カテゴリ:「教えの甘露」( 16 )

第11課

第11課

(サンスクリット原文)

(翻訳)

多くの好ましい喜びの対象とすべての愛すべきヴラジャブーミの高貴な娘たちの中で、シュリーマティー・ラーダーラーニーは確かにクリシュナの愛の最も大切な対象です。そして、あらゆる意味で、彼女の神聖なるクンダは、主にとって同じく愛しいと偉大な聖人たちによって描写されています。疑いようもなく、偉大な献身者によってさえも、ラーダー・クンダには滅多に到達することができません。したがって、普通の献身者にとっては到達するのはなおのこと困難です。もしもその聖なる水で単に一度沐浴するなら、人のクリシュナへの純粋な愛は完全に目覚めます。

(解説)
第1段落

なぜラーダー・クンダはそれほど崇高なのでしょうか?その湖は、シュリー・クリシュナの最も愛するシュリーマティー・ラーダーラーニーのものだから、それほど崇高なのです。すべてのゴピーたちの中で、彼女が最愛の方です。同様に、彼女の湖、シュリー・ラーダー・クンダもまた、偉大な聖人たちによって、クリシュナにとってラーダー自身と同じほど愛しい湖であると描写されています。

実に、クリシュナのラーダー・クンダへの愛とシュリーマティー・ラーダーラーニーへの愛は、あらゆる面で同じなのです。ラーダー・クンダは、完全に献身奉仕にいそしむ偉大な人格によってさえも、滅多に到達できません。単にヴァイディー・バークティの修練をしているにすぎない普通の献身者にとってはなおさらです。

第2段落

もしもラーダー・クンダで一度沐浴をすれば、ゴピーたちの影響を受けて(in the wake of the gopis)献身者は直ちにクリシュナへの純粋な愛を目覚めさせる(to develop)ことができる、と書かれています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、たとえラーダー・クンダの岸辺に生涯住むことができなくても、人は少なくともできるだけ何度もその湖で沐浴をすべきだ、と助言なさいます。

これは、献身奉仕をするうえで最も大切な事柄です。シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、このことに関して、シュリーマティー・ラーダーラーニーの女友達(サキー)と腹心の侍女たち(マンジャリー)の影響を受けて献身奉仕において進歩することに興味のある者にとって、シュリー・ラーダー・クンダは選り抜かれた場所である、と書いていらっしゃいます。

霊的な体(スィッダー・デハ)を得て、超越的な神の王国、ゴロカ・ヴリンダーヴァンへと帰宅することに熱心な生命体は、ラーダー・クンダに住み、シュリー・ラーダーの腹心の侍女たちの庇護を受け、彼女たちの指導の下で常にシュリーマティー・ラーダーラーニーへの奉仕に携わるべきです。これがシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの庇護の下で献身奉仕に携わる者にとって最も崇高な方法です。

このことに関して、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、ナーラダやサナカなどの偉大な聖人たちや偉大な献身者たちでさえ、ラーダー・クンダに来て沐浴する機会が得られない、と書いてあります。それでは、普通の献身者については言うまでもありません。もしも、大変な幸運によって人がラーダー・クンダに来て一度でも沐浴する機会があるなら、彼はちょうどゴピーたちがしたように、クリシュナへの超越的な愛を目覚めさせることができます。

また、ラーダー・クンダの岸辺に住んで主への愛情ある奉仕に没頭すべきであるとも勧められています。人はそこで定期的に沐浴し、シュリー・ラーダーと彼女の手助けをするゴピーたちの庇護を受けて、すべての物質的な概念を放棄すべきです。もしも生きている間に常にこのようにするなら、体を放棄したあと、人は生きていた間にラーダー・クンダの岸辺で夢見た(to contemplate、問題や計画などを熟考する、熟視する、意図する)のと同じように、シュリー・ラーダーに奉仕するために至高神のもとへ戻ります。

結論は、ラーダー・クンダの岸辺に住むこととそこで毎日沐浴をすることは、献身奉仕の最高の完成であるということです。それはナーラダのような偉大な聖人や献身者にとってさえ到達するのが難しい立場です。このように、シュリー・ラーダー・クンダの栄光には限りがありません。ラーダー・クンダに奉仕をすることにとって、人はゴピーたちの永遠の指導の下でシュリーマティー・ラーダーラーニーの手助けをする者になる機会を得ることができます。

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お待たせしました。これで全部です。小さな本ですが、内容が濃くて素晴らしい本だなと思いました。教えの通りに実行するのはなかなか難しいですが、少しずつでも前進し続けたいものですね。この後は、またしばらくお休みするかもしれません。例によって気長にお待ちください。
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by ammolitering4 | 2009-12-11 11:33 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第10課

第10課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
シャーストラには、結果を求めて働く様々な種類の者のうち、人生のより高い価値観に関する知識(knowledge of the higher value of life)において発達している者は至高主ハリの恩寵を受ける(be favored by)と書かれています。多くのそのような人々のうち、高度な知識を持ったもの(ジニャーニー)、自分の知識の力によって事実上解放されている者が、献身奉仕を習慣づけるかもしれません。彼は他の者たちよりも優れています。

しかし、実際にプレマ、すなわちクリシュナへの純粋な愛に至った者は、彼より優れています。ゴピーたちはすべての高度に発達した献身者たちよりも崇高です。彼女らはいつも完全にシュリー・クリシュナ、超越的な牛飼いの少年に依存しているからです。ゴピーたちの中で、シュリーマティー・ラーダーラーニーはクリシュナにとって最も愛しい方です。

彼女のクンダ(湖)は、主クリシュナにとって、このゴピーたちの中で最も愛しい方と同じくらい大切なものです。それでは、誰がラーダー・クンダに住まないというのでしょうか?そして、彼らの永遠の八重の毎日の娯楽、アシュタカーリーヤ・リーラーにいそしむ聖なる恋人たち、シュリー・シュリー・ラーダー・ゴヴィンダに、恍惚的な献身の感情(アプラークリタ・バーヴァ)に過充電された霊的な体で愛情ある奉仕を捧げない者は誰でしょうか?実に、ラーダー・クンダの岸辺で献身奉仕を遂行する者は、宇宙の中で最も幸運な人々です。

(解説)
第1段落

現在では、ほとんどすべての人が何らかの結果を求める活動にいそしんでいます。働くことで物質的な利益を得ることを望む者は、カルミー、すなわち結果を求めて働く者、と呼ばれます。この物質世界の中のすべての生命体は、マーヤーの魔力の下に入っています。これはヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)に描写されています。

(サンスクリット引用)

聖人たちは、至高の人格神のエネルギーを三つに分類しました。霊的エネルギー、境界(marginal)エネルギー、および物質エネルギーです。物質エネルギーは、三流のエネルギー(トリティーヤー・シャクティー)であると考えられています。物質エネルギーの支配権の中にいる生命体は、時として感覚の満足のために犬や豚のように一生懸命に働きます。

しかし、この生において、あるいは敬虔な活動を行った後で、次の生において、一部のカルミーはヴェーダに記された様々な種類の犠牲を行うことに強く魅了されます。こうして、自分たちの敬虔な功績の力のお陰で、彼らは天国的な惑星に昇格されます。実際、ヴェーダの指示に従って厳密に犠牲を行う者は、月や月より上位の惑星に昇格されます。

バガヴァッド・ギーター(9.21)には次のように書かれています。(サンスクリット引用)自分たちのいわゆる敬虔な行いの結果を消費したあと、彼らは再マルテャ・ロカ、すなわち死の場所と呼ばれる地球に戻ります。そのような人々は、自分たちの敬虔な行いによって天国的な惑星に昇格されるかもしれず、そこで何千年もの命を楽しむかもしれませんが、彼らは自分たちの敬虔な行いの結果が消費されたときには、どちらにしてもこの惑星に戻らねばなりません。

第2段落

これが敬虔に振舞う者も非敬虔に振舞う者も含めた、すべてのカルミーの立場です。この惑星では、単に物質的な幸せだけに興味のある多くのビジネスマンや政治家や他の人たちを私たちは見ることができます。彼らは、自分のとる方法が敬虔であるか非敬虔であるかを考慮せず、あらゆる方法でお金を稼ごうとします。そのような人々は、カルミー、すなわち甚だしい物質主義者と呼ばれます。

カルミーの中の一部は、ヴェーダの知識という指針無しに行動するヴィカルミーです。ヴェーダの知識に基づいて行動する者は、主ヴィシュヌの満足のために、そして主から恩恵をこうむるために、犠牲を行います。このようにして、彼らはより高い天体系に昇格されます。そのようなカルミーはヴィカルミーより優れています。彼らはヴェーダの指示に忠実であり、確かにクリシュナにとって愛しいからです。

バガヴァッド・ギーター(4.11)において、クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「どのような方法であれ私に服従する者には、私は相応に報いを与えます。」クリシュナはとても親切なので、主はカルミーとジニャーニーの望みを叶えられました。バークタについては、言うまでもありません。時として、カルミーはより高い天体系に昇格されますが、結果を求める活動に執着している限り、彼らは死の後で新しい物質的な体を受け入れなければなりません。

もしも敬虔に振舞うなら、人はより高い天体系において半神たちの間で新しいからだを得ることができます。あるいは、より高い水準の物質的な幸福を楽しむことのできる何か別の立場を得るかもしれません。一方で、非敬虔な行いにたずさわる者は、降格されて動物や木や草(plants)として生を受けます。このため、ヴェーダの指示を軽んじる者(ヴィカルミー)たちは、学識ある聖人的な人々によって高く評価されません(to appreciate)。シュリマッド・バーガヴァタム(5.5.4)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「単に感覚の満足のために犬や豚のように働く物質主義者は、本当は狂っています。彼らは単に感覚の満足のためだけに様々な忌まわしい行いをします。物質主義的な行いは、全く知性的な者にふさわしいものではありません。そのような行いの結果として、人は悲惨さに満ちた物質的な体を得るからです。」

人間の人生の目的は、物質的な存在に付随する三重の悲惨な状態から抜け出すことです。不幸にして、結果を求めて働く者たちは、あらゆる方法でお金を稼いで一時的な物質的な快適さを得ることに必死です。したがって、彼らはより低い種類の生命に降格される危険を冒します。物質主義者たちは、愚かにもこの物質世界で幸せになるために多くの計画を立てます。

彼らは、自分がある一定の期間を生きるだけに過ぎず、そのうちの大部分を感覚の満足のためにお金を稼ぐことに使わねばならないのだということを、立ち止まって考えません。究極的には、そのような活動は死に終わります。物質主義者たちは、体を放棄した後で自分たちが低位の動物や草や木の体に入れられるかもしれないということを考えません。

こうして、彼らの行いのすべては人生の目的を無にします。(defeats the purpose of life、「こうした行いによって、人生の目的が果たせない結果となる」)彼らは無明の中に生まれたばかりでなく、高層ビルや大きな車や高い地位などの形で物質的な利益を得ていると考え、無明の水準で行動します。物質主義者たちは、次の生で自分たちが降格され、自分たちのすべての行いは単にパラーバータ、すなわち自らの敗北としかならないということを知りません。これがシュリマッド・バーガヴァタム(5.5.5)の判断です。(サンスクリット引用)

第3段落

したがって、人は魂の科学(アータマ・タットヴァ)を理解することに熱心であるべきです。魂が自己であって、体は自己ではない、ということを理解できるアートマ・タットヴァの水準に至らない限り、人は無明の水準に留まります。何千もの、そして何百万もの、単に自分の感覚を満足させるために時間を無駄にしている人々の中で、一人が知識の水準に至って人生のより高い価値を理解するかもしれません。

そのような人はジニャーニーと呼ばれます。ジニャーニーは、結果を求める行いは自分を物質的な存在に縛りつけ、一つの体から別の体へと転生する原因になる、ということを知っています。シュリマッド・バーガヴァタムにシャリーラ・バンダー(物質的な存在への呪縛)という言葉で示されているように、何らかの感覚的な楽しみの概念を維持している限り、人の心はカルマ、すなわち結果を求める活動に没頭していて、これは彼が一つの体から別の体へと転生することを余儀なくさせる原因となります。

第4段落

したがって、ジニャーニーはカルミーより優れていると考えられます。彼は少なくとも感覚の喜びの盲目的な活動を慎むからです。これが至高の人格神の判断です。しかし、ジニャーニーはカルミーの無明からは解放されているかもしれませんが、献身奉仕の水準に至らない限り、彼はまだ無明(アヴィデャー)の中にあると考えられます。

人は、ジニャーニー、すなわち知識において発達しているとして受け入れられるかもしれませんが、彼の知識は不純であると考えられます。彼は献身奉仕について何の情報も持たず、したがって至高の人格神の蓮の御足を崇拝することを怠るからです。

第5段落

ジニャーニーが献身奉仕を習慣づけるとき、彼は急速に普通のジニャーニーよりも優れた者になります。そのような発達した人は(サンスクリット引用)と描写されます。ジニャーニーがいかにして献身奉仕を習慣づけるかについて、クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.19)でおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「多くの生と死のあと、本当に知識のある者は私がすべての原因の原因であって存在のすべてであると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常にまれです。」実際、クリシュナの蓮の御足に服従するとき、人は賢明なのです。しかし、そのようなマハートマー、すなわち偉大な魂はほとんどいません。

第6段落

規律的な原則の下で献身奉仕を習慣づけたあと、人はナーラダやサナカやサナータナなどの偉大な献身者の足跡を辿って、至高神への自然発生的な愛という水準に至るかもしれません。そうすれば、至高の人格神は、彼をより優れた者であるとして認識なさいます。至高神への愛を育んだ献身者は、確かに崇高な地位にあります。

第7段落

これらすべての献身者のうち、ゴピーはより優れているとして認識されています。彼女らはクリシュナを満足させることの他は何も知らないからです。ゴピーたちはクリシュナから何の見返りも期待していません。実際、クリシュナは時としてご自身を彼女らから引き離すことによって、彼女らに極度の苦しみをお与えになります。

クリシュナがマトゥーラーに行くためにヴリンダーヴァンを去ったとき、ゴピーたちはこの上なく気落ちして、残りの人生を単にクリシュナからの別離を嘆いて泣き暮らしました。これは、ある意味では彼女らが決して実際にはクリシュナから離れていなかったことを意味します。クリシュナのことを考えることとクリシュナと関わることの間には、何の違いもありません。

むしろ、ヴァプララムバー・セヴァー(サンスクリット)、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがなさったような、別離においてクリシュナのことを考えることは、クリシュナに直接奉仕するよりもはるかに優れているのです。このため、クリシュナへの純粋な献身的な愛を育んだすべての献身者の中で、ゴピーたちは最も崇高です。

そして、これらすべての崇高なゴピーたちの中で、シュリーマティー・ラーダーラーニーは最も高度です。シュリーマティー・ラーダーラーニーの献身奉仕をしのぐことのできる者はいません。実に、クリシュナでさえシュリーマティー・ラーダーラーニーの感じ方を理解することができません。したがって、単に彼女の超越的な気持ちを理解するために、主は彼女の立場に立って、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブとしてお現れになりました。

第8段落

このようにして、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、シュリーマティー・ラーダーラーニーがクリシュナの最も崇高な献身者であって、彼女のクンダ(湖)、シュリー・ラーダー・クンダが最も崇高な場所である、と、徐々に結論づけられます。これはチャイタンニャ・チャリタムリタの中にラグーバーガヴァタームリタ(ウッタラ・カーンダ45)から引用されている節において確証されています。

(サンスクリット引用)

「ちょうどシュリーマティー・ラーダーラーニーが至高主クリシュナ(ヴィシュヌ)にとって愛しいように、彼女の沐浴の場(ラーダー・クンダ)もクリシュナにとって等しく愛しいものです。すべてのゴピーの中で、彼女たけが主の最も愛する方として至高の存在です。(She alone stands supreme、to standは状態を表す)

第9段落

したがって、クリシュナ意識に興味のある者は誰でも、究極的にはラーダー・クンダの庇護を受け、そこで生涯を通して献身奉仕を遂行すべきです。これがウパデシャームリタの10節におけるルーパ・ゴスヴァーミーの結論です。
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by ammolitering4 | 2009-12-11 10:29 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第9課

第9課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
マトゥーラーとして知られる聖地は、超越的な世界であるヴァイクンターに優ります。主がそこにお現れになったからです。マトゥーラー・プリーよりも優れているのは、ヴリンダーヴァンの超越的な森です。クリシュナのラーサ・リーラーの娯楽のためです。そして、ヴリンダーヴァンの森よりも優れているのは、ゴヴァルダーナの丘です。それはシュリー・クリシュナの聖なる手によって持ち上げられたからであり、そこは主の様々な愛情ある娯楽の場だったからです。

そして、極めて素晴らしいシュリー・ラーダー・クンダは至高です(super-excellent S.R.K. stands supreme; to standは状態や位置づけを表す)。それはゴクラの主シュリー・クリシュナへの、天上のかぐわしい蜜のような純粋な愛(ambrosial nectarean prema、普通はnectareousと綴る。ambrosialは、天上の神々にふさわしいような、という意味。プレマはサンスクリット)で溢れているからです。それでは、ゴヴァルダーナの丘の麓にあるこの神聖なるラーダー・クンダに奉仕をする気のない知性的な人はどこにいるでしょう?

(解説)

霊的な世界は、至高の人格神の創造全体の中の4分の3を占めます。そして、それは最も崇高な場所です。霊的な世界は、もともと(naturally)物質世界より優れたところです。しかし、マトゥーラーおよび、その隣接する地域は、物質世界に現れているにも関わらず、霊的な世界よりも優れていると考えられています。至高の人格神ご自身がマトゥーラーにお現れになったからです。

ヴリンダーヴァンの奥地(interior)の森は、マトゥーラーよりも優れていると考えられています。主の様々な娯楽で知られるターラヴァン、マドゥーヴァン、そしてバフラーヴァンなどの12の森(ドヴァーダーシャヴァン)が存在するからです。このように、ヴリンダーヴァンの奥地の森はマトゥーラーより優れていると考えられていますが、これらの森よりも優れているのはゴヴァルダーナの丘です。

怒った半神たちの王インドラによって送られた豪雨からご自分の仲間たち、ヴラジャの高貴な娘たちを守るために、クリシュナがご自分の蓮のような美しい手でゴヴァルダーナの丘を持ち上げ、傘のようにかざしていらしたからです。(訳注:怒っていたのはインドラなので、「半神たちの王インドラが怒って送りつけた豪雨」のほうが分かりやすいかもしれません。)

クリシュナがご自分の牛飼いの友人たちと共に牛の世話をするのもゴヴァルダーナの丘です。そしてまた、主はそこでご自分の最も愛するシュリー・ラーダーと密会し、彼女と愛情ある娯楽を楽しまれました。ゴヴァルダーナの麓にあるラーダー・クンダは、これらのすべてにもまして優れています。クリシュナへの愛が溢れ出るのはそこだからです。発達した献身者はラーダー・クンダに住むことを望みます(to prefer、できることなら~したい、と思う)。この場所はクリシュナとラーダーの間の永遠の愛情ある交換の思い出の場所だからです。(ラティ・ヴィラーサ)

第2段落

チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー・リーラー)には、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブが最初にヴラジャブーミの地域を訪れたとき、主は最初はラーダークンダの場所を見つけられなかった、と書かれています。これは、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブはラーダー・クンダの正確な位置を実際に探していらしたということを意味します。ついに主は聖なる場所を発見なさいました。そしてそこには小さな池がありました。

主はその小さな池で沐浴をなさり、ご自分の献身者たちに、本当のラーダー・クンダがそこに位置しているとおっしゃいました。後に、その池はルーパやラグーナーター・ダーサなどの6人のゴスヴァーミーたちに率いられた主チャイタンニャの献身者たちによって掘り広げられました。現在は、そこにはラーダー・クンダとして知られる大きな湖があります。

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはラーダー・クンダの重要性を大いに強調なさいました。それを見つけたいというシュリー・チャイタンニャの願望のためです。それでは、誰がラーダー・クンダを放棄して他に住もうとするでしょうか?超越的な知性を持つ者は、誰もそんなことはしません。

しかし、ラーダー・クンダの重要性は他のヴァイシュナヴァ・サムプラダーヤによっては理解され得ません。主チャイタンニャ・マハープラブへの奉仕に興味のない者も、ラーダー・クンダの霊的な重要性と神聖な性質を理解することはできません。このため、ラーダー・クンダは主に主チャイタンニャ・マハープラブの信者(followers)であるゴーディヤ・ヴァイシュナヴァによって崇拝されています。
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by ammolitering4 | 2009-12-10 23:18 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第8課

第8課

(サンスクリット原文)

(翻訳)

すべての助言の要点は、人は自分の時間のすべて、つまり一日24時間を、主の聖なる御名を入念に(nicely)に唱え、主の超越的な形、性質、および永遠の娯楽を思い出して、それによって徐々に自分の舌と心を(それらの活動に)携わらせることに使うべきだ、ということです。このようにして、人はヴラジャ(ゴロカ・ヴリンダーヴァン・ダーマ)に住んで、献身者の指導の下でクリシュナに仕えるべきです。人は、主への献身奉仕に深く執着している、主の愛する献身者たちの足跡を辿るべきです。

(解説)
第1段落

心は人の敵であるかもしれず、友であるかもしれないので、人は自分の友となるように心を訓練しなければなりません。クリシュナ意識運動は、心がいつもクリシュナの仕事に携わっているように訓練することを特に目的としています。心は、今の生だけでなく過去の非常に多くの生の無数の記憶を含んでいます。これらの記憶は、時として互いに触れて、矛盾する状況(picture、心像、心象風景、映像、状況など)を作り出します。

このように、心の機能は制約された魂にとって危険になり得ます。心理学を学ぶ者(students of psychology、この場合は生徒や学生ではなく、学徒)は、心の様々な心理学的な変化に気づいています。バガヴァッド・ギーター(8.6)には、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

「何であれ自分の体を去るときに覚えている状態(state of being)を、人は間違いなく得ます。」

第2段落

死のときには、生命体の心と知性は、次の生のための特定の種類の体の、密度の薄い形を作り出します。もしも心が突然あまり適切でない何かのことを考えれば、人は次の生でそれに応じた生を受けねばなりません。一方で、もしも死のときにクリシュナのことを考えることができれば、人は霊的な世界、ゴロカ・ヴリンダーヴァンに移され得ます。この転生の過程はとてもかすかなものです。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは献身者たちに、クリシュナ以外の何物をも覚えていることができなくなるように自分の心を訓練するよう、助言なさいます。

同様に、舌はクリシュナのことだけを話してクリシュナ・プラサーダだけを味わうように訓練されなければなりません。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、さらに助言なさいます。(サンスクリット引用)人は、ヴリンダーヴァン、あるいはヴラジャブーミのどこかに住むべきです。ヴラジャブーミ、すなわちヴリンダーヴァンの地は、地域にして84クロシャであるとされています。1クロシャは2平方マイル(訳注:約5.12平方キロメートル)にあたります。人がヴリンダーヴァンを自分の住まいとするときは、彼はその地の高度に発達した献身者の庇護を受けるべきです。

このようにして、人はいつもクリシュナと主の娯楽について考えるべきです。これはシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって自著バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.294)の中でさらに説明されています。

(サンスクリット引用)

「献身者は、いつもヴラジャの超越的な王国に住み、いつも(サンスクリット引用)シュリー・クリシュナと主の愛しい仲間たち(associates)を思い出すことに携わるべきです。そのような仲間たちの足跡を辿ることによって、そして彼らの永遠の指導の下に入ることによって、人は至高の人格神に奉仕する強い欲求を得ることができます。」

第3段落

再び、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.295)の中で述べられます。

(サンスクリット引用)

「ヴラジャの超越的な王国(ヴラジャ・ダーマ)の中で、人は至高主シュリー・クリシュナの仲間たちのそれに似た気持ちで主に奉仕すべきです。そして人はクリシュナの特定の仲間の直接の指導の下に身を置き、その人の足跡を辿るべきです。この方法は、サーダーナ(呪縛された段階にいる間の霊的な修練)の段階においても、また、人がスィッダー・プルシャ、すなわち霊的に完璧な魂である、サーデャー(神認識)の段階においても当てはまります。

第4段落

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、この節に関して次のように解説なさいました。(訳注:以下、第8課の最後まで引用が続きます)「まだクリシュナ意識への関心を発展させていない者は、クリシュナの御名を唱え、主とその形、性質、娯楽などを覚えていること、という進歩的で(progressive、段階的な?)規制的な原則に従うことによって、すべての物質的な動機を放棄して自分の心を訓練すべきです。

こうやって、そのような事柄への好みを発達させたあと、人はヴリンダーヴァンに住んで高度の発達した献身者の指導と庇護の下で、常にクリシュナの御名と名声と娯楽と性質を思い出しながら時間を過ごそうとすべきです。これが献身奉仕を培うことに関するすべての教えの要点(sum and substance)です。

第5段落

初心者の段階では、人はいつもクリシュナ・カターを聞くことに携わるべきです。これはシュラヴァナ・ダシャー、聞く段階と呼ばれます。常にクリシュナの超越的な聖名を聞くことと、主の超越的な形、性質、および娯楽について聞くことによって、人はヴァラナ・ダサーと呼ばれる受容の段階に至ることができます。この段階に至ると、人はクリシュナ・カターを聞くことに執着するようになります。恍惚の中で唱名をすることができるようになると、人はスマラナーヴァスター、思い出している(remembering)段階に至ります。

回想(recollection)、没頭(absorption)、瞑想(meditation)、いつも思い出していること(constant remembering)、そして恍惚状態(trance)は、進歩的な(progressive、段階を追った?)クリシュナ・スマラナの5つの項目です。(訳注:第4段落にも出てきますが、この場合の「進歩的」というのは、段階を追って進歩・発展・向上するような、という意味であって、進取の気性に富んでいるという意味ではありません。ただ、日本語では何というのが適切か分かりません。)

始めは、クリシュナを思い出していることは時折中断されるかもしれませんが、それはやがて中断されないようになっていきます。中断されずに思い出していると、それは濃縮されて、瞑想と言われる状態になります。瞑想が拡大して永続的になると、それはアヌスムリティと呼ばれます。中断せず、消えることのないアヌスムリティによって、人はサマーディ、すなわち霊的な恍惚状態の段階に至ります。

スマラナ・ダーサ、すなわちサマーディが完全に発達したあと、魂は自分の本来の立場を理解するようになります。そのときに彼は自分のクリシュナとの永遠の関係を完全に、そして明瞭に理解することができます。それはサムパッティ・ダシャー、すなわち人生の完成と呼ばれます。

第6段落

チャイタンニャ・チャリタムリタは初心者に、あらゆる動機のある欲望を放棄して、単に聖典の指示に従って主への規律的な献身奉仕に携わるように助言しています。こうすることで、初心者は徐々にクリシュナの御名、名声、形、性質などへの執着を発達させることができます。そのような執着を発達させたとき、人は規制的な原則に従わずとも自然発生的にクリシュナの蓮の御足に奉仕することができます。

この段階は、ラーガ・バークティ、すなわち自然発生的な愛による献身奉仕と呼ばれます。その段階において、献身者はヴリンダーヴァンにいるクリシュナの永遠の仲間たちの一人の足跡を辿ることができます。これはラーガーヌガ・バークティと呼ばれます。

ラーガーヌガ・バークティ、すなわち自然発生的な献身奉仕は、人がクリシュナの牛やクリシュナの手の中の棒や笛や、クリシュナの首の周りの花のようになりたいと望むとき、シャンタ・ラサにおいて遂行され得ます。ダーシャ・ラサにおいては、人はチトラカ、パトラカ、あるいはラクタカのような従者の足跡を辿ります。友情のこもった(friendly、この場合は「友好的な」という意味ではなく「友人としての」というような意味)サキャー・ラサにおいては、人はバラデヴァ、シリーダーマー、あるいはスダーマーのような友人になることができます。

親のような感情を特徴とするヴァーツァリヤ・ラサにおいては、人はナンダ・マハーラージャやヤショダーのようになることができます。そして夫婦間の愛を特徴とするマードゥーリャ・ラサにおいては、人はシュリーマティー・ラーダーラーニーや、ラリターのような彼女の女友達や、ルーパやラティのような彼女の侍女(マンジャリー)のようになることができます。これが献身奉仕という事柄に関するすべての教えの真髄です。」
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by ammolitering4 | 2009-12-09 14:54 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第7課

第7課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
クリシュナの聖なる御名、性質、娯楽および活動は、どれも砂糖菓子のように超越的に甘いものです。アヴィデャー(無明)の黄疸(訳注:jaundice、ひがみ、偏見、という意味もある)に苦しめられている者の舌は何も甘い物を味わうことができませんが、単に毎日これらの甘い名前を注意深く唱えることで、彼の舌に自然な嗜好が目覚めて、彼の病気が徐々に根元から滅ぼされるというのは素晴らしいことです。

(解説)
第1段落

主クリシュナの聖なる御名、主の性質、娯楽などは、どれも完全な真理、美、および喜びの性質を持ちます。もちろん(naturally)、それらは誰もが好きな砂糖菓子のようにとても甘いものです。しかし、無知(nescience)は胆汁の分泌過多(bilious secretion)によって引き起こされる黄疸という病気に比べられます。黄疸にかかると、病人の舌は砂糖菓子をおいしく楽しむことができません。むしろ、黄疸にかかった人は甘いものを大変苦いと感じます。

アヴィデャー(無明)は、同様に、超越的に心地よいクリシュナの名前、性質、形および娯楽を楽しむ能力を歪めます。この病気にも関わらず、もしも非常に用心深く熱心にクリシュナ意識を習慣づけ、聖なる御名を唱え、クリシュナの超越的な娯楽について聞くなら、人の無明は滅ぼされ、彼の舌はクリシュナと主に関わるすべてのもの(paraphernalia、備品、道具一式など)の超越的な性質の甘さを味わうことができるようになります。そのような霊的な健康の回復は、クリシュナ意識を定期的に培うことによってのみ可能です。

第2段落

物質世界の中の人がクリシュナ意識よりも物質的な生き方により強い興味を持つとき、その人は病んだ状態にあると考えられます。通常(normal)の状態とは、主の永遠の従者であり続けることです。(サンスクリット引用)この健康な状態は、生命体がクリシュナのマーヤー・エネルギーの外的な特徴によって魅了されることでクリシュナを忘れるときに失われます。

このマーヤーの世界はドゥラーシュラヤと呼ばれ、それは「偽りの、あるいは悪い庇護」を意味します。ドゥラーシュラヤに信頼を置くとき、人は正当な理由がほとんどなく望みを持つことへの候補者となります(hoping against hope)。物質的な世界では、誰もが幸せになろうとしています。そして、彼らの物質的な試みはあらゆる方法で挫かれているにも関わらず、無知のために彼らは自分の過ちを理解することができません。

人々は、ある過ちを別の過ちを犯すことで修正しようとします。これが物質世界における存在への苦闘のあり方です。もしもこの状態にある者がクリシュナ意識を習慣つけて幸せになるように助言されれば、彼はそのような教えを受け入れません。

第3段落

このクリシュナ意識運動は、単にこの著しい無明を取り除くために世界中に広められています。人々は一般に盲目なる指導者たちによって誤って導かれています。人間社会の指導者たち、すなわち政治家、哲学者および科学者たちは、クリシュナ意識でないため、盲目です。バガヴァッド・ギーターによれば、彼らはその無神論的な生き方によって事実に関するすべての知識を奪われているので、彼らは本当は罪深い悪人であり、人間のうちで最も低いものです。

(サンスクリット引用)

「甚だしく愚かであり、人間のうちで最も低く、幻想によってその知識を盗み去られ、悪魔たちの無神論的な性質をいくぶん帯びている不信心者たちは、私に服従しません。」(BG7.15)

第4段落

そのような人々は決してクリシュナ意識に服従しません。そして、彼らはクリシュナの庇護を求めようという人々の努力に対抗します。そのような無神論者たちが社会の指導者になるとき、全体の雰囲気が無知によって過充電されます。そのような状態では、人々はこのクリシュナ意識運動を受け取ることにあまり熱心でなくなります。黄疸に苦しむ病んだ人が砂糖菓子の味を楽しまないようなものです。

しかし、人は黄疸にとっては砂糖菓子が唯一の特定の薬であることを知らねばなりません。同様に、現在の人類の混迷した状態においては、クリシュナ意識、主の聖なる御名を唱えること――ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ―――が、世界を正しくさせるための唯一の矯正手段です。

クリシュナ意識は、病人にとってはあまり心地よくないかもしれませんが、それでもシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、もしも物質的な病気から解放されたいなら、人はそれ(クリシュナ意識)を大いなる用心と注意をもって習慣づけねばならない、と助言なさいます。人は、ハレ・クリシュナを唱えることによって治療を始めます。

主のこの聖なる御名を唱えることによって、物質的な状態にある人はすべての誤解(misconception、勘違い、何かに関する誤った考え)から解放されるからです。アヴィデャー、すなわち自分の霊的な自己認識に関する誤解は、アハンカーラ、すなわち心の中の偽りの自我のための基盤となります。

第5段落

本当の病は心の中にあります。しかし、もしも心が清められれば、意識が清められれば、人は物質的な病によって傷つけられ得ません。すべての誤解から心と意識(mind and heart)を清めるために、人はハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることを習慣付けるべきです。これは簡単でもあり、有益でもあります。主の聖なる御名を唱えることによって、人は直ちに物質存在の燃え盛る炎から自由にされます。

第6段落

主の聖なる御名を唱えるには、三つの段階があります。無礼な段階、無礼が減りつつある段階、そして純粋な段階です。初心者がハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることを習慣付けるとき、彼は普通、多くの無礼を犯します。10個の基本的な無礼があり、もしも献身者がこれらを避けるなら、彼は無礼な唱名と純粋な唱名の間に位置する次の段階を垣間見ることができます。純粋な段階に至れば、人は直ちに解放されます。これはバーヴァ・マハー・ダーヴァーグニ・ニルヴァーパナムと呼ばれます。物質存在の燃え盛る炎から解放されれば、直ちに人は超越的な人生の味を楽しむことができます。


第7段落

結論は、物質的な病から自由になるためには、人はハレ・クリシュナ・マントラを唱えることを習慣づけなければならないというものです。クリシュナ意識運動は、人々がハレ・クリシュナ・マントラを唱えることを習慣づけられる環境(atmosphere)を作ることを特に目的としています。人は信念(faith)をもって始めなければなりません。そして、この信念がマントラを唱えることによって増せば、人は協会の会員になることができます。

私たちはサンキールタン団を世界中に送っています。そして彼らは、クリシュナに関する知識が全く無い、世界の本当に辺鄙なところにあっても、ハレ・クリシュナ・マハー・マントラは私たちの見解(camp、理想を同じくするグループ、陣営、また、その見解など)に何千人もの人を惹きつけるということを経験しています。

場所によっては、マントラを聞いた後、たった2-3日後に人々が頭を剃ったりハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えたりして献身者の真似をし始めます。これは物真似かもしれませんが、良いものの模倣は望ましいものです。真似をしている者の一部は、霊的指導者によって洗礼を授けられることに徐々に興味を持つようになり、洗礼を受けにやってきます。

第8段落

もしも真摯であるなら人は洗礼を受け、この段階はバージャナ・クリヤーと呼ばれます。人はそれから実際にハレ・クリシュナ・マハー・マントラを定期的に一日に16周唱え、不正な性交、陶酔物の摂取、肉食および賭け事を慎むことによって、主への奉仕に携わります。バージャナ・クリヤーによって、人は物質主義的な人生の汚染からの自由を得ます。彼はもはや、肉と玉ねぎでできたいわゆるおいしい料理を味わうためにレストランやホテルに行くことはせず、タバコを吸ったりお茶やコーヒーを飲むことも好まなくなります。

彼は不正な性交を慎むだけでなく、性生活そのものを完全に避けます。彼は推察することや賭け事をすることに時間を無駄にすることにも興味を持ちません。このようにして、人が望まれないもの(アナルター・ニヴリッティ)から清められていくということが理解できます。アナルターという言葉は、望まれないものを指します。アナルターは、人がクリシュナ意識運動に執着するときに消え失せます。

第9段落

望まれないものから解放されるとき、人は自分のクリシュナ(意識)の活動を確固として遂行するようになります(be fixed in executing)。これはバーヴァ、すなわち潜在的な至高神への愛の予備的な目覚め、と呼ばれます。こうして制約された魂は物質的な存在から自由になって、物質的な栄華、物質的な知識、およびあらゆる種類の物質的な魅惑を含む人生の身体的な概念に興味を失います。そのような時に、人は至高の人格神とは誰であって主のマーヤーとは何であるかを理解することができます。

第十段落

マーヤーはそこにあるかもしれませんが、献身者がバーヴァの段階に至れば、それは彼を邪魔することはできません。これは献身者がマーヤーの本当の立場を見ることができるからです。マーヤーはクリシュナの忘却を意味し、クリシュナの忘却とクリシュナ意識は光と影のように寄り添って立つものです。もしも影の中に留まるなら、人は光によって与えられる利便を楽しむことができません。そして、もしも光の中に留まるなら、人は影の暗さによって邪魔されません。

クリシュナ意識を習慣づけることによって、人は徐々に解放され、光の中に留まります。実際、彼は影に触れることさえありません。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.31)には次のように確認されています。

(サンスクリット引用)

「クリシュナは太陽光に例えられ、マーヤーは闇に例えられます。太陽光があるときは、闇はありえません。クリシュナ意識を習慣づければ直ちに、幻想の闇、外的なエネルギーの影響は即座に消え失せます。」

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つい、どうでもいいことが気になってしまいました。プラブパーダのお話しの中には、前も「友人をホテルへ招いて食事をする」ということが書いてあったのですが、やっぱり当たり前にそうする人がいるのでしょうね。何か食べようと思ったらホテルへ、という人が。ホテルのレストランって、私にとっては誰かがおごってくれるときに行くもの、という感じです。そんなに外食もしないのですが、自分では「お腹が空いたからホテルへ」という発想はないなあと思いました。すみません、全然関係ないですけど。。。
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by ammolitering4 | 2009-12-09 11:48 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第6課

第6課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
本来のクリシュナ意識の立場に位置しているので、純粋な献身者は体との一体感を持ちません。(does not identify with the body、体と自己を同一視しない)そのような献身者は、物質的な視点から見られるべきではありません。実際、献身者が身分の低い家庭に生まれた体を持っていたり、肌の色の悪い体を持っていたり、歪んだ体、病んだ体、あるいは虚弱な体を持っていたりしても、人はそれを見過ごすべきです。

普通の視点からすると、そのような不完全さは純粋な献身者の体の中で目立って見えるかもしれません。しかし、そのような一見した欠陥にも関わらず、純粋な献身者の体は汚染され得ません。それはちょうどガンジス川の水のようなものです。雨季には、時としてガンジス川の水は大小の泡や泥に満たされます。霊的な理解において発達している者は、水の状態を考慮することなくガンジス川で沐浴します。

(解説)
第1段落

シュッダー・バークティ、すなわち魂の正しい活動(the activity of the soul proper、これは多少古風な構文であり、現代語ではthe proper activity of the soulが普通)、言い換えると主への超越的な愛情ある奉仕に携わることは、解放された状態で行われます。バガヴァッド・ギーター(14.26)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「完全に献身奉仕に携わる者、いかなる状況にあっても堕落しない者は、直ちに物質自然の相を超越し、そうしてブラーマンの水準に至ります。」

第2段落

アヴャビーチャーリニー・バークティは、純粋な献身の念を指します。献身奉仕に携わる人は、物質的な動機を持っていてはなりません。このクリシュナ意識運動では、人の意識が変化しなければなりません。もしも意識が物質的な楽しみに向けられているなら、それは物質的な意識です。そしてもしもそれがクリシュナに奉仕することに向けられているなら、それはクリシュナ意識です。服従した魂は、物質的な考慮をすることなくクリシュナに奉仕をします。(サンスクリット引用)

(サンスクリット引用)ジニャーナ(精神的な推量)やカルマ(結果を求める仕事)などの体や心の活動を超越した純粋な献身奉仕は、純粋なバークティ・ヨガと呼ばれます。バークティ・ヨガは、魂の正しい活動です。そして、純粋な、汚染されていない献身奉仕に実際に携わるとき、人はすでに解放されています。(サンスクリット引用)クリシュナの献身者は、たとえその身体的な特徴が物質的に制約されているように見えても、それ(物質的な制約)に影響されません。

したがって、人は純粋な献身者を物質的な視点から見るべきではありません。自分自身が実際に献身者でなければ、人は別の献身者を完全に見ることができません。前の節で説明したように、献身者には三つの種類があります。カニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、そしてウッタマ・アディーカーリーです。カニシュター・アディーカーリーは、献身者と非献身者を見分けることができません。彼は単に寺院で神像を礼拝することに関心があります。しかし、マデャーマ・アディーカーリーは献身者と非献身者を見分けることができ、献身者と主を見分けることもできます。そのため彼は至高の人格神と献身者と非献身者に異なるふうに接します。

第3段落

誰も純粋な献身者の身体的な欠陥を非難すべきではありません。もしもそのような欠陥があれば、それは見過ごすべきものです。考慮されるべきは霊的指導者の主な仕事である献身奉仕、至高主への純粋な奉仕です。バガヴァッド・ギーター(9.30)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

たとえ献身者が時として不愉快な活動に携わっているように見えても、彼はサードゥー、すなわち聖人的な人だと考えられるべきです。彼の本当の自己(認識)は、主への愛情ある奉仕に携わる人だからです。言い換えると、彼は普通の人間であると考えられるべきではありません。

第4段落

純粋な献身者は、ブラーマナやゴスヴァーミーの家庭の出身ではないかもしれませんが、もしも主への奉仕に携わっているなら、彼は軽視されるべきではありません。ゴスヴァーミーという称号は、本当は純粋な献身者だけのものです。したがって、私たちはルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーを筆頭とする6人のゴスヴァーミーについて語ります。

ルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーは事実上イスラム教徒になっていて、そのため名前もダビラ・カーサとサーカラ・マッリカに変えていました。しかし、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブご自身が彼らをゴスヴァーミーにしました。したがって、ゴスヴァーミーという称号は世襲制ではありません。ゴスヴァーミーという言葉は、自分の感覚を統御する者、感覚の主人である者を指します。献身者は感覚に統御されるのではなく、感覚の統御者です。したがって、ゴスヴァーミーの家庭の出身ではないかもしれませんが、彼はスヴァーミー、あるいはゴスヴァーミーと呼ばれるべきです。

第5段落

この公式によれば、シュリー・ニテャーナンダ・プラブおよびシュリー・アドヴァイタ・プラブの子孫であるゴスヴァーミーたちは確かに献身者ですが、他の家庭の出身者である献身者たちは差別されるべきではありません。実際、以前のアーチャーリャの家庭の出身であっても、普通の家庭の出身であっても、献身者は平等に取り扱われるべきです。人は、「おお、この人はアメリカ人のゴスヴァーミーだ」と考えて差別すべきではありません。

また、「この人はニテャーナンダ・ヴァムシャ・ゴスヴァーミーだ」と考えるべきでもありません。私たちがクリシュナ意識運動のアメリカ人のヴァイシュナヴァにゴスヴァーミーの称号を与えていることに対して、底流的な抵抗があります。時として人々はアメリカ人の献身者たちに彼らのサンニャーサやゴスヴァーミーの称号は真正ではないときっぱりと告げます。しかし、この節におけるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの言明によれば、アメリカ人のゴスヴァーミーとアーチャーリャの家庭のゴスヴァーミーの間に違いはありません。

第6段落

一方で、ゴスヴァーミーの称号を得たけれど父がブラーマナでなかったり、ニテャーナンダやアドヴァイタ・プラブの家庭のゴスヴァーミーとして生まれたのでない者は、自分はゴスヴァーミーになったのだと思って不自然に(artificially、人工的に、人為的に)思い上がるべきではありません。彼は、物質的に思い上がれば自分は直ちに堕落するのだということをいつも覚えていなければなりません。このクリシュナ意識運動は超越的な科学です。ねたみが入り込む隙間はありません。

この運動は、全くねたみのないパラマハムサのためのものです。(サンスクリット引用)ゴスヴァーミーの家庭の出身であれ、ゴスヴァーミーの称号を与えられたのであれ、人はねたみ深くあるべきではありません。嫉妬深くなれば、直ちに人はパラマハムサの水準から転落します。

第7段落

もしも私たちがヴァイシュナヴァの身体的な欠陥について考えるなら、私たちは自分がヴァイシュナヴァの蓮の御足に無礼をはたらいているのだと理解すべきです。ヴァイシュナヴァの蓮の御足への無礼は大変深刻なものです。実際、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、この無礼をハーティー・マーター、すなわち狂った象の無礼と呼びました。狂った象は災害をもたらします。それが美しく整えられた庭園に入ったときはなおさらです。

したがって、人はヴァイシュナヴァに無礼を働かないように非常に注意深くあるべきです。すべての献身者は自分より優れたヴァイシュナヴァから教えを受ける用意ができているべきです。そして、より優れたヴァイシュナヴァは、すべてにおいてより劣ったヴァイシュナヴァを助ける用意ができていなければなりません。人は自分のクリシュナ意識における霊的な発達の程度に応じて、より優れていたり、より劣っていたりします。純粋なヴァイシュナヴァの活動を物質的な視点から観察することは禁じられています。

特に初心者にとっては、純粋な献身者を物質的な視点から考えることはとても無礼です。(訳注:injurious、有害という意味もある。基本にあるのは、体、物、名誉などを損傷するような、という考え)したがって、人は純粋な献身者を外見から判断することは避けるべきです。

そうではなく、内的な特徴を見て、彼がいかに主への超越的な愛情ある奉仕に携わっているかを理解しようとすべきです。このようにすれば、人は純粋な献身者を物質的な視点から見るのを避けることができます。そして、そうやって人は徐々に自分自身も浄化された献身者になることができます。

第8段落

クリシュナ意識が特定の一部の人々や特定の一部の献身者や特定の地域の土地に限られていると考える人々は、一般に献身者の外的な特徴を見る傾向があります。そのような初心者は、高度に発達した献身者の崇高な奉仕の真価を理解できないので、マハー・バーガヴァタを自分の水準にもってこようとします。私たちは、このクリシュナ意識を世界中に広めるにあたって、大変な困難を経験します。不幸にして、私たちはクリシュナ意識を世界中に広めるという非凡な活動の真価を理解しない初心者のゴッドブラザー(信仰を同じくする人々)に囲まれています。

彼らは単に私たちを自分たちの水準にもってこようとします。そして彼らは私たちをあらゆる面で非難しようとします。私たちは彼らの未熟な活動と乏しい知識を心から残念に思います。実際に主への内密な奉仕にいそしんでいる、権限を与えられた人は、普通の人間として取り扱われるべきではありません。クリシュナによって権限を与えられない限り、人はクリシュナ意識運動を世界中に広めることはできないからです。

第9段落

このように純粋な献身者を非難するとき、人はクリシュナ意識において進歩したいと望む者にとって非常に妨害的で危険な無礼を犯します。人は、ヴァイシュナヴァの蓮の御足に無礼をはたらくとき、何らの霊的な利益も得られません。したがって、権限を与えられたヴァイシュナヴァ、すなわちシュッダー・ヴァイシュナヴァにねたみを持たないように、誰もが非常に注意深くあるべきです。権限を与えられたヴァイシュナヴァを懲戒的な行動の対象であると考えるのも無礼にあたります。彼に助言しようとしたり、彼を正そうとしたりするのは無礼です。

人は初心者であるヴァイシュナヴァと高度に発達したヴァイシュナヴァをその活動によって見分けることができます。高度に発達したヴァイシュナヴァはいつも霊的指導者として位置しており、初心者はいつも彼の弟子とみなされます。霊的指導者は弟子の助言の影響下にあってはなりません。また、霊的指導者は自分の弟子でない者から指図を受ける義務を負うべきでもありません。これが6節におけるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの助言の要点です。

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最後から2番目の文ですが、、、自分の弟子からだったら指図を受ける義務があるのでしょうか?良く分かりません。原文は、nor should a spiritual master be obliged to take instructions from those who are not his disciples. です。 instructionsは、教え、指図、命令などです。弟子の助言は受けなくても、指図は受ける、ということでしょうか。クリシュナがアルジュナの運転手になったみたいに。
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by ammolitering4 | 2009-12-07 13:27 | 「教えの甘露」 | Comments(2)

第5課 後半

第9段落

霊的指導者の教えに従うことなく彼を受け入れるということは、すべきではありません。霊的な人生を格好良く見せびらかすために(to make a fashionable show of)霊的指導者を受け入れるべきでもありません。人は、ジジニャース、すなわち真正なる霊的指導者に質問して彼から学ぶことについて非常に熱心でなければなりません。(inquisitive、探求的な、質問好きな)

問いかけるものは、厳密に超越的な科学に関するものでなければなりません。(サンスクリット引用)ウッタマムという言葉は、物質的な知識を超えたものを指します。タマは「この物質世界の闇」を意味し、ウットは「超越的な」を意味します。一般に、人々は俗世的な主題に関して問うことに大変興味があります。しかし、そのような興味を失って、単に超越的な主題に興味があるとき、人は本当に洗礼を受ける資格があります。実際に真正なる霊的指導者によって洗礼を与えられるとき、そして真剣に主への奉仕に携わるとき、人はマデャーマ・アディーカーリーとして受け入れられるべきです。

第10段落

クリシュナの聖なる御名を唱えることはとても崇高なので、もしも10の無礼を注意深く避けてハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えるなら、主の聖なる御名と主ご自身の間には何の違いもないということを理解できるところまで、確実に、徐々に上げられることができます。そのような理解に達した者は、初心者である献身者によって大いに尊敬されるべきです。

主の聖なる御名を無礼を犯さずに唱えることなくしては、クリシュナ意識における発達のための正しい候補者とはなり得ないということを、人は確かに知っておくべきです。シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.69)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「その信仰が軟弱で影響されやすい者は初心者と呼ばれます。しかし、徐々に過程を辿ることによって、彼は一流の献身者の水準に上げられます。」誰もが自分の献身生活を初心者の水準から始めます。しかし、もしも定められた回数のハリナーマを唱えることを終えたら、人は段階を追って最も高い水準であるウッタマ・アディーカーリーに上げられます。クリシュナ意識運動は、毎日16周りを唱えるように定めています。

西洋諸国の人々は、数珠で唱えながら長い時間集中することができないからです。したがって、最低限の回数が定められています。しかし、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティ・タークラは、少なくとも64周り(聖名10万回分)唱えないなら人は堕落している、とおっしゃいました。彼の計算によれば、現実的にすべての人が堕落しています。しかし、私たちは非常に真剣に、かつ不誠実さ無しに主に奉仕をしようとしているので、私たちはパティタ・パーヴァナ、すなわち堕落した者を救う方として有名な主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブの慈悲を期待することができます。

第11段落

シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの偉大な献身者であるシュリーラ・サテャラージャ・カーンが、主にどうやってヴァイシュナヴァを認識できるかと尋ねたとき、主は次のようにお答えになりました。

(サンスクリット引用)

「もしも誰かがただ一度でも「クリシュナ」という言葉を言うのを聞くなら、その人は一般の人々の中で最も優れている者として受け入れられるべきです。」(CCマデャー15.106)主チャイタンニャ・マハープラブは続けられました。

(サンスクリット引用)

「クリシュナの聖なる御名を唱えることに興味のある者、あるいは実際にクリシュナの御名を唱え、それを好む者(who by practice likes to chant)は、少なくとも(人の)心の中でヴァイシュナヴァとして受け入れられるべきであり、そのこと自体(as such)に対して敬意を払われるべきです。」(CCマデャー15.111)

私たちの友人の一人、有名なイギリス人の音楽家(訳注:ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリソンのこと)は、クリシュナの聖なる御名を唱えることに魅力を感じ、自分のレコードの中で何度かクリシュナの聖なる御名に言及しました。家では彼はクリシュナの絵に敬意をささげ、クリシュナ意識の伝道者にも敬意を捧げます。すべての面で彼はクリシュナの名前とクリシュナの活動を高く評価しています。したがって、私たちは彼に心から(without reservation、遠慮なく)敬意を捧げます。

私たちは、この紳士が徐々にクリシュナ意識において進歩しているのを実際に見ているからです。そのような人にはいつも敬意が払われるべきです。結論は、定期的に聖なる御名を唱えることによってクリシュナ意識において進歩しようとしている者は、いつもヴァイシュナヴァによって尊敬されるべきであるというものです。一方で私たちは、偉大なる伝道者であるはずの人々が、主の聖なる御名を唱えることを怠ったために、徐々に物質的な概念にとらわれた人生(material conception of life、人生の物質的な概念)に堕落したのも見ました。

第12段落

サナータナ・ゴスヴァーミーに教えを授けていたとき、主チャイタンニャ・マハープラブは献身奉仕を3つに分類なさいました。

(サンスクリット引用)

「シャーストラに関する確実な知識があまり強固でなく、しかしハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることには確固たる信頼を培い、また、自分の規定された献身奉仕の遂行においては決意の固い(undeterred、思いとどまらされない)者は、マデャーマ・アディーカーリーであると考えられるべきです。そのような人は大変幸運です。」(CCマデャー22.67)

マデャーマ・アディーカーリーは、シュラッダーヴァン、絶対的に(staunchly、非常に決意の固い、原則を固持する)信心深い人です。そして彼は実際に献身奉仕における更なる発展のための候補者です。したがって、チャイタンニャ・チャリタムリタ(マデャー22.64)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「人は、そのシュラッダー(信仰)の発達に応じて、献身奉仕の初級、中級、そして最上級の水準の献身者としての資格を得ます。」そしてもう一度、チャイタインニャ・チャリタムリタ(マデャー22.62)にはこう書かれています。

(サンスクリット引用)

「”クリシュナに超越的な奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての従属的な活動を行う。”献身奉仕を遂行するのに好ましい、この確信に満ちて堅固な信仰は、シュラッダーと呼ばれます。」シュラッダー、クリシュナへの信仰は、クリシュナ意識の始まりです。信仰とは、強い信仰を意味します。バガヴァッド・ギーターの言葉は、信仰深い者にとっての権威ある教えです。そして、クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいておっしゃることは何であれ、解釈することなく、そのままに受け入れられるべきです。

これがアルジュナがバガヴァッド・ギーターを受け入れた方法でした。バガヴァッド・ギーターを聞いた後、アルジュナはクリシュナに言いました。(サンスクリット引用)「おお、クリシュナ。私はあなたが私に言ったことのすべてを完全に真理として受け入れます。」(BG10.14)

第13段落

これがバガヴァッド・ギーターを理解するための正しい方法です。そしてこれはシュラッダーと呼ばれます。バガヴァッド・ギーターの一部を自分の気まぐれな解釈によって受け入れて、他の部分は却下する、というのではありません。これはシュラッダーではありません。シュラッダーとは、バガヴァッド・ギーターの教えを丸ごと、特に最後の教え(サンスクリット引用)を受け入れることを意味します。「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。」(BG18.66)この教えに関して完全に忠実になるとき、人の強い信仰は霊的な人生において進歩する基盤になります。

第14段落

ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることに完全に携わるとき、人は徐々に自分の霊的な自己認識に気づくようになります。人がハレ・クリシュナ・マントラを誠実に唱えない限り、クリシュナはご自身を明かされません。(サンスクリット引用)(バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー1.2.234)私たちは、いかなる人工的な手段によっても至高の人格神を認識することはできません。

私たちは誠実に主への奉仕に携わらねばなりません。そのような奉仕は舌から始まります。(サンスクリット引用)それは、私たちがいつも主の聖なる御名を唱えて、クリシュナ・プラサーダを受け入れるべきであるということを意味します。私たちは他のものを唱えたり受け入れたりするべきではありません。この過程を誠実に辿るとき、至高主は献身者にご自分を明かしてくださいます。

第15段落

自分がクリシュナの永遠の従者であると気づくとき、人はクリシュナへの奉仕以外のすべてのことに対する興味を失います。いつもクリシュナのことを考え、クリシュナの聖なる御名を広めるための方法を工夫している彼は、自分の唯一の仕事はクリシュナ意識運動を世界中に広めることにあると理解しています。そのような人は、ウッタマ・アディーカーリーとして認識されるべきです。

そして、彼との関わりは6つの過程(process)に応じて直ちに受け入れられるべきです。(サンスクリット引用)実際、高度に発達したウッタマ・アディーカーリーのヴァイシュナヴァは、霊的指導者として受け入れられるべきです。何であれ人が持てる物は、すべて霊的指導者に届けるべきである、と申しつけられているからです。

特にブラーマチャーリーは、他の人たちから施しを乞い、それを霊的指導者に捧げることになっています。しかし、人は自己を認識することなく、高度に発達した献身者、すなわちマハー・バーガヴァタの振る舞いを真似るべきではありません。そのような真似をすることによって、人はやがて堕落するようになるからです。

第16段落

この節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは献身者たちにカニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、そしてウッタマ・アディーカーリーの違いを見分けることができる程度に知性的であるように助言していらっしゃいます。また、献身者は自分の立場を知っているべきであり、より高い水準に位置する献身者の真似をしようとすべきではありません。シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、ウッタマ・アディーカーリーのヴァイシュナヴァは多くの堕落した魂をヴァイシュナヴァ主義に改宗できる能力によって識別できるということについて、いくつかの実際的なヒントを与えられました。

ウッタマ・アディーカーリーの水準に達しない限り、人は霊的指導者になるべきではありません。初心者であるヴァイシュナヴァ、あるいは中級の水準にあるヴァイシュナヴァもまた弟子を取ることができますが、そのような弟子たちは同じ水準になければなりません。また、彼の不十分な指導の下では、彼らは人生の究極の目的地に向かってうまく進歩することはできないということが理解されるべきです。したがって、弟子はウッタマ・アディーカーリーを霊的指導者として受け入れるように、注意深くあるべきです。

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faithについて。

しょっちゅう出てくる言葉です。信仰、と訳すのが普通ですが、誠実とか忠実とか、信頼という意味もあります。日本語はいろいろでも、基本にある考えは同じです。何かに信頼がなければ信仰はありえないし、信頼して信仰してれば誠実に忠実に行動しようという気にもなるでしょう。原文を参照して読むときに、字面にとらわれずに概念を理解する助けとなれば幸いです。
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by ammolitering4 | 2009-12-07 10:08 | 「教えの甘露」 | Comments(2)

原文

こちらは英語の原文です。以前にも書きましたが、私の翻訳はほぼ直訳です。日本語としてはあんまり上等でないなと自覚しています。そのため、よろしかったらこの翻訳文を参照してご自分で英語の原文を読んでみてください。プラブパーダの教えは、英語でそのまま読むのが一番分かりやすいのです。

ただ、教養のある方の立派な英語ですので、少々小難しいときもあります。単語や文法の使い方も、現代の落ちぶれまくった英語とは別物みたいな古風な表現だったりします。難しいとは思いますが、プラブパーダのご本を読むためだったら、英語の勉強をもう一度やってみる価値はあります。なお、英語の表現に関してご質問などあればお受けしますので、コメント欄に記入してください。削除用パスワードをご自分で決めて入力すれば、誰でもコメントを残せます。なお、スパム対策のため、英語のみで書かれたコメントは受け付けていません。

英語の原文です。Nectar of Instruction
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by ammolitering4 | 2009-12-07 06:00 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第5課 前半

第5課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
人は主クリシュナの聖なる御名を唱える献身者を内心で(mentally、精神面で)尊敬すべきです。そして人は霊的な洗礼(ディークシャー)を受けていて神像の礼拝に携わる献身者にへりくだった敬意を払うべきです。.そして人は、それることのない献身奉仕に発達していて、その心に他者を批判する傾向が全く無い純粋な献身者と関わり、その人に誠実に奉仕をすべきです。

(解説)
第1段落

前の節で述べられた六重の愛情ある交換を知性的に実行するためには、注意深い分別をもって適切な人を選ばなければなりません。したがってシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、私たちは(訳注:それぞれの)ヴァイシュナヴァの特定の位置づけに応じて、適切な方法で彼らに会うべきである、と助言なさいます。この節において、彼は私たちに3つの種類の献身者と関わるにはどうしたらいいかを教えられます。

カニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、ウッタマ・アディーカーリーの3種類です。カニシュター・アディーカーリーは、霊的指導者からハリ・ナーマの洗礼を受け、クリシュナの聖なる御名を唱えようとしている初心者です。人はそのような人を自分の心の中でカニシュター・ヴァイシュナヴァとして尊敬すべきです。

マデャーマ・アディーカーリーは、霊的指導者から霊的な洗礼を受け、彼によって主への超越的な愛情ある奉仕に完全に携わらせられています。 マデャーマ・アディーカーリーは、献身奉仕において中間地点に位置していると考えられるべきです。

ウッタマ・アディーカーリー、すなわち最も高度な献身者は、献身奉仕において非常に発達した者です。ウッタマ・アディーカーリーは他者を侮辱することに興味がなく、その心は完全に清らかで、混じり気のないクリシュナ意識という覚醒した(realized)状態に到達しています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによれば、そのようなマハー・バーガヴァタ、すなわち完璧なヴァイシュナヴァとの関わり、および彼への奉仕は、最も望ましいものです。

第2段落

人は、献身奉仕の最も低い水準にあって、寺院で神像を崇拝することだけに興味のあるカニシュター・アディーカーリーに留まるべきではありません。そのような献身者はシュリマッド・バーガヴァタム(11.2.47)の11巻に描写されています。

(サンスクリット引用)

「寺院における神像の崇拝には大変熱心(faithful)だけれど、献身者や一般の人々に対していかに振舞うかを知らない者は、プラークリタ・バークタ、あるいはカニシュター・アディーカーリーと呼ばれます。」

第3段落

したがって、人は自らをカニシュター・アディーカーリーの水準からマデャーマ・アディーカーリーの水準に引き上げなければなりません。マデャーマ・アディーカーリーは、シュリマッド・バーガヴァタム(11,2.46)において次のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「マデャーマ・アディーカーリーは、至高の人格神を最も愛すべき対象として崇拝する献身者です。彼は主の献身者と友人になり、無明にある者に情け深く、性質的に妬み深い者を避けます。」

第4段落

これが献身奉仕を正しく培うための方法です。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、この節において、様々な献身者とどう関わるかを助言なさいました。私たちは実際的な経験から、異なる種類のヴァイシュナヴァが存在するのを見ることができます。プラークリタ・サハジャーは一般に、ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えますが、しかし彼らは女性とお金と陶酔物に執着しています。そのような人々は、主の聖なる御名を唱えるかもしれませんが、まだ正しく浄化されていません。

そのような人々は、心の中で尊敬すべきではありますが、関わりは避けるべきです。悪気は無いけれど単に悪い関わりによって流されている者は、もしも純粋な献身者から正しい指導を受けたいという熱意があるなら、親切心を示されるべきです。しかし、真正なる霊的指導者によって実際に洗礼を受けており、霊的指導者の命令を遂行することに真剣に携わっている初心者の献身者には、丁重な敬意を捧げるべきです。

第5段落

このクリシュナ意識運動では、階層、信条、あるいは肌の色による差別なく、すべての人に機会が与えられます。すべての人がこの運動に参加したり私たちと一緒に座ってプラサーダを食べたりクリシュナについて聞いたりするように招かれています。私たちは、誰かがクリシュナ意識に興味を持っていて洗礼を受けたいと思っているのを見ると、彼を主の聖なる御名を唱えるために弟子として受け入れます。

初心者である献身者が実際に洗礼を受けて、霊的指導者の命令によって献身奉仕に携わっているなら、彼は直ちに真正なるヴァイシュナヴァとして受け入れられるべきであり、敬意を捧げられるべきです。たくさんのそのようなヴァイシュナヴァのうち、主への奉仕に非常に熱心に携わり、すべての規律的な原則を厳密に守り、ジャパ数珠で決められた回数のマントラを唱え、いつもいかにしてクリシュナ意識運動を広めるかを考えている者が、ほんの一人いるかもしれません。

そのような献身者は、ウッタマ・アディーカーリー、すなわち高度に発達した献身者として受け入れられるべきであり、人は彼との関わりをいつも求めるべきです。

第6段落

献身者がクリシュナに執着するようになる過程がチャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ4.192)に描写されています。

(サンスクリット引用)

「洗礼のとき、献身者が主への奉仕に完全に身を捧げるとき、クリシュナは彼をご自分と同じくらい良いものとしてお受け入れになります。」

第7段落

ディークシャ、すなわち霊的な洗礼がシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーによってバークティサンダルバー(868)の中で説明されています。

(サンスクリット引用)

「ディークシャーによって、人は徐々に物質的な楽しみへの興味を失い、徐々に霊的な人生に興味を持つようになります。」

第8段落

特にヨーロッパとアメリカにおいて、私たちはこのことの多くの実際的な例を見ました。豊かでちゃんとした家庭に育った多くの生徒たちが、物質的な楽しみへのすべての興味を失い、霊的な人生に入ることに大変熱心になります。非常に裕福な家庭の出身であるにも関わらず、彼らの多くはあまり快適ではない生活状況を受け入れます。

実際、クリシュナのために、寺院に住んでヴァイシュナヴァとの関わりを持てる限り、彼らはどんな生活状況でも受け入れる準備ができています。それほど物質的な楽しみに無関心になったとき、人は霊的指導者によって洗礼を受ける資格を得ます。霊的な人生の発展のために、シュリマッド・バーガヴァタム(6.1.13)は次のように規定しています。(サンスクリット引用)

ディークシャーを受け入れることについて真剣であるとき、人は禁欲と性生活の回避、および心と体の統御を実行する用意ができていなければなりません。もしもその用意ができていて、霊的な悟り(enlightenment、ディヴァム・ジニャーナム)を受けたいと望むなら、人は洗礼を受ける資格があります。ディヴァム・ジニャーナムは、正しくはタッド・ヴィジニャーナ、すなわち至高存在に関する知識、と呼ばれます。(サンスクリット引用)

完全真理という超越的な主題に興味を持ったとき、人は洗礼を与えられるべきです。そのような人は、ディークシャーを受けるために霊的指導者に近づくべきです。シュリマッド・バーガヴァタム(11.3.21)はまた、次のようにも規定しています。(サンスクリット引用)「実際に完全真理の超越的な科学に興味を持つとき、人は霊的指導者に近づくべきです。」
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by ammolitering4 | 2009-12-07 05:35 | 「教えの甘露」 | Comments(0)

第4課

第4課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
慈善として贈り物を捧げること(訳注:与えるに値する人、すなわちブラーマンや献身者に施しをすること)、慈善として与えられた贈り物を受け取ること、内密に自分の心を打ち明けること、内密に問うこと、プラサーダを受け取ること、およびプラサーダを与えることは、一人の献身者と別の献身者によって共有される愛の6つのしるしです。

(解説)
第1段落

この節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは他の献身者たちとの関わりの中で献身奉仕を行うにはどうしたらよいかを説明しています。6つの種類の活動があります。
1、献身者に施しをする。
2、何であれ、献身者がお返しに提供するものを受け取る。
3、献身者に自分の心を開く。
4、彼らから主への内密な奉仕について問う。
5、献身者によって与えられたプラサーダ、すなわち霊的な食べ物を拝受する。
6、献身者にプラサーダを与える。

経験豊かな献身者は説明し、経験の浅い献身者は彼から学びます。これは(サンスクリット引用)です。私たちの献身奉仕の精神を維持するために、献身者が至高の人格神に捧げられた食べ物の残りであるプラサーダを分配するとき、私たちはこのプラサーダを、純粋な献身者を通して受け取る主の恵みとして受け入れなければなりません。また、私たちは純粋な献身者を家に招いて彼らにプラサーダを与え、あらゆる面で彼らを喜ばせる準備ができているべきです。これは(サンスクリット引用)と呼ばれます。

第2段落

普通の社会的な活動においてさえ、二人の愛情ある友人たちの間ではこれらの6つのやりとりは絶対に必要です。例えば、あるビジネスマンが別のビジネスマンとコンタクトを取りたいと望むときは、彼はホテルでのご馳走を用意し、食事をしながら心を開いて自分がしたいと思うことを表現します。彼はそれから自分のビジネス上の友人にどのように行動したらよいかを問い、そして時として贈り物が交換されます。このように、プリーティ、すなわち親密なやりとりにおける愛が存在するときはいつでも、これらの6つの活動が行われます。

以前の節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、人は俗世的な関わりを放棄して献身者たちと交友すべきである、と助言しました。(サンスクリット引用)国際クリシュナ意識協会は、献身者の間のこれらの6種類の愛情ある交換を容易にするために設立されました。この協会はたった一人で始められましたが、人々が集まってきて、ギブ・アンド・テイク(平等に与えたり受け取ったりする)という原則にのっとってやりとりをしているので、協会は今では世界中に広がっています。

協会の活動の発展のために人々が非常に寛大に寄付をしてくれていることを、そして厳密にクリシュナ意識という主題のみを扱う本や雑誌の形をとって私たちが与えているどんな慎ましい貢献であれ、人々が熱心に受け入れていることを、私たちは嬉しく思っています。私たちは時としてハレ・クリシュナのお祭りを開き、プラサーダを受け取って祭礼に参加するように生涯会員や友人たちを招きます。私たちの会員のほとんどは社会のより高い階層の人々であるにも関わらず、彼らはそれでもやってきて、私たちが彼らに与えるささやかなプラサーダを、何であれ受け取ります。

時として、会員たちや支持者たちは献身奉仕を行う方法について内密に問い、私たちはこれを説明しようとします。このようにして私たちの協会は快調に世界中に広がっており、すべての国の知識人が徐々に私たちのクリシュナ意識活動の価値を認めつつあります。クリシュナ意識の社会における人生は、会員たちの間でのこれらの6種類の愛情ある交換によって養われます。したがって、人々はISKCONの献身者たちと関わる機会を与えられなければなりません。

単に上述のこれらの6つの方法において交換するだけで、普通の人物が自分の潜在的なクリシュナ意識を完全に呼び覚ますことができます。バガヴァッド・ギーター(2.62)には、(サンスクリット引用)と述べられています。人の欲求と野心は、その人が持つ友人たちに応じて発達します。往々にして、人はその友人によって知られる、と言われます。そしてもしも普通の人が献身者と関わるなら、その人は必ず自分の潜在的なクリシュナ意識を発達させるでしょう。

クリシュナ意識の理解は、すべての生命体の中において生来のものです。そしてそれはすでに生命体が人間の形を取るときにはある程度発達しています。チャイタンニャ・チャリタムリタには次のように述べられています。(マデャー22.107)

(サンスクリット引用)

「クリシュナへの純粋な愛は、生命体の心の中に永遠に根付いています。それは他の源から得られるものではありません。聞くこととマントラを唱えることによって心が浄化されるとき、生命体は自然に目覚めます。」クリシュナ意識はすべての生命体の中に本来備わっているものなので、すべての者がクリシュナについて聞く機会を与えられるべきです。単に聞くこととマントラを唱えることによって(サンスクリット引用)、人の心は直接浄化され、そして人の本来のクリシュナ意識は直ちに呼び覚まされます。

クリシュナ意識は人工的に心に押し付けられるものではありません。それはすでにそこにあります。人が至高の人格神の聖なる御名を唱えるとき、心はすべての俗世的な汚染から清められます。シュリー・シクシャーシュタカの最初の詩節の中で、主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「シュリー・クリシュナ・サンキールタンにすべての栄光あれ。それは何年もの間溜まり続けた埃のすべてを心から洗い去り、制約された人生の繰り返す生と死の火を消します。このサンキールタン運動は人類全体への最高の恵みです。それは祝福の月の光を広げるからです。それはすべての超越的な知識の生命です。それは超越的な幸福の海を増し、そしてそれは私たちがいつも熱心に求める蜜(nectar、甘露)を完全に味わうことを可能にします。

第3段落

マハー・マントラを唱える者が浄化されるだけでなく、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ・クリシュナ、ハレ・ハレ、ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレという超越的な振動をたまたま聞く人の心もまた浄化されます。単に超越的な振動を聞くことによって、低位の動物、虫、木、その他の種類の生命の中に入れられている魂もまた浄化され、完全にクリシュナ意識になる準備が整えられます。

これは、チャイタンニャ・マハープラブが人間よりも低い生命体がいかにして物質的な呪縛から解放され得るかと問いかけたときに、タークラ・ハリダーサによって説明されました。ハリダーサ・タークラは、聖なる御名を唱えることはとても強力なので、たとえ人がジャングルの最も深いところで唱えても、単に振動を聞くだけで木や動物はクリシュナ意識において発達する、と言いました。

これは、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがジャーリカーンダの森を通り抜けたときに実際に主ご自身によって証明されました。そのとき、虎、蛇、鹿、そして他のすべての動物たちは、自分たちの自然な敵意を放棄し、サンキールタンの中で唱えたり踊ったりし始めました。もちろん、私たちはシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの活動を模倣することはできません。しかし私たちは主の足跡を辿るべきです。

私たちは、虎、蛇、猫や犬などの低位の動物たちを魅了して彼らに踊るように誘えるほど強力ではありません。しかし、主の聖なる御名を唱えることによって、私たちは実際に世界中の多くの人々をクリシュナ意識に変えることができます。主の聖なる御名を捧げること、あるいは広めることは、貢献することや慈善を与えること(ダダーティの法則)の至高な例です。

同様に、人はまた、プラティグリーニャーの原則にも従わねばなりません。そして、超越的な贈り物を受け取りたいという思いを持ち、受け取る用意ができていなければなりません。この物質世界の位置づけ(situation、状況)を理解するために、人はクリシュナ意識運動について問い、心を開くべきdす。こうしてグヒャム・アーキャーティ・プリッチャティの原則が満たされます。

第4段落

国際クリシュナ意識協会の会員は、毎週日曜日にすべての支部においてラブ・フィースト(訳注:「愛の祝祭」礼拝と食事の夕べ)を開くとき、一緒に食事をするように協会の会員と支持者を招きます。興味のある人々が大勢やってきてプラサーダを拝受します。そして、可能な場合はいつでも、協会員は互いを自宅に招いて贅沢にプラサーダを供します。このようにして、協会員と一般に人々の両方が利益を得ます。

人々は、いわゆるヨギー、ジニャーニー、カルミーおよび博愛主義者との交際を放棄すべきです。彼らとの関わりは誰にも益をもたらさないからです。もしも本当に人間の人生の目標地点に到達したいなら、人はクリシュナ意識運動の献身者と関わるべきです。クリシュナ意識運動は、神への愛を育む方法を教える唯一の運動だからです。

宗教は人間の社会の特別な機能です。そしてそれは人間の社会と動物の社会との間の違いです。動物の社会には教会やモスク(訳注:イスラム教の寺院)や宗教的な制度はありません。しかし、世界中には、いかに虐げられた人間社会であっても、何らかの宗教制度があります。宗教制度が発達して神への愛に変わるとき、それは成功します。シュリマッド・バーガヴァタムの5巻(1.2.6)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべての人類のための至高の仕事(ダールマ)は、それによって人々が超越的な主への愛情ある献身奉仕を得られるようにするところのものです。そのような献身奉仕は、自己を完全に満足させるためには、動機がなく、中断しないものでなければなりません。」

第5段落

もしも人間の社会の構成員が実際に心の平和と平安と、そして人々と国々との間の友好的な関わりを望むなら、彼らはそれによって至高の人格神クリシュナへの潜在的な愛を育むことができるところのクリシュナ意識の宗教制度に従うべきです。そうすれば直ちに、人々の心はすぐに平和と平安で満たされます。

第6段落

このことに関して、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、クリシュナ意識運動を広めることに携わっているすべての献身者たちに、そのような有神論の運動に徹底して反対するマーヤーヴァーディーたちと話さないように警告しています。世界はマーヤーヴァーディーと無神論者に満ちています。そして世界の(訳注:様々な)政党は物質主義を推進するためにマーヤーヴァーダと他の無神論的な哲学を利用します。

時として彼ら(訳注:マーヤーヴァーディーなど)は、クリシュナ意識運動に対抗するために強い政党の後押しをすることさえあります。マーヤーヴァーディーたちと他の無神論者たちは、クリシュナ意識運動に発達してもらいたくありません。それは人々に神意識を教えるからです。それが無神論者たちの主張(policy)です。蛇に牛乳とバナナを与えても益はありません。蛇は決して満足するということがないからです。その反対に、牛乳とバナナを飲み食いすることで、蛇は単にもっと毒を強めます。(サンスクリット引用)

もしも蛇が牛乳を与えられて飲めば、その毒は単に増すのです。同じような理由により、私たちは自分の心を蛇のようなマーヤーヴァーディーやカルミーに明かすべきではありません。そのようにして心を開くことは、何の助けにもなりません。彼らとの関わりを完全に避けて、何らの内密なことについても尋ねないのが最良です。彼らは良い助言を与えることができないからです。私たちは、マーヤーヴァーディーや無神論者を招いたり、彼らからの招きに応じたりするべきではありません。

そのような親密な交じり合いによって、私たちは彼らの無神論的な精神性の影響を受けるかもしれないからです。(サンスクリット引用)私たちがマーヤーヴァーディーや無神論者に何かを与えたり、彼らから何かを受け取ったりすることを避けるべきである、というのは、この節の否定的な禁止命令です。(訳注:してはいけません)シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、(サンスクリット引用)とも警告していらっしゃいます。

「俗世的な人々によって料理されたものを食べることによって、人の心は邪悪になります。」非常に高度に発達した水準にない限り、人はすべての人々からの助力をクリシュナ意識運動を発達させるために使うことができません。したがって、原則として人はマーヤーヴァーディーや無神論者からの慈善を受け入れるべきではありません。実際、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、物質的な感覚の満足にあまりにも執着している(addicted、中毒している)普通の人々との関わりさえ禁じていらっしゃいます。

第7段落

結論として、私たちはいつも献身者と関わりを持ち、規律的な献身の原則を守り、アーチャーリャたちの足跡を辿り、完全に服従して霊的指導者たちの命令を遂行すべきです。このようにして、私たちは自分の献身奉仕と潜在的なクリシュナ意識を発達させることができます。初心者でもなく、マハーバーガヴァタ(大いに発達した献身者)でもなく、献身奉仕の中程度の水準にいる献身者は、至高の人格神を愛し、献身者と友人になり、無明なる人々に親切心を示し、ねたみ深い人々や悪魔的な人々を退けることが期待されています。

この節において、至高の人格神と愛情ある交換をし、献身者と友人になるための過程について、短く言及されています。ダダーティの原則によれば、発達した献身者は自分の収入の少なくとも50%を主と主の献身者への奉仕のために使うこととされています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、ご自分の人生においてそのような実例を示されました。

引退する決心をしたとき、彼は自分の人生で稼いだものの50%をクリシュナへの奉仕のために、そして25%を自分の親戚のために配り、そして25%を個人的な非常時のために保持しました。すべての献身者がこの例にならうべきです。どれくらいの収集であっても、半分はクリシュナと主の献身者のために費やされるべきです。そしてこれはダダーティの要請を満たします。

第8段落

次の節では、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは私たちに、どのような種類のヴァイシュナヴァを友人として選ぶべきか、そしてどのようにヴァイシュナヴァに奉仕をすべきかを教えてくださいます。

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やっと4課までタイプし終わりました。あと一週間くらいで何とかなるかな?読むほうも大変ですね。

ところで、面白いビデオを発見しました。この人は宇宙人か、と思うような人です。英語ですけど、画像だけで結構いろいろ分かるので、ぜひご覧ください。カレーやヨガや貧困のイメージに押されてはいますが、インドは世界に冠たる科学立国でもあります。

ただ、こんなふうなエイリアンな技術も、クリシュナを忘れていると技術のための技術となり、破滅への道をいっそう滑らかに舗装してしまうわけです。障害物無し、速度制限無しの一方通行になるか、はたまた「すべてはクリシュナのために」ということを思い出して奉仕に使うか。。。どうでしょうね。

なお、この技術は何とオープン・ソースになってます。一般に開放されるので、誰でも発展改良に取り組めます。我こそは、と思うハイテク献身者のあなた、腕を振るってみますか?
インドのハイテク技術
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by ammolitering4 | 2009-12-06 10:03 | 「教えの甘露」 | Comments(2)