第2章

第2章 献身の念は至高存在に関する完全な知識の中に宿る

第1段落
もしも微小な魂が自分の個別性(individuality)、すなわち生来の(inherent)人格を無限大の存在と同化させるなら、それならその個別性は無価値になります(to render)。自分の個別性を犠牲にすることによって霊的な自殺をしたがる者は、特殊な人々です(a breed by themselves、自分たちだけの種族)。

そのような自己破壊者(self-destroyers)は純粋な一元論者(monists)として知られます。他方で、自分の個別性を維持したいと欲する者は、二元論者、すなわち人格主義者です。

第2段落
ジーヴァがいったん自分のもともとの超越的な性質を顕現すると、彼は簡単に物質的な制約から解放されますが、それでも、そのような高い(elevated)状態においてさえ、彼は霊魂としての自分の個々の自己認識(identity)を失いません。

事実、その純粋な状態において彼は至高主への永遠の奉仕に携わり、荘厳な(sublime、気高い、卓越した)喜びの不滅の蜜を味わいます。

第3段落
遠い昔から(For eons、eonは無限に長い時間を指す)、世界中でクシェトラとクシェトラ・ジニャという主題(subject)に関する研究が続いています。インドでは6つの哲学的な学派(注)がこの主題(topic)を広範に(extensively)論じましたが、この議論は単に、賢人たちの間での多くの異なる意見につながった、論理(logic)と詭弁(sophistry)における練習(exercise)であるに過ぎません(to have been、今も続いていることを示す)。

そのため、これらの学派のうちのいずれも、本当にジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への道を実践していません。クシェトラとクシェトラ・ジニャの議論が主への奉仕に適用される(to apply)ときだけ、その練習(the exercise)はジニャーナ・ヨガになります。

(注)6つの哲学的な学派とその提唱者(proponants、これはproponentsのラテン語綴りであり、一般的ではない)は以下の通り:
サー・キャー --- カピラ(無神論的)
パタンジャリ・ヨガ --- パタンジャリ
ニャーヤ --- ゴータマ
ヴァイシェスィカ --- カナーダ
ミマムサ --- ジャイミニ
ヴェダーンタ --- ヴャサデヴァ

第4段落
ジニャーナ・ヨガの過程はヴェダーンタ・スートラ、ヴェーダの哲学的な真髄の中において詳述されています(to be delineated)。至高主クリシュナはヴェダーンタ・スートラの権威を受け入れられ、(その)哲学的な提示を正しい(proper)と考えられます。

現在(present day)まで、非人格主義者の学派においてさえ、すべての霊的な系統(line)がその哲学的な権威をヴェダーンタ・スートラにのっとっています。そして、シュリマッド・バーガヴァタムはヴェダーンタ・スートラに関する自然で欠点のない論評(commentary、記録、解説)です。これが主チャイタンニャのご意見です。

第5段落
学識のある階層の人々(circles)は、ヴェダーンタ・スートラに関する論評(commentary)の欠けた(bereft of)師弟系統(desciplic line)を、正統ではなく無益であると考えます。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャの「シャーリーラカ・バーシャ」と題したヴェダーンタの論評は、非人格主義的で一元論的な学派の主な論評です。

ヴァイシュナヴァの中では、シュリーパーダ・ラーマーヌジャーチャーリャの論評の他には、マードヴァー・ゴーディーヤ・サムプラダーヤとして知られる主チャイタンニャの系統において、シュリーラ・バラデヴァ・ヴィデャーブーサナの「ゴヴィンダ・バーシャ」が主な論評です。

第6段落
聖典の深遠な(esoteric、奥義、難解)結論に関する深い議論に携わることを好む(keen)者は、確かに、ヴェダーンタ・スートラの哲学を掘り下げるべきです(to delve into)。強調されるべき点は、造詣の深い(well-versed、精通)ヴェダーンタの哲学者はシャンカラーチャーリャの系統に属する(in)哲学者ではなく、実際はヴァイシュナヴァの霊的な教師(preceptor)、解放された魂であるということです。

第7段落
ヴェーダと賢人たちによれば、5つの「密度の濃い(gross)要素」は、「土、水、火、空気、そしてエーテル」です。物質自然は、「偽りの自我(アハンカーラ)、物質エネルギーの材料(マハット・タットヴァ)、そしてマハット・タットヴァの原因(プラクリティ)」の組み合わせから作られます。

5つの「知識を集める感覚」と、5つの「働く感覚」が存在します。心は内的な感覚、六つ目の「知識を集める感覚」です。「形(form、姿)、味、匂い、触感(touch)、そして音」が5つの「感覚の対象」です。(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました。これらの要素を合計すると24個になります。5+3+5+5+1+5=24)

第8段落
私たちは既に、無心論者カピラのサーンキャー哲学の描写において、これらの物質的な材料を列挙しました(to enumerate)。クシェトラ、すなわち「場」は、上記の24個の材料の組み合わせです。これらの24個の材料が関わりあう(to interact、相互作用)とき、結果は物質自然の変容(transformation)であり、それは、物質的な欲望、嫌悪、楽しみ、嘆きなどの結果として、5つの密度の濃い要素(パーンチャ・マハーブーター)からなる密度の濃い体を生じさせます。

心と意志(will)の形を取った意識の影(shadow)がその場(field)の変容です。

(原文は”The shadow of consciousness in the form of mind and will are transformations of that field. ” ここで主語となる The shadowは単数となっており、述語の複数形と呼応していません。mind and will に引きずられた単なる間違いなのかもしれませんが、この一文自体が難解で意味がよく分かりません。意識の影、すなわち意識の反映が、心と意志という二つの形で現れ、それらが「場」、すなわち物質自然を変容させる、または変容そのものである、というような意味なのだと思います。そうであれば述語が複数形になるのも理解できますが、やはり多少文法的に整っていない感じがするので、私は以下のように読もうと思います。”The shadows of consciousness are manifested in the form of mind and will, and they are transformations of that field.” ご意見があればお寄せください。なお、この場合のformは不加算名詞なので単数形です。)


第9段落
まもなく論じられるのは、クシェトラ・ジニャはクシェトラおよびその変容と全く異なるということです。しかし、クシェトラとクシェトラ・ジニャに関する知識を正しく理解するためには、人はまず、バガヴァッド・ギーター(13.8-2)に挙げられている少なくとも20個の良い性質を培わねばなりません。

「謙虚さ、奢らないこと、非暴力、忍耐、簡素さ、真正なる霊的指導者に近づくこと、清潔さ、堅実さ、自己統制、感覚の満足の対象の放棄、偽りの自我がないこと、生老病死の悪を知覚すること、非執着、子・妻・家庭その他とのもつれからの自由、喜ばしいことと喜ばしくない事々にあって心が安定していること、私への継続的で混じり気のない献身の念、孤独な場所に住むことを欲すること、一般大衆から離れること、自己認識の重要性を受け入れること、そして完全真理を求める哲学的な探求---これらすべてを、私は知識であると宣言します。そして、この他のものは何であれすべて無明です。」

(Humility; pridelessness; nonviolence; tolerance; simplicity; approaching a bona fide spiritual master; cleanliness; steadiness; self-control; renunciation of the objects of sense gratification; absence of false ego; the perception of the evil of birth, death, old age and disease; detachment; freedom from entanglement with children, wife, home, and the rest; even-mindedness amid pleasant and unpleasant events; constant and unalloyed devotion to Me; aspiring to live in a solitary place; detachment from the general mass of people; accepting the importance of self-realization; and philosophical search for the Absolute Truth – All these I declare to be knowledge, and besides this whatever there may be is ignorance.)

第10段落
これらの性質を持たない(bereft of)人々は、霊的な話題を論じる資格がありません。偽者の論理学者(logician)は、制約された魂を解放に導くためにある上記の性質を、欲望、怒り、嫌悪などの、心の変容の結果として得られる俗的な性質と取り違えます(to mistake ~ for ~)。しかし事実は、上記の性質は霊的な知識を表します(to represent)。

たとえ人が、完全な知識のための必要条件(prerequisites、前提、予備知識)として、「主クリシュナがギーターにおいて列挙なさった性質は精神的な(mental)変容である」という、偽者の論理学者の議論を受け入れるにしても、それでも私たちは、「これらの変容は全くの無明から結果として生じる欲望(lust)、強欲(greed)、怒り、そして幻想などの性質と同等である(equivalent)」ということに同意することはできません。(訳注:ややこしいので分かりやすくするために括弧を入れています。)

ある種の精神的な変容は魂を堕落(depravity)へと引きずりおろし、他方で他(の精神的な変容)は魂を破滅(doom)から救います(to redeem)。病気も薬も物質自然の産物ですが、一つは人を死の淵(the jaws of death、死に脅かされた状態)に押しやり、他方は彼を破滅から救います。

そのため人は、ヤタ・マタ、タタ・パトー、「すべての道は真理に通じる」という愚かな理論を受け入れて、これに基づいて薬と病気は全く同じである(one and the same)と公言する(to profess)ことによって社会の笑いもの(laughing-stock)になることを避けねばなりません。

第11段落
クリシュナが挙げられた20個の性質の中で、特に注目すべき(noteworthy)一つの性質があり、そしてそれは(サンスクリット引用)です。「私への継続的(constant)で純粋な献身の念」です。他の性質は意識を清めるために必要とされます。

いったん心の鏡が浄化され、物質的な存在の燃え盛る火が消されると、主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が心(heart)の地平線上に現れ始めます。偉大で聖人的な霊的指導者シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラはこう歌われました。

「私の心はいつ浄化されて物質から離れるのでしょうか?おお、いつ、その清められた状態で、私はヴリンダーヴァンの超越的な領域(realm)を見ることができるでしょうか?」

第12段落
いったん主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が人の心の中に花開くと、他の19個の性質は彼の中に自動的に現れる、ということに気づく(to note、言及、注意する)のは興味深いことです。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)には、次のように述べられています。(サンスクリット引用)

「すべての半神たちと、宗教、知識と放棄などの彼らの高貴な(exalted)性質は、至高の人格神、ヴァースデヴへの純粋な献身の念を育んだ者の体の中に現れるようになります。」

第13段落
毎日根気良く10、20、30ルピーを集めることで、人はいつの日か百万ルピーを持つようになります。しかし、もしも一度に百万ドルを得るなら(to come upon、出くわす)、人は別途に10、20、あるいは30ルピーを集める努力をして貴重な時間を無駄にする必要はありません。

同様に、人が主クリシュナへの純粋な献身の念を育むとき、他のすべての上記の性質は、さらなる努力なしに、自動的にその人を飾ります(to adorn)。他方で、主クリシュナへの純粋な献身の念を脇に置いて(to leave aside、取り残す)、他の19個の性質を別に育もうとする者は、一時的に富と名誉を得るかもしれませんが、彼は最高の目的を達成する資格を失います(to become unqualified)。

上記のシュリマッド・バーガヴァタムの同じ節の中で(5.8.12)、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)

「他方で、献身奉仕をせず(devoid of)、物質的な活動に携わっている人は、何の良い性質も持ちません。たとえ彼が神秘的なヨガの実践、あるいは自分の家族と親戚を養うための正直な努力に長けていた(to be adept at、熟達)としても、彼は必ず自分の独自の(own)精神的な推量によって突き動かされ(driven)、必ず主(校正:lord → Lord)の外的なエネルギーへの奉仕にいそしみます。そのような人に、どうして何らの良い性質があり得るでしょうか?」

第14段落
主の蓮の御足に敬意を払わず、献身奉仕の過程を非難する(to denounce)一方で、謙虚さ(humility)や非暴力などの良い性質を見せびらかす(to make an external show)のは無駄
(futile)です。そのようないわゆる良い性質は、何らかの物質的な価値があるかもしれませんが、究極的にはそれらは役に立たず、一時的です。

事実、他の19個の性質は、そこから純粋な献身の念が統率する(may rule)ための王座を作るために組み合わさります(訳注:~は組み合わさって~のための王座となり、~はそこに鎮座して~します)。これらの性質は、完全真理の様々な側面(limbs、大枝)であり、この完全な知識以外のすべてのものは無明(nescience、無知)です。

第15段落
これらの知識の側面(limbs)を培うことによって、人は自己認識を得ます。言い換えると、人はクシェトラの俗的な知識からクシェトラ・ジニャの霊的な知識へと上げられます。私たちは先に、クシェトラ・ジニャという言葉は生命体と至高のブラーマンの両方を指す(to imply、暗示)と論証しました(to establish)。

時として、物質自然、すなわちプラクリティは、ブラーマンと呼ばれます(to be referred to as~)。その理由は、ブラーマンは物質自然の原因だからです。ある意味では、原因とその結果(effect)は同一です。しかし主クリシュナはブラーマンの究極の源です。

主は、ジーヴァとして知られるブラーマンの種を、物質自然の形を取ったブラーマンに撒きます(to impregnate ~ with~、はらませる)。(原文:The Lord impregnates Brahman in the form of the material nature with the seed of Brahman known as the jiva.) クリシュナはバガヴァッド・ギーター(14.3)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ブラーマンと呼ばれる全体的な(total、総体的、完全、絶対的)物質的な物体(substance、実体)は、誕生の源であり、私がはらませ(to impregnate)、すべての生命体の誕生を可能にするのは、そのブラーマンです、おお、バーラタの子孫(scion、御曹司)よ。」

第16段落
この節は「すべてのものはブラーマンである」を意味する、ウパニシャッドからの有名なことわざ「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」を説明します。言い換えると、それらがすべてブラーマンであるという点では(in that ~)、至高のブラーマン、主クリシュナは、ジーヴァおよびプラクリティの両方と同一です。

そのため、ある意味では、ヴァイシュナヴァは純粋な一元論者です。先に私たちは、バガヴァッド・ギーターからの別の節(9.10)を論じました(to deliberate、熟考、審議)。

(サンスクリット引用)

「私のエネルギーの一つであるこの物質自然は、すべての動くものと動かないもの(beings)を作り出し、私の指揮の下で働いています、おお、クンティーの息子よ。その統御の下で、この顕現は何度も何度も作られ、滅ぼされます。」

第17段落
論じられているギーターの節(14.3)は、もう一つの節(9.10)の、より明らかな理解を与えます。
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う~ん、小難しいですねえ。。。禅問答ですか、と思いながら訳しております。この本はプラブパーダがインドの言葉で書いたのを明らかに教養のある人物が格調高い英語にしたもので、それを私が偉そうに修正するなどものすごーくおこがましいのですが、やっぱりどうも一箇所だけ腑に落ちないのです。ご意見があればぜひお寄せいただきたいと思います。
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by ammolitering4 | 2015-04-23 13:07 | 「英知による放棄」 | Comments(5)
Commented by 自然農ダースひっきぃ at 2015-05-21 22:11 x

「そのため人は、ヤタ・マタ、タタ・パトー、「すべての道は真理に通じる」という愚かな理論を受け入れて、これに基づいて薬と病気は全く同じである(one and the same)と公言する(to profess)ことによって社会の笑いもの(laughing-stock)になることを避けねばなりません。」

というところは、受け入れられません。

ある意味、「すべての道は真理に通じる」のではないか、と考えています。
Commented by 自然農ダースひっきぃ at 2015-05-21 22:23 x
それから、余談ですが、原子力発電所再稼働反対や脳死による臓器移植反対等を訴えている大本教のように、少なくとも、電気を電力会社から買っているイスコンの寺院は、電気の作り方に言及する義務があると思うのですが、いかがでしょうか?
Commented by ammolitering6 at 2015-05-27 01:52
すべての道は、結果的には真理に通じていると私も思います。ただ、回り道かもしれないし、行き止まりを突破しなければならない道かもしれません。「何事も経験だ」ということを言いますね。学んだことが役に立ったと後になって思えればよいのですが、世の中には経験せずに済むなら経験しないほうが良いものごとも幾らでもあります。

プラブパーダのお言葉は、一部だけを抜き取って考えるのではなく、全体的に理解したほうがいいと思います。プラブパーダはいつもマーヤーヴァーディーをこっぴどくののしっていらっしゃいますが、別のところでは彼らの学識を称え、彼らに足りないものが神への愛一つだけだということを悔やんでおられます。角を別のほうに曲がれば、彼らの道もまた真理に通じているのです。
Commented by ammolitering6 at 2015-05-27 02:13
政治関係のことは難しいですね。日本の寺院の意見はISKCON全体の意見とは異なるかもしれず、国内だけでもこれだけたくさんの議論がなされていることですから、寺院としての統一見解を出すと内部対立が起きるかもしれません。

お見受けしたところ日本のISKCONはとても小さな組織で、電力の問題に関して専門的な議論を突き詰めた上で公式見解を出すような時間もエネルギーもないような気がします。理想を言えば、田舎のほうで自給自足で自家発電で修行をするのが一番だと思いますが、現実は都会で普通に仕事をしている人たちの小さな集まりであり、公的な電力に頼らざるを得ない状況があると思います。理想は理想として見据えながら、できる範囲で現実的な行動を取るのがいいのではないでしょうか。
Commented by 自然農ダースひっきぃ at 2015-06-01 07:41 x
ご丁寧なレス、有難うございます。

そうかもしれませんね。
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