第3章 前半

第3章 心が物質への執着から清められる(訳注:心が清められ、~がなくなる)

第1段落
ウパニシャッドの格言(aphorism、金言、名句、警句)、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」の意味により多くの光を当てる(to shed、何かに対して光を発する、放つ)ために、ヴィシュヌ・プラーナからの一節(1.22.56)を引用します(to cite、例証)。

(サンスクリット引用)

「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」

第2段落
彼らの哲学的な議論において、マーヤーヴァーディーは至高主の多面的な(multifarious、様々な)エネルギーの存在を否定します。そのような基準値以下の(sub-standard)討論は、実に、幼稚園の水準にあります。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラによれば、マーヤーヴァーディーは知識に乏しく(to have a poor fund of knowledge)、そしてそのため、至高のブラーマンは6つの富を完全に備えているということを理解できません(to be prevented from understanding ~)。」

これらの気の毒なマーヤーヴァーディーの非人格主義者たちを哲学的な疲弊(impoverishment、窮乏化、衰え)から救うために、主クリシュナは慈悲深くもバガヴァッド・ギーター(7.19)において彼らにお教えになりました。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死のあとで、本当に知識のある(in knowledge)者は、私がすべての原因とすべての存在(all that is)の原因であると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」

第3段落
「つながれた牛は縄の長さの分だけ動く(A tethered cow goes as far as the rope)」と、ことわざにもあります。同様に、究極的な知識を探求するために帰納的な(inductive)方法を使う者は失敗します。人は、俗的な心をもって超俗的な(the supermundane)ことを知ることはできないので、彼の努力は無駄(futile、無益)です。

完全真理の完全な理解は、神聖ではない(unholy、不浄、邪悪、罪深い)、悪魔的な心をもってしては不可能です。

人が、究極的に万能な(supremely omnipotent)至高の人格神を非人格的なブラーマンに引き落とそう(to reduce)とする悪魔的な精神性を持っているとき(to be possessed of)、すべてのいわゆる哲学的な討論は、完全な知識の領域(realm)、あるいは二重性でないもの(nondual substance、二元論的でないもの)に関する真理を発見しそこなうでしょう(訳注:どれだけ議論しても見つかりはしない)。ヴァイシュナヴァだけがそのような知識を培う資格があります。

第4段落
もちろん、すべての非人格主義者が悪魔的なのではありません。非人格主義者が、完全真理はすべての超越的な性質を持った(to be endowed with)人格(a person)であるとはっきり理解すれば(to realize)、彼は直ちに神に奉仕をし始めます。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.7.10)において次のように確認されています。

(サンスクリット引用)

「すべての異なる種類のアートマーラーマ(アートマー、すなわち霊的な自己に喜びを感じる
(to take pleasure)者)、特に自己認識の道において確立している者は、すべての種類の物質的な呪縛から解放されているにも関わらず、至高の人格神に純粋な献身奉仕を捧げたいと欲します。

これは、主が超越的な性質を持っておられ、そしてそのため、解放された魂を含め、すべての者を惹きつけることがおできになるということを意味します。」

第5段落
主の超越的な性質によって魅了され、そのため主に服従する、その偉大な魂を見つけるのは稀です。至高主に服従することのできる唯一の人は、主から主の人格を奪おうとはせず、そうではなく、物質自然を主の様々な(multifarious)エネルギーの変容と見なす者です。

そのため、マーヤーヴァーディーは決してマハートマー、すなわち「偉大な魂」とは呼ばれ得ません。非二元論的な(nondual)完全真理が6つの富を完全に備えた至高の人格神に他ならないということをはっきりと理解するときにのみ、彼らはマハートマーと呼ばれ得ます。

第6段落
ヴァイシュナヴァのマハートマーは、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」という格言(aphorism)を次のように説明しました。ヴィシスタードヴァイタとして知られる哲学的な学派は、「至高主はチット・シャクティ、すなわち霊的な力、そしてアチット・シャクティ、すなわち物質的な力という、ご自分の二つの主要な力をもって永遠に存在なさる」という考えを提議しました(to propound)(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました)。

一つの非二元論的な存在(one nondual entity)でいらっしゃるにも関わらず、主はご自分が完全に統御なさるチットとアチットの力という主な区分(headings、見出し、項目)の下でご自分の様々なエネルギーを顕現なさり、動的に(dynamically)存在なさいます。

無限の力の源であられるにも関わらず、主はご自分の超越的で個人的なお姿において永遠に存在なさいます。この形は3つの側面において顕現します。すなわち、主がご自分自身をご覧になるように、愛情ある献身者が主を見るように、そして主がご自分の競争者と敵によって見られるように、です。

シュリー・ラーマーヌジャーチャーリャによって率いられるシュリー・ヴァイシュナヴァの師弟継承(disciplic succession)は、主と主のエネルギーの立場(situation、状態)を説明するために、私たちが先に引用したものと同じ文を引用します。「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」

第7段落
このように、創造全体が主の存在の証拠です。完全な知識を持っている(in complete knowledge)者は、完全真理はすべてのエネルギーの源ならびに統御者として永遠に存在する至高の人格神である、ということを理解します。

マハートマーはこの知識を完全に理解し、そして主の超越的なエネルギー(チット・シャクティ)の庇護の下に入って、永遠に主に愛情ある献身奉仕を捧げます。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.13-14)においてこれを確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、神聖な自然の保護の下にあります。私を至高の人格神、源(original)であって尽きることがない(inexhaustible)として知っているので、彼らは完全に献身奉仕に携わります。

いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏し(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に献身の念をもって私を崇拝します。」

第8段落
精神的な推量者と論理学者、そして経験主義的で(empirical)帰納的な(inductive)過程に拠り頼む初心者であるマーヤーヴァーディーは、完全真理をはっきりと理解した、主の純粋な献身者の立場を正しく理解すべきです。バガヴァッド・ギーター(4.23)において主クリシュナは献身者の活動について(of)このような説明をなさっています。

(サンスクリット引用)

「物質自然の相に非執着であり、完全に超越的な知識のうちに位置している者の仕事は、完全に超越性に同化します。」

第9段落
犠牲として行われた活動は、すべて献身奉仕です。ヤジニャというサンスクリット語の単語は「犠牲」を意味しますが、それはまた主ヴィシュヌご自身を意味するものでもあります(it can also mean)。自分の活動を超越的な献身奉仕として行うことは、完全真理に完全に位置した、発達した魂にとってのみ可能です。再び、クリシュナはご自分の献身者をバガヴァッド・ギーター(7.17)において描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「これらの中で、完全な知識を持ち、いつも純粋な献身奉仕に携わっている者が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく、そして彼は私にとって愛しいからです。」

第10段落
もしもいくらかの徳(piety、敬虔さ)によって非人格主義的な哲学者が至高主への献身奉仕にいそしむなら、そのとき初めて(then only)彼は主にとって愛しくなります。しかし、非人格主義者が至高主から主の神聖な力を奪おうとする限り、彼らは決して主にとって愛しくはあり得ず、また、マハートマーとも呼ばれ得ません。

彼らは、主の幻想の力によって幻惑された悪魔的な無神論者のうちに数えられ続けます。これらの無神論者たちは賢人ではありません。彼らは単に、主に無礼を働く、普通の、死を運命づけられた存在です(ordinary mortals who are offenders against the Lord)。

第11段落
ヴェーダ文献の中でジニャーナという言葉が現れるところではどこでも、サムバンダー・ジニャーナ、主と主のエネルギーの間の関係に関する知識を意味する、と理解されるべきです。それは至高存在に関する非人格主義的な(impersonalist)概念を指すのではありません。

サムバンダー・ジニャーナを理解したあと、人はアビーデーヤ・ジニャーナ、至高主との(自分の)関係においていかに振舞うか、ということに関する知識の段階に来ます。これが解放された魂によって実践される献身奉仕です(This is devotional service, practiced by ~)。

アビーデーヤ・ジニャーナという(of)成熟した段階は、人を至高神への愛、すべての生命体の究極の目的地に導きます。
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ほんのちょこっとだけお届けします。アパートの掃除と片付けに忙しい毎日なのです。狭いのによくもまあ要らない物がたくさんあるものです。残りもできるだけ早く清書しようと思います。
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by ammolitering4 | 2015-06-19 09:11 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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