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「霊的なヨガ」第11章 

第11章 「完全な完成に至る」

第1段落

(サンスクリット引用)

「愛しい息子たちよ。あなた方は私が助言したように行動すべきです。大変注意深くありなさい。これらの方法によって、結果を求める行いへの欲望という無明からあなた方は自由になり、心の中の呪縛の結び目は完全に切断されます。もっと発達するためには、あなた方は方法さえも放棄すべきです。つまり、あなた方は解放の過程そのものに執着するようになるべきではありません。」(SB5.5.14)

第2段落

解放の過程はブラーマ・ジジナーサー、完全真理の探求です。一般にブラーマ・ジジナーサーはネティ・ネティ、それによって人が完全真理の探求のために存在を解析する過程、と呼ばれます。この方法は、人が霊的な人生にない限り続きます。霊的な人生はブラーマ・ブータ、自己を認識した状態です。バガヴァッド・ギーターには、次のように書かれています。(18.54)

(サンスクリット引用)

「このように超越的な立場に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを認識し、完全に喜びに満ちた状態になります。彼は決して嘆かず、何かを欲しいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して中庸です。その状態にあって、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」

第3段落

求められているのは、パラー・バークティ、至高主への超越的な献身奉仕に入ることです。これに至るためには、人は自分の存在を解析しなければなりません。しかし人が実際に献身奉仕にいそしんでいるとき、彼はわざわざ知識を探そうとすべきではありません。単に逸脱することなく献身奉仕にいそしむだけで、人はいつも解放された状態に留まっていられます。

(サンスクリット引用)(BG14.26)

ひるむことのない献身奉仕の実行は、自動的に人をブラーマブータの水準と呼ばれる超越的な水準に置きます。これに関するもうひとつの重要な特徴は(サンスクリット引用)です。霊的指導者から受けとった指導には直ちに従わねばなりません。人は霊的指導者の指導から逸れたり、それを飛び越えたりすべきではありません。人は単に書物を調べることに熱心であるべきではなく、同時に霊的指導者の命令を実行すべきです。(ヤソパデシャム)物質的な概念を放棄することができるようにするためには神秘的な力が習得されるべきですが、実際に献身奉仕にいそしむとき、人は神秘的なヨガのシステムを実行する必要はありません。要点は、人はヨガを実行することは放棄できますが、献身奉仕は放棄してはならないということです。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。(1.7.10)

(サンスクリット引用)

解放された者(アートマーラーマ)でさえ、いつも献身奉仕にいそしまねばなりません。人は自己を認識したらヨガを実行することを放棄しても構いませんが、どの段階においてでも献身奉仕を放棄することはできません。ヨガと哲学的な推察を含むほかのすべての自己認識のための活動は放棄されても構いませんが、献身奉仕はいつも必ず維持されねばなりません。

第4段落

献身奉仕は私たちをカルマーシャヤム、結果を求める活動への欲望から自由にします。私たちの心が結果を求める活動に没頭している限り、私たちが物質的な体への呪縛(サンスクリット引用)から自由になることはありえません。人間の人生の目的のすべては、霊魂を体から自由にして、それによって生と死の繰り返しに起因する苦しみから自由にすることです。誰もが一生懸命働いて結果を楽しむことで幸せになろうとしています、、、この地球の上だけではありません。もっとも高位の惑星ブラーマロカに至るまで、他の惑星でもそうなのです。しかし、この過程は単に私たちの物質的な体への呪縛を増します。第10節から第13節にかけて、主リシャバーデヴァはそれによって人が徐々にこの呪縛から自由になるところの献身奉仕の過程を説明なさいました。

第5段落

献身奉仕は科学です。それは感情論ではありません。したがって私たちはそれをヴェーダの権威ある源から理解しなければなりません。そのような知識は私たちの不完全な感覚に基づいてはいません。そしてそのためヴェーダの知識には誤りや偽りや幻想はありません。すべてが完璧です。これが本当の科学、、、完璧な知識です。「もしかしたら」や「そうであるかもしれない」ではありません、、、それは科学ではなく理論です。

第6段落

献身奉仕の科学を知るためには、人は完璧な教師に近づかねばなりません。(サンスクリット引用)第10節において、主リシャバーデヴァは献身奉仕の第一歩は(サンスクリット引用)であると確認しておられます。「人は高度に発達した霊的指導者に服従し、そのようにして私に、至高の人格神に献身奉仕をすべきです。」マイ(mayi)「私、すなわち至高の人格神」という言葉は大変重要です。これは、グルは至高主と同じくらい良いということを示します。彼は主の教えからそれることがないからです。それがグルの主要な特徴です。彼は何か新しいものを作り出したりしません。違います。彼はクリシュナは5000年前にバガヴァッド・ギーターにおいてお教えになったのと同じことを教えます。そしてクリシュナがお話しになったときでさえ、それは新しいものではありませんでした。バガヴァッド・ギーターの第4章において(4.1)、クリシュナはアルジュナにこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)「何百万年も前に太陽神に教えたのと同じヨガの科学を私は今日あなたに教えます。」時間が経ってから教えが変化しなければならないというのではありません。それは無意味なことです。完全真理に関しては、新しいことはありえません。すべてが確立されています。何百万年も前、太陽は東の地平線から昇りました。そして今でも太陽は東の地平線から昇ります。今では太陽が西や東の地平線から昇るというわけではありません。同様に、ヴェーダの知識は永遠に確立されています。それはいかなる状況においても決して変えられ得ません。何百万年も前に真実だったことは、今も真実です。そしてその真実を知るためには人は真正なる霊的指導者に近づかねばなりません。

第7段落

主リシャバーデヴァによって与えられた献身奉仕における二つのもっとも重要な段階は、マット・カルマビーヒ、「私のために働く」と、マット・カサヤー・チャ・ニチャム、「いつも私に関することを聞き、私の名を唱える」です。ニチャム、「いつも」という言葉はここで非常に大切です。人は一年に7日か10日シュリマッド・バーガヴァタムのクラスに出席して、残りの355日は証券取引所に行ってあの株やこの株の値段を尋ねているべきではありません。違います。あなたは献身者との関わりの中で(マッド・デヴ・サンガート)毎日バーガヴァタムを聞かねばなりません。結果を求めて働く人々や精神的な推察をする人々との関わりの中でではありません。それは私たちを助けません。

第8段落

献身奉仕におけるもう一つの重要な事柄は(サンスクリット引用)です。献身奉仕をすることによって、人は家庭生活への非執着を培うべきです。バーガヴァタムには次のように述べられています。(11.2.42)(サンスクリット引用)「バークティ・ヨガを実行することによって、人は主に奉仕をする超越的な喜びを感じ、主の存在を感じ、他のすべてに対する非執着を感じます。それがバークティ・ヨガです。誰もが自分自身に次のように問うことによって、献身奉仕の道における自分の進歩を試すことができます。「私は俗世の情愛に対してどれくらい非執着になっただろう。私はまだどれくらい”これは私の体、これは私の国、これは私の社会、これは私の妻、これは私の子供たちだ”と考えているだろう。」私たちはこの幻想に基づいた執着を放棄しなければなりません。もしも私たちが俗世の執着を放棄することができないなら、私たちはまったく進歩することができません。人はアハム・ブラーマースミを理解するようにならなければなりません。「私はこの体ではない。私はこの心ではない。私はこの知性ではない。私は純粋な霊(ブラーマン)、至高のブラーマンであるクリシュナの欠かすべからざる小片である。」

第9段落

もしも私たちがここでバーガヴァタムおよび他の真正なる聖典(シャーストラ)の中に与えられている教えに従って献身奉仕を実行するなら、私たちは成功して解放されるでしょう。しかし、聖典なくしてそれは可能ではありません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のようにおっしゃいます。(16.23)(サンスクリット引用)「もしもあなたが聖典の教えを放棄して自分の思いつきに従って行動するなら、完成が得られる見込みはありません。」そしてルーパ・ゴスヴァーミーはこれをご自分のバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.101)の中で確認していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ウパニシャッド、プラーナ、ナーラダパンチャラートラなどの権威あるヴェーダ文献を無視した主への献身奉仕は単に社会における不必要な妨害です。」非常に多くの宗教的な方法が発明されています。たとえば、聖典はハレ・クリシュナの真言を唱えることを命令していますが、人々は非常の多くの唱え方を発明しました。もしもあなたがラーマ・ラーマ・ラーマ、ラーデー・ラーデー・ラーデー、クリシュナ・クリシュナ・クリシュナと唱えるなら、それもまた聖なる名前を唱えることです。しかしあなたは聖典に従わねばなりません。聖典は、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレと唱えなさいといいます。あなたはそれを受け入れなくてはなりません。ニターイ・ガウラ・ラーデ・シャーマ、ハレ・クリシュナ、ハレ・ラーマと唱えるのではありません。違います。あなたの発明の価値は何でしょうか。あなたは完璧ではありません。あなたは新しいマントラを発明して成功することはできません。単に聖典の薦めに従いなさい。そうすればあなたは完全な完成を得るでしょう。

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以上です。次は「命は命より来たる」(Life Comes From Life)です。「自己の探求」(Science of Self-Realization)のうしろのほうに、プラブパーダがDr.Singhという科学者と対話をしている様子が紹介されていますが、この本はその対話の他の部分を収録してあるものです。今はまだ翻訳を始めたばかりなので、更新はしばらく先になります。どうぞ根気よくお待ちください。

なお、私の(D君の)コンピューターも今後当分は壊れたままの予定です。ファイルの保存ができませんので、よろしかったら各自で保存またはプリントをしてください。念のため。。。
by ammolitering4 | 2009-07-07 06:14 | 「霊的なヨガ」


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