カテゴリ:「知識の王」( 14 )

第8章 後半

第17段落
カルマの道は非常に複雑です。したがって、私たちはカルマ、アカルマ、そしてヴィカルマの間の違いを理解すべきです。もしも私たちが単にクリシュナ意識に携わるなら、すべては明らかになります。そうでないなら、私たちは呪縛されないようにするために、自分が何をすべきかということ、そして自分が何をすべきでないかということの間の区別をつけなくてはなりません。

普通の人生において(in the ordinary course of life、人生の普通の過程において)、私たちは知らずに何らかの法律を破り、その結果に苦しまねばなりません。同様に、自然の法律は非常に厳しくて厳格なので、それらは何らの言い訳も受け入れません。

火が燃えるのは自然の法律であり、たとえ子供がそれを触っても、彼は火傷します。彼の無知と無邪気さにも関わらずです。このため私たちは、自然の厳格な法律が私たちを苦しみに縛り付けるような反応をしないように(lest)、自分の活動の方針(our course of action)を非常に注意深く選ばねばなりません。したがって、何の仕事をし、何の仕事を避けるかを理解することが必要です。

第18段落
カルマという言葉は、定められた義務を指します。ヴィカルマという言葉は、人の定められた義務に反する活動を指します。そして、アカルマという言葉は、全く何の反応もない活動を指します。アカルマ的な活動を遂行するにあたって、何らかの反応があるように見えるかもしれませんが、実際にはそれはありません。

私たちがクリシュナの指示の下で働くとき、これは実際にそうです―――反応がありません。もしも私たちが誰かを殺すことを自ら行うなら(if we take it upon ourselves to kill someone)、私たちは国家政府によって死刑にされます(we are subject to)。そのとき私たちの活動はヴィカルマと呼ばれます。

なぜなら、それらは定められた活動に反するからです。しかし、もしも政府が私たちを軍隊に徴兵し、そして私たちが戦いに携わって誰かを殺すなら、私たちは反応に苦しみません。そしてこれはアカルマと呼ばれます。

一つの場合には私たちは自分の気まぐれに応じて活動しており、もう一つの場合には私たちは政府の指示の下で活動しています。同様に、私たちがクリシュナの指示の下で活動するとき、私たちが行った活動はアカルマと呼ばれます。なぜなら、そのような種類の活動は反応を持たないからです。

(サンスクリット引用)

「活動の中に非活動を、そして非活動の中に活動を見る者は、人間の中の知性的な者です。そして彼は、あらゆる活動に携わっているにも関わらず、超越的な立場にいます。」(Bg.4.18)

第19段落
活動にも関わらずカルマ的な反応がないということを実際に見ることのできる者、アカルマの性質を理解する者は、実際に物事をありのままに見ます。アカルマという言葉は、カルマの反応を避けようとしている者を指します。

自分の活動をクリシュナ意識に繋げることによって、人はあらゆる種類の活動をするかもしれませんが、それにも関わらず彼は自由です。クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦いにいそしみ、そしてドゥリョダーナの側にいた者たちもまた、戦いにいそしみました。

私たちは、なぜアルジュナは反応から自由で、他方で、ドゥリョダーナはそうでないのか、ということを理解しなければなりません。外的には、私たちは両者とも戦いにいそしんでいるのを見ることができます。しかし私たちは、「アルジュナはクリシュナの命令の下で戦っているため、彼は反応によって縛られない」ということを理解すべきです。

このように、誰かがクリシュナ意識において働いているのを見るとき、私たちは彼の仕事は何の反応も持たない(to carry)、ということを理解すべきです。そのような仕事を見てそれを理解することができる者は、非常に知性的(サ・ブッディーマーン)であると考えられるべきです。その手法(technique)は、人が何をしているかを見ることにはあまりなく、なぜ彼がそれをしているかを理解することにあります。

第20段落
実際は、アルジュナは戦場において非常に喜ばしくない(unpleasant)活動に携わっていました。しかし、クリシュナ意識だったので、彼は何の反応にも苦しみませんでした。私たちは、自分が非常に良い仕事だと考えるかもしれない何らかの活動を行っているかもしれません。

しかし、もしも私たちがそれをクリシュナ意識において行わないなら、私たちは反応に苦しまねばなりません。物質的な観点からは、戦わないというアルジュナの最初の決断は良いものでした。しかし、霊的な観点からは、それはそうではありませんでした。

徳のある(pious、敬虔な)仕事をするとき、私たちは特定の結果を得ます。私たちは、とても良い家庭に、(つまり)ブラーマナの、あるいは裕福な人の家庭に生まれるかもしれず、非常に豊かになったり、学識があったりするようになるかもしれず、あるいは非常に美しくなるかもしれません。

他方で、もしも私たちが非敬虔な(impious、卑俗な)仕事をするなら、私たちは身分の低い家庭、あるいは動物の家庭に生まれなければならないかもしれず、あるいは文盲(illiterate、無学)や愚鈍(foolish)になったり、あるいは非常に醜くなったりしなければならないかもしれません。

たとえ非常に徳のある仕事に携わって良い生を受けても、私たちはそれでも活動と反応の厳格な法律の影響下にあります。私たちの主要な目的は、この物質世界の法律を逃れることであるべきです。もしもこれを理解しないなら、私たちは貴族的な家庭、富、あるいは良い教育、または美しい体に魅了されるようになるかもしれません。

私たちは、「自分は物質的な人生のためのこれらすべての設備を持っているにも関わらず、誕生、老齢、病気と死から自由ではない」ということを理解するようになるべきです。このことに関して私たちに注意を促すために、シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて警告なさいます。

(サンスクリット引用)

「物質世界の中の最高の惑星から最低のそれに至るまで、すべては繰り返す誕生と死が存在する悲惨な場所です。」(Bg.8.16)

第21段落
ブラーマロカ、物質的な宇宙の中の最高の惑星においてさえも、誕生と死の繰り返しが存在します。これから自由になるためには、私たちはクリシュナの惑星に行かねばなりません。裕福な人や美しい人であることは非常に素敵(nice)かもしれませんが、どれくらい長く私たちはそうしていられるでしょうか?

それは私たちの永遠の人生ではありません。私たちは50年、60年、あるいは最長で100年の間、学識があって豊かで、そして美しくいられるかもしれません。しかし、本当の人生は50年や100年ではなく、千年でもなく、百万年でさえありません。

私たちは永遠であり、そして私たちは自分の永遠の人生を得なければなりません。私たちがそれを得ていないというのが、私たちの問題全体です。その問題は、私たちがクリシュナ意識であるとき、解決され得ます。

第22段落
もしも私たちがクリシュナ意識においてこの物質的な体を去るなら、私たちはもはや物質世界に戻る必要はありません。要点は、この物質的な存在を完全に避けることです。物質世界における自分の状況を改善する、ということではありません(it is not the question of)。

刑務所において人は第一級の囚人になるために自分の状態を改善したいと思うかもしれず、そして政府は彼に第一級の評価を与えるかもしれませんが、正気の者は誰も囚人になることによって満足するようになることはありません。

彼は完全に刑務所から出ることを望むべきです。物質世界において、私たちの一部の者は一級、(そして他の者は)二級、あるいは三級の囚人ですが、どの場合でも私たちは皆、囚人です。本当の知識は、単に修士号、あるいは博士号を得ることにあるのではなく、存在のこれらの基本的な問題を理解することにあります。

(サンスクリット引用)

「そのすべての行いが感覚の満足への欲求を含まない者は、完全な知識の中にあるとして理解されます。彼は賢人たちによって、『自分の結果を求める活動が完璧な知識の火によって燃え尽くされた者』と言われます。」(Bg.4.19)

第23段落
パンディタムという言葉は学識があることを意味し、ブダーは「精通している」を意味します。10章の中で、私たちは「ブダー・バーヴァサマンヴィター」という節においてもブダーという言葉を見出します。(Bg.10.8)バガヴァッド・ギーターによれば、単に大学から多くの教育を受けたからといって、人は学識のある人とは限りません(may not be)。バガヴァッド・ギーターは、すべてのものを等しい水準において見ることができる者は学識がある人だ、と言います。

(サンスクリット引用)

「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は等しい見方をもって、学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、そして犬食い(賎民)を見ます。」(Bg.5.18)

第24段落
インドでは、ヴェーダの文明によれば、学識のあるブラーマナは人間の社会において最高の者と考えられます。学識があって柔和なパンディタは、そのようなブラーマナを犬、あるいは犬を食べる賎民と同じ水準において見ます。言い換えると、彼は最高と最低の間に区別を見ません。

これは、学識のあるブラーマナであることは犬であることよりも優れたものではない、ということでしょうか?いいえ、それはそうではありません。しかし、パンディタは彼らを同じとして見ます。なぜなら、彼は皮膚を見ず、霊を見るからです。

すべての生命体の中に同じ霊魂を見る術(art、すべ)を学んだ者は、パンディタと考えられます。なぜなら、実際はすべての生命体は霊的な火花(校正. →,)、完全な霊的な全体の欠かすべからざる小片だからです。

霊的な火花はすべてにおいて同じですが、それは異なる衣服によって覆われています。立派な(honored、名誉ある)人は、非常にみすぼらしい服を着て来るかもしれませんが、これは彼が軽んじられる(dishonor、名誉を汚す)べきだということを意味するのではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、これらの物質的な体は霊魂によってまとわれる衣服になぞらえられます。

(サンスクリット引用)

「人が古いものを捨てて新しい衣服をまとうように、同様に、魂は古くて役に立たないものを捨てて新しい物質的な体を受け入れます。」(Bg.2.22)

第25段落
何かの生命体を見るときはいつでも、私たちは「ここに霊魂がいる」と考えるべきです。そのような生命の霊的な見方を理解することのできる者は誰でもパンディタです。チャーナキャ・パンディットは、このようにパンディタのための教育あるいは資格のための基準を与えます。

「学識のある人は、自分の妻を除いて、すべての女性を自分の母として見ます。彼はすべての物質的な所有物を路上のゴミとして見て、そして彼は他者の苦しみを自分の中に見ます(as he would look on them in himself)。」

主ブッダは、「私たちは動物でさえ、言葉あるいは行いによって傷つけるべきではない」と教えられました。これがパンディタのための資格であり、これは人生の基準であるべきです。したがって、「人は彼の学位によってではなく、自分の人生の見方(his vison of life)およびその見方に応じた自分の活動に応じて、教育があると考えられるべきだ」と理解されるべきです。

これがバガヴァッド・ギーターからの、パンディタという言葉の理解です。同様に、ブダーという言葉は特に、聖典の研究に造詣の深い者を指します。そのような認識と聖典の学習の結果は、バガヴァッド・ギーターにおいてこのように描写されています。

(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものが私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、そして心から(with all their hearts)私を崇拝します。」(Bg.10.8)

第26段落
造詣の深い者、すなわちブダーは、クリシュナがすべての放射の源であると理解した者です。何であれ私たちがたまたま見るものは、クリシュナの放射に他なりません。何百万年も何百万年もの間、太陽光は太陽から放射しています。そしてそれでも太陽はそのままです。同様に、すべての物質的および霊的なエネルギーは、クリシュナから来ています。これを知ることの結果として、人はクリシュナの献身者になります。

第27段落
このように、自分はクリシュナ意識のいて働かねばならないと知っている者、もはやこの物質世界を楽しみたいと望まない者は、実際に学識があります。誰もが、欲望(カーマ)が原因で物質世界で働いています。しかし、賢い人はこの欲望の指図から自由です(カーマ・サンカルパ・ヴァルジター)。

どうしてこれが可能なのでしょうか?ジニャーナーグニ・ダグダー・カルマーナム。知識の火は罪深い活動のすべての反応を焼き尽くします。それは浄化するものの中で最も強力です。私たちの人生は、私たちがすべての知識の王であるクリシュナ意識というこの超越的な知識、ラージャ・ヴィデャーを得ようと努力する限りにおいて、意味と方向性を持ちます。

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以上で本書の翻訳を終わります。以下、索引など全て省略します。
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by ammolitering4 | 2012-04-06 11:28 | 「知識の王」 | Comments(2)

第8章 前半

第8章 クリシュナの知識における活動

(サンスクリット引用)

第1段落
「私に影響を与える仕事はありません。また、私は活動の結果を望むこともありません。私に関するこの真理を理解する者もまた、仕事の結果的な反応に絡まることはありません。」(Bg.4.14)

第2段落
世界全体がカルマによって縛られています。私たちは皆、1ミリメートルの長さの中に何百万と存在する微生物や菌の存在を知っています。ブラーマ・サムヒターの中で、「インドラゴパと呼ばれる微生物に始まり、天国のような惑星の王であるインドラまで、皆がカルマ、仕事の反応に縛られている」と述べられています。

私たちは皆、良いものであれ悪いものであれ、自分の活動の反応を苦しんだり、あるいは楽しんだりしなければなりません。これらの反応を苦しんだり楽しんだりしなければならない限り、私たちはこれらの物質的な体に縛られています。

第3段落
自然の配剤によって、生命体には自分の苦しみ、あるいは楽しみのための物質的な体が与えられます。異なる目的のために異なる種類の体が得られます。虎の体は、殺すことと生肉を食べることのために作られています。同様に、豚は糞を食べるように作られています。

そして、人間として、私たちの歯は野菜と果物を食べるように作られています。これらの体のすべては、生命体によって過去の生においてなされた仕事に応じて作られています。私たちの次の体は、私たちが今行っている仕事に応じて準備されています。

しかし、先に引用した節において、シュリー・クリシュナは、ご自分の活動の超越的な性質を知っている者は、活動の反応から自由になる、と示されます。私たちの活動は、私たちが再びこの物質世界において呪縛されることのないようにするものであるべきです。

これは、もしも私たちが、「クリシュナを研究することと、主の活動の超越的な性質を学ぶこと、そして主がこの物質世界と霊的な世界においていかに振舞われるかを理解すること」によってクリシュナ意識になるなら、可能とされ得ます(this can be made possible)。(訳注:一文が長いので、理解の補助のために括弧を入れています)

第4段落
クリシュナがこの地上においでになるとき、主は私たちのようではありません。主は完全に超越的です。私たちは自分の活動の結果を望みますが、クリシュナは何の結果も望まず、また、主の活動には何の反応もありません。また、主には結果を求める活動(ナ・メ・カルマパーレ・スプリハー)のための何の欲求もありません。

取引に入るとき、私たちは利益を欲します。そしてその利益で私たちは自分の人生を楽しめるものにするための物を買いたいと望みます。制約された魂が何かをしようとするときはいつでも、その背後に楽しみへの欲求があります。しかし、クリシュナは望むべき何も持ちません。

主は至高の人格神であり、そして主はすべてのもので完全に満たされています。クリシュナがこの地上にいらしたとき、主は多くの女友達と1万6千人以上の妻たちを持っていました。そして、一部の人々は主は非常に官能的だったと考えます。しかし、これ(訳注:主が官能的だったということ)は事実ではありませんでした。

第5段落
私たちは、クリシュナとの関係の意味を理解しなければなりません。この物質世界において、私たちは父、母、妻、あるいは夫として、多くの関係を持っています。何であれ私たちがここで見出す関係は、私たちが至高主と持っている関係の歪んだ反映に他なりません。

何であれ私たちがこの物質世界の中において見出すものは、完全真理から生じていますが、ここではそれは、時間の中で歪んで反映されています。何であれ私たちがクリシュナと持っている関係は続きます。もしも私たちが友情において関係を持っているなら、その友情は永遠で、幾世も(from life to life)続きます。

物質世界では、友情は2~3年存在し、そして壊れます。したがってそれは「歪んだ」、「一時的な」、あるいは「本物でない」、とよばれます。もしも私たちがクリシュナと友情を結ぶなら、それは決して壊れません(校正:,→ .)。もしも私たちがクリシュナを自分の主人とするなら、私たちは決して騙されません。

もしも私たちがクリシュナを自分の息子として愛するなら、主は決して死にません。もしも私たちが主を自分の恋人として愛するなら、主はすべてのうちで最良となり、別離はありません。クリシュナは至高主であるため、主は無限であり、無限の数の献身者をお持ちです。

一部の者は主を恋人あるいは夫として愛そうとしており、そしてそのためクリシュナはこの役割を受け入れます。どのような方法で私たちがクリシュナに近付くのであれ、バガヴァッド・ギーターにおいておっしゃるように、主は私たちを受け入れられます。

(サンスクリット引用)

「彼らすべてに―――彼らが私に服従するとき―――私は相応に報います。すべての者がすべての側面において私の道を辿ります、おお、プリターの息子よ。」(Bg.4.11)

第6段落
ゴピー、すなわちクリシュナの牛飼いの女友達は、過去の生において、クリシュナを自分の夫として得るために大変な苦行を行いました。同様に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、「クリシュナと遊んでいた少年たちは、クリシュナを遊び相手として得るために、自分の過去において大変な苦行と禁欲を行った」とおっしゃいます。

このように、クリシュナの遊び友達、仲間たちと妻たちは、普通の生命体ではありません。私たちはクリシュナ意識について何も知らないので、主の活動を取るに足らないものとして受け取ります。しかし、実際はそれらは荘厳です。私たちの欲望の完全な完成(all perfection)がそこにあります。何であれ私たちが本質的に持っている欲望は、私たちがクリシュナ意識にあるときに完全に満たされます。

第7段落
クリシュナは、ご自分と遊ぶ友人を必要としませんでした。また、主はただ一人の妻も欲しませんでした。私たちは、満たしたい何らかの欲望を持っているために、妻をめとります。しかし、クリシュナはご自分だけで完全です(プールナム)。

貧しい人は銀行に千ドル持つことを望むかもしれませんが、何百万(ドル)も持っている豊かな人は、そのような望みは持ちません。もしもクリシュナが至高の人格神であるなら、なぜ主は欲望を持つべきでしょうか?そうではなく、主は他の者たちの欲望を満たします。

人が乞い、神が与えます。(訳注:Man proposes, God disposes.諺。「人事を尽くして天命を待つ」、「計画は人に在り、成敗は天に在り」。To proposeは、申し入れる、提案する、などの意味。)もしもクリシュナが何かの欲望を持っていたなら、主は不完全です。なぜなら、主は何かを欠いていることになるからです。

したがって主は、ご自分は何の満たすべき欲望もない、とおっしゃいます。ヨゲシュバラ、すなわちすべてのヨギーたちの主人として、何であれ主が意志なさるものは直ちに実現します(to realize)。欲望の余地はありません(There is no question of desire)。

主は、ただご自分の献身者の欲望を満たすために、夫、あるいは恋人、あるいは友人になります。もしも私たちがクリシュナを友人、主人、息子あるいは恋人として受け入れるなら、私たちは決して失望しないでしょう(to be frustrated)。すべての生命体はクリシュナと特定の関係を持っています。しかし、現在はこの関係は覆われています。私たちがクリシュナ意識において発達するにつれて、それは明かされるでしょう。

第8段落
至高主は完全であって何もすることがありませんが、主は例を示すために働かれます。主は物質世界におけるご自分の活動に縛られず、そしてこれを知る者もまた、反応的な活動から自由になります。

(サンスクリット引用)

「古代におけるすべての解放された魂は、この理解をもって活動し、そしてそのため解放を得ました。(原文:All the liberated souls in ancient times acted with this understanding and so attained liberation.)したがって、古代人(ancients)(がした)ように、あなたは自分の義務をこの神聖なる意識において行うべきです。」(Bg.4.15)

第9段落
クリシュナ意識の過程は、霊的な人生において成功を得た偉大なアーチャーリャたちの足跡を私たちが辿るということを必要とします。もしも人が、偉大なアーチャーリャたち、賢人たち、献身者たち、そして自分の人生においてカルマ・ヨガを行った啓蒙された王たちによって示された例に従うことによって活動するなら、彼もまた自由になるでしょう。

第10段落
クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦争に携わることによって自分の活動の中に呪縛されることを非常に恐れていました。したがってクリシュナは彼に、もしも彼がご自分のために戦ったなら、呪縛の可能性はない、と保証なさいました。

(サンスクリット引用)

「知性的な者でさえ、何が活動であって何が非活動(inaction)であるかを区別することにおいて幻惑されます。今、私はあなたに、何が活動であるかを説明します。それを知れば、あなたはすべての罪から解放されるでしょう(shall)。」(Bg.4.16)

第11段落
人々は実際に、何が仕事(カルマ)で何が仕事でない(アカルマ)かについて混乱しています。ここでクリシュナは、「偉大な学者たち(カヴァヤー)でさえ、仕事の性質について幻惑されている」と示されます。どの活動が本物でどれがそうでないか、どれが真正でどれがそうでないか、どれが禁じられていてどれがそうでないか、を知る必要があります。

もしも私たちが仕事の原則を理解するなら、私たちは物質的な呪縛から自由になることができます。したがって、どうやって仕事を行うかを知る必要があります。私たちが物質の体を去るとき、もはやもう一つ(の体)を取ることを強制されず、自由に霊的な天空に入れる(be free to enter into)ようにするためです。正しい仕事の原則は、11章の最後の節においてシュリー・クリシュナによって明確に述べられています。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるアルジュナよ。過去の活動の汚染から、そして精神的な推量から自由になって、私への純粋な献身奉仕に携わっている者、すべての生命体に対して友好的である者は、確かに私のところに来ます。」(Bg.11.55)

第12段落
この一節は、バガヴァッド・ギーターの真髄を理解するのに十分です。人は「私の仕事(訳注:My work、クリシュナのために働くこと)」に携わらねばなりません。そして、この仕事とは何でしょうか?それは、クリシュナがアルジュナにご自分に服従するようにおっしゃる、バガヴァッド・ギーターの中の最後の教えにおいて示されます。(Bg.18.66)

第13段落
アルジュナの例によって、私たちは、自分はクリシュナによって認められた仕事だけをすべきである、ということを学ぶべきです。これが人間の人生の使命ですが、私たちはそれを知りません。自分の無知のため、私たちは人生の身体的あるいは物質的な概念に関わる非常に多くの仕事に携わります。クリシュナはアルジュナに戦うことを望まれ、そしてアルジュナは戦いたくなかったにも関わらず戦いました。クリシュナがそれを望まれたからです。私たちはこの例に倣うことを学ばねばなりません。

第14段落
もちろん、クリシュナはアルジュナに彼の仕事が何であるのかを言うためにそこにいらっしゃいましたが、私たちについてはどうでしょうか?シュリー・クリシュナはアルジュナに個人的に、これこれこういうふうに活動するように、と指示していらっしゃいましたが、単にクリシュナが私たちの前に個人的にいらっしゃらないからといって、私たちは指示がないのだと考えるべきではありません。実に、指示は存在します。バガヴァッド・ギーターの最後の章において、私たちが行うべき正しい仕事が与えられています。

(サンスクリット引用)

「献身者に至高の秘密を説明する者にとって、献身奉仕は保証されています。そして最後に彼は私のもとに戻ります。この世の中に、私にとって彼より愛しい従者はいません。また、もっと愛しい者が未来において現れることもありません(nor will there ever be one more dear.)。」(Bg.18.68-69)

第15章
したがって、バガヴァッド・ギーターの方法(method)を布教し、人々をクリシュナ意識にすることは、私たちの義務です。クリシュナ意識が欠けているので、人々は実際に苦しんでいます。世界全体の利益のために、私たちは皆、クリシュナの科学を広めることに携わるべきです。

主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナ意識を教えるという、この使命をもっておいでになり、そして主は、「身分に関わらず、もしも人がクリシュナ意識を教えるなら、彼は霊的指導者と考えられるべきです」とおっしゃいました。

バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、どちらも、どうやってクリシュナ意識になるかという情報に満ちています。主チャイタンニャ・マハープラブはこれらの2冊の本を選び、世界中のあちこちの人々(people in all corners of the world)が、このクリシュナの科学をすべての町と村で広めることをお頼みになりました。

主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身であり、そして私たちはこれを、私たちの正しい仕事に関するクリシュナの指示として受け取るべきです。しかし、私たちは、個人的な解釈や動機なくして、ありのままにバガヴァッド・ギーターを提示するように注意すべきです。一部の人々はバガヴァッド・ギーターの解釈を提示します。しかし、私たちは(訳注:バガヴァッド・ギーターの、あるいはクリシュナの)言葉をシュリー・クリシュナによって話されたように提示すべきです。

第16段落
クリシュナのために働く者は、物質世界の中の他の誰ものように働いているように見えるかもしれませんが、これはそうではありません。アルジュナはちょうど普通の軍人のように戦ったかもしれませんが、彼はクリシュナ意識において戦ったので、自分の活動の呪縛から自由でした。

このように、物質的であるように見えたにも関わらず、彼の仕事は全く物質的ではありませんでした。それが何であるかに関わらず―――クリシュナによって認められたいかなる活動も、反応を持ちません。戦うことはあまり良い(nice)ことではないかもしれません。

しかし時として、クルクシェトラの戦いの場合のように、それは絶対に必要です。他方で、世界の意見においては非常に利他的あるいは人道的であるかもしれない仕事を私たちはするかもしれませんが、それでも私たちは物質的な活動に縛られます。ですから、重要なのは活動そのものではなく、活動がなされるときの意識です。

(サンスクリット引用)

「活動の複雑さは理解するのが非常に困難です。したがって、活動とは何か、禁じられた活動とは何か、そして非活動とは何かを、人は正しく知るべきです。」(Bg.4.17)
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by ammolitering4 | 2012-04-06 11:28 | 「知識の王」 | Comments(0)

第7章 後半

第17段落
その荘厳で純粋な知識とは何でしょうか?それは、私たちは神の欠かすべからざる一部である、そして私たちは自分の意識を至高の意識と繋げるべきものである、という知識です。これが物質世界における最も純粋な知識です。

ここでは、すべてが物質自然の相―――徳、熱情、そして無明―――によって汚染されています。徳もまた、一種の汚染です。徳において人は自分の立場と超越的な主題その他について気づくようになりますが、彼の欠陥は、「今、私はすべてを理解した。もう、私は大丈夫だ」と考えることにあります。

彼はここに留まりたいと思います。言い換えると、徳の相にある者は第一級の囚人になり、そして刑務所で幸せになるため、そこに留まりたいと望みます。そして、熱情と無明の相にある者については、何をか言わんや?

要点は、私たちは徳の特質でさえも超越しなければならない、というものです。超越的な立場は、アハム・ブラーマースミー―――「私はこの物体ではなく、霊である」―――という認識で始まります。しかし、この立場さえ不安定です。より多くのものが必要とされます。

(サンスクリット引用)

「このように超越的に位置している者は、直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを得たいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です。その状態において彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(Bg.18.54)

第18段落
ブラーマ・ブーターの段階において、人はもはや物体と(訳注:自分を)同一視しません。人がブラーマー・ブーターの水準において確立したことの最初のしるしは、彼が陽気(プラサンナートマー)になるということです。その水準においては、嘆きも渇望もありません。

しかし、たとえ私たちがこの水準に上がっても、クリシュナへの愛情ある奉仕を習慣づけなければ、再び物質的な渦に落ちる可能性があります。(原文:But even if we rise to this stage and do not take to the loving service of Krishna, there is the possibility of falling down again into the material whirlpool.校正:But even if we rise to this stage, provided we do not take to ~)

私たちは非常に空高く上がるかもしれませんが、もしもそこに拠り所(shelter、避難所)を持たないなら、もしもどこかの惑星の上に着地しないなら、私たちは再び落ちます。単にブラーマ・ブーターの水準を理解することは、私たちがクリシュナの蓮の御足に依り頼まない限り、私たちを助けません。私たちがクリシュナへの奉仕に携われば直ちに、もはや再び物質世界に落ちる可能性はありません。

第19段落
私たちの性質は、何か携わることを欲する、というものです。子供は何か悪さをするかもしれませんが、何かすること(engagement)を与えられない限り、彼はいたずらをしないでおくことができません。何かおもちゃを与えられると、彼の注意はそらされ、彼のいたずらな活動は止まります。

私たちはちょうどいたずらな子供のようです。そしてそのため、私たちは霊的な仕事(engagement)を持たねばなりません。単に自分は霊魂であると理解することは助けになりません。自分は霊であると理解して、私たちは霊的な仕事によって霊を維持しなければなりません。

人がすべての物質的な仕事を放棄し、家と家族を捨てて放棄階級、サンニャーサとなり、しばらくの間瞑想した後で、幾つかの病院を開くことや政治に関わることによって博愛的な仕事をし始めることは、インドでは珍しくありません。

病院を建てる仕事は政府によってなされています。それによって人々が自分の物質的な体を、修復するのではなくて実際に捨てることができる病院を作るのは、サンニャーサの義務です。しかし、本当の霊的な活動とは何かを知らないため、私たちは物質的な活動をします(to take up、従事する)。

第20段落
クリシュナ意識において完璧になることによって、やがて知識と英知が見出されます。最初は何らかの挫折(discouragement、落胆、失望、支障)があるかもしれませんが、「やがて」を意味する「カーレナ」という言葉は、もしも単に辛抱するなら私たちは成功する(will)、ということを示します。次の節に述べられているように、信仰(faith)が必要とされます。

(サンスクリット引用)

「超越的な知識に浸っていて、自分の感覚を抑える信仰深い(faithful)者は、すぐに至高の霊的な平和を得ます。」(Bg.4.39)

第21段落
躊躇していて、何の信仰(faith)も持たない者にとって、クリシュナ意識は非常に難しいものです。私たちの日常の事柄においてさえ、ある程度の信頼(faith)が必要とされます。切符を買うとき、私たちは「航空会社が自分を目的地に連れていってくれる」という信頼を持っています。

信頼なくして、私たちは物質世界の中で生きることさえできません。霊的な発達を遂げることに関しては、何をか言わんや?(校正:疑問符が抜けている)私たちはどこに信頼を置けばよいのでしょうか?(Where are we to keep our faith?)権威にです。

私たちは、自分の切符を正式に認められていない会社に予約すべきではありません。信頼はクリシュナ、バガヴァッド・ギーターの話者に置かれねばなりません。私たちはどうやって信仰深く(faithful)なるのでしょうか?感覚の統御(サムヤテンドリヤー)が必要とされます。

私たちは、自分の感覚を満足させたいがため、物質世界にいます。もしも私たちが、医者が自分を治してくれる、という信頼を持っていて、そして彼が私たちに「これこれの物を食べるな」と言い、そして私たちがどちらにしてもそれを食べるなら、私たちはどのような信頼を持っているのでしょうか?

もしも私たちが自分の医者に信頼を持っているなら、私たちは治癒のための彼の処方に従います。要点は、私たちは信頼をもって指導に従わねばならない、ということです。そうすれば英知が訪れます。私たちが英知の段階に至るとき、結果はパラーム・シャーンティム―――至高の平和です。

クリシュナは、「人が感覚を統御するとき、信仰は近い将来(アチレナ)に訪れる」と示されます。クリシュナへのその段階の信仰を得たとき、人は自分が世界で最も幸せな者だと感じます。これが私たちの立場です。私たちは処方(formula)を受け入れて、それを信頼をもって実行しなければなりません。

この信頼は、三流の人にではなく、至高の権威に置かれねばなりません。私たちは信頼を置くことのできる霊的指導者を探し求めねばなりません。クリシュナは最も権威のある名士です。しかし、クリシュナ意識である誰でもが(訳注:霊的指導者として)受け入れられ得ます。

なぜなら、完全にクリシュナ意識である人はクリシュナの真正なる代理人だからです。クリシュナの代理人の言葉を味わうと、私たちは満足を感じます。ちょうど、私たちが十分な食事をしたときに満足を感じるようなものです。

(サンスクリット引用)

「しかし、明かされた聖典を疑う、無知で信仰のない(ignorant and faithless)者たちは、神意識を得ません。疑い深い魂には、この世界にも次のにも、幸せはありません。」(Bg.4.40)

第22段落
この知識の道を辿ることを躊躇する者には、機会はありません。躊躇は無知(アジニャス・チャ)が原因です。クリシュナ意識を習慣づけることを躊躇する者にとっては、この物質世界でさえ幸せではないでしょう(will)。そして次の世については何をか言わんや?物質世界は既に悲惨です。

しかし、もしも人が信仰を持たないなら、それはもっと悲惨でしょう(will)。このように、信仰のない者にとって、状況は非常に不安定です。私たちは銀行に何千ドルも預けるかもしれません。なぜなら、私たちは銀行が潰れないという信頼を持っているからです。

もしも私たちが銀行や航空会社に信頼を持っているなら、なぜ非常に多くのヴェーダ文献によって、そして非常に多くの賢人たちによって至高の権威であるとして認められているシュリー・クリシュナに信頼を持たないのでしょうか?

私たちの立場は、シャンカラーチャーリャ、ラーマーヌジャチャーリャ、そしてチャイタンニャ・マハープラブなどの偉大な権威者の足跡を辿るというものです。もしも私たちが自分の義務を果たすことと彼らの足跡を辿ることによって自分の信仰を保つなら、成功は保証されます。

第23段落
前述のように、私たちは完全真理を見た者を探し求めて彼に服従し、彼に奉仕をしなくてはなりません。これがなされるとき、人の霊的な救済に疑いはありません。誰もが神を見たいと切望しています。しかし、私たちの人生の現在の段階では、私たちは制約されており、幻惑されています。

私たちは物事のありのままの姿について何も知りません。私たちはブラーマンであって、もともと陽気なのですが、どういうわけか、私たちは自分の本来の立場から落ちてしまいました。私たちの性質はサック・チッド・アーナンダ、永遠で、喜びに満ち、知識に満ちています。

しかし、この体は死ぬことが運命づけられており、存在している間は無明と悲惨さに満ちています。感覚は不完全であり、そしてそれらを通して完全な知識を得るのは可能ではありません。したがって、バガヴァッド・ギーターの中で、「もしも超越的な知識を学びたいと少しでも望むなら、私たちは実際に完全真理(タッド・ヴィッディー・プラニパーテナ)を見た者に近づかねばならない」と述べられています。

伝統的に、ブラーマナは霊的指導者になることになっています(be meant to be)。しかし、このカリの時代においては、資格のあるブラーマナを見つけるのは非常に困難です。結果として、資格のある霊的指導者を見つけるのは非常に困難です。

したがってチャイタンニャ・マハープラブは、(サンスクリット引用)を勧められました。「人がブラーマナ、あるいはシュードラ、あるいはサンニャースィー、あるいは家庭人であれ、それは関係ありません。もしも彼がクリシュナの科学を知っているなら、彼は真正なる霊的指導者です。」

第24段落
バガヴァッド・ギーターはクリシュナの科学であり、もしも私たちがそれを自分の議論、感覚、そして哲学的な知識のすべてをもって詳細に研究するなら、私たちはその科学を知るようになるでしょう。私たちが自分を盲目的に服従させるべきだというのではありません(訳注:私たちは盲目的に服従すべきなのではありません。)

霊的指導者は自己を認識していて完全真理に位置しているかもしれません。しかし(yet)私たちは、すべての霊的な要点を理解するために彼に質問しなければなりません。もしも人が本当にクリシュナの科学に関して質問に答えることができるなら、どこで生まれたか、あるいは何であるかに関わらず―――ブラーマナ、あるいはシュードラ、あるいはアメリカ人、インド人、あるいは他の何であれ―――彼は霊的指導者です。

医者に行くとき、私たちは彼に、彼がヒンズー教徒、キリスト教徒、あるいはブラーマナであるかと尋ねません。彼は医師の資格を持っており、私たちは「先生、私を治療してください。私は苦しんでいます」と言って単に服従します。

第25段落
クリシュナは霊的な科学の究極の目的地です。もちろん、私たちがクリシュナについて語るとき、私たちは神を指しています。世界中、そして宇宙中に神を指す(for)多くの名前があります。しかし、ヴェーダの知識によれば、クリシュナが至高の名前です。

したがって、主チャイタンニャ・マハープラブは、この時代における(自己)認識のための至高の方法として、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることを勧められます。

チャイタンニャ・マハープラブは、カーストあるいは社会的な地位に何の区別もつけられませんでした。実に、主の主要な弟子のほとんどは、社会において堕落していると考えられていました。チャイタンニャ・マハープラブは、イスラム教徒であったハリダーサ・タークラをナーマーチャーリャ、すなわち聖なる御名の教師として任命することさえなさいました。

同様に、主チャイタンニャの主な弟子の二人であるルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーは、かつてサーカラ・マッリクとダビル・カースとして知られており、彼らはイスラム政府によって雇われていました。当時、ヒンズー教徒は非常に厳格だったので、もしもブラーマナがヒンズー教徒でない者からの奉仕を受け入れたなら、彼は直ちにヒンズー教徒社会から追放されました。

これにも関わらず、ルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャ・マハープラブによってクリシュナの科学における主要な権威とされました。ですから、誰にも制約はありません。もしもクリシュナの科学を知っているなら、誰でも霊的指導者になれます。

これが唯一の資格であり、そしてこの科学の本質がバガヴァッド・ギーターの中に含まれています(this science in essence is contained in)。現時点では、世界中にこの偉大な科学を広めるために何千人もの霊的指導者が必要とされています。

第26段落
私たちは、クリシュナがバガヴァッド・ギーターの中でアルジュナに語っているとき、主は単にアルジュナだけでなく人類全体に語っていらっしゃるのだと理解すべきです。シュリー・クリシュナご自身が、「単にクリシュナの科学を知っていることによって、アルジュナは幻想の影響を受けない(ヤジ・ジニャートヴァー・ナ・プナル・モハム)」と宣言なさいます。

もしも非常に良い船を持っているなら、私たちは簡単に大西洋を渡ることができます。現在では、私たちは無明の海の只中にいます。なぜなら、この物質世界は無知の巨大な海になぞらえられているからです。したがって主チャイタンニャ・マハープラブは次のようにクリシュナに祈りました。

(サンスクリット引用)

「おお、マハーラージャ・ナンダの息子よ。私はあなたの永遠の従者です。そして、そうであるにも関わらず、どういうわけか私は誕生と死の海に落ちてしまいました。どうか私をこの死の海から拾い上げ、あなたの蓮の御足の下で(at)原子の一つとして据えてください。」(スィクシャーシュタカム、5)

第27段落
もしも私たちが完璧な知識という船を持っているなら、恐れはありません。なぜなら、私たちは非常に簡単に海を渡ることができるからです。たとえ人が非常に(most)罪深かったとしても、もしもクリシュナの科学という船を受け取るなら、彼は非常に簡単に海を渡ることができます。

前述のように(Bg.4.36)、私たちが過去の生において何であったかは関係ありません。無明の中にあったため、私たちは非常に多くの忌まわしい行いをしたかもしれません。実に、誰も「自分は罪深い行いから自由である(訳注:~はしていない)」と言うことはできません。しかし、バガヴァッド・ギーターによれば、これは関係ありません。ただクリシュナの科学を知ることによって、人は自由になります。

第28段落
したがって、私たちが知識を探し求めることが、絶対に必要です。そして知識の完成はクリシュナを理解することです。今日では非常に多くの理論があり、そして誰もが生きるための最良の方法を知っていると主張します。そのため、非常に多くの「主義」が発達しました。

これらのうち、共産主義は世界で非常に有力になりました。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムの中に、私たちは霊的な共産主義のための種を見出します。そこでナーラダ・ムニは、この物質宇宙の中では―――人が低位、中位、あるいは高位の惑星系にあろうが、あるいはその外(outer space、通常は宇宙空間を指す)にいるのであってさえも―――すべての自然の資源は至高主によって顕現される、と説明します。

私たちは、何であれこの世界に存在するものはどの人間によって作られたものでもなく、すべては神によって作られたのだ、と理解しなければなりません。どの正気な者もこれを否定することはできません。シュリー・イショパニシャッドは命じます。

(サンスクリット引用)

「宇宙の中にあるすべての動くものと(or)動かないものは、主によって統御され、所有されています。したがって人は、自分の取り分として取り分けられた、自分に必要なものだけを取らねばなりません。そして人は、それが誰に属するかをよく知って、他のものを受け取ってはなりません。」(シュリー・イショパニシャッド、マントラ1)

第29段落
結果として、最高位の半神、ブラーマーから始まって最も低いアリまで、すべての生命体は自然の資源を使う権利を持っています。ナーラダ・ムニは、私たちは必要なだけこれらの資源を使うことができると指摘します。しかし、もしも私たちが必要とされる分以上を取るなら、私たちは泥棒になります。

不幸にして、誰もが征服し、支配しようとしています。国々は旗を立ててその惑星の所有権を主張するために、競って月に向かいます。ヨーロッパ人がアメリカに来たとき、彼らは自分たちの旗を立ててそれ(訳注:アメリカ)を自分の国のために主張しました(訳注:自分の国の領地だと主張しました)。

この、旗を立てることと旗を振ることは、すべて無明が原因です。私たちは、自分たちがどこに自分たちの旗を立てているのか、立ち止まって考えません。それは私たちの所有物ではなく、神のです。これを知っていることが知識であり、そしてそれが自分の所有物だと考えることは無明です。

私たちは利用する権利を持っていますが、所有権を主張したり溜め込んだりする権利は持ちません(原文:We have the right to utilize but not (the right) to claim or hoard、カッコ内の2語が抜けている)。

第30段落
もしも私たちが通りに一袋の穀物を投げるなら、ハトが来て4粒か5粒の小さな穀物を食べ、そして去るかもしれません。彼らは自分が食べることができるより多くは取りません。そして、食べるとさっさと去っていきます。しかし、もしも私たちが歩道に小麦粉の入ったたくさんの袋を置いて、来て取るようにと人々を招くなら、一人の人は10袋か20袋を取り、そして他の者は15袋か30袋取り、などということになるでしょう。

しかし、それほど多くを運んでいく手段を持たない者は1袋か2袋以上を取ることはできないでしょう。このように、分配は不公平(uneven)になります。これが文明の発達と呼ばれます。私たちは、ハトや犬や猫が持っている知識さえ欠いています。

すべては至高主に属しており、そして私たちは何であれ必要とするものを受け入れることができますが、それ以上を受け入れることはできません。それが知識です。主の配剤によって、世界はどんなものの何の不足もないようにできています。

もしも私たちがそれをどのように分配するかを知っているなら、すべては十分です。しかし、今日の嘆かわしい状態は、ある者が必要以上を取り、別の者は飢えている、というものです。結果として、飢えた群衆は反乱し、「なぜ私たちは飢えるべきなのか?」と尋ねています。

しかし、彼らの方法は不完全です。霊的な共産主義の完成は、すべてのものは神に属する、という知識の中に見出されます。クリシュナの科学を知ることによって、私たちは簡単に偽りの所有権という無明を超えることができます。

第31段落
自分の無明が原因で、私たちは実際に苦しんでいます。法廷では、無知は言い訳にはなりません。もしも私たちが裁判官に「自分は法律を知らない」と言うなら、私たちはどちらにしても罰せられます。もしも人が非合法的に非常に多くの富を集め、おそれでも自分の犯罪の無知を主張するなら、彼はそれでも罰せられます。

世界全体がこの知識を欠いています。そしてそのため、クリシュナの科学の何千人もの教師が必要とされています。今、この知識の多大な必要性があります。私たちは、クリシュナがインドに生まれたのでバガヴァッド・ギーターの知識は宗派的であるとか、クリシュナは宗派的な神であるなどと考えるべきではありません。

実に、第14章において、シュリー・クリシュナは、以前に指摘したように、ご自分をすべての存在の父(father→Father)であると主張なさいます。(Bg.14.4)

第32段落
霊魂として、私たちは至高の霊の欠かすべからざる小片です。しかし、この物質世界を楽しみたいという自分の欲求が原因で、私たちは物質自然の中に置かれました。それでも、私たちがどの生命の主であるのであれ、クリシュナが父です。

このように、バガヴァッド・ギーターは何かの特定の党派や国のためにあるのではなく、世界中のすべての人のためのもの―――動物のためのものでさえあります。今、至高存在の息子たちが、無明が原因で盗みを働いているので、この至高の知識をすべての存在に広めるのはバガヴァッド・ギーターに精通している者の義務です。このようにして、人々は自分の本当の霊的な性質と、至高の霊的な全体との自分の関係を認識するかもしれません。
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by ammolitering4 | 2012-04-05 17:15 | 「知識の王」 | Comments(0)

第7章 前半

第7章 グルへの信頼(faith)とクリシュナへの服従としての知識

第1段落
バガヴァッド・ギーターの第4章でシュリー・クリシュナは、すべての犠牲のうちで最良のものは知識を得ることである、と結論なさいます。

(サンスクリット引用)

「おお、敵を懲らしめる者よ。知識の犠牲は物質的な所有物の犠牲よりも偉大です。おお、プリターの息子よ。結局、仕事の犠牲はついに超越的な知識になります。(to culminate in、~で最高に達する)」(Bg.4.33)

(訳注:「犠牲」とはクリシュナのために、あるいはクリシュナという方向へ向けるすべてのエネルギーを指します。日本語での英語でも、一般的な用法としての「犠牲」とは意味が異なりますのでご注意ください。この場合は、”クリシュナを知るために努力すること、つまりエネルギーの「犠牲」は、クリシュナのために何かの物を差し出す、あるいは放棄することよりも優れている”、という意味になると思います。)

第2段落
知識は最良の犠牲です。なぜなら、この制約された人生は無明によるものだからです。犠牲、苦行、ヨガ、そして哲学的な議論の目的は、知識を得ることです。人が神の非人格的な側面(ブラーマン認識)、心臓の中とすべての原子の中の神の局地的な側面(パラマートマー、すなわち超魂認識)、および至高の人格神(校正:the realization ofは不要)(バーガヴァーン認識)を認識するための、超越的な知識の3つの段階があります。

しかし、知識を得ることにおける一番最初の段階は、「私はこの体ではない。私は霊魂であり、私の人生の目的はこの物質的な呪縛から抜け出すことだ」ということを理解するようになることです。要点は、何であれ私たちが行う犠牲は、私たちが本当の知識という地点に至ることを可能にすることを目的としているということです。

知識の最高の完成は、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナへの服従として与えられています。(サンスクリット引用)(Bg.7.19)愚か者ではなく、ジニャーナヴァーンが、クリシュナに服従します。そしてそれが知識の最高の水準です。同様に、バガヴァッド・ギーターの終わりでシュリー・クリシュナはアルジュナに助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはなりません。」(Bg.18.66)

第3段落
これは知識の最も内密な部分です。すべての観点から、もしもヴェーダ文献の分析的な研究を行うなら、私たちは「知識の究極の頂点はクリシュナに服従することである」ということを見出します。そして、どのような種類の服従が勧められているのでしょうか?

完全な知識における服従―――人が完成の地点に来るとき、彼は必ず、ヴァースデヴァ、クリシュナがすべてである、と理解します(he must understand)。これはブラーマ・サムヒターにおいても確認されています。

(サンスクリット引用)

「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高の人格神です。主は永遠で喜びに満ちた霊的な体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他の何の源も持たず、そして主はすべての原因の根本的な原因です。」(ブラーマ・サムヒター5.1)

第4段落
サルヴァ・カーラナという言葉は、クリシュナがすべての原因の原因である、ということを示します。もしも私たちが、自分の父親の父親が誰であるか、そして彼の父親が誰であるか、そしてさらにその先は、と知るために探すなら、もしもどうにかして時間を遡って自分の先祖を辿ることが可能なら、私たちは至高の父、至高の人格神に至るでしょう。

第5段落
もちろん、誰もが直ちに神を見たいと思います。しかし私たちは、自分が資格を得て、そして完璧な知識にあるとき、神を見ることができます。私たちは神を面と向かって(eye to eye)見ることができます。ちょうど、私たちが互いを見ているようにです。

しかし資格が必要とされ、そしてその資格はクリシュナ意識です。クリシュナ意識は、シュラヴァナム、すなわちバガヴァッド・ギーターおよび他のヴェーダ文献を通してクリシュナについて聞くこと、そしてキールタナム、すなわち私たちが聞いたことを繰り返して、主の御名を唱えることによってクリシュナを讃えることで始まります。

クリシュナ(の御名)を唱え、聞くことによって、私たちは実際に主と関わることができます。なぜなら、主は完全であって、ご自分の御名、性質、形および娯楽と異ならないからです。私たちがクリシュナと関わると、主は私たちが主を理解するのを助け、そして知識の光で無明の闇を消してくださいます。

クリシュナは、グルとして活動しながら私たちの心臓の中に座っていらっしゃいます。私たちが主に関する話を聞き始めるとき、多年に渡る物質的な汚染によって私たちの心の上にたまった埃が徐々に清められます。クリシュナはすべての者の友(friend to everyone)ですが、主はご自分の献身者にとって(to)特別な友です。

私たちが少し主に傾けば直ちに、主は私たちの心(heart)の中から好ましい教えを与え始められます。私たちが徐々に発達できるようにするためです。クリシュナは最初の霊的指導者であり、そして私たちが主にもっと興味を持つようになるとき、私たちは外から霊的指導者として働く(to serve)サードゥー、すなわち聖なる人のところに行かねばなりません。これはシュリー・クリシュナご自身によって次の節で命じられています。

(サンスクリット引用)

「ただ、霊的指導者に近付くことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から従順に聞き(inquire from him、知ろうとして問い、答えを聞く)、そして彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂はあなたに知識を授けることができます。なぜなら、彼は真理を見たからです。」(Bg.4.34)

第6段落
私たちが服従することのできる人を選ぶことが必要です。もちろん、誰も誰にも服従することを好みません(No one likes to surrender to anyone)。私たちは、何であれ自分が持っている知識で驕り高ぶっており、そして私たちの態度は「おお、誰がこの私に知識を与えることができるだろうか?」というものです。

一部の人々は、霊的な知識のためには霊的指導者の必要はない、と言います。しかし、ヴェーダ文献に関して言えば、そしてバガヴァッド・ギーター、シュリマッド・バーガヴァタム、そしてウパニシャッドに関して言えば、霊的指導者の必要はあります。

物質世界においてさえ、もしも人が音楽家になるために学びたいなら、彼は自分に教えてくれる音楽家を探さねばなりません。あるいは、もしも人が技師になりたいなら、彼は技術学校(technological college)に行って、技術を知っている者から学ばねばなりません。

また、誰も単に市場から本を買ってきてそれを家で読むことによって医者になることはできません。人は、医学校への入学を許されて、免許のある医者の下で訓練を経なければなりません。単に本を買ってそれらを家で読むことによっては、どの主要な学問も学ぶことは可能ではありません。

本の中に見出される知識をどうやって応用するかを私たちに見せるために、誰かが必要とされます。神の科学に関して言えば、シュリー・クリシュナ、至高の人格神ご自身が私たちに、私たちが服従することのできる人のところに行くように助言なさいます。

これは、ある人がバガヴァッド・ギーターおよび神認識の他の文献の中の教えを与えることができるかどうかを知るために、私たちが査定(to check)しなければならない、ということを意味します。私たちが気まぐれに霊的指導者を探し求めなくてはならない、というのではありません。

私たちは、実際に主題の知識のうちにある(訳注:この主題に精通している)人を見つけるのに、非常に真剣であるべきです。

第7段落
バガヴァッド・ギーターの初めに、アルジュナはクリシュナにちょうど友人のように話していました。そしてクリシュナは、彼が軍人としてどうして戦うことを放棄できるのか、と問いかけていました(to question)。しかし、アルジュナが友人としての(friendly)会話は自分の問題への解決をなさないということを見て取ったとき、彼はこう言ってクリシュナに服従しました。

(サンスクリット引用)「今、私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうか私に教えてください(to instruct、教え導く)。」(Bg.2.7)これが過程です。私たちが盲目的に服従すべきであるというのではありません。そうではなくて、私たちは知性をもって問うことができるべきです。

第8段落
問うことなくして、私たちは発達することはできません。学校では、教師に質問をする生徒は普通、知性的な生徒です。小さな子供が自分の父親に「おお、これは何ですか?あれは何ですか?」と問うとき、それは一般に知性のしるしです。

私たちは非常に良い霊的指導者を持つかもしれませんが、もしも問う力を持たないなら、私たちは発達することができません。また、問いは挑戦的な性質のものであるべきではありません。人は、「さて、彼がどのような類の霊的指導者であるのか見てみよう。私は彼に挑戦しよう(will)」と考えるべきではありません。

私たちの問い(パリプラシュネナ)は、奉仕という主題(セヴャヤー)に関するものであるべきです。奉仕なくしては、私たちの問いは無益です。しかし、問いかけをする前にさえ、私たちは何らかの資格を持つべきです。もしも私たちがいくらかの金、あるいは宝飾品を買うために店に行って、宝石や金について何も知らないなら、私たちはおそらく騙されます(likely to be cheated)。

もしも私たちが宝石商のところに行って「ダイヤモンドをくれませんか?」と言えば、彼は「この人は愚か者だ」と理解するでしょう。彼は私たちに何でも言い値で売りつけることができます(He could charge us any price for anything)。そのような類の探求は何の役にも立ちません(will not do at all)。私たちはまず、多少、知性的にならねばなりません。なぜなら、そうでなければ霊的な発達をするのは可能ではないからです。

第9段落
ヴェダーンタ・スートラの始まりの命令は、アタート・ブラーマ・ジニャーサーです。「今がブラーマンについて問うときです。」アターという言葉は、「知性的である者、物質的な人生の基本的な苦しみ(frustration、挫折、失望、いらだち、など)を認識する地点に来た者は、問いかけをする能力がある」ということを意味します。

シュリマッド・バーガヴァタムの中で、「人は霊的指導者に(from)『この闇を超えた』主題について問うべきである」と述べられています。この物質世界は本質的に暗く、そしてそれは火によって人工的に明るくされています。私たちの問いは、この宇宙を越えたところにある超越的な世界に関してであるべきです。

もしも人がこれらの霊的な世界について知りたいと望むなら、彼は霊的指導者を探し求めるべきです。そうでなければ、探求することに意味はありません。もしも私が物質的な向上をするためにバガヴァッド・ギーターあるいはヴェダーンタ・スートラを学びたいなら、霊的指導者を見つけることは必要ではありません。

人はまず、ブラーマンについて問いたいと思うべきであり、そしてそれから完全真理(ジニャーニナス・タットヴァ・ダルシナー)に関して完璧な見識を持つ指導者を探し求めるべきです。クリシュナは至高のタットヴァ、完全真理です。バガヴァッド・ギーターの第7章において、シュリー・クリシュナは述べられます。

(サンスクリット引用)

「人の中の何千人もの者のうち、一人が完成のために努力するかもしれません。そして、完成に至った者のうち、ほとんど誰も私を本当には知りません(hardly one knows Me in truth)。」(Bg.7.3)

第10段落
このように、多くの完成した心霊主義者(spiritualist)のうち、一人がクリシュナが実際は何であるかを知るかもしれません。この節が示すように、クリシュナという主題はそれほど簡単ではありません。そうではなく、非常に難しいものです。それでもバガヴァッド・ギーターは、それが簡単であるとも示します。

(サンスクリット引用)

「人は、ただ献身奉仕のみによって、至高の人格をありのままに理解することができます。そして、人がそのような献身(の念)によって至高主を完全に意識するとき、彼は神の王国に入ることができます。」(Bg.18.55)

第11段落
もしも私たちが献身奉仕の過程を受け入れるなら、私たちはクリシュナを非常に容易に受け入れることができます。それを通して私たちはクリシュナの科学を完璧に理解することができ、そして霊的な王国に入る資格が得られるようになることができます。

もしもバガヴァッド・ギーターが言うように、多くの誕生の後で私たちがやがてクリシュナに服従しなければならないなら、なぜ直ちに主に服従しないのですか?(訳注:~しませんか?)なぜ、たくさん、たくさんの誕生を待つのですか?

もしも服従が完成の最終地点であるなら、なぜ直ちに完成を受け入れないのですか?もちろん答えは、人々は一般的に確信がない、というものです。クリシュナ意識は一秒で到達され得て、あるいはそれは何千もの誕生と死の後でさえ持たれ得ません。

もしも私たちが(それを)選ぶなら、私たちはクリシュナに服従することによって直ちに偉大な魂になることができます。しかし、私たちはクリシュナが実際に至高存在であるかどうか疑いを持っているので(校正:コンマが抜けている)、聖典の学習を通してこれらの疑いを消すために時間をかけねばなりません。真正なる霊的指導者の導きの下でバガヴァッド・ギーターを学ぶことによって、私たちはこれらの疑いを取り除いて確実な発達をすることができます。

第12段落
すべての疑いと結果を求める活動を燃やして灰にすることができるのは、知識の力です。シュリー・クリシュナは、実際に真理を見た者から真理について問うことの結果について、次の情報を与えられます。

(サンスクリット引用)

「そして、こうして真理を学んだとき、あなたは、すべての生命体は私の部分に他ならないと―――そして彼らは私の中にあり、そして私のものであると、知るでしょう。たとえすべての罪人のうちで最も罪深い者と考えられているにしても、超越的な知識という船の中にあるとき、あなたは悲惨さの海を越えることができるでしょう。燃え盛る火が薪を燃やして灰にするように、おお、アルジュナよ、知識の火も物質的な活動へのすべての反応を燃やして灰にします。」(Bg.4.35-37)

第13段落
知識の火は、霊的指導者によって点火されます。そしてそれが燃えているとき、私たちの仕事へのすべての反応は灰に変えられます。私たちの仕事、すなわち私たちのカルマへの反応は、私たちの呪縛の原因です。良い仕事と悪い仕事があり、そしてこの節においてサルヴァ・カルマーニという言葉は両方を指します。

この物質的な呪縛から解放されたいと望む者にとって、良い仕事と悪い仕事の両方の反応が有害です。この物質世界において、もしも徳の相にあるなら、私たちは良い仕事を行うことに執着しています。しかし、もしも熱情と無明の相にあるなら、私たちは熱情と無明において悪い仕事をします。

しかし、クリシュナ意識になる(be going to)者にとっては、良い仕事も悪い仕事も必要ありません。良い仕事によって、私たちは貴族的あるいは裕福な家庭において、良い生を受けるかもしれません。そして悪い仕事によって、私たちは動物の王国あるいは堕落した人間の家庭に生を受けさえするかもしれません。しかし、どの場合でも誕生は呪縛を意味します。

そしてクリシュナ意識を求めて努力している者は、転生の呪縛からの解放を求めて努力しています。もしも人が自分の物質的な悲惨さを捨てないなら、富裕な、あるいは貴族的な家庭に生まれることの利点は何でしょうか?良い仕事の反応を楽しもうが、悪い仕事の反応に苦しもうが、私たちは物質的な体を取らねばならず、そしてそれによって物質的な惨めさを経験しなければなりません。

第14段落
クリシュナへの超越的な奉仕に携わることによって、私たちは実際に誕生と死の循環から逃れます。しかし、知識の火が私たちの心(mind)の中で燃えていないので、私たちは物質的な存在を幸福として受け入れます。犬や豚は、自分がどんなに悲惨な人生を送っているか、理解することができません。

彼は実際に自分は人生を楽しんでいると考え、そしてこれは物質的なエネルギーの、覆い隠すような、あるいは幻想の影響、と呼ばれます。バウアリー通り(訳注:ニューヨークのマンハッタンにある、ホームレスの多い安ホテル街)では、非常に多くの泥酔した人々が路上に倒れています。

そして彼らは皆、「私たちは人生を楽しんでいる」と考えています。しかし、彼らの横を通り過ぎる人々は、「おお、(校正:句読点が抜けている)彼らはなんと惨めなことだろう」と考えています。それが幻想エネルギーのあり方(way、方法、やり方)です。

私たちは悲惨な状況にあるかもしれませんが、私たちは自分は非常に幸せであると考えて、それを受け入れます。これは無明と呼ばれます。しかし、人が知識に目覚めるとき、彼はこう考えます。「おお、私は幸せではない。私は自由が欲しいが、自由がない。

私は死にたくないが、死がある。私は年を取りたくないが、老齢がある。私は病が欲しくないが、病がある。」これらは人間の存在の大きな問題です。しかし、私たちはそれらを無視し、非常に小さな問題を解決することに集中します。

自分がここ物質世界の中にどれくらい長く生きるかを忘れ、私たちは経済的な発展を最も大切なものと考えます。経済的な発展があろうがなかろうが、60年か100年かのあとで、私たちの人生は終わります。たとえ100万ドル蓄えても、私たちはこの体を去るときに、そのすべてを置いていかねばなりません。私たちは、物質的な世界では何であれ自分がしていることは物質自然の影響によって打ち負かされている、ということを理解するようになる必要があります。

第15段落
私たちは自由を望みます。そして私たちは世界中を、そして宇宙全体を旅したいと望みます。実に、それは霊魂としての私たちの権利です。バガヴァッド・ギーターにおいて霊魂はサルヴァ・ガターと呼ばれ、それは彼がどこであれ好きなところに行く能力を持っているということを意味します。

スィッダーロカには、飛行機や他の機械的な装置の助けなくして、どこであれ望むところに旅することのできる、完成した存在、あるいはヨギーがいます。いったん物質的な制約から解放されると、私たちは非常に強力になることができます。

実際は、私たちは霊的な火花として自分がいかに強力であるか、全く知りません。その代わり私たちは、この地上に留まり、いくつかの宇宙船を打ち上げることで、自分たちは物質的な科学において多いに発達したと考えて非常に満足しています。私たちは、自分がどこへでも望むところへ無料で旅する能力を持っていることを知らず、宇宙船を作るのに何百万ドルも何百万ドルも使っています。

第16段落
要点は、私たちは知識の力によって自分の霊的な力を培うべきである、というものです。知識は既にそこにあります。私たちは単にそれを受け入れなければならないだけです。以前の時代では、人々は知識を得るために非常に多くの苦行や禁欲を行いました。

しかし、この時代においては、この過程は可能ではありません。なぜなら、私たちの人生は非常に短く、私たちはいつも(訳注:心の平安や仕事など)妨害されているからです。この時代のための過程は、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブによって始められたクリシュナ意識の過程、ハレ・クリシュナを唱えることです。

もしも、この過程によって私たちが知識の火を燃え立たせることができるなら、私たちの活動のすべての反応は灰になり(will be reduced to ashes)、そして私たちは浄化されるでしょう。

(サンスクリット引用)

「この世界には、超越的な知識ほど荘厳で純粋なものはありません。そのような知識はすべての神秘主義の熟した果実です。そして、これを得た者は、やがて自分の中の自己(the self within himself)を楽しみます。」(Bg.4.38)
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by ammolitering4 | 2012-04-05 17:14 | 「知識の王」 | Comments(0)

第6章

第6章 クリシュナの現れ(Appearance)と活動に関する知識

第1段落
私たちの中で働いている自然の二つの力があります。(その)一つによって、私たちは今回の人生で霊的な発達をすることを決心します。しかし次の瞬間、もう一つの力、マーヤー、すなわち幻想エネルギーが、「なぜわざわざそういう面倒なことをするのですか(What is all this trouble that you're going to)?ただこの人生を楽しみ、気楽にしなさい(Be easy with yourself.)」と言います。

この、忘却に陥る傾向が、神と人間の間の違いです。アルジュナはクリシュナの友人であり仲間(訳注:a companion and associate、’companion’は行動を共にする親密な友人)です。どれであれクリシュナがどこかの惑星に現れるときはいつでも、アルジュナもまた生まれ、主と一緒に現れます。

クリシュナがバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったとき、アルジュナもまた主と共にいました。しかし、小さな生命体なので、アルジュナは覚えていることができませんでした。忘却は生命体の性質です。私たちは昨日のちょうどこの時間に、あるいは一週間前のこの時間に何をしていたかさえ思い出すことができません。

もしも私たちがこれを思い出せないなら、自分の過去生において何が起きたか、思い出すことがどうして可能でしょうか?この時点で、私はたちは「どうしてクリシュナは覚えていることができて、私たちはできないのか」と問うかもしれません。そして答えは、クリシュナはご自分の体を変えない、というものです。

(サンスクリット引用)

「私は生まれず、私の超越的な体は決して劣化しませんが(to deteriorate、悪くなる、衰える)、そして私はすべての感覚のある存在の主ですが、私はそれでも時代ごとに(in every millennium)自分のもともとの超越的な形で現れます。」(Bg.4.6)

第2段落
アートマー・マーヤヤーという言葉は、クリシュナがありのままの姿で降臨なさる、ということを意味します。主はご自分の体を変えられません。しかし私たちは、制約された魂として、自分の(体)を変えます。そしてこのため、私たちは忘れます。クリシュナは、ご自分の活動の過去、現在、および未来をご存知であるだけでなく、すべての者の活動の過去、現在および未来をご存知です。

(サンスクリット引用)

「おお、アルジュナよ。至高の人格神として、私は過去に起こったすべてのこと、現在起こっているすべてのこと、そしてこれから起こるすべてのことを知っています。私はまた、すべての生命体を知っています。しかし、私のことは誰も知りません。」(Bg.7.26)

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムにおいて私たちは、至高主が「すべてを知る者」と定義されているのも見出します。これは、ブラーマーとシヴァなどの最も高位の生命体でさえ、そうではありません。ヴィシュヌ、すなわちクリシュナだけが、すべてを知っています。

私たちはまた、「もしも主がご自分の体を変えないなら、なぜ主は化身としていらっしゃるのですか?」と問うかもしれません。この問いに関して、哲学者たちの間でたくさんの違い(訳注:much difference、見解の相違)があります。一部の者は、「クリシュナはおいでになるときに物質的な体をお取りになる」と言いますが、これはそうではありません。

もしも主が私たちのような物質的な体をお取りになるなら、主は覚えていることができません。なぜなら、忘却は物質的な体によるものだからです。実際の結論は、「主はご自分の体を変えられない」というものです。主は万能(all-powerful)と呼ばれます。

そして上に引用した節において、主の万能(omnipotence)が説明されています。クリシュナは誕生を持たず、そして主は永遠です。同様に、生命体も誕生を持たず、そして彼もまた永遠です。生まれるのは、生命体が(自分と)同一視する体だけです。

第4段落
バガヴァッド・ギーターの一番初めに、第2章で、クリシュナは、私たちが誕生と死として受け入れるのは体によるものであり、再び自分の霊的な体を得て、誕生と死の汚染から抜け出すとき、私たちは質的にクリシュナと同じくらい良くなる、と説明なさいます。

それがクリシュナ意識の全過程です---私たちのもともとのサック・チッド・アーナンダの霊的な体の復活です。その体は永遠であり(サット)、知識に満ち(チット)、そして喜びに満ちています(アーナンダ)。この物質的な体はサットでもチットでもアーナンダでもありません。

それは滅ぶものです。一方で、体に住んでいる者は滅びません。それはまた、無明に満ちており、そして、それは無知で一時的であるため、悲惨さに満ちています。私たちは物質的な体が原因でひどい暑さやひどい寒さを感じます。

しかし、自分の霊的な体を得れば直ちに、私たちは二重性によって影響されないようになります。物質的な体の中にいる間でさえ、暑さや寒さなどの二重性に影響されない(impervious)ヨギーたちがいます。物質的な体の中にいる間に霊的な発達をし始めると、私たちは霊的な体の性質を帯び始めます。

もしも私たちが鉄を火の中に入れるなら、それは熱くなり、それから熱く赤くなります。そしてついには、それはもはや鉄ではなく火になります---何であれそれが触れるものは、炎をあげて燃えます。私たちがクリシュナ意識において発達し始めると、私たちの物質的な体は霊化され、もはや物質的な汚染によって影響されなくなります。

第5段落
クリシュナの誕生、主の現れ(appearance)、そして消滅(disappearance)は、太陽の現れと消滅に比べられます。朝には、まるで太陽が東の地平線から生まれるように見えます。しかし、実際はそうではありません。太陽は昇っても沈んでもいません。それは自分の位置にそのままにあります。

すべての現れ(rising、日の出)と消滅(setting、日の入り)は、地球の回転が原因です。同様に、ヴェーダ文献の中に、シュリー・クリシュナの現われと消滅のための定められた予定表があります。クリシュナの現れは、ちょうど太陽のようです。太陽の現れと消滅は、いつも続いています。

世界のどこかで人々は日の出と日の入りを目撃しています。ある時点でクリシュナが生まれ、別の時点で主がいなくなる、というのではありません。主はいつもどこかにいらっしゃいますが、主は来たり去ったりするように見えます。

クリシュナは多くの宇宙において現れたり消えたりなさいます。私たちはこの一つの宇宙の経験しか持ちませんが、ヴェーダ文献から私たちは、「この宇宙は至高主の無限な顕現の一部に過ぎない」と理解することができます。

第6段落
クリシュナは至高主であり、生まれず、変化しませんが、主はご自分のもともとの超越的な自然(nature、性質)において現れます。プラクリティという言葉は「自然」を意味します。バガヴァッド・ギーターの第7章において、多くの種類の自然がある、と述べられています。

これらは3つの基本的な種類に分類されています。外的な自然、内的な自然、そして周辺的な自然があります。外的な自然はこの物質世界の顕現であり、バガヴァッド・ギーターの第7章において、これはアパラー、すなわち物質自然と描写されます。

クリシュナが現れるとき、主は劣性なる物質自然ではなく、より高い自然(プラクリティ・スヴァーム)を受け入れられます。時として、国家の首長は、刑務所を視察してそこにいる囚人を見るために、刑務所に行くかもしれませんが、囚人たちは、もしも「国家の首長が刑務所に来た。だから彼はちょうど私たちのような囚人だ」と考えるなら、間違っています。

先に指摘したように、シュリー・クリシュナは、人間の形で降臨なさるとき、愚か者はご自分をあざ笑う、と述べられます。(Bg.9.11)

第7段落
至高主として、クリシュナはいつでもここに来ることができます。そして私たちは、反対して「主は来ることができない(訳注:来てはならない)」と言うことはできません。主は完全に独立していらっしゃり、そして主はお好きなように来て、去ることができます。

もしも国家の首長が刑務所を訪ねるなら、私たちは「彼はそうすることを強要されているのだろう」と考えるべきではありません(we are not to assume)。クリシュナは目的をもっておいでになり、そしてそれは堕落した制約された魂を取り戻す(to reclaim、改心させる)ためです。

私たちはクリシュナを愛していませんが、クリシュナは私たちを愛していらっしゃいます。主は誰もをご自分の息子として主張なさいます(訳注:誰もが~だと主張なさいます)。

(サンスクリット引用)

「すべての生命の種は、おお、クンティーの息子よ、誕生によってこの物質自然の中に存在させられ(made possible by birth)、そして私が種をまいた(seed-giving)父であると理解されるべきです。」(Bg.14.4)

第8段落
父はいつも息子に愛情を持っています。息子は父を忘れるかもしれませんが、父は決して息子を忘れることができません。クリシュナは、私たちへのご自分の愛情から、私たちを誕生と死の悲惨さから救うために物質宇宙においでになります。主はおっしゃいます。「我が愛しい息子たちよ。

なぜあなたたちはこの惨めな世界で朽ちている(to rot、腐る)のですか?私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」私たちは至高存在の息子であり、私たちは何の悲惨さも、何の疑いもなく、人生を非常にすばらしく(supremely、究極の素晴らしさをもって)楽しむことができます。

したがって私たちは、「クリシュナはここへ、ちょうど私たちがするように、自然の法則によって強制されて(being obliged to)おいでになるのだ」と考えるべきではありません。アヴァターラというサンスクリットの言葉は、文字通り「降りる者」(he who descends、降臨する者)を意味します。

自分の独自の意志(will)を通して霊的な宇宙から物質的な宇宙に降りる者は、アヴァターラと呼ばれます。時としてシュリー・クリシュナは自ら降臨なさり、そして時として主はご自分の代理人を送られます。世界の主要な宗教---キリスト教、ヒンズー教、仏教、およびイスラム教---は、神の王国から降りてくる何らかの至高の権威、あるいは名士を信じます。

キリスト教の宗教においては、イエス・キリストが、「(自分は)神の息子であって、制約された魂を改心(to reclaim)させるために神の王国から来た」と主張なさいました。バガヴァッド・ギーターの信奉者(followers)として、私たちはこの主張が正しいと認めます。

ですから、基本的に意見の相違はありません。細部では、文化、気候および人々の違いによる相違があるかもしれません。しかし、基本的な原則は同じであり続けます―――つまり、「神、あるいは主の代理人が制約された魂を改心させためにいらっしゃる」というものです。

(サンスクリット引用)

「いつでも、そしてどこでも、宗教的な実践(practice、慣習)において堕落(decline、低下、衰え)があるとき、おお、バーラタの末裔よ、そして無宗教(irreligion、非敬虔さ)の顕著な高まりがあるとき―――そのとき、私は自ら降臨します。」(Bg.4.7)

第9段落
神は非常に哀れみ深くて(compassionate)いらっしゃいます。主は私たちの悲惨さが止まるのを見るのを望まれますが、私たちはこれらの悲惨さに順応しようとしています。私たちは至高主の欠かすべからざる小片であるので、これらの悲惨さのためにはありません(we are not meant for~)(訳注:私たちは本来悲惨であるべきではない、というような意味)。

しかし、どういうわけか、私たちは自発的にそれを受け入れました。体と心から、他の生命体から、そして自然災害から生じる悲惨さがあります。私たちは、これらの悲惨さの3つすべてからか、あるいは少なくとも一つから、苦しんでいます。

私たちはいつもこれらの悲惨さへの解決策を作ろうとしており、そしてこの試みが存在のための私たちの苦労を成します(訳注:私たちの存在のための苦労とは、この試みです)。その解決策は、私たちのちっぽけな脳をもってしては作られ得ません。それは、私たちが至高主の庇護を受けるときにだけ作られ得ます。

第10段落
私たちは、自分の本来の立場に復帰させられるとき、幸せになることができます。そしてバガヴァッド・ギーターは私たちをその立場に復帰させるためにあります。神と主の代理人も助けにいらっしゃいます。以前に述べられたように、彼らは優位の自然から物質自然に降臨なさいます。

そして、誕生、老い、病そして死の法則の影響下にありません。クリシュナはアルジュナに、ご自分の(この)世界への降臨のための、次のような理由を与えられます。

(サンスクリット引用)

「敬虔な者たちを救い、邪悪な者たちを滅ぼすため、そして宗教の原則を再び確立するために、私は自ら時代ごとに(millennium after millennium)降臨します。」(Bg.4.8)

第11段落
ここでクリシュナは、ご自分はダールマに衰えがあるときにおいでになる、とおっしゃいます。サンスクリットのダールマという言葉は英語に「信仰(faith)」として翻訳されていますが、「信仰」はキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教などの名前で知られる(to go under the name of~)宗教体系を意味するようになりました。

しかし、ダールマという言葉は「信仰」と同じ意味は持ちません。個人の信仰はヒンズー教徒から仏教、キリスト教、イスラム教などに変わるかもしれません(訳注:from ~to ~to ~to~, etc.原文は「あれからこれへ、その次はそれへ」と、移りゆくような表現)。

人々は一つの信仰を受け入れて他のものを退ける能力を持ちます。しかし、ダールマは変えられ得ません。自分自身、自分の家族、自分の地域社会、国、あるいは人類全体(humanity at large)に対してであれ、奉仕をするのはすべての個人の性質です。

この、奉仕をするということは、決して生命体から離され得ません。そして、すべての生命体のダールマを成すのはこれです。奉仕をすることなくして、人は存在することはできません。世界は、私たちが皆、奉仕をささげ、(それを)交換しているから続きます。

私たちは、自分がキリスト教徒、イスラム教徒、イスラム教徒、あるいはヒンズー教徒であるかどうかを忘れなければなりません。そして私たちは、「自分は、その本質的な立場が至高の生命体に奉仕をすることである、生命体である」ということを理解しなければなりません。理解のその水準に至るとき、私たちは解放されます。

第12段落
解放は、私たちが物質自然との関わりから得た一時的な区分(designation)からの自由です。解放はこれ以上の何でもありません。私たちは物質的な体を持っているので、私たちは非常に多くの区分を呈します(to take on、性質を帯びる)。

こうして私たちは自分を、男、親、アメリカ人、キリスト教徒、ヒンズー教徒、などと呼びます。これらの区分は、もしも私たちが自由になることをほんの少しでも(at all)望むなら、放棄されるべきです。どのような状況の下でも、私たちは主人ではありません。

私たちは現在奉仕をしていますが、私たちは区分をもって奉仕をしています。私たちは、妻の、家族の、自分の(our own)感覚の、自分の子供たちの従者であり、そしてもしも私たちが子供を持たないなら、私たちは自分の猫あるいは犬の従者になります。

どの場合でも、私たちは奉仕をする誰か、何かを持たねばなりません。もしも私たちが妻、あるいは子供を持たないなら、私たちは(それに)奉仕をするために、どれかの(some)犬や、他の低位の動物を捕まえなければなりません。それが私たちの性質(nature)です。

私たちはそうすることを強いられています。私たちがついにこれらの区分から自由になって主に超越的な愛情ある奉仕を捧げ始めるとき、私たちは自分の完成の水準に至ります。そのとき私たちは自分の本当のダールマにおいて確立されるようになります。

第13段落
このようにシュリー・クリシュナは、生命体のダールマに食い違いがあるときはいつでも、つまり、生命体が至高存在に奉仕をするのをやめるときはいつでも、ご自分が現れる、とおっしゃいます。言い換えると、生命体が自分の感覚に奉仕することにあまりにも忙しく携わっているとき、そして感覚の満足における過度の耽溺があるとき、主はおいでになります。

例えばインドでは、人々が動物の屠殺に過度にふけっていたとき、主仏陀がアヒームサー、すべての生命体への非暴力を確立するためにいらっしゃいました。同様に、上に引用した節において、シュリー・クリシュナは、ご自分はサードゥー(パリトラーナーヤ・サードゥーナーム)を守るためにいらしたとおっしゃいます。

サードゥーは、他のすべての生命体への彼らの忍耐によって典型化されます。あらゆる不便さと危険にも関わらず、彼らは一般の人々に本当の知識を与えようとします。サードゥーは特定の社会、共同体、あるいは国の友ではなく、すべての者の友です―――人間だけでなく、動物と、生命のより低位な形(の者たち)の友でもあります。

つまり、サードゥーは誰の敵でもなく、すべての者の友です。結果的に、彼は常に穏やか(peaceful)です。主のためにすべてを犠牲にしたそのような人々は、主にとって非常に愛しいものです。サードゥーたちはもしも自分が侮辱されたら気にしませんが、クリシュナは彼らに対する何らの侮辱も我慢なさいません。

バガヴァッド・ギーターの第9章に述べられているように、クリシュナはすべての者に対して一様でいらっしゃいますが、主は特にご自分の献身者に心が傾いていらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は誰もうらやまず、また、誰に対しても不公平であることはありません。私はすべての者に対して平等です。しかし誰であれ、献身の念において私に奉仕をする者は、友人であり、私の中にあり、そして私もまた彼にとって友人です。」(Bg.9.29)

第14段落
クリシュナはすべての者に対して中立的ですが、常にクリシュナ意識に携わっている者、バガヴァッド・ギーターの教えを広めている者のために、主は特別の庇護を与えられます。主の献身者が決して滅びないというのは、シュリー・クリシュナの約束です(サンスクリット引用)。(Bg.9.31)

第15段落
クリシュナは、ご自分の献身者を守って救うためだけでなく、邪悪な者を滅ぼすためにもいらっしゃいます(ヴィナーシャーヤ・チャ・ドゥシュクリターム)。クリシュナは、「最も敬虔なクシャトリヤであって献身者であった、アルジュナと5人のパーンダヴァたちを、世界の統治者として確立したい」と望まれました。

そして主はまた、「ドゥリョダーナの無神論的な一団を打ち破りたい」とも望まれました。そして前述のように、主がおいでになった第3の理由は、本当の宗教を確立するためです(ダールマ・サムスターパナールターヤ)。このように、降臨のためのシュリー・クリシュナの目的は三重です。

主はご自分の献身者を守り、悪魔的な者たちを打ち負かし、そして生命体の本当の宗教を確立なさいます。主は一度だけでなく、何度も何度もいらっしゃいます(サムバーヴァーミ・ユゲ・ユゲ)。なぜなら、この物質世界は、調整がなされたあとで、時間が経つにつれて再び劣化するものだからです。

第16段落
世界は、たとえ私たちがとても良い配剤をしても徐々に劣化する、と考えられます(The world is so conceived that~、~であると考えられる)。第一次世界大戦の後で休戦が調印されました。そして短期間の平和がありましたが、すぐに第二次世界大戦が起こりました。

そしてそれが終わった今(and now that that is over)、彼らは第三次世界大戦に向けて準備をしています。これが物質世界における時間(カーラ)の働きです。私たちは非常に良い家を建て、そして50年後それは劣化し、100年後それはもっと劣化します。

同様に、体が若いとき、人々はそれを大事にし、いつもそれに惜しみなく愛情を与え、それに口付けします。しかし、それが古くなったとき、誰もそれを気にかけません。これが物質世界の性質です―――たとえとても良い調整がなされても、時が経つにつれてそれは打ち負かされます。

したがって、調整は定期的に必要とされます。そして、時代ごとに(from age to age)至高主あるいは主の代理人が、文明の方向について調整をするためにおいでになります。こうしてシュリー・クリシュナは多くの異なる宗教を確立する、あるいは生き返らせるために、何度も降臨なさいます。
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by ammolitering4 | 2012-03-15 17:32 | 「知識の王」 | Comments(0)

第5章 後半

第10段落
知識を得るための二つの過程があります---一つは帰納的なもので、もう一つは演繹的なものです。演繹的な方法は、もっと完全であると考えられます。私たちは「すべての人間は死ぬ(All men are mortal)」などの前提(premise)を取るかもしれません(訳注:~を例にあげましょう)。

(そして)、誰もどのように人間が死を運命づけられているか論じる必要はありません(訳注:no one need discuss、このneedは助動詞)。これがそうであるということは一般に受け入れられています。演繹的な結論は次のようなものです。「ジョンソン氏は人間である。したがってジョンソン氏は死ぬ。」

しかし、すべての人間が死ぬという前提はどうやって得られたのでしょうか(to arrive at)?帰納的な方法の信奉者(followers)は、実験と観察を通してこの前提に至りたいと思います。そのため私たちは、この人が死んだ、あの人が死んだ、などと研究するかもしれず、非常に多くの人々が死んだのを見たあとで、「すべての人は死ぬ」と結論づける、あるいは一般化するかもしれません。

しかし、この帰納的な方法には大きな欠陥があり、それは私たちの経験は限られているということです。私たちは、死なない人を一度も見たことがないかも知れず、それでも(but)私たちはこれを、有限である自分の個人的な経験に基づいて(on)判断しています。

私たちの感覚は限られた力を持っており、そして私たちの制約された状態には非常の多くの欠陥があります。その結果、帰納的な過程は必ずしも完全ではなく、他方、完璧な知識の源からの演繹的な過程は完璧です。ヴェーダの過程はそのような過程です。

第11段落
権威は認められていますが(although the authority is acknowledged)(訳注:これはおそらくクリシュナがBGの中で他の権威に敬意を表しているということだろうと思います)、バガヴァッド・ギーターの中には独断的であるように見える多くの節があります。例えば、第7章でシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服するもの(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。すべてのものは私の上に拠り頼みます(to rest upon)。ちょうど真珠が糸に通されるようにです。」(Bg.7.7)

第12段落
シュリー・クリシュナはご自分より偉大な権威はないとおっしゃり、そしてこれは非常に独断的であるように見えます。もしも私が「私より偉大な者はいません」と言えば、人々は「おお、スヴァーミージーは非常に尊大だ」と考えるでしょう。

もしも非常に多くの不完全さによって制約されている者が自分はすべての者の中で最も偉大であると言うなら、彼は(神を)冒涜します。しかし、クリシュナはこれを言うことができます。なぜなら、私たちは歴史から、「この地上にいらした間でさえ、主は当時の最も偉大な名士と考えられた」と理解することができるからです。実に、主は活動のすべての分野において最も偉大でいらっしゃいました。

第13段落
ヴェーダの体系によれば、最も偉大な権威から得られた知識は完璧と考えられるべきものです(is to be considered)。ヴェーダによれば、3つの種類の証拠があります---プラテャクシャ、アヌマーナ、そしてシャブダです。一つは直接的な視覚上の知覚によるものです。

もしもある人が私の前に座っているなら、私は彼がそこに座っているのを見ることができ、彼がそこに座っているという私の知識は私の目を通して受け取られます。2番目の方法、アヌマーナは、聴覚によるものです。私たちは子供たちが外で遊んでいるのを聞くかもしれません。

そして、聞くことによって私たちは彼らがそこにいると推測することができます。そして3番目の方法は、より高い権威から真理を受け取る方法です。「人は死ぬ」などの言葉(saying、諺、言い習わし)は、より高い権威から受け入れられます。

誰もがこれを受け入れますが、誰もすべての人が死ぬと経験したことはありません。伝統によって、私たちはこれを受け入れなくてはなりません。もしも誰かが「誰が最初にこの真理を見出したのですか?あなたがそれを発見したのですか?」と尋ねるなら、それは言うのが非常に困難です(訳注:答えにくい)。

私たちが言えることのすべては、(その)知識は下ってきている(訳注:昔からそう言われている)ということ、そして私たちはそれを受け入れる、ということです。知識を得るための3つの方法のうち、ヴェーダは、知識をより高い権威から受け取るという第3の方法が最も完璧である、と言います。

直接的な知覚は、特に人生の制約された状態においては、いつも不完全です。直接的な知覚によって私たちは、「太陽はちょうど、私たちがものを食べるのに使う皿よりも大きいものではない、円盤のようである」ということを見ることができます。

しかし科学者たちからは、私たちは「太陽は地球よりも何千倍も大きい」と知るようになります。では、私たちは何を受け入れればよいのでしょうか(what are we to accept)?私たちは、科学的な宣言、権威者の宣言、それとも自分の独自の経験を受け入れるのでしょうか?

私たちは自分では太陽がどれほど大きいかを証明することができませんが、天文学者の判断を受け入れます。このようにして、私たちは自分の活動のすべての分野において権威者の言明を受け入れています。私たちはまた、新聞とラジオから、「中国やインドや地球上全体の他のところで、あれこれのできごとが起こっている」ということを理解します。

私たちはこれらの出来事を直接的に経験してはいません。そして私たちはそのような出来事が実際に起こっていると知りません。しかし私たちは新聞とラジオの権威を受け入れます。私たちは知識を得るために権威を信じるより他に選択肢を持ちません。そして権威が完璧であるとき、私たちの知識は完璧です。

第14段落
ヴェーダの源によれば、すべての権威のうちでクリシュナが最も偉大で最も完璧です(サンスクリット引用)。クリシュナがご自分を最高の権威と宣言なさるだけでなく、これは偉大な聖人たちとバガヴァッド・ギーターの学者たちによっても受け入れられています。

もしも私たちがクリシュナを権威として受け入れず、主の言葉をそのままに受け入れないなら(訳注:if we do not accept ~ and take ~、この場合and はnorの意味だと思います)、私たちはバガヴァッド・ギーターから何らの利益も得ることができません。それは独断的ではありません。それは事実です。

もしも私たちがクリシュナがおっしゃることを詳細に(scrutinizingly、じろじろと凝視するように)研究するなら、私たちはそれが正しいことを見出すでしょう。至高の人格神と異なる意見を持つシャンカラーチャーリャのような学者でさえ、クリシュナがスヴァヤム・バーガヴァーン---クリシュナが至高主であると認めます。

第15段落
ヴェーダの知識は新しい発見ではありません。それはすべて、古い、明かされた知識です(it is all old revealed knowledge)。クリシュナはそれを、「太古の」を意味するプラータナーと呼ばれます。クリシュナは「大昔(millions of years before)、このヨガを太陽神に話した」とおっしゃり、私たちは、そのさらに大昔に、いつ主がそれを他の誰かに話されたのか知りません。

この知識はいつも繰り返されています。ちょうど、夏、秋、冬そして春が毎年繰り返されるようにです。私たちの知識量は極めて貧困です。私たちはこの惑星の歴史さえ5千年以上前のことは知りません。しかしヴェーダ文献は何百万年も前に遡る歴史を与えます(訳注:繰り返しになりますが、この「何百万年」は実際にはもっと長い時間を指します)。

3千年前にこの惑星上で何か起こったかについて知識を持たないからといって、私たちは「その頃は歴史がなかった」と結論づけることはできません。もちろん、人はクリシュナの歴史的な正当性(validity、妥当性、確実性)を否認することができます。

人は、マハーバーラタによればクリシュナは5千年前に生きていた、と言うかもしれず、これがそうであれば、主が何百万年(訳注:太古の時代)にバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったという可能性はありません。

もしも私が太古の時代に太陽の上で太陽神に話をしたと言ったら、人々は「スヴァーミージーは何か無意味なことを話している」と言うでしょう。しかし、クリシュナの場合はそうではありません。なぜなら、主は至高の人格神だからです。

私たちが「クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神に話した」と信じようが信じまいが、この事実はアルジュナによって受け入れられています。アルジュナはクリシュナを至高主として受け入れました。そしてそのため、彼はクリシュナにとって太古の時代に誰かと話すのは十分に可能だと知っていました。アルジュナは個人的にはシュリー・クリシュナの言明を受け入れますが、自分の後から来る人々のために状況を明らかにするために尋ねます。

(サンスクリット引用)

「太陽神ヴィヴァスヴァーンはあなたよりも年長です。あなたが初めに(訳注:太陽系の初めに、ということだと思います)この科学を彼に教えたということを、私はどう理解すればよいのでしょうか?」(Bg.4.4)

第16段落
実際は、これは非常に知性的な質問です。そしてクリシュナはそれにこのようにお答えになります。

(サンスクリット引用)

「あなたと私はどちらも、たくさん、たくさんの生を通り過ぎました。私はそれらすべてを覚えていることができますが、あなたはそうできません。おお、敵を鎮圧する者よ!」(Bg.4.5)

第17段落
クリシュナは神ではありますが、主は何度も何度も化身なさいます。アルジュナも、生命体なので何度も何度も生まれます。至高の人格神と生命体の間の違いは、ターニー・アハム・ヴェダ・サルヴァーニ、「クリシュナはご自分の過去の化身の出来事を覚えているが、生命体は覚えていられない」というものです。

それが神と人との間の違いの一つです。神は永遠であり、私たちもまた永遠です。しかし違いは、私たちはいつも体を変えているということです。死のとき、私たちは自分の生涯のできごとを忘れます。死は忘却を意味します。それだけです。

夜、眠るとき、私たちは自分がある妻の(such and such a wife)夫であって、ある子供たちの父親であるのを忘れます。私たちは眠りの中で自分自身を忘れますが、目覚めるとき、私たちは思い出します。「おお、私は誰それだ。そして私はこれこれをしなければならない。」

自分の以前の生において、私たちが他の国々で他の家族、父、母などと共に他の体を持っていたというのは事実です。しかし私たちはこれらすべてを忘れてしまいました。私たちは、犬、あるいは猫、あるいは人間、あるいは神(gods)であったかもしれません---何であったとしても、私たちは今は忘れてしまっています。

第18段落
これらすべての変化にも関わらず、生命体として私たちは永遠です。ちょうど以前の生において私たちがこの体のために準備をしたように、この人生において私たちはもう一つの体のために準備をしています。私たちは自分のカルマ、すなわち活動に応じて自分の体を得ます。

徳の相にある者は、より高い惑星に、人生のより高い水準に上げられます(Bg.14.14)。熱情の相において死ぬ者は地上に留まり、そして無明の相において死ぬ者は生命の動物の種に落ちるかもしれず、あるいは、より低い惑星に移されるかもしれません(Bg.14.15)。これがずっと続いている過程ですが、私たちはそれを忘れます。

第19段落
あるとき、天国の王様インドラが自分の霊的指導者の足元で(訳注:~に対して)無礼を犯しました。そして彼の霊的指導者は、彼に豚として生まれるように呪いをかけました。こうして、インドラが豚になるために地球に行ったので、天国の王国の王座が空になりました。

(この)状況を見て、ブラーマーが地球に来て豚に話しかけました。「我が親愛なる方よ。あなたはこの地球という惑星の上で豚になりました。私はあなたを救うために来ました。直ちに私と共に来てください。」しかし、豚は答えました。「おお、私はあなたと共に行くことはできません。

私には非常に多くの責任があります---私の子供たち、妻、そしてこの素敵な(nice)豚社会です。」ブラーマーが彼を天国に連れ帰ると約束したにも関わらず、豚の形において、インドラは拒絶しました。これは忘却と呼ばれます。同様に、主クリシュナがおいでになって私たちにおっしゃいます。

「あなたはこの物質世界で何をしているのですか?(サンスクリット引用)私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」しかし私たちは言います。「旦那様(Sir)、私はあなたを信じません。私にはここにもっと大事な仕事があります。」これが制約された魂の立場---忘却です。この忘却は、師弟継承の道を辿ることによって、すぐに消されます。
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by ammolitering4 | 2012-03-15 15:03 | 「知識の王」 | Comments(0)

第5章 後半

第10段落
知識を得るための二つの過程があります---一つは帰納的なもので、もう一つは演繹的なものです。演繹的な方法は、もっと完全であると考えられます。私たちは「すべての人間は死ぬ(All men are mortal)」などの前提(premise)を取るかもしれません(訳注:~を例にあげましょう)。

(そして)、誰もどのように人間が死を運命づけられているか論じる必要はありません(訳注:no one need discuss、このneedは助動詞)。これがそうであるということは一般に受け入れられています。演繹的な結論は次のようなものです。「ジョンソン氏は人間である。したがってジョンソン氏は死ぬ。」

しかし、すべての人間が死ぬという前提はどうやって得られたのでしょうか(to arrive at)?帰納的な方法の信奉者(followers)は、実験と観察を通してこの前提に至りたいと思います。そのため私たちは、この人が死んだ、あの人が死んだ、などと研究するかもしれず、非常に多くの人々が死んだのを見たあとで、「すべての人は死ぬ」と結論づける、あるいは一般化するかもしれません。

しかし、この帰納的な方法には大きな欠陥があり、それは私たちの経験は限られているということです。私たちは、死なない人を一度も見たことがないかも知れず、それでも(but)私たちはこれを、有限である自分の個人的な経験に基づいて(on)判断しています。

私たちの感覚は限られた力を持っており、そして私たちの制約された状態には非常の多くの欠陥があります。その結果、帰納的な過程は必ずしも完全ではなく、他方、完璧な知識の源からの演繹的な過程は完璧です。ヴェーダの過程はそのような過程です。

第11段落
権威は認められていますが(although the authority is acknowledged)(訳注:これはおそらくクリシュナがBGの中で他の権威に敬意を表しているということだろうと思います)、バガヴァッド・ギーターの中には独断的であるように見える多くの節があります。例えば、第7章でシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服するもの(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。すべてのものは私の上に拠り頼みます(to rest upon)。ちょうど真珠が糸に通されるようにです。」(Bg.7.7)

第12段落
シュリー・クリシュナはご自分より偉大な権威はないとおっしゃり、そしてこれは非常に独断的であるように見えます。もしも私が「私より偉大な者はいません」と言えば、人々は「おお、スヴァーミージーは非常に尊大だ」と考えるでしょう。

もしも非常に多くの不完全さによって制約されている者が自分はすべての者の中で最も偉大であると言うなら、彼は(神を)冒涜します。しかし、クリシュナはこれを言うことができます。なぜなら、私たちは歴史から、「この地上にいらした間でさえ、主は当時の最も偉大な名士と考えられた」と理解することができるからです。実に、主は活動のすべての分野において最も偉大でいらっしゃいました。

第13段落
ヴェーダの体系によれば、最も偉大な権威から得られた知識は完璧と考えられるべきものです(is to be considered)。ヴェーダによれば、3つの種類の証拠があります---プラテャクシャ、アヌマーナ、そしてシャブダです。一つは直接的な視覚上の知覚によるものです。

もしもある人が私の前に座っているなら、私は彼がそこに座っているのを見ることができ、彼がそこに座っているという私の知識は私の目を通して受け取られます。2番目の方法、アヌマーナは、聴覚によるものです。私たちは子供たちが外で遊んでいるのを聞くかもしれません。

そして、聞くことによって私たちは彼らがそこにいると推測することができます。そして3番目の方法は、より高い権威から真理を受け取る方法です。「人は死ぬ」などの言葉(saying、諺、言い習わし)は、より高い権威から受け入れられます。

誰もがこれを受け入れますが、誰もすべての人が死ぬと経験したことはありません。伝統によって、私たちはこれを受け入れなくてはなりません。もしも誰かが「誰が最初にこの真理を見出したのですか?あなたがそれを発見したのですか?」と尋ねるなら、それは言うのが非常に困難です(訳注:答えにくい)。

私たちが言えることのすべては、(その)知識は下ってきている(訳注:昔からそう言われている)ということ、そして私たちはそれを受け入れる、ということです。知識を得るための3つの方法のうち、ヴェーダは、知識をより高い権威から受け取るという第3の方法が最も完璧である、と言います。

直接的な知覚は、特に人生の制約された状態においては、いつも不完全です。直接的な知覚によって私たちは、「太陽はちょうど、私たちがものを食べるのに使う皿よりも大きいものではない、円盤のようである」ということを見ることができます。

しかし科学者たちからは、私たちは「太陽は地球よりも何千倍も大きい」と知るようになります。では、私たちは何を受け入れればよいのでしょうか(what are we to accept)?私たちは、科学的な宣言、権威者の宣言、それとも自分の独自の経験を受け入れるのでしょうか?

私たちは自分では太陽がどれほど大きいかを証明することができませんが、天文学者の判断を受け入れます。このようにして、私たちは自分の活動のすべての分野において権威者の言明を受け入れています。私たちはまた、新聞とラジオから、「中国やインドや地球上全体の他のところで、あれこれのできごとが起こっている」ということを理解します。

私たちはこれらの出来事を直接的に経験してはいません。そして私たちはそのような出来事が実際に起こっていると知りません。しかし私たちは新聞とラジオの権威を受け入れます。私たちは知識を得るために権威を信じるより他に選択肢を持ちません。そして権威が完璧であるとき、私たちの知識は完璧です。

第14段落
ヴェーダの源によれば、すべての権威のうちでクリシュナが最も偉大で最も完璧です(サンスクリット引用)。クリシュナがご自分を最高の権威と宣言なさるだけでなく、これは偉大な聖人たちとバガヴァッド・ギーターの学者たちによっても受け入れられています。

もしも私たちがクリシュナを権威として受け入れず、主の言葉をそのままに受け入れないなら(訳注:if we do not accept ~ and take ~、この場合and はnorの意味だと思います)、私たちはバガヴァッド・ギーターから何らの利益も得ることができません。それは独断的ではありません。それは事実です。

もしも私たちがクリシュナがおっしゃることを詳細に(scrutinizingly、じろじろと凝視するように)研究するなら、私たちはそれが正しいことを見出すでしょう。至高の人格神と異なる意見を持つシャンカラーチャーリャのような学者でさえ、クリシュナがスヴァヤム・バーガヴァーン---クリシュナが至高主であると認めます。

第15段落
ヴェーダの知識は新しい発見ではありません。それはすべて、古い、明かされた知識です(it is all old revealed knowledge)。クリシュナはそれを、「太古の」を意味するプラータナーと呼ばれます。クリシュナは「大昔(millions of years before)、このヨガを太陽神に話した」とおっしゃり、私たちは、そのさらに大昔に、いつ主がそれを他の誰かに話されたのか知りません。

この知識はいつも繰り返されています。ちょうど、夏、秋、冬そして春が毎年繰り返されるようにです。私たちの知識量は極めて貧困です。私たちはこの惑星の歴史さえ5千年以上前のことは知りません。しかしヴェーダ文献は何百万年も前に遡る歴史を与えます(訳注:繰り返しになりますが、この「何百万年」は実際にはもっと長い時間を指します)。

3千年前にこの惑星上で何か起こったかについて知識を持たないからといって、私たちは「その頃は歴史がなかった」と結論づけることはできません。もちろん、人はクリシュナの歴史的な正当性(validity、妥当性、確実性)を否認することができます。

人は、マハーバーラタによればクリシュナは5千年前に生きていた、と言うかもしれず、これがそうであれば、主が何百万年(訳注:太古の時代)にバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったという可能性はありません。

もしも私が太古の時代に太陽の上で太陽神に話をしたと言ったら、人々は「スヴァーミージーは何か無意味なことを話している」と言うでしょう。しかし、クリシュナの場合はそうではありません。なぜなら、主は至高の人格神だからです。

私たちが「クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神に話した」と信じようが信じまいが、この事実はアルジュナによって受け入れられています。アルジュナはクリシュナを至高主として受け入れました。そしてそのため、彼はクリシュナにとって太古の時代に誰かと話すのは十分に可能だと知っていました。アルジュナは個人的にはシュリー・クリシュナの言明を受け入れますが、自分の後から来る人々のために状況を明らかにするために尋ねます。

(サンスクリット引用)

「太陽神ヴィヴァスヴァーンはあなたよりも年長です。あなたが初めに(訳注:太陽系の初めに、ということだと思います)この科学を彼に教えたということを、私はどう理解すればよいのでしょうか?」(Bg.4.4)

第16段落
実際は、これは非常に知性的な質問です。そしてクリシュナはそれにこのようにお答えになります。

(サンスクリット引用)

「あなたと私はどちらも、たくさん、たくさんの生を通り過ぎました。私はそれらすべてを覚えていることができますが、あなたはそうできません。おお、敵を鎮圧する者よ!」(Bg.4.5)

第17段落
クリシュナは神ではありますが、主は何度も何度も化身なさいます。アルジュナも、生命体なので何度も何度も生まれます。至高の人格神と生命体の間の違いは、ターニー・アハム・ヴェダ・サルヴァーニ、「クリシュナはご自分の過去の化身の出来事を覚えているが、生命体は覚えていられない」というものです。

それが神と人との間の違いの一つです。神は永遠であり、私たちもまた永遠です。しかし違いは、私たちはいつも体を変えているということです。死のとき、私たちは自分の生涯のできごとを忘れます。死は忘却を意味します。それだけです。

夜、眠るとき、私たちは自分がある妻の(such and such a wife)夫であって、ある子供たちの父親であるのを忘れます。私たちは眠りの中で自分自身を忘れますが、目覚めるとき、私たちは思い出します。「おお、私は誰それだ。そして私はこれこれをしなければならない。」

自分の以前の生において、私たちが他の国々で他の家族、父、母などと共に他の体を持っていたというのは事実です。しかし私たちはこれらすべてを忘れてしまいました。私たちは、犬、あるいは猫、あるいは人間、あるいは神(gods)であったかもしれません---何であったとしても、私たちは今は忘れてしまっています。

第18段落
これらすべての変化にも関わらず、生命体として私たちは永遠です。ちょうど以前の生において私たちがこの体のために準備をしたように、この人生において私たちはもう一つの体のために準備をしています。私たちは自分のカルマ、すなわち活動に応じて自分の体を得ます。

徳の相にある者は、より高い惑星に、人生のより高い水準に上げられます(Bg.14.14)。熱情の相において死ぬ者は地上に留まり、そして無明の相において死ぬ者は生命の動物の種に落ちるかもしれず、あるいは、より低い惑星に移されるかもしれません(Bg.14.15)。これがずっと続いている過程ですが、私たちはそれを忘れます。

第19段落
あるとき、天国の王様インドラが自分の霊的指導者の足元で(訳注:~に対して)無礼を犯しました。そして彼の霊的指導者は、彼に豚として生まれるように呪いをかけました。こうして、インドラが豚になるために地球に行ったので、天国の王国の王座が空になりました。

(この)状況を見て、ブラーマーが地球に来て豚に話しかけました。「我が親愛なる方よ。あなたはこの地球という惑星の上で豚になりました。私はあなたを救うために来ました。直ちに私と共に来てください。」しかし、豚は答えました。「おお、私はあなたと共に行くことはできません。

私には非常に多くの責任があります---私の子供たち、妻、そしてこの素敵な(nice)豚社会です。」ブラーマーが彼を天国に連れ帰ると約束したにも関わらず、豚の形において、インドラは拒絶しました。これは忘却と呼ばれます。同様に、主クリシュナがおいでになって私たちにおっしゃいます。

「あなたはこの物質世界で何をしているのですか?(サンスクリット引用)私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」しかし私たちは言います。「旦那様(Sir)、私はあなたを信じません。私にはここにもっと大事な仕事があります。」これが制約された魂の立場---忘却です。この忘却は、師弟継承の道を辿ることによって、すぐに消されます。
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by ammolitering4 | 2012-03-15 15:02 | 「知識の王」 | Comments(0)

第5章 前半

第5章 パラムパラー:師弟継承を通した知識

(サンスクリット引用)
第1段落
「神聖なる主はおっしゃいました。『私はこの不滅のヨガの知識を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教え、そしてマヌは次にそれをイクシュヴァークに教えました。』」(Bg.4.1)

第2段落
大昔(訳注:Many ages ago、’age’は「時代」)、クリシュナはバガヴァッド・ギーターの神聖なる知識を太陽神ヴィヴァスヴァーンに授けました。私たちの知る限り、太陽は非常に熱い場所であり、私たちは、誰にとってもそこに住むのは可能であるとは考えません。

これらの体をもってしては、太陽に非常に近付くことさえ可能ではありません。しかし、ヴェーダ文献から私たちは、「太陽はちょうどこれ(訳注:地球)のような惑星であり、ただ、そこ(にある)すべてのものは火でできている」ということを理解することができます。ちょうどこの惑星が土でできているように、主に火、水、あるいは空気でできた、他の惑星があります。

第3段落
これらの様々な惑星の上の生命体は、その惑星の主な要素に応じた要素でできた体を得ます。したがって、太陽の上に住む生命体(being)は火でできた体を持っています。太陽の上のすべての生命体(being)のうち、主要な名士(personality)はヴィヴァスヴァーンという名の神です。

彼は太陽神(スーリャナーラーヤナ)として知られています。すべての惑星の上に主要な名士がいます。ちょうど合衆国では主要な人は大統領であるようにです。マハーバーラタと呼ばれる歴史から、私たちは、かつてこの惑星(訳注:地球)にはマハーラージャ・バーラタという名前の唯一の王様がいたと理解します。

彼はおよそ5千年前に統治しており、そして惑星は彼にちなんで名付けられました。その後、地球は非常に多くの異なる国に分けられるようになりました。このようにして、宇宙の中の様々な惑星の、普通は一人、時として多くの統治者が存在します。(訳注:~には~が存在します)

第4段落
第4章のこの最初の節から、私たちは「何百万年も前にシュリー・クリシュナがカルマ・ヨガの知識を太陽神ヴィヴァスヴァーンに授けた」と学びます。

(訳注:millionは数字の百万ですが、単に非常に大きな数字であることを指すのにも使われるので、ここでは「大昔」という意味です。millenniumも同様で、千年という本来の意味ではなく、非常に長い一つの時代を指して使われています。適宜変えて読んでください。)

バガヴァッド・ギーターの教えをアルジュナに授けるシュリー・クリシュナはここで、「これらの教えは全く新しいものではなく、そうではなくて太古に(Many ages ago)異なる惑星において明らかに語られた(to enunciate)」と示されます。

ヴィヴァスヴァーンは次に、これらの教えを自分の息子マヌに繰り返しました。そして次にマヌはその知識を自分の弟子のイクシュヴァークに授けました。マハーラージャ・イクシュヴァークは偉大な王であり、主ラーマチャンドラの先祖です。

ここで明らかにされる要点(the point being made here)は、「もしも人がバガヴァッド・ギーターを学んでそれから利益を得たいと望むなら、それを理解するための過程があり、そしてその過程がここで描写されている」ということです。

クリシュナがバガヴァッド・ギーターをアルジュナに初めて語っているのではありません(訳注:クリシュナがBGを語るのはアルジュナに対してが初めてではない)。ヴェーダの権威者によって、「主はこれらの神聖なる教えをヴィヴァスヴァーンにおよそ4億年前に授けられた」と推定されています。

マハーバーラタから私たちは、バガヴァッド・ギーターはアルジュナにおよそ五千年前に語られたと理解します。アルジュナの前に、(この)教えは師弟継承によって手渡されていましたが、非常に長い時間の間に、教えは失われてしまいました。

(サンスクリット引用)

「この至高の科学はこのように師弟継承の鎖を通して受け取られました。そして聖人的な王たちはそれをそのようにして理解しました。しかし、時間が経つうちに(in course of time)継承は途切れ、したがって、ありのままの科学は失われたように見えます。

その非常に古い(very ancient)、至高存在との関係の科学は、今日、私によってあなたに語られます。なぜなら、あなたは私の献身者であって私の友人でもあるからです。したがって、あなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(Bg.4.2-3)

第5段落
バガヴァッド・ギーターの中で多くのヨガの体系が描写されています---バークティ・ヨガ、カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、ハター・ヨガ---そしてそのため、それはここでヨガと呼ばれます(and therefore it is here called yoga)。(訳注:これは文章のつながりがよく分かりません。)

ヨガという言葉は「つなげる(to link up)」を意味し、その意味するところは(the idea is)、「ヨガにおいて私たちは自分の意識を神に繋げる」というものです。それは、神と再び結びつくための、すなわち主との私たちの関係を再構築するための方法です。

時間が経つうちに、シュリー・クリシュナによって授けられたこのヨガは失われました。これはなぜでしょうか?シュリー・クリシュナがアルジュナに話していたとき、学識のある賢人たちはいなかったのでしょうか?いいえ、当時、多くの賢人たちが存在していました。

「失われた」ということによって、バガヴァッド・ギーターの解説(purport)が失われた、ということが意味されます(訳注:~という表現の意味するところは~です)。学者たちはバガヴァッド・ギーターを自分の独自の気まぐれに応じて分析し、バガヴァッド・ギーターの自分の独自の解釈を与えるかもしれません。

しかし、それはバガヴァッド・ギーターではありません。これがシュリー・クリシュナが強調していらっしゃる要点であり、バガヴァッド・ギーターの学徒はそれをよく心に留めるべきです(to note)。人は物質的な視点からは非常に良い学者であるかもしれませんが、それは彼にバガヴァッド・ギーターの解説をする資格を与えません。

バガヴァッド・ギーターを理解するためには、私たちは師弟継承(パラムパラー)の原則を受け入れなければなりません。私たちはバガヴァッド・ギーターの精神(spirit)に入らねばならず、単に学識の視点からそれに近付いてはなりません。

第6段落
すべての人々のうち、なぜシュリー・クリシュナはアルジュナをこの知識の受け取り手として選んだのでしょうか?アルジュナは全く偉大な学者ではなく、ヨギー、瞑想者、あるいは聖なる人(holy man)でもありませんでした。彼は、もうすぐ戦いに臨もうとする戦士でした。

当時は多くの偉大な賢人たちが生きており、そしてシュリー・クリシュナは(そうしたければ)バガヴァッド・ギーターを彼らに与えることができました。答えは、「普通の人であったにも関わらず、アルジュナは一つの偉大な資格を持っていた」というものです(サンスクリット引用)。

「あなたは私の献身者であり、私の友人です。」これがアルジュナの非凡な資格、賢人たちが持たなかった資格でした。アルジュナはクリシュナが至高の人格神であると知っており、そしてそのため、彼は主を自分の霊的指導者として受け入れ、主に服従しました。

人が主クリシュナの献身者でない限り、彼は決してバガヴァッド・ギーターを理解することができません。もしも人がバガヴァッド・ギーターを理解したいなら、彼は他の方法からの助けを受けることはできません(訳注:他の方法で理解することはできません)。彼はそれを、バガヴァッド・ギーターそのものの中で定められているように、アルジュナがそれを理解したように理解することによって、理解しなければなりません。

もしも私たちがバガヴァッド・ギーターを異なるふうに理解したいなら、あるいは個々の解釈を与えたいなら、それは私たちの学識の披露ではあるかもしれませんが、それはバガヴァッド・ギーターではありません。

第7段落
学識によって私たちはバガヴァッド・ギーターに関する(of)何らかの理論を作り出すことができるかもしれません。ちょうどマハートマー・ガンディーが、自分の非暴力の理論を支えるための努力においてバガヴァッド・ギーターを解釈したときのようにです。

バガヴァッド・ギーターから非暴力を証明することがどうして可能なのでしょうか?バガヴァッド・ギーターの中心的な主題(the very theme)は、戦うことに対するアルジュナの抵抗感と、クリシュナが彼に敵を殺すように勧めることに関わっています。

事実、クリシュナはアルジュナに「戦いは既に至高存在によって決定されている、そして戦争に集まった人々は決して(家に)戻らないということがあらかじめ運命づけられている」とおっしゃいます。「戦士たちが皆、死を運命づけられている」ということはクリシュナの計画であり、そしてクリシュナはアルジュナに、彼らを征服したという名誉(credit)を得る機会を与えられました。

もしもバガヴァッド・ギーターにおいて戦うことが必要なものであると宣言されているなら、それから非暴力を証明することがどうして可能でしょうか?そのような解釈は、バガヴァッド・ギーターを歪める試みです。ギーターが個人の動機に応じて解釈されれば直ちに、(BGの)目的は失われます。

私たちは自分の独自の理論あるいは議論の力によってヴェーダ文献の結論に至ることはできない、と述べられています。私たちの理論の感覚の範囲内にない(not to come within)多くのものごとがあります。聖典に関して言えば、私たちは異なる聖典が完全真理を異なるふうに描写しているのを見出します。もしも私たちがそれらすべてを分析するなら、幻惑があるでしょう(訳注:幻惑されるでしょう)。

また、異なる意見を持つ多くの哲学者たちがいます。そして彼らはいつも互いに矛盾しています。もしも真理が様々な聖典を読むこと、論理的な議論、あるいは哲学的な理論によって理解され得ないなら、それならそれはどうやって得られることができるでしょうか?事実は、「完全真理の英知は非常に内密であるが、もしも私たちが権威に従うなら、それは理解され得る」というものです。

第8段落
インドでは、ラーマーヌジャーチャーリャ、マドゥヴァーチャーリャ、ニムバールカ、ヴィシュヌスヴァーミー、そして他の偉大な賢人たちから来ている師弟継承があります。ヴェーダ文献は、より優れた霊的指導者を通して理解されます。

アルジュナはクリシュナからバガヴァッド・ギーターを理解しました。そしてもしも私たちがそれを理解したいなら、私たちはそれを他のどの源でもなくアルジュナから、理解しなければなりません。もしも私たちが何であれバガヴァッド・ギーターに関する何らかの知識を持っているなら、私たちはそれがアルジュナの理解とどう符合するかを見なければなりません。

もしもバガヴァッド・ギーターをアルジュナがしたのと同じように理解するなら、私たちは自分の理解は正しいと知ります(we should know)。これが私たちのバガヴァッド・ギーターの学習のための判断基準であるべきです。

もしも実際にバガヴァッド・ギーターから利益を得たいと望むなら、私たちはこの原則に従わねばなりません。バガヴァッド・ギーターは、私たちが市場で買って読むことができ、理解するためには単に辞書で調べればよいような、普通の知識の本ではありません。これは可能ではありません。もしもそれがそうであったなら、クリシュナは決してアルジュナに(BGの)科学が失われたとはおっしゃらなかったでしょう。

第9段落
バガヴァッド・ギーターを理解するために師弟継承を通ることの必要性を理解するのは難しくありません。もしも私たちが弁護士、技師、あるいは医者になりたいなら、私たちは権威のある弁護士、技師、および医者から知識を受け取らねばなりません。

新米の弁護士は経験のある弁護士の見習にならねばならず、あるいは医者になるために勉強している若者はインターンになって、既に免許のある開業医である者と共に働かねばなりません。私たちの(ある)主題に関する知識は、それを権威ある源から受け取らない限り、完成され得ません。
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by ammolitering4 | 2012-03-15 15:00 | 「知識の王」 | Comments(0)

第4章

第4章 マハートマー、すなわち偉大な魂の方法による知識

第1段落
創造のすべての側面におけるクリシュナの存在は、いつもクリシュナの崇拝にいそしんでいるマハートマー、偉大な魂によって知覚されます。クリシュナご自身が述べられるように、これらの偉大な魂たちはバガヴァッド・ギーターの第9章に見出される内密な知識に精通しており、そして彼らはクリシュナをすべてのものの源であると知っています。

(サンスクリット引用)

「おお、プレターの息子よ。幻惑されていない者、偉大な魂たちは、神聖なる自然の保護の下にあります。彼らは完全に献身奉仕にいそしんでいます。なぜなら、彼らは私を至高の人格神、もともとであって(original)であって尽きることがないと知っているからです。」(Bg.9.13)

第2段落
偉大な魂は、「クリシュナは至高の人格神であって主はすべての放射(されたもの)の源である」と、疑いもなく知っています。ヴェダーンタ・スートラは「アタートー・ブラーマー・ジジニャーサー」、人間の人生はブラーマンについて問うためにある、と述べます。

現在では、私たちは皆、一時的な小さなものを学ぶことにいそしんでいます。ブラーマンは最も偉大なものを意味しますが、最も偉大なものについて考える(concerning ourselves with ~)代わりに、私たちは食べること、眠ること、身を守ることと性交すること、という動物の問題を解決しようとすることに、網に捕らえられたように(enmeshed)なりました。

これらの小さな問題は自動的に解決します。動物でさえ、性交すること、眠ること、食べること、そして身を守ることを楽しんでいます。これらの配剤はすべて提供されています。これらの体の欲求は、本当は問題ではありませんが、私たちはそれらを問題に作り上げました。

ヴェダーンタ・スートラは、これらの問題を気にしない(not to concern ourselves with)ように私たちに命じました。なぜなら、それらは生命のどんな形(any form of life、どんな形の人生)においても満たされるからです。私たちの問題は、これらすべての顕現の源について問うことです。

人間の形の人生(the human form of life)は、豚、糞を食べる者でさえ解決することのできる物質的な問題を解決するために大変な苦労をするためにあるのではありません。豚は動物の中で最低のものと考えられています。

それでも彼は、食べる設備、性交する設備、眠る設備、そして身を守るための設備を持っています。たとえこれらのものを得ようと努力しなくても、私たちはそれらを得るでしょう。そうではなく、人間はこれらすべてのものが来ている源を見つけるために存在します(Man is meant to find out)。

ヴェダーンタ・スートラは、「ブラーマンはすべてのものが放射している源である」(Brahman is that from which everything is emanating)(ジャンマーディ・アシャ・ヤター)と述べます。哲学者、科学者、ヨギー、ジニャーニー、そして超越主義者は、皆、すべてのものの究極の源を探そうとしています。

この源はブラーマ・サムヒターの中に与えられています。サルヴァ・カーラナ・カーラナム、クリシュナがすべての原因の原因です。

第3段落
クリシュナがすべてのものの根本の源であると知って、偉大な魂たちはどのように活動するでしょうか?クリシュナご自身が彼らをこのように特徴づけられます。

(サンスクリット引用)

「いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏し(訳注:to bow down、文字通りでは「お辞儀をする」ですが、ひれ伏す、こうべを垂れる、屈服する、などの意味もあります)これらの偉大な魂は恒久的に献身の念をもって私を崇拝します。」(Bg.9.14)

第4段落
その賛美は、このバークティ・ヨガの過程、ハレ・クリシュナを唱えることです。偉大な魂は、神の性質、主の降臨と主の使命を知って、主を非常に多くの方法で讃えます。しかし、主を受け入れない他の者たちがいます。クリシュナは彼らのことにも第9章で言及なさいます。

(サンスクリット引用)

「愚か者たちは、私が人間の形で降臨するとき、私をあざ笑います。彼らは私の超越的な性質と、私の(校正:my → My)存在するすべてのものの上の至高の支配を知りません。」(Bg.9.11)

第5段落
動物より低いムーダー、すなわち愚かな人々は、主をあざ笑います。誰であれ神を信じない者は、狂人であるか、あるいは一番の愚か者であるか、どちらかです。神を信じない理由はありません。そして、主を信じるすべての理由があります。人は、自分は神を信じない、と言うかもしれません。

しかし、誰が彼にこれを言う力を与えるのでしょうか?死が来るとき、この話す力は終わります---では、誰が話す力を与えているのでしょうか?話す力は自動的に石から来たのでしょうか?話す力が至高の権威によって取り上げられれば直ちに、体は石より優れたものではなくなります。

話す力それ自体が、私たちにすべてを与えている至高の力が存在するという証拠です。クリシュナ意識の人は、何であれ自分が持っているものは自分の統御の下にはない、と知っています。もしも私たちが神を信じないなら、私たちは、いついかなる時も(at every step)私たちを統御している、私たちを超えた何らかの力を信じなければなりません。

その力を神、あるいは自然、あるいは他の何と呼ぶのであれ。宇宙には統御する力があり、正気の者は誰もそれを否定することはできません。

第6段落
クリシュナはこの地上に存在しておられ、ちょうど超自然的な力を持った人間のように見えました。しかしそのとき、99%の人は主を神として認識することができませんでした。どうやって神を認識することが可能でしょうか?

主は、超自然的な力を通して、権威(者)の証拠を通して、そして聖典の証拠を通して認識され得ます。クリシュナに関して言えば、すべてのヴェーダの権威が主を神として受け入れました。主が地上にいらしたとき、あらわされた主の活動は超人的でした。もしも人がこれを信じないなら、彼はどんな証拠が与えられても信じないと結論されるべきです。

第7段落
人はまた、神を見るための目を持たねばなりません。神は物質的な感覚によっては見られ得ません。したがって、バークティ・ヨガの過程は、神が何であって誰であるかを理解することができるようにするために感覚を浄化する過程です。

私たちは、見ること、聞くこと、触ること、味わうことなどの力を持っています。しかし、もしもこれらの感覚が鈍ければ、私たちは神を理解することができません。クリシュナ意識の過程は、規律された原則、特にハレ・クリシュナを唱えることを通してこれらの感覚を訓練する過程です。

第8段落
シュリー・クリシュナは、さらにムーダーを特徴づけられます。

(サンスクリット引用)

「このように幻惑されている(bewildered)者は、悪魔的、および無神論的な見方によって魅了されます。その幻惑された(deluded)状態において、解放のための彼らの希望、彼らの結果を求める活動、および彼らの知識の蓄積(culture)は、すべて打ち負かされます。」(Bg.9.12)

第9段落
モガーシャーという言葉は、「無神論者の希望(aspiration)は挫かれる」ということを示します。カルミー、すなわち結果を求めて働く者たちは、いつも、自分の感覚を満足させるための、より良い何かを希望しています。彼らが止まる限界はありません。

彼らは自分の銀行の残高を増やそうとしており、ある特定の時点において幸せであることを希望しています。しかし、その時点は決して来ません。なぜなら、彼らは満足の究極の地点を知らないからです。幻想エネルギーの魅力に心奪われた者は、人生の究極の目的を理解することができません。

モガーカルマーナーという言葉は、「彼らは非常に熱心に働いているが、最後にはただ挫折(frustration、失望、欲求不満)に直面するだけだ」ということを示しています。私たちがクリシュナ意識において確立していない限り、私たちの活動のすべては最後には挫かれます。

第10段落
これは普通の人の裁決ではなく、シュリー・クリシュナご自身のです。もしも私たちが知識を探しているなら、私たちはクリシュナが神で「ない」のかどうかを知る(to find out)ための研究をすべきです。何らの対象(objective、目的)なくして、何千年もの推量に何の意味があるでしょうか(What is the point of ~?)

(訳注:この一文はどうもよく分かりません。「感覚の満足のために幾ら努力しても最終的には無駄である」とクリシュナがおっしゃり、知識を求めるならクリシュナが神ではないことの証明を追究すべきであり、そうでないなら永久に理屈をひねくっても無駄である。。。では、ここで「対象あるいは目的」とはやっぱり「クリシュナが神でないことの証明」でしょうか。)

至高主は非常に広大(vast)なので、人は精神的な推量によって主に至る(to reach)ことはできません。もしも私たちが心と風の速さで何百万年も旅するなら、推量によって至高存在に至ることは可能ではありません。(訳注:主は広いので主に至れない、というのは、「全容あるいは本質を知ることができない」という意味だと思います。)

人が自分の独自の精神的な推量という方法によって至高の完全真理に至った例は、ただの一つもありません。したがって、モガージニャーナーという言葉は「俗的な知識の過程は人を途方に暮れさせるようなものだ(bewildering)」ということを示します。

私たち自身の努力を通しては、太陽が沈んだ後で太陽を見ることは可能ではありません。私たちは、朝、日の出のときに太陽が自分自身を明らかに見せるまで待たねばなりません。もしも私たちの限られた感覚によって太陽のような物質的なものを知覚することが可能でないなら、どうして非物質的なものを知覚することが可能でしょうか?

私たちは、自分の独自の努力によってクリシュナを見出す、あるいは理解することができません。私たちは、クリシュナ意識を通して自らに資格を与え、主がご自身を明かされるのを待たねばなりません。

(サンスクリット引用)

「常に献身の念を持っていて、愛情をもって私を崇拝する者に、私は彼らが私のところに来ることができるための理解を与えます。」(Bg.10.10)

第11段落
クリシュナは内にいらっしゃいますが、私たちの物質的な状態が原因で、私たちはそれを認識しません(to realize)。鬼や悪魔(fiends and demons)の性質を持つ者(ラークシャシーム・アースリム)は、「この物質の人生がすべてであり、物体から可能な限りたくさんの快楽(pleasure)を搾り出すことが人間の人生の目的だ」と考えます。

彼らは搾り出すことを試みますが、常に挫折させられます。物質自然を絞ることは、本当の喜びを見つけるための方法ではありません。もしも私たちが本当の喜びを探しているなら、私たちはクリシュナ意識を習慣づけねばなりません。物質世界の中のすべては始まりと終わりを持っています。

しかし、クリシュナにおける(in)幸せは無限であり、終わりを持ちません。この幸せを得るために、私たちは単に少しの時間を犠牲にしてハレ・クリシュナを唱えなければならないだけです。前の時代には、偉大な賢人たちと半神たちは至高存在を認識するために自分の人生のすべてを犠牲にしていたものでしたが、それでも彼らは成功を得ませんでした(would not)。

この時代のために、チャイタンニャ・マハープラブは神認識のための簡単な方法(process)を与えてくださいました。必要なことの全ては、注意深く聞くことです(訳注:「ただ注意深く聞かねばならないだけです」)。私たちはバガヴァッド・ギーターを聞かねばなりません。

そして私たちは、クリシュナの御名を唱え、それらを注意深く聞かねばなりません。私たちは、誤って「自分の知識は偉大である」、あるいは「自分は大変学識がある」と考えておごり高ぶるべきではありません。私たちはただ、クリシュナから教え(message)を聞くために、少し柔和(gentle)で従順にならねばならないだけです。

第12段落
現在では、この世界はラークシャサによって管理されています。ラークシャサは、自分の感覚の満足のために自分の息子を食べる人食いです。今、ラークシャサ感覚の満足のために、非常の多くの人々を強打する(to smash、この場合は「搾取する」という意味と思われます)ため、巨大な政治体制(regimes)が作られています。

しかし彼らは、自分の感覚は決してこのようにして満足させられることはない、と気づきません。それでもラークシャサたちは、自分の気まぐれな欲望を満足させるためにすべてを犠牲にする用意があります。彼らにとって、本当の状況を理解するのは大変困難です。

なぜなら、彼らは物質的な文明に過剰に心を奪われているからです。それでは、誰が理解できるでしょうか?マハートマーである者、その心(heart)が拡大された者は、「すべての者は神に属し、そして私もまた神に属する」と理解します。

第13段落
そのようなマハートマーは、物質自然の統御の下にありません。(マハートマーナス・トゥ・マーム・パールター・ダイヴィーム・プラクリティム・アーシュリター)。神は偉大であり、マハートマーの心(heart)もまた、偉大なる者に奉仕をすることによって偉大になります。

マハートマーは政治的な指導者のための印章ではありません。人は投票によってマハートマーだと押印されることはできません。マハートマーのための水準は、バガヴァッド・ギーターの中に与えられています。マハートマーは主の優性なエネルギーの庇護の下に入った者です。

もちろん、すべてのエネルギーは主のものであり、そして主は霊的なエネルギーと物質的なエネルギーを区別なさいません。しかし、物質エネルギーと霊的なエネルギーの間に周辺的に位置する制約された魂にとっては、区別が存在します。マハートマーはこの区別を見て、そのため霊的エネルギー(ダイヴィーム・プラクリティム)の庇護の下に入ります。

第14段落
偉大なる者に奉仕をすることによって、マハートマーもまた、優性エネルギーと一体化(to identify with)することを通して偉大になります。(アハム・ブラーマースミ)「私はブラーマン---霊である。」彼らはおごり高ぶって自分は神だと考えるのではありません。

そうではなく、もしも人がブラーマンになるなら、彼はブラーマンにおいて自分の活動を表さねばなりません。霊は活動的です。そして、ブラーマンになることは非活動的になることではありません。ブラーマンは霊であり、そしてこれらの物質的な体は、ただその中にブラーマンがいるからこそ、活動的です。

もしも私たちが(自分の)物質自然との接触にも関わらず活動的であるなら、私たちが自らを物質的な汚染から清め、自らを純粋なブラーマンとしての正しい自己認識において確立するとき、私たちは活動的であることを止めるでしょうか?

「私はブラーマンである」と気づいていることは、霊的な活動に携わることを意味します。なぜなら、私たちは霊であり、そして私たちの活動はたとえ私たちが物体によって汚染されていても表されるからです。ブラーマンになることは虚空になることを意味するのではなく、自らを優性なる自然、つまり優性なるエネルギーと優性なる活動において確立することを意味します。

ブラーマンになることは、主に献身奉仕を捧げることに完全に携わることを意味します。こうしてマハートマーは、「もしも奉仕がなされるなら、それはクリシュナに対してであるべきであり(it is to be to Krishna)、他の誰にでもない」と理解します。私たちは本当に長い間、自分の感覚に奉仕をしてきました。今、私たちはクリシュナに奉仕をすべきです。

第15段落
奉仕をやめるということはあり得ません(no question of ~、論外である)。なぜなら、私たちは奉仕のためにあるからです。奉仕をしない人が誰かいるでしょうか?もしも私たちが大統領に「あなたは誰に奉仕をしていますか?」と尋ねるなら、彼は「自分は国に奉仕をしているのだ」と言うでしょう。

奉仕をしていない者は誰もいません。奉仕は、私たちは止めることができません(訳注:語順による強調表現)。しかし私たちは、自分の奉仕を幻想から現実へ向け直すことは、しなければなりません(we do have to、強調表現)。これがなされるとき、私たちはマハートマーになります。

第16段落
いつも主の栄光を讃えるこのキールタン(キールタヤンター)の過程は、マハートマーの始まりです。その過程は、人類にこの「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を授けた主チャイタンニャ・マハープラブによって簡略化されます。

献身奉仕の9つの異なる過程(process、方法)があり、そのうち、シュラヴァナム・キールタナム、聞くことと唱えることが最も大切です。キールタナムは、実際は「描写すること」を意味します。私たちは、音楽、言葉、絵などで描写することができます。シュラヴァナムは、キールタナムとよく合います(to go hand in hand)。

聞かない限り、私たちは描写できないからです。私たちは、至高存在に至るために何らの物質的な資格も必要ありません。私たちがしなければならないことのすべては、権威ある源から聞いて、自分が聞くことを正確に繰り返すことです。(訳注:~しなければならないだけです)

第17段落
かつては、ヴェーダは霊的な指導者から(語られ)、生徒によって聞かれました。そしてそのため、ヴェーダは「聞かれるもの」を意味するシュルティとして知られるようになりました。例えば、バガヴァッド・ギーターの中で、私たちはアルジュナが戦場でクリシュナの話を聞いているのを見ます。

彼はヴェダーンタ哲学の研究にいそしんではいません。私たちはどこででも、戦場においてさえ、至高の権威から聞くことができます。知識は受け取られるのであり、作り出されるのではありません。一部の人々はこう考えます。「なぜ私は主のおっしゃることを聞くべきでしょうか?

私は自分で考えることができます。私は何か新しいものを作りだすことができます。」これはヴェーダの下降的な知識の過程ではありません。上昇的な知識によって、人は自分の独自の努力によって自分自身を上昇させようとします。

しかし、下降的な知識によって、人は知識をより優れた源から受け取ります。ヴェーダの伝統においては、バガヴァッド・ギーターにおいてのように、知識は霊的指導者から生徒へ授けられます。(サンスクリット引用)。従順に聞くことは非常に強力なので、単に権威ある源から聞くことによって、私たちは完全に完璧になります。

従順になる過程において、私たちは自分の(our own)不完全さに気づくようになります。制約されている限り、私たちは4種類の不完全さの影響下にあります。私たちは必ず過ちを犯し、幻惑され、不完全な感覚を持ち、そして騙します。

したがって、私たちの欠陥のある感覚と経験によって完全真理を理解しようとすることは無駄です。私たちはクリシュナの献身者であるクリシュナの代理人から聞かねばなりません。クリシュナは、アルジュナがご自分の献身者であったので、アルジュナをご自分の代理人になさいました(サンスクリット引用)(Bg.4.3)

第18段落
誰も神の献身者になることなくして神の代理人になることはできません。「私は神である」と考える者は代理人になれません。私たちは神の欠かすべからざる小片であるので、私たちの性質は主のと同じです。したがって、もしも私たちが自分の中のこれらの性質を研究するなら、私たちは神について何らかを学ぶことになります。

この自己認識の過程は、神を理解するための一つの方法ですが、私たちは決して「私は神である」と布教することはできません。私たちは、神の力をあらわすことができずして神であると主張することはできません。クリシュナに関して言えば、主は大変な力をあらわすことによって、そしてアルジュナにご自分の普遍的な力を明かすことによって、ご自分は神であると証明なさいました。

クリシュナは、神であると主張する(would claim)人々の気をそぐ(to discourage、反対する、思い留まらせる)ために、この素晴らしい姿をお見せになりました。私たちは、神であると主張する者によって騙されるべきではありません。

私たちはアルジュナの足跡を辿り、誰であれ誰かを神として受け入れる前に、普遍的な姿を見ることを要求すべきです。愚か者だけが別の愚か者を神として受け入れます。

第19段落
誰も神と対等であり得ず、誰も主を超えられません(no one can be above him)。最も位の高い半神である主ブラーマーとシヴァでさえ、主に従属的であり、(主に)心からの敬意を捧げます。何らかの瞑想の過程や他の何かによって神になろうとする代わりに、私たちは神について従順に聞き、主と、私たちと主との関係を、理解しようとするほうが良いのです(we had better)。

神の代理人、あるいは神の化身は、決して神であると主張せず、そうではなく、神の従者であると主張します。これが真正なる代理人のしるしです。

第20段落
何であれ私たちが権威ある源から神について学ぶことは、描写されることができ、そしてそれは私たちが霊的な発達をするのを助けます。この描写はキールタンと呼ばれます。もしも私たちが自分が聞くことを繰り返そうとするなら、私たちは知識において確立されるようになります。

シュラヴァナム・キールタナム、聞くことと唱えることという過程によって、私たちは物質的な制約から自由になって神の王国に至ることができます。この時代には、犠牲、推量、あるいはヨガを行うことは不可能です。私たちには、権威ある源から従順に聞くことの他には道は開かれていません。

これがマハートマーたちが最も内密な知識を受け取った方法です。それがアルジュナがそれをクリシュナから受け取った方法であり、そしてそれが私たちがそれをアルジュナを源とする(stemming from)師弟継承から受け取らねばならない方法です。
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by ammolitering4 | 2012-03-10 12:30 | 「知識の王」 | Comments(1)

第3章 後半

第28段落
これが起こった多くの例があります。インドには、サークシ・ゴパーラと呼ばれる、あるお寺があります(クリシュナはしばしばゴパーラと呼ばれます)。ゴパーラ・ムールティ、すなわち(訳注:クリシュナの)彫刻が、かつてヴリンダーヴァンのある寺院にありました。

あるとき、一人の年老いた者と一人の若者の二人のブラーマナが、巡礼でヴリンダーヴァンを訪れました。それは長い旅でした。そして当時は鉄道がなかったので、旅人は多くの困難を経験しました。老人は、旅の途中で自分を助けてくれたことに対して若者に深く感謝していました(be obliged to)。

そしてヴリンダーヴァンに着いたとき、彼は若者に言いました。「我が親愛なる少年よ。あなたは私に非常に多くの奉仕をしました。そして私はあなたに深く感謝しています。私はぜひともその奉仕に報い、あなたに何らかの褒美を与えたいと思います。」

第29段落
「我が親愛なる方よ(My dear sir,)」と若者は言いました。「あなたはちょうど私の父のような老人です。あなたに奉仕をするのは私の義務です。私は何の褒美も必要としません。」

第30段落
「いいえ、私はあなたに恩があり(I'm obliged to you)、そして私はあなたに褒美を与えねばなりません」と、老人はあくまで主張しました。彼はそれから、若者に自分の若い娘を結婚において与えると約束しました。

第31段落
老人はとても裕福な人でした。そして若者は、学識のあるブラーマナではありましたが、非常に貧乏でした。これを考えて、若者は言いました。「これを約束しないでください。なぜなら、あなたの家族は決して同意しないだろうからです。私は大変貧乏な男です。そしてあなたは貴族的です。ですから、この結婚は成立しないでしょう。神像の前でこれを約束しないでください。」

第32段落
会話は寺院の中で、ゴパーラ・クリシュナの神像の前でなされていました。そして若者は神像に無礼をしないようにと心配していました。しかし、若者の懇願にも関わらず、老人は結婚をあくまで主張しました。しばらくの間ブリンダーヴァンに留まったあと、彼らはとうとう家に帰りました。

そして老人は自分の長男に、彼の若い妹(his young sister)が貧しいブラーマナの若者と結婚することになったと告げました。長男は非常に立腹しました。「おお、どうしてあなたはあの貧乏人を私の妹のための夫として選んだのですか?これは許されません(This cannot be.「そうであってはならない」)。」

第33段落
老人の妻も彼のところに来て言いました。「もしもあなたが私たちの娘をあの少年と結婚させるなら、私は自殺します。」

第34段落
老人はこうして当惑しました。しばらくして、ブラーマナの若者は非常に心配になりました。「彼は自分の娘を私と結婚させると約束した。そして彼は神像の前でその約束をした。今、彼はそれを守りに来ていない(He is not coming to fulfil it.)。」それから彼は、約束を思い出させるために老人に会いに行きました。

第35段落
「あなたは主クリシュナの前で約束なさいました」と若者は言いました。「そして、あなたはその約束を守っていません。それはどうしてですか?(How is that ?)」

第36段落
老人は無言でした。彼はクリシュナに祈り始めました。なぜなら彼は当惑していたからです。彼は自分の娘を若者と結婚させて自分の家族の間にそれほど大変な問題を起こすことを望みませんでした。その間に、長男が出てきてブラーマナの若者を責め始めました。

「あなたは巡礼の地で私の父を略奪しました。あなたは彼に幾らかの(some、何らかの)陶酔物を与え、彼のすべてのお金を盗り、そして今、あなたは、彼があなたに私の一番若い妹を与えると約束したと言っています。悪者め!(You rascal!)」

第37段落
このようにして大声がしたので(there was much noise)、人々が集まり始めました。若者は、「老人はまだ賛成であったけれど家族が彼にとって物事を難しくしている」と理解することができました。人々は長男の大声のせいで集まり始めました。

そしてブラーマナの若者は彼らに、「老人が神像の前でこの約束をしたが、家族が反対しているので彼はそれを守ることができない」と声高に反論(to exclaim)し始めました。無神論者であった長男は、突然若者の話を遮って言いました。

「では(Well,)、もしも主が来て私の父のこの約束を証言する(to bear witness)なら、あなたは結婚において私の妹を得ることができます。」

第38段落
若者は答えました。「はい、私はクリシュナに証人として来てくださるように頼みます。」彼は、神が来てくださるという自信がありました。皆の前で、「もしもクリシュナがヴリンダーヴァンから老人の約束の証人としておいでになったなら、娘は結婚において与えられる」という同意がなされました。

第39段落
ブラーマナの若者はヴリンダーヴァンに戻り、ゴパーラ・クリシュナに祈り始めました。「親愛なる主よ、あなたは私と一緒に来なければなりません。」彼は非常に筋金入りの献身者だったので、彼はクリシュナに、ちょうど人が友人に話すように話しました。

彼は、ゴパーラは単なる彫刻あるいは像であるとは考えていませんでした。そうではなく、彼は主(訳注:神像)を神ご自身と考えていました。突然、神像が彼に話しかけました。

第40段落
「どうしてあなたは私があなたと一緒に行けると考えるのですか(How do you think that~)?私は彫刻です。私はどこにも行けません。」

第41段落
「でも(Well,)、もしも彫刻が話すことができるなら、彼は歩くこともできます」と少年は答えました。

第42段落
「では、いいでしょう」と神像はとうとう言いました。「私はあなたと一緒に行きます。ただし、一つ条件があります。決して、あなたは私を見るために振り向いてはなりません(In no case shall you~)。私はあなたについて行きます。そしてあなたは私がついて来ているということを、私の脚の足首飾りのたてるチリンチリンという音によって知るでしょう。」

第43段落
若者は同意し、そしてそのようにして彼らは別の町へ行くためにヴリンダーヴァンを去りました。旅がほとんど終わりかけ、ちょうど彼らが彼の故郷の村に入ろうとするとき、若者はもう足首飾りの音を聞くことができませんでした。そして彼は恐れ始めました。「おお、クリシュナはどこだろうか?」

もはや自制しきれず、彼は振り返りました。彼は彫刻がじっと立っているのを見ました。彼が振り返ったので、それはもはや先へ進みませんでした。彼は直ちに町に走っていき、人々に「出てきて、証人としておいでになったクリシュナを見るように」と言いました。

誰もが、そのように大きな彫刻がそれほど遠くから来たということに驚愕し、そして彼らは神像に敬意を表して(in honor of)その場に寺院を建てました。そして今日、人々は今でもサークシ・ゴパーラ、証人としての主を崇拝しています。

第44段落
したがって、私たちは「神はどこにでもいらっしゃるので、主はご自分の彫刻の中、ご自分の姿に作られた像(the image made of Him)の中にもいらっしゃる」と結論づけるべきです。非人格主義者でさえ認めるように、もしもクリシュナがどこにでもいらっしゃるなら、それならなぜ、主がご自分の像の中にいらっしゃらないことがあるでしょうか?

像あるいは彫刻が私たちに話しかけるか、そうでないかは、私たちの献身の念の程度によります。しかし、もしも私たちが像を単に一片の木あるいは石として見ることを選ぶなら、クリシュナはいつも私たちにとって木あるいは石であり続けるでしょう。クリシュナはどこにでもいらっしゃいます。

しかし、私たちが霊的な意識において発達するにつれて、私たちは主をありのままに(as He is)見始めることができるようになります。もしも私たちが手紙を郵便箱に入れるなら、それはその目的地に行きます。なぜなら、郵便箱は正式に認められている(authorized)からです。

同様に、もしも私たちが神の正式に認められた像を崇拝するなら、私たちの信仰は何らかの効果を持つでしょう。もしも私たちが様々な規則や規律に従う準備ができているなら---つまり、もしも私たちが資格を得れば---神をどこにでもいたるところに(anywhere and everywhere)見ることが可能です。

献身者がいるとき(present)、クリシュナはご自分の偏在のエネルギーによって、ご自分をどこにでもいたるところに顕現なさいます。しかし、ご自分の献身者がいないとき、主はこれをなさいません。これの多くの例があります。プラーラーダ・マハーラージャは、クリシュナを柱の中に見ました。

多くの他の例があります。クリシュナはそこにいらっしゃいます。必要とされるもののすべては、主を見るための私たちの資格です(訳注:必要なのは~だけです)。

第45段落
クリシュナご自身がこのようにしてご自分の偏在の例を挙げられます。

(サンスクリット引用)

「どこにでも吹いている強い風がいつもエーテルの空間にあるように(to rest in)、同じようにすべての存在(being)が私の中にある(to rest in)ことを知りなさい。」(Bg.9.6)

第46段落
誰もが風は空間(space)の中を吹くことを知っており、そして地上ではそれはどこにでも吹いています。空気も風のない場所はありません。もしも私たちが空気を追い出したいと望むなら、私たちは何らかの機械によって人工的に真空を作らねばなりません。ちょうど空間の中で空気がどこにでも吹いているように、おなじように(so)、すべてはクリシュナの中に存在しています。もしもこれがそうであるなら、物質的な創造が分解されるとき、それはどこに行くでしょうか?

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。時代(millennium)の終わりにすべての物質的な顕現は私の自然(nature)の中に入ります。そしてもう一つの時代の初めに、私の力によって、私は再び創造します。」(Bg.9.7)

第47段落
ちょうど人が時計のネジを巻くように、クリシュナはご自分の自然(プラクリティ)を始動なさいます(to set into motion)。そして自然が休止して安らかになる(to unwind)とき、それは主の中に吸収されます。しかし、霊的な創造はこのようではありません。なぜなら、それは永遠だからです。

物質的な創造の中では、すべては一時的です。ちょうど私たちの体が内にある霊的な火花が原因で成長しているように、創造全体が、内にある主の霊が原因で、存在し始め(to come into being)、成長しており、そして消えています(to pass out of being)。

ちょうど私たちの霊が体の中に存在している(present)ように、主は宇宙の中にパラマートマーとして存在していらっしゃいます。クシーロダカシャーイー・ヴィシュヌの存在が原因で、物質創造は存在します。ちょうど私たちの存在が原因で私たちの体が存在しているようにです。

時としてクリシュナは物質創造を顕現させ、そして時としてそうなさいません。どの場合でも、その存在(existence)は主の存在(presence)が原因です。
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by ammolitering4 | 2012-03-08 15:59 | 「知識の王」 | Comments(4)