「英知による放棄」 第2部 第1章

第2部 バークティ・カター、献身の科学

第1章 主クリシュナに奉仕をすることによってすべてが得られる

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕の科学について教えておられる間に、主チャイタンニャは物質世界と生命体について幾らかの詳細を論じられました。主は、生命の840万種---90万の水生生物、200万の植物、110万の虫、100万種の鳥、300万種の獣、そして40万種の人間のうち、ホモ・サピエンスは明らかに少数派に属すると指摘なさいました。

さらに、人間は3つの区分に分けられます。すなわち、文明化されていない者、半分文明化された者、そして文明化された者です。また、文明化された部類に属するはずの多くの者たちが、楽しみという目的のためだけに制約も規律もなく(without restraint and discipline)振舞います。

このようにして彼らは他の者たちに(for the rest)混沌を作り出します。人生における彼らの唯一の目的(intention、意図、意思)が自分の感覚(楽しみのための彼らの道具)を満足させることであるため、彼らはいつも自分の感覚を良好な動作状態に(fit working condition)保とうとします。

彼らは、若さの活力(vigor、精力、元気)をもって楽しむのに年を取りすぎると、自分の体に猿の臓器を移植することさえします(to go to the extent of~)。

第2段落
そのような全くの(gross)感覚享楽者たちは、心は感覚器官(sense organs)よりも精妙(subtle)で、それらより優れている(superior)ということを理解しません。心より優れているのは知性であり、そして知性の背後には偽りの自我があります。

それは知性より遥かに優れており、霊魂を覆っています。魂の存在に関する哲学的な探究(inquiry)は、これらの全くの物質主義者にとって手の届かないものであり続けるでしょう。全くの感覚享楽者は、実際は動物の中に数えられます。

なぜなら、人間には単に自分の感覚をくすぐる(to titillate、(性的に)刺激する)より他に、取り組むべきもっと真剣な事柄があるからです。そのため、彼(訳注:人間)はすべての生命体の中で最も発達していると考えられます。

そして実に、私たちは一部の人間が人間の人生の重さ(gravity、重大さ)を理解しているのを見出します(訳注:そして実際、一部の人々は人間の人生の重さを理解しています)。彼らは混沌とした暮らしを注意深く避け、聖人的な人々の模範的な人生を熱心に見習い(to emulate、手本として真似る)、そして自分の人生を人間の人生の目的を満たすように方向付けます(to direct)。

第3段落
様々な宗教---キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、仏教など---の信者は皆、自分の信仰(belief)の強さと彼らのそれぞれの国における状況に応じて、自分の信仰(faith)の規則に従います。主クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(7.3)において、これらの人々のことをこう語られます。

(サンスクリット引用)
「何千人もの人々のうち、一人が完成のために努力するかもしれません。そして、完成を得た者のうち、ほとんど一人も私を本当には知りません(hardly one knows Me in truth)。」

第4段落
記憶にないほどの昔から、生命体は多くの、より低い生命の種を通り抜けて来ており、徐々に進化の過程を通して上がってきて、そして何らかの幸運が原因で人間の生を受けます。より低い生命の種においては、霊魂は物質的な相に厚く覆われており、そしてそのため、肉欲(carnal appetites、肉体的、現世的な欲求、色情など)が彼らの人生を支配します(to dominate)。

人間の種の中では、一部の人々は感覚の喜びを弾劾し(to denounce、公然と非難する様子)、聖人、ヨギー、哲学者、学者などとして称えられます(to be honored)。彼らは鈍い(gross)感覚的な経験よりはるかに優れた精神的な(mental)知覚(perceptions、認識、理解、物の見方)を経験し、そして優れた知性(fine intellect、理知、英知)という、さらに精妙な水準に至るかもしれません。

しかし、知性(intellect)よりもさらにもっと精妙なのが霊魂です。そのため、本当の霊性(spirituality)、すなわち生命体の本当の宗教は、自己のうちに位置することを意味します。

第5段落
自己の宗教以外、すべての道と宗教は、食べること、眠ること、性交すること、そして危険から身を守ることのみから成る、偽りの(pseudo-)霊的な練習(exercises、運動、儀式)です。これらは、動物の主要な活動です。

より低い種は、自己、すなわち魂の宗教を遂行することによって自分自身を上げることができません。しかし、人間は本質的に(inherently、生得的)に自己の宗教を実践する(to practice)ことができるので、一部の者は完成に至るために努力します。

人間としてのみ、人は「自分は誰だろうか?」そして「なぜ三重の悲惨さがいつも私に問題(trouble)を与えるのだろうか?」などの問いかけをすることができます。

第6段落
人間の人生だけが人に終わりのない幸せを得る機会を与えます(to afford~the chance to~)。この人生において、人はこう考えるべきです。「私は苦しみを欲しないにも関わらず、それはそれでもやってくる。私は死を望まないにも関わらず、それは力づくで私の命を取り去る。

私は老いを嫌悪する(to detest、忌み嫌う、憎悪)にも関わらず、若さが終わると私は必ず老い始めるだろう。そして私は病気と災害から自由であろうとするが、それらは決して私を一人にしておかない。」これらすべての苦しみを見るにも関わらず、愚か者は自分の人生を快適にするために一所懸命に働きます。

他方で、知性的な人は自分の状況を冷静に考え、自分の苦しみを完全に(once and for all、これを最後にきっぱりと、一思いに)終わらせるための最良の方法を考えます。そのような考えが頻繁で真摯(sincere、嘘偽りのない、心からの誠実な気持ち)になるとき、彼の探求は彼を完全真理について問うことに導きます(訳注:~になるとき、彼は~について探求し始めます)。」

そのような人は自己認識の道を歩み始めます(to take up)。彼は多くの義務を持っているかもしれませんが、過去の徳のある活動のおかげで、そのような賢い人はこれらの義務を果たし、同時に、誕生、死、老いと病気という現実に向き合います(to confront、直面し、大胆に立ち向かう)。

第7段落
完成のために努力する者たちの、より低い階級(stratum、層)は、カルミー、すなわち自分の感覚を満足させることを求める(to look to~、関心を向ける)、結果を求めて活動する者たち(fruitive workers)です。彼らより上なのはジニャーニー、すなわち知識を求める者であり、彼らは自分の感覚の衝動(urges)を抑制し(to restrain)、精妙な、精神的な水準に位置するようになります。

彼らより優れているのは、神秘的な完成を求めるヨギーたちです。主チャイタンニャは、これらすべての人たちをアシャーンタ、落ち着きがないと表現なさいました。彼らの中で、すべての物質的な呼称(designation)から自由で、偽りの自我を捨て去っていて、自己のうちに位置していて、そうして解放されている者---彼らだけが主クリシュナ、至高の人格を真に理解することができます。

彼らがクリシュナ意識の科学に完全に精通するようになるとき、そのような聖人的な魂は、いかなる外的な呼称にも関わらず、すべての人類にとって霊的指導者として活動することができます。主チャイタンニャはこれをチャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー8.128)において確認なさいます。

(サンスクリット引用)
「人がブラーマナ、サンニャースィー、あるいはシュードラ---何であれ---もしもクリシュナの科学を知っているなら、彼は霊的指導者になることができます。」

第8段落
したがって私たちは、カルミーもジニャーニーも、クリシュナへの献身奉仕の科学の深さを見抜く
(to fathom、深さや心中を推し量る)ことができないと結論することができます。特に愚かなカルミーは資格がありません(to be disqualified)。

なぜなら、彼らは主クリシュナを死ぬべき運命にある存在(mortal)と考え、主へのこの軽視(disregard)が彼らを、バガヴァッド・ギーターにおける主のお言葉の意味を誤解する(to misconstrue、解釈を誤る)ことに導くからです(訳注:彼らは~と考え、そのように主を軽視することで~するようになるからです)。

第9段落
今はカリの時代の邪悪な影響の呪縛のうちにある人類は、いかなる霊的な文化にも無感覚(callous)になりました。そのため人々は自分の時間を、食べること、眠ること、性交すること、そして身を守ることという動物的な活動において過ごします。

至高主、クリシュナに関する霊的な知識を培うことに関しては何をか言わんや?彼らは宗教的な儀式や超越的な知識の探求に時間を割くことさえできません。もしもカルマとジニャーナを培うための霊的な指針に厳密に従うなら、人はクリシュナの科学をある程度理解するのに十分なほど、自分の意識を浄化することができます。

ジニャーナの最終的な結論は、人がいったん完全存在との一体化の段階に至れば、そのとき、より高い水準、すなわち主クリシュナへの献身奉仕の扉が開く、というものです。この一体化の段階はカリ・ユガの人々にとって到達するのがほぼ不可能なので、バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が、ご自分にどうやって献身奉仕をするかという科学をお教えになりました。

それから、この時代の不運な人間たちはご自分自身(訳注:クリシュナ)のお言葉さえも誤解することをご存知だったので、主クリシュナはご自分の個人的な例を通してバガヴァッド・ギーターの真髄を世界に教えるために、再び---今度は主の純粋な献身者、チャイタンニャ・マハープラブという形で---お現れになりました。

第10段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、ご自分がすべてのものの源であるとおっしゃいます。ねたみ深くてずる賢い(cunning)人々はこの事実を論駁(to refute、論破、異議を唱える)しようとします。そのため主は主チャイタンニャとして現れ、主クリシュナがすべてのものの源であるとお教えになりました。

主クリシュナの教えと主チャイタンニャのそれとの間には、何の違いもありません。崇拝の対象は同じです。それでも、この時代の不運な人々は、これらの教えを受け入れることを拒否します。彼らにクリシュナ意識を与えようとするのは、有名なことわざ(expression)にあるように、「豚に真珠(casting pearls before a herd of swine)」です。

カリ・ユガによって苦しめられている(to be afflicted)人間たちは、豚の群れのようです。主は、主ブラーマーによってさえ滅多に得られないクリシュナへの献身奉仕の科学を広く教えることによって、彼らに限りない慈悲をお見せになりました。

それでも、彼らにとってこの貴重で稀なもの(commodity、価値があって役にたつ物)を手に入れる(to come by)のがとても簡単だったので、彼らは自分たちに見せられた慈悲を悪用しました(to abuse、粗末に扱う)。これは彼らの不運のもう一つの顕現です。

彼らに自己認識の科学を教えることによって、主クリシュナはこの時代の人々を肉体的な(carnal)喜びの中で屈服する(to grovel、這いつくばる、卑屈になる)ことから救おうとして、二度、個人的に試みられました。そしてどちらのときも、彼らはそれらの神聖なる教えを感覚の満足を追及するための方法(means)と口実(excuse)に変えました(to convert、改造する)。

第11段落
色鮮やかなガラスの人形とダイヤモンドを見せられたとき、子供は自然に、高価な(priceless、値段がつけられないほど大変に貴重な)ダイヤモンドではなく、人形に魅了されます。同様に、カリ・ユガの人々は限られた知性を授けられているので、クリシュナへの献身奉仕という高価なダイヤモンドを退け、代わりに、結果を求める活動と無味乾燥な推量という安い人形を選びました。

ちょうど、子供が貴重な(invaluable)ダイヤモンドで何千もの安いガラスの人形が買えることを理解できないように、カリ・ユガの知性に劣る人々は(サンスクリット引用)ということを理解できません:「主クリシュナに超越的な献身奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての従属的な(subsidiary)活動を行います。」

第12段落
クリシュナ意識の科学を知る者は、自動的に、結果を求める活動、推量的な知識、ヨガ、慈善、苦行(penance)、禁欲(austerity)、そしてマントラを唱えることなどの従属的な主題(subsidiary subjects)を知ります(to know of~、何かを間接的に知る様子)。

主クリシュナはこれをシュリマッド・バーガヴァタムにおいて確認なさいます。「私への献身奉仕を行うことによって、私の献身者は簡単に、苦行(penances)、結果を求める活動、哲学的な推量、放棄、ヨガ、慈善、宗教性、そしてその他の徳のある行いをすることによって得られるすべてのものを得ます。」
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ずいぶんお待たせいたしました。「英知による放棄」を再開します。分厚いのは嫌だ、という理由でためらっていたいたので、とんでもないことと知りながらも、本を分割して薄くしてしまいました。プラブパーダ、ごめんなさい。。。まあ、その甲斐あって軽く小さくなったので気分的にも楽で、あちこち持ち歩いては隙間の時間に進めています。続きはまたそのうちにお届けします。ごきげんよう。
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by ammolitering4 | 2014-05-05 05:03 | 「英知による放棄」 | Comments(4)
Commented by acha at 2014-05-07 09:30 x
真珠をありがとうございます(*´・(00)・`*)プヒ
Commented by ammolitering6 at 2014-05-07 12:52
achaさん、いつもコメントありがとうございます。まだまだほんの数粒です。プラブパーダが残してくださった輝く真珠をできるだけたくさんつないでいきたいし、願わくばその美しさを本当に理解できるようになりたいものです。
Commented by 自然有機農ダースひっきぃ at 2014-09-17 02:36 x
葉子さん、いつも翻訳したものをアップしていただき、有難うございます。

ちなみに、90万の水生生物、200万の植物、110万の虫、100万種の鳥、300万種の獣、そして40万種の人間のそれぞれの種は何を基準に分けられるのでしょう?
Commented by ammolitering6 at 2014-09-20 00:22
私もそれが不思議だなと思います。以前、「人間が40万種」ということに関して「これは人間の精神性に40万種あるということだ」と主張していた人がいます。でも、プラブパーダの「ホモサピエンスは明らかに少数派」という言葉から、精神性による区分だという主張は間違っていると言えます。

今いる人間はホモサピエンスばかりですが、地球の長い歴史の中では既に表舞台から降りた人間の種もいるでしょうし、これから現れる種もいるでしょう。私たちには計り知れない次元の世界にいる人間たちだっているかもしれません。冗談めいていますが、天狗とか妖怪とかコロボックルとか、そんなのだって私たちには認知し得ないどこかで実在している知的生物かもしれません。物質世界というのが人間に知覚できる今のこの世界だけだという思い込みを捨てる必要があるように思います。
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