第6章 終わりまで

慣性の法則というのがありますね。私の人生に当てはめると惰性の法則と言ったほうが当たってるような気もするわけですが、それについては深く考察しないこととして、要するにこれはボールは投げた方向に飛んでいくしかないということであると理解してよろしいかと思います。生きている間中ろくでもないことを考えたり行動したりしていて、しかし死んだら反対方向に行きたいというのは無理というものです。野球の投手のように大きく振りかざして、手から離れたボールが真後ろに飛んでいくことを期待するようなものです。

別の例を挙げれば、記憶の草原があって、地獄行きの小道を何度も何度も通ってしっかり高速道路ができてしまっていたら、それはもちろん一直線にそっちへ行くのが自然です。反対に、神様のことを何度も何度も思い出していれば、嫌でも自動的にそっち方向に魂が進んでいくことでしょう。私みたいにあちこちうろうろと歩き回って方々に獣道ばっかり作っていると、体から放たれたときに魂がうろうろして迷ってしまいそうです。ガラス絵の神様のほうに行きかけ、クリシュナのほうも横目で見て、いや、やっぱり行ったことのないロシアにも未練があるし日本の温泉にも入りたいし、地獄にも温泉があるならそれでもいいかなと心が揺らぎ、、、どうしましょう。

目を転じてみますと、私が今こうしているということは、そしてこんなふうに生まれてしまったということは、良かれ悪しかれ私がこっち方面に向かってしまったからであって、ということはつまり、、、褒めるべきも責めるべきも自分でしかないのだなと思います。もうちょっと美人でもよかったのにとか、もっと頭が切れてても一向に構わなかったのにとかぶつぶつ言っても始まりませんね。ここにこうしているというところから始めるしかないのです。後ろから寄せる波のような惰性や慣性に流されつつも、少しずつでもちらちらとクリシュナのほうを見やりつづけたいものです。

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第7段落
したがって、幻惑と二重性の手が届かないところに留まるために、人はいつも、黒っぽい(darkish)肌色をして(ご自分の)笛を吹いておられる主クリシュナの祝福に満ちた(beatific、幸福に輝く、至福を与えるような)姿をいつも思い出して、それを瞑想しなければなりません(to meditate on~)。

人はまた、主と同じであり(nondifferent、違わない)、その性質は永遠で、完全で、純粋で、そして独立している、クリシュナの聖なる御名も思い出して唱えなければなりません。バガヴァッド・ギーター(8.6-7)において、主クリシュナはいつもご自分を思い出していることの大切さを説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「何であれ人が自分の体を去る(to quit)ときに覚えている状態を、おお、クンティーの息子よ、その状態を彼は必ず得ます。したがって、アルジュナよ。 あなたはいつもクリシュナの形で私のことを考え、同時に、戦うことという(of)あなたの定められた(prescribed)義務を果たすべきです。

あなたの活動が私に捧げられ、あなたの心と知性が私に定められているとき(with your activities dedicated to Me and your mind and intelligence fixed on Me)、疑いもなく、あなたは私のところに至るでしょう。」

第8段落
死のとき、私たちの意識の状態が私たちの次の生を決定します。死は5つの粗い(gross、密度の濃い)要素からなる体を滅ぼしますが、心、知性、および偽りの自我からなる精妙な(subtle、密度の薄い)体は残ります。

ちょうど空気が(それが)上を吹く場所の香りを運ぶように、そのように魂は、心、知性、および偽りの自我という(of)人の精妙な体を、意識の状態と共に次の生に運び(to carry ~ on to ~)、そして彼の体は相応に決定されます。

風が花園(garden)の上を吹くとき、それは(with it、それと共に)花の香りを運びますが、それがゴミの上を吹くとき、風は悪臭(stench)で満たされます。同様に、人が自分の生涯の間に行うことは継続して彼の精神性に影響を与え、そして死のときにこれらの活動の累積した(cumulative)効果が彼の意識の状態を決定します。

こうして、人の生涯の間に形作られた精妙な体は、人の次の生に持ち越され、魂の次の密度の濃い体(gross body、肉体)として顕現します。したがって、自然と、密度の濃い体は人の意識の状態を反映します。よく知られたことわざにあるように、「顔は心の鏡」(The face is the index of the mind)です。

そして心は人の現在および過去の人生の活動の産物です。言い換えると、この生および過去の生における(人の)習慣によって影響される、人の心、知性、および偽りの自我は、人が次の生において得る体と精神性の種類を決定する鋳型(matrix、基盤、発生源、原盤など)を形成します。このように(Hence)、人の過去、現在そして未来の生の間の結びつきは、心、知性、および偽りの自我です(訳注:~を結びつけるものは~です)。

第9段落
日中の活動は夜に夢を生じさせ(to evoke)、それらの活動に応じた(appropriate)感情を引き起こします(to induce)。同様に、人の生涯において行われた活動は、死の瞬間に人の心に瞬間的に蘇り(to flash across one's mind)、人の次の生を決定します。

したがって、もしも人の現在の活動が、主の美しさ、性質、娯楽、仲間、そしてその他の主に関わる事柄(paraphernalia)と共に、至高主の超越的な御名を唱えること、聞くこと、そして覚えていることに向けられるなら、それなら人が自分の体を去る瞬間の意識は自動的に主に惹き付けられるでしょう。

死の瞬間のそのような意識の霊的な状態は、彼の直後の(very next、すぐ次の)生における、至高主の永遠のお住まいへの魂の入場を確実にします。(訳注:死の瞬間に意識がそのような霊的な状態にあると、魂はそのすぐ後に生まれ変わるとき、必ず主の永遠のお住まいに入ることができます。)

この霊的な意識を目覚めさせることが人生における人間の主要な目的(goal)です。したがって私たちは、制約された魂への同情(compassion)から、主クリシュナがアルジュナに、戦い、そして同時に主を覚えているようにお教えになるのを見ます。(訳注:そのため主はアルジュナに~とお教えになります。)

これはカルマ・ヨガと呼ばれます。したがって献身者は、自分のすべての活動において---食べ物と安全のための努力において、そして戦争で戦っている間に戦場の只中においてさえ---いつも主を思い出します。

人生は、その中で人がいつでも死ぬかもしれない戦場のようなものなので(Life being like a battle field, in which one may die at any time)、献身者はどの瞬間でも主を思い出していて、そして主はすすんで(willingly)彼らの、戦車にも似た体の御者になられます。

彼らの体、心、そして言葉の活動は、こうして至高主のご意志によって駆り立てられ(to be prompted、促す)、そして最後には、彼らが自分の密度の濃い体と密度の薄い体を去るとき、彼らは直接、霊的な天空に行きます。

第10段落
純粋な献身奉仕の主要なしるし(symptom)は、聖なる御名を常に唱え、聞き、そして覚えていることです。先に論じたように、混じり気のある献身奉仕とはカルマ(結果を求める欲望)とジニャーナ(知識への執着)によって混ぜ物をした(to be adulterated、混ぜ物をしたことで質が落とされた)献身奉仕です。

そのような献身奉仕は、往々にして、人がたまたま陥った特定の状況や人間関係によって(by the particular situation or association a person finds himself in)妨げられます(to be impeded)。しかし、純粋な献身奉仕には決して何らの妨げ(impediment)もありません。

至高主の完璧な認識(realization、はっきりとした理解)は、人が混じり気のない献身奉仕に堅固に位置するまで生じません。主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(18.15)において確認なさいます。(サンスクリット引用)

「人は、純粋な献身奉仕によってのみ、私をありのままに(to understand Me as I am、私を私として)
(without deviation)、至高の人格神として、理解することができます。」そして8.14の節において、主はこの純粋な献身奉仕の主要な特徴に言及なさいます。

(サンスクリット引用)

「それることなく(without deviation)いつも私を覚えている者にとって、私は得るのが簡単です、おお、プリターの息子よ。なぜなら、彼はいつも献身奉仕に携わっているからです。」(訳注:原文は長い一文。)

第11段落
至高主へのぶれることのない集中は、純粋な献身の最初のしるしです。言い換えると、純粋な献身者とは、至高主への断固たる(unflinching、ひるむことのない)献身奉仕に関係のないすべての欲望と思考を払いのける(to ward off、撃退する)者です。

多くの霊的な猛者(stalwarts、信念の固い者)が純粋な献身奉仕について言及しています(to comment upon~)。例えば、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの時代の偉大な霊的な教師たち(preceptors)の筆頭であるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、自著「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」(1.1.11)においてこう書きました。

(サンスクリット引用)

「人は、至高主クリシュナに好意的に、そして結果を求める活動や哲学的な推量を通した物質的な利益(profit or gain。訳注:同義の言葉)への欲望なく、超越的な愛情ある奉仕をするべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」

第12段落
人々は自分の物質的な欲望を満足させるために半神たちの機嫌をとります(to propitiate)。病から逃れるために(in order to escape ill health)太陽神のような半神たちをなだめようとする(to appease)、あの、クリシュナの初心者の献身者たちは、主クリシュナの至高の神性(divinity、神格)についての深刻な(serious)疑念に屈する(to succumb to~)ので、そうします。(訳注;~が~するのは~であるためです。)

アニャービーラーシャ(「主クリシュナに奉仕をすることに向けられたもの以外の欲望」)という言葉を分析するとき(in analyzing)、私たちは、人が、至高主の力の顕現に過ぎない太陽神は人を病(ill health)から守ることができるが至高主クリシュナはできない、と考えるとき、この種の歪んだ知性を心に抱く(to foster)、ということを見出します。

これらの心を曇らせる疑いがいったん晴れると(to disperse)、人は純粋な献身奉仕の扉をくぐります。カルミーとジニャーニーもまた、物質的な欲望によって汚されています(to be tainted)---それぞれ、自分の感覚を楽しみたいという欲望と、解放を求める欲望です。

純粋な献身奉仕は、これらの物質的な欲望が消え(to be dissipated)、人が主クリシュナに途切れず(unbroken)好意的な献身奉仕を行うときにだけ得られます。偉大な聖人ナーラダはこう言いました。

(サンスクリット引用)

「バークティ、すなわち献身奉仕は、私たちのすべての感覚を主、至高の人格神、すべての感覚の主への奉仕に携わらせることを意味します。霊魂が主に奉仕をするとき、二つの副作用があります---人はすべての物質的な区分(designations、呼称)から解放され、そして単に主への奉仕に携わることによって(by being employed in ~)、人の感覚は浄化されます。」(ナーラダ・パンチャラートラ)

第13段落
人が自分の心と体に関係して受け入れる(to adopt)様々な自己認識(identities)は、すべて物質的な区分(designations)です。純粋な魂はそのような俗的な区分によって煩わされません(to be unencumbered、心配や負担がない)。

なぜなら、彼が持つ唯一の自己認識は、至高主の従者であり切り離せ得ない部分である、というそれだからです。そのため(Thus)、すべての偽りの区分が剥がれ落ちること(shedding)に伴って、人は超越性の状態(state)に入り、そして超越性に堅固に位置するとき、人は純粋になります。

そのような浄化された感覚をもって至高主、すべての感覚の主に奉仕をすることが、混じり気のない献身奉仕です。

第14段落
バガヴァッド・ギーターの8章14節において、アナニャ・チェター(それることなく)とニテャ・ユクタ(常に、定期的にregularly)という二つの単語は大変重要です。人は、それることのない信仰に堅固に位置することなくしては(being fixed in ~)、献身の実践においてそれないようになることはできません。

人がこの信仰をもって常に至高主に奉仕をするとき、彼は自動的に、結果を求める活動、推量的な知識、半神の崇拝、そして儀式的な敬虔な活動へのすべての欲望を失い、そして彼は(自分の)献身奉仕においてそれないようになります。

サタラム(「いつも」、always)という単語は、献身奉仕は時間、場所、状況、逆境(adversity、不運、災難)などと関係がない(to be independent of~)ということを暗示する(to imply)として理解されねばなりません。

人種、カースト、性、あるいは他の物質的な区分に関わらず、すべての人が精神的な推量、結果を求める活動、およびヨガの実践を放棄し、それることなく主クリシュナの蓮の御足の完全な庇護の下に入ることができます。

ニテャという単語は、「毎日(daily)」、「定期的に(regularly)」、あるいは「常に(constantly)」を意味します。主クリシュナの蓮の御足に(on)常に瞑想する者は、簡単に主に至ることができます。主ブラーマーは、「ブラーマ・サムヒター」(5.33)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主はヴェーダにとっては到達し得ず(inaccessible to the Vedas)、しかし魂の純粋な混じり気のない献身によって得られ得ます(obtainable)。主は唯一無二であり、滅びることがなく(not subject to decay)、主は始まりがなく、主の形は終わりがなく、主は始まりであり、永遠のプルシャです。それでいて主は(咲き誇る花のような)若々しい美しさ(the beauty of blooming youth)を持つ人格(person)です。」(訳注:原文は長い一文。)

第15段落
宗教的な義務を遂行すること、結果を求める活動を行うこと、経験主義的な(empiric)知識を培うこと、そして神秘的なヨガを実践する過程で、多くの労力、時間、そしてお金が使われます。人は、そのような活動の良い(pious、敬虔な)結果と共に、悪い(sinful、罪深い)反応も受け入れなければなりません。

これらの結果と反応を無にする(to nullify、無効にする)唯一の方法は、至高主クリシュナを崇拝することです。このように(Thus)、主クリシュナを崇拝して(主に)奉仕をすることは、世界全体にとって唯一の有利な(advantageous)活動です。

第16段落
至高主は永遠の喜びの体現(embodiment)であり、いつも超越的な娯楽にいそしんでおられます。主を崇拝するために唯一必要とされるものは、それることのない献身です---虚飾(ostentation、誇示)は主を喜ばせません。

主クリシュナへの献身奉仕は憎しみやねたみを作り出しません。不可知論的な(agnostic、神の存在を否定はしないが、その存在の確かな理解は不可能だとする理論)ならず者(reprobates)だけが、主への献身奉仕と主の献身者に強く反対します。

人は献身奉仕において最大の喜びを得ます。実に、人がついに主を得るとき、それは無限の至福(ecstasy)の海でおぼれるようなものです。主クリシュナの献身者だけが、この至福を味わい、いつも喜びに満ちていることができます。
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by ammolitering4 | 2014-11-08 13:58 | 「英知による放棄」 | Comments(1)
Commented at 2014-11-10 11:02 x
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