第3章 (たったの)第2段落まで

第4章 至高主を探して

第1段落
ヴァルナーシュラマの宗教は、そのような混沌と暴力の雰囲気の中では行われ得ません。今ヴァルナーシュラマと呼ばれている体系は、実際は不信心な(ungodly、罪深い)で悪魔的な(demoniac)偽りの宗教(religion in disguise)です。

聖なる糸をまとって、この悪魔的な体系の中で浄化の過程を辿ることは、敬虔さ(piety、信心)という結果をもたらしません。(訳注:「聖なる糸」とはヒンズー教の習慣で、聖職者が胸の前に斜めにかけるもの。Yajnopavita と呼ばれる。)

すべての浄化の過程と宗教的な儀式(rites、儀礼、型通りで壮麗なものを指す)を捨てて、カリ・ユガの人々は最大で最強の者になるために互いに競い合います(to vie)。人は、単に頭から聖なる糸をかぶるだけで「ブラーマナ」になります---実に、そのようなことは聖典において予言されていました---が、これは彼に何の敬虔さももたらしません(does not earn him any piety)。

主チャイタンニャは、この種の偽りのヴァルナーシュラマ体系を退けられました(to reject)。カリ・ユガの堕落した状態を予見して、主クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてヴァルナーシュラマの宗教をほとんど論じられず、その代わりに犠牲としての仕事を行うことを強調なさいます。

したがって、主ヴィシュヌ、至高の人格への犠牲を行うことによって主が満足なさり、すべての悪い影響が根絶やしになる(to be eradicated)、と理解されます。

第2段落
病、あるいは他の悲惨さによって苦しめられている(to be afflicted)人々は、アールタ、「苦しんでいる者」として知られます。一般に、病気の人は自分の病気を治すために医者と薬に頼ります。しかし、賢明な(far-sighted、この場合は「遠視の」ではなく、物事を見通せるような卓見のある様子)学者たちは、あらゆる苦しみは過去に行われた罪深い活動の結果であると言います。

普通の人々は、罪深い反応が無明の結果として生じることを理解しません。この無明は、顕現(プラーラブダー)、非顕現(アプラーラブダー)、そして潜在(latent)(クタシュタ)の形で存在します。
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こんばんは。いつもながら長らくお待たせしております。引っ越したりいろいろしていて、なかなか落ち着かないでいました。暗くて寒い地下室の一室でクモと共に暮らすことになったので、これではあまりにも人生が薄暗いと思って、明るい色のカーテンやテーブルクロスなどを買ってきました。1ドルショップのものばかりですが、それでもだいぶ華やかになっていいものです。どうやら私は本質的に流浪の身であるようなので物は増やしたくないのですが、一応ビジュアルアーティストでもあることだし、やはり視覚的にあまりに味気ないと影響を受けて気持ちまで陰鬱になってしまいがちなのです。

引越しを繰り返すうち、物に対する執着心はかなり薄れたような気がします。たくさんたくさんの愛着のある大事なものを手放さなくてはならなかったので、新しい物を手に入れても「どうせこれもしばらく使うだけ」という気持ちがあります。「どうせ」というのともちょっと違うのですが、対価に関してもしばらくの間の使用料という感じです。引越しではない事情でいろんなものを手放したこともあったし、神様が私の物質的な執着心を減らす手助けをしてくださっているのだと思います。ともあれ、いろんなものが去来しても、それでも私の目の前にはいろんなものがあるわけで、それらと共に過ごすしばしの時間を感謝したいと思います。

翻訳はほんのちょっとだけですみません。こんなことをだらだら書いてる間にがんばればいいのですが、お許しください。また続きはのちほどお届けします。おやすみなさいませ。
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by ammolitering4 | 2014-09-21 14:42 | 「英知による放棄」 | Comments(2)
Commented by acha at 2014-09-22 12:12 x
続きをありがとうございます。私の精神生活に葉子さんの存在はなくてはならないものです。本当に感謝しています。主人とも、葉子さんの翻訳から話が膨らみます。
日本では、断捨離というのがしばらく前から流行っています。要らないものを捨てるという。いうまでもなく価値観はさまざまであらゆる選択肢があり、生きるに必要か不必要かという極論が有用かもさておき。
私は先日パソコンが突然壊れ、バックアップしていたモノ含め永久保存用データすべて失くしました。でもなぜかサッパリ。逆に心機一転ラッキーっ!みたいな。
先のひっきぃさんコメントからの葉子さんのレスにありました「人類というカテゴリーにおける精神性による分類というくくり」というのは、私がかつてブログに書いたことかと思われますが、葉子さんがおっしゃるように、違っていたと思います。意識は日々変わりますね。
チャイタンニャの教えの神髄、バクティヴィノーダのおっしゃる「他者への慈愛、マントラへの味わいを深める」という二点。
一見前進か後退かもワケわからないけれど・・・クリシュナへの愛情を育めるような日常を送りたいものです。
またの更新を心待ちにしています。感謝(^○^)/
Commented by ammolitering4 at 2014-09-22 15:09
精神性による分類ということをachaさんも考えておられたんですね。実は私のパソコンもしばらく前に壊れてしまい、ブックマークもデータも全部きれいさっぱり失くしてしまいました。よかったらまたブログのアドレスを送ってください。

精神性による分類だ、と言ってたのは、以前お寺で会った人です。これは明らかに違いますよね。「人間」というのが知的生物を指すのかもしれないと私は考えていますが、どうでしょう。

この分類はそもそも地球に限られているはずだと私は理解していますが、悠久の時間の中で考える必要があるので、ユガのサイクルの最初から終わりまで、という範囲の中で知的生物がそれくらいいても不思議じゃない気がします。ほんとうに、単に物質世界と言っても、私たちが知覚できるのはほんの薄皮一枚のようなものだと思うのです。
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