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手紙4

ナレーション

公けの会合で彼が生命を作り出せることを実証するように挑戦されて、コヴォール博士は、「神が個人的に現れて同じことを実証するのでなければ、彼が生命を作り出せると実証する義務を感じない」と言って出席を拒みました。タイムズ紙はこれを「途方に暮れたコヴォール、掛け金を見送る」という見出しで報じました。その後、シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーはコヴォール博士に次のような最終的な手紙を送りました。



手紙4

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月15日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会


拝啓

あなたは自分を神の上に位置付けたいと望みましたが、神の献身者たちは新聞が正しく書いたようにあなたを打ち負かしました。私は、読者たちもまた、生命が化学物質から生じるという理論について啓蒙されたものと確信しています。

あなたは、ISKCONによって公的に挑戦された世界中で最初のいわゆる科学者であり、またあなたは完全に公けの目に晒された最初の人物でもあることを知ることに、あなたは興味をお持ちになるかもしれません。あなたの件は、歴史における画期的な出来事です。ほとんどの宗教的な共同体において、霊的な生活ははるか昔に死に絶えたので、現実的に現代においては有神論的な視点を正しく提示することができる者は誰もいませんでした。しかし、国際クリシュナ意識協会は、ユガ・ダールマ、この時代のための真に科学的な宗教の方法を提示しています。それ(ISKCON)は、ヴェーダの方法を完全に教え、したがっています。もちろん、すべての宗教的な運動は真正であると主張します。しかし、私たちは真正なるものを不正直なものから区別しなければなりません。あなたの欠陥は、あなたが繰り返しペテン師に出会って不満を募らせたので、早まってすべての宗教は偽りであると結論したことです。あなたは神と宗教に偽りであるという烙印を押したがりますが、偽物は真正なる対応物との関係においてのみ理解され得ます。それをあなたは知り損ねています。あなたは何が本物なのか知らないのです。

私は、すべての科学者が偽りであるとは言いません。しかし私は、あなた、あるいは生命が不活性な物質から生じると主張する者は誰でも、確かに愚か者、あるいは偽物であると言います。事実、あなたは両方です―――あなたは頑固に生命が化学物質から生じるという愚かな主張にしがみついているからです。あなたの理論と、化学物質から金を作り出そうとした(そして失敗した)錬金術師のそれとの違いは何ですか?現代の科学者は、錬金術師たちを嘲ります―――それなのに、彼は化学物質から生命を作り出すと主張します。これは愚言の極みではありませんか?もしもあなたが化学物質から生命を作り出すことで証拠を提供するなら、私はまだ化学物質から生命が生じると説得される用意があります。

今、あなたの人生はほとんど終わりかけています。そして、死のとき、死の使いがあなたの魂を取りにくるとき、おそらくあなたはこのすべてを思い出し、すべてを理解するでしょう。しかし、そのときには遅すぎます。あなたは無力にも、もう一つの生老病死という形の物質的な苦闘の人生を繰り返すために引きずり下ろされるからです。しかし、もしも人が単にハレ・クリシュナを唱えるならば、彼はこの大変な苦闘から救われます。私はあなたがそれをすることを願っています。

ハムサドゥータ・スヴァーミー




著者について

11年前の(訳注:1978年より11年前)彼のクリシュナ意識のキャリアの始まりから、シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーは情熱的な宣教精神を見せました。ニューヨーク市でISKCONに参加した後、彼はモントリオール、ボストン、バンクーバーおよびバークレーで会館を設立する助けをしました。1969年にシュリーラ・プラブパーダは彼にドイツへ行くように頼み、5年の間、彼は国中を旅し、クリシュナ意識の科学を教え、会館を開き、シュリーラ・プラブパーダの「バガヴァッド・ギーター・アズ・イット・イズ」、「シュリマッド・バーガヴァタム」、「主チャイタンニャの教え」その他の本の翻訳と出版を監督しました。1976年にはシュリーラ・プラブパーダは彼に放棄階級(サンニャーサ)の位を与え、今日では彼はGBC(運営団体委員会)のメンバーの一人として、BBTの役員として、そしてヴァイシュナヴァ・アーチャーリャとして、スリランカ(セイロン)とアメリカ合衆国北西部におけるISKCONの活動を管理し、南インド中にクリシュナ意識を広めています。




編集者のメモ

アブラハム・T.コヴォール博士は、1978年9月18日にスリランカで亡くなりました。彼は癌と戦っていましたが、死の原因は心不全であると断定されました。

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以上です。今後は私は本業が忙しくなりましたので、当分の間更新しませんのでご了承ください。本業というか、趣味で描いてるガラス絵ですけど。よろしかったらガラス絵サイトもごらんください。

次の本は、一章ごとに仕上げて更新する予定です。ガラス絵は展示会の予定はありませんが、11月半ばから2週間ほど日本に行きますので、実物を見たいという方がいらっしゃいましたらご連絡ください。都合がつくかどうかは保証できませんけれど。
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by ammolitering4 | 2009-09-26 13:01 | 「生は生より来たる」 | Comments(2)

手紙3

手紙 3

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月15日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会


親愛なるコヴォール博士、

私はあなたの1977年9月10日付けの手紙を受け取りました。そして内容を注意深く検討しました。

私たちのそれぞれの観点を互いに説得するのが無駄であれば、あなたの科学、合理性、そして真実の探求の意味は何なのですか?あなたの手紙の最後―――「真実の探求において(敬具)」―――は、あなたがまだ真実を見つけていないことをほのめかしています。それがあなたの欠陥です。あなたはまだ真実を見つけていないのに、真実を知っている振りをして、そのように話します。

ヴェダーンタ・スートラの最初の句節は、(サンスクリット引用)「人間の形の人生においては、人は完全真理、すなわち神について問うべきである」というものです。あなたは神が何であるかを知りません。それなのにあなたは「創造者という問題は入り込みません。物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないからです。絶滅したものも現存しているものも、様 々な形の地球上の生物は、適切な状況のもとで化学的な進化の結果として地球上に形成されたタンパク質の高分子の、何百万年もの生物学的な進化の産物です 」と書きました。平易な英語で言うと、あなたは、生命は偶然の生化学的な組み合わせの結果である、ということを意味しているのです。それでは、もしもこれが事実であれば―――そしてもしもこの言明によってあなたが自分の合理主義者、科学者、真理の探求者としての名声を確立したいのであれば、ではなぜあなたは私がこんなに何度もそうしてくれと挑んだように、いくつかの化学物質を組み合わせてそれらに生命を吹き込むことを、繰り返し怠るのですか?

あなたは自分の哲学が「既存の科学的な証拠に基づく」と言います。それでは、生命が物質から生じるという科学的な証拠はどこにあるのですか?科学物質を混ぜて証明してください!あなたは「私の考える限り、宇宙は単に時間と空間における物質とエネルギーです 」と言います。この物質とエネルギーと時間と空間はどこから来たのですか?何らの理由や証拠も挙げず、あなたは「創造者という問題は入り込みません。物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないからです 」と言明します。しかし、そうは言っても、あなたは「誰があなたの「主」を作ったのか、そして宇宙が作られる前は彼はどこにいたのか 」と私に尋ねます。あなたの発言は一貫性がありません。まずあなたは物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないと言い、それからあなたは宇宙の創造の前に主はどこにいたのかと聞きます。これは明らかな矛盾です。これは、あなたの真実の探求の道はまだまだ先が長いことを表しています。

研究は、人がヴェーダから知識を受け入れるときに結論に達します。まことに、ヴェダーンタは「知識の終り(訳注:最終地点、という意味。原語はend」を意味するのです。

あなたのすばらしい発言を支える証拠を提出する代わりに、あなたは生命を作るように神に逆に挑戦することで本当の問題を曇らせようとします。この手の戦法は、裁判官の前に出されて収入の方法を見せるように言われたときに、政府にまずその収入の源を見せるように挑む一文無しの物乞いのそれのようです。そのような挑戦は、ほとんど考慮されません。

ローマ、ギリシャ、イギリス、アメリカ、あるいは国際的な法律によると、挙証責任は実際に非難をする原告にあり、被告にはありません。あなたはヴェーダを怪しげであるとして、神を架空であるとして、そして神とヴェーダに従う者を精神的に狂っていて愚かで騙されやすい、独断的な狂信者であるとして非難します。しかし、挙証責任はあなたの上にあります。理由や証拠を挙げないで、あなたは「創造者という問題は入り込みません 、、、すべては偶然の生化学的な組み合わせによるものです」と言います。私はこれを盲目的に受け入れなくてはならないのですか?義務はあなたの上にあります。化学物質を混ぜて生命を作り出してください。それが科学です。しかし、取るに足らない蚊でさえ、化学物質から作り出せる科学者はいません。したがって、現状では私たちではなくあなたこそ、精神的に狂って、愚かで、騙されやすく、独断的で、完全に狂信的であるように見えます。

科学者たちは、迷信深い原住民の文章であるとしてヴェーダを信用しないのを好みます。しかし、文法、文章構成、詩文、韻律において非常に完全で、文法だけを習得するのに学者に12年必要な言語で書いたのは、どのような種類の原住民だったのですか?何千年も前に、一秒の千分の一から宇宙時間の完全な長さまで時間の区分を公式化したのは、どのような種類の原住民だったのですか?何千年も前に現代の科学者が最近になって見つけただけのすべての惑星を描写することができたのは、どのような種類の原住民ですか?今日、ヴェーダのいわゆる原住民が何千年も前にしたように、子宮の中で起こっている受胎の過程を完全に描写できる科学者はどこにいますか?どうやってこれらの非文明的な原住民たちがヴェーダの中で840万の異なる生命の種のすべてを分類して列挙することができたのでしょうか?非文明的な原住民の怪しげな文章であるはずのヴェーダの中に、なぜ音楽、医薬学、芸術、政治、建築学、軍事学(訳注:原語はwarfare)、そして心理学が含まれているのでしょうか?非文明的な原住民が、なぜ読み書きの技術を知っていて、それどころか原子や原子エネルギーを描写したりできるのでしょうか?なぜ彼らが惑星の軌道や大きさ、その日食、そして宇宙の大きさを描写できるのでしょうか?そして、なぜ彼らが魂と超魂、神を描写できるのですか?

もしもクリシュナがヒンズー教の土着の神であれば、なぜオッペンハイマーのような科学者が、主がお話しになったバガヴァッド・ギーターを研究することで主に注意を払ったのですか?もしもこれらが非文明的な原住民の迷信と狂った考えに満ちた本であるなら、なぜアインシュタイン、ショーペンハウエル、カント、ヘーゲル、エマーソン、ソロー、シュバイツアー、そしてあなたよりももっと重要で優れた多数の科学者たちがヴェーダ文献を―――特にバガヴァッド・ギーターを―――読むのですか?あなたの権威は何ですか?あなたは神より偉大なのですか?あなたは、これらの大いに学識があって名誉ある人々が皆、非文明的な原住民の文章を読むことに彼らの貴重な時間を費やす他にすることがなかった愚か者や悪者だと考えるのですか?あるいは、ヴェーダはもともと創造の初めに神によって与えられた知識の書であり、不幸にしてあなたが何も知らないところの師弟継承というヴェーダの伝統の中で手渡され続けることで保存されてきたのでしょうか?

科学者として、幾らかの時間をとって誠実にヴェーダを、限られた不完全な推察と実験の結果であるあらかじめ考えられた見解によってではなく、その真価によって検証することは、あなたのためになるでしょう。

人が神の存在について肯定的に話す場合も否定的に話す場合も、中心点は神です。あなたは、「存在しないものに証拠を出すのは科学のあり方ではないことをあなたが理解してくれればいいと思います」と言います。しかし、いわゆる科学者たちが神の非存在を証明するのに大変忙しくしているのを私たちは見ます。論理によれば、人は存在しないものは何も知覚できません。そしてもしも非存在の独立体が知覚できないものであれば、肯定的にせよ否定的にせよ、どこにそもそもそれを議論する余地があるのでしょうか?

科学者たちによれば存在を持たない、神という主題から、彼らが離れられないように見えるというのは、多くのいわゆる科学者たちの奇妙な狂気です。彼らの科学的な研究のすべての目的は、生命と創造の代替的な原因と理由を見つけようとすることで、神と聖典の権威に自分たちが反抗したことを正当化しようとすることであると私たちは見ます。これらの科学者たちは、生命は不活性な化学物質から生じたと信じたがりますが、誰もそのような出来事を観察したものはありません。したがって、そのような信仰に基づいた科学は悪者や愚か者の科学でしかないのです。

私からあなたへの、あるいは生命は化学物質から生じると主張するあらゆる科学者への挑戦は、まだ続いています。化学物質を混ぜて生命を作り出してください。なぜあなたはそれができないのですか?あなたは「それはこのようなものです、それはあのようなものです」と言います。それでは、なぜあなたは生命を作れないのですか?太陽光があり、土があり、水、空気、火、そして他のすべての材料があり、そして生命は神によって作られ続けています。もしもあなたが神より偉大なら、なぜあなたは何かを作り出せないのですか?もしもあなたが生命を作り出せないなら、あなたのお喋りが何の役に立つでしょうか?あなたは老齢や病気や死を止めることもできません。あなたのお喋りは、単に空虚で無意味です。あなたには何もできないのに、それなのにあなたは生命は化学物質から来るのだと言って喋っています。あなたは喋る科学者であり、私は実際的な科学者です。何からの化学物質を摂取して、あなた自身を老齢と病気と死から救ってください。私はあなたに卵を作るように頼みました―――それはどこですか?鶏はあなたより優れた科学者です。それは卵を産んで、一ヶ月のうちにもう一羽の鶏を作り出すからです。したがって、あなたは重要さにおいて鶏に劣ります。鶏は生命を作り出していますが、あなたは空虚な音しか作り出せません。

敬具(訳注:原語はIn the service of Krishna)

ハムサドゥータ・スヴァーミー
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by ammolitering4 | 2009-09-26 12:23 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

手紙2

手紙 2

アブラハム T. コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会
1977年9月10日

ハムサドゥーサ・スヴァーミー殿
ISKCONスリランカ


拝啓(訳注:原語はDear Sir)

(あなたの)お手紙から、現存する科学的な証拠に自分の哲学の基礎を置く私と、ヴェーダと呼ばれる怪しげな聖典に自分の信仰の基礎を置くあなたが、互いを説得しようとするのは無駄であることは明らかです。

もしもあなたが、私が公共の目の前で実証することによって「生命が適切な状況のもとで化学的な進化によって不活性な物質から生じた」という私の見方を立証すべきだと主張するなら、私もまた、あなたが公共の目の前で実証することによって「私たちがその存在を目にするものは、すべて主の創造であり、創造は毎瞬行われている」というあなたの言明を立証してくれるように頼む同じ権利があります。あなたがあなたの「主」にこれを実証してもらわない限り、あなたは私に一方的なショーをするように期待するには及びません。

私の考える限り、宇宙は単に時間と空間における物質とエネルギーです。創造者という問題は入り込みません。物質、エネルギー、空間および時間には、いずれも始まりも終りもないからです。絶滅したものも現存しているものも、様々な形の地球上の生物は、適切な状況のもとで化学的な進化の結果として地球上に形成されたタンパク質の高分子の、何百万年もの生物学的な進化の産物です。

あなたは私に誰があなたの「主」を作ったのか、そして宇宙が作られる前は彼はどこにいたのか、説明することができますか?

敬具(訳注:原語はYours in Search of Truth、真実の探求において)

アブラハム・T.コヴォール博士
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by ammolitering4 | 2009-09-26 11:25 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

手紙1

手紙 1

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月6日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会


親愛なるコヴォール博士、

私は更に熟考し、神の存在、魂、そして魂の再生について、あなたにもう少し意見を述べることに決めました。これはきっとあなたにとって興味深いものであると確信しています。

科学者の心の中の最大の病気は、科学的な実験によって証明されない限り、彼らが物事を事実であると信じないということです。科学者が何かを言明して、その言明を科学的な実験で支えるとき、誰もが完全に納得させられ、何の質問も投げかけられません。私たちがこれらの科学者に霊魂について語るとき、彼の普通の返答は「どうやって人は魂の存在を探知できますか?」というものです。彼らは機械と働くことに慣れきっているので、彼らは魂が科学的な実験によって探知できるかどうかと考えるのです。しかし、科学者たちは、彼ら自身の科学的な領域においてさえ、実験によっては証明し得ない多くの事実があることに同意しなければなりません。事実は、魂は存在しますが、その存在を理解するためには、私たちは知識を正しい人から―――シュリー・クリシュナ(神)あるいは師弟継承による主の代理人、すなわち霊的指導者から受け入れなくてはならないというものです。

科学界のすべての人は、数学者が「i」と呼ばれる架空の数字を使って働くことを知っています。それはマイナス1の平方根です。(√ー1=i)この数字は自然数(1,2,3など)の中には数えられません。しかし、数学の重要な部門―――たとえば解析機能の理論―――が、この架空の単位に基づいています。この数学の部門の助け無くしては、様々な複雑な理論や問題は解かれ得ません。このように、この数字の存在は否定され得ません。しかし、それを証明する実験はありません。同様に、統計数学の分野の科学者たちもまた、彼らの理論と議論を説明するために、様々な概念上のモデル―――たとえばアンサンブル―――を使います。これらは皆、実験的な科学の領域を超えています。もしも科学者たちがこれらの架空および概念的なモデルを受け入れる意思があるのなら、至高の科学者である主クリシュナによって与えられた完璧な知識を受け入れることに何の困難があるのでしょうか?

実験的な科学の限界を超えたもう一つの科学理論は、ハイゼンベルクの不確実性の原則です。この原則の主張は、いかなる物体であっても、その位置と運動量を同時に測定することは不可能であるというものです。数学的な言語で言えば、位置と運動量(重量と速度の積)の計測された値における不確実性の積は、プランクの定数よりも小さいことはありえない、と述べられています。この原則を証明できる既存の実験技術はありません。しかし、世界中の科学者が、実験的な証明は彼らの能力を超えていると知りつつ、この言明を事実として受け止めています。同様に、熱力学の第三の法則を証明する科学的な実験もありません。プランクによって公式化されたこの法則は、絶対零度における完全な結晶のエントロピーはゼロであると言明します。事実は、完全エントロピーを直接的に計測する方法はありません。したがって、この法則の証明は実験的な科学の領域を超えています。

また、いわゆる科学的な理論は常に変化しているということも特記されねばなりません。たとえば、19世紀はじめ(1808年)、ジョン・ダルトンは彼の原子理論を開発する中で、原子はこれ以上分割され得ないと述べました。しかし、19世紀の終りから20世紀の初めの頃、ダルトンの原子理論はもはや正確とは考えられないことが分かりました。原子は、さらに電子、陽子、および中性子という基本的な粒子に分けられることが観察されたのです。一部の原子は、アルファおよびベータ粒子を放射することができ、そうやって新しい原子を作り出すなどということも発見されました。事実、いわゆる核爆弾はこれらの発見の結果です。同様に、18世紀と19世紀にニュートンの力学は科学者たちの心に甚大な影響を持っていました。それは密度の濃い物質的な物体に適用できたからです。しかし、20世紀のはじめ、基礎的な粒子が発見されると、ニュートンの力学はこれらの粒子の動きを描写することができない、ということが分かりました。こうして、それらが見せる現象を説明するために、量子力学が発達しました。これらの理論は推察に満ちており、それもまた変化しています。過去と現在の科学的な理論が変化しているように、私たちは未来の科学的な理論もまた変化するということを理解することができます。

これらすべては、単に、非常に高い名誉を与えられた科学者たちの脳が不完全であり、結果としてこれらの脳によって提示された理論は常に不完全であり続ける、ということを表すだけです。本当は、完全な知識は変えられ得ません。しかし、完璧な知識を得るためには、人は完璧な源に近づかねばなりません。その源がヴェーダ文献です。もちろん、すべてを科学的な機器といわゆる論理、条理、演繹法、仮説と理論で試すことに慣れている、あなたのそれのような科学的な頭脳にとっては、これは信じられない言明に見えるかもしれません。しかし、それはどちらにしても事実なのです。これは、自己を認識した魂の指導のもとで、ヴェーダにおいて推奨されている方法に従うことによって自ら実験してみるほどに科学的な人は、誰でも理解することができます。

その方法は実際に大変現実的です。霊的指導者が霊的な訓練の過程を規定し、生徒が与えられた指導に従ってそれを実行します。もしも生徒が予見された結果を経験すれば、彼は「霊的指導者は正しかった」と結論します。もしも霊的指導者が本当に真正なる人であれば、結果は肯定的です。この過程は、正直な科学者が彼の実験的な方法と共に彼の結果を報告するのに非常によく似ています。結果を立証したいと望む者は、自ら同じ実験をすることができます。幾人かの科学者によって同じ結果が得られるとき、それは科学的な事実として受け入れられます。

結論として、誰かが生命は霊ではなく物質から生じると信じるとき、道徳性への彼の関心が相当に減少するということを指摘したいと思います。もしもすべての生命が単に偶然の化学的な反応の複雑な組み合わせであれば、そしてもしも至高の意識、創造者および統御者が無ければ、どこに道徳的な自制の必要性があるでしょうか?これは新しい哲学ではありません。古代ギリシャにおいて、エピキュラスは、すべては単に原子と無の組み合わせに過ぎず、それ以上ではない、と主張しました。今日では、「エピキュア(快楽主義者)」という言葉は、その主な活動がおいしい食べ物と飲み物を楽しむことである人を描写しています。結論は、偶然の生化学的な組み合わせが生命の源であるという哲学は、無節制な感覚の満足につながる哲学であり、決して科学的ではないというものです。私たちは、この哲学がいかに風紀を乱し不道徳であるかということの一つの鮮やかな例が、現在の世界中に広がった堕胎の実行にあるということを見ることができます。胎児は実際には生命体ではなく、単に生命のない化学物質の塊である、と教えられているので、人々は子宮の中のまだ生まれぬ子供たちを情け容赦もなく殺すことを納得させられています。

これらの論点についてあなたの考えを伺うことに私は大変興味があり、そしてもしもあなたがそれらについて何らかの疑いを持っていれば、さらに議論をする用意があります。

この手紙があなたのお気に召すことを願っています。

敬具(訳注:原語はRespectfully yours、敬意を込めて)

ハムサドゥータ・スヴァーミー
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by ammolitering4 | 2009-09-26 11:13 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

ナレーション

ナレーション

サンデータイムズがこのやり取りを掲載した後、ハレ・クリシュナ運動は公けにコヴォール博士に彼の「生命は偶然の生化学的な組み合わせから生じたのである」という言明を証明するように挑戦しました。ISKCONは、もしもコヴォール博士が何らかの形の生命―――ネズミ、猫、蚊、あるいは他の何であれ明らかに視覚し得る生物―――を不活性な化学物質から作り出せる場合は50万ルピー(6万ドル)を提供する、と公けに発表しました。サンデータイムズ紙は、次の記事を掲載しました。

「何十年もの間、人々に神の存在を証明するように挑戦してきたスリランカ合理主義者の高僧、アブラハム・T.コヴォール博士は、今、それを受ける側に立っています。

ISKCON(国際クリシュナ意識協会)は今、コヴォール博士に生物が物質から生じたという彼の主張を証明するように挑戦しました。

“ハレ・クリシュナ運動のメンバーである私たちは彼に、化学物質を混ぜることで蚊の一匹でもかまわないので、何らかの形の生命を作り出すように公けに挑戦しています。もしも彼が自分の理論を実証できないなら、彼は永遠に黙るべきです”とISKCONのメンバーは言います。

彼らは、9月20日午後6時半にラマクリシュナ・ミッション会館でコヴォール博士を待っています。一般市民の入場料は無料です。」

この問題がこのように紙上で交わされていた間、ハムサドゥータ・スヴァーミーとコヴォール博士は、手紙の交換を通じて独自に刀を交えていました。
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by ammolitering4 | 2009-09-24 07:41 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

記事3

記事3
サンデータイムズ
1977年9月4日

「挑戦はまだ続いている」
シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミー

まず、コヴォール博士は私が先の記事において予言したのと全く同じことをした―――つまり、主たる問題を避けるために読者を巧みに操った言葉の洪水で水浸しにした、ということが記しておかれるべきです。その主な問題とは、これです。もしも生命が偶然の生化学的な組み合わせによって生じるのであれば、科学者であるコヴォールは適切な化学物質を与えられれば化学物質に生命を吹き込むことができるのでしょうか?

この点に答える代わりに、彼は賢くも(訳注:原語はcleverly、この場合は「ずる賢い」という意味合いを持つ)こう書きました。「科学者たちはフェルミニウム、プルトニウム、アインスタイニウムなど10以上の元素を作り出しました。」

しかし、元素は生命からはかけ離れたものです。コヴォール博士は、シリル・ポンナムペルマ博士と、ノーベル賞受賞者であるバル・ゴビンド・コーラナ博士が生命原形質の構築ブロックを合成したと言います。もしもこれが事実なら、なぜコヴォール博士はこれらの構築ブロックを使って生命を作ることで挑戦に応えていないのですか?私の挑戦はまだ続いています。

試験管の中で赤ん坊を人工保育することについては、これは「生きた男と女の」(訳注:強調)精子と卵子を使ったときにのみ、なされ得ます。言い換えると、試験管の中の赤ん坊を作り出すのに必要とされる生命の種は、いわゆる科学者たちによっては作り出され得ません。もしも彼らが試験管の中で赤ん坊を作るなら、彼らの栄誉は何なのですか?神は既に自然の試験管、子宮の中で毎日何百万もの赤ん坊を作っています。一方で、科学者たちは堕胎によって子宮の中の赤ん坊を何千と殺し、それを「科学的な発展」と呼んでいます。

コヴォール博士の、「科学者たちは客観的な思考者です。彼らは自分たちの考えを実験的な知識に基づかせるからです」という言明は、魂は限られた感覚の範疇を超えたところにあるという私たちの論点を強調するだけに留まります。したがって、完全に異なるアプローチの方法が採用されなくてはなりません。実験的という言葉の定義は、「観察と実験に基づいているもの」というものです。観察と実験は限界のある感覚を使ってなされ、そしてそのため、そのようにして得られた結論は当然限界があり、不完全です。このように、魂と神の存在は、事実まことにコヴォール博士の観察能力を超えているのです。なぜ彼はこれほど頑固であるべきでしょうか?これは、誰でも理解できる常識的な論点です。

コヴォール博士は、「創造的な考えに携わることは、人間の独特の能力です。それは彼をして自然の法則に対する戦いに勝利させました」と言います。これは愚か者たけが言う不合理な主張です。自然は、すべての人が老齢と病気、そして最終的に死を経験することを強制します。世界の最も強大な征服者でさえ、自然によって、すべてを滅ぼす死という形で生命の舞台から無力にも引きずり下ろされます。コヴォール博士は、歴史上初の死なない生命体になるのでしょうか?それはまだ分かりません。
最後に、コヴォール博士は「近年の人類のすばらしい業績の一部は、原子エネルギーの解放、宇宙飛行、月への着陸」などであると言います。原子エネルギーを発見した後で、科学者たちが最初にしたことは、原子爆弾を作ってそれを直ちに日本に落とし、そうして何千何万もの罪のない被害者たちを一瞬で滅ぼしたことであることを誰もが知っています。まことに素晴らしいではありませんか。

気の遠くなりそうな何十億ドルというお金と何年もの研究と大変な労働を費やして、科学者たちは恐らくは月へ行きました。もちろん、彼らが「持ち帰った」ものは、いくらかのピンボケした写真と、少々の岩と、月は荒涼としているという新事実だけです。そして今、彼らは火星へ行くためにもっとお金が欲しいと言います。これの何がそんなに素晴らしいのですか?それは完全な狂気です。私たち自身の惑星の上で、何百万という人々が食べ物や住みかや基本的な教育を得られずにいます。もしも月から岩を持ってくることに何億ドルも使う代わりに納税者が汗水流して稼いだお金を地上で彼らの暮らし(lot)を改良するために使うのであれば、科学者たちはもっと栄誉があるでしょう。中国から来たものであれ、月、あるいは火星から来たものであれ、岩は岩です。あるいは、科学者は岩に何かの化学物質を加えてパンとチーズに変えられるのですか?

さて、主な論点に言及すると、コヴォール博士は、どのような客観的な証拠に基づいて私たちが「生命と物質はどちらも生命から生じる、魂が存在する、魂の再生が存在する、そして至高の魂、神が存在する」(訳注:分かりやすくするために括弧を付加)という素晴らしい言明をするのか、と聞きます。「火には火をもって戦え」と言われます。したがって、私は単にコヴォール博士に、3人の研究者による権威があって合理的で全く科学的な発見を参照していただきたいと思います。彼らは皆、博士号があり、バクティヴェダンタ協会の会員です。彼らが提示した証拠(*)を検討したあと、本当に合理主義者である者は、生命は決して物質からは発生せず、生命のみから生じるのであるという彼らの結論に同意するでしょう。(should)

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ

*バクティヴェダンタ協会学術論文
#1「物質とは何であり、生命とは何であるか」
#2「生命が物質からは生じ得ないということの情報理論による論証」
#3「意識と自然の法則」
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by ammolitering4 | 2009-09-24 07:27 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

記事2

記事2

サンデータイムズ
1977年8月28日

「それはコヴォールの観察能力を超えたものではない」
アブラハム・コヴォール博士


「それはコヴォールの観察能力を超えている」と題する8月21日のサンデータイムズの記事において、「ハレ・クリシュナ」カルトのマハーカーンタ・ダーサおよびハムサドゥータ・スヴァーミー両氏は、生化学、分子生物学、神経生物学、優生学、遺伝子工学、子宮外受精、単為生殖などの生物科学の現代の部門に関する彼らの驚くべき無知を暴露しました。

彼らの書いたことから、彼らが生命を心および非存在なる霊あるいは魂と同一視していることは明らかです。彼らは、すべての生物が生命を持っている一方で、神経系統を持っている動物だけが心を持っていること、および動物における精神的な能力は彼らの神経系統の発達に比例して差があることを知らないように見えます。何千年もの間の無数の狂信家たちの信仰に反して、生命体の中の魂の存在の生物学的な証拠は全くありません。ダーサおよびスヴァーミー両氏は、「霊的な科学の教授たち」によれば、魂が存在し、魂の再生があり、至高の魂―――神があると言います。

私は、これらのいわゆる教授たちが何の客観的な証拠に基づいてこの素晴らしい言明を述べるのか知りたいと思います。二人の著者によれば、生命は物質に先行します。彼らは「一部の科学者たちが私たちに信じさせるように、生命は化学物質の組み合わせから生じたというのではありません。むしろ、物質を生じさせるのは生命なのです」と言います。

地球という惑星の上の生命の主な源は太陽です。太陽エネルギーは、光合成として知られる反応連鎖によって太陽光線が化学エネルギーに変換されるとき、緑色の植物の中に固定されます。植物以外の生命体は、彼らのエネルギーを緑色の植物、あるいは緑色の植物を食べる何者かを食べることによって得ます。これらの食物物質は、生命体に活力となるエネルギーを供給するための燃料として働きます。食物の中のエネルギーは、呼吸の間のゆっくりとした酸化によって活動的なエネルギーとして解放されます。

ダーサとスヴァーミーは、科学者たちは彼らの不完全な感覚能力によっては物事の真実を「霊的な科学者」たちがするようには理解する能力がない、と言います。これらの偽物の科学者たちの感覚能力は、本物の科学者たちのそれよりももっと効能が良いのですか?あるいは、いわゆる霊的な科学者たちは感覚知覚以外の何かの特別な形の知覚能力を持っているのですか?

知識と啓蒙(enlightenment)は、自己催眠の形に過ぎない瞑想を通しては得られません。

ダーサとスヴァーミーは、科学者たちがプラスチックの卵から鶏を生じさせることができるかと聞きます。

私は、科学者たちがフェルミウム、プルトニウム、アインスタイニウムなど、それらを作るのに必要な技術を知らなかったので神には作れなかった10以上の元素を作り出したことを、彼らが知っているかどうか知りません。これらの二人の人々は、スリランカ人の科学者シリル・ポンナムペルマ博士と、ノーベル賞受賞者であるインド人の科学者バル・ゴビンド・コーラナ博士の、地球の初期的な大気に行き渡っていた状態を再現して不活性な物質から生きた原形質の構築要素であるアミノ酸を合成することにおける成功を、知らないのでしょうか?彼らは、人間の卵子と精子細胞が試験管の中で受精させられることができ、胎児が人工子宮や借りた女性の子宮の中で発達させられることを知っていますか?

この惑星の上で進化した動物たちの中で、人間はそのすべての活動において進歩した唯一の動物です。それを彼は(訳注:人間は)彼の知識と科学を通して達成しました。すべての生命体が今日なお彼らの先祖が何百万年も昔にしたように暮らし続けている一方で、人間だけは科学と技術を使うことで洞窟に暮らす人々の水準から現在の宇宙に出て行く人々の水準まで発達しました。何らかの神や、何らかの聖典から得られた知識の助けによってではないのです!

医科学と社会福祉における発達は、もっともっと多くの不適格者が生き延びて、もっともっと多くの非適格者を将来の市民として再生産する助けをしています。短期的な目標は達成された一方で、長期的な目標は危険にさらされています。未来の政府は、「生命は至高の魂から生じる」ということに基づいて不適格者が不適格な子供を再生産することを許さないでしょう。

創造的な考えに携わることは、人間の独特の能力です。それは彼をして自然の法則に対する戦いに勝利させました。高度に発達した全能と深く渦巻いた大脳皮質は、彼が創造的に考えるのを助けました。一般的な原則として、科学者たちは客観的な思考者です。彼らは自分たちの考えを実験的な知識に基づかせるからです。一方で、神秘主義者や夢想家、ダーサやスヴァーミーなどのいわゆる霊的な科学者は、彼らの考えを彼らの主観的な知覚に基づいて構築します。化学、物理学、数学、地学、歴史、地質学、人類学、古生物学、工学、医科学、天文学などの本は、客観的な思考の産物です。一方で、「アラビアン・ナイト」、「ガリバー旅行記」、御伽噺、「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」、聖書、コーラン、「天路歴程」(訳注:ジョン・バンヤンによる寓意物語)、「ジャータカ物語」、占星術、手相術、数秘術、神学、鬼神学などは、主観的な思考者の産物です。前者は事実、後者は架空です。

近年の人類のすばらしい業績の一部は、原子エネルギーの解放、宇宙飛行、月への着陸、臓器移植、人工衛星コミュニケーションなどです。これらすべては科学を通して達成されました。精神的に狂った知識人たちは、彼らの幻覚を詳述する能力があり、しばしば様々な形の宗教的なカルトの創設者や布教者になります。

アブラハム・T.コヴォール博士

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さあ、なんだか空恐ろしいことが書いてあります。ほんの30年ほど前の文章だというところがもっと怖いです。優生学は現在では一見下火になっているように見えますが、精子バンクなんてものもできてるし、メンタリティーにあんまり変化はないのかもしれません。もっと巧妙になってるだけなのかも。優生学については、ぜひ一度リサーチなさることをお勧めします。ああ、それから、この辺りからは文章がもっと難解です。古風なインテリの人たちの文章なので、構文がやたらと長くて小難しいのです。どうぞがんばって解読してください。
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by ammolitering4 | 2009-09-24 06:27 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

挑戦、記事1

「挑戦」

ナレーション

アブラハムT.コヴォール博士は、神と魂の存在を否定する(to disprove、非存在を証明する)ことを主な目的とする合理主義者協会のスリランカ支部の支部長です。1977年8月14日、コロンボ(スリランカ)のサンデー・タイムズ紙は、コヴォール博士による「死後に生命はあるか?」という記事を掲載しました。この記事の中でコヴォール博士は、生命は単に複雑な化学的な反応であり、実際には魂なるものは存在しないため、魂は死を生き延びることはできない、と主張しました。この記事は、コヴォール博士とISKCONスリランカ支部のメンバーとの間で、サンデータイムズ紙上および書簡での白熱した議論につながりました。サンデータイムズ紙の記事と書簡の一部をここに紹介します。

記事1.

サンデータイムズ 1977年8月21日

「それはコヴォールの観察能力を超えている」
シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーおよびマハーカーンタ・ダーサ

コヴォール博士と彼の同類の人々は、彼らの知識の水準に誇らしく立っています。しかし、詭弁法の専門家でない一般市民の利益のために、論理と道理と科学の発展の守護者の振りをするコヴォール博士のような人々は彼らが自分たちの限られた感覚の範囲を超えたところに位置する事柄に干渉するとき、沈みつつある船で航海しているのだ、ということが指摘されるべきです。これは特に死後の人生という問いに当てはまります。

コヴォール博士の記事の最初の行は、「私は自分の生命が私の体の特定の場所に位置するという見方はしません」というものです。この言明、並びに後のもの---「私は私の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」---は、彼がそれの上に立つことを選んだところの貧弱な立場をさらけ出します。記事全体を通して、コヴォール博士は自分の観察能力を完全に超えた主題に関して自分の見方や信念や意見を述べています。そして彼はこれらの想像的な推察を決して誤りのない科学的な真実として偽って通そうとします。

コヴォール博士のご発言はごもっともですが、私は、その力に基づいて彼が死後の生命についてこれほど多くの言明を述べたところの直接的な感覚の知覚作用の過程は、完全に制約されていて不完全であることを指摘したく思います。

たとえば、目を考えてください。それらは、ある特定の状況の下においてのみ機能します。もしも光がなければ、私は自分の顔の前の自分の手さえ見ることができません。私たちは、目に一番近いもの、まぶたを見ることができません。また、私たちは最も遠いもの、宇宙の果てを見ることもできません。実に、目は不完全なのです。同様に、触覚、味覚、嗅覚も限られており、心もまた不完全です。したがって、不完全な感覚知覚作用に基づいた結論もまた、必然的に不完全なのです。

不完全な感覚知覚作用に基づいた研究、実験、および推察は、彼らの範囲の内にない事柄に当てはめられた場合は無意味です。そのようなこと方に感覚知覚作用をあてはめようとするのは、子供が世界中の男性に尋ねることで自分の父親を知ろうとするようなものです---どう控えめに言っても、不合理な思いつきです。自分の父親が誰であるかを理解するためには、人は自分の母親の権威を受け入れなければなりません---他に方法はありません。誰も受胎のときに自分の父親を見ることはできないので、人は自分の母親の言葉を受け入れなくてはならないのです。あらゆる正気の人はこれを受け入れなくてはなりません。

魂および再生について、コヴォール博士は「私はそれを信じるためのいかなる正当な理由も証拠も持っていません」と書いています。この言明は、単に直接的な感覚知覚作用の過程が有限であり、したがってそれがその範疇を超えた事柄に当てはめられたときは何の結果ももたらさない、ということを示すにとどまります。愚かにも「私は自分の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」と宣言するよりも、コヴォール博士はもしも彼が単に問題となっている主題を取り扱う上での自分の能力の欠如あるいは無資格を認めれば、もっとずっと安全で、かつ彼のプロフェッショナルな倫理にも誠実であるのです。魂は存在し、魂の再生が存在し、そして至高の魂---神が存在します。しかし、魂は断定的に物質とは異なるので、魂の存在および性質を理解するために当てはめられたときには物質科学の技術は必然的に失敗する、ということを私たちは指摘すべきです。

しかし、これは今日非常にもてはやされているでたらめな推察と意見作りにこの主題が開放されることを意味するのではありません。私たちが物質的な現象を扱うために物質的な科学を持っているように、私たちはまた霊的な科学的過程を持っています。それはそれを実行する人々に、密度の濃い物質と密度の薄い物質の壁を突き抜けて直接的に魂の真実とその再生、およびその、神、至高の魂との関係を経験することを可能にします。

本当の科学者は、決して未熟にも「私は私の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」と宣言することはありません。むしろ、彼は熱意を持って霊的な科学の尊敬されて認識された人々によって受け入れられた水準的な技術を進んで選び取ります。そのような科学者と、真理を真摯に捜し求める者は、そうしてのちに科学の利益のために自己をその過程に提供し、自分自身を実験の対象にします。権威ある霊的科学の教授の指導のもとですべての修練と技術を完全に実行した後においてのみ、彼はようやく問題の主題について判断上の所見を述べようとします。理論、観察、および実験は科学の本当の方法であり、そしてそれらは霊的な科学にも同じくあてはまります。

人生は、一部の科学者たちが私たちに信じさせるように化学物質の組み合わせから生じるのではありません。むしろ、物質を生じさせるのは生命なのです。生きた男と生きた女が性交によって組み合わさることが、生きた子供を生じさせる原因です。死んだ男と死んだ女は、生きた子供を生じさせる力を持ちません。生きた木は果実を生じさせる力を持っています。しかし、枯れた木にはそのような力はありません。生と死の間の違いは魂であり、それはバガヴァッド・ギーターにおいて優性エネルギー(パラープラクリティ)と描写されています。それは私たちの経験の範囲内にあるすべての現象を顕現させる優性なエネルギーです。

もしも生命が単に一部の科学者が提言するように化学的な組み合わせの展示であるなら、なぜ科学は生命を与える化学物質を死んだ体に注射して人を永遠に生きさせることができないのですか?もしも私たちが科学者たちに物質的な体の化学的な材料を与えれば、なぜ彼は化学物質を組み合わせてそれらに生命を与えられないのですか?

これらの問いに直面したとき、物質主義的な科学者たちは「私たちは試みています。私たちは将来においてそうします」と言います。しかし、これは科学ではありません。これははったりです。

これらの科学者たちは、誇りを持って「魂は存在しません。すべては偶然によって生じました」と宣言します。しかし、彼らの主張を裏付けするために何らかの実体のあることをするように頼まれると、彼らは私たちに後付け小切手を渡すことしかできません。「私たちは試みています。私たちは未来においてそうします。」典型的な物質主義的科学者であるコヴォール博士は、彼が「人間がその遺伝学における発達した知識を自らの主の質の向上のために使う日は遠くありません」と言うとき、この同じはったりに依存しています。

ここに、私からコヴォール博士への挑戦があります。彼に適切な化学物質を死体に注射してそれを生き返らせましょう。あるいは、適切な化学物質を彼自身に注射して彼自身の死を止めさせ、彼の古びて擦り切れた体をその若々しい栄光と美しさに戻させましょう。

もしも彼がこの課題は難しすぎると思うなら、蚊や南京虫などの簡単な生命体を作るのでも構いません。もっといいのは、(彼の記事の中で描写されていたように)彼が首を切り落としたカマキリの化学物質を組み合わせ、彼にそれを生き返らせましょう。あるいは、コヴォール博士の科学は生命の破壊への一方通行なのでしょうか?

科学はいまだに生命を完全体として作り出す一足飛びな過程の準備はできていないのかもしれません。もしもそうであれば、コヴォール博士に単にプラスチックの卵を作ってそれに黄色と白の化学物質を注射し、彼の人工的な卵を孵化して、そうやって一羽の鶏を作り、それが卵を産み続けてもっともっと多くの鶏を作り出すようにさせましょう。

この課題でさえコヴォール博士には少々難しすぎるかもしれません。それなら、彼は化学的な組み合わせによって一滴の牛乳や一粒の米を作り出せるかもしれません。そうすれば私たちは彼をまともに受け取り始めることができます。

もちろん、もっとも強力ないわゆる科学者にとっても、これが不可能な課題であることは誰もが知っています。コヴォール博士は、彼の次の論文において、疑いもなく彼のはったりを覆い隠すために冗長な言葉の連発を読者に提供するでしょう。その要点とは、「私たちはそれを未来においてします。私たちは試みています」というものです。どの言語においても、これは単にはったりなのです。

ハムサドゥータ・スヴァーミー
マハーカーンタ・ダーサ
クリシュナ意識国際協会
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by ammolitering4 | 2009-09-23 06:48 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

脚注

脚注

1.(1日目-1節)(以下、数字のみ)

ヴェーダの知識は、もともと一つのヴェーダとして伝わっていました。およそ五千年前、賢者ヴャーサデヴァがそれを四つのヴェーダに分けました。(リグ、ヤジュル、サーマおよびアサルヴァ)より知性の低い人々でも理解できるようにするためです。ヴャーサデヴァは権限を与えられた神の化身(empowered incarnation of God)でした。彼はまた、ヴェーダを四つのプラーナとマハーバーラタに拡大うる仕事を引き受け(訳注:原語はto undertake、義務として課された仕事を受諾する、という意味合いがある)、そして彼はすべてのヴェーダ文献をヴェダーンタ・スートラに要約しました。しかし彼はそれでもこの驚くべき文学的な達成に満足しませんでした。そのため、彼の霊的指導者ナーラダ。ムニの指導のもとで、彼はシュリマッド・バーガヴァタムを書きました。それは「ヴェーダの知識の熟れた果実」です。

2.(1-1)

バガヴァッド・ギーターは、世界中で広くヴェーダの知識の真髄として有名です。それは、クルクシェトラの戦場において、至高の人格神である主クリシュナによって主の親密な献身者であるアルジュナに与えられた聖なる教えを含んでいます。これらの教えの中で主クリシュナは、現在の偽善と口論の暗い時代における自己認識への完璧な道の科学的な解説を与えていらっしゃいます。

もともとはサンスクリット(梵語)で書かれているバガヴァッド・ギーターは、世界のほとんどすべての言語で出版されています。(英語だけでも600以上の翻訳があります。)しかし、尊師A.C.バクティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下による「バガヴァッド・ギーター・アズ・イット・イズ(邦題「BG、ありのままの詩」)」は、主クリシュナご自身から発する霊的指導者の真正なる師弟継承の中の主の純粋な献身者による、最初の英語の翻訳と解説です。したがって、「バガヴァッド・ギーター・アズ・イット・イズ」は主クリシュナのメッセージを歪みや個人的な解釈を全く交えずに提示しています。このように、それは、読者の潜在的なクリシュナ意識を実際に目覚めさせた、バガヴァッド・ギーターの最初の版です。

3.(1-2)
バンヤンは、インドの聖なるイチジクの木です。(学名フィカス・ベンガレンシス)その枝は地上に若枝を下ろし、そしてこれらが根付いて親枝を支えます。自身をこうして拡大し、一本の木がしばしば非常に大きく広がります。

4.(2-4)
18のプラーナの一つであるシュリマッド・バーガヴァタムは、一般に「欠点のないプラーナ」として知られます。それは五千年前にシュリーラ・ヴャーサデヴァによって書かれました。彼はそれを特に現在の偽善と口論の暗い時代の人々のために書きました。それは(同じ著者による)ヴェダーンタ・スートラのもともとの解説であり、すべてのヴェーダ文献の精華です。ここでシュリーラ・プラブパーダはバーガヴァタムの2巻(2.3.19)から節を引用しています。バーガヴァタムのシュリーラ・プラブパーダによる英語の翻訳の中で、この句は次のように表されています。

(サンスクリット引用)

(翻訳)犬や豚やラクダやロバのような人々は、邪悪さからの救済者である主シュリー・クリシュナの超越的な娯楽を決して聞かない人々を称えます。

(解説)一般大衆は、霊的な価値基準における、より高い人生の水準のために組織的に訓練されていない限り、動物より優れたものではありません。そして、この節において、彼らは特に犬、豚、ラクダ、ロバの水準に置かれています。現代の大学教育は事実上、より偉大な主人への奉仕を受け入れるための犬のような精神性を得るように人を訓練します。いわゆる教育を終えたあと、いわゆる教育のある人々は何らかの奉仕のために申込書を持って犬のように戸口から戸口へと動きます。そしてほとんどの場合、彼らは空きがないと言って追い返されます。犬は取るに足らない動物であって、少々のパンの見返りに主人に忠実に仕えるように、人は十分な報酬無しに主人に忠実に仕えます。

食物に関して何の分別もなく、あらゆるゴミを食べる者は、豚に例えられます。豚は糞を食べることに非常に執着しています。つまり、糞は特定の種類の動物にとっては一種の食物なのです。そして、石でさえ特定の動物や鳥にとっては可食物です。しかし、人間は何でもかんでも食べるようにはできていません。彼は、穀物、野菜、果物、牛乳、砂糖などを食べるようにできているのです。動物食(animal food)人間のためのものではありません。硬い食物を噛むために、人間は果物や野菜を切る特別の種類の歯を持っています。人間は、どうしても動物食を食べたい人のために譲歩として2本の犬歯を与えられています。ある人の食物は他の人にとっては毒だということは、誰もが知っています。人間は、主シュリー・クリシュナに捧げられた食物の残りを受け入れることが期待されています。そして主は、葉、花、果物その他(BG9.26)に分類される食物を受け入れられます。ヴェーダの聖典に定められているように、動物食は主には捧げられません。したがって、人間は特定の種類の食物を食べるようになっているのです。彼はいわゆるビタミン値を得るために動物を真似るべきではありません。したがって、食べることに関して何の分別もない人は豚と比べられます。

ラクダは、トゲを食べることに喜びを感じる動物です。家庭生活や、いわゆる楽しみの俗世を楽しみたい人は、ラクダと比べられます。物質的な生活はトゲに満ちています。そして、人は単に不利な取引から最善を得るために(訳注:物質世界にはまりこんでしまったという不利な状態において最善を求めるために、という意味。原語は「to make the best use of a bad bargain」)、ヴェーダの規則の規定された方法に従って生きるべきです。物質世界における人生は、自分自身の血を吸うことで維持されます。物質的な楽しみの中心的な魅力は性生活です。性生活を楽しむことは自分の血を吸うことであり、これに関してはこれ以上あまり説明することはありません。ラクダもまた、トゲのある小枝を噛みながら自分自身の血を吸います。ラクダの食べるトゲはラクダの舌を切り、ラクダの口の中に血が流れ始めます。新鮮な血と混じったトゲは愚かなラクダにおいしさを作り出し、そのため彼はトゲを食べるということを偽りの快楽をもって楽しむのです。同様に、偉大なビジネスの大実業家、様々な方法といかがわしい手段でお金を稼ぐために懸命に働く産業主義者たちは、彼ら自身の血と混じった彼らの活動のトゲのある結果を食べます。したがって、バーガヴァタムはこれらの病んだ人々をラクダと同列に並べました。

ロバは、動物たちの間でさえ最も偉大な愚か者として称えられている動物です。ロバは、自分自身には何の益もなく、懸命に働いて最大限の重荷を担ぎます。ロバは一般に、社会的地位のあまり高くない洗濯屋に使われています。そしてロバの特別の特徴は、異性に蹴られることに非常によく慣れているということです。ロバが性交を乞い求めるとき、彼はメスによって蹴られます。それでも彼はそのような性的な喜びを求めてメスを追うのです。したがって、恐妻家の男はロバに比べられます。一般大衆は、特にカリの時代においては、一生懸命に働きます。この時代においては、人間は実際には重い荷物を担いだりテーラー(訳注:サンスクリット。これは何か分かりません)や人力車を運転するというロバの仕事にいそしんでいます。いわゆる人間文明の発展は、人間をロバの仕事にいそしませるようにしました。大きな工場や作業場の労働者もそのような大変な労働にいそしみ、日中懸命に働いたあとは、気の毒な労働者は性的な楽しみのためだけでなく非常に多くの家庭内の仕事のために女性に蹴られます。

シュリマッド・バーガヴァタムが霊的な啓蒙の全くない俗人を犬、豚、ラクダ、およびロバに分類しているのは、全く誇張ではありません。そのような無明なる大衆の指導者は、そのような犬や豚の仲間にあがめられて非常に誇らしく思っているかもしれませんが、それはあまり嬉しがるに値することではありません。バーガヴァタムは、人はそのような人間の姿をした犬や豚の偉大な指導者であるかもしれないけれど、もしも彼がクリシュナの科学において啓蒙されることに何の魅力も感じないなら、そのような指導者もまた動物であってそれ以上ではない、と公然と宣言します。彼は権力のある力強い動物、あるいは大きな動物と見なされる(designated)かもしれませんが、彼はシュリマッド・バーガヴァタムの見方においては、彼の無神論的な気質のせいで、決して人間としては分類されません。あるいは、言い換えると、犬や豚のような人たちの神を忘れた(godless)指導者たちは、動物的な特質の割合がより多い、もっと大きな動物たちなのです。

5.(3-3)
時として、非常にお腹を空かせた人が、既に誰かが甘い汁を吸って捨てたサトウキビを拾い、幾らかの甘い味を得ようとして既に噛まれた繊維質を噛みます。これが「既に噛まれたものを噛む」というものです。

6.(4-1)
シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラ(1838-1914)は、霊的指導者の継承における最も優れたアーチャーリャ、すなわちクリシュナ意識の教師の一人です。彼の息子、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・マハーラージャ・プラブパーダは、尊師A.C.バクティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下の霊的指導者でした。シュリーラ・バクティヴィノダ・タークラは、クリシュナ意識の科学について多くの著作を著しました。1896年に、彼はカナダのマックギル大学に彼の小さな本の一冊―――「シュリー・チャイタンニャ・マハープラブ:主の人生と教え」―――の一部を送ることによって、西洋世界にクリシュナ意識の教えを導入しました。彼のベンガル語の歌の多くは、バクティヴェダンタ・ブック・トラストによって出版された「ヴァイシュナヴァ・アーチャーリャの歌(Songs of the Vaishnava Acaryas)」に収録されています。

7.(7-1)
昇順的な調査の過程においては、人は個人的な観察とそれに続く推察によって真実を見出そうとします。他方、降順的な過程では、彼は権威ある源からの教えを受け入れます。これらの二つの方法による問いかけは、それぞれ帰納法、および演繹法として知られています。

8.(7-1)
「私のグル・マハーラージャ」とは、シュリーラ・プラブパーダの霊的指導者、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・マハーラージャを指します。

9.(7-1)
ジャガッド・グルは「世界のグル」を意味します。

10.(7-2)
ヴァイシュナヴァとは、主ヴィシュヌの献身者です。クリシュナはヴィシュヌの本来の形です。したがって、クリシュナの献身者のすべてはヴァイシュナヴァです。

11.(7-3)
ラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミーは、シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブの近代の高位な献身者でした。彼は、主チャイタンニャのクリシュナ意識を世界中に広めるという使命を継続することをゆだねられた六人のゴスヴァーミーたちの一人でした。非常に裕福な家庭に生まれましたが、ラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミーは主チャイタンニャと出会った後は大変な禁欲の人生を送りました。

12.(7-3)
バガヴァッド・ギーター(18.54)。主クリシュナはおっしゃいます。「このように超越的に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを認識し、完全に喜びに溢れます。彼は決して嘆かず、何かを得たいと欲することもありません。彼はすべての生命体に対して中庸です。そのような状態において、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」

13.(8-1)
カルマは「活動」を意味し、カルマの法則とは、より高い権威者が私たちに私たちの敬虔な、あるいは非敬虔な活動に応じて、それぞれ好ましい、あるいは好ましくない反応(結果)を授ける過程を指します。聖書には、「汝が種を蒔くように、汝は刈り取るであろう」と書かれています。このように、私たちの現在の状況―――私たちが豊かである、賢い、美しい、あるいは私たちがアメリカ人、インド人、あるいは日本人の体を持っている―――などは、完全に私たちが自分たちの過去の単数あるいは複数の生において行った活動に基づいているのです。

究極的には、良くも悪しくも、すべてのカルマは好ましくありません。それは私たちを物質世界に呪縛するからです。しかし、クリシュナ意識での献身奉仕はアカルミックです。言い換えると、それはいかなる反応も生じさせません。そのため、アルジュナがクルクシェトラの戦場で対戦相手を殺したとき、彼は何の結果にも苦しみませんでした。彼は単に主クリシュナの意思を遂行していたからです。

14.(8-4)
DNA分子は、有機的な細胞における必要不可欠な建設と複製の単位です。多くの科学者はそれらを生命の源と見なしますが、ヴェーダの科学によれば、私たちは(DNAなどの)体の化学的な構成要素を、霊魂である生命特徴(life symptoms)の根源的な源から区別しなければなりません。

15.(8-4)
半神とは、人間よりも発達した存在です。彼らは私たちに似ていますが、はるかに優れた知性、美、すばらしい神秘的な力を持ち、時として多くの腕と頭を持っています。物質的な宇宙には三千三百万の管理的な半神が存在し、それぞれが宇宙の管理の特定の一面(熱、光、水、空気など)の責任を負っています。

16.(8-5)
バガヴァッド・ギーター(6.41-42)「敬虔な生命体の住む惑星で何年も何年も楽しんだあと、成功しなかったヨギーは高潔な人々の家庭、裕福な貴族の家庭、あるいは間違いなく非常に賢明である超越主義者の家庭に生まれます。まことに、そのような誕生はこの世界では稀です。」

17.(9-3)
バガヴァッド・ギーター(18.61)「おお、アルジュナよ。至高主はすべての人の心臓に位置していらっしゃいます。そして、物質エネルギーで作られた機械の上に座っているかのようなすべての生命体のさまよいを指揮していらっしゃいます。(is directing the wanderings of all living entities, who are seated as on a machine made of the material energy)

18.(11-3)
ラーダーラーニーは主クリシュナの至高の献身者であり、彼女は主の永遠の妃です。彼女はまた、クリシュナの喜びの内的にして霊的なエネルギーの具現体とも考えられています。

19.(12-1)
ブラーマーストラは、時としてヴェーダの時代の軍術において用いられた精妙な核兵器です。それはマントラを唱えることによって発射され、たとえ遠距離から発射されても大小の目標を他のものを傷つけることなく滅ぼすことができました。さらなる情報については、シュリマッド・バーガヴァタム1巻8章を参照のこと。

20.(12-2)
ヴァールミーキは、偉大なヴェーダの賢人であり学者でした。彼はヴェーダ文献の中でもっとも重要な歴史のひとつであるラーマーヤナを書きました。

21.(13-4)
主チャイタンニャ・マハープラブは、ヴァイシュナヴァ文献において神のもっとも慈悲深い化身として描写されています。主は人の身分や肌の色や宗教を考慮することなく至高神の愛を無料で配布したからです。主は1486年にベンガルにお現れになり、その美しい金色の肌色のために「黄金のアヴァターラ」としても知られています。主チャイタンニャ・マハープラブは、マハーマントラ---ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ---と唱えることを強調なさいました。

24.(16-2)
4万光年は23京5000兆マイル以上に相当します。(訳注:原語はクワドリリオン、quadrillion. 英国の英語では千の8乗、米国の英語では千の5乗。日本語の単位では千兆に相当します。この場合は米国式の計算による数字です。)

25.(16-5)

ゴピーはヴリンダーヴァンの牛飼いの娘たちであり、彼女らのクリシュナ意識への没頭とクリシュナへの愛には勝るものがありません。しかし、人は決して完全に超越的であるクリシュナとゴピーたちの恋愛関係を俗世の性的な関係と比べるべきではありません。性的な禁欲と極度の苦行の生活を送りながら、主チャイタンニャと6人のゴスヴァーミーたちは常にクリシュナの心情に没頭していました。ゴピーたちの中の長はシュリーマティー・ラーダーラーニーです。

26.(16-5)
カムサは彼の時代の最も強大な悪魔でした。そしてクリシュナの最も執拗な敵でもありました。「クリシュナ、至高の人格神」(SB10巻の要約研究)の中で、シュリーラ・プラブパーダはいかにカムサが何度もクリシュナを殺そうとしたかを語られます。最後にクリシュナはマスラーのレスリング場においてカムサをご自分の素手で殺されました。

27.(16-5)
プータナーは、クリシュナを殺すためにカムサによってヴリンダーヴァンに送られた恐ろしい魔女でした。彼女は自分の乳房に猛毒を塗りつけ、それを赤ん坊のクリシュナに差し出して吸わせました。彼女の目的をよく知っていたクリシュナは、彼女の生命の気を吸い出し、彼女を殺しました。
..........................................................................................................

この後にはプラブパーダに関する短文がありますが、これは他の本でも何度も繰り返し出てくるものなので省略します。
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by ammolitering4 | 2009-09-22 22:53 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)

朝の散策16

朝の散策―――16

1973年12月10日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、フリダヤーナンダ・ダーサ・ゴスワミ、および他の生徒たち。

1.「至高」の意味

SP:この物質世界における至高性の意味は何ですか?なぜあなたはニクソン大統領をあなたの国家の中の最高の人物として受け入れるのですか?

DS:彼には幾らかの力があるからです。

SP:はい。そして、なぜ彼は至高なのですか?政府の一番の従者として、彼は一番高い給料を受け取り、すべての一番良い設備を持ち、そして彼の命令は最終的だからです。

DS:彼は他の人を納得させる力を持っています。

SP:いいえ。あなたは彼に同意しないかもしれません。しかし彼は至高なので、あなたは彼の命令を受け入れなければなりません。それが彼の立場です。それは、あなたが受け入れるか受け入れないかに左右されません。それが至高性の意味ではありませんか?ヴェーダ文献には、至高性の特徴を持つ者は幸運であると書かれています。至高的に幸運な人は神です。(サンスクリット引用)「主は何百何千ものラクシュミー、すなわち幸運の女神にかしづかれています。」(BG5.29)ここ、この惑星においては、私たちは幸運の女神からほんの少しの恵みを乞うています。しかし、クリシュナはいつも何千もの幸運の女神たちに崇拝されているのです。

DS:それほど幸運な誰かのことを知覚するのは、私たちの考える能力を超えています。


SP:そうです。したがって、クリシュナはアチンテャ、計り知れないのです。私たちは、主がいかに偉大か、あるいは幸運か、見積もることができません!亜アチンテャとは、「私たちが見積もることができないもの」を意味します。私たちは、神の栄光の一部―――この物質的な自然だけを見ることができます。それは単に神の力の部分的な展示に過ぎないのです。至高の人格には多くの力があります。彼は劣性なエネルギーと優性なエネルギーを持っています。バガヴァッド・ギーター(7.4)において、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、および偽りの自我―――これらの八つが合わさって私の離れた物質的なエネルギーを構成しています。」バガヴァッド・ギーターの次の節において、クリシュナはご自分の優性なるエネルギー(パラー・プラクリティ)を描写なさいます。それは霊的な世界として顕現しています。ですから、もしも劣性なる物質エネルギーの中に非常に多くの素晴らしいものがあるなら、霊的な世界の中にはもっとどんなに素晴らしいものがあるか、想像して御覧なさい。これが優性ということの意味です。

2.「ヨガの力の神秘」

フリダヤーナンダ:そして、私たちが地上で見るすべての生命の多様性は、霊的な世界の中にも含まれているのですか?

SP:はい。そしてさらに、もしもこの劣性なるエネルギーの中にそれほど多くのすばらしい生命の多様性があるなら、霊的な世界における優性なる生命の多様性がいかにすばらしいか、考えてごらんなさい。この物質的な宇宙においてさえ、一部の惑星の住人は他の惑星の住人よりはるかに優れているのです。例えば、地球の人々は素晴らしい力を手に入れるために神秘的なヨガを実行しますが、スィッダーロカと呼ばれる惑星の人々はこれらの偉大なるヨガの力を自然に持っています。地球では、鳥は飛べて、しかし私たちは非常にお金のかかる機械を使わなくては飛べないのは自然です。しかし、スィッダーロカのような惑星では、住人は機械を使わなくても一つの惑星から別の惑星に飛ぶことさえできるのです。彼らは単に意思することで他の惑星に行くことができます。地球においてさえ、一部のヨギーは早朝に四つの場所―――ジャガンナーサ・プリー、ラーメシュヴァラ、ハードウォー、およびドヴァーラカー(脚注22)で、同時に沐浴することができます。あるヨギーの友人は、よくカルカッタの私の父を訪ねていました。そのヨギーは、自分が単に座って自分のグルに触れると、カルカッタからドヴァーラカーへ2分で行ける、と父に言いました。それがヨガの力です。それでは、今日の飛行機は何ですか?ドゥルヴァーサー・ムニは、宇宙全体と、そしてヴァイクンター(脚注23)までも一年の間に旅しました。現代の計算によれば、この宇宙におけるある惑星は、4万光年(脚注24)以上も離れています。これは、もしもあなたが光の速度で進めば、これらの惑星に着くのに4万年かかるということを意味します。たとえ彼らに手段があったにしても、どうして宇宙飛行士たちが4万年生きられるでしょうか?それでは、なぜ彼らはそれほど誇らしいのですか?

DS:科学者たちは、自分たちが光の速度で進むことのできる機械を作り出すことができるという理論を持っています。

SP:それは彼らが悪者であることの証しです。彼らはそう言いますが、彼らは決してそうすることができないでしょう。

3.「ヴェーダの宇宙論」

SP:多くの目に見えない惑星や星が存在します。例えば、ラーフという惑星が太陽と月の前を通るとき、日食や月食が起きます。しかし、科学者たちは日食や月食を異なるふうに描写します。実際には、ラーフ惑星が日食や月食を起こします。現代の科学者たちの日食や月食に関する理論には、多くの疑問の残る点があります。ヴェーダの情報によれば、彼らの説明は不正確です。

DS:しかし、科学者たちは自分たちの理論を証明できると言います。

SP:彼らは科学がすべてを証明すると言います。しかし、それは無意味です。科学者は、自分が何であるかということを除いてすべてを証明しました。それは彼は知りません。そして、なぜ彼は死ぬのですか?それも彼は知りません。それが彼の知識の限界です。

DS:彼らは宇宙の模型を作ることができます。彼らは惑星や月の模型を作ることができます。

SP:もしも彼らが物を作ることができるのなら、なぜ彼らは電力を節約するために模造品の太陽を作らないのですか?これらの悪者たちは何でも言いますが、何もできません。それが彼らの立場なのです。もしも彼らが宇宙の模型を作ることができるなら、彼らに太陽の大きな模型を作らせなさい。そうすれば、暗い夜に私たちは電力にこれほど多くのお金を使わなくてもすむでしょう。しかsh、彼らにはそうすることができません。それなのに彼らは納税者からお金を取るだけのために大きな大きな口を利くのです。彼らは月の成分と太陽の成分を知っていると言います。それなら、なぜ彼らはそれらを作ることができないのですか?なぜ彼らはアイスランドやグリーンランドの人々があんなにひどい寒さから救われるように人工的な太陽を作ることができないのですか?

4.「「神は決してゼロではない」

SP:主チャイタンニャ・マハープラブは、かつてチンターマニと呼ばれる宝石の例を挙げられました。それは、自身はそのままでありながら、他の多くの宝石を作り出します。

(サンスクリット引用)(シュリー・イショパニシャッド、祈り)

この節の意味は、すべては至高の人格神から生じるにも関わらず、主は決して減少しない、ということです。ここ地球では石油が枯渇しつつあり、これは大変な問題になりつつあります。しかし太陽はまだ輝いており、これからもまだ数え切れないほどの年月の間輝き続けるでしょう。そしてクリシュナは無数の太陽を作ることができます。事実、主は既にそうなさったのです。しかし、主はまだ完全に力を持っておられます。主は何も失ってはおられません。それが神です。そしてそれが神の至高のエネルギー、アチンテャ・シャクティなのです。

私たちには幾らかの所持金があり、次の日には口座はゼロになります。悪者たちは、究極の真実はゼロ、シューニャヴァーダだといいます。彼らは、神は決してゼロではない―――神はいつもプラスであるということを知りません。ですから、私たちは神についてはっきりとした考えを持たねばなりません。神学者は、これらの考えをヴェーダの描写から取るべきであり、愚か者や悪者によって誤って導かれるべきではありません。神と主の完全なエネルギーはヴェーダ文献に説明されています。私たちのエネルギーは失われますが、神のそれはそうなりません。それが神と私たちの違いです。私は、速く歩いたり、若い人ができる非常の多くの他のことをすることができません。私は自分の若々しいエネルギーを失ったからです。しかし、神はいつも若々しくいらっしゃいます。(サンスクリット引用)「至高の人格神クリシュナは、完全であり、決して誤りがなく、そして始まりがありません。無限の形に拡大する主は、もともとの人格、最年長であり、いつも初々しい若者のように見えます。」(ブラーマ・サムヒター5.33)クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「至高の主はすべての者の心臓に位置しています。」主はすべての原子の中にもいらっしゃいます。しかしそれでも主は一人です。それが神です。そして主はアドヴァイタ、二重性のない存在です。主があなたの心臓の中に住んでいて、私の心臓の中には別の人格が住んでいるというのではありません。違います。彼らは一つなのです。神は主のあまねく行き渡る特徴によってどこにでも存在し、主は、また局地的でもあり、それでありながら主は一人なのです。

5.「クリシュナの愛の完全なる性質」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、一部の西洋の神学的な文献においては、彼らは神は愛であると言います。

SP:神はすべてです。なぜ彼らは主はこれであるとかあれであるとか言うのですか?どんなものでも神です。主は完全であるからです。主の愛と主の憎悪は同じです。物質的な世界においては、私たちは愛と憎悪の区別をつけます。しかし、神の憎悪と神の愛は同じものです。したがって主はアチンテャ、すなわち計り知れないと呼ばれます。神のゴピーたち(脚注25)への愛と神のカムサ(脚注26)への憎悪は、同じ結果をもたらしました。カムサとゴピーたちは、どちらも霊的な世界へ行きました。また、プータナー(脚注27)はクリシュナに毒を盛りに来て、母ヤショダーはいつもいたずらな子供であるクリシュナが傷つけられないように心配していました。つまり、母ヤショダーとプータナーは反対だったのですが、どちらも同じ結果を獲得しました。クリシュナはこう考えました。「私はプータナーの乳房を吸った。だから彼女は今では私の母である。彼女もヤショダーと同じ目的地に到達せねばならない。」これがクリシュナの憎悪とクリシュナの愛の完全なる性質です。

(サンスクリット引用)

「完全真理を知る学識のある超越主義者たちは、この二重性のない実体(substance)をブラーマン、パラマートマー、あるいはバーガヴァーンと呼びます。」(SB1.2.11)神はご自分の非人格的であまねく行き渡る特徴(ブラーマンとして知られる)と、ご自分の局地的なパラマートマーという特徴をお持ちです。同時に主はバーガヴァーンであり、それは主の元来の人格的で超越的な形です。三者は異なりますが、同じなのです。これが神の性質、アチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァ―――同時に一つにして異なるのです。バーガヴァーンの人格的な概念に到達した者は、自動的にブラーマンとパラマートマにも到達したのです。それらはすべてクリシュナであり、しかしそれらの間には違いがあります。それらは同時に一つであって異なるのです。

6.「学識のある人から知識を受け入れる」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、多くの人は神を受け入れるのに困難を感じます。

SP:彼らは病んでいるのです。しかし彼らは治療を受けたくありません。もしも彼らが治療を受けることに同意しないならば、それは彼らの落ち度です。クリシュナ意識―――神意識でない者は狂人です。幻想エネルギー―――劣性なる物質エネルギー―――の力の下で、彼は無意味なことだけを話します。ちょうど幽霊に取り付かれた人のようなものです。あなたは学識のある人に近づかねばなりません。あなたはそのような人、グルを見つけ、彼に服従しなければなりません。そして彼に質問し、彼から得るすべての答えをあなたは受け入れなくてはなりません。それが神を理解するための過程です。あなたはまずグルを見つけなければなりません。それからあなたは奉仕と彼に服従することによって彼を満足させねばなりません。グルはすべてを説明なさいます。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(4.34)において説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「ただ、霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から従順に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂はあなたに知識を授けることができます。彼は真実を見たからです。」
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by ammolitering4 | 2009-09-22 04:48 | 「生は生より来たる」 | Comments(0)