第3章 後半

第12段落
自分たち自身の取るに足らない(puny、小さくて弱々しい)努力を通して至高存在を知ろうと試みた現代の霊性主義者(spiritualists)のうち、シュリー・オーロビンドはある程度の悟り(realization)を得たというのが一般的な意見です。

彼の成功の理由は、彼の研究の対象(object)が物質的な知識ではなかったからである、とされています(it is claimed、主張)。マーヤーヴァーディーはすべてのものの一体性を知ろうと試みますが、彼らの研究は非人格的で非二元論的な(nondual、二重性がない)ブラーマンの認識にしか繋がりません(~ takes them only up to ~)。

彼らは、「病から自由になることは完成ではなく、病んだ物質的な状態(condition)の後には霊的な存在という(of)健康的な状態(state)がきて、そこでは解放された魂は変わらず(still、それでもなお)人格を持った個人である」ということを知りません(訳注:括弧は訳者)。この事実は彼らにとって理解不能です。

第13段落
シュリー・オーロビンドは、この限られた思考の領域(limited sphere of thinking)を超え、「神聖なる人生(Life Divine)」などの本において「超精神的な(supramental)意識」について語りました。私たちはこの本を、至高主の超越的な力を表す(to present、提示)ための漠然とした(hazy、かすみがかかったようにぼんやりしてよく分からない様子)試みであると考えます。

彼は至高主には超越的な力がある(~ is endowed with ~)ということを受け入れました。そしてそのため私たちは多少は彼を評価します(we have some appreciation for him)が、私たちは、多くの人はシュリー・オーロビンドの本における超越性に関する彼の説明を理解することができない、と感じます。

彼は比較的簡単な(simple)英語を用いますが、読者は困惑したままです(to remain puzzled)。ヴィシスタードヴァイタ、スィダードバイタ、ドヴァイタードヴァイタ、そしてついには主チャイタンニャのアチンテャ・ベーダーベーダー・タットヴァなどのヴァイシュナヴァ哲学に馴染みのない(unacquainted)者は、シュリー・オーロビンドを理解することができません。

そして、非人格的な哲学だけを学んだ者(are learned only in~)、非二元論的なブラーマンを探している者は、シュリー・オーロビンドの研究(works、著作)をますます理解できません(to have even less access to ~'s works)。

第14段落
シュリー・オーロビンドの一連の思考の多くはヴァイシュナヴァ哲学から借り出されています。「ヨガに光を当てる(Light on Yoga)」、および「目的地(“The Goal”)」と題した随筆において、次の文(passages)が見出されます。

(1)
動的な悟り(dynamic realization)を得るためには、プルシャをプラクリティへの従属(subjugation、征服された状態)から救うだけでは十分ではありません。人はプルシャの忠誠(allegiance)を、無知なる力というその働きをもって(with its play of ignorant forces)、より低いプラクリティから至高の神聖なるシャクティ---母なる存在へ移行(to transfer)しなければなりません。

(訳注:「その働き(play)を持って」という部分の「その」は、シャクティを指すものと思われます。なお、番号は引用部分の段落番号を示します。)

(2)
母なる存在(the Mother)を、より低いプラクリティとその力の仕組み(mechanism、機能)と同一視するのは間違いです。ここでプラクリティとは無明の進化のために形成された仕組みに過ぎません。無知なる精神的、生体的(vital、生命の)、あるいは肉体的な存在が、神(the Divine)から来ているにも関わらず自らは神ではないように、プラクリティの仕組みは神聖なる母(the Divine Mother)ではありません。

彼女(訳注:ここではherとなっており、Herと大文字表記ではないが、神を指す)の何かが、それを進化という目的のために維持し、この仕組みの中と背後にある(存在している)ことは、疑いの余地がありませんが、彼女自身はアヴィデャのシャクティではなく、神聖なる意識、力(the Power)、光、そしてパラ・プラクリティで、その存在に(to whom)私たちは解放と神聖なる満たしを求めます(to turn for)。

(3)
もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。

それぞれの段階に独自の真理があります。これらの真理のいくつかは、私たちがより高い段階に上がると、もはや必要ありません。たとえば、欲望と自我は精神的、生体的(vital)、そして肉体的な段階の真理です。

なぜなら(as)、その段階にあって自我または欲望のない人は単なる機械人間(automaton)だからです。より高く上がるにつれて、自我と欲望はもはや真理ではないように見えるようになります。それらは、本当の人格(person)と本当の意志(will)を歪めている(to disfigure)偽り(falsehoods)です。

光の力と闇の力の間の戦い(struggle、せめぎ合い)はここでは真理ですが、人がより高く上がるにつれてそれはだんだん真理ではなくなっていき、そして超心(supermind)においてはそれは何の真理も有しません。

他の真理は留まりますが、(それらは)その性質、重要性、そして全体における位置づけを変えます。人格性と非人格性の対照は上心(overmind)の真理です。超心(supermind)の中には、それらの切り離された真理(separate truth of them)はありません。

(訳注: supermindと overmindの訳語は他に思いつかないので適当にあてはめています。適切なものがあればお知らせください。)

それらは切り離され得ず、一つです。しかし、より低い段階を克服(to master、完了)していない者は、超精神的な(supermental)真理に至ることができません。人の心の無能な(incompetent)奢り(pride、自尊心、思いあがりなど。「誇り」よりも否定的な意味合いのある言葉)は、鋭い区別(distinction)をつけ、他のすべてのものを非真理と呼びたがり、直ちに最高の真理へと、それが何であれ、飛び跳ねたがります(to leap、段階をすっとばしていく)。

しかし、それは野心的で奢り高ぶった間違いです。人は、頂に至るためには、階段を上り、一歩ごとにしっかりと足を踏みしめなければなりません。

第15段落
もしも人が人生の本当の意味について真剣であるなら、それならマーヤーの壊滅的な(crippling、機能不全にさせるようなひどい打撃)呪縛を逃れるための単純な努力(endeavoring)は、唯一の仕事(undertaking)ではありません。

究極の目的は、私たち自身を幻想エネルギーの魅惑(enthrallment)から解放し、超越的な霊的エネルギーに完全に従属的(subservient)になることです。

第16段落
チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて(マデャー20.108-09、111、117-8、120、および122)、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに幾らかの啓発的な(illuminating、無明の闇に光を当てるような)助言をなさいます。

(1)
クリシュナの永遠の従者であることは、生命体の本来の立場です。なぜなら、彼はクリシュナの周辺的なエネルギーであり、ちょうど太陽光や火の原子の粒のように、主と同時に一つであって異なる顕現であるからです。

(2)
主クリシュナはもともと3つのエネルギー的な変容体を持っておられ、これらは霊的な力、生命体の力、そして幻想の力として知られます。。。クリシュナを忘れて、生命体は記憶にないほどの昔から外的な特徴に惹き付けられてきました。

したがって、幻想エネルギー(マーヤー)は彼に、その物質的な存在において様々な悲惨さを与えます。物質的な状態において、生命体は時としてより高い惑星系と物質的な豊かさに上げられ、そして時として地獄のような状況において溺れさせられます。

彼の状態はちょうど、王が水につけたり引き上げたりして罰を与える犯罪者のようです。。。もしも制約された魂が、自発的に霊的な命令(injunctions、この場合は「教え」)を教えて彼がクリシュナ意識になるのを助ける聖人的な人の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、制約された魂はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します。

(訳注:修飾語が長くて分かりにくいですが、「もしも聖人的な人が現れて、慈悲深くも率先して霊的なことを教えてくれて、そのおかげで彼がクリシュナ意識になったら」という意味。)

制約された魂は、自分自身の努力によってクリシュナ意識を蘇らせることはできません(to revive)。しかし、いわれのない慈悲によって、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました(to compile、一つにまとめる)。

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わたくし、、、困惑しております。皆様はいかがですか?オーロビンド様の言葉、分かりにくいですね。やっぱりプラブパーダのすっきりした文体が一番、と改めて思いました。
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by ammolitering4 | 2015-06-20 09:31 | 「英知による放棄」 | Comments(2)
Commented by 自然農ダースひっきぃ at 2015-06-24 13:15 x
「人は、頂に至るためには、階段を上り、一歩ごとにしっかりと足を踏みしめなければなりません。」

このお言葉が特に良かったです。
Commented by 葉子 at 2015-06-27 01:06 x
これは大切ですよね。階段を上っていった先の目的地さえ見間違わないように、ちゃんと考えて見極め、見据えていれば、という前提に基づきますけれど。
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