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第1部 第9章 25段落まで

第12段落
このように振舞う人は次第に物体から離れ、主クリシュナへの献身奉仕に執着するようになります。こうして彼らは自分の心の鏡を清め、物質的な存在の山火事を消し、そして自分のもともとの霊的な立場に位置するようになることができます。

彼らは完全存在の非人格的な認識よりもはるかに高い認識の水準に存在します。なぜなら、彼らはいたずらに(vainly、徒労に終わる様子。うぬぼれた様子を表す意味もある)至高存在と同化しようとすること、そして主の完全な立場を奪おうとすること、という汚染から自由だからです(訳注:~や~などの邪な考えを持たないからです)。

彼らは決してこの意識の段階から落ちることがありません。自分自身の超越的な自己認識に完全に没頭しているので、彼らは自分の感覚の完全な主人です。彼らは、もしもそうしたいと思うのであれば、この宇宙を支配するための完璧な人々です(訳注:~するのにもっともふさわしい人々です)。

そして、彼らだけがすべての人に幸運をもたらします。しかし、制約された魂たちはどんな方法でも世界に利益を与えることはできません。浄化された稀な魂は、絶え間なくカルマ・ヨガを行い、いつも解放された状態にいます。

バガヴァッド・ギーター(5.7)にはこう述べられています。「献身において働く者、純粋な魂であり、自分の心と感覚を統御する者は、すべての人にとって友であり(dear to ~)、すべての人は彼の友です(dear to ~)。いつも働いているにも関わらず、そのような人は決して呪縛されません。」

第13段落
純粋な魂のそれと全く反対の在り方で生き、行動する者、いつもカルマ・ヨガにおいて行動している者たちがいます。そのような結果を求めて働く人々は、至高主、クリシュナと何の関わりも持ちません。したがって、彼らは自分の心から物質的な汚染を拭い去る(to cleanse)ことができません。

彼らは自分の感覚的な衝動の奴隷であり、思いつきに従って感覚を満たすことに自分の時間を使います。それでも彼らは恥知らずにも、自分のすべての行動は至高主によって促されている(to prompt)と言います。ペテン師であり、無神論者であるため、自分の非敬虔な行いが受容されるように(may be acceptable)、彼らはこのように話します。

そして、こうして彼らは世界に甚だしい(untold)不運と惨事(calamity、大きな不幸)をもたらします。対照的に、純粋な、自己を認識した魂は、常に自分の体と心と言葉で主クリシュナの蓮の御足に奉仕をすることに没頭しています。彼らは決して無神論的な人々と関わりません。

これらの聖人的な人々は、霊魂は微細であるけれど、それでもいつも小さな自由意志を授けられている、と知っています。至高主は完全に独立しており、すべてのものの上に(over all、全体に渡って)完全な自由意志を行使することができます。霊魂は至高主と性質的に同じであるため、主は彼の小さな自由意志を無効になさいません(to annul、取り消す、無にする)。

第14段落
不幸にして、霊魂はこの神に与えられた小さな自由意志を誤用し、無知と幻想の暗い井戸に落ちます。霊魂がいったんマーヤー、幻想的な物質エネルギーの手中に落ちると(to take shelter of)、彼は徳、熱情、無明という物質的な性質を育みます。

霊魂は自分のもともとの性質を失い、物質自然の3つの相によって統御される新しい性質を育みます。そしてこれは彼がそれらを超越するときまで続きます。彼の行動は相応に促されます。もしもそれが、どんなものであれ他の方法で起こったなら、それなら物質的な多様性はこの現象の世界において見えなかったでしょう(訳注:そうでなかったら、この現象の世界に物質的な多様性は存在しなかったでしょう)。

そのため、もしも人が物質自然の非常にかすかな法と働きについて自分に知らせ損なったなら(訳注:学び損なったなら)、そして同時に、すべての活動は至高主によって認められ、導かれた(to inspire、霊感で示唆する)ものだと論じるなら、それなら彼は至高主の立場を低め(to reduce)、主を不完全(partial、不公平)で不公平(unjust、不条理)であると理解しています(to make out、人の性質などを~と理解する)。

主は決して、ある者をひいきし、別の者を差別することはなさいません。事実は、主はすべての人に、本質的に不安定で一時的なすべての物質的な活動を放棄するように助言なさいます。神を忘れてしまうことにより、人は無明の永遠の犠牲者となり、それはそうして彼のすべての行動を染めます(to color、影響する)(訳注:それは彼の行動すべてに影響します)。

バガヴァッド・ギーター(5.14)には、このように述べられています。「自分の体という都市の主人、体を持った(embodied)霊は、活動を作り出すことはなく、人々に行動するように促すこともなく、行動の結果を作り出すこともありません。このすべては物質自然の相によって演じられます。」

第15段落
したがって、主ヴィシュヌへの犠牲として行われたものを除くすべての活動は、自分自身の意思(volition)によって(of)なされた気まぐれな行動です。それらは至高主の指示あるいは認可の下で行われてはいません。そのような活動は自然の物質的な相から生じる(to stem)ので、それらは自動的に自然の完全な統御の下にあります。至高主は、そのような活動の単なる公平で静かな目撃者です。

第16段落
カルマ・ヨギー、あるいは献身者の活動は、いつも完全真理と繋がっています。そのため、献身者は俗的な領域をはるかに超えた超越的な水準に位置し続けます。そのような(自己を)認識した(realized)立場では、彼はこの物質的な創造を至高主から離れたものとしてではなく、主のエネルギーが形を変えたもの(transformation)として見ます。

そのような知覚は、自然の物質的な相によって妨げられていません。実に、すべてのものの主クリシュナとの本来の(inherent、内在的な)繋がりというカルマ・ヨギーの認識は、均衡が取れており(equipoised)、超越的です。ギーター(5.18)にはこのように述べられています。「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は、学識があって穏やかなブラーマナ、牛、象、犬、犬食い(賎民)を同じ見方で見ます。」

第17段落
そのような学識(learning)を授けられたブラーマナは、主に徳の物質相にあります。動物の中では、牛も徳の相にあります。象、ライオンなどは主に熱情の相に位置しています。犬と一部の人間(チャンダーラとその他の賎民)は無明の相にあります。

いつも至高存在を(on)瞑想しているカルマ・ヨギーは、決して魂のこれらの外側の覆いを見ず、その代わり(but rather) 純粋な魂そのもの(proper)を見ます。これが至高存在との関係における(in relation to)本当の平等な見方です。カルマ・ヨギーは、この世界のすべての生命体は主クリシュナの永遠の従者であると知覚します。

魂の外側の覆いである体を考慮に入れるのをやめ、そうではなく(but rather) 魂の「主に奉仕をする」という生来の(innate)性質をしっかりと認識するとき(be established in)、人は平等な見方の最も純粋な段階に至ります。

この段階において、主ヴィシュヌを喜ばせるための犠牲の材料として使うことによって、人はすべてのものを至高主への献身奉仕において使います(to engage ~ in)。

第18段落
カルマ・ヨギーは、主クリシュナがすべての物質的なものの唯一の享楽者および利用者(to exploit、普通は使用人などを私的な目的のために利用することを指す言葉)であり、そして主はすべての生命体の唯一の主(Lord)であり主人(master)であると知っています。

主クリシュナとのこの関係を忘れているため、生命体はマーヤー、幻想の手中(clutches)に落ちます。マーヤーの影響の下で、彼は無駄に享楽者あるいは放棄階級者(renouncer)の役割を演じようとします。しかし、これはすべて単なる幻想(fantasy、空想)です。

事実、生命体の本当の不幸の原因(affliction)は、自分が享楽者あるいは放棄階級者であるという振りをすること(pretence)です。すべての種類の良い、敬虔な活動---ヨガ、知識を培うこと、禁欲および放棄など---は、もしもそれらが至高主に関する事柄(topics)への愛情ある魅了の炎を心の中に灯すことができないなら、誤用された労働(misapplied labor)です(訳注:どんなに敬虔な活動をしても、それによって神に関する事柄を愛する心が芽生えないなら、それは見当違いな努力である)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(5.29)においてこのように宣言なさいます。「私を完全に意識している者は、私をすべての犠牲と禁欲の究極の受領者、すべての惑星と半神たちの至高主、そしてすべての生命体に恩恵を施す者であり幸せを願う者と知って、物質的な悲惨さという(of)苦しみから(逃れて)平和を得ます。」

第19段落
この本の初めのほうで、仕事を犠牲として行うことの必要性を論じました。そして今、この節から、主クリシュナがもともとの至高の人格、すべての犠牲の享楽者であるという真実が明らかになります(to come out with clarity)。カルマ・ヨギーによって捧げられた犠牲の結果、および知識を求める者たちの禁欲は、すべて主クリシュナただ一人によって楽しまれるためのものであると理解されねばなりません。

ヨギーの瞑想の対象、心臓の中の超魂は、実際は主クリシュナの部分的な拡張体です。この主題は、この本のあとのほうで論じます。

第20段落
主クリシュナは、すべての異なる修行法---カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、アシュターンガ・ヨガ(瞑想)そしてバークティ・ヨガ---の信奉者(followers)の幸せを願う方(well-wisher)です。そして、主クリシュナはすべての者の幸せを願う方であるため、主は時代(millennium、本来は千年の期間を指す)ごとに正しい宗教的な教えを確立するためにご自分の近しい仲間たちを世界にお送りになります。

主クリシュナはすべての惑星の至高の主人、もともとの主、そしてすべての原因の原因です。平和への唯一の道は、完全真理、主クリシュナの認識につながる(leading to)カルマ・ヨガにおける段階的な(gradual)上昇です。

第21段落
既に主クリシュナの満足のために自分の仕事を遂行している者は、純粋なクリシュナ意識の水準上にない犠牲、禁欲、あるいは瞑想を別に行うことは必要ありません。以前に、純粋なカルマ・ヨギーは自動的にブラーマナ、サンニャースィー、そしてヨギーであると説明しました。

カルミー、すなわち結果を求めて働く者のように、彼は犠牲を捧げることと自分の義務を果たすことにおいて卓越しています。ジニャーニー、すなわち知識を探し求める者のように、彼は放棄していて禁欲的です。そしてヨギーのように、彼は自分の仕事の結果からも離れていて、自分の感覚を統御の下に置きました。

結果を求めるすべての仕事から離れ、至高主と主への愛情ある奉仕に魅了されるようになった者は、同時にすべての良い性質で飾られます(訳注:to ornament、~を備えます)。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.1)でおっしゃいます。

「自分の仕事の結果に非執着である者、そしてするべき義務を果たす者は、放棄階級にあり、そして彼は本当の神秘主義者です。(訳注:犠牲のための)火を灯さず、何の義務も果たさない者ではありません(訳注:もともとの文はつながっていて、「放棄階級にあって本当の神秘主義者であるのは前者であって後者ではない」という内容です)。」

第22段落
カルマ・ヨギーは自分のすべての活動の結果の究極的な享楽者は主クリシュナであることを知っているため、彼は結果を追い求めず、それから離れています。彼はいつも、すべてのことを主クリシュナのためにすることを考えます。

そのような非執着なるカルマ・ヨギーは、決して「クリシュナ意識における活動は感覚的な喜びを楽しんだり痛みを避けたりするためのものだ」とは考えません。サンニャースィーは、完全存在に関する知識を培うことのほうを選んで(in favor of)、聖典によって定められた活動も含めてすべてを放棄します。

ヨギーは活動的な奉仕から退き、自分の心臓の中の超魂を見たいと望んで、半分閉じた目で瞑想をすることで日々を過ごします。しかし、自分の仕事が至高存在の満足のための犠牲である者は、自分の身体的な必要性のために努力をしません。

彼は至高主への献身奉仕に携わっているため、聖典の中で勧められている儀式的な活動を遂行することを求められません(~する必要がありません)。そのような非執着な(detached)カルマ・ヨギーは、単に自分の仕事の結果に非執着である者よりも優れています。カルマ・ヨギーは自動的に、サンニャースィーが探し求める完全存在に関する知識と、瞑想するヨギーが欲する8つの神秘的な完成において達成しています。

第23段落
本当のカルマ・ヨギーは、事実、至高主の献身者です。完成に達したので、彼らは利益、賞賛(adoration)、あるいは栄誉(distinction)を追い求めません。完成の状態において、すべての知識と神秘的な力が自動的に彼らを飾ります(to embellish)。望ましいすべてのものが手に入るとき、なぜ彼らは他の何かを必要とすべきでしょうか(訳注:他に必要なものなどあるでしょうか)?

第24段落
パタンジャリの八重の道を辿り、瞑想的なヨギーは徐々に自らを高めます。サマーディー、すなわち超魂への没頭の段階に至るまで、様々な段階を習得して、完成に至りたいという望みの中で、彼らはあらゆる逆境(all sorts of adversities)と苦しみを耐え、自分の目標に心を定めたままでいます(remain fixed on)。

究極的に、彼らはこの物質世界の何物とも比べられ得ない意識の状態に至ります。この神秘的な完成の状態においては、いかなる苦しみも---死でさえ---恐ろしく(formidable、恐るべき、手に負えない)見えません。そのようなヨギーに関する主クリシュナの言明は、バガヴァッド・ギーター(6.22)に記録されています。

「このように確立すると、人は決して真理から離れず、そしてこれを得ると(upon gaining this)彼はこれに優る得(gain)はないと考えます。そのような立場に位置すると、人は大変な(greatest)困難の只中にあってさえ、決して動揺しません。」

第25段落
この節への解説の中で、シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、感覚的な世界から離れて(to detach oneself)サマーディー、完全真理への完全な没頭に位置するようになるとき、人は純粋な霊的な自己を知覚し、強烈な喜びをもって報われる、とおっしゃいます。

そのようなヨギーは、決して完全真理、自分の瞑想の対象から集中をそらしません。ヨギーが修行(discipline)の間に得る8つの神秘的な完成---アニマー、ラギーマー、プラープティ、プラーカーミャなど(*)---は、彼のヨガの実践の副産物です。

(*)8つの神秘的な完成は、主クリシュナによってシュリマッド・バーガヴァタム11.15.4-5においてウッダーヴァに描写されています:アニマー(一番小さなものより小さくなること)、マヒマー(一番大きなものより大きくなること)、ラギーマー(一番軽いものより軽くなること)、プラープティ(望むものを何でも得ること)、プラーカーミャ(この世でも来世でも、楽しむべきどんな対象でも経験すること)、イスィーター(マーヤーの副次的な力(subpotency)を操作すること)、ヴァスィーター(自然の3つの相によって妨げられないこと(to impede、妨げる)、カーマーヴァサーイター(どこからでも、可能な限り最も高い限界まで、何でも得ること)

サマーディーにおいて、ヨギーはこれらすべての神秘的な完成を取るに足らないと見なします。多くのヨギーは、これらの神秘的な完成の幾つか(a few)を習得したあとで、それらをすべて習得した振りをします。そして、落ち着きのない心のせいで、彼らは永遠のサマーディーという目標から逸れます。

他方で、カルマ・ヨギー、主の献身者にとっては、そのような可能性はありません。彼の心と集中は目標に定まったままです。なぜなら、彼はいつも主クリシュナの喜びのために働くからです。彼はいつもサマーディー、ヨギーの究極の目的地(destination)にいます。

主への献身奉仕において、献身者はいつも新鮮な(ever-fresh)感情を経験し、そして彼の完成がもっと成熟するにつれて、彼が味わう超越的な喜びは、俗的な欲得ずくで動く者(mercenary)には不可解で計り知れません(訳注:~は、目先の損得で動く俗人にはますます不可解で計り知れないものとなります)。
by ammolitering4 | 2013-08-28 15:12 | 「英知による放棄」


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