カテゴリ:プラーラーダ・マハーラージャ( 9 )

第6章

第6章 クリシュナ意識:慈悲の完成

第1段落
プラーラーダ・マハーラージャは今、ご自分の結論を与えられます。「私の親愛なる友人たちよ。至高主はどこにでも存在しておられ、そして私たちは至高主の欠かすべからざる小片であるので、私たちの義務はすべての生命体に慈悲深くあることです。」

人がより低い立場にあるとき、私たちには彼を助ける義務があります。例えば、小さな子供は無力なので、彼は両親の慈悲に依存しています。「お母さん、私はこれが欲しいです。」「はい、我が愛しい子よ。」私たちは、すべての生命体に情け深くあるべきであり、彼らに慈悲を示すべきです。

第2段落
私たちはどうやってすべての人に自分の慈悲を示すことができるでしょうか?無数の貧しい人々がおり、そのため私たちはどうやって彼らすべてに慈悲を示すことができるでしょうか?私たちは、世界のすべての貧しい人々に衣食を与えることができるでしょうか?

それは可能ではありません。それでは、どうやって私たちはすべての生命体に慈悲深くあることができるでしょうか?彼らにクリシュナ意識を与えることによってです。それがプラーラーダ・マハーラージャがご自分の学友たちに本当の慈悲を見せている方法です。彼らは皆、クリシュナ意識のない愚か者でした。

そしてそのため、彼(プラーラーダ)は彼らに、どうやってクリシュナ意識になるかを示していました。これが最高の慈悲です。もしもあなたが生命体にほんの少しでも慈悲を示したいなら、それならプラーラーダ・マハーラージャがしたように、彼らをクリシュナ意識において啓蒙しなさい。そうでなければ、慈悲を示すのは物質的にあなたの力を超えています。


第3段落
「私の愛しい友人たちよ」とプラーラーダはおっしゃいます。「この悪魔的な人生を放棄しなさい。この馬鹿げたことを放棄しなさい。」神は存在しないという信念は、プラーラーダ・マハーラージャがご自分の友人たちに放棄するように頼む、悪魔的な特徴です。

彼らは悪魔たちの(訳注:悪魔的な)家庭に生まれ、悪魔的な教師たちによって教えられていたので、プラーラーダの友人たちは「神とは誰だろう?神は存在しない」と考えていました。私たちは、バガヴァッド・ギーターにおいてこのような精神性の人々が悪党と呼ばれるのを見出します。彼らはいつも悪事をしようとするからです。

彼らは非常に良く教育されているかもしれませんが、彼らの計画は騙すことです。私たちは実際的な経験を持っています。彼らは非常に多くの資格を持って、高い教育を受けており、良い服装をしていますが、彼らの精神性は犬のそれよりも卑しいものです。「この男は幾らかのお金を持っている。だから彼を騙すために企もう。」彼らは単に悪党です。

第4段落
彼らは何のために騙しているのですか?ちょうど人生の目的を知らないロバのように、単に感覚の満足のためです。彼は洗濯屋によって飼われ、洗濯屋は彼の背中に可能な限りの物を乗せます。このようにして、少々の草のために、ロバはこの重荷を負って一日中働きます。

同様に、物質主義的な人々は単にわずかな、取るに足らない感覚の満足のために、大変一生懸命に働きます。したがって、彼らはロバと比べられます。彼らはいつも、悪意のある何事かを企てています。

彼らは神を信じないので、人類のうちで最も低い者たちです。なぜでしょうか?彼らの知識は物質エネルギーの影響によって奪われています。彼らは神の存在を否定するので、幻想が彼らを駆り立てます。「そうです。神は存在しません。懸命に働き、罪を犯しなさい。そして地獄へ行きなさい。(so that you may go to hell)」

第5段落
プラーラーダ・マハーラージャは、彼の悪魔的な友人たちに、神はいない、というこの考えを放棄するように頼みます。もしも私たちがこの無意味な考えを放棄するなら、そうすれば私たちの知覚を超えていらっしゃる至高主は喜ばれ、私たちにご自分の慈悲を示してくださいます。

以上で本書を終わります。巻末の「著者について」は省略しました。
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by ammolitering4 | 2011-06-30 13:41 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第5章 後半

第5章 後半
第9段落
私たちは、自分の物質的な感覚をして、何を知覚することができるでしょうか?私たちは、土、水、火など、物質的な目に可視的であるものを見ることができます。しかし私たちは、触れることによって知覚できるにも関わらず、空気を見ることはできません。

私たちは、音によって空があることを理解できます。そして私たちは、考え、感じ、意思を持っているので、自分は心を持っている、と理解することができます。もしもさらに続けるなら、私たちは「自分は意識である」と理解することができます。そして更に発達した者は、意識の源は魂であり、そして何よりも(それは)超魂であると理解することができます。

第10段落
私たちの周りの可視的なものは、至高主の劣性なエネルギーの拡張体ですが、主はまた、優性なるエネルギー、すなわち意識も持っておいでです。私たちは意識をより高い権威から理解しなければなりません。

私たちはそれを直接的に知覚することもできます。例えば、私たちは体全体に広がる意識があると知覚することができます。もしも私がどこであれ自分の体をつねれば、私は痛みを感じます。それは、私の体全体に意識があるということを意味します。

バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナは、私たちは「意識は体中に広がっていて、それは永遠である」ということを理解しようとすべきである、とおっしゃいます。同様に、意識はこの宇宙全体に広がっています。

しかし、それは私たちの意識ではありません。それは神の意識です。ですから、神、超魂は、ご自分の意識によって偏在です。これを理解する者は、自分のクリシュナ意識を開始しました。

第11段落
私たちの方法は、自分の意識をクリシュナ意識に繋げる、ということです。それは私たちを完璧にします。私たちがその意識に同化するのではありません。ある意味では私たちは「同化」しますが、しかしそれでも私たちは自分の独自性を保ちます。

それが非人格主義の哲学とクリシュナ意識哲学の違いです。非人格主義の哲学者は、完成とは至高存在に同化して自分の独自性を失うことだ、と言います。私たちは、「完成した段階において、私たちは至高存在に同化するが、自分の独自性を保つ」と言います。

それはどういうことでしょうか?飛行機は飛行場から飛び立って上へ上へと上がっていきます。そして非常に高くへ行くと、私たちはそれを見ることができません。私たちは単に空を見ることができます。(訳注:空が見えるだけです。)

しかし、飛行機は失われてはいません。それはまだそこにあります。もうひとつの例は、大きな緑色の木に入っていく緑色の鳥です。私たちには鳥と木の区別をつけることができませんが、それらはどちらも存在し続けます。

同様に、至高の意識はクリシュナであり、私たちが自分の個々の意識を至高存在に繋げるとき、私たちは完璧になります。。。しかし、自分の独自性を保ちます。外部の者は、神と主の純粋な献身者の間には区別はない、と考えるかもしれません。

しかし、それは乏しい知識のみに基づくものです。すべての個人、すべての個々の存在は、至高存在と繋がった時でさえ、自分の独自性を維持します。

第12段落
プラーラーダ・マハーラージャは、「私たちは、至高の意識であれ個々の意識であれ、意識を見ることはできないが、それは存在する」とおっしゃいます。どうやって私たちはそれが存在すると理解することができるでしょうか?

私たちは、単に喜びの感知によって、至高の意識と私たちの個々の意識を理解することができます。私たちは意識を持っているので、アーナンダ、喜びを感じることができます。意識がなくては、喜びの感情はありません。

意識ゆえに、私たちは自分の感覚をどんなふうにでも好きなように使うことによって、人生を楽しむことができます。しかし、体から意識が去れば直ちに、私たちは自分の感覚を楽しむことができません。

第13段落
私たちの意識は、私たちが至高の意識の欠かすべからざる小片であるがゆえに存在します。例えば、火花は火の微細な粒に過ぎませんが、それでも火花もまた火です。大西洋の一滴は、海の水と同じ性質を持っています。それもまた塩辛いのです。同様に、至高主の中に喜びの力が存在するため、私たちもまた喜びを楽しむことができます。

主はパラメシュヴァラ、至高の統御者です。したがって、私たちもまたイーシュヴァラ、すなわち統御者です。例えば、私は自分が咳をすると水を飲むという、幾らかの統御力を持っています。しかし、私たちは至高の統御者ではありません。至高の統御者は神、クリシュナです。

第14段落
クリシュナが至高の統御者であるので、主はご自分の様々に異なる力によって、宇宙の出来事すべてを統御することができます。私もまた、自分は自分の身体的な事柄をある程度統御していると感じますが、私は至高の統御者ではないので、もしもこの体に何か悪いところがあれば、私は医者に行かねばなりません。

同様に、私は他の体の上に何らの統御力も持ちません。私はこの手を「自分の手」と呼びます。なぜなら、私はこの手で作業をすることができ、それを自分の望みに応じて動かすことができるからです。しかし、私はあなたの手の統御者ではありません。

もしも私があなたの手を動かしたいと望むなら、それは私の力の内にはありません。それはあなたの力の内にあります。あなたは、もしもそう望むなら、自分の手を動かすことができます。ですから、私はあなたの体の統御者ではなく、あなたは私の体の統御者ではなく、しかし至高の魂はあなたの体と私の体と、すべての体の統御者です。

第15段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、あなた、すなわち魂はあなたの体の中にいて、そしてあなたの体はあなたの活動の場である、とおっしゃいます。ですから、あなたがしていることは何であれ、あなたの体という場によって制限されています。

ある特定の土地の広がりの中に閉じ込められた動物は、そこで動き回ることができますが、その空間が許す場を超えたところには行けません。同様に、あなたの活動と私の活動は、私たちの体の限界の中に閉じ込められています。私の体は私の活動の場であり、あなたの体はあなたの活動の場です。しかしクリシュナはおっしゃいます。「私はすべての場にいます。」

第16段落
したがってクリシュナは、超魂、すなわちパラマートマーとして、私の体の中で、あなたの体の中で、そして他の無数の体の中で何が起こっているか、ご存じです。したがって、主は至高の統御者です。

私たちは自分の限られたエネルギーを持っていますが、主のエネルギーは無限です。主の統御する力によって、主の至高の意思によって、この物質的な創造は動いてます。それもまた、バガヴァッド・ギーターにおいて確認されています。

そこでクリシュナはおっしゃいます。「私の監督のもとで、物質自然全体が働いています。この物質世界の中であなたが見るすべての素晴らしいものは、私の監督、私の至高の統御によるものです。」
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by ammolitering4 | 2011-06-30 13:06 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第5章 前半

第5章 神はどこにでもいらっしゃると認識する

第1段落
マハーラージャ・プラーラーダは、ご自分の学友たちに至高主の偏在性についてお知らせになりました。しかし、至高主はご自分の拡張体とご自分のエネルギーという方法によって偏在でいらっしゃいますが、それは主がご自分の人格を失われたということを意味するのではありません。

それは非常に重要です。主は偏在でいらっしゃいますが、それでも主は個人(person)でいらっしゃいます。私たちの物質的な認識(perception)によれば、もしも何かが偏在であるなら、それならそれは人格を持たず、局地的な側面を持ちません。

しかし、神はそのようなものではありません。例えば、太陽光は偏在ですが、太陽は太陽星(訳注:Sun planet、太陽という惑星、太陽そのもの)という局地的な側面を持っており、そしてあなたはそれを見ることができます。

太陽星があるだけでなく、太陽星の中には太陽神がおられ、そのお名前はヴィヴァスヴァーンです。私たちは、この情報をヴェーダ文献から得ます。権威ある源から聞く他には、他の惑星で何が起こっているかを理解する方法はありません。

現代の文明では、私たちはこれらの事柄について科学者たちを権威として受け入れます。私たちは科学者たちが「私たちは月を見ました。それはああです、こうです」と言うのを聞き、そしてそれを信じます。私たちは科学者と一緒に月を見に行ったのではありませんが、私たちは彼を信じます。

第2段落
信じることは理解の基本的な原則です。あなたは科学者たちを信じるかもしれません。あるいはあなたはヴェーダを信じるかもしれません。どちらの源を信じるかはあなた次第です。違いは、ヴェーダからの情報には誤りがなく、科学者から受ける情報は誤りうる、ということです。

なぜ科学者の情報は誤りうるのでしょうか?なぜなら、物質的な自然によって制約された普通の人間は、4つの欠陥を持っているからです。それは何でしょうか?最初のものは、制約された人間は不完全な感覚を持っているというものです。

私たちは、太陽を小さな円盤として見ます。なぜでしょうか?太陽はこの地球よりずっとずっと大きいのですが、私たちはそれを単なる円盤として見ます。誰もが、私たちの見る力、聞く力などは限られていると知っています。

そして、人間の感覚は不完全であるため、制約された魂は、たとえどんなに偉大な科学者であったとしても、必ず間違いを犯します。そう遠くない昔、この国で惨事がありました。科学者たちがロケットを打ち上げようとしたとき、しかし、それは直ちに燃えて灰になりました。ですから、間違いが起こりました。

制約された魂は、必ず絶対に、間違いを犯すのです。なぜなら、それが制約された人生の性質だからです。間違いは、非常に大きかったり、非常に小さかったりするかもしれません。それは関係ありません。しかし、物質自然によって制約された人間は、必ず間違いを犯します。

第3段落
さらに、制約された魂は必ず幻惑されます。これは、彼が継続的に、あるものを別の何かであると誤認するときに起こります。例えば、私たちは体を自己として受け入れます。私はこの体ではないので、私が体を自己として受け入れるのは幻想です。

世界全体が「私はこの体である」という幻想の下で動いています。したがって、平和はありません。私は自分がインド人だと考えており、あなたは自分はアメリカ人だと考えており、そして中国人は自分は中国人だと考えています。この「中国人」、「アメリカ人」、そして「インド人」というのは何ですか?それは体に基づいた幻想です。それだけです。

第4段落
騙す傾向は、制約された人生の4つ目の欠陥です。私は愚か者であるかもしれませんが、私は自分はとても学識があると自慢します。幻惑されていて、間違いを犯す者は、皆、愚か者です。

しかしそれでも、そのような愚か者たちが、決して間違いのない知識の源である振りをします。ですから、すべての制約された魂は不完全な感覚を持ち、彼らは間違いを犯すことと幻惑されることに陥りがちであり、そして彼らは騙す傾向によって影響されます。

第5段落
人はどうしてそのような制約された魂から本当の知識を期待できるでしょうか?彼らから本当の知識を受け取れる可能性はありません。人が科学者であれ、哲学者であれ、何であれ、彼は制約されているので、どんなに教育があったにしても、彼は完全な知識を与えることはできません。それは事実です。

第6段落
今、人は「私たちはどうやって完全な情報を得ることができるのですか?」と尋ねるかもしれません。その方法は、クリシュナに始まる霊的指導者と弟子の師弟継承を通して知識を受け取ることです。

バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。「このバガヴァッド・ギーターの知識は、最初、私によって太陽神に語られました。そして、太陽神はそれを自分の息子マヌに語りました。

次に、マヌはこの知識を自分の息子イクシュヴァークに語り、そしてそれからイクシュヴァークは同じことを自分の息子に語りました。このようにして知識は下りてきました。しかし不幸にして、その師弟継承は今は途切れています。

ですから、おお、アルジュナよ。私は今、同じ知識をあなたに授けています。なぜなら、あなたは私の大変愛しい友人であり、良き献身者だからです。」これが完ぺきな知識を受け取る方法です。より高い源から下りてくる超越的な振動を受け入れる、というものです。ヴェーダの知識全体は、私たちが至高主を理解するのを助けるための超越的な振動です。

第7段落
さて、プラーラーダ・マハーラージャは、至高の人格神は偏在する超魂、パラマートマーと同一である、とおっしゃいます。同じ情報が部ラーマ・サムヒターにも現れます。至高主は、ご自分の超越的なお住まいに位置していらっしゃるにも関わらず、偏在でおられる、というものです。それでも、主はどこにでもいらっしゃるにも関わらず、私たちは自分の不完全な感覚をして主を見ることはできません。

第8段落
それからプラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「主は見られ得ませんが、それでも主は知覚され得ます。知性的である者は、至高主の存在をどこにでも知覚することができます。」どうやってこれが可能でしょうか?

昼間は、室内にいる者でさえ太陽が昇ったと知ることができます。部屋の中が明るいので、彼は空に太陽が輝いていると知ることができます。同様に、師弟継承において完ぺきな知識を受け取った者は、すべては至高主のエネルギーの拡張体であると知っています。したがって、彼らは主をどこにでも見ます。
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by ammolitering4 | 2011-06-27 21:48 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第4章

第4章 私は何よりもクリシュナを愛している!

第1段落
さて、プラーラーダ・マハーラージャは、物質的な人生のやっかいな問題について更なる言明をなさいます。彼は執着した家庭人をカイコと比べます。カイコは、そこから逃げ出せない牢屋の中に入ってしまうまで、自らを自分の唾でできた繭に包みます。

同じように、物質主義的な家庭人の絡まりは非常にきつくなり、彼は家族の魅力という繭から出てくることができません。物質主義的な家庭生活には非常に多くの悲惨さがあるにも関わらず、彼は自由になることができません。

なぜでしょうか?彼は、性交と、おいしい料理を食べることが、もっとも大切だと考えます。したがって、非常に多くの悲惨な状況にも関わらず、彼はそれらを放棄することができません。

第2段落
このようにして、人が家庭生活に過度に執着しているとき、彼は自分の本当の利益、すなわち物質的な人生から逃げ出すということを考えることができません。彼は、いつも物質主義的な人生の三重の悲惨さによって苦しんでいるにも関わらず、強い家族の愛情のため、出てくることができません。

彼は、自分の限られた寿命を単に家族の愛情のために無駄にしているということを知りません。彼は、自分の永遠の自己を認識するために、自分の本当の霊的な人生を認識するためにある人生を駄目にしています。

第3段落
「したがって」、とプラーラーダはご自分の悪魔的な友人たちにおっしゃいます。「単に物質的な楽しみだけを求める者たちとの関わりを絶ってください。」それが彼の助言です。彼はご自分の友人たちに、このクリシュナ意識は簡単に得られる、とおっしゃいます。

なぜでしょうか?クリシュナ意識は、実際は私たちにとってとても愛しいものです。しかし、私たちはそれを忘れています。したがって、クリシュナ意識を習慣づける者は誰でも、それによってもっともっと影響されるようになり、自分の物質的な意識を忘れます。

第4段落
もしもあなたが外国にいるなら、あなたは自分の家と、あなたにとってとても愛しい自分の家族や友人を忘れるかもしれません。しかし、もしもあなたが突然あなたの家と友人たちを思い出させられるなら、あなたは直ちに非常に心を奪われるでしょう。

「私はどうやって彼らに会えるだろうか?」サンフランシスコで、私たちの友人の一人が私に、ずっと昔に自分は幼い子供たちを残して外国に来た、と言いました。最近、彼の成人した息子から手紙が来て、直ちに父親は自分の(中にあった)息子への愛情を思い出し、幾らかのお金を送りました。

その愛情は、彼が自分の子供を非常に多くの歳月忘れていたにも関わらず、自動的に来ました。同様に、私たちのクリシュナへの愛情は非常に親密なので、幾らかのクリシュナ意識との接触があれば直ちに、私たちはすぐに主との自分の関係を取り戻します。

第5段落
誰もが、自分では忘れてしまっている、クリシュナ、至高主との特定の関係を持っています。しかし、私たちがクリシュナ意識になるにつれて、徐々に私たちのクリシュナとの関係の古い意識が蘇ります。

そして、私たちの意識が実際に透明な段階にあるとき、私たちはクリシュナとの自分の特定の関係を理解することができます。人は、息子あるいは従者として、友人として、親として、あるいは愛する妻または恋人として、クリシュナとの関係を持っているかもしれません。

これらすべての関係は、物質世界の人生において、歪んで反映されています。しかし、私たちがクリシュナ意識の水準に至れば直ちに、私たちのクリシュナとの古い関係が蘇ります。

第6段落
私たちは愛します。私たち一人一人、誰もがです。まず、この体の中に自分の自己があるので、私は自分の体を愛します。ですから、実際は私は体よりも自分の自己を愛しています。

しかし、自己はクリシュナの欠かすべからざる小片なので、その自己はクリシュナとの親密な関係を持っています。したがって、私は何よりもクリシュナを愛しています。そして、クリシュナはあまねく存在するので、私はすべてを愛しています。

第7段落
不幸にして私たちは、クリシュナ、神はあまねく存在するということを忘れてしまいました。この記憶が蘇らせられねばなりません。自分のクリシュナ意識を取り戻せば直ちに、私たちはすべてをクリシュナとの関係で見ることができ、そしてそうすればすべては愛しくなります。

今は、私があなたを愛していたり、あなたが私を愛していたりしますが、その愛はこのはかない体の水準にあります。しかし、クリシュナへの愛が育まれるとき、私はあなただけでなく、すべての生命体を愛します。

なぜなら、外側の区分、すなわち体が忘れられるからです。人が完全にクリシュナ意識になるとき、彼は「ここに人間がいる、ここに動物がいる、ここに猫がいる、ここに犬がいる、ここにミミズ(訳注:worm、毛虫も指す)がいる、とは考えません。

彼はすべてをクリシュナの欠かすべからざる小片として見ます。これはバガヴァッド・ギーターにおいて非常にすばらしく説明されています。「実際にクリシュナ意識において学識のある者は、宇宙の中のすべての者の恋人になります。」人がクリシュナ意識の水準に位置しない限り、普遍的な兄弟愛の可能性はありません。

第8段落
もしも私たちが実際に普遍的な兄弟愛の考えを実行したいなら、それなら私たちは物質的な意識ではなくクリシュナ意識の水準に来なければなりません。私たちが物質的な意識にある限り、私たちの愛しい対象は限られています。

しかし、私たちが実際にクリシュナ意識にあるとき、私たちの愛しい対象は普遍的です。それはプラーラーダ・マハーラージャによって述べられています。「動かない草(plants)や木に始まり、最も高位の生命体であるブラーマーに至るまで、至高の人格神は、すべての者の心臓におられる主の特性(feature)であるパラマートマーとしてのご自分の拡張体によって、どこにでも存在しておられます。

私たちがクリシュナ意識になれば直ちに、その至高の人格神の拡張体、パラマートマーは、すべての対象をクリシュナとの関係において愛するように私たちを仕向けます。
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by ammolitering4 | 2011-06-27 21:05 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第3章 後半

第3章 後半

第11段落
わずか5歳ではありましたが、プラーラーダ・マハーラージャは非常に経験を積んだ、教育のある人のように話します。なぜなら、彼は自分の霊的指導者ナーラダ・ムニから知識を受け取ったからです。

それはシュリマッド・バーガヴァタムの次の章において明かされています。英知は年齢ではなく、より高い源から受け取った知識によります。人は単に年を重ねることによって賢人になることはできません。いいえ。それは可能ではありません。

より高い源から知識が受け取られねばなりません。そうすれば人は賢明になれます。人が5歳であろうが、50歳であろうが、関係ありません。諺にもあります(As it is said)。「知識によって人は老人になる。高齢にならなくても。」

第12段落
ですから、プラーラーダはわずか5歳でしたが、知識における発達によって、彼は自分の学友たちに完ぺきな教えを授けていました。ある者たちは、これらの教えを受け入れがたいと思うかもしれません。

たとえば、ある人が既に結婚していて、プラーラーダが「クリシュナ意識を習慣づけなさい」と言うと仮定しましょう。彼は「おお、どうして私は自分の妻のもとを去れるだろうか。私たちは一緒に、とても良く語り合い、共に座り、楽しむ。どうして私は去れるだろうか?」と考えます。家族の魅力はとても強いのです。

第13段落
私は老人です。72歳です。私は過去14年間、家族から離れています。それでも時々、私も自分の妻と子供たちのことを考えます。これはごく自然です。しかし、それは私が戻らねばならないことを意味するのではありません。これが知識です。心が感覚の満足の考えにさまようとき、人は直ちに「これは幻想だ」と理解すべきです。

第14段落
ヴェーダの方法によれば、人は50歳で強制的に家庭生活を放棄しなければなりません。人は去らねばなりません。他の方法はありません。最初の25年間は学生時代です。5歳のときから25歳のときまで、人はクリシュナ意識において非常に良く教育されねばなりません。

人の教育の基本的な原則は、他の何でもなく、クリシュナ意識であるべきです。そうすればこの世界においても次の世界においても、人生は喜ばしくて成功したものになります。クリシュナ意識の教育は、人が完全に物質的な意識を放棄することを意味します。それが完全なクリシュナ意識です。

第15段落
しかし、もしも生徒がクリシュナ意識の真髄を掴むことができないなら、それなら彼は良い妻と結婚して平和な家庭人の人生を送ることが許されます。そして、クリシュナ意識の基本的な原則において訓練されているので、彼は自分自身を物質的な世界に絡ませません。簡素に暮らす者、、、簡素な暮らしと高い思考、、、は、家庭生活においてさえ、クリシュナ意識において発達することができます。

第16段落
ですから、家庭生活は咎められません。しかし、もしも人が自分の霊的な自己認識を忘れて単に物質的な事柄に絡まるなら、そうすれば彼は迷います。彼の人生の使命は失われます。もしも人が「私は性的な欲求の攻撃から自分を守ることができない」と考えるなら、それなら彼を結婚させなさい。

それが指示されています。しかし、不正な性交をしてはなりません。もしもあなたが少女を求めるなら、もしもあなたが少年を求めるなら、結婚してクリシュナ意識において暮らしなさい。

第17段落
子供の頃からクリシュナ意識において訓練されている人は、自然に人生の物質的なあり方に傾かないようになります。そして50歳で彼はそれを放棄します。彼はどうやってそれを放棄し始めるでしょうか?夫と妻は家を出て、一緒に巡礼の旅をします。

もしも25歳のときから50歳のときまで家庭生活に留まっていれば、人は何人かの成人した子供たちを持っているはずです。ですから、50歳のときに夫は家族の事柄を家庭人である自分の息子たちの誰かに託し、そして彼と彼の妻は、家族の執着を忘れるために聖地への巡礼にでかけます。

紳士(夫)が完全に非執着において成熟すれば、彼は自分の妻に子供たちのもとへ帰るように頼み、彼は一人で留まります。それがヴェーダの方法です。私たちは自分自身に、徐々に霊的な人生において発達する機会を与えねばなりません。そうでなければ、もしも私たちが生涯を通して物質的な意識に留まるなら、私たちは自分のクリシュナ意識を完成させず、そしてこの人間の形の人生の機会を失います。

第18段落
いわゆる幸せな家庭生活は、私たちがとても愛情深い妻と愛情深い子供たちを持つことを意味します。このようにして私たちは人生を楽しみます。しかし、私たちはこの楽しみが偽りである、それが偽りの基盤の上にある、ということを知りません。

直ちに、まばたきをする間に、私たちはこの楽しみを放棄しなければならないかもしれません。死は私たちの統御の下にはありません。私たちはバガヴァッド・ギーターから、もしも人が過度に自分の妻に執着したまま死ねば、その結果、彼は次の世において女の体を得る、と学びます。

そして、もしも妻が自分の夫に非常に執着していると、彼女は次の世で男の体を得ます。同様に、もしもあなたが家庭人でなく、猫や犬に執着しているなら、それならあなたの次の世は猫か犬としてのものになります。これらがカルマ、すなわち物質自然の法則です。

第19段落
要点は、人はクリシュナ意識を直ちに始めるべきであるというものです。たとえば、人がこう考えると仮定しましょう。「快楽追求の人生を終えたあと、年をとって他に何もすることがないとき、そのとき私はクリシュナ意識協会に行って何か聞こう。」

たしかに、そのときに人は霊的な人生を習慣づけることができます。しかし、人が老年まで生きるという保証は何ですか?(訳注:何の保証がありますか?)人はいつ死ぬか分かりません。ですから、自分の霊的な人生を先延ばしにすることは非常に危険を伴うのです。

したがって、人はクリシュナ意識において発達するために、今、機会を掴むべきです。それがこの協会の目的です。クリシュナ意識を始める機会を、人生のすべての段階において人々に与えることです(訳注:どの段階ででも機会が得られるようにする)。

そして、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱える方法によって、発達は非常に急速です。即時的な効果があります。

第20段落
私たちは、非常に親切にも私たちの法話に参加したり、私たちの文献を読んだりしているすべての紳士淑女に、家で時間のあるときにハレ・クリシュナを唱え、私たちの本を読むようにお願いします。それが私のお願いです。この方法がとても心地よくてとても効果的であることを、あなたは必ずや知ることになる、と私たちは思います。
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by ammolitering4 | 2011-06-24 16:15 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第3章 前半

第3章 家族の幻想

第1段落
プラーラーダ・マハーラージャは、ご自分の友人たちにおっしゃいました。「あなたはクリシュナ意識を直ちに始めなければなりません。」すべての少年たちは無神論的で物質主義的な家庭に生まれました。

しかし幸運にも彼らは、生まれたときから主の偉大な献身者であるプラーラーダとの関わりがありました。教師が教室にいないとき、機会を見つければいつでも、彼は言っていました。「私の愛しい友人たちよ。ハレ・クリシュナを唱えましょう。今がクリシュナ意識を始めるときです。」

第2段落
さて、(先に)述べたように、何人かの少年たちはこう言ったかもしれません。「でも、私たちは幼い少年です(We are just boys.)。私たちはすぐには死にません。少し楽しみましょう。そして、後から私たちはクリシュナ意識を始めます。」

人々は、クリシュナ意識が最も高い楽しみであると知りません。彼らは、このクリシュナ意識運動に加わった少年たちや少女たちは愚かだと考えます。「プラブパーダの影響によって彼らはクリシュナ意識に加わり、楽しむべきものすべてを後にした。」

しかし、実際にはこれはそうではありません。彼らは皆、非常に立派な家庭の出身の、知性的で教育のある少年たちや少女たちです。私たちの協会では、彼らは実際に人生を楽しんでいます。そうでなければ、彼らはこの運動のために自分たちの貴重な時間を犠牲にしません。

第3段落
実際には、クリシュナ意識の中には楽しみに満ちた人生があります。しかし人々はそれを知りません。彼らは言います。「このクリシュナ意識というのは何の役に立つのか?」人が感覚の満足というあり方(process)にからまって育つとき、それから逃れるのは大変困難です。

したがって、ヴェーダの規律によれば、少年たちは5歳のときから始まって学生の人生において霊的な人生について教えられます。それはブラーマチャリャと呼ばれます。ブラーマチャーリーは、至高の意識、すなわちクリシュナ意識、あるいはブラーマン意識を得ることに自分の人生を捧げます。

第4段落
ブラーマチャリャには多くの規律や規則があります。たとえば、自分の父親がどんなに金持ちであっても、ブラーマチャーリーはちょうど召使のように霊的指導者の指導のもとで訓練されるために服従し、そして霊的指導者のアシュラムで働きます。どうしてこれが可能なのでしょうか?

私たちは、非常に立派な家庭の出身の、とてもよい少年たちが、ここでどんな仕事をするのも厭わない、という実際の経験を得ています。彼らは皿を洗っており、床を清めており、、、すべてをしています。ある生徒の母親は、彼が家に帰った時(when he visited home)、驚愕しました。

以前は彼は店に(買い物に)行くことさえしませんでしたが、今は彼は一日24時間何らかの仕事をしています(be engaged)。喜びを感じるのでない限り、どうして彼がクリシュナ意識などという方法にいそしむことが可能でしょうか?これは、ハレ・クリシュナを唱えることだけによるものです。

ハレ・クリシュナの真言、これが私たちの唯一の財産です。人は単にクリシュナ意識によって陽気であることができます。実際、それは喜びに満ちた人生です。しかし、訓練されない限り、人はそれを生きることはできません。

第5段落
プラーラーダ・マハーラージャは、すべての人は家族の愛情に執着している、と言います。もしも人が家族の事柄に執着しているなら、彼は自分の感覚を統御することができません。もともと(naturally)、誰もが誰かを愛したいと思っています。

社会、友情、そして愛が必要とされます。それらは霊魂の欲求です。しかし、それらは歪んで反映されています。私は、あなたがたの国の多くの紳士淑女が家庭を持たず、その代わり自分の愛情を猫と犬に注ぐのを見ました。

誰かを愛したいけれど適当な人が見当たらないので、彼らは自分の貴重な愛を猫と犬に注ぎます。私たちの関心事は、どこかに注がれなければならないこの愛をクリシュナに向けることです。これがクリシュナ意識です。

もしもあなたが自分の愛情をクリシュナに向けるなら、それは完成です。しかし今、人々は不満やイライラが溜まっていて、騙されているので、彼らは自分の愛情をどこに注ぐべきかを知りません。そして最後に彼らは自分の愛情を猫と犬に注ぎます。

第6段落
すべての人が物質的な愛によってがんじがらめになっています。人が物質的な愛情において(高度に)発達しているとき、霊的な人生において発達するのは困難です。この愛の繋がりは非常に強いからです。したがってプラーラーダは、人は子供の頃からクリシュナ意識を学ぶべきである、と提案します。

子供が5歳か6歳の頃、彼の意識が発達すれば直ちに、彼は訓練されるために学校へ送られるべきであり、そしてプラーラーダ・マハーラージャは、彼(子供)の教育は全くの最初からクリシュナ意識であるべきだ、とおっしゃいます。5歳から15歳までの期間はとても貴重な時間です。あなたはどんな子供でもクリシュナ意識において訓練することができ、そして彼は完ぺきになります。

第7段落
もしも子供がクリシュナ意識において訓練されておらず、その代わりに物質主義において発達するなら、彼にとって霊的な人生を発達させるのは困難です。物質主義とは何でしょうか?

物質主義とは、この物質世界にいる私たちすべてが、自分は霊魂であるにも関わらず、どういうわけかこの物質世界を楽しみたいと思う、ということを意味します。楽しみの精神は、霊的な世界においてクリシュナとの関係で、その純粋な形で存在しています。

しかし、私たちは汚染された楽しみに参加するためにここに来ました。バウアリー街(訳注:ホームレスが多いことで悪名高いマンハッタンの安ホテル街)の人が「自分は幾らかの酒を飲むことによって楽しむことができる」と考えるようなものです。

物質的な楽しみの基本的な原則は性交です。そのため、あなたは性交を人間の社会だけでなく、猫の社会、犬の社会、鳥の社会、、、どこにでも見出します。鳩は昼間は少なくとも20回性交をします。これが彼の楽しみです。

第8段落
シュリマッド・バーガヴァタムは、物質的な楽しみは男と女の性的な繋がりだけに基づいている、と確認します。はじめは、少年は「おお、あの少女は素敵だ」と考えます。そして少女は「あの少年は素敵だ」と言います。

彼らが会うとき、その物質的な汚染はもっと顕著になります。そして、彼らが実際に性交を楽しむとき、彼らはもっと執着し、完全に執着します。どうやって?少年と少女が結婚すれば直ちに、彼らはアパートを望みます。

それから彼らは子供を作ります。そして彼らが子供を持つとき、彼らは社会的な認識を求めます。社会、友情、そして愛です。このようにして彼らの物質的な執着は増していきます。そして、これらすべてはお金を必要とします。

過度に物質的な人は誰でも騙し、誰でも殺し、物乞いをし、借り、あるいは盗み、、、お金を得るためには何でも(します)。彼は、自分の建物、自分の家族、自分の妻と子供たちは、永遠に存在し続けることはできない、と知っています。それらはちょうど海の泡のようなものです。

それらは現れ、そしてまもなく消えます。しかし、彼は過度に執着しています。彼はそれらを維持するために、お金を求めて自分の霊的な発達を犠牲します。彼の歪んだ意識、、、「私はこの体だ。私はこの世界に属している。私はこの国に属している。私はこの共同体に属している」、、、は、もっともっと強くなります。

第9段落
彼のクリシュナ意識はどこですか?彼はあまりにも絡まっているので、彼にとって自分の人生(life)よりもお金が大切になります。言い換えると、彼はお金のために自分の人生を危険にさらすことができます。

家庭人、労働者、商人、泥棒、強盗、ごろつき、、、すべての人がお金を追い求めています。これは幻想です。人はこの絡まりの真ん中で自分自身を見失います。

第10段落
プラーラーダ・マハーラージャは、この状態において、あなたが物質主義に過度に関わっているとき、あなたはクリシュナ意識を培うことはできない、とおっしゃいます。したがって、人は幼い子供の頃からクリシュナ意識を実践すべきです。

もちろん、主チャイタンニャ・マハープラブはとても親切でいらっしゃるので、主はおっしゃいます。「遅くなったとしても、始めないよりは良いのです。あなたは子供の頃にクリシュナ意識を始める機会を逃しましたが、今、始めなさい。どの立場にいるとしても。」

それがチャイタンニャ・マハープラブの教えです。主は決して「あなたは子供の頃からクリシュナ意識を始めることをしなかったので、進歩することができません」とはおっしゃいませんでした。いいえ。主はとても親切でいらっしゃいます。

主は私たちにこのハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えるという、素晴らしい方法を下さいました。

あなたが若かろうが、年とっていようが、、、あなたが何であっても、ただ、始めなさい。あなたはいつ自分の人生が終わるか知りません。もしもあなたがたとえ一瞬でも誠実に唱えるなら、それは大いなる効果を持ちます。それはあなたを最も大きな危険、来世において動物になる危険から救います。
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by ammolitering4 | 2011-06-24 15:13 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第2章 途中から

第7段落
もしもあなたが、犬や鳥や獣に、840万種の生命に食べ物を与えていらっしゃるクリシュナに完全に依存するなら、なぜ主があなたに食べ物を与えられないことがあるでしょうか?この納得は、服従の兆候です。しかし私たちは、「クリシュナが私の食べ物を与えてくださるので、今、私は眠ろう」と考えるべきではありません。いいえ。あなたは働かねばなりません。しかし、怖れを伴わずに(そうせねばなりません)。

第8段落
さて、私たちの寿命を計算しましょう。この時代には、私たちは最長で100年生きられると言われています。かつて、サッチャ・ユガ、徳の時代には、人間は100万年生きていました。次の時代、トレター・ユガには、人々は1万年生きていました。

そして、(その)次のドヴァーパラ・ユガと呼ばれる時代には、人々は1000年生きていました。今、カリ・ユガと呼ばれるこの時代には、推定値は100年です。しかし徐々に、カリ・ユガが進行するにつれて、私たちの寿命はさらに短くなります。

これがいわゆる、私たちの現代の文明の進歩です。私たちは、自分たちはとても幸せで、自分たちの文明を改善している、と大変誇りに思っています。しかし、その結果は、私たちが物質的な人生を楽しもうとしているにも関わらず、私たちの寿命は短くなります。

第9段落
さて、人が100年生きるということを受け入れるとして、もしも彼が霊的な人生に関して何の情報も持たないなら、その半分は眠ることと性生活を送ることで夜に無駄にされます。それだけです。彼には他に何の興味もありません。そして昼間は、彼の関心事は何ですか?

「お金はどこだろうか?お金はどこだろうか?私はこの体を維持しなければならない。」そして彼がお金を持っているときは、「さあ、これを私の妻と子供たちのために使おう。」それでは、彼の霊的な領域はどこにありますか?

夜には、彼は自分の時間を眠ることと性にふけることに使います。そして昼間はお金を稼ぐために一生懸命働くことに時間を使います。それが彼の人生の使命ですか?そんな人生はなんとひどいことでしょうか!

第10段落
平均的な人は、軽薄な遊びをして、子供の時に幻惑されます。20年まで、あなたは容易にこうして続けられます。それから年をとると、さらに20年はあなたは何もできません。人が年をとると、彼の感覚は機能することができません。

あなたはたくさんの老人を見たことがあります。彼らには、休むほかにすることがありません。ちょうど今、私たちの過去の生徒の一人から、彼のおばあさんが麻痺状態になって過去3年半に渡って苦しんでいる、という手紙を私たちは受け取りました。

ですから、年をとったら、80歳になれば、直ちにすべてが終わります。したがって、最初から20歳まで、すべてが無駄になります。そして、たとえあなたが100年生きても、人生の最後の20年もまた、無駄になります。ですから、あなたの人生の40年はそうやって無駄にされます。

その間の年齢では(in the middle age、通常は「中年」を意味する)、とても強い性的な衝動があるので、さらに20年が無駄にされます。20年、20年、20年。60年が去ります。これがプラーラーダによる人生の分析です。私たちは、自分の人生をクリシュナ意識において発達するのに使うかわりに、それを無駄にしています。
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by ammolitering4 | 2011-06-22 23:06 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

第2章 途中まで

第2章 「私たちは自分たちの人生を無駄にしている!」

第1段落
したがって、物質的な幸せを増すために自分の感覚を刺激することに一生懸命になる代わりに、私たちはクリシュナ意識を実践することによって霊的な幸せを得ようとすべきです。プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。

「この人間の体におけるあなたの人生は一時的ではありますが、それは非常に価値があります。ですから、あなたの物質的な感覚の喜びを増そうとする代わりに、あなたの義務は自分の活動を何らかの形でクリシュナ意識に繋げることです。」

第2段落
私たちの、より高い知性は、この人間の体と共に来ます。私たちは、より高い意識を持っているので、人生におけるより高い楽しみ、すなわち霊的な楽しみを得ようとすべきです。そして、その霊的な楽しみはどうやって得られるでしょうか?人は解放の喜びを与えてくださる至高神に奉仕をすることに没頭すべきです。私たちは自分の注意を、この物質世界からの解放を与えてくださるクリシュナの蓮の御足を得ることに向けるべきです。

第3段落
しかし、私たちはこの人生で楽しんで、次の人生においてクリシュなへの奉仕にいそしむことはできないのでしょうか?プラーラーダ・マハーラージャはお答えになります。「今、私たちは物質的な世界でがんじがらめになっています。

今は私はこの体を持っていますが、すぐに(after a few years)この体を捨てて別の体を受け入れなければなりません。いったん、ある体を受け入れて、その体の感覚が指示するままに楽しむと、あなたはそのような感覚の喜びによって別の体を用意し、そしてあなたは自分の望むように別の体を得ます。」

あなたが人間の体を得るという保証はありません。それはあなたの行い(work)に基づいています。もしもあなたが半神のように振舞う(work)なら、あなたは半神の体を得ます。そしてもしもあなたが犬のように振舞う(work)なら、あなたは犬の体を得ます。死のときに、あなたの運命はあなたの手の中にはありません。

それは自然の手の中にあります。自分が次にどんな物質的な体を得るかと推量するのは私たちの義務ではありません。現時点では、単に、この人間の体は私たちの霊的な意識、私たちのクリシュナ意識を育むすばらしい機会であると機会であると理解しましょう。したがって、私たちは直ちにクリシュナへの奉仕にいそしむべきです。そうすれば私たちは進歩するでしょう。

第4段落
私たちは、どれくらい長くそうすべきでしょうか?この体が機能し続ける限りです。私たちは、いつそれが機能するのをやめるか分かりません。偉大な聖人パリークスィット・マハーラージャは、7日前に予告を受け取りました。「あなたの体は一週間で死にます(to fall)。」

しかし、私たちはいつ自分の体が死ぬか分かりません。路上にいるときはいつでも、急に事故が起こるかもしれません。私たちは常に準備をしておくべきです。死はいつもそこにあります。私たちは楽観的に「皆が死んでいるが、私は生き(続け)るだろう」と考えるべきではありません。皆が死んでいくとき、なぜあなたが生き(続け)るでしょうか?

あなたのおじいさんは死にました。あなたのひいおじいさんも死にました。あなたの他の親戚も死にました。なぜあなたが生き(続け)るでしょう?あなたもまた、死にます。そして、あなたの子供たちもまた、死にます。したがって、死が来る前に、私たちがこの人間の知性を持っている限り、クリシュナ意識にいそしみましょう。これがプラーラーダ・マハーラージャの教えです。

第5段落
私たちは、いつこの体が止まるか知りません。ですから、直ちにクリシュナ意識にたずさわり、それに応じた行いをしましょう。「しかし、もしも私が直ちにクリシュナ意識にたずさわるなら、私の生計の道はどうなりますか?」それも整えられています。

私は、私たちの支部の一つ(で修行している)一人の生徒の自信を喜んで皆さんに伝えます。(支部で)意見の相違がありました。別の生徒が言いました。「あなたはこの施設の維持の面倒をみていません。」すると彼は答えました。「おお、クリシュナが与えてくださいます。」

これは大変すばらしい納得(conviction、信頼)です。私はそれを聞いて嬉しく思いました。もしも猫や犬や豚が食べ物を得られるのなら、もしも私たちがクリシュナ意識で自分の奉仕を完全にクリシュナに捧げるなら、クリシュナが私たちの食べ物のための配剤をなさらないことがあるでしょうか?クリシュナには感謝の心がないのでしょうか?いいえ。

第6段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、主はおっしゃいます。「我が親愛なるアルジュナよ。私はすべての者に平等です。誰も私の妬みの対象ではなく、誰も私の特別な友人ではありません。しかし、私はクリシュナ意識にいそしむ者に特別な注意を与えます。」

小さな子供は完全に自分の両親の慈悲に依存しています。ですから、両親はその子供に特別な注意を払います。両親はすべての子供に平等に良くします(be good to)が、いつも「お母さん!」と叫んでいる(to cry、泣く)小さな子供には、彼らはより大きな関心を持っています。「はい、我が愛しい子よ?はい?(Yes, my dear child? Yes?)」これは自然です。

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続きは後で、と思いましたが、済んでるところまで載せておきます。さて、みなさん、これだけ読んで「そうか、じゃあ果報は寝て待とう」と安直に結論づけてはいけません。後からちゃんと「だから言って怠慢に寝て待ってはいけない」と釘をさされますので、あらかじめお知らせしておきます。ごきげんよう。
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by ammolitering4 | 2011-06-13 03:06 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)

プラーラーダ・マハーラージャの超越的な教え 第1章

お待たせしました。小さな本をお届けします。とりあえず第1章だけです。この本は6つの短い章から成っています。続きはカナダに帰ってきてからになると思います。
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プラーラーダ・マハーラージャの超越的な教え

以下の文章は、シュリーラ・プラブパーダが1968年に行ったシュリマッド・バーガヴァタム7巻6章に関する一連の法話に基づいています。

第1章 「最も愛しい人」

第1段落
今日、私はプラーラーダ・マハーラージャという名前の献身者の少年について語ります。彼は頑として無神論的な家庭に生まれました。この世界には2種類の人々がいます。悪魔(的な人)と半神(的な人)です。彼らの間の違いは何でしょうか?

主な違いは、半神、すなわち神のような人々は至高主に献身の念を持っており、他方、悪魔(的な人々)は無神論者である、ということです。彼らは物質主義者なので神を信じません。これらの2種類の階層の人々は、いつもこの世界に存在しています。

現在では、カリの時代(争いの時代)の影響で悪魔的な人々の数が増えていますが、区分は創造の初めから存在しています。私が皆さんに語る出来事は、遠い遠い昔、創造から2~300万年(訳注:原文はそのままa few million yearsですが、文字通りではないと思います)後に起こりました。

第2段落
プラーラーダ・マハーラージャは最も無神論的で最も物質的に強力な人物の息子でした(訳注:原文は文法に乱れあり)。社会が物質的だったので、この少年は至高主を讃える機会を全く持っていませんでした。偉大な魂の特徴は、彼が至高主の栄光を広く伝えることに大変熱心であるということです。例えば主イエス・キリストは神の栄光を広く伝えることに大変熱心でしたが、悪魔的な人々は彼を誤解して十字架にかけました。

第3段落
プラーラーダ・マハーラージャが5歳の少年だったとき、彼は学校に送られました。休み時間になって先生がいなくなると直ちに、彼は友人たちに言いました。「私の愛しい友人たちよ。さあ、クリシュナ意識について語りましょう。」この情景はシュリマッド・バーガヴァタム7巻6章に描写されています。献身者プラーラーダは言います。「私の愛しい友人たちよ。年若い今こそ、クリシュナ意識を実行するときです。」

第4段落
彼の幼い友人たちは答えます。「おお、今は遊びましょう。なぜクリシュナ意識を習慣づけるべきでしょうか?」

第5段落
これに答えてプラーラーダ・マハーラージャは言います。「もしもあなたが知性的なら、それならあなたは子供のときからバーガヴァタ・ダールマを始めなければなりません。」

第6段落
シュリマッド・バーガヴァタムは、バーガヴァタ・ダールマ、すなわち神に関する科学的な知識に繋がる方法を提供します。バーガヴァタは「至高の人格神」を意味し、そしてダールマは「規律的な原則」を意味します。この人間の形の人生は非常に稀です。それはすばらしい機会です。

したがって、プラーラーダはおっしゃいます。「私の愛しい友人たちよ。あなたがたは文明化された人間として生まれました。ですから、あなたがたの人間の体は一時的なものではありますが、それは最もすばらしい機会なのです。」誰も自分の人生の長さを知りません。

この時代には、人間の体は100年まで生きられると計算されています。しかし、カリの時代が進行するにつれて、寿命、記憶、慈悲、宗教性その他の価値あるものは減少します。ですから、この時代には誰も長い寿命を保証されていません。

第7段落
それでも、人間の形は一時的ではありますが、この人間の形でいる間に人は人生の最高の完成を達成することができます。その完成とは何でしょうか?あまねく存在する至高主を理解することです。他の形の生命体には、これは可能ではありません。

ゆっくりとした進化の過程を経て、私たちはこの人間の形に至りました。ですから、それは稀な機会です。自然の法則によって、人間の形は人が霊的な人生において自らを引き上げ、家へ、至高神のもとへ帰れるように、最終的に与えられるものです。


第8段落
人生の究極的な目的地は、ヴィシュヌ、すなわちクリシュナ、至高の人格神です。後の節において、プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「この物質世界の中の、物質的なエネルギーに引き付けられている人々は、人間の人生の目的地が何であるか知りません。

なぜでしょうか?彼らは主の光り輝く外的なエネルギーによって幻惑されているからです。彼らは、「人生は、完成の究極の目的地である、ヴィシュヌを理解するための機会である」ということを忘れています。」

なぜ私たちはヴィシュヌ、すなわち神を知ることに非常に熱心であるべきなのでしょうか?プラーラーダ・マハーラージャはその理由を与えられます。「ヴィシュヌは最も愛しい人です。それを私たちは忘れてしまっています。」私たちは皆、何らかの愛しい友人を求めます。誰もがそうやって探します。

男は女との親密な友情を探し求め、そして女は男との親密な友情を探し求めます。そうでなければ、男は男を探し求め、女は女を探し求めます。誰もが何らかの親しい友人を、何らかの愛しい友人を探し求めます。なぜでしょうか?

私たちは自分を助けてくれる親愛なる友人の協力が欲しい(からです)。これは存在のための苦闘の一部であり、これは自然なことです。しかし私たちは、自分たちの最も親愛なる友人はヴィシュヌ、至高の人格神であると知りません。

第9段落

バガヴァッド・ギーターを読んだことのある者は、第5章に次のような素晴らしい節を見出すでしょう。「もしもあなたが平和を求めるなら、それならあなたは、この世界と他の世界のすべてのものはクリシュナの所有物であり、主がすべてのものを楽しむ方であり、そして主がすべての者の至高の友人であることを完全に理解しなければなりません。」

なぜ禁欲を行うのですか?なぜ宗教的な儀式を行うのですか?なぜ慈善で施しをするのですか?これらのすべての活動は至高主を喜ばせるためにあり、他の何でもありません。そして至高主が喜ばれるとき、あなたは結果を得ます。

あなたがより高い物質的な幸せを得たいと望んでいようが、霊的な幸せを得たいと望んでいようが、あなたがこの惑星においてより良い人生を生きたいと望んでいようが、あるいは他の惑星でより良い人生を生きたいと望んでいようが、もしもあなたが至高主を喜ばせるなら、何であれあなたが望むものをあなたは得るでしょう。

したがって、主は最も誠実な友人です。何であれあなたが主から望むものを、あなたは得ることができます。しかし、知性的な人は物質的に汚染されたものは、何も望みません。

第10段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは、徳のある行いによって人は自分をブラーマロカとして知られる最高位の物質的な惑星に上げることができる、とおっしゃいます。そこでは、寿命は何百万年も何百万年もあります(訳注:第1段落のmillionと同様、文字通りの「百万年」ではない)。

あなたはそこでの寿命を計算することはできません。あなたの算術は非効果的です。バガヴァッド・ギーターにおける言明は、ブラーマーの人生は非常に長いので、私たちの43億2千万年が彼には12時間でしかない、というものです。クリシュナはおっしゃいます。

「アリに始まりブラーマーに至るまで、あなたが望むどんな立場も、あなたは得ることができます。しかし、誕生と死の繰り返しはそこにあります。しかし、もしもクリシュナ意識を実践することによってあなたが私のところに来るなら、そうすればあなたは、この惨めな物質的な状況に戻ってくる必要はありません。」

第11段落
プラーラーダ・マハーラージャも、私たちは自分たちの最も愛しい友人、クリシュナ、至高神を探し求めるべきである、と、同じことをおっしゃいます。なぜ主は私たちの最も愛しい友人なのですか?本質的に(by nature)、主は愛すべき方です。さて、あなたは何を最も愛しいものと考えますか?あなたは分析したことがありますか?

あなた自身が最も愛しいものです。私はここに座っていますが、もしも火災報知機が鳴れば、私は直ちに自分の面倒をみます。「私はどうやって自分自身を救うことができるだろうか?」私たちは自分たちの友人と、そして親族さえも忘れます。「何よりもまず、自分を救おう。」自己防衛は自然の第一の法則です。

第12段落
最も肉体的な(gross)意味では、アートマー、「自己」という言葉は、体を指します。より繊細な領域では、心、あるいは知性がアートマーであり、そして本当の意味ではアートマーは魂を指します。肉体的な段階では、私たちは体を守って満足させることを大変好みます。

そして、より繊細な段階では、私たちは心と知性を満足させることを大変好みます。しかし、心理的、および知性的な水準を超えたところ、霊化された環境では(where the atmosphere is spiritualized)、私たちは「私はこの心、知性、あるいは体ではない。アハム・ブラーマースミ、私は霊、至高主の欠かすべからざる小片である」と理解することができます。それが本当の理解の水準です。

第13段落
プラーラーダ・マハーラージャは、すべての生命体にとってヴィシュヌは究極の「幸せを願う者」である、とおっしゃいます。したがって、私たちは皆、主を探し求めています。子供が泣くとき、彼は何を求めていますか?母親です。しかし、彼はこれを表現する言葉を持ちません。

もともと(by nature)、彼は自分の母親の体から生まれた体を持っています。ですから、母親の体との間に親密な関係があります。子供は他のどの女性も好みません。子供が泣きます。しかし、その子の母親である女性が来て彼を抱き上げると、直ちに彼は慰められます。

彼はこれらすべてを表現する言葉を持ちませんが、彼の自分の母親との関係は自然の法則です。同様に、本来的に(by nature)私たちは体を守ろうとします。これは自己防衛です。それは生命体の自然の法則です。ちょうど、食べることが自然の法則であり、眠ることも自然の法則であるようなものです。なぜ私は体を守るのですか?なぜなら、体の中に魂があるからです。

第14段落
この魂とは何ですか?魂は至高主の一部です。私たちが体全体の一部である手や指を守りたいと思うように、同様に私たちは自分たちを救おうとします。なぜなら、これが至高存在の防衛方法だからです。至高存在は防衛を必要としません。

しかしこれは、今では歪められている、私たちの主への愛の顕現なのです。指と手は、体全体の利益のために働くことになっています。私が手に「ここに来て欲しい」と思えば、すぐにそれは来ます。そして私が指に「ドラムを叩いて欲しい」と望めば、それは叩きます。これが自然な立場です。

同様に、私たちは自分のエネルギーを至高存在への奉仕につなげるために、神を探し求めています。しかし、幻想エネルギーの魔力の下にあって、私たちはそれを知りません。それが私たちの誤りです。今、人間の人生において、私たちは自分の本当の立場を理解する機会を持っています。

人間であればこそ、あなたがたは皆、クリシュナ意識について、あなたがたの人生の本当の目的地について学ぶために、ここに来ました。私は猫や犬をここに来て座るように招くことはできません。それが人間と猫や犬の違いです。人間は人生の本当の目的を追求する必要性を理解することができます。しかし、もしも彼がその機会を失うなら、それは大変な不幸です。

第15段落
プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「神はすべての中で最も愛しい人(personality)です。私たちは神を探し求めなければなりません。」それでは、人生の物質的な必要性についてはどうでしょうか?プラーラーダ・マハーラージャはお答えになります。

「あなたは感覚の満足を求めています。しかし、感覚の満足はこの体との接触によって自動的に得られます。」豚は(豚という)特定の種類の体を持っているので、彼の感覚の満足は、あなたにとって最も不快であるものそのものである、糞を食べることによって得られます。排泄したあと、直ちに、あなたは悪臭から逃れるために立ち去らねばなりません。

しかし豚は待っています。あなたが排泄すれば直ちに、彼は楽しみます。ですから、異なる体の種類に応じて、異なる種類の感覚の満足があります。物質の体を持っている者は誰でも、感覚の満足を受け取ります。糞を食べている豚は不幸だと思ってはなりません。いいえ、彼はそうやって太っているのです。彼らは大変幸せです。

第16段落
もう一つの例はラクダです。ラクダはトゲのある小枝を非常に好みます。なぜでしょうか?なぜなら、彼がトゲのある小枝を食べるとき、小枝が彼の舌を切り、血がにじみ出て、そして彼は自分の血を味わいます。そして彼は「私は楽しんでいる」と考えるのです。これが感覚の満足です。性生活もそのようなものです。私たちは自分自身の血を味わい、そして自分は楽しんでいると考えるのです。これは私たちの愚かさです。

第17段落
この物質世界の生命体は霊的な存在ですが、楽しむ傾向、物質エネルギーを搾取する傾向があるので、彼は体と物理的に接触しました(contacted)。840万種の生命体が存在し、それぞれに異なる体を持っています。そして体に応じて彼らは特定の喜びを楽しむための特定の感覚を持っています。

例えば、あなたがトゲのある小枝を食べ物として供されたとしましょう。「紳士淑女の皆さん、ここに非常においしい食べ物があります。ラクダが太鼓判を押します。とてもおいしいです。」あなたは食べたいですか?「いいえ!あなたは私に何というゲテモノ(nonsense)を供しているのですか?」

あなたはラクダとは違う体を持っているので、あなたはトゲのある小枝を好みません。しかし、もしもあなたがそれをラクダに与えるなら、彼はとてもすばらしい食事だと思うのです。

第18段落
さて、もしも豚やラクダが大した苦労もなく感覚の満足を味わえるなら、なぜ私たち人間がそうできないことがあるでしょうか?私たちにはできます。しかし、それは私たちの究極の達成ではありません。豚であれ、ラクダであれ、人間であれ、感覚の満足を楽しむための設備は自然によって与えられています。

ですから、なぜあなたは、自然の法則によってどちらにしても得られるように運命付けられている設備を求めて苦労すべきでしょうか?すべての形の生命において、身体的な欲求は自然の配剤によって満たされます。この満足は配剤されています。ちょうど苦しみへの配剤があるようなものです。

あなたは発熱が好きですか?いいえ。なぜそれは(あなたのもとに)訪れるのですか?分かりません。しかし、それは訪れるのではありませんか?はい。あなたはそれを得ようとしましたか?いいえ。ではどうしてそれが訪れるのでしょうか?自然によってです。それが唯一の答えです。そして、もしもあなたの悲惨さが自然によって訪れるなら、あなたの幸せもまた、自然によって訪れます。

それについて気にしてはいけません(Don't bother about it.)。それがプラーラーダ・マハーラージャの教えです。もしもあなたが努力なくして人生の悲惨さを受け取るなら、あなたは同様に努力なくして幸せを得ます。

第19段落
それなら、人間の形の人生の本当の目的は何でしょうか?クリシュナ意識を培うことです。他の物事は、究極的には神の法則である自然の法則によって得られます。たとえ私が努力しなくても、私の過去の行い(works)と私の特定の種類の体のため、私は得られることになっているものを、何であれ与えられます。したがって、あなたの本当の関心事は、人間の人生のより高い目的地を探し求めることであるべきです。
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by ammolitering4 | 2011-06-12 12:42 | プラーラーダ・マハーラージャ | Comments(0)