第3部 第5章

第5章 解放のための手段(The means to Liberation)

第1段落
ウパニシャッドにあるサルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマという言明を理解するために人は欲望を滅ぼさねばならないとは、ヴェーダの聖典のどこにも書いてありません。しかし、欲望の性質が変容されるべきであるということを勧める多くの言明があります。

世界の中のすべての活動が行われるのは欲望の力によるものであり、そしてバガヴァッド・ギーター(10.4-11)において主クリシュナは、欲望がこれらの活動に影響を与える様々な(multifarious)方法を論じられます。

(1)知性、知識、疑いと幻惑からの自由(訳注:~がないこと)、許すこと、正直であること、感覚の制御、心の制御、幸せと苦しみ、誕生、死、恐れ、恐れないこと、非暴力、落ち着き(equanimity、心の平静さ)、満足、禁欲、慈善、名声と不名誉(infamy)---これらの様々な生命体の性質は、私だけによって作られました。

(2)7人の偉大な賢人たちと、彼らの前の4人の他の偉大な賢人たちとマヌたち(人類の先祖たち(progenitors))は私から来ており、私の心から生まれました。そして、様々な惑星に住んでいるすべての生命体は彼らの子孫です(to descend from)。

(3)私のこの偉大さ(opulence)と神秘的な力を事実として(factually)納得している者は、純粋な献身奉仕に携わります。このことに疑いの余地はありません。

(4)私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものは私から放射します。これを完全に知っている賢い者は私への献身奉仕にいそしみ、心をこめて(with all their hearts)私を崇拝します。

私の純粋な献身者の思いは私の中に住み(訳注:~はいつも私のことを考え)、彼らの人生は私への奉仕に完全に捧げられており、そして彼らはいつも互いを啓蒙し、私について語り合う(to converse)ことから大きな満足と喜びを得ます。

愛情をもって私に奉仕をすることにいつも献身的である者に、私はそれによって彼らが私のところへ来ることのできる理解を与えます。彼らに特別な慈悲を見せるために、彼らの心臓の中に住んでいる私は、知識の輝く灯りで無明から生じる闇を滅ぼします。

第2段落
人間の様々な(multifarious)欲望は至高のブラーマンの欲望の反映であるということを理解する者は、それらを捨てるのではなく主への奉仕において使うように注意を払います。はるか昔、7人の偉大な賢人たちとマヌたちは皆、神から与えられた自分たちの欲望を主への奉仕において(訳注~のために):使いました。

そして、今日これらの輝かしい(illustrious、有名、華々しい)先祖たちの例を見習う(to emulate)者は誰でも、決して欲望を俗的であるとも、霊的な発達への障害(impediment)であるとも見なさないでしょう。

もしもラマナ・マハーリシが私たちに欲望を打ち消す(to negate、否定)ように助言するなら、それなら私たちは、彼はサルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマというヴェーダの言明を誤解していると結論づけなければなりません。

すべての欲望と感情はももともとブラーマンであると理解した者、そしてそのためそれらを至高主への奉仕のために使うもの(to engage ~ in)は、完璧な魂と考えられるべきです。彼らは完全に無知(nescience)から自由です(訳注:~がない)。

これらの自己を認識した、高く上げられた、喜びに満ちた献身者たちの欲望は、非常に浄化されるので、何の無明も(not an iota of ~、~が少しもない)彼らの意識に影響を与えることができないほどです。なぜなら、主ご自身が彼らの心臓の中の無明を滅ぼされるからです。

第3段落
無明を無くす(to nullify、無にする)ための彼らの個々の努力と、至高主が慈悲深くもご自分の献身者を啓蒙なさる(to enlighten)のとの間には大きな隔たり(a wide gulf of difference)があると理解することに、マーヤーヴァーディーは悪戦苦闘しています(hard pressed)。

マーヤーヴァーディーはいつも、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic、神)から主の力を否定することに熱心です。彼らは、主の力を奪おうとしたラーヴァナ、そして主を公然と(outright)殺そうとしたカムサのような悪魔よりも優れたものではありません。

このような振る舞いは悪魔のそれです(is expected of demons、悪魔と聞いて予期されるようなもの)。邪悪な力を欲して、彼らは主への献身奉仕を放棄し、罪深い活動に手を染めます(to take to~、習慣的にし始める)。このようにして彼らはすべての知識を失います(to forfeit、没収される、権利を失う)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.15)において、いみじくも(aptly、適切に)彼らをマーヤーパーリタ・ジニャーナー、「その知識が幻想によって盗まれた者」と描写なさいます。たくさん、たくさんの哲学者、学者、そしていわゆる無敵の(invincible)勇者たち(heroes)が、至高主を無力で(impotent)形がなく、非人格的なものにしようとしましたが(to make ~ impotent, formless, and impersonal)、結局(in the end)彼らはいつもひどく苦しみました。

第4段落
そのためシュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に、私たちは主ブラーマーによるこの言明を見出します。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも誰かがその道を外れ(to give up)、推量的な知識を培うことに携わるなら、彼は単に苦しみの多い(troublesome)過程を辿り、望む結果を達成しないでしょう。

麦の空(empty、から)のもみ殻(husk)を叩く者が穀物を得られないように、単に推量する者は自己認識を得ることができません。唯一彼が得るものは困難です(His only gain is trouble.)。

第5段落
人はどこで、知性、知識、疑いからの自由(訳注:~がない状態)、喜び、悲しみ、恐れ、恐れのなさ、非暴力、落ち着き(equanimity)、満足(contentment)、禁欲、慈善、名声、そして不名誉(infamy)などの性質を見ることができるでしょうか?

これらの性質は意識の暗示(indicative、表示、意識の存在を示すもの)であり、そのためそれらはどこであれ意識が存在するところに存在します。至高主は、これらの性質はご自分のものであり、そしてそれらはご自分から生じた(to have sprung)と宣言なさいました。

そして、カター・ウパニシャッドは(サンスクリット引用)と述べます。「すべての永遠の、意識のある生命体のうち、他のすべてのものに彼らの必要なものを供給する一つの至高の意識体(conscious being)が存在します。」

したがって、これらの性質はすべての意識体の中にもともとある(inherent、生来、内在)ことを否定し、そしてこのようにして微小な生命体と至高の魂の両方を生命のない物体(dead matter)と同列に置く(to equate)ことは、完全な困惑(confusion、混乱)という結果を招き、(訳注:そのようにして同列に置くことは)確かに、見識(insight、洞察力)の甚だしい欠落の証拠です(to demonstrate、証明する)。

マーヤーヴァーディーは、意識の存在を否定する(to refute、反論、論破)するか、またはそれを受け入れることが彼らに満足(contentment)を与えるかどうかということについて困惑しています(The Mayavadies are confused as to whether refuting the existence of consciousness or accepting it will give them contentment.)。

(訳注:文字通り訳すと、 whetherは「~であるかどうか」という意味なので、『否定するか、あるいは受け入れることが、自分たちに満足を与えてくれるかどうか』が分かりかねている、ということになります。どういう意味なのかどうもよく分からないのですが、「意識の存在を否定したとしても受け入れたとしても、どちらにしてもそれで満足できるかどうか分からない」という意味かもしれません。)

意識体はいつも不活性な物体を統御します。一つの単純な例がこの点を証明します。私たちは、カラスのような取るに足らない(puny)意識体が、ある勇者(some hero)の石の彫刻の頭の上に恐れ気もなく糞をし(to defecate)、そのようにして動的な霊による生命のない物体の支配を表しているのを見ます(thus demonstrating the conquest of ~ over ~)。

石のような知性を持った者だけが至高の意識体を感情のない、形のない物体(unfeeling, formless object)にしようとします。そのような試みは全くの愚かさです。

第6段落
シュリー・オーロビンドは、今日の学識のある社会(circles)に「新しい」概念を示すことによって、立派な(commendable、賞賛に値する)何事かを成し遂げました。意識の生来の性質を否定しようとする代わりに、主の神聖な力の指示のもとで至高主への奉仕に携わることによって、人は自分の俗的な意識を超精神的な(supramental)意識に変容させるべきです。

もちろん、昔(bygone ages)の自己を認識した魂(realized souls)よりも現代の哲学者たちを見習う(to emulate)ことのほうを好む者は、シュリー・オーロビンドの提示(presentation、発表)を奇抜(novel、目新しい)だと思うでしょう(will find)。

しかし、正当な(authorized)師弟継承に繋がった、主の純粋な、愛情ある献身者たちの足跡を辿る者は、シュリー・オーロビンドの言葉が古い(age-old)英知の記録(annals、年代史)をそのまま繰り返している(to echo)と知っています。実に、それらはヴェーダの真髄に似ています(sound close to ~)。

第7段落
ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちは、ヴェーダのこの非凡で深遠な(esoteric、秘儀)真髄を発掘し(to excavate)、主の内的な力の働きを描写しました。主チャイタンニャのご降臨の前は、この性質の主題は、どの霊的な権威によっても、一度もこれほど詳しく論じられたことがありませんでした。

シュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーは、ご自分の劇、「ヴィダグダー・マーダーヴァ」の中で、主チャイタンニャの人類への比類のない(unique)貢献を称えます。

(サンスクリット引用)

「シュリーマティー・シャチデヴィーの息子として知られる主が、あなたの心の一番中心のところ(the innermost core)に超越的に位置されますように。溶けた(molten)金の輝き(radiance)に輝き(resplendent)、主は、どの化身も以前に決して与えなかった(to offer)もの、献身奉仕の最も高い味わい(mellow、一般的な用法ではない)、恋人としての愛という味わいを授けるために、ご自分のいわれのない慈悲によって、カリの時代に降誕なさいました。

(訳注:「溶けた~」の部分では「輝き」を繰り返していますが、resplendentは特に「美しさ」を強調する意味合いがあるので、「溶けた金のように輝くばかりにお美しく」というのが自然な表現だと思います)

第8段落
「服従と(訳注:心を)開くこと(“Surrender and Opening”)」と題した随筆の中で、シュリー・オーロビンドはこう書きます。

(1)「このヨガの原則全体(the whole principle of yoga)は、自分自身(oneself)を完全に神(the Divine)だけに捧げ、そして他の何者にも何物にも捧げない、ということです。そして、神聖なる母との結びつきによって私たち自身にすべての超越的な光、力、大きさ(breadth、幅、広がり)、場所、純粋さ、真実、意識、そして超精神的な神聖さのアナンダ(Ananda of the Supramental Divine)を招く(to bring down、下ろす)ことです。

(2)ラーダーは神への完全な愛の人格化、彼女の(Her)存在のすべての部分において完全で統合的(integral)、最も高い霊的なものから物理的なものまで、完全なセルフ・ゴーイング(self-going、これは何のことか分かりません)とすべての存在の完全な神聖化(consecration)をもたらし、体と最も物質的な自然に至高のアナンダ(the supreme Ananda)を祈り求めます(to call down)。」

第9段落
上の言明の中の結論には不一致(disparities、極端な不釣合いを指す。この場合は本文自体の意味がよく分からないので、どのような不一致または矛盾を指すのか私は分かりません)がありますが、それでもシュリー・オーロビンドは独自に(on his own)正しい方向を指し示しました。

服従の雰囲気(mood)なくしては、霊的な味わいのうちで最も高く輝かしい(brilliant、すばらしい)恋人の(conjugal)味わいを理解することは不可能です。マーヤーヴァーディーは、この服従の態度(attitude)が完全に欠落しています(bereft of)。

したがって、自分たちだけで非二重的な概念を理解しようとするとき、彼らは非人格主義者になってしまいます(to end up becoming)。これらのマーヤーヴァーディーについてシュリー・オーロビンドが述べるところを読んでみましょう。

「非人格的なものを求めるのは、人生から退きたい者の方法です。普通、そのような非人格主義者は、自分たちをより高い力に開くことによって、あるいは服従という方法によってではなく、独自の努力によって(訳注:非人格的なものを求めることを)試みます。

なぜなら、非人格的なものは導いたり助けたりするものではなく、得られるべきものだからです。そして、それはそれぞれの人がそれ(訳注:非人格的なもの)を自分の性質のあり方(way)と能力(capacity)に応じて得るに任せます(訳注:原文は「普通、~」からの長い一文。)

他方で、母なる存在に(訳注:心を)開いて服従することによって、人は非人格的な存在(the Impersonal)と真理の他のすべての側面も理解することができます。」

第10段落
マーヤーヴァーディーは、自分の独自の努力の力によっては、解放を得るための努力において決して成功しません。幻想を克服して解放を得るための唯一の方法は、6つの完全な富を完全に備えた(complete with six absolute opulences)至高主に服従することです。

主クリシュナはギーター(7.14)においてはっきりと述べられます。マーム・エヴァ・イェ・プラパデャンテ・マーヤーム・エターン・タランティ・テ、「私に服従する者は簡単にそれ(物質自然の相)を超えることができます。」

第11段落
主に服従する過程を学ぶことにおける最初の一歩は、主の純粋な献身者に服従することです。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー20.120および122)には、次のような言明があるのが見られます。

(サンスクリット引用)

(1)もしも制約された魂が、自発的に霊的な教え(injunctions、普通は命令や禁止命令を指すが、プラブパーダの著書では「教え」という意味合いの用法が多い)を教える(to preach)聖人的な人々の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、彼はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します(he is liberated from the clutches of Maya, who gives him up)。

(2)制約された魂は自分の独自の努力によっては自分のクリシュナ意識を蘇らせる(to revive)ことはできません。しかし、いわれのない慈悲によって(out of)、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました。

第12段落
すべてのヴェーダとプラーナは、主クリシュナの主題を扱います。バガヴァッド・ギーター(15.5)の中の主ご自身のお言葉にはこうあります。「ヴェダイス・チャ・サルヴァイル・アハム・エヴァ・ヴェデョ、「すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです(By all the Vedas, I am to be known.)。」
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大変長らくお待たせいたしました。これにてようやく第3部が終わりまして、さらに第4部、第5部と続いております。いったいいつになったら完成することやら。。。

いつだったか占いの人に「あなたはいろんなことに手を出してどれも中途半端になる傾向がある。どれか一つに絞れば大きな成果を残せる」と言われました。収入の道も複数ある、とも言われましたが、どうやらどっちもばっちり当たっているようなのです。半端に手を出していることと言ったら、万年下っ端で満足しているスタバのバイト、チャリティーショップでの折り紙ブックの販売、売る気の全くないガラス絵、全く営業活動をしないフリーランスの翻訳の仕事、門外漢なのになぜか首を突っ込んでいる都市計画における市民参加などというテーマ(ときたま市民ワークショップのボランティアもします)、そしてこのプラブパーダのご本の翻訳、、、二兎を追うものは一兎をも得ずといいますが、5匹も6匹も追う場合はどうなるでしょうか。

そしてその間にもやっぱり洗濯物は溜まるし、たまには掃除もしなくてはならないし、死なない程度に料理だってしなければなりません。私はときたまアルバムを作って実家に送るので、そういうのだってそれなりに時間と手間がかかります。自分が散り散りになっているようで、本気で人生を見直さないといけないという気持ちが募っています。

あと3日くらいで死ぬとしたら、いや、せめて3ヶ月くらいあったほうがいいかな、どっちにしても今の状態であとそれくらいで死んでしまったら、人生にどんな未練があるでしょうか。アートの技術を磨くことに全力を尽くさなかったことも後悔するだろうし、プラブパーダのご本の翻訳できてないのがまだ山ほどあることも悔やむだろうし、都市計画の本の出版に漕ぎつけなかったこともきっとすごく申し訳なく思うと思います。これは実はあるお友達の本で、そろそろ90歳になられる建築家です。寿命のことがあるのでご存命のうちに日本語の本にして差し上げたいのですが、とりあえず門外漢の私が適当な翻訳をしただけで終わってしまっていて、正直言ってそれだけで満足してしまってその後の努力をしていないのです。

こうやってだらだらと書きながら考えているわけですが、やっぱりここは都市計画の本を出版することに努力したほうがいいでしょうね。どなたか建築学や都市計画にお詳しい方はいらっしゃいませんか?英語圏では非常に高く評価されている手法に関する本で、今買うと古本で一冊3万円くらいします。この原稿をタダでご覧に入れますので、ぜひとも詳しくチェックしていただきたいのです。出版関係の方をご存知の方もいらしたら、どうかお尋ねいただけませんでしょうか。

スタンレー・キングさんという方が開発したコ・デザインという方法で、カナダをはじめとしてアメリカやイギリスなどで多数応用されていて、大きな成果を残しています。都市計画をかじった方であれば、世界的な成功例の一つとしてカナダのグランビルアイランドやフォールスクリークのことをお聞きになったかもしれません。スタンレーさんはこのプロジェクトのコンセプト作りの段階で非常に大きな役割を果たした方です。彼の手法はサステイナビリティー教育にも応用されていて、あちこちの学校で採用されているので、これを体験した若い後継者も育ってきています。最新の例としては、カナダ最後のフロンティアと称される土地で(未開の地というわけではありません)一から町を作るというプロジェクトや、広大な精神病院跡地での開発などがあります。後者のケースでは、精神病院そのものも縮小されて存続することが前提になっています。この手法は開発者と近隣住民の摩擦を最小限に抑える上で非常に有効で、座り込みなどの抗議活動が起こったときに慌てて声がかかったりしますが、ほんとはそうなる前に平和的に活用するのが一番です。

日本とは土壌が違うとはいえ、学ぶところの大きい手法であることは間違いありません。いいかげんで怠けるのをやめて次のステップを踏み出さねば、、、去年も同じことを言ってたのですよね、実は。このブログをご覧の皆様、どうかよろしくご協力をお願いします。
ブログサイトはこちらです。ちらっとでも興味のありそうな方がいらしたら、ぜひとも宣伝してください。そして、よろしかったらご感想をお知らせください。スタンレーさんは日本文化に大きな敬意を持っていらして、日本での反応はどうだろうかと気にしていらっしゃるのです。反応があればきっとすごくお喜びになると思います。

スタンレーさんと奥さんのマーガレットさん。私が描いたガラス絵ですが、この首のシワは何だ!と言って奥様には極めて不評でした。
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by ammolitering4 | 2015-08-11 13:48 | 「英知による放棄」 | Comments(1)
Commented at 2015-09-22 00:06 x
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