第8章

第8章 生命体の本当の自己認識(real identity、正体)

(第1段落)ある人の、自分の姉妹の夫との関係は、彼の姉妹との関係に基づいています。姉妹との結婚の前、義理の兄弟は彼にとって全くの他人でした。そして、彼らの子供たちが彼の姪と甥になるとき、彼らとの関係もまた、彼の姉妹に基づいています。

生まれた国を中心として、同様の関係が人種と国籍の間に(among)育ちます。こうして、ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒などができます。しかし、私たちがどんなに努力しても、そのような自己の部分的な人格を受け入れようと(to adopt)努力しても、そして私たちがどんなにこれらの断片的な自己認識(identity)の数を増やそうとしても、私たちは微小で部分的なままです。

至高主の欠かすべからざる小片として、もしも私たちが主に奉仕をしたいと望まないなら、それなら私たちは自分の実際の自己認識を失い(to forego、過失で権利を失う)、無知に落ちます。適切な同時進行(parallel、この場合は「協働」を意味する)は体の機能です。

もしも手足(limb、四肢を指すが、単に「体の一部」という意味で使われることもある)がその普通の義務を行うことを拒むなら、それは体にとって役に立たなくなります。同様に、もしも私たちの活動が主クリシュナに焦点を当てていないなら、それらは無力(impotent)で価値がないと見なされます(to render、判決を下す)。

自己の永遠にして本来の立場は、至高主クリシュナに奉仕をするというものです。実は、私たちのすべての苦しみは、主クリシュナの永遠の従者としての自分の本来の立場(capacity)において振舞うことを、私たちが拒絶することから始まります。

したがって、すべての生命体の主要な義務は、彼らのもともとの、本来の立場に再び任ぜられることです(to re-instate)。その目的のための最初の一歩は、カルマ・ヨガを行うことです。チャイタンニャ・チャリタームリタには、こう述べられています。「生命体は、マーヤーの鎖によって首の周りを縛られています。なぜなら、彼は自分が永遠にクリシュナの従者であることを忘れてしまったからです。」

(第2段落)人々は一般に無明であり、結果を求める活動に耽っています(to be addicted、中毒している)。彼らの心を乱すことなく、主クリシュナの従者としての人の永遠の立場について真実を説明することによって、カルマ・ヨガは彼らに利益を与えることができます。

このため、バガヴァッド・ギーター(3.26)において、主クリシュナはお教えになります。「定められた義務の結果(fruitive result)に執着している無明な人々の心を混乱させないように、学識のある人は彼らに仕事を止めるように促すべきではありません。むしろ、献身の精神において働くことによってクリシュナ意識を段階的に発達させるために、彼らを様々な活動に携わらせるべきです。」

(第3段落)結果を求める活動に固執している者に、彼らは主クリシュナに献身奉仕を捧げるべきだということを納得させるのは、非常に困難です。その理由は、ほとんどの結果を求めて働く者は愚かで、堕落していて、不信心だからです。

したがって、彼らのすべての活動は気まぐれで、悪によって動機付けられます。彼らの知性と技能は、こうして至高主に対する反抗(defiance、公然たる反抗、無視)において使われます。彼らは完全に幻想の力、マーヤーの統御の中にあり、そしてそのため、彼らは自分が至高主自身であると、あるいは少なくとも悪魔シシュパーラのような主の最大の競合者だと想像します。

彼らは単に、この物質世界を様々な方法で楽しもうとします。実は、この世界を楽しみたいという(
for)彼らの望みは単なる幻想(make-believe、偽り、作り事)、すなわちマーヤーであり、そしてこの幻想の熱望は彼らを絶望的に騙された状態にします。

それでも彼らは楽しみたいという望みを諦めることができません。そして、彼らが結果を求める活動は空しいと気づき、大なり小なりそれらを放棄するように強いられるとき、そのような放棄は単により大きな楽しみのためのもう一つの幻想の企み(scheme、計画、仕組み)になります。

(第4段落)自分の活動の結果を追い求める者は、自分の仕事を遂行する中で多くの苦しみを引き受け、彼らの想像力は繋ぎ縄をつけていない雄牛のようにさまよいます。そして、その間ずっと、彼らの心は彼らに、自分が実際の享楽者であると命令します。

したがって、これらの愚かで歪んだカルミーたちの心を混乱させることなく、知性的な人は彼らを自分が長けていることをすることに携わらせ、その結果を主クリシュナへの奉仕に使うようにさせるべきです。そのような一連の活動は、自動的に、結果を求めて働く者の主クリシュナとの永遠の関係を明らかにします(to uncover)。

そのため、人々を彼らの利益のために教えるため、結果を求める活動の反応から自由なクリシュナの従者は、結果を求めて働く者のそれと一見似ている人生を送りますが、実際は彼はその間ずっとカルマ・ヨガを行っています。

(第5段落)もしも主クリシュナが慈悲深くもご自分の献身者シュリー・アルジュナにカルマ・ヨガの過程を教えていらっしゃらなければ、無明な魂はずっと(for all time)惨めに苦しんだことでしょう。これらの哀れなカルミーたちは、常に自分の首の周りにマーヤーの輪縄(noose、引くと輪が締まる結び方をした縄)を巻きつけており、そして一つの苦しみからもう一つの苦しみへと生きています。

しかし、主の幻惑させる力が彼らの知性を覆い隠すので、彼らはこのいずれも(訳注:これを全く)理解することができません。どんなに統御者である振りをしようとも、彼らは継続的に彼らを無力(helpless)で非力(impotent)なままにするマーヤーによって追い立てられています。

主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(3.27)において説明なさいました。「偽りの自我の影響によって惑わされている霊魂は自分のことを、実際には物質自然の3つの相によって実行されている活動の、行為者であると考えます。」

(第6段落)愚かなカルミーは、主クリシュナを忘れて、主の立場を奪おうとしているので、主の外的な力、マーヤーが彼の首の周りに自然の3つの相という縄で輪縄を結び、彼に耐え難い痛みを味わわせている(to suffer、苦しむ)ということを理解することができません。

彼のすべての活動は物質自然の3つの相の統御の中にあり、マーヤーによって巧みに操られているにも関わらず、それでも全く愚かなカルミーは、自分は自分の状況の主人であると信じます。こうして彼らは、二重性の世界における暮らしのためのより良い手配をしようとして、忙しく働きます。

(第7段落)主クリシュナは、私たち生命体はご自分の離れた(separated)部分であるとお教えになります。部分の義務は全体に奉仕をすることです。完全な体は、手、脚、目や耳などの様々な部分(parts and limb)を持っています。手と脚は最もよく働きます(work the hardest)が、彼らは胃に食べ物を与えることを拒否しません。

胃はほとんど何もしない(does very little)にも関わらずです。他方で、もしも手と脚が相容れないふうに(contrarily)行動し、実際に胃に食べ物を与えることを拒否するなら、そうすればどうしようもない(impossible)状況が作られます。

この状況において、手と脚が楽しもうとするのは不可能です(there is no question of、余地がない)。なぜなら、胃に食べ物が欠けていることで、手と脚は弱く、役に立たなくなるからです。ヒトパデシャという本は、「腹と感覚」という話の中でこの点を詳細に説明しています。

(第8段落)主クリシュナは、宇宙全体という(of)巨大な体の生命(訳注:life air、一般的な表現ではない。あえて言えば「命の息吹」のようなものと思われる)と魂のようなものです。バガヴァッド・ギーターの幾つかの場所で、主クリシュナはこの点を、すなわち主がすべてのものの源であり原因である、ということを明言なさいます(to make this point、主張が正しいことを証明する)。

特筆すべきは、7.7「私に優る真理はありません」と9.24「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主です」というものです。したがって、クリシュナが至高主であり、生命体は主の永遠の従者であるということに、どうしてまだ疑いがありえるでしょうか?

私たちはこの単純な真理を忘れてしまいました。そしてそのため、自分の心と感覚を至高主への奉仕のために使う代わりに、私たち自身が小さな至高主の振りをして、自分の心と感覚をこの物質世界を楽しむために使っています。これはマーヤーです。

(第9段落)今日では、様々な協会(societies)がキノコのように湧き出ています。中でも目立つ(that has made its presence felt、その存在を感じさせるようになった)そのような協会の一つは、主ラーマチャンドラの理想の王国を確立する(to establish、設立する)ために運動を始めたと主張します。

しかし、その協会が宣伝している(to propagate、主義などを宣伝する)ラーマの王国は、主ラーマを欠いているように見えます。主ラーマの最大の競合者はラーヴァニャという名前の悪魔であり、そしてラーヴァニャの現代の子孫たちもまた、主ラーマを殺そうとして躍起になっています(busy trying to kill)。

そのため、(彼らが)主ラーマの黄金の時代を招き入れたい(to usher in)と思う可能性がどこにあるでしょうか(Where is the question of wanting to usher in)?もしも人が主ラーマの理想の王国を築くことにおいて誠実であるなら、それなら世界のすべてが主ラーマへの奉仕に使われるべきです。

しかし、主ラーマの地位と威光を減らそうという試みは、実際は悪魔の王ラーヴァニャの圧政的な統治を確立しようとする試みです。そして、もしもそのような間違いが犯されるなら、それなら主ラーマの勇敢で無敵な従者ハヌマーンがやってきて、悪魔の一族すべて(the entire race of demons)を滅ぼすことによって状況を正さねばならないでしょう。

そもそも(at the outset、始まりのときに)この間違いを避けるために(訳注:そもそもそういう状況になることがないように)、私たちは主クリシュナによって教えられたカルマ・ヨガの道を辿らねばなりません。

(第10段落)カルミーは愚かで無明であり、他方でカルマ・ヨギーは賢明で学識があります。これらの賢人たちは、物質的な相と物質的な活動の性質は、魂のそれと全く反対であることを知っています。この理由により、カルマ・ヨギーは決して、カルミーがするように物質自然の相の下で物質的な活動に携わることはありません。

そうではなく(but rather)、主ヴィシュヌを満足させることを目的としたカルマ・ヨガを行います。そのような賢人たちはいつも、この現象の世界との密接な関わりから離れています(to keep themselves aloof)。なぜなら、彼らは魂をそのもともとの霊的な立場に上げたいと思っているからです。

彼らは、妙な配剤(freak arrangement、「不可解な偶然」のような意味)によってのみ、魂は物質(matter)と関わるようになった(to come into contact、接触)と理解しています。したがって、彼らの耳、目、そして他の感覚はこの現象の世界において(物質と)関わりを持っているにも関わらず、賢人たちは物質的な活動を控えます(to refrain from)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(3.28)においてこうおっしゃいます。「完全真理を知る者は、おお、無敵の(mighty-armed)者よ、献身における仕事と結果のための仕事の間の違いをよく知って、感覚と感覚の満足に携わりません(訳注:感覚に振り回されたり、感覚の満足に耽ったりすることはありません)。」

(第11段落)それから、第3章30-31において、主クリシュナはそのような解放された水準に至るための方法を描写なさいます。「したがって、おお、アルジュナよ、あなたのすべての仕事を私に捧げ(to surrender、服従する、明け渡す)、私を完全に知り、利益を求めず、所有権を主張せず、そして無気力(lethargy、甚だしく元気や活力がないこと)になることなく、戦いなさい。

私の命令に従って自分の義務を果たす者、そして羨むことなくこの教えに忠実に従う者は、結果を求める活動の呪縛から自由になります。」

(第12段落)自己を物質的な体と心であると考えること(to identify)、あるいは魂は物質的であると考えること、あるいは体に関わるすべてのものは自分に属すると考えること---そのような幻想は人を無明のままに、そして自己認識が欠けたままに留めます。

したがって、主クリシュナは私たちに、自己を知っておくように(to be situated in knowledge of the self)助言なさいます。霊的に目覚めるとき私たちは、「私」、あるいは自己は体や心ではないと理解することができます。

私たちは、自分は至高主の優性な(superior)、霊的なエネルギーの産物であり、したがって完全に霊的で永遠である、と認識することができます。これらの超越的な真理の認識に伴って、純粋な形における物質エネルギーの本当の性質という知識が得られます。

そして、それらの霊的な認識が徐々に成熟するとき、人は物質自然の二重性から自然な距離を得ます。霊的な発達のこの段階で、偽りの自我は滅ぼされ、すべての偽りの自己認識(identity)と肩書き(title)は取り除かれ、そして私たちは、超越性(the Transcendence、大文字であるため、この場合は「神」と同義)との霊的な関わりのおかげで、幻想的で物質的なエネルギーの呪縛から解放されます。もはやマーヤーは私たちを物質的な活動に縛り付けません。

(第13段落)主クリシュナが至高の完全真理であるということを実証する十分な聖典の証拠があります。聖書やコーランのような聖典でさえ、完全真理は万能で全知の至高の人格であると宣言します。ヴェーダ文献全体を通して、至高の人格は主クリシュナであると宣言されています。

そしてバガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が、自分が完全真理であるとおっしゃいます。そのため、単にクリシュナと何らかの形で(somehow、どうにかして、どういうわけか)関わることによって、私たちは聖なる自己(Self、大文字)について知る(to illuminate、知識の光で照らす、啓蒙する)ようになることができます。

朝、太陽が昇るとき、すべてのものが再び日光の中で目に見えるようになります。同様に、主クリシュナという太陽が私たちの認識という超越的で霊的な天空の地平線の上に昇るとき、幻想の闇は直ちにかき消されます。そのとき初めて(Then only)、人は浄化され、清純な美で輝きます。

(第14段落)これらの事実は、愚かな人には、誇張されている、あるいは神話である(mythical)と聞こえるかもしれません。しかし、これらは小さな子供(little boys)のためのおとぎ話ではありません。現実であり、真理です。主クリシュナに依り頼む者、すなわち主の献身者は、この主題の真価を知り、理解する(to fathom、真理を見抜く)ことができます。

この真理を受け入れない唯一の者は、主クリシュナに対して敵意のある者、そして歪んだ心のために
(because of)自ら至高主になりたがる者です。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.11)で、「私が人間の形で降臨するとき、愚か者は私をあざ笑います」とおっしゃいます。

そのような人々は主を妬んでいます(envious)。主クリシュナに関する真理と主の超越的な立場は、決してそのような混乱して幻惑された脳には入りません。
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by ammolitering4 | 2013-06-29 14:32 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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