第13章

第13章 すべての完成はバークティ・ヨガから来る

第1段落
何であれ存在しているもの---顕現しているもの、あるいは顕現していないもの、物質的なもの、あるいは霊的なもの---は、一つの最初の(primary)源を持っています。至高主クリシュナです。主は太古の(primeval)、至高の統御者、すべての原因の原因、すべての主の主です。

心臓の中の超魂として、主は超越的に位置する献身者のすべての活動を促します(to inspire、人に何かをする気持ちにさせる)。完全存在に関する本当の知識を持っている者は、従者、友人などの気持ち(mood、気分、雰囲気)で主クリシュナに奉仕をすることができます。

彼らの心はいつも主クリシュナに関する考えに夢中になっており、そして彼らは主の永遠の、超越的な娯楽を知覚して味わうことを切望します(to yearn)。

第2段落
至高主の恵みによって、これらの純粋な献身者たちは主の親密な崇拝(His intimate worship、主を親密に崇拝すること)の神秘を解明する(to unravel、もつれたものをほどく)ことができます。すると、自分たちの主への愛によって(due to、~が原因で)、彼らは主の御名、形、性質、娯楽、仲間、そしてその他諸々の主に関わるものの栄光を聞いたり唱えたりすること無くして自分の暮らしを維持することを困難に感じます。(訳注:~無しでは生きられないようになる)

彼らは心を同じくする(like-minded)献身者との関わりを捜し求め、そして彼らと共に献身の蜜の海に飛び込みます。霊的な自己認識に位置しているので、彼らは霊的な交換(exchange、この場合は他の献身者との関わり)を味わい、主クリシュナの超越的な娯楽の(of、~という、~に関する)完全に縁起の良い話題を聞き、論じ、そして思い出し、そうして九重の献身の過程を実践します。

第3段落
彼らはこの九重の献身奉仕をサーダーナ、すなわち実践の段階において遂行し、そして完成した、すなわちスィッダーの段階において深い満足を感じます。彼らは従者や友人などとしての(servitorship, friendship and so on)超越的で霊的な味わい(mellows )で満たされるようになり(to be saturated、飽和)、そこから神聖な恍惚感を得ます。

(訳注:mellows、一般的な用法ではない。本来は果物などが「円熟した」という意味の形容詞だが、プラブパーダは「円熟した甘く穏やかな関係、およびその味わい」という意味の名詞として使われる。)

主クリシュナは、絶え間ない献身奉仕を通して霊的な満足と神聖な喜びを経験する献身者に、本物の超越的な理解、ブッディー・ヨガを授けます。徐々に彼らの特定の献身の態度(attitude、気持ち、姿勢)は、彼らが神への純粋な愛(pure love of God)を味わうことができるところ(point、地点)まで増します。

(訳注:それによって徐々に献身の念が高まり、彼らは神への純粋な愛を味わうことができるようになります。)

第4段落
バーカ、すなわち恍惚における自発的な(spontaneous、自然に起こる)献身奉仕の段階において、主クリシュナと主の純粋な献身者の間には、関係性の甘い味わい(mellows)の直接的で超越的な交換があります(訳注:~の間では、超越的で円熟した関係の甘い味わいが直接取り交わされます。)

至高主ご自身がご自分の献身者にブッディー・ヨガ、すなわち霊的な知性をお与えになり、そして献身者はその知性をもって活動し、徐々に主の至高のお住まいに近づくまで主に奉仕します。そのような献身者は決して無明によって影響されません。

第5段落
非人格主義者と経験主義的な哲学者は、主の純粋な献身者を感傷的な愚か者と考え、そしてそのため、彼らは献身者をあざ笑います。これは大変な無礼(offense、侮辱)です。そのような無礼は、非人格主義者と偽の(pseudo-)献身者がゆっくりと悪魔的になるようにします(to cause、原因となる)。(訳注:そのような無礼を犯していると、~はだんだん~になっていきます。)

良い感覚と安定した心を失って、彼らは徐々に至高主への敵意(animosity、反感、憎しみ)を育み、自分の人生でのすべての努力(all their life's endeavor)が苦しみと無益さ(futility)に引き下げられる(to be reduced)のに気づきます。(訳注:彼らが人生で為す努力のすべてが苦しみと徒労に終わることになります。)

これらの惑わされた悪魔的な非人格主義者が純粋な献身者に触れて(to come in contact with)、彼の慈悲によって自分の失われた洞察(insight)を取り戻すなら、それなら彼は、自分が侮辱した純粋な献身者は主クリシュナと霊的な味わいを交換しており、そしてそのため永遠に無明と幻想から自由である、ということを理解し始めることができます。

非人格主義者は、超魂として内から活動している至高主は献身者の心からすべての無明を取り除く、ということを理解しなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(10.11)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「彼らに特別の慈悲を見せるために、私は、彼らの心臓の中に住みながら(I, dwelling in their hearts,)、無明から生まれる暗闇を知識の輝く明り(lamp、光明)をもって滅ぼします。」

第6段落
無味乾燥で推量的な哲学者たちは、どうか一つの要点に留意してください(may kindly note one point)。「テシャーム」という単語を使うことによって、主クリシュナはご自分がいつも、(ご自分に)服従した献身者に慈悲深い、と公けに宣言なさいます。

主がご自分を超魂として拡張してすべての者の心臓にお入りになる理由は、経験主義的な哲学者とヨギーを祝福するためではなく、献身者を内から祝福するためです。もしも至高主ご自身が献身者を霊的な知識で啓蒙して彼らを徐々にご自分に近づけたい(to draw ~ closer to ~)と望まれるなら、それなら、そのような献身者が一度でも(ever)無知(nescience、正しい信仰を知らない状態)の魔力(spell)の下に来ることがあり得るでしょうか?(what question is there~?)(訳注:~なら、献身者が無知の闇に陥るということは決してあり得ません)

むしろ、経験主義的な哲学者が自分自身の知性(intellect)の力によって至高の真理に近づこうとすることが、無知だけによるものです(out of nescience only)(訳注:無知そのもの、というような意味合い)。私たちは、至高主はご自分の身体から放射する霊的な光輝で無明の闇を消す(to dissipate)ことがおできになるのを知っています。

経験主義者(empiricists)も同じことをすることができますか?人は、自分自身の努力によってはけっして無知の闇(gloom)を取り除く(to lift)ことができません。無神論者カピラのような経験主義者は、自分自身の努力によって悟り(enlightenment)に至ることができないので、完全真理を不可知であり非顕現であるとして言いくるめ(to explain away、ごまかしやこじつけで言い逃れる)ようとすることに大きな安堵を感じます。(訳注:~だと言って切り捨てて安心してしまっています)

しかし、主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(12.5)において確認なさるように、非顕現なる完全存在という理論に執着したこれらの無味乾燥な推量者たちに大変な苦しみが降りかかります(to befall)。

「その心が至高存在の非顕現にして非人格的な特徴に執着している者にとって、発達は大変困難です。その道(discipline、修行法、分野)において発達することは、身体に閉じ込められた(embodied、身体という形態を持った)者にとっていつも困難です。」

第7段落
一元論者(monist)が行う苦行は、実践(サーダーナ)の最初の段階の間も、完成に達したとされるときも、苦しみを伴います(painful)。非人格主義者は、推量的な理論を通して物体と霊の一体性を確証しよう(to establish)として、大変な(excruciating、耐え難い、激しい苦痛)痛みに苦しみます。

ブラーマンは無力(impotent、無能、男性の性的能力がない)であると考え、詭弁(sophistry)を通して、彼らは主の劣性な物質エネルギーと主の優性な霊的エネルギーを同等に並べようとし(to equate)、こうして本当に学識のある層(circles、職業などの仲間、この場合は知識層)からあざけり(ridicule)を受けます(to reap、報いを受ける)。

完全真理は無限のエネルギーを持った至高の人格神ではあり得ないと証明しようとして、彼らは、これは「不変の(immutable)ブラーマンは実際は変り得る(mutable)」ということを意味するだろう(this would mean、この場合のwould は可能性や推量を表す)、と論じます(訳注:原文は括弧無し)。

こうして彼らの理論はすべての結合力(cohesion、まとまり)を失い、彼らは笑いものになります。パリナーマ・ヴァーダ、すなわち「エネルギーの変容」という確立した理論を論破(to refute)しようとして、シュリーラ・ヴャーサデヴァが「物質宇宙と生命体はすべて主のエネルギーの変容であり、したがって偽り(false、非実在、仮)ではなく本物(real、実在、実存)だ」とおっしゃるとき、間違っているとして彼ら(一元論者)は彼を非難します(訳注:原文は括弧無し)。

そのため、(彼らの)哲学的な議論において、一元論者はすべてのヴェーダの聖典とそれらの必然的な結果(corollaries、ある命題から自然に導かれる結論)の主な意味(purport)と真髄を退け、「タット・トヴァム・アスィ」、「あなたはそれである」などの非本質的な(nonessential)教え(injunctions、命令)にしがみつきます(to hang on to、固執)。

彼らはこれらの副次的な要点(subpoints)を論じる(to deliberate)ことを好みますが、学識のあるヴァイシュナヴァの議論に直面すると(to be confronted with)、彼らは背を向けて戦線(battlefront)から逃げます(to run from)。

第8段落
至高主は超越的な人格(personality。名士)であると理解することなく、一元論者は、究極的でもともとの完全真理としての主の非人格的な側面を瞑想し、自分の感覚を制御する(to restrain、抑制)という無益で非常に(grossly、悪いことを強調する様子)俗的な試みをします。

溢れている川をせき止めることが不可能であるように、非人格的なブラーマンを瞑想することによって感覚を統御することは不可能です。偉大な聖人サナット・クマーラはシュリマッド・バーガヴァタム(4.22.39)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「主の蓮の御足の指への奉仕にいつもいそしんでいる献身者は、結果を求める活動への強い(hard-knotted、結び目が固い)欲望を簡単に克服することができます。これは大変難しいので、感覚の満足の波を止めようとしているにも関わらず、非献身者---ジニャーニーとヨギー---は、そうすることができません。

したがって、あなたはクリシュナ、ヴァスデヴァの息子への献身奉仕に携わることを助言されます(訳注:~するのが良いでしょう)。」

第9段落
主ヴィシュヌの非人格的な側面はブラーマンとして知られます。そのため、ジーヴァ魂、すなわち主ヴィシュヌの優性で霊的なエネルギーがブラーマンと融合することによってサーユジャ・ムクティ、すなわち解放を得るとき、それは全く驚くべきことではありません。

エネルギー的な原則はいつも、それ自身の中に主ご自身のエネルギーを抱える(to enfold、包む、巻き込む)という特権(prerogative)を楽しみますが、それはエネルギーの永遠の個人性(individuality)を滅ぼしません。(訳注:エネルギー的な原則(魂)はいつも主ご自身のエネルギーを内包していますが、それは~滅ぼすものではありません)

ブラーマンと融合することを欲し、それが実現可能(feasible)であると知っている非人格主義者は、それでも、ブラーマーナンダ、「ブラーマンの喜び」に至るための努力において、激しい苦しみを経験します。主の献身者たちは、そのような解放の喜びを地獄よりも悪いと考えます。

非人格主義者は、物質的な形の中に内在する(inherent、固有の、つきものの)幻想を滅ぼそうとして、永遠の霊的な形さえ取り除きます(to do away with、終わらせる、殺す)。それは本当に、大変愚かです。病を癒すために患者を治療するのは一つのあり方(one thing)ですが、病と共に患者(の命)を終わらせるのは馬鹿者の仕業(work)です。(~するために、~ではなく~をするのは、愚か者のすることです)

そのため私たちは、シュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に偉大な権威者ブラーマーからのこの教えを持っています(そのため、~は~において、このように教えられます。)

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも人がその道を放棄して推量的な知識を培うことにいそしむなら、彼らは単に困難な過程を辿り(to undergo、変化を経験する、困難を耐え忍ぶ)、自分の望む結果を得られないでしょう。

空の麦の殻を叩く者が実(grain、穀物)を得ることができないように、単に推量するだけの者(who simply speculates)は自己認識に至ることができません。彼の唯一の得るものは苦しみ(trouble、困難、悩み)です。(訳注:彼が得るのは苦しみだけです)」

第10段落
非人格主義者になって不運と悲惨さを招く代わりに、献身者は主クリシュナに服従し、この世界において決して苦しみません。現在の体を去るとき、彼は物質的な水準を超越し、主の永遠の娯楽に参加することができるようになります(to become eligible、資格を得る)。

超魂として、主クリシュナは心臓の中から献身者を啓蒙し、無明の闇を散らされます(to disperse)。主は献身者に、ご自分に至るための霊的な知性をお与えになります。無知の海は横切るのが大変困難ですが、献身者がそれを横切ろうとするとき、主ご自身が助けるために手助けなさいます(to intervene、介入)。

一人では献身者は必ず溺れますが、主の助けがあれば(with)彼は簡単に横切ります。このように、主の庇護の下に入ることは物質的な存在の海を乗り越える(to surmount)ための最も確実な方法です。主はバガヴァッド・ギーター(12.6-7)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「しかし、すべての活動を私に捧げ(giving up ~ onto Me)、逸れることなく私に献身的であり、献身奉仕に携わり、いつも私を瞑想し、心を私に定めて私を崇拝する者---おお、プリターの息子よ、彼らにとって私は生と死の海からのすばやい救済者(swift deliverer)です。」

第11段落
主クリシュナに服従する者、至高主の人格的な形に(自分の)断固たる(unflinching、to flinchは「ひるむ、たじろぐ」など)信仰を寄せる(to repose)者は、他のすべてのものと共に、自分の精神的(mental)および身体的な活動を主に捧げます。

経験的な知識への欲望、結果を求める活動、あるいは厳しい苦行によって邪魔されない(unencumbered)純粋で一途な献身の念を持って、彼らは笛を吹いておられる主クリシュナの永遠の、美しい、二本の腕を持ったお姿を崇拝し、瞑想します。

そのような純粋な献身者は、心(hearts)がクリシュナへの愛で満たされ、主クリシュナが自ら(personally)彼らをお助けになるので、すばやく、そして簡単に、物質的な存在の循環を超越します。慈悲深い神は、(彼の)献身の程度に応じて一人ひとりに報いを与える(to reciprocate with each one)と約束なさいます。

第12段落
非人格主義者は、至高存在は非人格的であり、最終的な目的はそのブラーマンの存在と融合することであるという考えに取り付かれています(to be obsessed with、夢中になる、思い込む)。もちろん(naturally)、主は反対なさいません(to object)。

もしも患者が自分の人生を終えることによって自分の病を終わらせたがるなら、彼の他に誰が苦しむでしょうか?もっと知性的な人はもちろん(surely)自分の命を終わらせることなく自分の病を癒したいと思うでしょう。

そして、そのためにも(to that end)、彼は自分のもともとの健康を取り戻そうと努力するでしょう(to strive)。同様に、物質的な病に侵された魂は、(自分の)個々の自己認識を滅ぼすことなく、自分の純粋な、もともとの状態に戻ろうと欲すべきです。

主クリシュナはそのような人々を神と一つになろうとするという悪魔的な考え(conception、構想)の顎(jaws、この場合は「噛み付いて離れない危険なもの、呪縛」)から救います。霊魂にとって、自分の本来の(inherent、内在)個別性(individuality)を失おうとするのは自殺行為(suicidal)です。

物質的な存在の呪縛(knots、結び目)から自分自身を解放する(to disentangle、もつれていたものをほどく)ことによって非人格主義者が感じる幸せは、献身奉仕の副産物として、主の献身者には自動的に得られます(available)。ナーラディーヤ・プラーナにはこう述べられています。

「人は、結果を求める活動にいそしんだり、精神的な推量によって知識を培ったりすべきではありません。至高主、ナーラーヤナに献身的な者は、ヨガ、精神的な推量、儀式、犠牲、そして慈善などの他の過程から得られる(to be derived)すべての利益を得ることができます。それが献身奉仕の特定の恩恵(benediction、祝福)です。」

第13段落
そしてクリシュナ・カルナームリタ(107)において、ビルヴァマンガラ・タークラがこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、主よ。もしもあなたへの私たちの献身が逸れないなら、それならあなたの永遠に若々しいお姿が私たちの心の中に自然に(spontaneously)現れるでしょう。そのとき、人格化した解放が女召使(maidservant)のように私たちに奉仕をし、そして信仰心(religiosity、宗教的な熱意)、経済的な発展、そして感覚の満足(ヴェーダの外の3つの目的)は、つつしんで私たちの命令(bidding)を待つでしょう。」

(サンスクリット引用)

「人生の完成を得るための普通の必要事項(requirements)が無くても(訳注:欠けていても、満たしていなくても)、もしも彼が単にナーラーヤナの服従した献身者であるなら、人は完成を得るでしょう。」(ナーラディア・プラーニャ)
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ようやく第2部が終わりました~!!!だらだらとやってましたので、長々とお待たせして申し訳ございませんでした。あと、第3部が残っています。これも完成するのはいつになることやら分かりませんが、ぼちぼち進めますのでどうぞ最後までよろしくお付き合いください。皆様、編集のほうもどうぞよろしくお願いいたします。可能であれば原文と照らし合わせていただき、間違いや抜けがあれば修正してください。そして、読みやすい平易な日本語になって、プラブパーダのお言葉が広まればいいなと思います。まあ、広まったって猫に小判、いや、大判という場合がほとんどだと思いますが、中にはほんの一人か二人、何度も生まれ変わってこの出会いを待っていた、という方がいらっしゃると思うのです。長くも闇路を辿ってました、ろくろっ首になって待ってました、という誰かに本訳文を捧げます。
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by ammolitering4 | 2015-03-19 05:47 | 「英知による放棄」 | Comments(3)
Commented by bvd at 2015-03-24 22:41 x
こんちは、いつもコツコツありがとうございます。お元気ですか? ヨウコさんの熱意には、ホントに頭が下がります。なんとか校正、編集して日本の社会に広まるように頑張らないと。
Commented by ammolitering6 at 2015-03-24 23:53
bvdさん、お久しぶりです。こちらこそ、楽しみに待ってくださって嬉しいです。いろいろありますが、心の中にいつもクリシュナがいてくださることを思い出せるときは感情的になる気持ちがおさまり、ほっとします。お互い迷わずに一歩ずつでもクリシュナに近づいていきましょうね。校正と編集についても、無理のない範囲でよろしくお願いします。
Commented at 2015-03-26 04:18 x
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