第5章 第4段落まで

第5章 主クリシュナだけが至高神である:他のすべての者は主の従者である

第1段落
一般に、ジニャーニーの傾向は、非人格的で一元論的な(monistic)考えのほうに向かっていく(to veer toward、方向が変わる、それる)というものです。彼らの一元論(monism)に関する考え方はこうです。物質的な存在のはかなさ(transience)と苦さを経験し、結果を求める活動の無益さ(futility、徒労)を認識したので、彼らは今、自分は至高の自己(the Self)、ブラーマン、完全真理であると認識します。

事実は、超越性の認識が完全に完成するとき、人は最高の霊的なお住まいにおける完全真理の個人的な側面を知覚します。そして、至高の人格神の個人的な側面の知覚が深まるとき、人は自然に主クリシュナの完全な超越的な美しさに魅了されるようになります。主はバガヴァッド・ギーター(7.19)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死の後で、本当に知識のある(in knowledge)者は、私を(訳注:が)すべての原因の原因であり存在のすべてであると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」

第2段落
主クリシュナを完全に理解する者は、物質存在全体の中のどこででも、決して何の苦さ(bitterness、苦しみ)も経験しません。彼は、主との自分の(校正:His → his)永遠の関係という知識で成長します(to thrive on ~、~によって栄える、大きくなる)。

実に、彼は世界の中のすべてのものを、そして世界そのものを、クリシュナとの関わりにおいて(in relation to)見ます。このように、彼はこの世界を単にはかない(evanescent、一過性の、消えていく)物体と見なす非人格主義的な救世主義者(salvationists、救世軍の軍人を指すことが多いが、ここでは単に魂の救済を述べ伝える人)とは異なっています。

そのような賢明な献身者は、すべてのものは主クリシュナへの奉仕に携わっていると、何もこの関係から外れて、主クリシュナから独立して存在することはできないと、認識します。言い換えると、献身者にとってこの世界は変容し(to become transformed)、すべてのものの中にクリシュナの存在が満ち溢れる(surcharged with ~ in everything)ようになります。

幻想の力は忘却(oblivion)へと退き(to recede、薄らぐ)、そしてこの世界は霊的な世界、ヴァイクンターの性質を帯びます(to take on)。そのような純粋なクリシュナの献身者は、自分だけが主クリシュナの蓮の御足に服従することの利益を楽しむと考えるほど自己中心的ではありません。

そうではなく(rather)、彼は世界のすべての人を主クリシュナに惹きつけようとします。そして、この努力によって彼はマハートマー、寛大な(magnanimous、度量の大きい、太っ腹な)魂として知られるようになります。そのような寛大な魂は本当に稀です。

第3段落
最初に、この世界全体に主クリシュナの存在が行き渡っている(to be pervaded with~)と認識することなく、多くのいわゆる(so-called、名前だけの)マハートマーたちが、自分たちが主(the Lord and master、同じ意味の言葉を重ねた強調表現)となって、それとして(in that capacity、主として)奉仕されたがるのが見られます。

このようにして彼らは主の幻想の力によって完全に捕らわれます(to be imprisoned、囚人になる)。彼らは、終わりのない欲望によって追い回され(to be hounded、猟犬に追い立てられるような様子)、爆撃されます(to be bombarded、攻撃、砲撃)。

その欲望は最終的に、彼らに至高主よりも劣る半神たちを崇拝し始めることを強います。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.20)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「物質的な欲望によってその知性を盗まれた者は半神に服従し、彼ら自身の性質に応じて特定の規則と規律に従います。」

第4段落
このように無限の欲望によって常に苦しめられている者たちは非常に苦しみ、その苦しみが彼らの知性を駄目にします(~suffer much distress, which spoils their intelligence)。それが、クリシュナが彼らをフリタ・ジニャーナー、「知性を失った者たち」と呼ぶ理由です。

彼らは多神論者(polytheists)となり、様々な半神たちを崇拝することを急ぎます(to hasten)。多神論者たちは「クリシュネ・バークティ・カイレ・サルヴァ・カルマ・クリタ・ハヤ」、「主クリシュナを崇拝することによって人は自動的に他のすべての従属的な義務を果たします(to take care of)」ということを理解することができません。

多神論者たちは、太陽神のような半神たちは至高主クリシュナと同等であると考えます。そのような歪んだ知性を持った者たち(men of distorted intelligence)は、決してクリシュナの蓮の御足により頼む(to take shelter of)ことができません。

他方で、鋭敏な(incisive)知性を持った、高尚な心の(lofty-minded)者たちは、主クリシュナが至高存在であると納得しています。もしもどういうわけか(somehow)彼らが何らかの物質的な欲望を心に抱く(to harbor、船が港に停泊している様子)なら、彼らは直ちに主クリシュナに近づき、主に祈ります。シュリマッド・バーガヴァタム(2.3.10)の中に、私たちはこの節を見出します。

(サンスクリット引用)

「より広い知性を持った者は、すべての(all、ありとあらゆる)物質的な欲望に満ちていようが、全く物質的な欲望がなかろうが、あるいは解放を欲していようが、とにかく(by all means、絶対に、なんとしても)至高の全体(the Supreme Whole)、至高の人格神を崇拝しなければなりません。」
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by ammolitering4 | 2014-10-09 14:42 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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