浄化されて物質から離れるのでしょうか?おお、いつ、その清められた状態で、私はヴリンダーヴァンの超越的な領域(realm)を見ることができるでしょうか?」

第12段落
いったん主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が人の心の中に花開くと、他の19個の性質は彼の中に自動的に現れる、ということに気づく(to note、言及、注意する)のは興味深いことです。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)には、次のように述べられています。(サンスクリット引用)

「すべての半神たちと、宗教、知識と放棄などの彼らの高貴な(exalted)性質は、至高の人格神、ヴァースデヴへの純粋な献身の念を育んだ者の体の中に現れるようになります。」

第13段落
毎日根気良く10、20、30ルピーを集めることで、人はいつの日か百万ルピーを持つようになります。しかし、もしも一度に百万ドルを得るなら(to come upon、出くわす)、人は別途に10、20、あるいは30ルピーを集める努力をして貴重な時間を無駄にする必要はありません。

同様に、人が主クリシュナへの純粋な献身の念を育むとき、他のすべての上記の性質は、さらなる努力なしに、自動的にその人を飾ります(to adorn)。他方で、主クリシュナへの純粋な献身の念を脇に置いて(to leave aside、取り残す)、他の19個の性質を別に育もうとする者は、一時的に富と名誉を得るかもしれませんが、彼は最高の目的を達成する資格を失います(to become unqualified)。

上記のシュリマッド・バーガヴァタムの同じ節の中で(5.8.12)、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)

「他方で、献身奉仕をせず(devoid of)、物質的な活動に携わっている人は、何の良い性質も持ちません。たとえ彼が神秘的なヨガの実践、あるいは自分の家族と親戚を養うための正直な努力に長けていた(to be adept at、熟達)としても、彼は必ず自分の独自の(own)精神的な推量によって突き動かされ(driven)、必ず主(校正:lord → Lord)の外的なエネルギーへの奉仕にいそしみます。そのような人に、どうして何らの良い性質があり得るでしょうか?」

第14段落
主の蓮の御足に敬意を払わず、献身奉仕の過程を非難する(to denounce)一方で、謙虚さ(humility)や非暴力などの良い性質を見せびらかす(to make an external show)のは無駄
(futile)です。そのようないわゆる良い性質は、何らかの物質的な価値があるかもしれませんが、究極的にはそれらは役に立たず、一時的です。

事実、他の19個の性質は、そこから純粋な献身の念が統率する(may rule)ための王座を作るために組み合わさります(訳注:~は組み合わさって~のための王座となり、~はそこに鎮座して~します)。これらの性質は、完全真理の様々な側面(limbs、大枝)であり、この完全な知識以外のすべてのものは無明(nescience、無知)です。

第15段落
これらの知識の側面(limbs)を培うことによって、人は自己認識を得ます。言い換えると、人はクシェトラの俗的な知識からクシェトラ・ジニャの霊的な知識へと上げられます。私たちは先に、クシェトラ・ジニャという言葉は生命体と至高のブラーマンの両方を指す(to imply、暗示)と論証しました(to establish)。

時として、物質自然、すなわちプラクリティは、ブラーマンと呼ばれます(to be referred to as~)。その理由は、ブラーマンは物質自然の原因だからです。ある意味では、原因とその結果(effect)は同一です。しかし主クリシュナはブラーマンの究極の源です。

主は、ジーヴァとして知られるブラーマンの種を、物質自然の形を取ったブラーマンに撒きます(to impregnate ~ with~、はらませる)。(原文:The Lord impregnates Brahman in the form of the material nature with the seed of Brahman known as the jiva.) クリシュナはバガヴァッド・ギーター(14.3)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ブラーマンと呼ばれる全体的な(total、総体的、完全、絶対的)物質的な物体(substance、実体)は、誕生の源であり、私がはらませ(to impregnate)、すべての生命体の誕生を可能にするのは、そのブラーマンです、おお、バーラタの子孫(scion、御曹司)よ。」

第16段落
この節は「すべてのものはブラーマンである」を意味する、ウパニシャッドからの有名なことわざ「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」を説明します。言い換えると、それらがすべてブラーマンであるという点では(in that ~)、至高のブラーマン、主クリシュナは、ジーヴァおよびプラクリティの両方と同一です。

そのため、ある意味では、ヴァイシュナヴァは純粋な一元論者です。先に私たちは、バガヴァッド・ギーターからの別の節(9.10)を論じました(to deliberate、熟考、審議)。

(サンスクリット引用)

「私のエネルギーの一つであるこの物質自然は、すべての動くものと動かないもの(beings)を作り出し、私の指揮の下で働いています、おお、クンティーの息子よ。その統御の下で、この顕現は何度も何度も作られ、滅ぼされます。」

第17段落
論じられているギーターの節(14.3)は、もう一つの節(9.10)の、より明らかな理解を与えます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

う~ん、小難しいですねえ。。。禅問答ですか、と思いながら訳しております。この本はプラブパーダがインドの言葉で書いたのを明らかに教養のある人物が格調高い英語にしたもので、それを私が偉そうに修正するなどものすごーくおこがましいのですが、やっぱりどうも一箇所だけ腑に落ちないのです。ご意見があればぜひお寄せいただきたいと思います。
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by ammolitering4 | 2015-04-23 13:07 | 「英知による放棄」 | Comments(5)

第3部 第1章

第3部 ジニャーナ・カター 霊的な科学に関する主題(Topics of Spiritual Science)

第1章 物質的な存在の炎を消す

(サンスクリット引用)

「何百万もの(many millions upon millions)誕生の後で、完全な知識をすべて身につけたとき(complete in absolute knowledge)、人はそれでも(still)解放を得ないかもしれません。それなのに(yet)この男(man)は、単に聖なる御名を一見すること(glimpse、ちらりと見ること)の目覚め
(awakening)によって人はそれを得るだろう(may)、と言います。」(訳注:原文は長い一文。「~を一見することの目覚め」というのは、ちらりとでも触れること、というような意味と思われる。)

第1段落
シュリーラ・ラグーナーター・ダーサ・ゴスヴァーミーの父親と叔父(訳注:または伯父)---それぞれヒラニャ・マジュムダラとゴヴァルダーナ・マジュムダラ---は、サプラグラーマの太古の村チャーンダプラの大地主でした。

彼らの雇い人の一人、ブラーマナの生まれのゴパーラ・チャクラヴァルティーという名前の者は、聖典に関する討論において偉大なヴァイシュナヴァの聖人シュリーラ・ハリダーサ・タークラとしのぎを削りました(to lock、かぎを掛けて動けなくするようにがっちりと取っ組み合う様子)。

そのブラーマナは全くの(sheer)経験主義者で、そしてヴァイシュナヴァの聖人は、神、クリシュナの聖なる御名を唱えることに関する完全な権威者でした。ブラーマナはシュリーラ・ハリダーサに、悟り(realization、認識)のどの段階で解放が得られるのかと尋ねました。

聖典(訳注:複数)から多くの適切な節を引用しながら、シュリーラ・ハリダーサは、ちょうど、夜明けの最初の光で(at、~のときに、~と共に)泥棒、幽霊、そしてお化け(hobgoblins、悪さをする小さな妖怪)などの夜行性の生物(creatures)への恐怖が消える(to evaporate、蒸発)ように、純粋な唱名(chanting)のはるか前に訪れる、ナーマ・アーバーサと呼ばれる、聖なる御名を唱えることの最初の
(clearing、物事が始まる前に障害物を取り除く様子。「露払い」と似たような意味)段階において、すべての罪と無礼が消され、解放が得られる、と説明しました。

解放された、高く上げられた魂だけが主の御名を純粋に唱えることができ、そうして最高の悟り(realization)、至高主へのけがれない(untainted)愛を得ることができます。詭弁法(sophism)に強く執着していた推量的な哲学者のブラーマナは、聖人の教えを分かるようになる(to fathom)ことができず、そしてそのため、彼に無礼をはたらいてしまうことになりました(to end up ~ing)。

愚かなブラーマナは、聖なる御名の素晴らしさ(excellences、長所、美点)に関する自分の独自の解釈を押し付けようとし(to impose)、そしてシュリーラ・ハリダーサ・タークラは単なる感傷主義者だと結論づけました。彼は無礼にも(insolently、横柄な態度で)公衆の面前で聖人を非難し(to rebuke)、彼の解説と人格を笑いものにしようとしました(to ridicule、あざ笑う)。

第2段落
議論好きな(argumentative、理屈っぽい)非人格者たちは、まず完全真理の科学を正しく理解することなくしては人は決して(cannot possibly)至高主への堅固な献身の念を育むことはできない、ということを理解(to grasp)し損ないます。

そのため、人が純粋な献身奉仕の水準に位置しているのが見られるとき(訳注:~していれば)、彼の無明は滅ぼされたと理解されます(it is to be understood、やや格式ばった表現)。

私たちはこの点を先の随筆(essay)「献身の科学」(訳注:第2部のこと)において少し詳しく(in some detail)論じました。経験主義的な哲学者は一般に、人間の人生は完全な知識を得るためにあるという考えを唱えます(to put forward)。

彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける(to discern ~ from ~)能力を意味します。幻想を根こそぎにし(to eradicate、撲滅)、真理と現実はブラーマンと異なるものではない(nondifferent)ということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。

それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって(birth after birth)得ようとする(to aspire to attain)完全な知識の、彼らの(訳注:彼らによる)定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在(entity)になるとき知識の最高の段階に至る(~ is reached)、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します(When ~ become one entity, which is then finally merges into Brahman, attaining liberation)。

主チャイタンニャは解放のこの段階をバーヴァ・マハーダーヴァーグニ・ニルヴァーパナム、「物質的な存在の炎を消す」と描写なさいました。主は、純粋な献身者は神の聖なる御名を唱えることによって簡単に解放のこの段階に至る、ということを証明する多くの節を、明かされた聖典から引用なさいました。

第3段落
不幸にして、頑固な非人格主義者は、ヴェーダの4つの目的(宗教的な熱意(religiosity)、経済的な発展、感覚の満足、そして解放)さえも超えた最終的な霊的な目的地(destination)は、至高神への完全に純粋で超越的な愛だ、ということを理解することができません。

彼らは誤って、主の献身者を感傷主義者だと考え(to mistake ~ for ~)、彼らを自分たちの哲学的な敵対者(opponents)と見なします。これらの全くの(out-and-out、純然たる、徹底した)非人格主義者の他に、純粋な献身の道から逸れて見せかけ(pretension、気取ってもったいぶった様子)に陥った(to fall prey to~、犠牲になった)一群の献身者たちがいます。

これらのペテン師(cheaters、ずるいことをする人、騙す人)は実際は、至高主と同化しようとする非人格主義者の道を辿ることになります(to end up)。そのような物質主義的な感傷主義者は、主の献身者のうちに数えられません。

彼らの非人格主義者の片割れ(counterparts、互いに良く似て対をなすもの)のように(Like their impersonalist counterparts、この場合は「似たもの同士である~と同様に」というような意味)、彼らは至高主の御名、形、性質、娯楽、仲間、あるいは主に関する諸々の本当の立場を理解することができません。

なぜなら、彼らは誤って、これらの超越的な主題を幻想であると考えるからです。彼らは気まぐれに(capriciously)振る舞い、大衆を惑わせます(to confuse)。

第4段落
これらの物質主義的な感傷主義者はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な結論を退け、非人格主義の庇護の下に入ろうとします(訳注:~主義を奉じようとする)。しかし彼らは惨めにも、非人格主義者の学識と修養(discipline、訓練、修行、規律)に欠けています。

彼らは、聖典に関する議論を無味乾燥な推量であると、そして自分たちの無知で感傷的な感情の爆発(outburst)を自然に起こる(spontaneous、思わず何かをしてしまう様子)献身の情熱(fervor、取り乱すほど激烈な様子)であると見なして、自らを非人格主義者の聖典の学習と哲学的な議論から切り離します(to divorce、この場合は「怠る」と同義と思われる)。

第5段落
これらの偽者(pretenders、何かの振りをする人)の一部は、非人格主義者の足跡を非常に近く辿り(訳注:非常によく似ている、真似している)、そしてそのため、非人格主義者の系統(line)の狂った(deranged)分家(offshoot、横枝)として受け入れられるかもしれません。

しかし、彼らは確かに、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの系統の中にいる者によって辿られる(ヴァイシュナヴァの門下(discipline、学問などの分野、修行)の一部ではありません(訳注:決して~の流れを汲む~の一員ではありません)。

これらの偽者たちは、献身者の特定の特徴(mannerisms、「マンネリ」、固定化した特有の習慣など)をせっせと(diligently、こつこつ、勤勉に)培い、表します。そしてそのため、非人格主義者は彼らを自分たちの集団(fold、特定の信仰や思想を持つ集団)から退けます。

こうして非人格主義者とヴァイシュナヴァの両方から追放(to ostracize、排斥)され、彼らは発狂した(demented)感傷主義者の宗教集団(cult)を形成します。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、そのような偽者たちは霊的な社会に暴力(outrage、不名誉で残虐な行為、憤り)を作り出す、と宣言なさいます。ブラーマ・ヤマーラにはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「ウパニシャッド、プラーナ、そしてナーラダ・パンチャラートラなどの権威ある(authorized)ヴェーダ文献を無視している、主への献身奉仕は、単に社会における不必要な妨害(disturbance、騒動)です。」

そのような偽者、非人格主義者、経験主義者、そして結果を求めて働く者たちに慈悲を見せるため、至高主、クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて、ジニャーナ・ヨガ、すなわち知識を通してのヨガを論じられました。したがって私はこの随筆において、同じ主題に取り組みます(to embark upon)。

第6段落
本当の知識とは、真実と幻想の違いを見分ける(to discriminate between ~ and ~)ことを意味します。ジニャーナ・ヨガは、超魂とブラーマンの源である至高主への超越的な献身奉仕の道に、人が永遠に定まるようになる過程です(~ is the process by which one becomes ~)。

ジニャーナ・ヨガは決して、問い(enquiry、知識を得るための研究)の上行性の(ascending)過程、帰納的な(inductive、個別的な事例から一般的な法則を見出そうとする論理的推論)方法、それによって人が、徐々に本当でないもの(unreal)を退けることによって現実を幻想から離すことだけを目的とする、ということを意味すると解釈されるべきではありません。

(訳注:ジニャーナ・ヨガは決して、身近な事例から類推して高い真理を導きだそうという方法ではなく、そうすることによって徐々に現実から幻想を拭い去ることだけを目的としているのでもなく、誤解のないようにしなければなりません。)

すべての富と力に満ち、その身体的な輝き(luster)はブラーマンの光輝であり、そしてその部分的な拡張体が超魂でいらっしゃる至高主に奉仕をすることなくして、完全な知識を得るのは不可能です。

ゴパーラ・チャクラヴァルティーというこのブラーマナは(the brahmana Gopala Cakravarti)、ジニャーナ、完璧な知識は、主への献身奉仕よりもはるかに優れていると信じていました。しかし、チャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ3.201)には、次のように記録されています。

(サンスクリット引用)

「バララーマ・アーチャーリャという名前の僧(priest)が、ゴパーラ・チャクラヴァルティーを叱責しました(to chastise)。『あなたは愚かな論理学者(logician)です』と彼は言いました。『あなたは主への献身奉仕について何を知っているのですか?』」

第7段落
もしも人が主の献身者である振りをし、しかし無味乾燥で推量的な知識と、至高の完全真理に関する(of)知識の間の違いを理解しないなら、それならそのような人の献身の念は非人格主義すれすれであり(to border on ~)、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な教えに完全に反している安っぽい感傷主義と同格です(to rank with)。

したがって、ジニャーナ・ヨガは推量や経験主義的な研究ではありません。また、それは献身者の振りをしている成り上がり者(upstarts、横柄で傲慢な人)の唐突な感情の爆発(outbursts)でもありません。本物のジニャーナ・ヨガを実践することによって、経験主義的な哲学者さえ、聖典から純粋に霊的な話題を聞くことへの好みを育みます。

やがて彼は至高主の超越的な立場と力を理解するようになり、そして究極的には彼は、永遠であり、知識と喜びに満ちた主のお姿(form)を喜ぶ(to relish、味わう)ようになります。彼は主をすべての超越的な味わい(mellows)の体現として知覚します。

そして、経験主義者の真似をするのを好む、見せ掛けの(pretentious)非献身者の感傷主義者たち(訳注:非献身者であり、見かけを取り繕うばかりの感傷主義者たち)が本当のジニャーナ・ヨガを実践するなら、それなら彼らも完全真理に関する正確な認識(perspective、見方)を得るでしょう。

彼らは、至高主の形は霊的で超越的であるという理解において堅固に確立するようになり、そしてそのとき彼らは断固たる(unflinching、ひるまない)献身奉仕を捧げ始めるでしょう。

第8段落
チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)においてシュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャが次のように助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「真摯な学徒は、それらは議論の余地がある(controversial、諸説ある、物議をかもす)と考えて、そのような(聖典の)結論に関する議論をないがしろにすべきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。こうして人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」

そのような議論と問いを通して、私たちは自分はジーヴァ、個々の魂であり、その上において(upon which)自分の体と心は一時的で幻想的な重荷(imposition、不必要な負担)であるということに気づくようになります。

聖典は、主の優性で霊的なエネルギーの産物であるジーヴァを指して、クシャトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼びますが、他方で聖典は一時的で物質的な体と心をクシェトラ、すなわち場と呼びます。

ちょうどジーヴァが彼の個々の体と心との関係においてクシェトラ・ジニャであるように、主はご自分の広大な普遍的な形(His vast universal form)との関係においてクシェトラ・ジニャです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(13.3)において次のように教えられます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの御曹司(scion)よ、あなたは私がすべての体における知る者であると理解すべきです。」

第9段落
したがって、ジーヴァと至高主は、どちらもクシェトラ・ジニャ、「場を知る者」であるという点では(in the sense that ~)異なるものではありません。しかし、彼らのそれぞれがどのクシェトラを知っている(is knowing)かを見るとき、ジーヴァと至高主の間の違いは計り知れないほど(incalculably)大きい(wide)ように見えます(to be seen to be)。

至高主は無限大(infinite)であり、他方でジーヴァは微小(infinitesimal)です。意識として、ジーヴァは自分のカルマ、すなわち結果を求める活動によって(due to、~が原因で)得た自分の体と心に広がります(to pervade、充満、浸透)。

同様に、至高主はご自分の意識で創造全体---主の普遍的な体---に広がります。ジーヴァは自分の体に非人格的な意識として広がります(to permeate、充満、浸透)が、彼はいつも人格(a person)です。

同様に、ご自分の非人格的なあまねく広がる(all-pervasive)特徴において、至高主はご自分の意識で宇宙の顕現を満たされますが、ご自分の個人的な特徴において、主は永遠にゴロカ・ヴリンダーヴァナに留まり、娯楽をなさいます(performing)。

この点はブラーマ・サムヒター(5.37)によって実証されています(to substantiate)。(サンスクリット引用)「いつもゴロカと呼ばれるご自分のお住まいに住んでいらっしゃいますが、主はあまねく広がるブラーマンであり、局所的なパラマートマーでもいらっしゃいます。」

そして、バガヴァッド・ギーターにおいて主ご自身が場と場を知る者の機能(functions、役割)を説明なさり、そして主は、ご自分が知る者として創造全体に存在している、とおっしゃいます。

第10段落
無味乾燥な推量者は、場とそれを知る者を自分の偏った(lopsided)論理に応じて描写します。彼らは、体は容器のようなものであり、ブラーマンはあまねく広がる空のように、この容器に入ります。いったんこの容器が壊れると---というのは、解放のとき---ジーヴァは空によって象徴されるブラーマンに戻って同化します(to merge back into)。

この議論には多くの逃げ道(loopholes、抜け穴、義務などを逃れるためのあいまいさ)があります。何よりもまず、ジーヴァは霊的なエネルギーであり、他方で空は物体です。霊的な主題(subject)を物質的な主題と比べるのは間違っています。

これは、霊的な実体(substance)を俗的なものと同列に並べ(to equate)ようとして、非人格的な推量者がどのように自分の時間を無駄にするかということの典型的な例です。そのような経験主義的な実践(exercises)は、決してジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への(of)道とは呼ばれ得ません(to be termed)。

非人格主義者によれば、微小なジーヴァは解放のときに無限大のブラーマンに同化します。しかし、そのような同化は無限大の存在(the infinite)にどのような影響も与えません。不幸にして、非人格主義者たちはそのような解放が微小な生命体に引き起こす途方もない(tremendous)打撃に気づいていません(oblivious)。
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お待たせしました。第3部の始まりです。実はこのあと第5部まであるのです。それにしても、イソップ物語のコウモリのようなどっちつかずの熱狂的な人々は、もうどうあっても救われませんね。いったいどんな人たちなのだろう、数十年前のインドの宗教事情はけっこう恐ろしげだな、と思います。今もあんまり変わらないのかな。

それから、文章の小難しいことと言ったらありませんね、ほんと。特にこのへんとかはひどいです。「彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける能力を意味します。幻想を根こそぎにし、真理と現実はブラーマンと異なるものではないということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって得ようとする完全な知識の、彼らの定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在になるとき知識の最高の段階に至る、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します」。。。

なんのこっちゃ、と思います。平たく言えば何なのだ、一体何が言いたいのだ!?という気になりますが、これはおそらくインド人のもともとの理屈っぽさと言葉数の多さに加え、プラブパーダの古風な原文と翻訳者の古風な英語が組み合わさった結果なのだと思います。腰をすえてよーく読めばどことなく意味が通じることと思いますので、どうぞ皆様努力して読解し、心の中で平易な日本語に直しながら読んでくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-04-09 04:28 | 「英知による放棄」 | Comments(0)