第10章 最後まで

第11段落
人々は一時的で物質的な欲望を満たすために半神を崇拝し、そして彼らがそのような崇拝から得る結果は、同じく一時的で物質的です。しかし、もしも人が、半神は至高主のエネルギーであるという知識をもって彼らを崇拝するなら、それならこの崇拝は正統的(authorized、公認、検定、権威者によって正当・正統であると認められた)であるとして受け入れられ、そして徐々にそのような崇拝者は主クリシュナ、至高神の献身者になります。

しかし、もしも人が、半神は主クリシュナと等しい水準にあるという考えをもって彼らを崇拝するなら、それならそのような崇拝は正統的ではありません(unauthorized)。なぜなら、主クリシュナは至高の人格神、比類するものなく(unequalled、匹敵するものがない)、主より優れたものもないからです(unsurpassed、卓絶)。

したがって、どんな半神も主クリシュナから独立して存在することはできません。主クリシュナはちょうど王のようであり、そして半神たちは彼の大臣のようなものです。大臣は王座(throne)に座って(訳注:統治権を持って)国家の業務(affairs)を管理する(to manage)かもしれませんが、彼は独立してはいません。彼の力は王から来るのです。

第12段落
至高の完全真理であることの力によって(by virtue of)、主クリシュナは永遠に、この物質世界を超越した知識と喜びに満ちていらっしゃいます。物質世界において、私たちはしばしば、立場と力という点で(in terms of、~に関して、~の見地から)、ある人を別の人と比較します。

そしてそのため私たちは、人間と比べると半神は非常に高い立場にあると正しく(rightly、確かに、当然ながら)言うことができます。しかし、至高神と、人間と同じ区分に属する単なる生命体とは、比較になりません(there is no comparison between)。

生命体、すなわちジーヴァは、主の超越的で内的な力から放射する、主の周辺的な力に属しています。したがって、誰であれ半神たちを独立した至高神たちであると考える者は推量しており、完全に間違っています。なぜなら、ジーヴァであるため(as jivas)、彼らは一時的な力と立場を授けられている(to be invested)に過ぎないからです。

第13段落
もしも王の宮廷(court)における地位の高い従者が誤って王として敬われる(to be honored)なら、それは王が従者になることを意味するのではなく、逆もまたしかりです(vice versa)。同様に、主クリシュナは唯一の至高の人格(Supreme Person)であり、他のすべての者は主の従者です。

ブラーマ・サムヒターは主クリシュナと半神の間の関係を明らかに説明します。ヴィシュヌ・タットヴァーの部類に属する存在(訳注:beings、複数)---主ヴィシュヌの水準にある至高の人格たち---は最高の完全存在(訳注:複数)であるという、多数の(numerous)証拠があります。

シュリマッド・バーガヴァタムはこの真実を、すべての種類の崇拝の中で主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナの崇拝が最も高い、と宣言することによって確認します。

第14段落
インドでは、ヒンズー教徒は太陽神、月の神など、多くの神を崇拝します。しかし、崇拝の儀式はいつも主ヴィシュヌの崇拝で始まり、そして最後にすべてが主ヴィシュヌの蓮の御足に捧げられます。主が至高の人格神でいらっしゃるからです。

聖職者階層(priestly class)の一員であるブラーマナは、すべての儀式を至高存在としての(as)主ヴィシュヌに祈る(to invoke)ことによって始めなければなりません。そうしなければ、彼のすべての崇拝と儀式は無駄になります(to be rendered useless、to renderは「~を~にする」というような意味)。

この同じ主ヴィシュヌは、実は(in fact)すべての原因の究極の原因であり、もともとの至高主である主クリシュナの部分的な拡張体です。したがって主クリシュナはすべての捧げ物(oblations)と犠牲の受取人であり、すべての崇拝の究極の恩恵を施す人(benefactor、崇拝の結果として恩恵が施されるが、(それが誰から与えられているように見えても)究極的にそれを施すもともとの人、という意味)です。主はバガヴァッド・ギーター(9.24)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主人(master)です。したがって、私の本当の超越的な性質を認識しない(to recognize、認める、はっきり知る)者は堕落します(to fall down)。」

第15段落
半神を崇拝するときに、主ナーラーヤナ、すなわちクリシュナを儀式あるいは犠牲の至高の享楽者として王座にすえる(to place)理由は、様々な半神たちもまた主を崇拝し、主に犠牲を捧げるからです。したがって主(He)は王(the Lord)であり、すべての犠牲の主人(master)です。

至高主は半神を通して(through the agency of)半神を崇拝する者の望みを叶えます(to fulfill)。半神を崇拝する者は至高主の超越的な立場を知らないので(to be ignorant of)、彼らの正式に認められない(unauthorized)半神崇拝は、彼らを混乱(confusion、困惑、混同)と幻想に導きます。

第16段落
半神を崇拝する者はしばしば、こう考えることによって自分たちの半神の崇拝を合理化しようとします(to rationalize、正当化)。「私はこの半神の献身者であるから、彼はきっと私に恩恵を下さり(to shower his grace upon me)、私の心のすべての望みを叶えてくださるだろう。したがって彼はまことに至高主である。」

しかし、正統な(authorized)聖典はそのような半神崇拝者と彼らの崇拝を、道理的でなく(unethical。非倫理的、非道義的)哲学的に間違っているとして非難します(to condemn)。そのような崇拝者は、クリシュナが至高主、すべてのエネルギーの究極の源であると理解することができません。

半神は、実は(in fact)主のエネルギーの顕現です。しかし(~, though、それなのに)、幻惑された半神崇拝者にとっては、彼らは自分たちの崇拝と献身の究極の対象であるように見えます。この誤解を続ける者は(to persist in~、やめる様子もなく繰り返し行う)、決して完全真理にたどり着けません。

他方で、厳密に聖典の命令に従って(according to)半神を崇拝する者は、自分たちの崇拝の対象は至高主クリシュナに従属している(to be subordinate to~)とすばやく理解します(to realize)。この理解をもって、彼らの幻想は滅ぼされ、彼らは主クリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ります。
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by ammolitering4 | 2015-02-25 01:56 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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