第3部 第1章

第3部 ジニャーナ・カター 霊的な科学に関する主題(Topics of Spiritual Science)

第1章 物質的な存在の炎を消す

(サンスクリット引用)

「何百万もの(many millions upon millions)誕生の後で、完全な知識をすべて身につけたとき(complete in absolute knowledge)、人はそれでも(still)解放を得ないかもしれません。それなのに(yet)この男(man)は、単に聖なる御名を一見すること(glimpse、ちらりと見ること)の目覚め
(awakening)によって人はそれを得るだろう(may)、と言います。」(訳注:原文は長い一文。「~を一見することの目覚め」というのは、ちらりとでも触れること、というような意味と思われる。)

第1段落
シュリーラ・ラグーナーター・ダーサ・ゴスヴァーミーの父親と叔父(訳注:または伯父)---それぞれヒラニャ・マジュムダラとゴヴァルダーナ・マジュムダラ---は、サプラグラーマの太古の村チャーンダプラの大地主でした。

彼らの雇い人の一人、ブラーマナの生まれのゴパーラ・チャクラヴァルティーという名前の者は、聖典に関する討論において偉大なヴァイシュナヴァの聖人シュリーラ・ハリダーサ・タークラとしのぎを削りました(to lock、かぎを掛けて動けなくするようにがっちりと取っ組み合う様子)。

そのブラーマナは全くの(sheer)経験主義者で、そしてヴァイシュナヴァの聖人は、神、クリシュナの聖なる御名を唱えることに関する完全な権威者でした。ブラーマナはシュリーラ・ハリダーサに、悟り(realization、認識)のどの段階で解放が得られるのかと尋ねました。

聖典(訳注:複数)から多くの適切な節を引用しながら、シュリーラ・ハリダーサは、ちょうど、夜明けの最初の光で(at、~のときに、~と共に)泥棒、幽霊、そしてお化け(hobgoblins、悪さをする小さな妖怪)などの夜行性の生物(creatures)への恐怖が消える(to evaporate、蒸発)ように、純粋な唱名(chanting)のはるか前に訪れる、ナーマ・アーバーサと呼ばれる、聖なる御名を唱えることの最初の
(clearing、物事が始まる前に障害物を取り除く様子。「露払い」と似たような意味)段階において、すべての罪と無礼が消され、解放が得られる、と説明しました。

解放された、高く上げられた魂だけが主の御名を純粋に唱えることができ、そうして最高の悟り(realization)、至高主へのけがれない(untainted)愛を得ることができます。詭弁法(sophism)に強く執着していた推量的な哲学者のブラーマナは、聖人の教えを分かるようになる(to fathom)ことができず、そしてそのため、彼に無礼をはたらいてしまうことになりました(to end up ~ing)。

愚かなブラーマナは、聖なる御名の素晴らしさ(excellences、長所、美点)に関する自分の独自の解釈を押し付けようとし(to impose)、そしてシュリーラ・ハリダーサ・タークラは単なる感傷主義者だと結論づけました。彼は無礼にも(insolently、横柄な態度で)公衆の面前で聖人を非難し(to rebuke)、彼の解説と人格を笑いものにしようとしました(to ridicule、あざ笑う)。

第2段落
議論好きな(argumentative、理屈っぽい)非人格者たちは、まず完全真理の科学を正しく理解することなくしては人は決して(cannot possibly)至高主への堅固な献身の念を育むことはできない、ということを理解(to grasp)し損ないます。

そのため、人が純粋な献身奉仕の水準に位置しているのが見られるとき(訳注:~していれば)、彼の無明は滅ぼされたと理解されます(it is to be understood、やや格式ばった表現)。

私たちはこの点を先の随筆(essay)「献身の科学」(訳注:第2部のこと)において少し詳しく(in some detail)論じました。経験主義的な哲学者は一般に、人間の人生は完全な知識を得るためにあるという考えを唱えます(to put forward)。

彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける(to discern ~ from ~)能力を意味します。幻想を根こそぎにし(to eradicate、撲滅)、真理と現実はブラーマンと異なるものではない(nondifferent)ということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。

それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって(birth after birth)得ようとする(to aspire to attain)完全な知識の、彼らの(訳注:彼らによる)定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在(entity)になるとき知識の最高の段階に至る(~ is reached)、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します(When ~ become one entity, which is then finally merges into Brahman, attaining liberation)。

主チャイタンニャは解放のこの段階をバーヴァ・マハーダーヴァーグニ・ニルヴァーパナム、「物質的な存在の炎を消す」と描写なさいました。主は、純粋な献身者は神の聖なる御名を唱えることによって簡単に解放のこの段階に至る、ということを証明する多くの節を、明かされた聖典から引用なさいました。

第3段落
不幸にして、頑固な非人格主義者は、ヴェーダの4つの目的(宗教的な熱意(religiosity)、経済的な発展、感覚の満足、そして解放)さえも超えた最終的な霊的な目的地(destination)は、至高神への完全に純粋で超越的な愛だ、ということを理解することができません。

彼らは誤って、主の献身者を感傷主義者だと考え(to mistake ~ for ~)、彼らを自分たちの哲学的な敵対者(opponents)と見なします。これらの全くの(out-and-out、純然たる、徹底した)非人格主義者の他に、純粋な献身の道から逸れて見せかけ(pretension、気取ってもったいぶった様子)に陥った(to fall prey to~、犠牲になった)一群の献身者たちがいます。

これらのペテン師(cheaters、ずるいことをする人、騙す人)は実際は、至高主と同化しようとする非人格主義者の道を辿ることになります(to end up)。そのような物質主義的な感傷主義者は、主の献身者のうちに数えられません。

彼らの非人格主義者の片割れ(counterparts、互いに良く似て対をなすもの)のように(Like their impersonalist counterparts、この場合は「似たもの同士である~と同様に」というような意味)、彼らは至高主の御名、形、性質、娯楽、仲間、あるいは主に関する諸々の本当の立場を理解することができません。

なぜなら、彼らは誤って、これらの超越的な主題を幻想であると考えるからです。彼らは気まぐれに(capriciously)振る舞い、大衆を惑わせます(to confuse)。

第4段落
これらの物質主義的な感傷主義者はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な結論を退け、非人格主義の庇護の下に入ろうとします(訳注:~主義を奉じようとする)。しかし彼らは惨めにも、非人格主義者の学識と修養(discipline、訓練、修行、規律)に欠けています。

彼らは、聖典に関する議論を無味乾燥な推量であると、そして自分たちの無知で感傷的な感情の爆発(outburst)を自然に起こる(spontaneous、思わず何かをしてしまう様子)献身の情熱(fervor、取り乱すほど激烈な様子)であると見なして、自らを非人格主義者の聖典の学習と哲学的な議論から切り離します(to divorce、この場合は「怠る」と同義と思われる)。

第5段落
これらの偽者(pretenders、何かの振りをする人)の一部は、非人格主義者の足跡を非常に近く辿り(訳注:非常によく似ている、真似している)、そしてそのため、非人格主義者の系統(line)の狂った(deranged)分家(offshoot、横枝)として受け入れられるかもしれません。

しかし、彼らは確かに、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの系統の中にいる者によって辿られる(ヴァイシュナヴァの門下(discipline、学問などの分野、修行)の一部ではありません(訳注:決して~の流れを汲む~の一員ではありません)。

これらの偽者たちは、献身者の特定の特徴(mannerisms、「マンネリ」、固定化した特有の習慣など)をせっせと(diligently、こつこつ、勤勉に)培い、表します。そしてそのため、非人格主義者は彼らを自分たちの集団(fold、特定の信仰や思想を持つ集団)から退けます。

こうして非人格主義者とヴァイシュナヴァの両方から追放(to ostracize、排斥)され、彼らは発狂した(demented)感傷主義者の宗教集団(cult)を形成します。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、そのような偽者たちは霊的な社会に暴力(outrage、不名誉で残虐な行為、憤り)を作り出す、と宣言なさいます。ブラーマ・ヤマーラにはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「ウパニシャッド、プラーナ、そしてナーラダ・パンチャラートラなどの権威ある(authorized)ヴェーダ文献を無視している、主への献身奉仕は、単に社会における不必要な妨害(disturbance、騒動)です。」

そのような偽者、非人格主義者、経験主義者、そして結果を求めて働く者たちに慈悲を見せるため、至高主、クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて、ジニャーナ・ヨガ、すなわち知識を通してのヨガを論じられました。したがって私はこの随筆において、同じ主題に取り組みます(to embark upon)。

第6段落
本当の知識とは、真実と幻想の違いを見分ける(to discriminate between ~ and ~)ことを意味します。ジニャーナ・ヨガは、超魂とブラーマンの源である至高主への超越的な献身奉仕の道に、人が永遠に定まるようになる過程です(~ is the process by which one becomes ~)。

ジニャーナ・ヨガは決して、問い(enquiry、知識を得るための研究)の上行性の(ascending)過程、帰納的な(inductive、個別的な事例から一般的な法則を見出そうとする論理的推論)方法、それによって人が、徐々に本当でないもの(unreal)を退けることによって現実を幻想から離すことだけを目的とする、ということを意味すると解釈されるべきではありません。

(訳注:ジニャーナ・ヨガは決して、身近な事例から類推して高い真理を導きだそうという方法ではなく、そうすることによって徐々に現実から幻想を拭い去ることだけを目的としているのでもなく、誤解のないようにしなければなりません。)

すべての富と力に満ち、その身体的な輝き(luster)はブラーマンの光輝であり、そしてその部分的な拡張体が超魂でいらっしゃる至高主に奉仕をすることなくして、完全な知識を得るのは不可能です。

ゴパーラ・チャクラヴァルティーというこのブラーマナは(the brahmana Gopala Cakravarti)、ジニャーナ、完璧な知識は、主への献身奉仕よりもはるかに優れていると信じていました。しかし、チャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ3.201)には、次のように記録されています。

(サンスクリット引用)

「バララーマ・アーチャーリャという名前の僧(priest)が、ゴパーラ・チャクラヴァルティーを叱責しました(to chastise)。『あなたは愚かな論理学者(logician)です』と彼は言いました。『あなたは主への献身奉仕について何を知っているのですか?』」

第7段落
もしも人が主の献身者である振りをし、しかし無味乾燥で推量的な知識と、至高の完全真理に関する(of)知識の間の違いを理解しないなら、それならそのような人の献身の念は非人格主義すれすれであり(to border on ~)、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な教えに完全に反している安っぽい感傷主義と同格です(to rank with)。

したがって、ジニャーナ・ヨガは推量や経験主義的な研究ではありません。また、それは献身者の振りをしている成り上がり者(upstarts、横柄で傲慢な人)の唐突な感情の爆発(outbursts)でもありません。本物のジニャーナ・ヨガを実践することによって、経験主義的な哲学者さえ、聖典から純粋に霊的な話題を聞くことへの好みを育みます。

やがて彼は至高主の超越的な立場と力を理解するようになり、そして究極的には彼は、永遠であり、知識と喜びに満ちた主のお姿(form)を喜ぶ(to relish、味わう)ようになります。彼は主をすべての超越的な味わい(mellows)の体現として知覚します。

そして、経験主義者の真似をするのを好む、見せ掛けの(pretentious)非献身者の感傷主義者たち(訳注:非献身者であり、見かけを取り繕うばかりの感傷主義者たち)が本当のジニャーナ・ヨガを実践するなら、それなら彼らも完全真理に関する正確な認識(perspective、見方)を得るでしょう。

彼らは、至高主の形は霊的で超越的であるという理解において堅固に確立するようになり、そしてそのとき彼らは断固たる(unflinching、ひるまない)献身奉仕を捧げ始めるでしょう。

第8段落
チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)においてシュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャが次のように助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「真摯な学徒は、それらは議論の余地がある(controversial、諸説ある、物議をかもす)と考えて、そのような(聖典の)結論に関する議論をないがしろにすべきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。こうして人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」

そのような議論と問いを通して、私たちは自分はジーヴァ、個々の魂であり、その上において(upon which)自分の体と心は一時的で幻想的な重荷(imposition、不必要な負担)であるということに気づくようになります。

聖典は、主の優性で霊的なエネルギーの産物であるジーヴァを指して、クシャトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼びますが、他方で聖典は一時的で物質的な体と心をクシェトラ、すなわち場と呼びます。

ちょうどジーヴァが彼の個々の体と心との関係においてクシェトラ・ジニャであるように、主はご自分の広大な普遍的な形(His vast universal form)との関係においてクシェトラ・ジニャです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(13.3)において次のように教えられます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの御曹司(scion)よ、あなたは私がすべての体における知る者であると理解すべきです。」

第9段落
したがって、ジーヴァと至高主は、どちらもクシェトラ・ジニャ、「場を知る者」であるという点では(in the sense that ~)異なるものではありません。しかし、彼らのそれぞれがどのクシェトラを知っている(is knowing)かを見るとき、ジーヴァと至高主の間の違いは計り知れないほど(incalculably)大きい(wide)ように見えます(to be seen to be)。

至高主は無限大(infinite)であり、他方でジーヴァは微小(infinitesimal)です。意識として、ジーヴァは自分のカルマ、すなわち結果を求める活動によって(due to、~が原因で)得た自分の体と心に広がります(to pervade、充満、浸透)。

同様に、至高主はご自分の意識で創造全体---主の普遍的な体---に広がります。ジーヴァは自分の体に非人格的な意識として広がります(to permeate、充満、浸透)が、彼はいつも人格(a person)です。

同様に、ご自分の非人格的なあまねく広がる(all-pervasive)特徴において、至高主はご自分の意識で宇宙の顕現を満たされますが、ご自分の個人的な特徴において、主は永遠にゴロカ・ヴリンダーヴァナに留まり、娯楽をなさいます(performing)。

この点はブラーマ・サムヒター(5.37)によって実証されています(to substantiate)。(サンスクリット引用)「いつもゴロカと呼ばれるご自分のお住まいに住んでいらっしゃいますが、主はあまねく広がるブラーマンであり、局所的なパラマートマーでもいらっしゃいます。」

そして、バガヴァッド・ギーターにおいて主ご自身が場と場を知る者の機能(functions、役割)を説明なさり、そして主は、ご自分が知る者として創造全体に存在している、とおっしゃいます。

第10段落
無味乾燥な推量者は、場とそれを知る者を自分の偏った(lopsided)論理に応じて描写します。彼らは、体は容器のようなものであり、ブラーマンはあまねく広がる空のように、この容器に入ります。いったんこの容器が壊れると---というのは、解放のとき---ジーヴァは空によって象徴されるブラーマンに戻って同化します(to merge back into)。

この議論には多くの逃げ道(loopholes、抜け穴、義務などを逃れるためのあいまいさ)があります。何よりもまず、ジーヴァは霊的なエネルギーであり、他方で空は物体です。霊的な主題(subject)を物質的な主題と比べるのは間違っています。

これは、霊的な実体(substance)を俗的なものと同列に並べ(to equate)ようとして、非人格的な推量者がどのように自分の時間を無駄にするかということの典型的な例です。そのような経験主義的な実践(exercises)は、決してジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への(of)道とは呼ばれ得ません(to be termed)。

非人格主義者によれば、微小なジーヴァは解放のときに無限大のブラーマンに同化します。しかし、そのような同化は無限大の存在(the infinite)にどのような影響も与えません。不幸にして、非人格主義者たちはそのような解放が微小な生命体に引き起こす途方もない(tremendous)打撃に気づいていません(oblivious)。
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お待たせしました。第3部の始まりです。実はこのあと第5部まであるのです。それにしても、イソップ物語のコウモリのようなどっちつかずの熱狂的な人々は、もうどうあっても救われませんね。いったいどんな人たちなのだろう、数十年前のインドの宗教事情はけっこう恐ろしげだな、と思います。今もあんまり変わらないのかな。

それから、文章の小難しいことと言ったらありませんね、ほんと。特にこのへんとかはひどいです。「彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける能力を意味します。幻想を根こそぎにし、真理と現実はブラーマンと異なるものではないということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって得ようとする完全な知識の、彼らの定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在になるとき知識の最高の段階に至る、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します」。。。

なんのこっちゃ、と思います。平たく言えば何なのだ、一体何が言いたいのだ!?という気になりますが、これはおそらくインド人のもともとの理屈っぽさと言葉数の多さに加え、プラブパーダの古風な原文と翻訳者の古風な英語が組み合わさった結果なのだと思います。腰をすえてよーく読めばどことなく意味が通じることと思いますので、どうぞ皆様努力して読解し、心の中で平易な日本語に直しながら読んでくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-04-09 04:28 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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