第4章

第4章 本来、ジーヴァはクリシュナの永遠の従者である

第1段落
主チャイタンニャがシュリー・サナータナ・ゴスヴァーミーへの教えの中の二、三の(aphorism、警句、金言、教え、戒め)格言において明かされた、深遠な(profound)奥義の(esoteric、秘儀、難解な)結論は、シュリー・オーロビンドのすべての作品の中で、部分的に論じられているだけです。

複雑な構文(syntax、文法、語法)とあいまいな(obscure)用語(terms)に満ちた言葉で、シュリー・オーロビンドはヴァイディー・バークティ、(すなわち)権威ある霊的指導者と聖典によって与えられる規則に応じてなされる献身奉仕の(、その)実践を通じて簡単に得られる知識を表そうとします。

彼の大げさな(high-flown、誇張した)文体、そして他の技術的な理由により、シュリー・オーロビンドの著作は一般的な読者には容易には理解されず、そしてそのため彼の作品は、言ってみれば効果がありません(ineffectual、無駄、空しい)。

第2段落
主チャイタンニャは、主クリシュナの従者としてのジーヴァの永遠の、本来の立場と、至高の享楽者であろうとしたときにジーヴァがいかに幻想に入れられたかを、詳細に論じられます。主チャイタンニャはさらに、主クリシュナの従者としての自分の永遠の立場を忘れるとき、ジーヴァは永遠に制約され、幻惑される、と説明なさいます。

こうしてマーヤーはジーヴァに物質的な人生の悲惨さを与えます(to inflict ~ upon、傷を負わせる、罰を与える)。もしも人が不自然に(artificially。人為的に)違う何か(something he is not)であろうとすれば、それなら彼を待つのは悲惨さだけです(he can expect only misery、悲惨さだけを予期することができる、ろくなことにならない)。

このことに関して、子供の頃に学校で読んだ、孔雀になろうとしたカラスの短い話を思い出します。この宇宙の創造者と主人は、その正当な(rightful)所有者でもあります。そのため主はすべてのものの唯一の享楽者です。

しかし、もしも創造者の多くの従者のうちの一人が主の立場を奪って(to usurp、横領、王座や権力を奪う)主および享楽者の役割を演じようとしたら、彼はどうして苦しみ以外の何かを予期することができるでしょうか?

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタム(10.87.30)において、4人のクマーラの一人、サナンダナは、ジャナロカに集まった賢人たちに、人格化されたヴェーダ(訳注:4人のクマーラのこと)が以前に至高主に吟唱した(to recite)祈りを吟唱します。

(one of the four Kumaras, Sanandana, recites to an assembly of sages in Janaloca the prayers the personified Vedas previously recited to the Supreme Lord.) (訳注:これは何のことだろうとしばらく考えてしまいました。原文を参照なさる場合はthe personified Vedasをtheyに置き換えて読むと分かりやすいと思います。日本語では「自分たちが」とするのが良いかと思います。)

祈りの一つは以下のようなものです。

(サンスクリット引用)

「もしも無数の生命体が、あまたに存在し(all-pervading)、決して変わることのない形を持っていたとしたら、あなたは決して彼らの完全な統御者ではありえません、おお、不変の(immutable)方よ。しかし、彼らはあなたの局地的な拡張体であり、彼らの形は変わり得るものであり(subject to change)、あなたは彼らを統御なさいます(do control、強調表現)。

実に、何かの発生(generation)に材料を提供する者は、必然的にその統御者です。なぜなら、産物は決してその材料の源(ingredient cause)から離れては存在しないからです。その拡張体のそれぞれにおいて平等に存在なさる至高主を自分は知っている、と考えるのは単に幻想です(It is simply illusion for someone to think that he knows~)。

なぜなら、何であれ人が物質的な手段によって得る知識は、必ず不完全だからです。」

第4段落
究極の知識(the last word in knowledge)は、確かに、自己認識(realization)やブラーマン認識ではありません。理解すべき(to realize、はっきり理解する)ことは他にもあります。すなわち、ジーヴァは主クリシュナの永遠の従者であるということです。

この認識は超精神的な(supramental)意識の目覚めであり、そしてジーヴァがそのような意識において行う活動は、彼の永遠の人生の始まりです。主の内的で霊的なエネルギーの指揮(direction)のもとでジーヴァが自分のすべての活動を行うとき、彼はブラーマンの認識の幸せよりも一億(a billion)倍大きな(訳注:比べ物にならないほど大きな)、永遠の超越的な喜びを楽しみます。

両者の間の超越的な喜びにおける違いは、広大な海と、子牛のひづめの跡に溜まった水の違いのようです。シュリー・オーロビンドが「神聖なる母」について書いたとき、彼はおそらく(likely)この内的な、霊的なエネルギー、(すなわち)永遠の超越的な喜び(bliss)の支配神(predominating Deity)を指していました。

彼はまた、劣性の、物質的なエネルギーの活動は、この霊的な力のそれと間違われるべきではない、と指摘しました。かつて、有名な非人格主義者であり一元論者であるサンニャースィー、マドラスのラマナ・マハリシは、外国人の弟子にこう尋ねられました。「神と人の間の違いは何ですか?」

彼のあいまいな(cryptic、謎めいた、暗号の)答えは、「神に欲望を足すと人に等しく、そして人から欲望を差し引くと神に等しい」というものでした。私たちは、人は決して欲望無しではいられない(can never be free of desire)と言います。

この永遠の制約された存在において、ジーヴァは物質を楽しむ欲望に満ちています。一方で、(自分の)永遠の解放された状態において、彼(ジーヴァ)は主に献身奉仕を捧げる欲望に満ちています(訳注:「永遠に解放された状態では、ジーヴァは~に満ちています」)。

このため(Thus)、ジーヴァは決して神になることはできません。人を神と同等にする(to equate、同等視する)こと、あるいはその反対は、全くの(sheer)狂気です。自分の意識的な自己の生来の性質を否定するというマーヤーヴァーディーの不自然な欲望は、彼を解放を得ることから遠ざけるその同じ欲望そのものです(訳注:まさに~というその欲望そのもののせいで、~は~を得られません)。

従って(Hence)、マーヤーヴァーディーの誤っていて傲慢な解放の主張は、単に彼らの歪んだ知性の証明(demonstration、論証)に過ぎません。

第5段落
シュリマッド・バーガヴァタムによれば、欲望は決して無にされ得ません(to nullify、破棄する、無効にする)。制約されている間、ジーヴァはチャトゥル・ヴァルガ、(すなわち)ヴェーダ文献において宣言(to enunciate)される人間の人生の4つの目的(宗教性、経済的な発展、感覚の満足、および解放)として要約される無限の物質的な欲望の貯蔵庫(repository、宝庫)です(訳注:~に満ち溢れている)。

しかし、主の内的な、霊的エネルギーの指揮のもとで活動することによって作られる解放された状態において、ジーヴァの本当の、霊的な欲望が顕現します。シュリー・オーロビンドはこの主題を(詳細ではないながらも)論じ、このため私たちは彼をラマナ・マハリシよりも評価します。

ラマナ・マハリシは、ほぼ(more or less)、欲望から命を完全に窒息(to choke)させようとしました(抹殺しようとしました)。この力ずくの欲望の排除(elimination、消去)は、霊的な自殺です。患者の病気を治すことなくその命を終わらせる(to finish off)ことには何の栄誉(credit)もありません。

医者は、病を癒し、患者を救うことができるとき、資格があります。上に述べられた4つのヴェーダの目的地を、非人格的な解放までさえも目指す(to pursue)者は、自分の感覚によって捕らわれ(to be imprisoned)、自分の欲望によって奴隷にされます。

他方で、(自分の)日々の活動を至高主への奉仕に使うための方法を人々に教えることのできる者は、人類の本当の恩人(benefactor)です。

第6段落
バガヴァッド・ギーター(9.4)において、主クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私によって、私の非顕現なる形において、この宇宙全体が満たされています(to pervade、充満)。すべての存在(beings)は私の中にありますが、私は彼らの中にはありません。」

第7段落
その非顕現で非人格的な形において、主クリシュナはご自分の外的なエネルギーの変容であるこの宇宙全体を満たされます(to pervade)。したがって、物質的な創造の中のすべての生命体は、主のエネルギーに依存します(to rest)。

エネルギーは、エネルギー的な源無くしてそれ自身だけで(by itself)存在することはできません。このように(Thus)。物質エネルギーと至高のエネルギー的なもの、(すなわち)主クリシュナは、原則として(in principle)一つですが、エネルギー的なものは主のエネルギーの働きから遠く離れています。

ジーヴァは、周辺的であるため、主の外的なエネルギー---この物理的な世界---の顕現、または主の優性な内的な力の拡張体である霊的な世界において、主ご自身に奉仕をする、という欲望によって動かされます。

言い換えると、すべての状況においてジーヴァは従者としての自分の本来の立場を維持します。そのため彼は、奉仕をするという自分の欲望を人為的に放棄することによって、この物質自然の従者として経験する(to undergo、変化を経験する、苦しみを耐え忍ぶ、手術などを受ける)苦しみを和らげる(to relieve)ことはできません。

本質的に(inherently)従者であるので、ジーヴァは奉仕をするという自分の欲求を捨てる(to forsake、習慣などをやめる)ことは決してできません。しかし、もしもそう望むなら、彼は悪い奉仕をやめて良い奉仕をすることができます(to quite ~ for ~)。

彼は、奉仕をするという自分の欲求を完全に抑圧する(to throttle the life out of、息の根を止める、窒息させる)非人格的な解放を含むヴェーダの4つの目的への(of)奉仕を放棄し、注意深く、主に奉仕をするという自分の本来の霊的な欲求を顕現しようとすべきです。

(訳注:ヴェーダの目的への奉仕、というのは、それに向けて努力する、自分のエネルギーをその目的のために注ぐ、ということを指すのだと思います。)

オーロビンドは、上に引用した一文の中で、この同じ点に言及しています。

もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。 」(第3章14段落(3))

第8段落
もしも人間が自我、欲望、感情、嫌悪など無しで存在しようとすれば、彼は不活性な(inert、自動力のない)物体に変えられるでしょう。これは霊的な上昇ではありません。人が物質的な知覚から霊的な知覚へと徐々に進歩するとき、彼はそれまでずっと(so long)無明によって汚染されていた自分の俗的な欲求、感情、嫌悪などがいかに取るに足らない(trivial、つまらない、ささいな)かを明らかに理解することができます。

この無明が消えるにつれて、俗的な欲求は些細になっていきます(to become insignificant、重要でなくなる)。欲求は残りますが、それらはもはや俗的ではありません。それらは超越的になります。その状態において、人はブラーマン、超魂、そして至高主を一つのものとして知覚します。

そのようなより高い知覚は、一足飛びに至ることは不可能である状態、(すなわち)人の心と感覚が超越的であるときだけ、可能です。不可能なことを試みる者は非合理的で、過度に野心的です。誰でも、次の歩を進める前に先の一歩を確実に地に着け(to place)、徐々に進まねばなりません。このようにして、人は究極的に目的地に到達します。

第9段落
「ヨガ」と題する随筆において、シュリー・オーロビンドは欲望を滅ぼすことを勧めてはおらず、そうではなくその性質を変えることを勧めています。ジーヴァはもともと主クリシュナの永遠の従者であるというのは、永久の(perennial)真理です。

制約されていようと解放されていようと、ジーヴァは他のどんな自己認識(identity、正体、アイデンティティー)も持ちません。彼の立場は、ある国の市民のそれに似ています。彼はいつも、牢屋に入っていようがいまいが、政府の法律の影響下にあります(subject to)。牢屋の中にいるとき、彼のすべての活動は苦痛を伴いますが、自由な市民として、彼は自分のすることのすべてにおいて満足(content)に感じます。それは単に自分の性質を変えることに関わります(merely a matter of changing his character)。

(訳注:多少意訳になりますが、「悪事を働けば牢屋に入れられて苦しめられ、悪事を働かなければ閉じ込められもせず、罰を与えられて苦しめられることもありません。すべては自分の行い次第です」という意味かと思います。)

第10段落
同様に、ジーヴァが至高のエネルギー的なもの、(すなわち)シュリー・クリシュナに奉仕をすることを拒否して、代わりに主の幻想エネルギー、マーヤーに奉仕をするときでさえ、彼は主の従者であり続けます。

しかし、その状態においては、彼は主への献身奉仕の喜びを知りません(to be ignorant of)。ジーヴァが自分の俗的な性質を投げ捨てる(to cast away)ときにだけ、彼は献身奉仕において超越的な喜びを経験することができます。

それでも、どんな状況ででも、ジーヴァは決してクリシュナの永遠の従者としての自分の生来の性質を放棄することはありません。なぜなら、彼は主の周辺的な力から放射しているからです。

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皆様、こんにちは。いつもながら長らくお待たせしてしまいまして、申し訳ございませんでした。怠けていてほんとにすみません。それでも熱心に読んでくださる方が小数ながらいらっしゃることをとてもありがたく思っています。もとより大勢の人に受けいれられることは期待していませんが、プラブパーダの声が届くべきところに届くための一助となっているのは、考えてみたらすごいことです。私ってラッキー、と思います。たぶん、前世でクモを3匹ばかり助けたのでしょう。奉仕が喜びであるというのはなんだか実感できる気がします。

そういえば、シングルマザーだった私の友だちは子供の手が離れてからネズミを飼い続けています。それはそれは私も飼ってもらいたいほどの扱いで、わざわざ特別製のケージを輸入するわ、四季折々のオーガニック野菜や山羊のヨーグルトを与えるわ、オーガニックレモンとヒマラヤの塩のお風呂に入れるわで、完全にねずみの召使状態です。一緒に出かけていても、ネズミに薬を飲ませる時間だから、と言って急いで帰ります。病気をしたら医療費も高いので、自分の食費を削ってまでネズミの治療に費やしてました。それにしても、世の中にはネズミの脳腫瘍手術というのが存在するのです。ご存知でしたか?そういう離れ業ができる医者は人間の脳移植なんか踊りながらでもできそうですね。

ネズミの命は短いので、彼女が飼っているネズミたちは3代目です。先代で家計が相当傾いたので、しばらくはネズミは飼わないと心に決めていたようですが、愛を捧げる相手がいないと耐えられない、と言って3ヶ月ももたずに次のを飼い始めました。魂の本来の姿は、物質世界の波打つ水面にいろんな形で映っていますね。
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by ammolitering4 | 2015-07-31 06:12 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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