第4章 第10段落より

第10段落
Purusah sa parah: in the spiritual sky, the Supreme Lord is present as the Supreme Person.
プルサー・サ・パラー、霊的な天空では、至高主は至高の人格として存在していらっしゃいます。

There are innumerable self-luminous planets there,
そこには自ら輝く天体が無数にあり、

and in each one an expansion of Krsna resides.
そのすべてにクリシュナの拡張体がお住まいです。

They are four-armed and have innumerable names.
彼らは4本の腕を持ち、無数の名前を持っています。

They are all persons--they are not impersonal.
彼らはすべて人格です。非人格ではありません。

These purusas, or persons, can be approached by bhakti,
これらのプルサ、すなわち人格たちには、バクティによって近づくことができます。

not by challenge, philosophical speculation, or mental concoctions, nor by physical exercises,
挑戦(的な態度)や哲学的な推察や、精神的な作り話や身体的な運動によってではありません。

but by devotion without the deviations of fruitive activity.
物質的な利益を求める活動という逸脱のない献身的な愛情によってなのです。

第11段落
What is the purusah, the Supreme Person, like?
プルサー、至高の人格とはどのような存在でしょうか。

Yasyantah-sthani bhutani yena sarvam idam tatam:

every living entity and everything is within Him,
すべての生命体とすべてのものは主のうちにあり、

and yet He is without, all-pervading.
それにも関わらず主はそれらの外にあり、あらゆるところに偏在しています。

How is that?
これはどういうことでしょうか。

He is just like the sun,
主はちょうど太陽のようなものです。

which is situated in one place and yet is present all over by its rays.
太陽は、一つのところにありながら、その光線によってあらゆるところに存在しています。

Although God is situated in His dhama paramam,
神はご自分の「ダーマ・パラマム」に存在していしゃっしゃいますが、

His energies are distributed everywhere.
主のエネルギーはあらゆるところに配られています。

Nor is He different from His energies,
また、主は主のエネルギーと異なるものではありません。

inasmuch as the sunshine and the sun are nondifferent.
太陽の光と太陽が変わらないのと同様です。

Since Krsna and His energies are nondifferent,
クリシュナと主のエネルギーは違いがないので、

we can see Krsna everywhere if we are advanced in devotional service.
もし私たちが献身奉仕に秀でていれば、クリシュナをどこにでも見ることができます。

premanjana-cchurita-bhakti-vilocanena
santah sadaiva hrdayesu vilokayanti

"I worship the original Personality of Godhead, Govinda,
「私は根源たる人格神ゴヴィンダを崇拝します。

whom the pure devotees whose eyes are smeared with the ointment of love of Godhead
目に至高神への愛の軟膏が塗られた純粋な献身者たちは、

always observe within their hearts." (Brahma-samhita 5.38)
常に主を彼らの心の中に見ます。」

Those who are filled with love of God see God constantly before them.
神への愛に満たされた者は、常に神を目前に見ます。

It is not that we saw God last night and He is no longer present. No.
昨夜は神を見たけれど今はもういない、というようなものではないのです。違います。

For one who is Krsna conscious, Krsna is always present and can be perceived constantly.
クリシュナ意識の者にとっては、クリシュナは常に存在しており、常に知覚できます。

We simply have to develop the eyes to see Him.
私たちは単に主を見る力を養わなければならないだけです。

第12段落
Due to our material bondage, the covering of the material senses,
物質的な呪縛、すなわち物質的な感覚という覆いのために、

we cannot understand what is spiritual.
私たちは霊的なものを理解することができません。

But this ignorance can be removed by this process of chanting Hare Krsna.
しかし、この無明はハレ・クリシュナを唱えるという方法によって取り除くことができます。

How is this?
これはどういうことでしょうか。

A sleeping man may be awakened by sound vibration.
眠っている人は、音の振動によって起こすことができます。

Although a man may be for all intents and purposes unconscious--
たとえその人がどこから見ても無意識状態であっても、
(訳注、for all intents and purposesは熟語で、どう見ても、というような意味です。直訳すると「すべての目的と目的にとって」でしょうか。)

he cannot see, feel, smell, etc.--
つまり、見ることや感じることや匂いをかぐことができないにしても、

the sense of hearing is so prominent
聴覚は特に突出しているので、

that a sleeping man may be awakened just by sound vibration.
眠っている人を音の振動だけで起こすことができます。

Similarly, the spirit soul, although now overpowered by the sleep of material contact,
同様に、霊魂は、たとえ今は物質との接触という眠りによって圧倒されていても、

can be revived by this transcendental sound vibration of Hare Krsna, Hare Krsna, Krsna Krsna, Hare Hare. Hare Rama, Hare Rama, Rama Rama, Hare Hare.
「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」というこの超越的な音の振動によって蘇らせることができます。

Hare Krsna is simply an address to the Supreme Lord and His energies.
「ハレ・クリシュナ」とは、単に至高主と主のエネルギーを指し示したものです。

Hare means energy, and Krsna is the name of the Supreme Lord,
「ハレ」はエネルギーを意味し、「クリシュナ」は至高主の名前です。

so when we chant Hare Krsna we are saying,
したがって、ハレ・クリシュナを唱えるとき、私たちは次のように言っているのです。

"O energy of the Lord, O Lord, please accept me."
「おお、主のエネルギーよ、おお、主よ、どうか私を受け入れてください」

We have no other prayer for acceptance by the Lord.
私たちは、主に受け入れてもらうための他の祈りを持ちません。

There is no question of praying for daily bread,
日々の糧のために祈る必要はありません。
(訳注、daily breadは直訳すると「日々のパン」ですが、この場合は食料すべてを指します。)

for the bread is always there.
それはすでに与えられているからです。

Hare Krsna is but an address to the Supreme Lord, requesting Him to accept us.
「ハレ・クリシュナ」は、至高主に対して私たちを受け入れてくれるように頼んでいるものに他なりません。

Lord Caitanya Mahaprabhu Himself prayed,
主チャイタンニャ・マハープラブご自身は、次のように祈りました。

ayi nanda-tanuja kinkaram
patitam mam visame bhavambudhau
krpaya tava pada-pankajasthita-
dhuli-sadrsam vicintaya

"O son of Maharaja Nanda, I am Your eternal servitor,
「おお、マハーラジャ・ナンダの息子よ、私はあなたの永遠の僕です。

and although I am so,
しかし、それにも関わらず、

somehow or other I have fallen in the ocean of birth and death.
私はどうしたわけか私は生と死の海に落ちてしまいました。

Please, therefore, pick me up from this ocean of death
だから、どうか私をこの死の海から拾い上げ、

and fix me as one of the atoms at Your lotus feet." (Siksastaka 5)
あなたの蓮の御足の下へ原子の一つとして据え置いてください。」

The only hope for a man fallen in the middle of the ocean is that someone will come and pick him up.
海の真ん中に落ちた人の唯一の希望は、誰かがやってきて拾い上げてくれることです。

If someone just comes and hauls him but a few feet out of the water,
もし誰かがやってきて水からほんの1メートルでも引き揚げてくれたら、

he is immediately relieved.
その人はただちに救われます。

Similarly, if we are somehow lifted from the ocean of birth and death by the process of Krsna consciousness,
同様に、クリシュナ意識の方法によって生と死の海から何とかして引き揚げてもらえれば、

we are immediately relieved.
私たちはただちに救われるのです。
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by ammolitering4 | 2008-04-11 03:02 | 「生と死の彼方に」


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