第3章

第3章 教育システムに関するアン博士の発言

第1段落
私たちは、1957年1月12日のカルカッタ大学会議(convocation、大学の評議会)でのアン博士の演説(address)を聞いて嬉しく思いました。アン博士は現在、ビハール州の名誉知事(the honorable governor)でいらっしゃいます。以下は彼の演説からの抜粋です。

「私たちの(訳注:社会の)若者たちは、宗教とすべての宗教的なものに対する無言の(veiled、覆い隠された)軽蔑 (contempt)という伝統の中で育てられています。霊性主義者(spiritualists)と宗教的な献身者は教育のある若者たちのもの笑いの種(laughing-stock)であり、そして一般大衆は宗教心があって(religious-minded)そのような献身者と霊性主義者に大いなる尊敬と崇敬の念(reverence)を持っているので、彼らは一般に教育のある階層の態度に嫌悪感を感じており(to feel disgusted)、彼らに何の敬意(regard、好意)も持ちません。

教育のある階層も、その人生のあり方が主に宗教的な考え(ideas)によって形作られている大衆に何の愛情(affection)も持ちません。その結果は、教育のある階層は大衆の苦しみの改善(amelioration)のために本当の伝道精神(missionary spirit)をもって働く十分な数の公務員(servants、使用人)を作り出すことができていない、というものです。」

第2段落
アン博士は続けて、学校や大学(schools and colleges)での既存の学究コース(academic courses)は宗教に関する授業を除外している、と言います。

第3段落
私たちは地元の新聞からとったアン博士の演説のこの部分を引用しました。なぜなら、私たちは読者に、大学に宗教学を導入することの緊急の必要性を強く認識していただきたいからです(to impress upon)。

過去には、学校に宗教の授業を含めることに対して強い反対の声が上げられたため、それは除外されました。そして今、今日の若者の中に甚だしい反応(severe reactions)が見られています。私は、教育から霊的な学習を除外することは、人間の心が目覚めて花開くためのすべての機会を妨害する(to thwart)と考えます。

霊的な教育の欠如によって、今日の若者は節操がありません(undisciplined、規律されていない)。早朝に、そして再び夜に、祈ったり瞑想したりしない学生は、徐々に不可知論者(agnostics)になり、そして彼らの心は目的なく漂いまわります(to float about)。

彼らは宗教的な考えと倫理(ethics、道徳原理)を退け、その代わりに論理と議論(argument)を至高として奉じます(to embrace)。往々にして、彼らは誰か非良心的な(unscrupulous)政治家の悪しき支配(vicious grip)の中に落ちます。

大学からの宗教コースの除外は、最近は学生と教師の間の純粋で高尚な(sublime)関係が見られないことの主な理由です。多くの教育者が今日、宗教教育の必要性を感じています。

第4段落
2~3ヶ月前(1957年1月18日)、パトナの政庁(the Government House)でアン博士と会う機会があり、私たちは少し話をしました(to have discussion)。敬虔な人なので、彼は私たちの霊的な話題を喜ぶ(to appreciate、真価を理解する)ことができ、悪魔的な精神性を大規模に撲滅する(to eradicate)ことを目的とした私たちの伝道(missionary)活動への、全面的な支援を提供してくださいました。彼の最近の演説は、私たちに改善の望みを与えてくれます。

第5段落
歪んだ知性を持っているので(possessed of)、悪魔、悪者(rascals)そして愚か者たちは、決して主クリシュナに服従することができません。同様に、主クリシュナは決して彼らにご自分の慈悲をお見せになりません。

至高神の最も鷹揚な(munificent、気前の良い)化身、主チャイタンニャは、罪人ゴパーラ・チャーパラを拒絶(to repudiate)なさいました。なぜなら、彼は主の献身者をねたんでいたからです。このことに関して、至高主はご自分の意見をバガヴァッド・ギーター(4.11)において述べられます。

(サンスクリット引用)

「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」そのため主は悪魔には、生命のますます低い種に滑り落ちて、何百万回も生まれ変わって地獄を苦しむように手配なさいます。16章(19-20)において、主はこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ねたみ深くて悪意のある(mischievous)者たち、人間のうちで最も低い者たちを、私は永久に物質存在の海へ、生命の様々な悪魔的な種へ投げ込みます(to cast into)。生命の悪魔的な種の間に繰り返し生を受けるので、おお、クンティーの息子よ、そのような人々は決して私に近づくことができません。徐々に彼らは、存在の最も忌まわしい種類へと沈み落ちます。」

第6段落
それでも、至高主の献身者は主ご自身よりも慈悲深いので、私たちのような最も低い悪魔にさえ同情的です。

第7段落
主の献身者は、主ご自身が退けられる者たちさえも救うことができます。これが彼らの特徴的な性質です。したがって、主の献身者は、堕落した邪悪な(reprobate、神に見捨てられた)魂を破滅(perdition、地獄に落ちること)から救うために、様々な方法を手配します。

事実、彼らは持っているどんな方法でも---策略(tricks、騙すための企み)さえ使って、彼らを霊的な完成に向けて奨励するために、これらの霊的な落伍者(derelicts、見捨てられた者)たちの間に住みます。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ・プラブパーダ睨下は、ロンドンに学生のホステルを開きたいと望んでおられました。その理屈は、あの堕落した(debauched、放蕩、道楽)学生たちに少々の感覚の満足という形で砂糖がけした薬を与えることが必要だったからです。彼らを神認識の道に加わることに惹き付けるためです(訳注:原文は長い一文)。

第8段落
もしも彼らがそう望むなら、強力な霊的指導者たち、すなわち主の純粋な献身者たちは、直ちに宇宙全体を解放し(to deliver)、すべての者を至高主の蓮の御足の庇護の下へと連れて行くことができます。

シュリーラ・ヴァースデヴァ・ダッタは主チャイタンニャに、もしも主がすべての生命体を一度に解放する意志をお持ちなら(to will)、自分は宇宙の中のすべての生命体のすべての罪深い反応を引き受けて(to take on)、永遠に地獄で苦しむ用意がある、と宣言なさいました。

純粋な献身者は非常に寛大なので(magnanimous)、彼らはいつもすべての魂の霊的な幸せ
(well-being、健康、福祉)を気にかけています(to be concerned)。至高主の慈悲を受け取るための唯一の方法は、そのような純粋な献身者の蓮の御足の埃を浴びることです(to bathe oneself in)。

第9段落
主の献身者は、人々を駄目にして彼らを悪魔的にしたのはマーヤーの影響であると理解しています。そのため、献身者の生来(inherently)高潔な(noble、すばらしい、高貴な)性質(disposition)は彼らを、ねたみに染まる(a tinge of)ことなく、悪魔の利益だけを考えることに導きます。(訳注:~は本来高潔な性質を持っているため、ねたみの心が差すことなく、悪魔の利益だけを考えるようになります。)

したがって献身者は、パティラ・パーヴァナ、「堕落した者の救済者(saviors)」として知られています。事実、献身者は至高主ご自身よりももっと同情的です。もちろん、彼らを主よりも同情的にするのは、至高主の恵みだけです。そして、そのような献身者の慈悲によって、最も低い、罪深い男たちと女たちが、主の蓮の御足に至る(to attain)ことができます。

第10段落
他方で、そのような純粋な献身者を怒らせることは(to offend、機嫌を損ねる、感情を害する)、救いのすべての可能性を終わらせます。もしも人が至高主を怒らせるなら、主の純粋な献身者だけが怒らせた者(offender)を救うことができます。

しかし、もしも人が純粋な献身者を怒らせるなら、それなら至高主さえも怒らせた者を破滅(doom、悪い運命)から救いません。この理由だけのために、純粋な献身者は決して怒りを感じません(to feel offended)。イエス・キリストが十字架に掛けられていたとき、彼はそのことで誰をも責めませんでした。

ハリダーサ・タークラはイスラム教の法官(Muslim Kazi)の見張り番(sentries、歩哨)によって、22ヶ所の市場でひどく鞭打たれました(to be lashed)。それでも彼は主に、自分を苛む者たち(tormentors)を罰しないように祈りました。

主ニテャーナンダは、ジャガーイとマーダーイという二人の悪者によって怪我を負わされましたが、それでも主は、ひどく血を流しながら、一歩も引くことがありませんでした(stood His ground)。主は二人の悪名高い兄弟たちを解放なさり、そしてピティタ・パーヴァナという称号を鮮やかに(brilliantly)例証なさいました(to exemplify)。純粋な献身者の深い(profound)同情心とは、そのようなものです(Such is~)。

第11段落
したがって、堕落者(reprobates)が何らかの信心(piety、敬虔さ)を得る唯一の方法は、献身者との関わりを通してです。私たちは、あの、すべてのヴァイシュナヴァたちの輝かしい(illustrious、華々しい、著名な)宝珠(crest jewel、crestは冠のてっぺんや紋章を指す)、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ・プラブパーダ睨下の信念の固い(stalwart、猛者)弟子たちが、彼らの霊的指導者の祝福を受けて、世界全体の祝福(benediction)のために再び集まり、これ以上時間を無駄にすることなく、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーとシュリーラ・ラグーナータ・ダーサ・ゴスヴァーミーの教えを広める、その時を心待ちにしています。

シュリーラ・ゴーラキショラ・ダーサ・バーバージーは、いつもご自分の弟子シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラに、ご自分がカリ・ユガの要塞(bastion)と考えていらしたカルカッタに行くことを思いとどまらせよう(to dissuade)となさいました。

それでも、一部の人々はシュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラがご自分のグルの命令に逆らったと考えるかもしれませんが、彼はカルカッタだけでなく、ロンドン、ベルリン、ボンベイ、マドラス、そしてデリーなどの、他のカリ・ユガの中心地(capitals)でも布教なさいました。

彼は、どこか静かな場所に寺院を建てて、修道院で受身的で波乱の少ない(passive and uneventful)人生を送ることに、激しく(vehemently)反対なさいました。彼は、人類の霊的な向上(upliftment)のために自分のエネルギーの100%を神への奉仕に活用する、という考えを完璧に代表なさいました(to represent)。

あるグジャラティ(訳注:インド北西部の地方)の友人が彼に、ボンベイの静かな郊外、ヴィル・パールに寺院を建てることを申し出ました。彼は直ちに拒否しました。私たちは、彼がこのように活動して布教するのを見るという、最もすばらしい幸運を持ちました。

そして今、パティラ・パーヴァナの模範(exemplar)、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラの亡き後、私たちが自分の低い(lowly)、堕落したあり方に戻ってしまったのは、私たちの不運(ill fate)です。私たちの解放(deliverance)のために、希望の光(glimmer、ちらちらと見え隠れするかすかな光)はあるでしょうか?

第12段落
完全に堰き止められてしまっていた(to be dammed up)、愛情ある同情心の海から、主ニテャーナンダは至高神への愛という運河を切り開き(to cut a canal of love)、世界中を(訳注:至高神への愛で)みなぎらせました(to flood、洪水を起こす)。

そしてそれから、ゴスヴァーミー階級(caste Gosvamis)と呼ばれる一部の人々が、主の子孫であると主張して、再び自分たちの結果を求める活動と儀式の不正利用(malpractices、職権乱用、不正行為など)をもって、その慈悲の海を堰き止めました(to dam up)。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、再び至高神への愛の運河を切り開き、洪水の水をもたらしました。そして今、他ならぬ私たちが、 ゴスヴァーミー階級のように再びそれを堰き止めようとしているのでしょうか?

主の献身者との良い関わりの影響によって、破壊的で悪魔的な精神性を持った私のような愚かな悪者(a fool and rascal)でさえ、至高主に奉仕をする気持ちになるほどに十分な敬虔さを培うことができます(to accumulate、蓄積、長期に渡って積み上げる)。

第13段落
生来、子供は落ち着きがなく、よく遊ぶものです(playful)。そのため幼稚園では学習に興味を持たせるために彼らにおもちゃとゲームが与えられます。同様に、初心者は犠牲の雰囲気の中で活動を行うように訓練され、そして彼は聖典の命令に応じて神像を崇拝することを奨励されます。

熟達したヴァイシュナヴァの教師(preceptors)は、それから、クリシュナ意識の霊的に強力な(potent)話題を語り、至高主に捧げられた食べ物の残り物を彼に与えることによって、徐々に彼を純粋な献身奉仕の水準に向けて引き寄せます(to draw toward)。

献身生活のこれらの二つの側面は、世界の他の者たち(the rest of the world)と同じく物質的な病によって影響されている(to be affected)初心者に、薬のように働きます。主クリシュナへの献身奉仕は、生命体の永遠の生来の権利(birthright)です。

それは人間の心によってでっちあげられた(to be fabricated)新しい主題ではありません。卑しい(base)愚か者は、主クリシュナへの献身は単に俗的な心の心理的な状態であると考えます。しかし本当は、献身奉仕は私たちの永遠の霊的な実質(substance、資産)---シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.2)によれば「必要不可欠な霊的な現実」(ヴァースタヴァヴァストゥ)です。

主クリシュナへの献身は、献身者の浄化された心の中に自然に引き起こされます(to be invoked)。病が癒されるとき、患者は空腹を覚えます。同様に、初心者が献身者との関わりによって十分な敬虔さを育む(to accrue、自然に増えて利益が増す様子)とき、彼は自分の心の中に献身奉仕への魅力(attraction、魅了される気持ち)を感じます。

第14段落
4種類の敬虔な人々が至高主、クリシュナとの関係を確立します。主はバガヴァッド・ギーター(7.16)(校正 : →. )において、次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタのうちで最良の者よ、4種類の敬虔な人々が私に献身奉仕を捧げ始めます---苦しんでいる者、富を欲する者、知識欲のある者(the inquisitive)、そして完全存在に関する知識を探し求めている者です。」

第15段落
人は、ヴァルナーシュラマ・ダールマの体系、、4つの霊的な階層と4つの社会的な階層を含む社会体系の下で厳密に自分の義務を遂行することによって、もう一つの種類の敬虔さを得ます。学識のある賢人たちは、ずっとこの体系を伝えてきました(to propagate、宣伝、普及)。ヴィシュヌ・プラーナ(3.8.9)にはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神、主ヴィシュヌは、ヴァルナとアーシュラマの体系において、定められた義務の正しい遂行によって崇拝されます。至高の人格神を満足させるための他の方法はありません。人は4つのヴァルナとアーシュラマの制度(institution)に位置していなければなりません。」

第16段落
ブラーマナ(知識人、僧侶階級)、クシャトリヤ(王と管理者(administrators))、ヴァイシャ(商業コミュニティー)、そしてシュードラ(非熟練(menial)労働者)(訳注:この場合は「下層、卑しい、雑用」などの意味)は、4つの社会的な階層、すなわちヴァルナです。

もしも彼らが自分の特定のヴァルナに関係する(pertaining to)聖典の命令に応じて暮らすなら、それなら彼らは敬虔さを培うことができます。同様に、もしも4つのアーシュラマ---つまりブラーマチャーリー(独身の(celibate、宗教的な理由による性的な禁欲)学生)、グリハスター(家庭人)、ヴァーナプラスター(巡礼者)、そしてサンニャースィー(放棄階級者)---の構成員もまた、聖典の命令(edicts)にしたがって(in conformity with)活動するなら、同じく計り知れない(immense、莫大な)敬虔さを得ます。

しかし、カリ・ユガの悪い(ill)影響がこのヴァルナーシュラマ体系を壊す(to corrupt)とき、人間の社会は様々な堕落(degradations、退廃)によって悩まされます(to be beset、付きまとう、取り囲む)。その結果、生命体は主の幻想の力によって引き起こされる様々な自然の惨事(calamities)によって罰せられます。

市民が王の規則に従う(to abide by)とき、王国は滑らかに営まれ(to run)、誰もが豊かで(prosperous、繁栄、順調)満足しています(content)。しかし、泥棒、悪党(rogues)、そして犯罪者という悪魔的な人口が着実に(steadily)増えるとき、王国は混沌と恐怖(terror)に満たされます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ぼちぼち進んでおります。みなさま、のんびりお待ちくださってありがとうございます。教育システムに関する今回のお話も興味深いものだと思います。日本では宗教は悪いものの代表みたいに思われている節がありますので、私も母から「あんたは宗教をしているのか!?」と問い詰められたことがあります。何やらあれこれの犯罪をやっているのかと問われるような言い方ですね。しかもインドの宗教ということで、即座にオウムと同一視されますし、返事に困ります、ほんと。

こんな風潮にあっては、学校で霊的なことを教えることなど不可能だろうなという気がします。今でも道徳の授業というのはやっているのでしょうか。あれは霊的なこととは全く関係ないし、変な思想が入り込む隙もいっぱいありそうな気がするのですが、少なくとも日本の学校であれば昔ながらの神道や仏教の教えなどをもうちょっと、せめて一般教養として教えたらどうかと私は思います。お地蔵さんや祠や道祖神の意味、ご神木や注連縄の意味など、知っていれば身近にも感じるだろうし、大切に思う気持ちも育つでしょう。そしたらやがて霊的なことに対しても自然な畏敬の念や探究心もわくと思います。霊的な存在なのに霊的なことをばい菌みたいに嫌って怖がる今の社会の状態は異常です。
[PR]
by ammolitering4 | 2014-05-25 12:10 | 「英知による放棄」 | Comments(4)
Commented by acha at 2014-05-28 09:47 x
地球も、Srimad-Bhagavatam Canto5 Chapter24 に記述される低位の惑星系の様子に似てきているように感じます。
Commented by 葉子 at 2014-05-29 11:09 x
手元にSrimad-Bhagavatamがないのでよく分かりませんが、だいたいの想像はつく気がします。このままいって大丈夫なはずはありませんよね。いつか読んでみますね。
Commented by acha at 2014-05-30 10:14 x
http://prabhupadabooks.com/?encoding=unicode「The Subterranean Heavenly Planets」で読めます。是非♪

ちなみに地獄の惑星と低位の惑星系とは全く別ものなのですね。
地獄の惑星に関してはバーガヴァタムの5-26にあります。私がまだ幼い頃、鎌倉の大仏様で買ってもらった「天国と地獄」という本の、地獄という場所の怖ろしさ・・・、、、、御伽噺ではなかったのですよね。
Commented by ammolitering4 at 2014-05-31 12:30
読もうとしてログイン登録もしたのですが、なぜかページがブランクになっていて何も表示されませんでした。点々がたくさん並んでいただけです。その代わり、こちらで読めました。
http://vedabase.com/en/sb/5/24

まだちらっと読んだだけなのですが、おっしゃるように地獄の惑星と低位の惑星は違うみたいですね。地獄の惑星はどこにあるのでしょうか。地獄なんて人間が想像してるだけだと主張する人たちもたくさんいますが、恐怖心から否定しているだけなんじゃないかなと思います。ヴェーダにこれだけはっきり書かれているし、因果応報というのはもうどうしようもないものだし。地獄って、転生する前に行くのかな。分からないことばかりです。
名前
URL
削除用パスワード


<< こんにちは 第2章 最後まで >>