第11章 葉、花、果物あるいは少しの水を捧げる
第1段落 人はいつも、主クリシュナ以外の方を崇拝する必要はないということを心に留めておくべきです。特にこのカリの時代においては、贅沢な(opulent、富裕、壮麗)犠牲や崇拝を行うことは不可能です。最近(Of late)、派手に(with great pomp、豪華で華やかな様子だが、虚飾という意味合いを含む)表立って(publicly、公けに)半神たちを崇拝することがよく行われるようになりました(to become a popular practice)。 そのような崇拝は、聖典の規定に従わず、気まぐれに行われます(to be conducted whimsically)。それは、無明の相の中にいる人々のための、卑しい(base)感覚の楽しみと悪魔的な(fiendish、ひどく不快な)どんちゃん騒ぎ(revelry)にいそしむための口実です。 何の倫理(ethics、道徳)も守られず(to be maintained、意見など主張する、擁護する)、豪勢な(sumptuous)公共のご馳走(feasting)のための何の手配もなされず、何の正統なマントラも唱えられず、神像に何の正しい捧げ物もありません。 これらの催し(occasions)は単に騒々しい(wild、狂乱、興奮)歌や踊り、そして羽目を外す(misbehaving)ための口実です。すべてのそのような崇拝は、正統ではありません(unauthorized)。 第2段落 従って、知性的な人々は神の神聖なる御名を皆で唱える(congregational chanting)という過程を辿り、このようにして、黄金色の肌色(complexion)をしたクリシュナご自身である主ゴーラーンガを崇拝します。主チャイタンニャを崇拝することは高い費用のかかるものではなく、そして主クリシュナを崇拝することよりもっと簡単で、費用も少なくて済みます。 その理由は、一枚の葉、一つの花、一つの果物、あるいは幾らかの水を集めるのに要する少しの(little)努力が、主チャイタンニャの崇拝においては必要とされてさえいないからです。(訳注:~さえ必要とされていない) しかし、どちらにせよ(in any case)、どちらの至高主も簡単に、どの国でも、どんな状況ででも、誰によっても---その人が愚かであろうと賢かろうと、罪深かろうと敬虔であろうと、身分の高い生まれであろうと、低い生まれであろうと、豊かであろうと、貧しかろうと---簡単に崇拝され得ます。(訳注:どの国でも、どんな状況ででも、誰でも、簡単に~を崇拝できます。) このため、私たちは主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(9.26)においてこうおっしゃるのを見出します(訳注:~は~とおっしゃいます。) (サンスクリット引用) 「もしも人が愛と献身の念をもって私に(一枚の)葉、(一つの)花、(一つの)果物、あるいは水を捧げるなら、私はそれを受け取ります。」 第3段落 いったん至高主が満足なさると、世界全体が自動的に満足します。なぜなら(for)主を崇拝することによって人は他の誰もを崇拝するからです。ちょうど、いったん木の根が水を与えられると、木全体---枝、葉など---が水を受け取るように、同じく(so)、主クリシュナが崇拝され満足させられるとき、そのときすべての半神と人間が崇拝され、満足させられます。 第4段落 主クリシュナの崇拝が大きな費用(expenditure)と派手さ(pomp)と共に執り行われねばならない(to be conducted)という言及はどこにもありません。また、時間、場所あるいは状況の、何らの規制もありません。ちょうど、誰もがガンジス河で沐浴する権利を持っているように、同じく誰もが主クリシュナに奉仕をする権利を持っています。 花、果物、葉、そして水はどこででも手に入ります(available)。非常に貧しい者(pauper)でさえ、ほとんど何の努力も要せず(with very little effort)、お金も全くかけずに、これらの4つのものを見つけるために手配をすることができます。このように、主クリシュナを崇拝する過程(process、方法)はとても単純なので、どこの誰でも参加することができます。 第5段落 主クリシュナは生まれたことがなく(unborn)、それでも主は想像し得るいかなる形でも受け入れることがおできになります。そして、主はすべての生命体の至高の主でいらっしゃるので、誰でも---身分の高い生まれのブラーマナ、あるいは社会的に排斥されている者(outcast)でも---主に花、果物、葉、そして水を、愛と献身の念をもって捧げることができます。 そうすれば、主クリシュナ、すべての原因の原因は、この捧げものを受け入れ、そしてそのような霊的な活動によって崇拝者は主の永遠のお住まいに入る資格を得ます(to become eligible)。この簡単で喜ばしい(joyful)過程を退け、そして物質的な存在の蜃気楼(mirage)と、一時的で世俗的な設備(facilities、この場合は「諸々」というような意味)への渇望によって魅了されるようになって(to become captivated)半神たちの庇護の下に入る者よりももっと愚かな者があり得るでしょうか(Who could be more foolish)? 最近の時代は、世界に一体化(unity)、平和、そして調和をもたらす(to bring about)ための、すべての側面(front、活動などの場)での組織だった(concerted、コンサートのように各種のものが協同する様子)、崇高な(noble)努力を目撃しましたが(訳注:近年は~のための~がなされましたが)、これらは人々が主クリシュナを崇拝して主に献身奉仕をするときにのみ可能です。 第6段落 そのような提案は、不合理な(preposterous、途方も無い、馬鹿げた)ものでも、こっけいな(comic)ものでもありません。事実、もしも誰かが完全真理の誠実な探究者(seeker)であるなら、それなら、彼の現在の状況がどのようなものであれ、定期的に至高主に愛と献身の念をもって花、果物、葉、そして水を捧げることによって、彼はたやすく(readily、すぐに)、至高の完全真理、主クリシュナが徐々に自分に近づいていらっしゃることを経験するでしょう。 私たちは、つつしんで(humbly、身を低くして丁重に頼む様子)、私たちのすべての読者に、どうか(kindly)この、主クリシュナの蓮の御足に近づくためのすばらしい方法を試してみることをお願いします。この方法にはお金がかからず(no monetary expenditure)、身体的な努力(exertion)、哲学的な知識、高貴な生まれも必要ありません。 第7段落 半神崇拝者と主クリシュナの献身者の間の違いは大きく(wide)、たくさんあります(numerous)。一般に、人々は一時的で物質的な欲望からのみ半神に近づきますが、他方で献身者は至高主と自分の永遠の愛情ある関係を再び築こうと志します(to aim)。 その目的のために(to that end)、献身者は主に、愛と献身の念と共に、崇拝、贈り物(gifts)、そして何であれ自分が集められるものを捧げ、そして主はこれらすべてをおいしい味わい(relish)と共に受け入れます(訳注:喜んで受け入れる)。そのような献身的な捧げ物は、物質的な利益のための何らの欲求(craving)からも自由です(~には~がない)。 第8段落 対照的に、物質的な利益(gain)のための利己的な動機にまみれた(to be laden with)多神論者(polytheists)の捧げ物は、たとえそれらの捧げ物が豪華(opulent)で手の込んだ(elaborate)ものであっても、決して至高主によって受け入れられません。 半神を崇拝する者は、自分が崇拝する特定の半神への本当の愛や献身の念を持っていませんが、それでも主クリシュナは非常に慈悲深くていらっしゃるので、愚かな半神崇拝者たちの物質的な欲望を満たされます。 第9段落 主クリシュナは決して愛と献身に欠けた(bereft of)何らの捧げ物もお受け取りになりません。空腹でない人は、たとえおいしそうな(delectable)食べものを与えられても、突然食欲を出す(to develop)ことはできません。 同様に、主は愛と献身の念なくして作られた豪華な(opulent)捧げ物に何の魅力も感じられません(to have no attraction for)。私たちは既に、至高主の正統でない崇拝は献身の念の欠如と物質的な欲望の存在から派生する(to stem from)、と論じました。 献身の念に満ちている者は、至高主の感覚を満足させる(to satisfy)ことを目指しますが(to aim)、他方で、物質的な欲望に満ちている者は自分自身の感覚を満足させる(to gratify)ことを目指します。自分の心の中に自分自身を満足される欲望を持っている(to carry)のに至高主に奉仕を捧げる振りをする(to make a show of)者は、決して本当の献身者であることの喜びを経験することができません。 聖典は適切に(aptly、ふさわしく)彼らを金銭ずくで働く人々(mercenaries、傭兵)と描写しました(訳注:聖典には~と描写してありますが、言い得てしかりです)。献身の主要な目的(objective)は、神に至ること(attainment)です。 したがって人は、カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、神秘的なヨガ、禁欲、瞑想などの結果を含み、自分の所有しているものすべて(everything in one's possession)を主に捧げなくてはなりません。この完璧な服従の過程は神への到達に繋がります(to lead to the attainment of God)。このため主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.27)において公けに(openly)宣言なさいます(to proclaim)。 (サンスクリット引用) 「何であれあなたがすること、食べるもの、捧げ、あるいは与えるもの、そして行う苦行(austerities、禁欲)(のすべて)を---それを、おお、クンティーの息子よ、私への捧げ物として行いなさい(whatever you do, whatever you eat~)。」 第10段落 もしも人がこの命令に従い、愛情をもって主に自分の持っているすべてのもの---妻、家、家族、知性、学識、仕事(business)、宗教心(religiosity)、労働、食べ物、水、何であれ身体を維持するために必要なもの、そして欲望(lust, greed、ほぼ同義の繰り返し)や怒りさえも---を捧げるなら、そうすれば主はこれらの捧げ物をお受け取りになり、捧げた人を完全に満足させます。そして死のときに主はそのような服従した魂をご自分の至高のお住まいにお連れになります。 第11段落 半神は、特定の種類の捧げ物だけを受け取る力を授けられていますが、他方で主クリシュナはすべての人のカルマ・パーラ、すなわち「結果を求めて行う活動の結果」(訳注:fruitive results、分かりやすくするために括弧をつけています)を受け取ることができます。 至高主だけが互いに矛盾する(conflicting)「結果を求めて行う活動の結果」と崇拝の雰囲気(mood)を受け取るだけの力をお持ちです。これは、クリシュナの至高の覇権(lordship)と完全な立場を示します。 人類全体が純粋な献身奉仕の科学を理解できるようになるのは考えにくい(unlikely that ~ will be able to~)ですが、それでもすべての人はいつも、主の蓮の御足に至る能力を持っています。 (この一文には”even in the face of striking odds”、「たとえ際立った確率に直面していても」という一節が入りますが、これは文脈から考えると、誰にでも一縷の望みがある、というような意味でしょうか。) したがって、最良の道(course)はすべてのものを至高主に捧げることです。 第12段落 ニシュカーマ・カルマに関して私たちが論じたすべての要点は聖典に詳細に言及されています。パンディタはニシュカーマ・ヨガを「結果(fruitive gain)あるいは経験的な(empirical)知識への欲望を伴わない(to be free from)活動」と定義します。 そのような超越的な活動だけが主クリシュナに捧げられ得ます。しかし、すべての活動は---言葉によるもの(verbal)、身体的なもの、あるいは精神的なものであれ---、愛と献身の念をもって主に捧げられるなら、超越的です。そして主はそのいわれのない慈悲によって、これらの捧げ物をきちんと(duly)お受け取りになります。 第13段落 しかし、この命令(injunction、この場合は「愛と献身の念をもって主にすべてを捧げなさい」というもの)において、私たちは間違いを犯すことを避けなくてはなりません。私たちの現在の議論は、物質主義的なブラーマナ階層(caste brahmana)が主ナーラーヤナに供物(oblations)あるいは「結果を求めて行う仕事」を捧げることを含みません(訳注:これまでの議論では、~には触れていませんでした。) そのような捧げ物には欲望が伴うので(not devoid of lust)、それらには愛も献身の念もありません。私たちは既に、主への正しい捧げ物の主な基準(criterion、特徴)は、それが主の感覚の満足のために愛と献身の念をもってなされるということである、と論証しました(We have earlier established that~)。 そのため私たちは、至高主の喜びのためだけに捧げられた物や奉仕(service)だけが実際に主によって受け取られると理解せねばなりません。 第14段落 自分自身の飢えを満たすために努力すること(exerting oneself)はカーマ・カルマ、結果を求める活動ですが、至高主においしいご馳走(delicacies)を捧げるための疲れを知らぬ努力はニシュカーマ・カルマ、主を喜ばせることを目的とした超越的な仕事です。 主を喜ばせることが商業(commerce)と交易(trade、この場合はほぼ同義の繰り返し)、そしてまた研究、科学、慈善活動、禁欲(austerity、苦行)、そして他のすべての活動の唯一の目的であるべきです。そのような実践は人に、主クリシュナに関わる超越的な話題を聞き、唱える気持ちにさせます(to inspire)。 そして、この聞くことと唱えることは、九重の献身活動の最たるもの(foremost)です。ヴェーダの時代には、すべての人間の活動は至高主への献身奉仕と強く結びついていました(to be affiliated)。今日(も)、同じ永遠の原則が当てはまります。すべてのものは主への奉仕のために使われねばなりません。 第15段落 主クリシュナはすべての犠牲の至高の享楽者です。そのため主はすべての者の働き(labor)の結果をお受け取りになり、そしてそうすることによって主はご自分のすべての献身者の努力に輝かしい(glowing、赤々と燃えるような)成功を授けられます(to crown ~ with~、栄冠を与える)。 それが万能の主がお持ちの超越的な力です(Such is ~ possessed by~)。しかし私たちは、献身奉仕を行っている間に、自分の意識に自己増大(self-aggrandizement、増長)や感覚の満足への欲望を決してこっそりと(surreptitiously)滑り込ませないように、注意深い用心(heed)をしなければなりません。 私たちは単に、かつての霊的指導者たちの足跡を辿るべきです。主の存在において(訳注:主の御前では)すべての者が平等です。したがって、ゆるぎない(unwavering)専心(single-mindedness)を持って主に奉仕をする者は、主の親しい仲間のうちに数えられます(to be listed)。 彼らは本当にハリ・ジャナ、主ハリの側近(own men)です。前提となる必要条件(prerequisite、この場合は「資格」)---献身奉仕---を持たない人をハリ・ジャナと呼ぶ(to rubberstamp、ゴム印を押す、深く考えずに認める)のは、献身的な服従の道における馬鹿げた(farce)やっかいな(onerous)妨害物(hindrance)です。 第16段落 主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.29)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私は誰もうらやまず、誰にも肩入れしません(partial to )。私はすべてのものに平等です。しかし、誰であれ献身の念をもって(in devotion)私に奉仕をする者は友であり、私の中にあり、そして私もまた彼にとって友です。」 第17段落 人は「サマー」、”平等”という単語の意味を誤解してはいけません。それは、主が非人格的であり、どんな気まぐれな行い、始末に終えない(unruly、節操がない、乱暴)振る舞いであっても祝福なさるということを意味するのではありません。 主は完全に人格的で、神聖な情念(sentiments)の宝庫(reservoir)であり、超越的な娯楽の至高の演者(performer、行う人)です。そして主はすべての生命体の幸せを願う友です。しかし、友情には異なる程度の親密さ(intimacy)があります。 そのため、主の平等の性質(disposition、気持ち、傾向)は、個々の違い(varieties of personalism)のないものではありません。言い換えると、主は私たちの主への愛の強さ(intensity)に応じて私たちに報われます(to reciprocate)。 ギーター(4.11)において、主は(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」主は、すべての異なる献身的な関係(mellow)---従者の愛(servitorship)、友の愛(fraternity)、親の愛(parental affection)、そして恋人の愛(conjugal love)---にお応えになります。 同様に、主は(校正:he →He)ご自分を普通の「死を運命付けられた存在」(mortal、括弧は訳者)だと見なして敬意を払わない者を無視なさいます。逆に(Conversely)、主はいつも、過去の聖人的な指導者たちの足跡を辿って、主を至高主として受け入れ、愛情ある献身の念をもって主に奉仕をする者を庇護し、守られます(to shelter, to protect)。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 クリシュナって、水のようだなという感じがします。おいしい材料を入れればおいしくなるし、まずいものをぶちこめばとても飲めたものではなくなる。。。ちょっと違うかな。鏡のようだ、とも言えるのかもしれませんが、これはやっぱり上等のクリームを見れば鏡の向こうに資生堂のモデルのような自分が見えるというわけにもいかず、、、残念ですね。立ち止まって深く考えてみようと思います。
by ammolitering4
| 2015-03-08 06:13
| 「英知による放棄」
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