第10章 第10段落まで

第10章 至高主:献身者の恋人(Lover of His Devotees)

第1段落
いわゆる学識のある階層の人々(members、構成員)は尋ねます。「もしも人がいつもいつも(all the time)主クリシュナに献身奉仕を捧げることに忙しくしているなら、どうやって自分と自分の家族を養うことができるのですか(how is one to maintain ~)?」

いわゆる学識のある人々は、愚か者だけが自分の間近で(immediate、すぐ近くの、当面の、直接的な)身体的な必要性に盲目で、マハートマーの水準に上がれるように献身奉仕で無駄に自分の時間を浪費する、と考えます。

事実、彼らは、本当のマハートマーとは自分の物質的な設備(facilities、利便)を良いものからより良いものへと改善するために努力する者であると考えます。彼らは、世界が食糧生産において大きな危機に直面しているのは経済学者の下手な(poor)計画によるものだと言います。

経済学者と彼らを批判する者(their critics)の両方が、バガヴァッド・ギーター(9.22)に目を向けて、主クリシュナがこの主題についておっしゃることを聞くべきです。

(サンスクリット引用)

「しかし、いつも私だけに対する(exclusive、限定的な)献身の念をもって私を崇拝し、私の超越的な姿(form、形)を(on)瞑想する者---彼らには(to them)私は彼らに欠けているものを与え(to carry)、そして私は彼らが持っているものをそのままにしておきます(to preserve、保存、保護)。(訳注:この場合は「取り上げない」という意味と思われる。)

第2段落
ここで、西洋で、ある無神論的な政府が無知な(innocent、無邪気、単純など)市民に無神論的な見方を受け入れる(to embrace、信奉する)ようにそそのかそうとした(to induce、誘って何かをする気にさせる)ことに言及するのは妥当なことです(relevant、適切、関連がある)。(訳注:~を例に取りましょう)

その政府は、村々の人々の考えを変えさせるために(to proselytize、改宗)、自分たちの政治的な宣伝者(propagandists)を送りました。彼らは無知な村人たちに尋ねました。「なぜあなたたちは皆、教会に行くのですか?何を求めて神に祈るのですか(what do you pray to God for)?」

村人たちは単に(simply)「神様は私たちに食べ物を下さるからです」と答えました。すると無神論者たちは村人たちを教会に連れていき、彼らに神に食べ物を求めて祈るように頼みました。単純な信仰を持った村人たちは神に祈り始めました。

祈りの終わりに、役人たちは彼らに食べ物を受け取ったかどうかと尋ねました。当惑して(Bewildered)、人々は頭を(訳注:横に)振りました。それから無神論者たちは村人たちに、(訳注:神にではなく)自分たちに食べ物を求めて祈るように頼み、村人たちはそうしました。

直ちに、勝ち誇ったような顔で(with a look of triumph、勝利、征服、成功)、無神論者たちはかご一杯のパン(baskets of bread、「かご」は複数で、この場合は単に「山ほどの食べ物」という程度の意味)を持ってきました。村人たちは幸せになり、政府の役人たち(representatives、代理人)は神よりももっと反応がよく(responsive)、生産性が高い(productive)と考えました。

第3段落
ああ(Alas)!主の献身者がそこにいさえすれば、村人たちの献身の念は苦しめられなかったでしょう(to molest、邪魔する、悩ませる)。初心者の献身者のか弱い(tender)献身の念は、いつも傷つけられやすい(susceptible to damage、susceptible は「影響されやすい」)ものです。

しかしパンは、つまるところ(after all)、神から来るのであり(does come, doesを斜体で強調)、無神論者からではありません。もしもそれらの村人たちがもっと聖典に精通していたら(conversant)、無神論者たちは決してその邪悪な計画において成功しなかったでしょう。

単純な村人たちは学がなく(illiterate、読み書きができない、教育がない)、そしてそのため(hence)彼らは至高主だけが彼らに食べ物を与えることができるということを全く知りませんでした(had no idea)。

もしも地球が穀物を作り出さなかったら(did not)、そうしたら無神論者たちは、その発達した物質的な科学にも関わらず、決してパンもその他の食べ物も作ることが出来ません(could never, 時制がdid notに対応)。

第4段落
多くの人々は、近年において(in modern age)物質的な科学者たちが農作物の収穫高(agricultural yield)を増すのを助けたと主張します。しかし私たちは、世界を現在の厳しい(acute)食糧難に陥れた(to bring)のはまさにそのような無神論的な見方であると、恐れることなく宣言します。

もしも私たちが注意深くなければ、果物はただ皮と種だけになり、牛の乳房(udders)は干上がり、そして田畑(paddy fields)は草だけを生やすときがもうすぐ(soon、すぐに)訪れるでしょう。聖典は、これらのことがカリユガにおいて起こる(to come to pass、実現する)と予言します。

第5段落
現実には、至高主がいつも私たちを守っていらっしゃいます。刑務所の囚人は政府によって罰されていますが、それでも同じ政府が彼らに食べ物を与え、彼らの世話をします。同様に、罪深い、無神論的な人々は、主の幻想エネルギー(ドゥルガー・デヴィーとして人格化したマーヤー)によって罰されているにも関わらず、それでも(still)主ご自身によって食べ物を与えられ、面倒を見てもらっています。

そして、もしも至高主が最も悪い悪人(reprobates、堕落した者)、そして救いようのない(helpless)魂たちさえ食べ物を与えて養われるのなら、それなら主の蓮の御足に永遠に服従した者については何をか言わんや?

主は、自分の家来(subjects)を良く世話する(to take proper care of)けれど、自分の親密な(near and dear、近くて愛しい)親戚の必要性を特に世話する王のようなものです。したがって、「快適な暮らしは結果を求める活動(action)と経験的な(empirical)知識から自由な(訳注:free from~、~がない)献身者によってではなく、普通の徳のある活動(activities)を行う者によってのみ楽しまれ得る」というのは本当ではありません。(訳注:分かりやすくするために括弧を入れました。)

献身者はいつも苦しむのではありません(The devotees do not always suffer)。なぜなら、至高主が個人的に(personally、自ら)彼らの面倒を見られるからです。献身者は主の親戚であり家族です。ちょうど、普通の人々が自分の家族の必要性と快適さの面倒を見るときに喜びと満足を感じるように、主もまた、ご自分の献身者の幸せの世話をする(to tend to the well-being)ときに喜びを感じられます(校正:he →He)。

このため(Thus)、至高主はバークタ・ヴァツァラ、「献身者を養う方」として知られます。しかし、主は決してカルミー・ヴァツァラ、「結果を求めて働く者を養う方」と、あるいはジニャーニー・ヴァツァラ、「経験主義的な哲学者を養う方」と呼ばれる(to be referred to as~)ことはありません。

第6段落
主の献身者はすべてのものに関して(for)完全に主に依存しており、そしてそのため、何であれ彼らが自分自身と自分の家族を養うために行うことは、献身的な服従にとって良いものです(favorable)。

そのような純粋な魂は、いつも献身に心を定めており(fixed in ~)、主への奉仕に関係のない(outside the Lord's service)活動には決して一瞬も無駄にしません。彼らがすることのすべては主の喜びのためであるため、彼らは物質主義的な欲望によって悩まされません(to assail、攻撃)。したがって彼らだけが本当に平和的です。

第7段落
献身者自身は、献身奉仕を遂行するに当たって生じる(to incur)すべての費用(expenditures)のために手配します(to arrange)(訳注:献身者は、~に当たって生じる~をまかなうために、自ら稼ぎます・働きます)。

普通の目には、このようにお金を稼いで使うことは、感覚の満足のように見えるかもしれません。しかし、献身者に物質的な欲望が全くないとき(devoid of all ~)、至高主は彼のすべての必要性を満たすことに大きな満足を感じられます。

従順な息子は自分の欲求(wants)を自分の父親に決して表さないかもしれませんが、愛情ある父親は自発的に(spontaneously)自分の息子を幸せにしようとし、そしてそうすることから喜びを得ます(to derive ~ from ~)。したがって、主の献身者は、物質的にさえ、決して何も事欠きません。

そして、この人生に終わりに、体を去った後、彼らは永遠の喜びに位置します。これが献身者が受け取る(to inherit、受け継ぐ、相続)超越的な富です。他の者たち---結果を求めて働く者、経験主義的な哲学者、半神を崇拝する者、そして神秘的なヨギー---は、永遠の喜びを得ることができません。

第8段落
主クリシュナは、すべての者に平等でいらっしゃる(to be equally disposed)にも関わらず、主はそれでも特にご自分の献身者の幸せについて気遣われます(to be concerned)。しかし、人は主が縁者びいき(nepotistic)であると結論づけるべきではありません。

主はバガヴァッド・ギーター(4.11)においてこう宣言なさいます。(サンスクリット引用)「すべての者が私に服従するとき(As all surrender unto Me)、私は彼らに相応に報いを与えます。」献身者には欲望がなく、要求もしませんが(desireless and undemanding)、主はいつも彼らの必要を気におかけになります(to see to ~、注意する、取り計らう)。

献身者は主からそのような恵みを受け取ってとても幸せ(ever-joyful、いつも、とても)であり、そして主の恩恵を受け取ることには何の無礼(offense)も罪もありません。

第9段落
ここで、人は疑問を持つ(to pose、問題を提示する)かもしれません。「なぜ主クリシュナの献身者だけが主の超越的なお住まいに至るのだろうか?結局、半神たちは単にクリシュナのエネルギーであり、そして聖典の結論は、エネルギーとエネルギー的なものは異ならない(nondifferent)というものだ。したがって(therefore)、なぜ半神、クリシュナのエネルギーを崇拝する者が主の超越的なお住まいに至れないことがあろうか?」

第10段落
答えとして、まず、主クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーター(9.23)においてこの主題に関しておっしゃることを参照します。

(サンスクリット引用)

「他の神々の献身者であり、信仰をもって彼らを崇拝する者は、実際には私だけを崇拝します、おお、クンティーの息子よ、しかし彼らは間違った方法でそうします。」

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う~む、やっぱりさすがはプラブパーダ、と改めて思います。皆様、緑の革命を覚えていらっしゃいますか?若い方はご存じないかもしれませんが、あれは鳴り物入りで華々しく登場したのに結果はさんざんなものでした。インドの農民が大勢自殺しましたね。こちらのサイトに日本語でいろいろ書いてありますが、プラブパーダのこのお話がなされたのは革命がまだまだ現在進行形だった頃だと思いますので、その洞察には本当に敬服いたします。はっきり言って、政府が大々的にやろうとしていることを「これは大失敗する!」と真っ向から否定していらっしゃるわけですから、政府としても「坊さんでなかったら叩きのめすぞ、この野郎」くらいには思ったかもしれません。ともあれ、21世紀になった今でもやっぱり世の中はプラブパーダのおっしゃるとおりに進んでるように見えますね。世紀の初めなのに既に世紀末の様相を呈している今日この頃、続きをお届けしますまでどうぞご無事でお過ごしくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-02-09 14:01 | 「英知による放棄」 | Comments(2)
Commented by 自然農ダースひっきぃ at 2015-02-28 21:01 x
いつも翻訳、有難うございます。

レクチャーの中で、寺院に来なさい、話を聞きなさい、と言っておきながら「盲信するな、私の言うことを論理的に分析しろ」と言い、しかし「ただ単に唱えて受け入れるのでもいいからね」とも言われたプラブパーダの幅の広さ、いいですね。

ちなみに、最近は、ホピ族の宇宙観、世界観、ケンウィルバーのインテグラル(統合的)理論に興味があり、統合的視点からヴェーダを捉える作業も時々、しています。
Commented by ammolitering6 at 2015-03-01 02:02
自然農ダースひっきぃさん、こんにちは。いろいろ調べていらっしゃるんですね。私はホピ族というのは名前だけ聞いたことがあり、ケンウィルバーという方は初めて聞きました。いろいろな思想がありますが、どれにも共通して流れるものはあるのでしょう。

他を学んで改めてヴェーダを捉えると、見えなかった意味が見えてきたりもするものだろうと思います。私はプラブパーダのお言葉に触れてから聖書を読み直し、やっといろんなことに納得がいくようになりました。
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