カテゴリ:「至高神の教え(メッセージ)」( 12 )

第2章 最後まで

第2章第72段落より

第72段落
カルマ・ヨギーは、「至高の人格神クリシュナがすべてものの享楽者であり、主がすべての生命体の主である」と、よく知っています。彼は、人々が自分自身を享楽者あるいは放棄者の立場に置くように導く、偽りの権威(prestige、威信、威光)に、何の価値も見出しません。

学識のある賢人たちは、それを物質的な存在の主要な病であると見なし、この手の偽りの権威に嫌悪を感じます。すべての良い仕事、知識を培うこと、瞑想、禁欲、犠牲―――これらすべての活動は、この物質的な病を好転させるためにあります。

したがって、至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(5.29)において、「自分(訳注:クリシュナ)がすべての犠牲と禁欲の享楽者であり、すべての宇宙の主であり、また、すべての生命体の至高の友人である、ということを知ることによって、人は至高の平和を得ることができる」とおっしゃいます。

第73段落
私たちは既に、仕事を犠牲のためだけに、すなわちヴィシュヌの超越的な感覚を喜ばせるためだけにすることの必要性を議論しました。そして、バガヴァッド・ギーターの上記の言明は、至高の人格神シュリー・クリシュナだけがすべての犠牲の行為の結果を楽しむことができる、ということを明らかにします。

普通の労働者(worker)の犠牲と、経験主義的な哲学者の瞑想と禁欲は、すべて至高の人格神シュリー・クリシュナによって規定され、維持されます。また、超魂―――神秘的なヨギーにとって瞑想の対象である、ヴィシュヌの局地化された側面―――は、至高の人格神シュリー・クリシュナの完全部分です。

第74段落
このように、シュリー・クリシュナはすべての人の友人です―――その人が普通の労働者であれ、経験主義的な哲学者であれ、あるいはたとえ神秘的なヨギーであれ。そして、至高の人格神の完全な従者である献身者については言うまでもありません。

至高の人格神は、特定の時、場所、そして聴衆に応じて、どこででも至高神への献身奉仕という超越的な過程を教え、普及するために、ご自分の献身者に力を授けられます。そうすることによって、(主は)いつも皆のために善をなさいます。したがって主は、すべての恩恵の宝庫です。そして一般の人々は、(彼らが)カルマ・ヨガに始まる献身奉仕の過程によって主を知るようになるとき、完璧な平和と幸せを得ることができます。

第75段落
至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕のためにすべてのことをする者は、至高神への奉仕に関連のない何らの犠牲や苦行や瞑想をする必要もありません。私たちは先に、ブラーマナのしるしである徳の性質は、そのような献身者の性質に含まれる、と議論しました。

同じように、誠実な労働者の犠牲と専門知識、サンニャースィーの放棄と知識、神秘的なヨギーの静けさと神への深い集中―――これらすべての性質および至高神への愛が献身者の性質の中に含まれます。

第76段落
事実は、シュリー・クリシュナご自身が献身者によってなされた仕事の結果の享楽者である、というものです。そのため、献身者は自分の仕事の結果に対して何の責任もありません。その結果が俗世の人々の評価によれば良いものであれ、悪いものであれ。

献身者は、シュリー・クリシュナのためにすべてをするという自分の義務の衝動の下で行動します(訳注:「~という義務の念に駆られて行動します」)。彼は決して自分自身のためには行動しません。その反対に、至高神の献身者でないサンニャースィーは、あまねく存在する霊に関する知識を得るために、すべての俗世的な責任から逃れます。

神秘的なヨギーは、自分の瞑想をより良くし、自分の中に同じ至高の霊の局地化された側面をもっとよく見るために、同じような方法をとります。しかし、献身者は自己を満足させるという動機によって駆り立てられることなく、至高の人格(person)の満足のためだけに行動するので、そのため彼は実際に―――サンニャースィーと神秘主義者によってなされる別の努力をすることなく―――すべての俗世的な義務から自由です。

サンニャースィーによって得られた霊的な知識、および神秘的なヨギーによって得られた八重の完成は、どれも献身者にとっては簡単に得られるものです。それでも献身者は、何らの利益、賞賛あるいは栄誉を得たいと望みません。

彼は、至高神への超越的な奉仕にいそしむことを除いては、全く何らの利益を得たいとも望みません。そして単にそのような奉仕によって、彼はすべてを得ます。人がいったん、他のすべての利益を含む至高の利益を得るなら、他に何の得るべきものがあるでしょうか?

第77段落
パタンジャリによって説明されたヨガの体系を辿りながら、神秘的なヨギーは自分の様々な身体的な機能をほとんど完全に止めて、瞑想上の恍惚感(trance)を得ようとします。そのため彼は、自分の心臓の中に至高の霊の局地化された側面を見るために、あらゆる苦難に耐えます。

言い換えると、宇宙の中に比肩するもののない自分の理想を実現するために、たとえそれが死に直面することを意味したとしても、どんな代償をも厭いません。バガヴァッド・ギーター(6.22)において、至高の人格神がおっしゃいます。

「自分の心臓の中に至高の霊を認識すると、神秘的なヨギーは、その超越的な水準に至ることよりも価値のあるものは何もあり得ない、と考えます。その水準にいるということは、何らの苦しみによっても、それがどんなにひどくても動揺しない、ということを意味します。

第78段落
パタンジャリの体系によれば、神秘的なヨガは、その様々なきまぐれなやり方(inclination、傾向、性向)をもって精神面を完全に統御することを目的とします。パタンジャリは、「この超越的な状態は、感覚的な活動から自由になることと、浄化された霊魂にとってのみ知覚可能な完成の水準を得ることからなる」と言います。

そのような水準において、神秘主義者の注意は決してそのような霊的な達成からずれません。八重の霊的な完成は、単に神秘的なヨガにおいて最高の水準に至ることの副産物に過ぎません。(訳注:原文は箇条書きではない。)
1、アニマー(最も小さいものより小さくなる力)
2、ラグヒマー(最も軽いものより軽くなる力)
3、プラープティ(何であれ望むものを得る力)
4、イーシター(惑星を作る力)
5、ヴァシター(誰もを統御する力)
6、プラーカーミャ(すばらしい自然な偉業(feat、離れわざ、芸当)を為す力)
など。

上記の完成の一つか二つを得た後、多くの神秘的なヨギーは精神的なぐらつきという罠にはまります。そのような状態において、ヨギーたちは最高の完成、つまり至高の人格神への純粋な献身を得損ねます。

第79段落
しかし、献身者にはそのような堕落の恐れはありません。なぜなら、彼の注意は既に至高の人格神への超越的な奉仕に固定されているからです。そのため、彼は別に(separately、この場合は「既に行っている献身奉仕とは別に」の意味)恍惚感に入る必要がありません。

献身者にとって神秘的な完成は、彼の注意の対象である至高の人格神の、増える一方の新鮮さのおかげで、取るに足らぬものに見えます。俗人は必ず、至高の人格神への奉仕にどうしてそれほど多くの超越的な幸せがあるのか、理解することができません。

第80段落
主クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの中で私たちに、たとえその過程が部分的にだけ完成されたとしても、神秘的なヨギーあるいはカルマ・ヨギーにとっても、彼らのそれぞれの超越的な活動を完成させようとする試みにおいて損失はない、と保証なさいます。

俗的なものは何でも―――知識であれ、富であれ―――物質的な体が滅びるのにあわせて消えますが、カルマ・ヨギーの超越的な仕事は物質的な体と心の俗的な限界を超えます。なぜなら、それは超越的な霊魂との関わりにおいてなされるからです。

このように霊化されることで、これらの活動は物質的な滅亡の限界を超えます。そのため、ちょうど魂が決して滅びないように、物質的な体あるいは心が滅びるときでも、これらの霊化された活動もまた、決して滅ぼされません。

第81段落
至高の人格神は、バガヴァッド・ギーター(6.40)においてこれらを確認なさり、そしてタークラ・バークティヴィノダはそれを次のように説明なさいます。「結局、人間(human race)は二つの部分に分けられます。一方は合法的で、もう一方は非合法的です。

生命の何らの法律も気にせず、単に感覚の満足という原則にのっとって働く者―――彼らは皆、非合法的です。彼らは文明化されているかもしれず、されていないかもしれず、学識があるかもしれず、文盲であるかもしれず、強力、あるいは薄弱であるかもしれませんが、そのような無法者はいつも、低位の動物のように行動します。あらゆる外見に関わらず、彼らの中には何の善もありません。

第82段落
他方、合法的、すなわち法に従う人々は、3つの超越的な区分に分けられます。すなわち、法に従う労働者(訳注:worker、この場合は一般的な意味での労働をする人を指すのではない)、経験主義的な哲学者、そして超越的な献身者です。法に従う労働者はさらに二つの部分に分けられます。

つまり、自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者と、そのような望みを持たない超越的な労働者です。自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者は、はかない物質的な幸せを追い求めます。そして、そのような労働者は物質的な世界の中で俗世的、あるいは天上の(heavenly)幸せで報われます。しかし、これらすべての幸せの形は一時的であることが知られねばなりません(訳注:「~を知っていなければなりません」)。

そのため、そのような労働者は、永久的で超越的な本当の幸せを得ることができません。この本当の超越的な幸せは、物質的な存在の呪縛からの解放の後でのみ得られます。そのような超越的な幸せを目的としないいかなる行いも、いつも一時的で気まぐれ(baffling、当惑させるような)です。」

第83段落
普通の仕事がそのような超越的な目標を目的とするとき、この仕事はカルマ・ヨガと呼ばれます。このカルマ・ヨガの過程によって、人は徐々に自己浄化(self-purification)、それから超越的な知識、それから完璧な瞑想、そして究極的に至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ます。

時として、俗的な労働者は、彼が自分の俗的な目標を達成するために行う多くの禁欲のため、タパスヴィー(苦行者)、あるいはマハートマー(偉大な魂)であると誤解されます。しかし、そのような俗人によってなされた厳密な禁欲は、結局単に物質的な感覚の満足だけを目的としています。

そしてそのため、これらの禁欲は超越的には無駄です。ラーヴァナやヒラニャカシプなどの一部の悪魔も、大変な禁欲と苦行を行いましたが、彼らは幾らかの、感覚的な喜びの一時的な対象の他には、何も得ませんでした。したがって、感覚的な喜びの限界を超えるときだけ、彼はカルマ・ヨギー、すなわち超越的な結果のための労働者として分類され得ます。

第84段落
本当の徳は、たとえ人が(訳注:カルマ・ヨガの)予備的な水準だけにあったとしても、カルマ・ヨガの活動の中にあります。さらに、カルマ・ヨギーはバガヴァッド・ギーター(6.43)において確認されているように、何度も生まれかわって(life after life)発達します。「生まれ変わった後で、カルマ・ヨギーは自分の過去の生で得た超越的な奉仕の感覚を取り戻します。そして、自分の自然な執着により、彼は再び自分の超越的な活動を完成させようとします。」

第85段落
たとえそのような超越主義者がどういうわけか発達の道から滑り落ちても、彼は再び発達する機会を与えられます。バガヴァッド・ギーター(6.41)において確認されているように、彼は次の生を真正なるブラーマナの家庭、あるいは至高神への奉仕に献身している富裕な商人の家庭に受けることを許されます。

第86段落
しかし、カルマ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、ハター・ヨギーおよびバークティ・ヨギーと様々に分類される超越主義者の中で、バークティ・ヨギーが最も偉大です。なぜなら、バガヴァッド・ギーター(6.47)において確認されているように、彼らはいつも至高神への超越的で愛情ある奉仕の考えと活動に浸っているからです。明らかに、至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ることは、すべての神秘主義の究極的な目標です。それが上記の節の説明です。

第87段落
事実は、神秘主義の道は均一で、一つです。それは最高の目的地への一連の踏み石のようなものです。この神秘主義の道を受け入れることによって、人は霊的な完成に向けての巡礼者になります。カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事は、この超越的な道における最初の踏み石です。

経験主義的で哲学的な(推論による)結論と放棄への望みが加えられるとき、次の踏み台、ジニャーナ・ヨガへの発達が生じます。思考の支配的な原則の明確な概念、すなわち至高神が加えられるとき、そして心臓の中に主の存在を認識しようとするとき、第三の踏み石、デャーナ・ヨガへの発達が生じます。

そしてついに、至高の人格神への愛情ある奉仕を捧げる過程を加えるとき、人は究極的な段階、バークティ・ヨガに発達します。したがって、神秘主義的な道は超越的な進化です。そこでは上記のすべての段階は霊的な発達の段階的な過程の一部です。最終的な段階を理解するために、上のすべての段階に言及することが必要です。したがって、至高の目的地に至ろうと望む者は、系統的な神秘主義の道を辿るかもしれません(may、~してもよい)。

第88段落
しかし人は、第一、第二、あるいは第三の踏み石の上で止まるべきではありません。人は最後の段階へ、至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕という完璧な段階へ、最後まで発達しなければなりません。

中間的な段階まで至ったけれど、それ以上大した発達をせず、自分の発展のその段階で満足し続ける者は、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、あるいはデャーナ・ヨギーなど、その特定の名前で呼ばれます。ですから結論は、超越的な献身者がすべての神秘主義者の中で最も偉大である、というものです。

第89段落
この時点で、超越的な神秘主義の道での発達は普通の物質的な発達と同じではない、ということが特記されるべきです。物質的な世界では、人は次の段階に受け入れられる前に特定の発達の段階を通り過ぎなければなりません。そして、この過程に代替策はありません。

例えば、もしも誰かが修士号の学位を得たいと望むなら、彼は非常に多くの試験に合格しなければなりません。代替策はありません。誰も、適切な試験に合格することなくして修士号の学位を受けることを期待することはできません。

しかし、超越的な神秘主義の道では、段階的な発達の過程によって、より低い水準から最高の水準へと人を導く認定された規律があるにも関わらず、至高神の慈悲によって、人は何らの予備的な試験に合格することなく、超越的な修士号の学位を受け取ることができます。

しかし、至高神のこの類稀なる(extraordinary)慈悲は、至高の人格神との内密な関係という方法によってのみ可能です。そしてこの至高の人格神との内密な関係は、至高の人格神の献身者との超越的な関わりという方法によってのみ可能です。

第90段落
それぞれの、そしてすべての魂は、至高の人格神との潜在的で内密で永遠の関係を持っています。しかし、幻惑的な物質エネルギーとの長い関わりのため、私たち一人一人皆がその関係を記憶にないほどの昔から忘れてしまっています。

私たちは皆、最も豊かな名士(personality)、至高の主の超越的な息子であるにも関わらず、路上をさまよう物乞いのようなものです。冷静な頭をもってしては、私たちはこの事実を非常によく理解できます(could)。それにも関わらず、私たちは自分の至高に豊かな父と、主と自分の関係に無頓着であり続けます。

そしてそのため私たちは、貧困と飢餓という自分の路上の物乞いの問題を解決するために、しかし何の明らかな結果もなく、多くの方法で苦しみ続けます。私たちは路上で同じく貧困に苦しむ多くの友人たちに会います。

時として、私たちよりも多少豊かな者が何らかの進歩的な(訳注:progressive、この場合は「より物質的に発達した」という意味でしょうか)人生の段階に私たちを導きますが、実際には私たちはそのような導きから何らの幸せも得ません。これらの人々は私たちに、仕事、知識、瞑想、神秘主義、そして様々な他の方法についても示します。

しかし不幸にして、そのどれも私たちに、私たちがずっと求めている幸せを与えることはできません。この理由により、主チャイタンニャは、ダシャーシュヴァメダー・ガータにて、プラヤーガのガンジス河の岸辺で、「至高の人格神と主の真正なる代表者の慈悲により、最も幸運な魂だけが献身奉仕の種を得ることができる」とシュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーに助言なさいました。

第91段落
私たちはこの超越的な献身奉仕の種を、主のバガヴァッド・ギーターという超越的なメッセージの中で、シュリー・クリシュナ、至高の人格神ご自身から得ることができます。私たちが「バガヴァッド・ギーターの中のシュリー・クリシュナの本物のメッセージは主への献身奉仕である」と理解する(to grasp)ことができるとき、そのときはじめて私たちはバガヴァッド・ギーターの教えの真価を完璧に理解します(to appreciate)。

そうでなければ、私たちは何度も生まれかわってバガヴァッド・ギーターを読むかもしれず、そして私たちはそれに関する無数の(a thousand and one)解説書を書くかもしれませんが、しかし、バガヴァッド・ギーターを理解するためのすべてのそのような試みは無益に終わります。

第92段落
至高の人格神は、ご自分をバガヴァッド・ギーターにおいて説明なさいました。非常に多くの俗人(common men)が自分の自伝を書き、そして一般の人々は熱心にそれらを読んで受け入れましたが、至高の人格神がご自分について語るとき、人々は主のメッセージをありのままに受け取りません。

これは彼らの不運です。至高の人格神のメッセージをありのままに受け入れる代わりに、愚かな俗世の解説者たちは、バガヴァッド・ギーターによって決して裏づけされていない何らかの人工的な考えを確立するために、バガヴァッド・ギーターの単純な句節からでっちあげの意味を引き出そうとします。

愚かな解説者は、究極的にはそのように人工的に引き出すことによって自分のくだらない理論を確立することができません。そのため、最後に彼らは神の代わりに猿を置くことによって(by putting a monkey in place of God)自分の理論を確認しようとします。

第93段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、シュリー・クリシュナが至高の人格神であるということが確かに確立されています。また、私たちの唯一の義務は主に超越的な愛情ある奉仕を捧げることである、ということも確立されています。バガヴァッド・ギーターのページから私たちがこれらの二つの事実を本当に理解したら、私たちは霊的な教育の初歩的な教室に入ることができます。

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(校正:最後の「ハレ・クリシュナ・マントラを唱える」は省略。このページはページ数(68ページ)の記載が抜けている。また、第4段落に「巻末の広告や住所を参照するように」との指示があるが、その記載が抜けている。)

裏表紙
人間の社会は、至高の人格神、主クリシュナによって4つに分けられています。この自然な社会の分割は記憶にないほどの昔から存在しており、社会をブラーマナ(知識層)、クシャトリヤ(管理層)、ヴァイシャ(商人層)、そしてシュードラ(労働者層)に分割します。

地球のすべての部分において、人間の人口が、人の心理と仕事という、この基本に添って自然に分割されているのを見ることができます。これらの4つの社会的な階層が協力して神に奉仕をするなら、そうすれば私たちは皆、幸せになれるでしょう。
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以上で本書の翻訳を終わります。編集、製本、配布などご自由になさってください。私の許可を取る必要はありません。興味のありそうな方へのサイトの紹介もよろしくお願いします。今後はしばらく仕事の翻訳に集中しますので、再開は時間が空くことと思います。ご了承ください。
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by ammolitering4 | 2012-01-11 17:30 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(4)

第2章 第62段落より

第2章 第62段落より

第62段落
様々な種類の犠牲が存在しますが、私たちは「すべての犠牲の究極的な目的は至高神ヴィシュヌを喜ばせることである」と理解すべきです。私たちが物質的に存在している間は、体と魂を一緒にしておくためだけにであっても、私たちは物質的な物と関わらねばなりません。

しかし、すべてのそのような物質的な活動において、私たちは「至高の霊は偏在である」というヴェーダの真実に関して(in terms of)、霊的な雰囲気をかもし出すことができます。この真実は、単に至高の霊が偏在であるからすべてのものが至高の霊である(原文は斜体)という誤解、すなわち汎神論を支持する者によって不完全に説明されています。

この誤解が解消され、そしてもしも私たちが至高の霊は本当に偏在であるということを覚えているなら、私たちは、すべてのことを自己を認識した魂によって指揮され、私たちのすべての活動を至高の霊との関係によって行うことによって、霊的な雰囲気を作り出すことができます。そうすれば全体(the whole thing)が霊に変化させられます。

第63段落
ここで、上記の霊化の過程を説明するために例を挙げます。鉄の棒が火に入れられるとき、棒は火の性質を帯び、鉄の棒として機能することをやめます。同じように、私たちのすべての活動が私たちのクリシュナとの関係の関してなされるとき、そのときすべては霊に満たされます。クリシュナを喜ばせることが私たちの究極の目的になるので、私たちのすべての活動は霊的になります。

犠牲には、次のような5つの主な要素があります。
1、捧げる過程
2、捧げ物そのもの
3、火
4、犠牲
5、犠牲の結果

これらすべての要素が至高の霊に関係するとき、それらはすべて霊化され、そしてそのときすべてのものは本当に犠牲たり得ます。言い換えると、上記の5つの要素が超越的な奉仕においてシュリー・クリシュナに捧げられるとき、それらは主と相互関係を持つようになり、そしてそのため、それらは完全に霊化されます。

第64段落
したがって、学識のある人々は自分のすべての活動を至高の人格神への超越的な奉仕に向けます。これらの本当に浄化された魂は、実際に自分のすべての感覚的な活動を統御し、また、自分の本当の霊的な自己を十分に習得します(to master)。

そのような霊化された人々だけが、個人、場所、そして時に応じて(in terms of)、堕落した魂に実際に同情を見せることができます。そして、一見すると物質的な活動を行っているにも関わらず、そのような霊化された人々は仕事の呪縛から自由です。

この過程はバガヴァッド・ギーターの5章の7節において説明されています。そこでクリシュナは、他のすべての者への同情から、超越的な結果を得ることを目的として自分の仕事を行う者だけが実際に公けの指導者となる資格がある、と述べられます。

第65段落
カルマ・ヨギーの敵―――自分の満足あるいは感覚の満足のために働き、奉仕という超越的な関係を通して至高の霊と関わっていない者―――は、時として、至高の意思の望みに従って働いているふりをします。実際彼らは、それを至高神への超越的な奉仕であると偽ってレッテルを貼ることによって自分の身勝手さを隠そうとしている汎神論者の詐称者です。

(訳注:「彼らは自分のしていることを「至高神への超越的な奉仕である」と偽り、そうすることで自分の身勝手さを隠そうとしています。彼らは汎神論を支持する詐欺師なのです」)しかし、心が純粋である者―――つまり、至高の人格神の蓮の御足にすべてを捧げた(to surrender)者―――は、そのような偽りの超越主義者から遠ざかっています。

第66段落
そのような、心が純粋な超越主義者は、生命体は非常に微細であるけれど完全真理の欠かすべからざる小片であり、そのため相応の独立性を持っている、と知っています。至高の人格神は万能(all-powerful)ではありますが、主は決して生命体の楽しむこの少々の自由に干渉なさいません。

そのため生命体は、自分のほんの少しの独立性を悪用して、自然の相によって制約される自由があります。徳、熱情、そして無明という自然の相によって制約されるとき、彼(生命体)は徳、熱情、そして無明という、それらのそれぞれの性質を育みます。

物質自然によって制約され続けている限り、彼(生命体)は自分の特定の自然の相に応じて行動しなければなりません。もしもこれらの相が活動していないなら、それなら私たちは現象の(phenomenal、自然現象の)世界の中でこれほど様々な種類の活動を見ることはありません。

第67段落
もしも、自然の精緻な法律を知らないために私たちが「それらは至高の人格神の意思によってなされているのだ」と言って自分のすべての俗的な行為を正当化しようとするなら、それなら私たちは万善の(all-good)至高の人格神の行いに不公平さと酩酊と野卑さを持ち込むことになります。

様々な俗的な矛盾(discrepancy、期待はずれ)は至高の人格神の意思によって生じるのだと―――一部の人々は主の意思によって幸せで、他の人々は主の意思のよって不幸せであると―――決して想像されるべきではありません。

物質世界におけるそのような違いは、個々の生命体による自由意志の、正しい、あるいは正しくない使い方によるものです。至高の人格神クリシュナは、自然の様々な相によって支配されたすべてのそのような制約的な仕事を放棄するように、すべての人に命じられます。そのような仕事は、主の意思によってではなく、自然の相によって永続化された無明から生じます。

第68段落
バガヴァッド・ギーター(5.13)において主は、ご自分は誰の特定の仕事の原因でもなく、そのような仕事の結果の原因でもないが、これらすべては自然の様々な相が原因で生じる、とおっしゃいます。このため、生命体によってなされるすべての活動―――カルマ・ヨガのそれ(活動)を除く―――は、自由意思の悪用(abuse)から生じる、自分で作り出した仕事であり、そしてそのため、人は決して、そのような仕事の結果がどういうわけか万能の神によって定められた、と考えるべきではありません。そのような仕事はすべて物質的であり、そしてそのため、自然の相によって制約され、指示されています。至高の人格神はそのような仕事とは全く関係ありません。

第69段落
同様に、カルマ・ヨギーはいつも、自然の相の制約から遠く離れた超越的な立場に存在しています。なぜなら、彼のすべての仕事は完全存在の水準に辿りつくからです。人が自然の相からの自由という水準にあるとき、現象世界はその霊的な側面を顕現します。世界がこのように霊的に顕現するとき、その自然の相は人の霊的な発達に何らの障壁も呈することができません。そのような障壁が越えられるとき、人は完全な洞察力(view、視力、視界)を得ます。

第70段落
バガヴァッド・ギーター(5.18)はさらに、学識のある人が完全な洞察力を得るとき、彼はすべての生命体を―――学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、あるいは犬食い(訳注:シュードラのさらに下の階層の人々)であれ―――沈着さを持って見る(to observe、観察する)ことができる、と説明します。

人間の中で、学識があって柔和なブラーマナは自然の徳の相の具現であり、一方で、獣の中では牛が徳の相の具現です。象とライオンは自然の熱情の相の具現であり、犬とチャンダーラ(犬食い)は自然の闇、すなわち無明の相の具現です。

第71段落
しかし、これらの生命体の様々な外的な神殿(様々な自然の相の下での彼らの具現)に焦点をあてる代わりに、カルマ・ヨギーは自分の完全な洞察力をもって彼らを見、そして中に閉じ込められた霊に達します(to penetrate to、「見通します」)。

そして、この極微な霊は無限大の至高の霊から発しているので、最高の位置にあるカルマ・ヨギーは、すべての者とすべての物を沈着さをもって見ることができます。そのようなカルマ・ヨギーは、すべてを完全存在との関係において見て、そしてそのため、彼はすべてを完全存在への超越的な奉仕に使います。

彼は、すべての生命体を完全至高神シュリー・クリシュナの非常に多くの超越的な従者として見ます。彼の完全な超越的な洞察力は、すべての物質的な体の檻を突き抜けずにはおきません。ちょうど、赤く熱された鉄が触れるものすべてを焼かずにはおかないようなものです。このように、カルマ・ヨギーはすべての者とすべての物を至高の人格神への超越的な奉仕に携わらせることによって、超越的な性質の手本を示します。
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by ammolitering4 | 2012-01-08 14:46 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 第52段落より

第2章 第52段落より

第52段落
シュリー・クリシュナ、至高の人格神は完全真理です。これはすべての権威ある聖典において立証されています。私たちの霊的な人生は、シュリー・クリシュナとの私たちの関係が再び目覚めさせられるとすぐに発達し始めます。シュリー・クリシュナは太陽のようであり、他方、無知は闇のようなものです。そのため、無知の闇はシュリー・クリシュナとの私たちの関係が築かれるとすぐに消えます。

シュリー・クリシュナが私たちの心臓の中に現れることによって、私たちから物質的な接触による不純物が洗い流されます。ちょうど、太陽が現れると朝が新しくさわやかに現れるようなものです。これは子供じみた想像が作り上げたものではなく、霊的な認識の実際の経験です。シュリー・クリシュナ、あるいは主の真正なる従者の足跡を誠実に辿る者もまた、この単純な真理を理解します。

第53段落
しかし、シュリー・クリシュナをうらやんで自分が主の競争相手である振りをする愚か者は、この事実の言明を受け入れません。そのため愚かな俗人は、カルマ・ヨガの優位を理解することなく、結果的に呪縛を生じさせる無制限な(unrestricted、制約されない、規律されない)物質的な活動にふけります。

彼らの仕事そのものが、彼らを永久に生と死の物質的な存在に留めます。そのような愚かな俗人たちは実際にシュリー・クリシュナをうらやみ、主を「自分たちの一人である」と嘲ります。シュリー・クリシュナに関する真実は、そのような俗人の歪んだ脳に簡単には入りません。それは哲学への経験主義的な方法で侵されているからです。

しかし、主の献身者はバガヴァッド・ギーターのページに実際に述べられていることそのままを忠実に(faithfully、正確に)理解し、想像、あるいは一般に「霊的な解釈」と呼ばれる経験主義的な哲学の手法に訴えません。そのような献身者だけがクリシュナに完全に服従することの論理を受け入れることができ、そのため仕事の危険な呪縛を逃れるためにカルマ・ヨガの過程を取り入れることができます。

第54段落
シュリー・クリシュナによって語られた言葉の中に、これらの献身者が特定のカースト、信条、(訳注:肌などの)色、あるいは国の境界の中に現れる、ということを規定するものはありません。そうではなく、彼らはカースト、信条、(訳注:肌などの)色、あるいは国の制限は全くなくどこにでも現れることができ、(実際に)現れます。ですから、何であれ、そして誰であれ、すべての人がシュリー・クリシュナの献身者になる資格があります。この事実を確認するために、バガヴァッド・ギーターにおいて至高の人格神はおっしゃいます。

「おお、プルターの息子よ。もしも献身奉仕において私に依り頼むなら、堕落した女たちや職業的な売春婦、無知な単純労働者、あるいは商人(など)、信仰のない(faithless、不誠実な)、より低い身分に生まれた者であっても、すべての者が完成を得て神の王国に至ります。」言い換えると、現在の不信心な社会において多数派である非良心的なカースト制度は、シュリー・クリシュナ、至高の人格神に近付くための障壁ではありません。

第55段落
シュリー・クリシュナご自身が、本物で普遍的なカースト制度の基本的な原則を数え挙げられました。4つの社会的な階層―――ブラーマナ(聖職者と知識人)、クシャトリヤ(政治家と軍人)、ヴァイシャ(商人と農民)そしてシュードラ(労働者)---は、それらの階層の構成員が自然の相の下で自分の活動を通じて得た性質に応じて、主によって定められました。

ですから、一面ではクリシュナは世界中のこのカースト制度を作った方ですが、それでも別の見方をすれば、主は(それを)作った方ではありません。つまり、主は不信仰な人々が人の出自に応じて地位を規定する、圧政的で不自然なカースト制度を作った方ではありません。そうではなく、主は、普遍的にあてはまる、自発的で自然で、そして人の性質と能力に基づいたカースト制度を作った方です。

第56段落
4つの社会的な階層の制度は、決して出自によるカースト制度を目的としたものではありませんでした。この制度は、人々の俗的で現実的な資質と仕事に照らして、普遍的に当てはまります。ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャあるいはシュードラの分類は、決して人の偶然の出自に関連して作られるのではありません。(訳注:人が偶然の出自によって階層に分類されるというのは)単に誰かが著名な医者の息子であるからという生得権によって医者になれる、ということと同じ程度(に馬鹿げた)ものです。

医者の本当の資格は、相当の時間をかけた医学の熱心な学習を通してのみ得られます。そして、学習を完了したときに初めて人は医学の職業につくことができます。そのため当然、患者が医者のところに行くとき、彼は医者の出生証明書ではなく、職業的な資格を見ます。ちょうど医者がいつもすべての国とすべての時代にいるように、ブラーマナ、クシャトリヤなどはいつも、個人的で現実的な資質の力によって、地球のすべての場所にいます。

第57段落
私たちが世界の特定の部分の中に、そして特定の宗派の信仰の中に局地化したインドの現在のカースト制度は、疑いもなく誤っており、自然で普遍的なカースト制度の歪んだ姿です。もしも誰かが、何の医学の知識もなく、医学の学校に通いもせず、「自分は医者の息子であるから」と医者である振りをするなら、そしてもしもこの医者が市民の一部から「そうである」として受け入れられるなら、それならその医者と彼の盲目的な追従者たちは単に、騙す者と騙される者の社会の一員です。

ですから、至高の人格神シュリー・クリシュナによって作られ、そしてバガヴァッド・ギーターにおいて言及されているカースト制度は、騙す者と騙される者の社会のカースト制度と同じではありません。シュリー・クリシュナのカースト制度は、世界、そして実際は宇宙の、すべての時とすべての場所において普遍的に真実です。

第58段落
カースト制度の様々な階層の資格はバガヴァッド・ギーターにおいて数え挙げられており、私たちはここでそれらに短く言及します。ブラーマナは最高位の社会的な階層です。彼らは徳の相に位置しており、平等、自制、および許しの活動に携わります。

クシャトリヤは第二番目に高い社会的な階層です。創造的な熱情の性質に位置しており、様々な政治的および社会的な組織の管理的な支配者として公けの指揮に携わります。ヴァイシャは第三位の社会的な階層です。創造的な熱情と無明の闇の混じった性質に位置しており、彼らは一般に農民および商人として働きます。

シュードラは最低位の社会的な階層です。暗闇、すなわち無明の相に位置しており、一般に他の三つの社会的な階層への奉仕をします。階層として、シュードラは俗的な社会組織(social body)全体の従者です。現在の闇の時代―――カリ・ユガ、争乱と欺瞞と無明の時代―――においては、ほとんど誰もがシュードラとして生まれます。

第59段落
もしも私たちが至高の人格神によって作られたカースト制度の光に照らして人間のあり方を調べるなら、私たちは必ず、世界のすべての場所で四つの社会的な階層が機能しているのを見ることができます。地球のすべての場所で、人間が住んでいるところはどこででも、一部の人々はブラーマナの資質を持ち、他の人々はクシャトリヤ、ヴァイシャ、あるいはシュードラの資質を持っています。

自然の相の様々な相は宇宙の隅々にあり、そしてブラーマナ、クシャトリヤなどは単に自然の相の産物であるので、どうして人は世界の特定のところには四つのカーストが存在しないと言えるでしょうか?これは不条理です。

すべての国とすべての時代において、過去にも現在にも未来にも、四つの社会的な階層は存在します。したがって、カースト制度と呼ばれる四つの社会的な階層の制度がインドだけに存在するという理論に固執する者は、完全に誤っています。

第60段落
しかし、至高神の献身者になる機会は、カースト制度によって制限されていません。第四の社会的な階層である普通のシュードラの資質よりはるかに劣る者でさえ、至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする資格があります。

資格のあるブラーマナが、すべてを魅了する至高の人格神であって完全真理であるシュリー・クリシュナに超越的な奉仕をすることによって得る霊的な完成は、シュードラのそれよりも低い地位にある者であっても、もしも彼がこの、シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする、という同じ過程を辿るならば、他の誰によっても得られます。

(訳注:「たとえシュードラよりも低い地位にある者であっても、シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする、という同じ過程を辿るならば、資格のあるブラーマナが得るのと同じ霊的な完成が得られます。」)

プラーナによれば、チャンダーラ、すなわち(シュードラより低い)第5の社会的な階層の者でさえ、自分の超越的な献身奉仕の力によって第一の階層の人(ブラーマナ)よりも高くなります。宇宙の中の至高の聖典バガヴァッド・ギーターの内密な教えは、したがって、人間の人生の最高の完成、つまりシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕を得るためだけにあります。

第61段落
したがって、カースト、信条、あるいは(肌などの)色に関係なく、すべての人が、その初期の段階ではカルマ・ヨガとして知られる献身奉仕の過程を取り入れなければなりません。なぜなら、そうすることによってすべての人が世界のすべての活動を霊的なものにする手助けをするからです。

そのような活動によって、仕事をする人となされた仕事の両方が霊性で満たされ(to surcharge、加重積み込みする)、自然の相を超越します。そして、彼の活動が霊化するにつれて、行為者は自動的に最高位の社会的な地位、ブラーマナの資質を得ます。事実、献身奉仕を通して完全に霊化された者は自然の相を超越しており、そしてそのため彼はブラーマナ以上の存在です。

結局、最高位の俗的な階層にあるとはいえ、ブラーマナは超越的ではありません。人がどうやって単に至高の人格神に超越的な献身奉仕をすることによって至高の超越的な知識を得ることができるかは、バガヴァッド・ギーター第4章の24節において説明されています。そこでシュリー・クリシュナは、カルマ・ヨガを行うことによってすべてが霊化される、と説明なさいます。

「至高の霊は偏在である」というヴェダーンタの格言の歪んだ解釈を広めた、アーチャーリャ・シャンカラの汎神論の哲学は、そうは言うものの、上記の一節(BG4.24)に実際的な関わり(bearing 、意味、立場の認識など)を持ちます(has a practical bearing on the above verse)。(訳注:汎神論哲学は格言の歪んだ解釈を世に広めはしたが、この一節に関しては現実的な理解をしている、ということでしょうか。)
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by ammolitering4 | 2012-01-07 12:33 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 第39段落より

第2章 39段落より

第39段落
人間の社会における同胞愛は、徐々に発達します。自己への愛から家族への愛、家族への愛から地域への愛、地域への愛から国への愛、そして国への愛から国際社会への愛、というふうにです。そして、この段階的な過程にはいつも、私たちの愛が一つの段階から別の(次の)それへと発達、発展するのを助ける魅力の中心があります。

しかし私たちは、同胞愛の発展のためのこの恒常的な苦闘の中で、究極的な魅力の中心は家族でも地域でも国でも国際社会でもなく、あまねく存在する至高神ヴィシュヌである、ということを知りません。この無知は、完全真理の幻想エネルギーである物質的なカーテンによるものです。

偉大な献身者プラーラーダ・マハーラージャは、一般の人々は彼らの究極の魅力の中心は至高の人格神ヴィシュヌであるということを知らない、と確認なさいます。そしてヴィシュヌの区分の中にあって、シュリー・クリシュナが至高の魅力です。

第40段落
事実、クリシュナという言葉は「魅了するもの」を意味する「クリシュ」という語幹から派生しています。そのため、至高の完全真理には「クリシュナ」---「すべてを魅了するもの」以外の名前はありえません。学識のある賢人たちはこのことに関して詳細な研究を行い、クリシュナが至高神であると確実に結論付けました。

スータ・ゴスヴァーミーの主宰の下に集まったナイミシャーラニャ(現在はアッター・プラデシュ(訳注:U.P., Uttar Pradesh、かつては United Provinces)にあるスィタプール(Sitapur)地域のニムサル(Nimsar))の賢人たちは、完全真理の様々な化身のすべてを詳細に議論しました。

彼らは、クリシュナが至高の人格神であり、そして他のすべての化身は主の完全部分あるいは完全部分の部分である、という結論に達しました。至高の人格神はシュリー・クリシュナです。それが超越主義者のバーガヴァタ学派の評決です。

この結論は、この宇宙の創造主であるブラーマーによって編纂されたブラーマ・サムヒターの中で確認されています。「シュリー・クリシュナは、永遠の、喜びに満ちた、超越的な形を持つ、至高の人格神です。主はゴヴィンダとして知られるもともとの人であり、そして主はすべての他の原因の原因です。」

したがって、すべての原因の根本的な原因、シュリー・クリシュナという中心的な魅力の上に互いの関係を築きさえすれば、私たちは同胞愛と平等の概念を、永続的な平和の(ための)実現可能な(workable)方法に本当に変えるでしょう。(訳注:自然な日本語の一例としては「同胞愛と平和の理念は単なる理念を越えて、やがて永続的な平和として結実することでしょう」)

第41段落
(これに)関係のある原則をもう少しよく理解するために、私たちの周りの俗的な関係を見ることができます。(訳注:「私たちの身の回りの人間関係でもこの原則を学ぶことができます」)例えば、私たちの姉妹の夫は、彼が彼女と結婚する前は私たちにとって見知らぬ人であったかもしれませんが、それでも―――単に彼女との共有された中心的な関係の力によって(訳注:彼女という中心を共有しているおかげで)―--私たちの義理の兄弟となります。

そしてその共有された中心的な関係のおかげで、この、かつては知らなかった男の息子と娘は私たちの甥と姪になります。重ねて、これらすべての愛情ある関係は、私たちの姉妹を中心としています。この場合、私たちの姉妹が魅力の中心になります。

第42段落
同様に、もしも私たちが自分の国を魅力の中心にすれば、私たちは自分たちを「ベンガル人」、「プンジャビ人」、あるいは「イギリス人」などと、何らかの制限的で分割的な国のレッテルで区分します。あるいは、私たちが特定の信仰や宗教を信奉してこれを魅力の中心とするとき、重ねて、私たちは自分たちを「ヒンズー教徒」、「イスラム教徒」、あるいは「キリスト教徒」など、何らかの宗派的なレッテルで区分します。このように、私たちは他の多くの人々が私たちと共有できない魅力の中心を選んできました―――なぜなら、彼らにとって私たちの魅力の中心はすべてを魅了するものではないからです。

第43段落
私たちの互いとの人間関係は、私たちがすべてを魅了する至高の人格神クリシュナを自分たちの魅力の中心とするときにだけ完全であり得ます。私たちは本来、もともとの生命体であって、したがってすべての魅力の中心であるクリシュナと、永遠に関係があります。

ですから、私たちがしなければならないのは、マーヤー(幻想エネルギー)の覆い被せる過程が一時的な忘却を助長したために忘却に同化してしまったこの関係を復活させることです。(訳注:「真理を覆い隠す力を持ったマーヤーが一時的な忘却を促すため、私たちはクリシュナとの永遠の関係を忘れてしまいました。私たちがしなければならないのは、この関係を復活させることです。」)したがって、私たちのクリシュナとの永遠の関係の回復を始めるために、私たちはそのような超越的な認識への最初の段階であるカルマ・ヨガを取り入れるべきです。

第44段落
カルマ・ヨガは、すべての人が主の永遠の従者としての自分のクリシュナとの超越的な関係を復活するのを、助けることができます。そしてカルマ・ヨギーは、俗的な活動に完全に染まっている普通の生命体に、彼らの普通の仕事に混乱を生じさせることなく、この大変な利益を与えます。

事実、既に述べたように、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、「俗的な労働者の利益のためには、彼らは自分たちの普通の仕事から離されるべきではない」と助言なさいます。その反対に、彼らはカルマ・ヨガの過程の中でそのように働き続けることを勧められます(they may be encouraged)。

第45段落
一般に、これらの俗人たちは自分たちのクリシュナとの永遠の関係を簡単に理解することができません。その代わり、彼らは幻想エネルギーの誘導の下で、自分がクリシュナであるかのように振舞います(to pose oneself as)。

この偽りの「至高の享楽者」の立場は、彼らが自然の力を司る力を探し求めるときに、彼らに多くの難題を与えます。しかし、それでもこれらの俗人たちはそれを支配する精神を放棄することができません。そして、彼らが落胆と失望の圧力の下で、楽しむ精神を放棄する振りをするとき、彼らは普通、もっと大きな享楽の精神をもって偽りの放棄に逃げ込みます。

(訳注:自然な日本語の一例:「俗人たちは自分が至高の享楽者であると思い込んで自然を司ろうとしますが、様々な困難に直面します。しかし、それでも彼らは自然を支配する精神を放棄することができません。そして、支配できずに落胆し、不満が募ると、「自然を支配して楽しむのはやめた」という振りをします。そして俗世を放棄した振りをすることに一層の楽しみを見出すのです。」)

いつも自分の俗的な活動の果実を楽しみたいと望む俗的な労働者は、ちょうど製粉機にきつく繋がれた雄牛のように、そのような活動の執拗な不利益の下で大いに苦しみます(訳注:「そのような不利益な活動にずっと苦しみ続けます」)。しかし、マーヤーによって支配された幻想の下で、彼らは自分が本当に楽しんでいると考えます。

したがって、彼らの一般的な活動を行う上でそのような愚かな俗人たちを妨害することなく(訳注:「そのような愚かな俗人たちが自分たちの通常の活動を行うのを妨げることなく」)、学識のあるカルマ・ヨギーたちは、クリシュナとの関係において特別の執着を持っているそれぞれの仕事に如才なくいそしみます。クリシュナの永遠の従者である、学識があって解放された魂たちは、この目的のためだけに、時として普通の活動の最中に留まります。愚かな俗人たちをカルマ・ヨガの過程に惹き付けるためだけにです。

第46段落
愚かな俗人たちは、もしも至高の人格神シュリー・クリシュナ、あるいはアルジュナなどの主の永遠の仲間が親切にも、個人的な例という直接的な方法によってカルマ・ヨガの過程を伝授するということをわざわざ行うことをしなかったなら、愚かな活動の闇の中に永遠に取り残されるでしょう。

愚かな俗人たちは、自分たちが俗的な活動を追及する上で直面する計り知れない困難を理解することができません。彼らの様々な活動の上で、支配という概念によっていかに彼らが自分自身を惑わそうとしても(訳注:「自分が何かを支配することができるのだと思い込んでも」)、彼らはいつも自然の相によって突き動かされます―――それがバガヴァッド・ギーターにおける至高の人格神シュリー・クリシュナの、熟考の上での結論です。

主は、「偽りの自己を本当の自己であると思うこと(false egoism、直訳すれば「偽りの利己主義」ですが、それだと意味が通じなくなるので、 'false ego'-ism、すなわち「偽りの自己」主義として訳しています)が原因で、自分のすべての働きにおいて、それをするように自分を導くのは自然の相であることを知らずして、愚かな俗人は’自分が自分のすべての活動の著者である’と考える」とおっしゃいます。

(訳注:「愚かな俗人は、自分の行動はすべて自然の相の導かれているのだということを知らない。そして、偽りの自己を本当の自己だと思っているため、自分で自分の行動を決めているのだと考える」と、主はおっしゃいます。」)

愚か者は、自分が主クリシュナの幻想エネルギーであるマーヤー・デヴィーの支配の下にあることを―――彼女が望むように自分に強制して行動させるということを―――理解することができません。結果として彼は、自然の相によって支配された隷属というひどい罰を受けながら、自分の活動の一時的な結果―――たちまち消え去る俗的な幸せ、あるいは苦しみ―――だけを経験します。

第47段落
バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、すべての生命体の一つ一つは、主の欠かすべからざる一部であり、そのためすべての生命体の一つ一つは主の永遠の超越的な従者である、と断言なさいます。欠かすべからざる部分である者の自然な立場は、完全全体に奉仕をすることです。

古代の寓話のヴェーダの本であるヒトパデシャの中に、体の部分の全体への関係を説明する、ウッデシャ・インドリヤーナームという題の明快な類推があります。手、脚、目、鼻などは、すべて体という完全な全体の部分です。さて、もしも手や脚や目や鼻などが胃に食物を与えるために努力せず、その代わり自分で集めた食物を自分で楽しもうとしたら、そうすれば体全体の調整不良が生じるでしょう。

身体的な部分は全体としての体の利益に反して働くことになります。そのような愚かな活動によっては、手、脚などは自分のそれぞれの立場を決して改善することはできません。その反対に、胃という媒体を通して体全体に栄養が行き渡っていないので、身体的な構造と機能の体系全体が弱り、病みます。同様に、もしも欠かすべからざる部分である生命体が完全な全体であるシュリー・クリシュナの喜びのためにすべてを捧げることを拒否するなら、そうすれば生命体自身が苦しむでしょう。

第48段落
バガヴァッド・ギーターは、至高の人格神シュリー・クリシュナはすべての原因のもともとの原因、想像全体の木の根である、と述べています。バガヴァッド・ギーターには、シュリー・クリシュナご自身よりも優れた(superior、優位、上位の)人はいない、とも述べられています。

主はすべての犠牲と活動の至高の享楽者です。しかしそれでも、本当に罪深い者は主に服従しません。彼らは、主が至高の人格神であって他のすべての生命体は主の超越的な永遠の従者である、ということを受け入れるのを拒むからです。

第49段落
生命体と至高の人格神との間のこの超越的な関係を忘れてしまったことは、すべての人が矮小なクリシュナである、という偽りの感覚を作り出しました。すべての人が自分の能力の限界まで世界を世界を楽しもうとしており、その一方で、完全な全体であって全ての源である完全真理、至高の人格神への超越的な奉仕を見落としています。

このような種類の、結果を求める仕事は、マーヤー、すなわち幻想エネルギーとしても知られる、物質自然の相の魔力の下でなされます。実際は、生命体は自然の力を支配する能力を全く持ちません。生命体が自分をシュリー・クリシュナ、至高の享楽者の立場に置こうと試みれば、彼は直ちに自然の相によって征服されます。

偽りの自我という感覚(訳注:a false egotistic sense、上記と同様に、直訳すれば「偽りの利己的な感覚」となるため、a sense of false egoとして訳しました。)の下で働きながら、生命体は至高の享楽者のように振舞おうと大変な努力をしますが、彼は本来的にそうすることができません。

手、脚、目などが体全体として機能することができないようなものです。そのため、生命体は享楽者の振りをしているときに、多くの困難を経験します。ですから、幻想の下で働くことが原因で経験するこれらすべての困難を捨てるためには、私たちはカルマ・ヨガの過程を取り入れなければなりません。

第50段落
普通の生命体とは対照的に、超越主義者、すなわちカルマ・ヨギーは本当に学識があり、そしてそのため彼らは普通の俗人のようには働きません。彼らは、自然の相の下でなされる俗的な活動は主クリシュナへの超越的な献身奉仕の活動とは完全に異なる、と知っています。

自分は物質的な体と心とは異なると知っているので、超越主義者たちはいつも自分のクリシュナとの本来的な関係において活動しようとします。彼は、俗的な存在の中に一時的にあるにも関わらず、自分は永遠の霊、至高の霊の欠かすべからざる部分であることを知っています。

そのため、彼の物質的な感覚―――彼の手、脚、目など―――は非常に多くの活動に携わっているにも関わらず、彼はいつも俗人から離れてあり続けます。これらのシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕の活動は彼を仕事の呪縛から自由にします。

至高の人格神シュリー・クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。「おお、アルジュナよ!あなたのすべての俗世的な仕事を楽しむ精神を放棄し、この意識を通して超越主義者になりなさい。あなたは、自分にとって義務である、戦闘というあなたの境遇上の職業に就くかもしれません(訳注:「あなたの立場では戦うことは義務なので、あなたはそれを仕事として行うでしょう」)。

しかし、それを私への奉仕の精神において行いなさい。このようにすれば、あなたは仕事の呪縛から自由であり続けます。そして自分のすべての活動を―――私への何らの恨みもなく、私の指示に従って―――この超越的な意識をもって行う者もまた誰でも、仕事の呪縛から自由になります。」

第51段落
身体的な自意識の過程―――「私はこの物質的な体と心である」、そしてさらに言えば、「私はこの物質世界の欠かすべからざる部分であり、したがってこの物質世界の中のすべてのものは私の楽しみの対象である」という誤解―――は、私たちを本物の超越的な知識から遠ざけます。

この超越的な知識に基づいて、至高の人格神シュリー・クリシュナは私たちに、霊的な傾向を持つこと(to become spiritually inclined)、超越主義者になること、を助言なさいます。そうして初めて私たちは、自分は決して全くこの物質世界のものではなく、永遠の霊的な存在であることを理解することができます。

そのような自己認識によって、私たちの物質的な(ものへの)親和力の崩壊は自然に始まります。そして、私たちがもっと霊的に発達すれば、物質的な関わりとの接触によって(訳注:物質的な物事と関わることによって)感覚知覚から生じる幸せと苦しみによって影響されることも少なくなります。

物質的な(ものとの)接触によって作られた偽りの自我は、そうすれば徐々に消え、そしてこの、偽りの自我を自分であると考えること(訳注:false egoism、上記と同様の理由により 'false ego'-ismとして訳しています)の分解は、すべての物質的な区分からの解放と、私たちの完全真理との関係の刷新された認識の原因となります。(訳注:「偽りの自我を自分であると考えることがなくなると、私たちはすべての物質的な区分から解放され、完全真理との関係を全く新しく認識することができるようになります。」)これが「人生における解放」と呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2012-01-06 23:31 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 31段落より

ほんの少しですが、できたぶんだけ載せます。続きは年が明けてからになります。一年間のお付き合いありがとうございました。来年もまたときどきお越しください。
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第2章第31段落より

第31段落
哲学的な研究の経験的な方法によっては、人はおそらく哲学的な(empiric、形而上学的、抽象的で難解な)主題を物理的な物体から区別することができます。しかし、真理を探究する者が至高真理の人格的な特徴に至ることができない限り、実際の超越的な利益は何もなく、彼は主の無味乾燥で非人格的な知識だけを得ます。

したがって、ガンディーのような指導者たちがヴィシュヌ、あまねく存在する至高神として知られる完全真理の人格的な特徴の超越的な足場に自らを確立して、カルマ・ヨガを通じて主への超越的な奉仕のための手配をすることが必要です。このようにして彼らは一般の人々のために善を為すことができます。

第32段落
ほとんどの人々は物質的な体と心の事柄において非常に多忙です。そのような俗的な活動の最低の段階にある者たちが霊的な水準の活動を理解できるのは非常に稀です。これらの人々は一般に、惑わされています。

なぜなら、彼らの様々な罪と徳の活動は、単に食べること、眠ること、身を守ること、そして感覚を満足させることなどの振る舞いを通して、一時的な体と心の苦しみを和らげて幸せを増すことだけに向けられているからです。

物質主義的な科学者たち―――そのような物質的な行いを呼び起こす擬似伝道者たちは―――目、耳、鼻、肌、舌、そして究極的には心を含む物質的な感覚を満足させるための多くのものを発明します。そしてこのようにして科学者たちは、世界全体を不必要な衝突に導く物質的な幸せを増幅させるための、不必要な競争の場を作ります。

最終結果は、世界中での不足です。それはあまりにもひどいので、食物、住居、そして衣類という生活に必要な最低限のものでさえ争いと統制の対象になります。そしてそのため、簡素な暮らしと高い思考という、伝統的な神に与えられた暮らしへの様々な障害物が生じます。

第33段落
そのような全くの物質主義者よりも多少上に位置する者は、死後の人生をかたく信じ、そしてそのため、彼らはこの一つの人生の全く感覚的な楽しみの水準よりも多少上に上がろうとします。彼らは、徳のある行いによって次の世への何かを蓄積しようとします。

ちょうど人が将来の幸せのために幾らかのお金を貯めるようなものです。しかしこれらの人々は、上で説明したように、徳のある行いでさえ人を仕事の呪縛から自由にすることはできない、ということを理解していません。その反対に、徳のある行いも罪深い行いも、行為と反応の車輪に人を縛り付けます。

第34段落
罪深い物質主義者も徳の高い物質主義者も、どんなときでも(always)カルマ・ヨガが、成長にとって非常に好ましくない仕事の呪縛からの解放を得るための唯一の方法である、ということを理解していません。したがって卓越したカルマ・ヨギーは、一般の人々にどうやって普通の仕事における行為と反応の絡まりから抜け出すかを教えるために―――同時に自分の仕事の結果をヴィシュヌに捧げながら―――ちょうど執着した物質主義者のように振舞います。

このようにしてカルマ・ヨギー自身と世界全体が同時に利益を受けます。至高の人格神はバガヴァッド・ギーター(3.26)において、次のようにおっしゃいます。「おお、バーラタの子孫よ。超越的な知識に精通していない執着した物質主義者のように仕事をし続ける方が良いのです。このようにしてあなたは人々をカルマ・ヨガの道へ導く(to recruit、募る)ことができます。」

第35段落
ですから、超越的な知識に気づいている者と、このように実際に学識のある者は、体と心を維持するために必要なすべての活動を行いますが、彼らは至高神ヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることを念頭においてそうします。

普通の人々はこれらの学識ある超越主義者たちを普通の労働者と見なしますが、事実は、超越主義者たちは俗的な利益のために働く人々ではありません。彼らはカルマ・ヨギー、すなわち超越的な利益を求めて働く人々です。そしてそのような超越的な仕事において、物質的な結果は他に別の努力をすることなく自動的に得られます。

第36段落
現代では、私たちは物質的な活動の非常な拡大を目撃しています。工場(mill、製造工場。紡績、製粉、製材、製紙などを指す場合が多い)、工場(factory、機械で大量生産する製造所)、病院その他の施設(institution、公共施設)が今ではあちこちにあります(on vogue、流行している)。

古代には、物質的な活動のそれほど大きな拡大はありませんでした。そのころは、生活の様式は簡素であり、しかし思考は高尚でした。ですから今では、主の超越的な感覚の満足のためにヴィシュヌへの超越的な奉仕にすべての様々な現代の施設を使うことのできるカルマ・ヨギーにとって、活動の(ための)大変良い場があります。

第37段落
したがって、「古代の賢人たちによって主張された(to maintain、維持する、という意味もある)カルマ・ヨガという同じ精神で完全至高神を崇拝する」という同じ目的のために、ヴィシュヌの寺院(訳注:祭壇や神棚など小さなものを指すのだと思いますが、適切な言葉が分かりません)をすべての前述の施設と個人の家に据えることが肝要です。

あまねく存在する至高の人格神は、ご自分を化身、完全部分、あるいは様々な部分的な部分として、ご自分の様々な超越的で永遠な形に顕現なさいますが、賢人たちはシュリー・シュリー・ラクシュミー・ナーラーヤナ、シュリー・シュリー・スィーター・ラーマ、そしてシュリー・シュリー・ラーダー・クリシュナという永遠の二人の形を崇拝することを勧めます。

したがって、大きな工場(mill, factory)、病院、大学、ホテル、そして様々なほかの施設の所有者と管理者がヴィシュヌのこれらの超越的な形のいずれかを崇拝するために寺院(訳注:上の訳注に同じ)を据えることが非常に真剣に望まれます。これはこれらの施設の中のすべての労働者たちをカルマ・ヨギーに変えます。

第38段落
大きな工場(mill, factory)の労働者たちは、多くの忌まわしい習慣に染まっているということが一般に経験されており、そしてそのため、彼らは徐々に人間が下り得る最低の水準に滑り落ちます。しかし、もしも彼らが「ヴィシュヌに捧げられた食物の残り物を食べる」という利益を慈悲深くも(graciously)与えられたなら、徐々に彼らは霊性の超越的な感覚を育み、霊的に発達した名士(personality)のそれと同じ水準に上がります。しかし、これらの人々は単にそのように自動的に認められることによって(to rubber-stamp、めくら印を押す)ハリジャン(Harijan)―――’神の人’―――の卓越した立場に上がることはできません。

(訳注:「ハリジャン」とは、インドのカースト制度で最下層に位置する不可触賎民(untouchable)を指します。ガンディーは元来の名称を嫌い、「神の人」を意味する「ハリジャン」と呼びました。ここでは、プラブパーダは「単にこれらの人々を綺麗な名前で呼ぶだけでは現実は変えられない」とおっしゃっています。)

もしも彼らがヴィシュヌへの超越的な奉仕以外の欲望によって影響されるなら、彼らの堕落した立場から彼らを引き上げるすべての努力(訳注:ここでは物質的な努力を指す)は、大きな災いと、社会的な秩序の安定と静穏(the peace and the tranquillity)の混乱(disturbance)をもたらすでしょう。

単に一時的な利益のためにそのような虐げられた労働者を無用にそそのかす指導者たちは、決して労働者たちに何らの善も為すことはできません。指導者たち自身がそのような構想の悪い活動によって利益を得ることもできません。反対に、そのような物質的な活動によって労働者と資本家の両方が避けようもなく不健全ないさかいに陥り、そして社会的な秩序の大いなる混乱をもたらします。

問題は、カルマ・ヨガの決然とした計画によってのみ解決され得ます。もしもカルマ・ヨガが計画的に行われるなら、平等を目指す社会主義者によって、同胞愛の大いなる社会的な秩序を目指すボルシェヴィキ(訳注:共産主義者、ロシア共産党の前身)、あるいは労働者が富の蓄積において資本家をしのぐ俗世の天国を目指す(英国)労働党員によってであっても、私たちはすべての断片的な努力を超越し、満たして余りあるでしょう。
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by ammolitering4 | 2011-12-29 11:06 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(2)

第2章 第16段落から30段落まで

第2章第16段落より
(訳注:小冊子中の挿絵4枚目、「p.37」 とあるのはp.27の間違い)

第16段落
学識のある賢人たちは、ヴィシュヌの蓮の御足に近付くことは解放を得ることである、と言います。私たちは、カルマ・ヨガの究極の目的であるヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることによって、自分の普通の欲求を満足させることができます。

もしも私たちがこのようにして自分の義務を果たさないなら、それなら必ず私たちが為すあらゆる、すべての仕事は、有害な物質的な結果だけをもたらし、そして究極的に世界には大きな災いが訪れるでしょう。

すべてのことをヴィシュヌの満足のために為し、ヴィシュヌに捧げられたものの残り物を食べる(to take)ことによって、私たちは自分に定められた義務を行う過程で蓄積する悪と罪深い(行いの)反応を捨てることができます。

第17段落
私たちはこれらの悪と罪深い(行いの)反応を避けるために非常に多くの注意をするかもしれませんが、普通の仕事(business)のやりとりや投機(venture)を通してでも、私たちは非常に多くの罪を犯さねばなりません。例えば、仕事の交渉では嘘を言うのは必要であり避けられない、ということが分かります。法律に関わる職業をもった人々によって話される嘘の量は言うまでもありません。

弁護士たちは、自分の客が絡まってしまった法律をうまく逃れるために、ありとあらゆるインチキに頼らねばなりません。そしてもちろん、他の職業を持つ人々も、他者への奉仕をする人々も、同じようなことをしなければなりません。意図的であれ意図的でないのであれ、全く疑いもなく、人は罪を犯し―――そして罪深い(行いの)反応を負わねばなりません。

第18段落
たとえ私たちがあらゆる罪を犯すことに対して自らを守ろうと(訳注:「何の罪も犯すまいと」)万全の注意を払っていても―――そしてヴァイシュナヴァ、すなわちヴィシュヌの献身者はもともとすべてのそのような注意を払いますが―――それでも無意識に私たちは、ある場所から別の場所へ歩くなどという全く普通の義務を果たしている間にさえも、多くのアリや他の虫を殺します。

単に水を飲んでいる間にも、私たちは多くの微細な水中の生物を殺し、そして私たちは単に家の掃除をしたり食べたり眠ったりすることによっても多くの生命体を殺します。つまり、普通の暮らしを通して、無意識にでさえも、私たちは自分が負うすべての罪を避けることはできません(we cannot avoid all the sins we incur)。

第19段落
人間の法律によれば、人は殺人を冒せば絞首刑になるかもしれませんが、低位の動物を殺すときは絞首刑になりません。しかし神の法律によれば、人は低位の動物を殺すことによっても罪を犯します。私たちは、どちらの行いに対しても神の法律によって罰せられます。

神の法律、あるいは主の存在でさえ信じない者は、そのような罪を犯し続けるかもしれません。そして彼らはそのような罪を犯すことによって自分が遭わされる無数の苦しみにも関わらず、正気に戻らないかもしれません。しかし、それは神あるいは主の永遠の法律の存在に影響しません。

第20段落
スムリティスとして知られる法律書は、誰もが避けがたく犯す、そう望まなくてさえ犯す5つの種類の罪を挙げます。以下のようなものです。
1、引っかくことによって犯す罪
2、こすることによって犯す罪
3、火を起こすことによって犯す罪
4、水差し(pot)から水を注ぐことによって犯す罪
5、自分の家を掃除することによって犯す罪

たとえ意図しては何の罪も犯さなくても、私たちは疑いの余地もなく、上記の5つの種類の罪を犯します。そのため、ヴィシュヌに捧げられた食物の残り物を食べることが絶対に必要です。なぜなら、これが私たちが避けようもなく犯したすべての罪に対する反応から私たちを逃れさせてくれるからです。

この理由により、ヴィシュヌの崇拝は今もサナータナ・ダールマの信奉者(follower)の家で、特にブラーマナの家で続いています。不幸にして、ヴィシュヌに捧げるためではなく自分の感覚を満たすためだけに食物を調理する者は、自分の定められた義務を遂行する間に意識的あるいは無意識的に犯したすべての罪に対する罰を受けねばなりません。

第21段落
したがって、すべての国々と共同体の指導者たちは、自分自身の利益と、自分が導くのだと公言する人々の利益のために、率先して必ずヴィシュヌを満足させるようにするべきです。至高の人格神シュリー・クリシュナは、次のようにアルジュナに助言なさいます。

「指導者によってなされることは、普通の人々によって従われます(訳注:「普通の人々は指導者がすることに倣います」)。指導者が真実であるとして確立することは何であれ、追随者たちは躊躇せず受け入れます。」

したがって、すべての指導者たちは、ヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることができるようにして自分の義務を遂行することによって、自分がいかにして追随者たちのために良い手本を示すことができるかと熟考すべきです。

第22段落
しかし、嘆かわしいことに、普通の人々が指針(beacon、光明、かがり火)と見なす指導者たち自身が心の底では無神論者で、神によって定められた原則に反対している時代が既に来てしまいました。そんな状態ですから、彼らはヴィシュヌの超越的な感覚の満足のために何ができるでしょうか?

そしてもしも彼らがすべてのことを至高神の超越的な満足のためにしないなら、どうして彼らは定められた義務を遂行する過程において犯された罪の泥沼から自分自身と自分に従う者たちを引き出すことを期待できるでしょうか?

もしも指導者たちが、同時に至高の超越的な人格であって、どこにでも存在している非人格の霊である、万能のヴィシュヌの存在を認識しないなら、それなら普通の人々は主について何を理解するでしょうか?

主はありとあらゆるものの至高の享楽者であり、したがって私たちの誰も、どんなに偉大な人であっても、宇宙とその付属物の享楽者ではありません。私たちの立場は万能のヴィシュヌのそれに従属するものであるため、私たちは主から主の慈悲のしるしとして与えられるものだけを楽しむことができます。私たちは、主あるいは他者に属する何ものをも得ようとして余分な努力をすべきではありません。それがヴァイシュナヴァ主義の精神です。

第23段落
イショパニシャッドにおいて、この同じ精神が次のように描写されています。「(私たちが見るように)宇宙の中全体に存在しているものは、本質的に至高の享楽者の所有物であり、そして人は主によって慈悲深くも与えられたものを楽しむことができます(may、~をしてよろしい)。しかし、人は決して他者の所有物に手を出してはなりません。」

第24段落
したがって、市民の(civic)、および他の人民の(popular)指導者たちは、自分の活動の中心にヴィシュヌを置くべきです。そして、この超越的な仕事という行いによって、彼ら自身が利益を受け、そしてそれぞれ自分の従う者たちのために善を為すことができます。

もしも、伝道者や国家元首を含むこれらの指導者たちがこのヴァイシュナヴァ主義の活動を行わないなら―――そしてその代わりに人工的に自分をヴィシュヌ、至高の享楽者の卓越した立場に置くなら―――そうすれば彼らは実際に一時的な得や崇拝や俗的な名声を楽しむかもしれず、そして偽りの放棄の誇示によって彼らは自分の不運な追従者たちを迷わせ、正しい道を退けることに導くかもしれませんが、そのような物質主義的で神を知らない指導者たちは、決して一群の羊のように屠殺場まで彼らについて行く無知なる魂のために善を成すことはできません。

そのような指導によって、指導者自身は一時的に利益を受けますが、追従者たちは最悪の立場に置かれます。指導者たちは彼らを幻想の利得へとそそのかし、そうして彼らを様々な罪深い行いに携わらせます。自らに一時的な利益を与えることによって、そのような指導者たちは追従者たちの本当の利益を犠牲にし、彼らを滅ぼします。

第25段落
そのような指導者たちは、自分の一時的な利得は自分の一時的な体の破滅と共に消滅する、ということを知りません。しかし、彼らが生涯の指導の間に行った命令と怠慢(commission and omission)の行いは、非常にかすかな形で心と知性と偽りのエゴの心的な(psychic)檻の中に留まり、そしてかすかな心的な生命は再び、霊魂の転生の過程によって別の適切な形の中で育まれます。

そしてこのようにして彼らのかつての行いは彼らに行為と反応の様々な車輪の試練を課し、何年も何年もの間、一つの体から別の体へと転生することを余儀なくさせます。そして一般の人々は無知なる指導者が自分たちに「しろ」と言うことに従います。

第26段落
したがって指導者たちは、関係するすべての人々の利益のためにいかに行動すべきかということに気づいていなければなりません。まず、彼らはカルマ・ヨガの本当の方法―――(人の)仕事の結果を主ヴィシュヌに捧げること―――を理解して実行せねばなりません。そうすれば彼らは実際に自分の追従者のために善を為すことができます。

もしも医者自身が病んでいるなら、彼はどうして他者を癒すことができるでしょうか?医者は一般市民の病を治療する前に、自分自身を癒さねばなりません。患者の感覚を満足させることは、本当の医者の仕事ではありません。良い、資格のある医者は、単に患者の気まぐれを満足させることによって彼を甘やかすことはできません。医者は、それが患者の感覚を満足させるか否かに関わらず、本当の薬を処方しなければなりません。

第27段落
したがって指導者たちは、一般の人々の本当の病は万能の至高神ヴィシュヌに奉仕をすることに対する彼らの嫌悪である、ということを知らねばなりません。しかし、もしも人々の根源的な病―――無神論―――を治療する代わりに指導者たちが単に病の症状への表面的な同情を見せるだけなら、確かに、苦しむ人類への益は全くないでしょう。

この病への本当の治療法は、至高神に捧げられたものの残り物を食べることにあります。これが患者のための理想的な食事療法です。そして、薬には以下のものが含まれます。(訳注:原文は箇条書きではありません。)

1、至高神の栄光を聞き、唱え、覚えていること。
2、至高神の超越的な形を崇拝すること。
3、主に超越的な奉仕を捧げること。
4、主を自分の至高の友人として受け入れること。
5、いかなる状況においても主に服従すること。

指導者たちは、もしも本当に人類の苦しみを消し去りたいのなら、この食事療法とこれらの薬のための手配をすべきです。

第28段落
老練な指導者マハトマ・ガンディーが世界中に神々しい雰囲気をもたらすための方法を発明しようとして最善を尽くしているのを見るのは喜ばしいことです。彼は、自制、忍耐、道徳の原則などを教えています。しかし、いつも必ず限度のあるものである、いかなる発明された方法を使っても、無限であるものに到達することは可能ではありません。(訳注:「人が発明する方法は、いつでも必ず限度があるものです。それを使って~」)

したがって至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて「何度も生まれ変わった後で、学識のある賢人たちは主に服従する。そしてすべてのものをヴァースデヴ(ヴィシュヌの完全な顕現)に結び付けることのできるそのようなマハートマーを見るのは非常に稀である」とおっしゃいました。その意味は、いわゆるマハートマーはどこにでもいるが、本当のマハートマーは至高神と顕現された世界との関係を知っている者である、ということです。

第29段落
そのようなマハートマーは、決して何らの発明された方法を使っても―――帰納的で上方向の知識の過程を通じて作りだされたもの―――至高神に近付こうとすることはありません(訳注:「そのようなマハートマーは、どのようなものであっても、人が発明した方法を使って至高神に近付こうとすることは決してありません」)。

そうではなく、彼は演繹的で下方向の考えを受け入れます。それは至高主から直接、あるいは主の真正なる代理人を通して下りてくる方法です。誰も、何年も何年もの間努力した後でさえ、上方向的な方法によって主に至ることはできません。この上方向的な方法によって得られるもののすべては、人を完全真理から逸脱させる、不完全で部分的で非人格的な知識です。

第30段落
私たちは、ガンディーによって支持された(訳注:「~が採用した」)布教の方法の中にそのような不完全さのしるしを見ることができます。ラーマの名を唱えてはいますが、彼はその名の超越的な科学に気づいていません。彼は非人格的な至高神の崇拝者です。

それはつまり、彼の至高神には超越的な活動がない、ということです。言い換えると、彼の至高神は食べることができず、見ることができず、聞くことができません。経験主義的な哲学者が完全真理に近付こうとするとき、主の超越的な娯楽について何も知らないので、彼は至高神の非人格的な特徴までしか至ることができません。

完全真理に何らの超越的な感覚や感覚的な活動が認められないとき(not credited with)、確かに主は無力と考えられます。そしてもちろん無力な至高神は主の献身者の祈りを聞くこともできず、宇宙の苦しみを和らげることもできません。
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by ammolitering4 | 2011-12-28 15:22 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 第15段落まで

第2章 カルマ・ヨガ―――超越的な結果を伴う仕事

第1段落
学識ある賢人たちは私たちに、「人はインド、すなわちバーラタヴァルシャという聖なる地に、90万の水中の種、200万の野菜などの動かない種、110万の爬虫類と虫の種、100万の鳥の種、300万の獣の種、そして40万の人間の種を含む840万の生命の種を通った、段階的な進化の過程の後に生を受ける」と教えます。

生きた霊は一つの生命の種から別のそれへと転生し、そして彼(霊)は巨大な宇宙の中空の中を、何百万年も何百万年も、そのようにして動いています。この理由により、霊魂は「あまねく存在する」と描写されます。

第2段落
既に述べたように、「シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ」は、「長い時間の後でようやくバーラタヴァルシャという聖地に生を受けた者は、自分自身が自己認識によって啓蒙された後で、他の人たちに至高の恩恵を授けるべきである」と述べています。

偉大な賢人たちが霊なる自己(spirit self)の認識のためにそれほどの努力をしたことは、他のどの国ででもありませんでした。西洋の国々では、人々は物質的な体と心を中心とした物質的な科学の文化を発達させるために最善の努力をしたのは事実です。

しかし、西洋におけるすべてのそのような物質的な知識の発達にも関わらず、一般の人々は霊的な科学の文化(culture、培うこと)についてほとんど気にかけなかったので、彼らは物質主義の有害な影響に苦しんでいます。西洋の国々の偉大な思索家たちは、したがって、至高神の教えが彼らの耳に届くようにするためには、インドに目を向けねばなりません。

第3段落
物質主義の火を消して人類の未来を明るくするために、至高の人格神シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事を詳しく議論なさいました。カルマ、すなわち物質的な利益を求める仕事と、カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事の間には、大きな違いがあります。

バガヴァッド・ギーター全体を通して、数箇所で、至高の人格神は「超越的な結果を伴う知性的な仕事」を意味するブッディ・ヨガという言葉を使われます。そして私たちはまた、ブッディ・ヨガが「超越的な献身の活動」を意味すると理解することができます。

なぜでしょうか?なぜなら、至高の人格神クリシュナは、自分はいつも自分の献身者を特に好み(to favor)、彼らに献身活動を行う知性を授け、最後には彼らが自分のところに至ることができるようにする、とおっしゃるからです。

他の箇所でも、神へは献身活動を通してのみ到達し得る、と述べられています。結論は、私たちは(訳注:原文は誤字で大文字になっている)ブッディ・ヨガあるいはカルマ・ヨガにいそしむことによってのみ自分の仕事(カルマ)の結果を捨てることができる、ということです。

第4段落
バガヴァッド・ギーターの2章において、至高の人格神シュリー・クリシュナは次のように助言なさいます。「これまでのところ、私はあなたに超越的な知識を説明しました。これから私は、超越的な結果を伴う仕事を説明します。このようにして働くことによって、あなたは普通の仕事によって生じる呪縛を捨てることができます。この過程には損失や減少はありません。たとえこの仕事をほんの少し行っても、それは人を最も深刻な問題(trouble)から救うことができます。」

第5段落
超越的な結果を伴って働くことは、主クリシュナへの献身奉仕の活動にいそしむことを意味します。そして、これらの献身の活動がいかにして私たちの日々の活動的な人生に組み込まれ得るかが、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。

この組み込みは、厳密にはカルマ・ヨガとして知られています。知識を培うことと組み合わせられるとき、同じ献身の活動は厳密にはジニャーナ・ヨガと呼ばれます。しかし、そのような献身の活動がそのような仕事と知識のすべての限界を超越するとき、この物事の状態は、純粋で超越的な献身、すなわちバークティ・ヨガと呼ばれます。

第6段落
私たちがこの世界で行う様々な行為は、様々な特定の結果を生じさせます。私たちがこれらの結果―――私たちの働きの結果―――を楽しみ始めるとき、これらの楽しみという行為もまた、順次(in their turn)、当然更なる結果を作り出します。

こうして私たちは、行為と反応、そしてそれぞれの結果、という大きな木を育みます。そしてこれらの実を楽しむ者として、私たちは働きの木とその実の網の目にぐるぐる巻きになります。何度も生まれ変わって、霊魂はそのような実を作り出して、それらを楽しむ過程にぐるぐる巻きであり続けます。

第7段落
私たちには、この行為と反応―――働きとその結果(fruitive results)の呪縛から逃れる機会はほとんどありません。すべての仕事を捨ててサンニャースィー、すなわち出家者の人生を受け入れた後でさえも、人はまだ、自分の空腹を満たすためだけにであっても、働かねばなりません。ですから、たとえ腹のためだけであっても、逃れる術はありません―――仕事をすることを避けることはあり得ません。

第8段落
結果的に、至高の人格神シュリー・クリシュナは、アルジュナに助言なさいます。「おお、アルジュナよ。あなたはいつも自分の義務を果たさねばなりません。何かをすることは、何もしないより、はるかに優れています。あなたは、何らかの仕事をすること無くしては、日々の糧を得ることさえできません。」

第9段落
「義務」とは、聖典と聖なる法典に定められている仕事を意味します。そのような仕事は、出家者や神秘的なヨギーであるという気取りの下での怠惰よりも(訳注:~を気取って怠惰であるよりも)、はるかに優れています。

生計を立てるために、人は名誉をもって道路の清掃をする職業につくことができますが、人は単に自分の空腹を満たすために出家者のサフラン色(訳注:黄色がかったオレンジ色)の衣に衣装を着替えてはいけません。これが、偉大なる一元論者の哲学者であって宗教改革者である、シャンカラーチャーリャの教えです。

現在の争いと偽り(pretension、見せかけ、うぬぼれ、など)の時代にあっては、人は出家者の人生を送るよりも普通の定められた義務を果たすことを好むべきです。本当に俗世を捨てた者は、社会的な秩序の中の自分の定められた日々の義務を行うことを放棄してはならない、ということを理解しています。

そうすることは破滅をもたらします。単純明快なことです。私たちが何らの仕事をすることもなく自分の日々の糧を得ることができないとき、どうして自分の定められた義務を放棄することが可能でしょうか?そしてそれでも人は、自分が霊魂を物質的な存在に縛り付けている行為と反応の網の目の中にいる、という難しい立場を忘れてはなりません。

第10段落
そのため、この葛藤を解決するため、至高の人格神シュリー・クリシュナは、私たちに次のように助言なさいます。「仕事をするための最善の方針は、すべての定められた義務をヤジニャ、すなわち至高存在であって完全真理であるヴィシュヌの満足のために為すことです。そうでなければ、すべての行為は呪縛を生じさせる反応を生みます。もしも仕事がヤジニャのためになされるなら、人はすべての呪縛から自由になります。」

第11段落
いかなる呪縛をも生じさせないこの働き方は、超越的な結果を伴う仕事、すなわちカルマ・ヨガと呼ばれます。このようにして働くことによって、人は仕事の呪縛をまぬがれることになるだけでなく、至高の人格神への超越的な献身の念も育みます。

自分の働きの結果を自分で楽しむのではなく、人はそれを至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕のために捧げるべきです。これが献身奉仕のハシゴの最初の段です。主チャイタンニャは、この献身奉仕の方法をプラヤーガのダシャーシュヴァメダー・ガータにおいて、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに教えられました。

そこで主は、至高の人格神シュリー・クリシュナの慈悲と霊的指導者の慈悲によってのみ、幸運な魂は超越的な愛情ある献身奉仕の種を得ることができる、とおっしゃいました。カルマ・ヨガは、この純粋な献身奉仕の最初の段階です。

この科学は、シュリー・クリシュナご自身、あるいは主の真正なる内密な従者たちによってのみ教えられます。そのような源から教えを受けるのでない限り、しばしば自分をカルマ・ヨガの達人だと宣伝する普通の俗人がそうするように、人は必ずカルマ・ヨガの意味(訳注:import、「重要性」という意味もある)を誤解します。

第12段落
私たちは、単に自分の物質的な存在を続けていくためだけにでも、幾らかの富を稼がねばなりません。その富と引き換えに私たちは、主として自分の空腹のためのものですが、生活に必要なものを得ます。食べるとき(訳注:食事をすれば)私たちは健康な体を保ち、そして健康な体を保つとき(訳注:体を健康に保てば)私たちは自分の生計を立てます(訳注:立てることができます)。

これが仕事の車輪であり、私たちはそれに乗って宇宙全体を巡ります。何度も何度も生まれ変わって、きつね火のような幻想の物質的な幸せのための苦闘から生じる、付き物の困難に苦しみながら、私たちがどれほど遠くまで、そしてどれほど長い間こうして巡っているか、推定することはできません。

偽りの享楽者の能力の範囲内で、至高に強力な主に全く従うことなく、魂は何度も生まれ変わって永遠の幸せを探しますが、彼(魂)は本当の幸せがどこにあるか知りません。プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「自分の至高の利益はヴィシュヌ、万能の至高神に至ることであるのを、誰も知りません。」

第13段落
自分の本当の利益(が何なのか)を知らず、私たちは何度も生まれ変わっては目的も無く物質的な存在の海の上を航海しています。そして、行為と反応の波に翻弄され、私たちはそのような不吉な旅をすることによる苦しみの大きさを確かめることができません。

私たちは、自分の旅の目的は完全真理、ヴィシュヌ、あまねく存在する至高神に到達することであるのを知らねばなりません。シュリー・クリシュナはこれを、すべてのことはヴィシュヌ、すなわちヤジニャの満足のために行われなければならない、と言って確認なさいます。

リグ・ヴェーダの中で同じ真理が描写されています。「ヴィシュヌは至高の神であり、そのためすべての従属的な神々はヴィシュヌと主の蓮の御足に依り頼む。」ヴェーダの著者は至高の人格神ご自身です。したがって、主のバガヴァッド・ギーターはヴェーダのすべての教えの最良の要約です。

それに関して疑いの余地はありません。したがって、シュリー・クリシュナの教えは、もしも私たちが仕事の車輪の呪縛から自由になりたいと望むなら、私たちはすべてのことをヴィシュヌとヴィシュヌの満足だけのためにしなければならない、ということです。

第14段落
かつて、インドの人(今では「ヒンズー」と誤って名付けられている)は、ヴァルナーシュラマ・ダールマ、あるいはサナータナ・ダールマ、すなわち人間の社会(affairs:状況、業務など)を4つの社会的な秩序と4つの霊的な秩序に従って組織するシステムに従っていました。

社会の秩序の上の3つの階層に属する者―――すなわちブラーマナ(指導的な階層)、クシャトリヤ(管理的な階層)、そしてヴァイシャ(生産的な階層)―――は皆、ヴァイシュナヴァ主義、すなわちすべての行為を至高神、ヴィシュヌに捧げる(centering every action upon the Supreme Deity, Vishnu)生活を送ります。

4つの霊的な秩序のすべて―――学生、家庭人、引退者、そして放棄階層者―――において、特に家庭人の階層において、ヴィシュヌが崇拝されていました。特にブラーマナの家庭人は例外なくヴィシュヌを崇拝します。そして今でもなお、それらのブラーマナたちの子孫は、自分の家庭の神(像)としてヴィシュヌを崇拝し続けています。

第15段落
これらの霊的に文化的な人々は、すべてのことをヴィシュヌのために行います。それぞれの能力に応じて彼らは食べ物を買い、それをヴィシュヌの崇拝のために料理します。そして、彼らがヴィシュヌを満足させるために捧げた食べ物の残りはプラサーダム―――「主の慈悲」、すなわち主の食事の残り物―――になり、彼らによって食べられました(訳注:彼らはそれを食べました)。

過去において可能であり、今日でさえあちこちでまだ行われていることは、時間と場所と人々に合うように多少の都合をつけることによって、人生のすべての側面で為され得ます。このようにして、すべての人が行為と反応の呪縛的な網の目から自由になることができます。
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ほんの少しですけど、今日はこれだけ載せます。
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by ammolitering4 | 2011-12-27 23:42 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第1章 36段落から最後まで

至高神のメッセージ第1章36段落から最後まで

第36段落
したがって私たちは、他者のために善を為そうと最善を尽くしたが、あらゆる正直な努力にも関わらず失敗したすべての人々に、アルジュナにならって、シュリー・クリシュナ、あるいは主の真正なる従者たちに近付くことを勧めます。

そうしなければ、もしも人が誤った利他主義の感覚から他者の利害を自分のものとして扱うなら、人は幾らかの利得、崇敬、あるいは栄誉という形で一時的な利益を得られるに過ぎないからです。

第37段落
ヒトラー、ムッソリーニ(訳注:原文はa Hitler, a Mussolini)、あるいはそのような物質主義的な説得をするいかなる指導者も、暴力的あるいは非暴力的な施策によって、自分に従う者たちに「一緒に良いことをしている」という思い込み(mental concoction、精神的なでっち上げ)を提供するかもしれません。

そして、そのようないわゆる慈善という行いによって、指導者は自分に従う者たちから、しばらくの間は(功労の)認識を得るかもしれません。しかし、この手の指導者が「良くしてあげよう」と努力した対象である信奉者たちは(訳注:このような指導者たちは人々のために良かれと思って努力をするのですが、彼に付き従う人々は)、そのような一時的な恩恵をもたらす働きからは決して永続的な利益を得ることができません。

すべてのそのような「慈善的」な活動が発展するにつれて、空虚さが感じられるようになります。事実、従う人々はこのようないわゆる「指導者」によって計画された道を辿ることによって、ますますの苦しみに入れられます。

もしも目の見えない人が、別の目の見えない人が道を渡るのを助ける振りをするなら、そうすれば目の見えない指導者と目の見えない従う者の両方が、どこかの見えない溝の更なる暗闇に落ちるでしょう。超越的な知識のない者は、ちょうど目の見えない人のようです。そのような目の見えない人は、他の者たちを光に導こうとすることができるようになる前に、まず自分の盲目性を根治しなければなりません。

第38段落
たまたまインドに生まれたすべての人は、他の人に利益を与える潜在力を持っています(is a potential benefactor of others)。なぜなら、古代から現在まで、超越的な知識の文化が最も詳しく表されてきたのはインドの地においてだからです。

長い間、インドはバーラタヴァルシャとして知られていましたが、そのバーラタヴァルシャの聖人たちや賢人たちは、決して体と心の必要性だけを満足させようとはしませんでした。彼らはいつも、物質的な体と心を超越した霊魂の知識を培いました。

今でも聖人たちと賢人たちは、様々な困難にも関わらず、そうしつづけています。しかし、もしもインドの人々がまず自ら超越的な知識を得ること無くして他の者たちに利益をもたらそうとするなら(to do good to others)、それは全くの愚かさです。

第39段落
さて、もしも私たちが超越的な知識を得たいなら、私たちの最初の義務は、霊魂は永遠なる真理であるということを理解することです。霊魂の周りに育つ体と心という外部的な要素は、すべて相対的、あるいは部分的な真理です。バガヴァッド・ギーターの第2章において、至高の人格神はこの事実を詳しく説明なさいます。

第40段落
「この体にあまねく行き渡る霊魂は永遠であり、そしてそのため人は、誰も永遠に存在する霊魂を滅ぼすことはできない、と理解すべきです。物質的な体は滅びる運命にありますが、体の所有者、すなわち魂は永遠です。したがって、おお、バーラタの御曹司よ、この永遠の真理を知り、あなたは戦うべきです。」

第41段落
「霊魂が(誰かを)殺すことができると考える者、そして霊魂が殺され得ると考える者の両方が、霊魂はいかなるときも殺す者でもなく殺されることもないという事実を知りません。霊魂は決して生まれず、死ぬこともできません。

そして彼(霊魂)は永遠であるため、彼(霊魂)には過去も現在も未来もありません。非常に古いのに、彼(霊魂)はいつも若々しく、そして彼(霊魂)は、体が滅ぼされた後でさえ、決して滅ぼされません。霊魂は永遠で滅ぼされ得ないと理解している者―――どうして彼が誰かを傷つけたり殺したりできるでしょうか?滅ぼされるのは外側の体と心だけです。」

第42段落
「体と心はちょうど人の衣服(outer clothes)のようなものです。衣服が古くなると、人はそれを捨て、一揃いの新しい衣服を着ます。同様に、魂が死のときに自分の古い体を放棄するとき、彼(魂)は新しい体をまといます。」

第43段落
「霊魂は決して鋭い刀で切られず、火によって焼かれず、あるいは水や空気によって影響されることもありません。すなわち、霊魂は永遠に滅ぼされ得ず、燃えず、蒸発し得ず、そして腐食され得ません。彼(霊魂)は恒久的であり、あまねく存在し、そして永遠です。

彼(霊魂)はいかなる人間の言語によっても説明され得ず、いかなる人間の心によっても、完全に想像され得ることもありません。彼(霊魂)は、いつも変化し得ない状態に留まります(訳注:「霊魂は決して変化しません」)。これらすべての事実を知り、人は体の死を嘆くべきではありません。」

第44段落
バガヴァッド・ギーターの言語において、霊魂はクシェトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼ばれ、一方で、霊魂の覆いである体と心はクシェトラ、すなわち「場」と呼ばれます。バガヴァッド・ギーターの13章において、至高の人格神シュリー・クリシュナは、クシェトラとクシェトラ・ジニャの主題について、また、プラクリティ(楽しまれる存在であるところの、自然、すなわち現象的な世界)、およびプルシャ(現象的な世界を楽しむ者)についても議論します。

主クリシュナは、この現象的な世界で生じるすべての行為と反応はクシェトラとクシェトラ・ジニャ、すなわち自然と自然を楽しむ者の、この組み合わせの行為と反応である、と説明なさいます。例えば、田んぼ(rice padd)は田(field)と(それを)耕す者の行為と反応によって作られ、また、子供はプラクリティ、すなわち楽しまれる者と、プルシャ、すなわち楽しむ者の組み合わせによって得られます。同じように、現象的な世界の中で私たちが見るもののすべては、クシェトラとクシェトラ・ジニャのこの組み合わせによって生じます。

第45段落
クシェトラ・ジニャは生きた霊であり、一方クシェトラは生命体が利用する(to exploit、搾取する、食いものにする)物質です。物理学、化学、天文学、薬理学、経済学、性科学、そして他の物質的な化学はクシェトラの物質を扱います。

しかし、クシェトラ・ジニャに関する科学、すなわち霊的な存在を扱う科学は、超越的な知識を明かします。知識を本当に培うこと(real culture of knowledge)は、したがって、クシェトラではなくクシェトラ・ジニャに関係します。私たちは(のちほど)これらすべての事柄をもっと詳しく論じます。

しかし今は、私たちは単に、クシェトラ・ジニャ(プルシャ、すなわち楽しむ者)がすべての知識の中心的な対象であると知ることによって満足するのが良いでしょう(we may be satisfied simply by knowing~)。なぜなら、このクシェトラ・ジニャだけが、物質的な体と心、および(それらと)同類の物理的な要素と一体化してすべてを作り出すからです。

第46段落
クシェトラ・ジニャは永遠の霊であり、一方でクシェトラは一時的ではかない物質です。この永遠の真理は、ヴェーダの中で「ブラーマ・サテャム・ジャガン・ミトヤー」という格言において要約されています。「霊は事実であり、世界は偽りの影である」。

「偽りの影」と言うとき、人は「世界は一時的であり、しばらくの間存在しているに過ぎない」と理解すべきです。しかし、人は誤って「世界は全く存在を持たないのだ」と考えるべきではありません。私たちは本当に自分の一時的な物質の体と心を持っており、そして私たちは自分の体と心の存在を否定することによって自らを笑い者にすべきではありません。

同時に、私たちはいつも、体と心は一時的な配剤であることを覚えていなければなりません。しかし、この体と心に閉じ込められている霊は永遠であり、破壊され得ない真理です。誰も永遠の霊を破壊することはできない―――それが今、私たちが理解しなければならないことです。破壊され得ない霊は、このため、暴力と非暴力の概念を超えています。

第47段落
今日では、世界中が濃密な物質的な体と希薄な物質的な心のための一時的な配剤に関する知識を培うことに夢中になっています。しかし、体と心よりももっと大切なのは、何ら正しく知識を培われることもなく脇に追いやられている霊です。

その結果、無知の闇が世界を覆い、大いなる社会的な不安、騒乱、そして苦しみをもたらしました。人はどれくらい長く外的な幸せを楽しむことができるでしょうか?それは、胃に何らの栄養も入れずに衣服を洗うようなものです。本当の栄養は、すべての体一つ一つに生命体として存在する永遠の真理、つまり破壊され得ない霊に関する知識を得ることから来ます。

第48段落
生命体は非常に小さく、最も小さな原子よりも小さいものです。学識のある専門家たちは、魂の大きさはおよそ髪の先の千分の一だと言いました。このため私たちは、体のどの一部にほんのわずかに触れただけでも私たちが感じる敏感さは、この生命体が体全体に存在していることによるものである、と理解すべきです。

しかし、この小さな生きた火花が体から去ったとき、体は死んで横たわり、地に倒れ(prostrate、腹ばいの状態)、そしてそれは何らの痛みも感じません―――たとえ斧で滅多切りにされても。

第49段落
この小さな生きた火花、すなわち霊が物質的なものでないということは、いかなる物質的な科学者も、物質的な物質のいかなる組み合わせによっても生命の火花を作り出せていないという事実によって暗示されています。

物体を操作することによって作られ得る物は何でも、破壊されることができ、一時的です。しかし、生きた火花は破壊され得ないため、物質的な科学者たちは、生きた火花は物質的な科学によって複製され得ないという事実を受け入れねばなりません。彼らは原子爆弾を作ることはできますが、生命の霊的な火花を作りだすことはできません。

第50段落
物質的な科学者たちは世界中で大変な発達を遂げましたが、残念なことに、これらの発達した科学者たちは、常に最も大切な主題である生きた火花、すなわち霊について理解する試みを全くしませんでした。これは全くの無知です。これが彼らの救いの無さです。

第51段落
シュリー・ジャガディッシュ・チャンドラ・ボーズ、アイザック・ニュートン卿、ベンジャミン・フランクリン―――これらの人々のそれぞれの優秀な脳(brain substance)は、彼らのそれぞれの体から生命(living substance)の小さな火花が離れたと同時に、完全に機能を停止しました。

もしも化学的あるいは物理的に物質を組み合わせることによってこの生命(living substance)を作り出すことが可能であるなら、それならきっとこれらの偉大な科学者たちの弟子などが彼らを生き返らせ、そうやって世界への彼らの科学的な貢献を長引かせたでしょう。

しかし、どの物質的な科学者も、どんな物質的な方法によっても生命の火花を作り出すことはできず、そして、未来にはそうできる、と言う者は最大の愚か者であり、最大の偽善者です。生きた霊は永遠です。彼には終わりも始まりもなく、そのためいかなる方法によっても決して作り出され得ません。

それに、すべての作られたものには滅亡があるというのは、私たちの経験の範囲内のことです。(訳注:「形あるものは皆壊れる、というのは、私たちも経験上よく知っていることです。」)霊魂の永遠性は、それが物質的な手段によって作り出され得ないということによって証明されます。

第52段落
そしてそのため、生命の火花を滅ぼすことができると考える者もまた、それ(霊魂)について何も知りません。したがって至高の人格神シュリー・クリシュナは、断固として、生命体は霊であるため決して生まれない、と宣言なさいます。生命体は永遠に存在し、過去も現在も未来も持ちません。

霊は決して、物質的な体が滅びた後でさえ、滅びません。また、体が物質的な誕生と死を繰り返すことによっても、成長することも衰えることもありません。何よりも古いにも関わらず、霊的な存在(spiritual entity)は常に若々しくて新しいのです。彼(霊)はいつでも、常に死と滅亡の影響を受ける物質的な体と心とは異なっています。

第53段落
ここで人は、「なぜ主クリシュナはこれらすべての超越的な知識をクルクシェトラの戦場でアルジュナに説明なさったのですか?」と問うかもしれません。答えは単純明快です。軍事的な義務を遂行するために行われる戦いは、魂ではなく体だけに関係するからです。

ちょうど、たくさんのご馳走を食べることが心の飢えではなく胃の飢えだけに関係するようなものです。これらの物質的な影響は決して永遠なる生命体には関係しません。なぜなら、生きた霊は征服され得ず、燃えず、湿らされることなく、乾くこともないからです。

物質的な物だけが切られたり、焼かれたり、湿らされたり、空中で乾かされたりされ得ます。このため、アルジュナを励まして戦わせるため、クリシュナは様々な方法で「生命体すなわち霊魂は完全に非実質的(metaphysical、抽象的、哲学的、形而上学的な)である」と説明しました。

第54段落
インドで「サナータナ・ダールマ」、すなわち「永遠の宗教」として知られているものは、この永遠の、あまねく存在し、変化し得ず、滅ぼされることのない生きた霊のためのものです。つまり、本当の宗教は、濃密な物質の体と希薄な物質の心に焦点を当てた様々な宗教的な信仰を超越しています。

サナータナ・ダールマは、単にある特定の人々、場所、あるいは時代(time)のためのものではありません。そうではなく、それは永遠で、あまねく存在します。サナータナ・ダールマ以外のすべての宗教は、身体的あるいは心理的な変化を培うためにあります。

第55段落
様々な人々、場所、そして時代の影響は、私たちが自分たち自身をヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、社会主義者、ボルシェビキ(訳注:ロシア共産党の前身であるロシア社会民主労働党の党員、あるいは単に共産主義者)、などと区別して考える(to designate)ようにさせました。(訳注:「~の影響によって、私たちは~と考えるようになりました」)

特に宗教の分野においては、様々な人々、場所そして時代に応じて、私たちは多くの種類のはかない身体的および精神的な配剤、そして(訳注:原文ではandが抜けている)様々な宗派を確立しようとしました。そしてまさにこの理由のため、私たちは自分が「宗教を変える」のを想像することができます。

今日ヒンズー教徒である者は翌日にはイスラム教徒になるかもしれず、あるいは今日イスラム教徒である者は翌日にはキリスト教徒になるかもしれず、等々。しかし、私たちが超越的な知識に到達して、サナータナ・ダールマ、すなわち生命体―――霊魂―――の本当の永遠の宗教において確立するとき、そのとき、そしてそのときだけ(訳注:「そうなってはじめて」)私たちは世界で本当の、否定され得ない平和、繁栄、そして幸せを得ることができます。

第56段落
非常に小さく、私たちの物質的な目には見えないので、霊魂は、不可解、知覚し得ないなどと呼ばれます。それでも霊魂は永遠であると理解されます。なぜなら、彼(霊魂)は決して誕生、死、病および老齢や、他のいかなる身体的な変化にも影響されないからです。

したがって、もしも私たちがこれらの身体的な変化から解放されて永遠の平和と幸せを得たいと望むなら、霊魂の永遠の宗教の精力的な普及がなければなりません(訳注:「霊魂の永遠の宗教を精力的に普及させなければなりません」)。しかし私たちは、この魂の永遠の宗教は決して人や場所や時間のいかなる限界(limitation、制約)によっても束縛されないということを、いつも覚えているべきです。

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どうもずいぶんお待たせしております。なぜだか人生がごちゃごちゃとしてまして。。。しなきゃいけないことを書き出して、優先順位をつけて、多少なりとも心を落ち着けようと思っています。何と申しましょうか、犬みたいに走り回ってるうちに大事なことをすっかり忘れてしまう、という落とし穴にはまりこんでる気がします。私は一応しろうと絵描きだったはずなのですが、それもすっかり忘れさられています。続きはまたいずれ載せます。どうぞ気長にお待ちください。

それにしても思うのは、体はナマモノのマネキンだなということです。夜にはいつもプラブパーダのご本を拝読するのですが、体という超巨大ロボットを運転してる自分を想像しながら読んでます。私が運転席から降りれば体は用無しになって、北朝鮮の将軍様の死体と違ってカネがかけられることもないのでほっとけば腐敗していって、、、しかしそれが今は動いてるんですよね。すごいことです。私はとろいので車の運転はできないけど、体の運転もあんまり上手ではありません。体操選手とか見てると、私があれをやったらいっぺんにこの体は廃車だな、と思います。それがどうした、という要点のない文章を書いてますが、夜に一人でひっそりとプラブパーダのお話を伺っていると、いろいろと想像力が暴走するものであるようです。

それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。そうは言っても法王様も衰えが目立ち始めていらっしゃいますし、来年はアメリカもロシアも大きく動くだろうし、地球全体で地盤も動く気まんまんみたいだし、北朝鮮もアラブもアフリカもじーっとしてる様子はないし、中国もヨーロッパも、もちろん日本も危うい、しかも大気圏の外も何やら方々で慌しいみたいだし、、、進行するカリユガの名に恥じず何かと騒動の多そうな気配が充満してますが、嵐の雲の向こうには(最近ちょっと活動期みたいな)太陽があるように、クリシュナのことを心のどこかで思い出していられるといいなと思います。
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by ammolitering4 | 2011-12-21 19:40 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(2)

第1章 27段落から35段落まで

第27段落
シュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーは、これらの言葉をもって自分の立場を表しました。事実は、彼はそのとき、超越的な知識について本当に学識がありましたが、私たちのような物質主義的な愚か者であるふりをしました。シュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーは、自分は超越的な知識を持たないのに人々が自分を偉大な指導者や博学な学者と呼ぶのを許すことについて、自分を非難しました。

間接的に、彼は、偉大な学者、偉大な指導者、偉大な哲学者、偉大なマハートマー、あるいは偉大なパラマハムサとして名声を得るために、自分を宣伝して同じような愚か者の安っぽい票を集める者よりもひどい物質主義的な愚か者はいない、と保証しました。

(彼らはこれらすべてのことを)自分の本当の自己、すなわち霊魂に関する何らの知識も無くして、そして魂そのものに何らの利益を与えることも無くして___単に一時的な物質の体と心の幸せと苦しみに関する事柄に時間を無駄にして、行います。(訳注:原文は上記の2つの文が長くつながっています)

サナータナは「永遠」を意味します。このように、サナータナ・ゴスヴァーミーは、生命体の一時的な体と心の一時的な幸せだけではなく、彼らの永遠の幸せに興味がありました。人がこのように永遠の魂の永遠の幸せに興味を持つようになるとき、彼はサナータナ・ゴスヴァーミーの弟子、あるいは本当の「サナータナ主義者」、つまり超越主義者になります。

第28段落
現在、世界中でほとんどすべての指導者、学者、そして「マハートマー」たちは、大なり小なり、超越的な知識への何らの嗜好も持たない物質主義者です。こうして至高の人格神シュリー・クリシュナは最初はアルジュナを非難し、本当は物質主義的な愚か者である、いわゆる博学な学者たちと指導者たちに教えるために、彼をパンディタ、すなわち学者として受け入れることを拒否しました。

第29段落
ほとんどすべての現代の指導者たちは、物質的な体と心だけに関係する様々な様相の宗教性を一般化しました。しかし、彼らの中には、体と心は単に魂そのものの上着とシャツに過ぎない、ということを知っている者はほとんどいません。

単に上着とシャツの世話をすることによっては、人は本当の自己、すなわち魂に何らの善をすることもできません。事実は、魂が主要な関心事です。正気の者であれば、自分の主な関心事、すなわち自分自身そのものをないがしろにする一方で、周辺の諸事物の利益に心を砕くということはありません。

もしも彼が自分の主要な関心事の必要性の面倒を見るなら、そうすれば彼の従属的な関心事、すなわち彼の物質的な体と心は、自動的に充足されます。しかし、誰も従属的なものに奉仕をすることによって主要なものに奉仕をすることはできません。言い換えると、単に注意深く人の外的な衣類の世話をすることによって人の内的な飢えを満たすのは可能ではありません。

第30段落
ですから、私たちが生命体について語るとき、私たちは生命力、すなわち霊魂を主要で中心的な存在として見る一方で、体と心を二つの外的な覆い、二層からなる周辺的なものとしてみなければなりません。外側の覆いは一時的な配剤であり、したがって外側の覆いに依存するすべてもまた、一時的な配剤です。

そのため、バガヴァッド・ギーターにおいて至高の人格神シュリー・クリシュナはおっしゃいます。「おお、クンティーの息子よ。冬の寒さや夏の暑さなどのすべての形の幸せと苦しみは、物質的な感覚による知覚のみによるものです。それらは自然の法則に応じて訪れたり去っていったりします。

そしてそのため、それらは、それによって私たちが惑わされることなく、忍耐されるべきものです。(訳注:そのため、私たちはそれらに惑わされずに忍耐すべきです。)これらすべての一時的な幸せと苦しみの去来に惑わされない者だけが、永遠の人生を得る資格を得ます。

第31段落
しかし、私たちの存在の現在の段階では、体と心に関する一時的な幸せと苦しみに影響されずにいることは困難です。また、現在では、私たちが体と心によって識別されない、ということを主張するのも可能ではありません。このように、超越的な知識を得ることは、私たちが自分の現在のあり方に無関心になるということを意味するのではありません。それは、私たちが幸せと苦しみの去来によって圧倒されるべきではない、ということを意味します。

第32段落
私たちは、それらの物質的な幸せと苦しみの一時的な状態の性質を知らねばなりません。霊魂に関する事柄に関して無関心であり続けるの(が馬鹿げているの)と同じように、それらを無視することは全く馬鹿げたことです。それ(霊魂)に基づいて物質的な体と心は存在しているからです。

それでも、もしも人が霊魂を理解して、そして超越的な知識への好みを育むほど幸運であるなら、それなら、体と心に関する俗世的な幸せと苦しみの最中にあってさえも、彼は(それらに)無頓着でありつづけ、超越的な平和を味わいます。

本当の平和は、存在のその超越的な水準においてのみ、得られます。それが本当の満足の状態です。もしも長い間家から離れていた後で誰かが家路につくなら、家へ向かっていることの喜びは旅に伴う苦痛を減らします。

旅の不便は家へ向かっていることの喜びの副次的なものになります。同様に、超越的な知識の力によって家へ向かっている者、至高神のもとへ向かっている者にとって、体と心の物質的な悲惨さは取るに足らないものです。

第33段落
感覚による知覚は、様々な幸せと苦痛を感じる原因です。形、味、匂い、音、そして感触は、心と相まって幸せと苦痛を与える様々な感覚による知覚です(訳注:形、味、匂い、音、感触そして心などの様々な感覚をとおして、私たちは幸せと苦痛を知覚します)。

冬には、冷たい水を浴びることは私たちに苦痛を与えますが、しかし夏には同じ冷たい水が私たちに喜びを与えます。冬には火は私たちに喜びと暖かさを与えますが、しかし夏には同じ火が私たちに苦しみを与えます。このように、火も水も、私たちに幸せや苦しみを与える本質的な力を持ちません。

しかし、それらは様々な状況における私たちの感覚による知覚の相に応じて、幸せや苦しみの代理人であるように私たちには見えます。したがって、世界に存在するものは何も幸せの対象あるいは苦しみの対象ではありません。そうではなく、幸せと苦しみは共に相対的、すなわち私たちの感覚による知覚に依存します。それらは私たちの内的な思考、感情、そして意志(willing)の過程に関連しているからです。

第34段落
しかし、そのような、偽りの自己のもとでの思考、感情、および意志の行為に関連する幸せと苦しみの一時的な感覚は、永遠に霊魂とは異なるものであり、そしてそのため、「本当ではない現実」です。このように、芸術においてであれ、科学においてであれ、俗的な学者たちが培った知識の発達は、もしもその知識が永遠なる霊魂に言及しない(without reference)ものであるなら、それは単に、物質的な体と心を取り囲んで制約する自然の幻惑的な相の顕現に過ぎません。

第35段落
本当の平和と幸せは、そのような物質主義的な知識の発達を通しては決して訪れません。そうではなく、至高の人格神シュリー・クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて確認なさるように、永遠の霊魂との関連において超越的な知識を培う者、そして一時的な幸せと苦しみによって惑わされることなくそうする者たけが、誕生、死、老いと病の残酷な手を逃れ、自分の永遠の霊的な人生を取り戻すことによって本当に幸せになることができます。
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お待たせしました。ほんのちょっとですが、続きです。プラブパーダのおっしゃることって、ほんとにしみじみと「ほんとだなあ」と思います。いざそれを現実に応用できるかというとまた別問題ですけど。二極性に惑わされて振り回されないようにしたいと思います。お金がないとか、ありすぎて困るとか、あれこれ文句を言わずに忍耐できるようにならなきゃいけませんね。

これからまたしばらくお休みします。私の人生は何だかごちゃごちゃしているのです。今は日本にいます。仕事を探さなきゃいけないのですが、そうもできない中途半端なところです。私はガラス絵と仕事の翻訳とISKCONの翻訳と英語を教えるというのと、4足のわらじをはいています。つまり、どれも中途半端なのです。

しかも、11月半ばからは都合で2週間ほど旅行をするので、その準備もしなければなりません。しかし、その前にはガラス絵教室を開く予定があり、それだけでは絶対お金が足りないのであと2つくらい教室を開きたいと思っていて、しかしそれは非常に面倒臭く、英語を教えますという宣伝もしなければならず、、、どうしたらいいのでしょう。私は冬ごもりをしたいです。秋なのですが、そういう些細なことは気にしません。自分で招いてしまったこんなごちゃごちゃした人生をしばらく逃避できるのなら、梅雨時にでも冬ごもりします。

そういうわけで、皆さん、またしばらくさようなら。いつかどこかでお会いしましょう。
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by ammolitering4 | 2011-09-28 17:25 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(4)

第1章 14段落から26段落まで

「至高神の教え」第1章 26段落まで

第14段落
しかし現時点では、思想の指導者たちは一般の人々を、「私たちが住んでいる世界以外に世界はない」、そして「ここですべての平和と繁栄が得られる」と信じるように誤って導いてしまいました。そのような指導者たちによれば、物質的な体が本当の自己であり、体に関わるすべてのことを理解するということが自己認識を構成し(訳注:「自己認識とは体に関わるすべてのことを理解することであり」)、そして私たちは、体の感覚を満足させて、なんとしても体を維持すること以上の義務を持ちません。

これらの指導者たちによれば、神と、主に哲学的に近づくことは、単に脳を運動させるための娯楽的な追及、あるいは室内ゲームに過ぎません。しかし、この種の理解によっては、世界は何ら実体のあるものを得ません。

第15段落
ですからアルジュナは、自分を物質世界において幻惑されている普通の人々の部類に置き、弱さを表しました。そして、この行動によってアルジュナはバガヴァッド・ギーターが至高の人格神の超越的なくちびるから顕現するのを助けました。

至高の人格神が死を運命づけられたこの世界に降臨なさるときはいつでも、主はご自分の内密な従者につき従われています。アルジュナは至高の人格神シュリー・クリシュナのそのような永遠の内密な従者の一人であり、そのためバガヴァッド・ギーターの哲学は一般の人々の利益のために彼に直接教えられました。

第16段落
至高の人格神の純粋な献身者であるため、アルジュナはクルクシェトラの戦場においてさえバガヴァッド・ギーターの超越的な哲学を議論することができました。私たち現代人は、自分の通常の日常的な義務の間にあって、バガヴァッド・ギーターの哲学の詳細を論じる時間がないことになっています。

しかし、私たちに教えるためだけに、アルジュナはただ一瞬でさえ無駄にするのが不可能であるように見えたときにバガヴァッド・ギーターの哲学を熟考しました。これらすべてを彼は私たちのような人々のために行い、そして彼はいったんバガヴァッド・ギーターの哲学を理解すると、精力的に戦いました。

第17段落
アルジュナを典型的な現代人と同じように圧倒したように見える家族関係の親和性は、超越的な知識が欠落していることのしるしです。しかし、超越的な知識を得ることは、必ずしも普通の生活の義務を放棄することを意味するのではありません。

アルジュナがバガヴァッド・ギーターの哲学を理解したあと、至高の人格神シュリー・クリシュナは、決して彼に自分の普通に見える義務を放棄することは助言なさいませんでした。対照的に、シュリー・クリシュナによって授けられた超越的な知識を得たあと、アルジュナは前よりももっと精力的に戦いました。

私たちが超越的な知識を通して得る本当の精神は、自己を服従させることと、至高の人格神に超越的な奉仕を捧げる決意です。バガヴァッド・ギーターの趣旨はこれであり、他の何でもありません。

第18段落
アルジュナが切迫したクルクシェトラの戦いによって自分に呈された問題を解決できないでいたとき、自分の問題の解決策を尋ねるために、彼は全くの従順さをもってシュリー・クリシュナに主の弟子として服従しました。

最初は、至高の人格神はアルジュナと、友人同士が語り合うように話しました。しかし、そのような友人同士としての議論は、普通、実りのない話し合いに終わります。そのためアルジュナはシュリー・クリシュナの弟子として服従しました。弟子は自分の霊的指導者の命令に逆らうことはできないからです。それが弟子と彼の師との関係です。

第19段落
至高の人格神シュリー・クリシュナは、アルジュナが自分自身の学識に関する何らのうぬぼれもなく、そして全く無条件でご自分に服従したのを見てはじめて、バガヴァッド・ギーターの極めて重要な教えを授けました。

服従する前のアルジュナのように、私たちは一般に自分の問題を、自分の俗世的な経験から集めた独自の手段によって解決しようとします。しかし、一時的な手段によって自分の日々の身体的および精神的な困難を取り除こうとするこの試みは、いつも誤って導かれます。

第20段落
人が自分の永遠の人生を取り戻すという問題を解決しようとしない限り、この人生においても死後の人生においても、何らの平和もありえません。それがバガヴァッド・ギーターの至高の教えです。

第21段落
私たちの至高の必要性は、物質的な体と心の切望を超越した活動に関わる主題を理解することです。この、活動の超越的な水準に(訳注:超越的な水準にある活動)に至らない限り、私たちは本当の平和を得ることができません。

この霊的で超越的な水準は永遠の人生の水準であり、それなくしては物質的な体と心は存在しません(would have no existance)。しかし、現在私たちは、自分たちの物質的な知識を大いに誇りに思っているにも関わらず、この永遠の人生に関する何の情報も持ちません。

第22段落
私たちは大なり小なり、永遠に生きている魂を今は覆っている外的で物質的な区分に浸っています。そして、自分をこれらの外的な区分に浸らせてしまったため、私たちは非常に多くの苦しみと苦闘に直面します。

私たちがそのような区分から自由になるとき___私たちの本当の性質が明らかになるとき___そのとき、そしてそのときだけ、私たちは本当の幸せと平和という、自分の夢を実現します。学識ある科学者たち、偉大な政治家、そしていわゆるマハートマーの自負を通して物質世界の困難を取り除こうとする私たちの現在の試みは、霊的で超越的な水準には至らず、単に魂に様々に色とりどりの身体的で精神的な区分という「衣装」をまとわせます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは、これらの試みは必ず期待外れに終わる、と宣言なさいます。

第23段落
シュリー・クリシュナは、アルジュナが弟子としてご自分に服従したとき、言うなればアルジュナを非難しました。「アルジュナ、私はあなたが学識のある人のように語っているのを見ます。しかし、実際はあなたはほとんど知識を持ちません。本当に学識のある人は誰も嘆かないことを嘆いているからです。」

第24段落
学識のある人は、時間の流れの中で現れたり消えたりする物事を嘆くことは決してありません。私たちが自分の母親の子宮から得る物質的な体は、しばらくの時間の後で、場合によって灰、土、あるいは糞に変わります。

そして、偽りの自我、知性、そして心からなる希薄な物質の体は、魂が解放されるときに同様に消えます。したがって、本当に学識のある人は、物質的な体と心、あるいは物質的な体と心にだけ関係のある幸せと苦しみをあまり重視しません。

第25段落
他方、そのような学識のある人は、霊であるため体と心を超越している魂そのものの幸せと苦しみに多いに重要性を置きます。この主題に関する知識は超越的な知識と呼ばれます。アルジュナは、完全に物質主義的な愚か者である私たちに教えるためだけに、何の超越的な知識もない物質主義的な愚か者として振舞いました。

主のほうはと言えば、至高の人格神は、バガヴァッド・ギーターの超越的な知識をアルジュナに授けました。主はアルジュナがそれを聞くのに最もふさわしい人であると思われたからです。

第26段落
ちょうどアルジュナのように、ベンガルのナワブ・フセイン・シャーの下の首相 ---後の主チャイタンニャの主要な弟子たちの一人、サナータナ・ゴスヴァーミーとして知られたサーカラ・マッリカ ---は、ベナレスで主に会ったとき、主チャイタンニャの前で自分自身を物質主義的な愚か者として表しました。彼は主チャイタンニャの前で自分の立場を次のように表しました。

「超越性に関する知識を持たない普通の人々は、私を偉大な指導者、学者、マハートマー、パラマハムサなどと呼びます。しかし、私は自分が本当にそうなのかと疑っています。彼らは私を、(本当は)そうでないものと呼ぶことによって、私を間接的に嘲っているのかもしれません。(訳注:私はそのような偉人ではないのに、そうであるかのように呼ぶことによって、彼らは実は私を馬鹿にしているのかもしれません。)

私は自分がありのままの自分について何の知識も持たないということを知っています。しかし、それでも物質主義的な愚か者は私を学識がある(者)と呼びます。これは疑いもなく(悪い)冗談であって、嘲りです。
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by ammolitering4 | 2011-09-28 13:39 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)