第7章

第7章 物質的な病を治すには

(第1段落)一般の大衆(populace)は、単に指導者たちの命令(dictates)と決定に従います。そして、その指導者たちが何らの霊的な認識も持ち合わせていません(The general populace simply follows ~the leaders, who are~)。したがって、社会の指導者たちは責任を持って行動すべきだということが助言されます。(訳注:「大衆は指導者たちに霊的な認識があろうがなかろうが彼らの命令に従うので、指導者たちは責任を持って行動すべきだ」)

これらの指導者たちがカルマ・ヨガの教え(precept)を知性的に実践するとき、繁栄への簡単な道が開きます(訳注:「繁栄への道が簡単に開きます」としたほうが自然な日本語になり、意味も変わりません)。まず自分自身の病を癒すことに熟達することなくして、なぜ多くの患者を治療しようとするのですか(訳注:「多くの患者を治療することなどできるでしょうか」)?これは理不尽です。

まず、指導者は自分自身の人生にカルマ・ヨガの原則を受け入れなければなりません。彼はそれから人々の病を診断せねばなりません。それから薬が処方され、正しい食事療法(diet)が与えられます(訳注:「指示されます」)。苦しむ人々に、単に彼らの感覚をくすぐる(to titillate、楽しく、または性的に刺激する)感覚の満足という治療を施すこと---これは彼らを健康にはしません。むしろ、これは病をさらに広め、やがて医者自身が侵され、ついにはそれで死にます。

(第2段落)至高主、ヴィシュヌを忘れていること(forgetfulness)が、人間の社会の本当の、もともとの病です。そのため、もしも人がこの病気(ailment、慢性の病)を治療せず、しかしその代わりに患者たちに不誠実で浅い関心(concern、気にかけること、心配)を見せるなら、人は彼らに何らかの一時的な救済(relief、安堵)と喜びを与えるかもしれませんが、究極的にそのような一連の行動(a course of action)は彼らを恒久的に治すことはできません。

もしも患者が正しい薬と食事療法を求めて行って、しかしその代わりに悪い薬と食事療法を処方されたら、それなら彼は確かに死の脅し(jaws、顎)の中にあります(訳注:「死の恐怖にさらされています」)。

(第3段落)至高主に捧げられた食べ物の残り、プラサーダムは、すべての患者にとって最高の食事療法です。そして、至高主を讃える話(topics)を議論することと聞くこと、主の神像(deity form)を見て主を崇拝すること、そして完全に主に服従すること---これらが最高の薬、万能薬です(to constitute、ある要素が何かを形成する)。

これらの活動は繁栄への唯一の確かな道であり、他方で、他の活動は大惨事をもたらします。主への献身奉仕を実践することは、決して社会に害を与えません。むしろ、それは単に機会と恩恵の時代を招き入れる(to usher in)ことができるだけです。日和見主義者(opportunist)で経済的な相場師(financial speculator)である者たちは、これらの事実を落ち着いて考慮すべきです。

(第4段落)マハトマ・ガンディーのような社会の猛者は、様々な方法で平和の時代を招きいれようとしましたが、そのような努力は霊的に進化した聖人たちによって霊的に導かれておらず(to inspire、霊感を与える、霊感で導く)、祝福されてもいないので、成功しておらず、未来においても成果を上げることはありません。

一元論者、すなわちマーヤーヴァーディーの神は、食べることも見ることも聞くこともできません。そのようなでっち上げられた、形のない神は、決して世界に平和をもたらすことはできません。感覚器官を持たない神が、どうやって人々の悲惨さを見たり、彼らの心からの祈りを聞いたりすることができるでしょうか?

霊的な真実を探るという名目でそのような形のない神を崇拝することは、世界に不運をもたらすことができるだけです。決して幸運をもたらすのではありません。哲学のマーヤーヴァーディー学派では、純粋な知識に関する議論が完全真理の本当の性質に幾らかの光を当てることができますが、それらは至高の完全存在の秘儀的で(esoteric、深遠な)個人的な側面を完全に明らかにすることはできません。

これらの無味乾燥な、経験主義的な議論は、その対象、すなわち完全真理の完全な理解には、遠く及びません。したがって、マハトマ・ガンディーのような指導者が、形のないエネルギーではなく至高の完全人格を認識しようと励みさえすれば、彼らは本当に人間社会に恩恵を与えることができます。

(第5段落)制約された人間は、この物質の体と心の扱いに長けています。これらの全くの(gross、「卑しい」という意味もある)物質主義者たち、物質的な活動を超えたものを見ることができない者たちは、私たちの物質的な宇宙の他に霊的な宇宙が存在するということを信じるのを不可能だと思います(「信じることができません」)。

自分を完全に体と思い込んでいるため(to identify with)、そのような物質主義者たちは単に食べ、眠り、性交し、身を守っており、動物のようです。彼らはこれらの4つの動物的な性質によって非常に魅了されているので、罪深い活動と敬虔な活動の間の違いを知る力を失います。

彼らはわずかな感覚の満足のために疲れを知らずに努力しますが、彼らのすべての努力は無益に終わります。多くの現代の科学者たちは、利益がなく破滅的な(fatal、致命的な)そのような卑しい(gross)活動を促す(to facilitate、容易にする)神父の役割を買ってでました(to take up the role of)。

これらの科学者たちは、単に感覚をくすぐることを目的とした様々な製品を作り出し、そうして物質主義者たちの間に非常に危険な(deadly)競合的な雰囲気を作り出し、それは次に社会に不快な(obnoxious)雰囲気を作り出しました。

人々は、そのような感覚的な活動を通して自由で独立した状態になると考えます。しかし事実は、彼らは鎖にもっと強く縛られるようになります。彼らが蓄えた富が大きければ大きいほど、彼らの不安と悪行(depravity、堕落、腐敗)も大きくなります。

唯一の享楽者であるという至高主の立場を彼らが奪おうとすれば、彼らはその分だけ、そしてそれ以上に、恐ろしい死の脅し(jaws、顎)に引きずり込まれます(「ますます死の恐怖に晒されます」)。そしてこれらの活動は、ほんのわずかな栄養だけを必要とする、体を維持するなどのとても単純で基本的な活動を(訳注:「体を維持することは本来わずかな栄養を要するだけの活動であり、そのような本来とても単純で基本的な活動を」)、非常に困難な(herculean、ヘラクレスのような大力を要する)仕事にします。

(第6段落)全くの(gross、「卑しい」という意味もある)物質主義者のこの卑しい(mean、さもしい、下品な)階級より一段高いのは、魂の転生を信じる者たちです。これらは、施しをするなどの敬虔な行いをする、結果を求めて働く者たちですが、彼らの唯一の目的は、自分の次の生が贅沢と感覚の楽しみのそれであるようにする、というものです。

これらの、結果を求めて働く者たちのどちらの階級も、敬虔な活動と罪深い活動の両方が呪縛を生じさせるということを知りません。これらの物質主義者たちは、カルマ・ヨガ、すなわち結果を求める欲求なくして行われる活動が活動の最良の形であることを知りません。

したがって彼らはしばしば、カルマ・ヨギーは全くの物質主義者と同じくらいこの物質世界に執着していると考えます。しかし、カルマ・ヨガの唯一の目的は、社会の人々を彼らの利益のために指導することです。主クリシュナとして、至高の人格神はバガヴァッド・ギーター(3.25)においてこうおっしゃいます。

「無明な人々が結果に執着しつつ自分の義務を果たすように、学識のある人々も、人々を正しい道において導くために、しかし執着はなくして、同様に活動するかもしれません。」

(第7段落)他の人々のように、完全真理を知った賢人も自分の体を維持します。しかし違いは、彼らのすべての活動の目的は主ヴィシュヌを満足させることだということです。一般の大衆は間違って、賢人の活動は自分たちのそれと同じだ、と考えるかもしれませんが、実は賢人たちは結果を求める活動ではなくカルマ・ヨガを行っています。

(第8段落)現代では、私たちの世界の中に様々な形で現代の科学と技術の大きな広がりが見られ、それは社会をカルマの危険な循環の中にもっともっと呪縛させました。巨大な工場、大学、病院などは、確かに社会をカルマの循環に絡み付けます。

過去の時代には、全くの物質的な活動のためのそのような巨大な、複雑な仕組み(arrangements)は全くありませんでした。間違っていて、単に悪い関わりが、無知な(innocent、罪の無い)大衆を卑しい活動に固く縛り付けました。しかし、学識のある人々、すなわちカルマ・ヨギーたちは、どうやってこれらすべての活動を主の満足のために行うかを社会に見せることができます。

(第9段落)かつて、賢人たちはほとんどすべての家庭で主ヴィシュヌの神像が崇拝されるように手配し、それによって人々がカルマ・ヨギーになる雰囲気を作りました。同様に、今、巨大な工場、会社(merchantile firm、商業企業)、病院などで主ヴィシュヌを崇拝して奉仕をするための同様の手配が緊急になされねばなりません。

これは、霊的な旗印の下で人々の間に本当の平等を確かに確立することができます。主ナーラーヤナは貧しくありません。主は主たちの至高の主です。そしてそのため、貧しい人々が「ナーラーヤナ」であると言おうとする試みは愚かです(訳注:貧しい人に物質的な施しをすることをNarayana Seva(ナーラーヤナ・セヴァ)『主への奉仕』という) 。

むしろ、主の崇拝と奉仕を広く組織することで、人は貧しい人々を含め、すべての人に大いに恩恵を与えることができます。至高の人格神はご自分を多くの形に顕現なさいますが、一般に賢人たちは、神像として奉仕して崇拝するために、主の様々な形の(うちの)3つを選びました。

それらは、ラクシュミー・ナーラーヤナ、スィーター・ラーマ、そしてラーダー・クリシュナです。これらの3つの神像の御二人(couple)は、インド亜大陸全体で広く崇拝されています。したがって、私たちは大きな工場と企業の所有者たちに、自分の会社(establishment)でこれらの3つの神像のどれかの崇拝と奉仕を習慣づける(to establish、確立する)ことをお願いします。

それから所有者たちは、プラサーダム、お供えの食べ物を皆に配ることができます。この実践は、労働者と所有者の間のいかなる意見の相違も繕うことができます。なぜなら、どちらもカルマ・ヨギーになるからです。

(第10段落)ほとんどの工場労働者や他の単純労働者(laboror)は良い性質を維持することができず、そのため悪行に滑り落ちます。そしてもしもそのような落伍者(derelict、見捨てられた者)が人口の中に増えると、世界は豊かで幸運な未来への機会を持ちません(世界に~は望むべくもありません)。

しかし、もしも所有者たちが自分の労働者や事務員たち(office staff)にプラサーダムを与えるなら、それなら与える者と受け取る者の両方が徐々に浄化され、至高主にもっと魅了されるようになります。社会全体が高められ、文明化され、調和の中で結びつくようになります。

他方で、自分の自己中心的な利益(interest)だけを達成しようとすることによって、所有者たちは、いかなる調和や結びつきも、脆いだけでなく危険であるような状況を作ります。そして、所有者が自分の愚かな(crass、愚鈍な)自己利益を追求する中でこれらの堕落した労働者たちを解雇するとき、所有者自身も労働者も利益を受けません。まもなく、労働者たちは自動的に自分たちの雇用者に対して敵意を持つようになります。

(第11段落)労働者たちと上司たちが、主ヴィシュヌを喜ばせるためのものではなく、実際に主にとってやっかいな(troublesome)活動を行うとき、彼らは互いに言い争って戦う結果になり、そうして社会にひどい状況を作り出します。

共産主義者と社会主義者は、自分たちの主義を宣伝するのにお金と知性と、そして生命さえも費やしています。ボルシェヴィキ(共産党員)たちは、ロシアの地全体を崩壊させ、大規模な豊かな家庭生活という人々の夢を叶えることを約束して反乱を起こしました。

労働組合は常に雇用者と争っています(at odds)。これらすべての複雑な問題には、一つの単純な解決策があります。誰もがカルマ・ヨガ、すなわち至高主を喜ばせるための仕事をすべきだ、というものです。

(第12段落)互いに密接で調和のとれた関係を築くために人間が行った努力は、国際連合に極まりました。この組織は、家族(family unit)という概念に基づいています。家族から大きな地域共同体へ、村へ、州(state)へ、国へ、そして最後には大陸へと徐々に拡大することが、国際連合の形成のための糸口となりました。

しかし、注意すべきはその中心です。何が中心的な魅力でしょうか?もしも拡大の過程が反対にされるなら、私たちは基本単位として人間の体に行き着きます。体では、感覚が最も大切です。感覚よりもっと大事なのは心、それから知性、そして最終的に偽りの自我です。そして、偽りの自我よりもっと大切なのは本当の自己、至高主ヴィシュヌの欠かすべからざる小片である純粋な霊的な存在です。したがって結論は、すべてのものの源泉は主ヴィシュヌであるというものです。

この理由により、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいました。「物質的な人生を楽しむという意識によって強く囚われている者たち、そして、したがって自分たちの指導者、すなわちグルとして、外的な感覚の対象に執着している似たような盲目の者を受け入れた者たちは、人生の目的は家に、至高神のもとに戻ること、そして主ヴィシュヌへの奉仕に携わることである、ということを理解することができません。」

(第13段落)中心を見失い、外的なものに魅了される者は、浅はかであり、誤って導かれています。これらの誤って導かれた人々は、ある意味では盲目です。そのため、世界は彼らに、啓蒙(enlightenment)への何らの導きをすることも期待することはできません。しかし、多くのこれらの盲目の人々は、他の盲目の人々を導いて利益を与える振りをするかもしれず、事実は彼らは天の意思によって完全に統御されています。

私たちは、すべてのものの原因と源は主ヴィシュヌ、完全真理であるということを、そしてこの完全真理の最も完全な顕現は主ヴィシュヌの源でさえある主クリシュナであるということを、理解する努力をすべきです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.7)においてこうおっしゃいます。「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。」

(第14段落)このように、すべてのものの究極の源は、まことに主クリシュナご自身、すべてを魅了する至高の人格神です。相当な熟考の後、過去の賢人たちは、主クリシュナが至高存在、至高の完全真理のすべての拡張体と顕現の源である、と結論づけました。シュリマッド・バーガヴァタム(1.3.28)は、このように宣言します。

「上記の化身のすべては、主の完全な部分、あるいは完全な部分の部分ですが、主シュリー・クリシュナがもともとの至高の人格神です。。。」

後に、私たちは主ヴィシュヌの拡張体という主題をもっと完全に論じますが、今は主クリシュナが至高存在の最高の側面であるということを確立させましょう。ブラーマ・サムヒター(5.1)は、これを確認しています。「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは、至高の人格神です。主は永遠の、喜びに溢れた霊的な体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他に源を持たず、主はすべての原因の根源的な(prime)原因です。」

(第15段落)このように、もしも私たちが物質的な体とその身体的な関係(訳注:physical relationships、家族その他の関係を指すものと思います)を超越して、主クリシュナ、もともとの至高神を通して誰もと繋がるようになるなら、わたしたちは真実と現実の水準において(互いに)関係することができます。そうすれば、同胞愛(fraternity、兄弟愛、人類愛)と平等の実際の意味が結晶化するでしょう。                                                               
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by ammolitering4 | 2013-06-28 16:02 | 「英知による放棄」 | Comments(0)
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