第2章途中まで

第2章 主クリシュナは至高の完全真理である

第1段落
有名な無神論者カピラは、サーンキャーの哲学を広めました(to propagate、思想を普及させる)。彼は、物質世界は24個の物質的な要素から成ると結論しました。すなわち、土、水、火、空気、そしてエーテル;形、味、匂い、音、そして触覚(touch);目、舌、鼻、耳、そして肌;口、手、脚、肛門、そして性器;心、知性、そして偽りの自我;そして自然の3つの相の非顕現なる状態(プラーダーナ)です。

カピラが24個の要素を分析した後で非顕現なる魂を知覚できなかったとき(訳注:~は~の後でも~を知覚できなかったので)、彼は神は存在しないと結論しました。そのため、献身者のコミュニティーは(訳注:献身者たちは)カピラを無神論者と見なします。

第2段落
デヴァフーティの息子である主カピラは、無神論的なカピラとは別人です。主カピラは、至高の人格神の、権限を与えられた化身(an empowered incarnation of the Supreme Godhead)として受け入れられています。

バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、無神論者カピラのサーンキャー哲学と、非顕現なる魂は不存在であるというその主張(contention、論点)を論駁なさいます(to refute、誤りを明らかにする)。ギーター(7.4)において、主クリシュナはまた、物質的な材料はすべてご自分の統御と監督の下にあるとも立証なさいます(to establish、確証)。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、そして偽りの自我---これらの8つは、総合して私の離れた物質的なエネルギーを構成します。」

第3段落
主クリシュナとは誰で、主のもともとの形とは何でしょうか?主の富(opulence、贅沢で豊富な様子)、力、名声、美、知識、そして放棄について知らない限り、人は決して純粋な献身奉仕の領域に入ることはできません。チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)にはこのように述べられています。

(サンスクリット引用)

「真摯な学徒は、論争の的になる(controversial、議論の余地がある)と考えて、そのような哲学的な結論の議論(訳注:~について議論すること)を怠る(to neglect、軽視する、無視する)べきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。そのようにして、人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」

第4段落
クリシュナの知識のうちに位置し、それに応じて活動する者は、献身奉仕を遂行しています。カピラによって伝授された(to be initiated)過程を辿る(to pursue、遂行、追求)にあたって、人間は何百年も何千年もの間、同じことを見抜く(to fathom)ことに失敗してきました。(訳注:文脈から、「同じこと」とは「カピラによって伝授された過程」を指すものと思われます。)

至高主クリシュナは、ほんのいくつかの言葉で神秘の覆い(shroud)を持ち上げ(to lift、取り除く)、真理を明らかになさいました。「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、そして偽りの自我---これらの8つは、総合して私の離れた物質的なエネルギーを構成します。

これらの他に、おお、強大なる(might-armed、mightは腕力や権力、armは武器や武力を指す)アルジュナよ、もう一つの、私の優性なるエネルギーがあり、それはこの物質的な、劣性なる自然の資源を搾取している生命体から成ります(to comprise)。

すべての作られたものは、これら二つの自然にその源を持っています。この世界の中の物質的であるもののすべて、そして霊的であるもののすべてについて(Of all that is material and all that is spiritual in this world)、私が源でもあり終わり(dissolution、溶解、解体、解散)でもあると、確かに知りなさい。」

第5段落
この真理を理解できない者は献身奉仕の科学から遠いままに留まり、他方でそれを理解する者は自分の献身生活において強められます。主クリシュナは至高の人格神、至高の男性です。そのため、至高の男性が存在するとき、自動的に物質自然、主の女性の片割れ(counterpart、相対物、対になったものの片方)は、主に奉仕をするために存在します。

偽って至高の人格の振りをする者は、物質自然を支配した(to have ~ at their disposal、~を自由にする)と主張し、自然はもはや主クリシュナの支配下(beck and call)にはないと結論します。もちろん(naturally)、これは馬鹿げており(absurd、不合理)、愚か者だけがそのような主張をします。

第6段落
同様に、至高の人格はプラクリティ、すなわち自然に従属している(subservient、卑屈、屈従)と提議する(to propound、説を述べる)哲学的な学派もまた、真理から遠くかけ離れています。人が自然についてだけ考えるとき(when one thinks about nature and nothing further)、考えは不完全なままになります。

人は、「それは誰の自然だろうか」と問わねばなりません。自然は誰かに所属しなければなりません;彼女は自分だけで存在することはできません。そのため、確立されなくてはならないのは、至高の人格、すなわちプルシャの自己認識(identity)---男性の要素(factor)です。

プラクリティはシャクティ、すなわちエネルギーと同じです。エネルギーを通して、知性的な人はエネルギーの所有者を探し求めます。ウパニシャッドと他のヴェーダの聖典は、ブラーマンが完全真理、そして様々な(multifarious)エネルギーの所有者であり源であると、明らかに述べます。

バガヴァッド・ギーター(14.27)において、このブラーマンはクリシュナの身体的な光輝であると言われます(ブラーマノ・ヒ・プラティシュターハム)。これはブラーマ・サムヒター(5.40)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主の光輝は、ウパニシャッドにおいて言及されている、区別されていない(nondifferentiated)ブラーマンの源です。俗的な宇宙の栄光の無限( infinity)から区別されているので(differentiated)、分割できない(indivisible)、無限の(infinite)、限りない(limitless)真理であるように見えます。」(訳注:原文は長い一文)。

第7段落
ブラーマンは、この現象の世界において、あまねく存在する(all-pervading)エネルギーとして存在します。したがってヴェーダはブラーマンを、形がない、非人格的、純粋などと定義しました。しかし、ブラーマンの源は、物質的な形は持たないけれど、霊的な力とすべての神聖なる性質に満ちた超越的な形を持つ、永遠の人格(personality)です。

主は至高の人格神、永遠性と知識と喜びの体現です。主は六つすべての超越的な富を無限の(infinite)程度に持っておられ、主は非常にすばらしい(superexcellent)娯楽をなさり、そして主だけがすべての聖典において捜し求められ、知られています。

物質主義的な、結果を求めて働く者たちは、この至高の超越的な人格(personality、名士)が俗的であると考える間違いを犯し、そしてそのため彼らは偽の献身者へと堕落することになります。

そして、無味乾燥な推量者たちは、完全存在に関する知識を求める探求において、物質的な現象によってはねつけられた(to be repulsed、後退させられた)ため、至高の人格神の超越的な形もまた反発的(repulsive、ぞっとするほど不快な様子、という意味もある)であると考え、そうして、知識を得るための自分たちの上昇的な(ascending、昇順)過程は不十分で劣っていると、明らかに証明しています(to prove)。

(訳注:「上昇的な知識」の反対は「下降的な知識」、すなわち「権威のあるものから従順に学んで得る知識」であり、知るべくもない事柄について限られた能力と経験からあれこれと推量する人々は、その過程で「はねつけられる」、つまり壁にぶつかって嫌な思いをする。そして、そのような不快な経験を元に推量して、至高の人格神についても不快さを投影した考え方をする、というような意味と思われます。)

これらのグループはどちらも霊的に痛ましい(pathetic、哀れ)状態にあります。したがって、彼らの上にご自分のいわれのない慈悲を授ける(to shower、浴びせかける)ために、至高主はご自身とご自分の超越的な力に関する真理をバガヴァッド・ギーターにおいて明かされました。

第8段落
前述の8つの材料が物質自然、すなわち至高主の外的な力を構成します。これらの物質的な材料---土、水、火、空気など---は自由意志を持たず(to be devoid of~、欠けている)、そしてそのため、それらは主の劣性なエネルギーとして知られています。

対照的に、劣性なエネルギーを活性化させる力は、主の優性なエネルギー、すなわち霊的な力として知られています。本質的に(on principle、主義として)、エネルギーは享楽者ではあり得ません。一つのエネルギーがもう一つのエネルギーを楽しむこともできません。エネルギーは楽しまれる者であり、エネルギー的なもの(the energetic)が享楽者です。

第9段落
生命体は主の優性な、霊的なエネルギーの産物であり、そしてそのため彼らは、常に意思力(volition)を持たない(devoid of)土、水、火などより優れています。しかしそれは、生命体が完全な統御原則である至高主と同じ水準にあることを意味するのではありません。

不活性な(inert、自動力のない)物体に対する霊の優位性を識別する(discern、はっきりと分かる)のは簡単です。ジーヴァの原則は、動いて(to set into motion)この物質世界の中のすべてのものを維持する(to sustain、支える、養う)ことです。

そしてもしもジーヴァが物質自然を支配しようとしなかったなら、それならこの現象の世界に多様性
(訳注:variegatedness、一般的な言葉ではなく、インドの霊的な文章において限定的に用いられる。variegatedは葉のまだら模様を指す言葉)はなかったでしょう。

物質的な要素は、もしもジーヴァがそれらを統御して楽しむ傾向を持たなかったなら変わらないままだったでしょう。物質エネルギーの、意識的な生命体との結びつきを通してのみ(訳注:~が~と結びつくことによって初めて)、土、木、石、そして鉄などの物質(substances)は、巨大で立派な建物、工場、そして都市などを生じさせるように組織化(to be orchestrated、統合)され得ます。物体はそれ自身を組織化することはできません。

第10段落
上述のこと(foregoing)から、この巨大な宇宙の創造、およびその無数の惑星系と天体(heavenly bodies)は、何らかの優性で強力な意識の干渉(interference)を通してのみ生じた(to come about)と、(人は)理解することができます。

物体は不活性で、自発的な活動をする能力がなく、そして意識が24個の物質的な材料を活性化して物質自然の中に多様性を見せるようにしたというのは、疑いの余地がありません。これらすべては、物質自然の中の生来の不十分さと部完全さを証明します(to go to prove)。

そのため、超越的な幸せは霊的な多様性においてのみ可能です。バガヴァッド・ギーター(7.5)において主クリシュナは、ジーヴァがご自分の優性なるエネルギーに属すると確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「これらの他におお、強大なるアルジュナよ、もう一つの、私の優性なるエネルギーがあり、それはこの物質的な、劣性なる自然の資源を搾取している生命体から成ります。」(訳注:これは第4段落で引用されたものと同じ。)

第11段落
霊魂(ジーヴァ)は、主の優性なる、霊的なエネルギーから生まれるため、それは物質エネルギーとはほとんど共通するところがありません。ちょうど、水生生物が陸に何の関係(affinity、密接な関係、親近感)も持たず、陸の獣は水中では場違いであるようなものです。

物質的なエネルギーと霊的なエネルギーの間の外見上の(apparent)密接な関わりは、実は幻想です。ジーヴァは霊的なエネルギーの産物であるため、物質エネルギーを搾取しようとします。しかし、究極的にそのような試みは失敗します。

なぜなら、一つのエネルギーにとって、もう一つのエネルギーをいつも搾取して支配するのは不可能だからです。しかし、ジーヴァは永遠に、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic)、主クリシュナに奉仕をすることができます。

ジーヴァが主に奉仕をするための努力において物質エネルギーを搾取するとき、その活動は超越的---犠牲の遂行です。他のどの種類の活動も、(訳注:結果として)物質主義的な、結果を求める仕事だけになります(to amount to~、本来は数量が最終的に特定の数となって計上されることを指す)。

第12段落
ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)において、3つの種類のエネルギーについて読むことができます(訳注:~についての記述があります)。

(サンスクリット引用)

「主ヴィシュヌの力は、3つの区分に要約されます---すなわち、霊的な力、生命体、そして無明です。霊的な力は知識に満ちています。生命体は、霊的な力に属してはいますが、幻惑の影響下にあります(subject to bewilderment)。そして、無明に満ちた第三のエネルギーは、いつも、結果を求める活動において見られます。」
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ほんのちょっとですみません。翻訳そのものは第4章まで進んでますが、最近どうも忙しくてくたびれているので、家に帰って清書する気力があんまりないのです。最近はほぼ毎日プールで歩いて運動しています。泳げばもっといい運動になると思うのですが、泳ぐのはあまり上手じゃないし、水に顔をつけるのがあまり好きではないという情けない理由もあって、歩いているのです。それからジェットバスに入って温まり、さらにサウナに入って蒸し上がる、という日課です。そのおかげですご~く健康になったかというと、そうでもないような気もするのですが、まあ、基礎体力をつけるためにできるだけ続けようと思っています。
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by ammolitering4 | 2014-05-15 15:09 | 「英知による放棄」 | Comments(6)
Commented by acha at 2014-05-17 11:49 x
>対照的に、劣性なエネルギーを活性化させる力は、主の優性なエネルギー、すなわち霊的な力として知られています。本質的に(on principle、主義として)、エネルギーは享楽者ではあり得ません。一つのエネルギーがもう一つのエネルギーを楽しむこともできません。エネルギーは楽しまれる者であり、エネルギー的なもの(the energetic)が享楽者です。


私達中間エネルギー同士の関わり合いとは何なのでしょう。サドゥ・サンガは優勢同士として。では堕落した魂同士の関わり合いというのは経験則による気づきと学びの為にあるのでしょうか・・・
Commented by yoko at 2014-05-17 20:42 x
サドゥ・サンガ、「修行者、放棄階級者」ということでよろしいでしょうか。そのへんにいる普通の魂は、そもそも自分が誰かということも、そこにいるということも知らずに、いびきをかいて寝て暮らしています。先日ニュースになってましたが、誰かの飼い犬が外でよその子供を噛んでましたね。私たちの魂と心身の関係もそんなふうなところがあるのではないでしょうか。知らないうちに心身が好き勝手やって、魂が訴えられてえらいことになる。。。
Commented by 葉子 at 2014-05-17 20:43 x
でも、雪山で遭難したときみたいに、目を覚ましていようとして互いに励ましあうこともできます。ここでこうしてお会いしたことのないachaさんとクリシュナのお言葉の意味を考えるのも、中間エネルギー同士ができることの一つですよね。気づきと学び、その通りなのだろうと私は思います。

私の日常はカルミーの世界にどっぷりと漬かったものです。いいのだろうか、と思いますが、、、これもクリシュナが用意してくださった経験なのだと思います。形から入る献身者もいるし、その場合はその人なりの紆余曲折を経て、いずれ中身が備わってくるのでしょう。逆もまたしかりで、一見すると奔放に見えても、他者に対する親切心などの徳という場所から神様(あるいはそれを包むもの)に目を向けている人もいます。

それぞれ、一つ一つの魂が迷える子羊だと思えば、群れたがるのも、身を守るために攻撃的になるのも、時に絶望的になったり、偉ぶったり有頂天になったりするのも理解できる気がします。蜃気楼ではない本物の行き先を示して頂けた私たちはほんとに幸せだと思います。
Commented by acha at 2014-05-19 10:08 x
縦の関係性は呑み込めても横の関係性がピンときていなかったのです。
火の粉も量が増すほど消えにくくなるのは理屈ではわかるものの。

「眠るな!眠ったら死ぬぞ!」ですか(笑)
本物の行き先に向かう同志、あるいは戦友みたいな・・・。

また、言葉をかけ合うことの意味が今更ながらわかった気がします。
ありがとうございました。
Commented by acha at 2014-05-19 10:15 x
わかりにくかったですね。すみません。
葉子さんのレスのお陰で私の中の疑問が解けたという事なんです(汗)。ありがとうございました。
Commented by 葉子 at 2014-05-20 03:56 x
お互い、旅先長い身です。障害物競走みたいにこれからもいろいろ用意されてることと思いますが、励ましあっていきましょうね。これからの時代、カリの影響がますます強まっていくので、献身者はあっちにぽつり、こっちにぽつり、という感じになるのだと思います。私は子供の頃からなぜかそういう感覚があったので、覚悟はできているというか、、、でも、一方では、決して一人ではないということでもあるのです。
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