第1部 第6章

第6章 人生の唯一の目的地

(第1段落)私たちの目標は、物質的な世界で得られる一時的な平和と幸せではありません。生命体である(as living entities)私たちは永遠であり、そしてそのため、永遠の幸せが私たちの主な目的(motive、衝動、動機)であるべきです。

それでも私たち魂は、14の物質的な惑星系を上がったり下がったりし、幻想の平和と喜びを追い、大量の血とエネルギーを費やして、何百万もの体を替えます。私たちが悪魔に取り付かれたように(demonically)追う永遠の平和と幸せは、常に私たちを避けます(to elude、巧みに身をかわして逃げる)。私たちは、本当の平和と幸せがどこで得られるか知りません。プラーラーダ・マハーラージャはシュリマッド・バーガヴァタム(7.9.25)の中でこうおっしゃいます。

「この物質世界の中で、すべての生命体はちょうど砂漠の中の蜃気楼のような何らかの未来の幸せを欲します。砂漠の中で、水はどこにあるのでしょうか?あるいは、言い換えれば、この物質世界の中で幸せはどこにあるのでしょうか?」

(第2段落)真実を探し求める中で、私たちは道を外れ、物質的な体と心という船に依り頼み、どこにも陸地が見えないままで物質的な存在という海の中を目的もなく旅します。無慈悲に翻弄され、私たちは鬱々と考え込みます。「天の配剤において、人は何らの休息も得ることができない。」

私たちの究極の目的地は主ヴィシュヌ、至高の人格神であることを知っていさえすれば!そうすれば、私たちは自分の苦しみを終わらせることができます。この事実に関する私たちの無知をかき消すために、私たちはすべての活動を主ヴィシュヌの満足のための犠牲として行わなければならない、と主クリシュナは私たちにお教えになりました。

リグ・ヴェーダはこれを確認しています。「主ヴィシュヌはすべてのものの至高の拠り所(shelter、避難所)です。すべての半神たちは常に主を瞑想しています。」このように、私たちは半神たちもまた主ヴィシュヌの蓮の御足を自分たちの至高の目的地と考えていることを知ります。

そして彼らは、単にすべての活動を主の喜びのために行うことによって解放されます。危険な(vicious、悪意のある、凶暴な)カルマの循環からの解放を望む者は、自分の最終的な目的地として主ヴィシュヌの蓮の御足を定めねばなりません(to have)。そうでなければ、彼は悪魔的になるしかありません(will have to)。

(第3段落)ヴァルニャーシュラマの生き方、すなわちサナータナ・ダールマを辿る者は、今ではヒンズー教徒と呼ばれます。彼らの先祖たち、特に上位のカースト、すなわちブラーマナ、クシャトリヤ、そしてヴァイシャに属していた者たちは、自分たちの人生の中心に主ヴィシュヌを置きました。

人生のすべての段階において、特に家庭人の段階において、人々は主の満足のために献身奉仕を行って、家庭で主ヴィシュヌを崇拝しました。ごく少数の非常に献身的な魂は、今日でさえそうし続けています。彼らは主への奉仕のためだけにお金を集めます。

彼らはそのお金で穀物と野菜を買い、それを献身の念をもって料理し、そして主ヴィシュヌに捧げます。その後、献身者はこのプラサーダム、すなわち食べ物の形をした主の恵みに対し、それを食べることによって敬意を払います。

これらすべての活動の中で、主ヴィシュヌが享楽者であり、人は主を喜ばせる方法を探し求めます(one seeks to please Him)。過去において、時代はそのような活動に伝導的でした(訳注:かつてはそのような活動が広く行われていました。)そして今でさえ、それらは多くの場所で実践されています。実際は、そのような献身奉仕は、すべての人に、すべての場所に、そしてすべての時(to all times)にあてはまります。

(第4段落)主ヴィシュヌは至高の人格神、すべてのものの目的地です。すべての仕事を主の満足のために行うことは、結果を求める活動の循環、すなわちカルマからの解放の道を開く唯一の方法です。すべての前向きで(progressive)利益のある活動が至高主、ヴィシュヌの喜びのために為されることが勧められています(訳注:~のために~をすることが勧められています)。

聖典の言葉を繰り返して、学識のある賢人たちは、「主ヴィシュヌの蓮の御足に至ることは解放されることと同じである」と宣言します。カルマ・ヨガの過程における最後の段階は主ヴィシュヌを満足させることであり、その時点で人の独自の欲求(one's own desire)は自動的に満たされます。

この点を明確に述べながら(to delineate)、主クリシュナは、もしも仕事がご自分の満足のために為されないなら、それならすべての活動は罪で汚され、罪深い反応という結果になり、それは社会に大混乱をもたらす、とおっしゃいます。

バガヴァッド・ギーター(3.13)において、主クリシュナはこうおっしゃいます。「主の献身者は、あらゆる種類の罪から解放されます。なぜなら、彼らはまず犠牲のために捧げられた食べ物を食べるからです。個人的な感覚の楽しみのために食物を調理する他の者たちは、まことに罪だけを食べます。」

(第5段落)上に述べられたような方法で食べ物を調理して食べることは、至高主ヴィシュヌへの奉仕です。時として、それを為すことにおいて何らかの罪が犯されているように見えるかもしれません。しかし、もしも人が犠牲、すなわち主ヴィシュヌへの捧げ物の残りを取って食べる(to honor、敬意を払う)なら、それなら人は自動的にすべての呪縛する反応を免れ、解放されます。

私たちは罪を避け、そして非暴力の道を厳しく辿ろうとして非常に注意深く生きるかもしれませんが、それでも私たちの人生はカルマの反応の循環によって統御されます。したがって、私たちは知らずに多くの種類の罪を犯すことを強いられます。

私たちは仕事の上で(business transactions)、普通のやり取りで(common human dealings)、日々の雑用で(daily chores)、そして特に政治的および行政的(administrative)な活動において、非常に多くの罪を犯します。

大声で非暴力を支えるのは構いません(it is fine)が、実際の暮らしにおいて人は暴力行為を犯すことを強いられます。人は多くの種類の罪を避けることに成功するかもしれませんが、パンチャ・スーナーと呼ばれる5つの大きな罪を犯すことを逃れることは不可能です。

道を歩いているとき、私たちは望まずして多くの蟻を潰して殺すかもしれません。家を掃除している間に、私たちは多くの虫を潰して殺すかもしれません。穀物を挽いて粉にしたり火を灯したりする間に、私たちは多くの小さな命を滅ぼします。

このようにして、普通の、日々の雑用を為す間に、私たちは暴力をふるって多くの罪のない命を奪うことを強いられます。意図的に、あるいは意図せずして、私たちは罪を犯します。そのため、人間の脳によってでっち上げられた宗教が人にそれ(宗教)自身のために非暴力の道を辿るように促すとき(訳注:「それ自身のため」というのはその宗教の独自の教えに基づいてという意味と思われる)、それは必ずある者に利益を与え、別の者に困難を与えます。

(第6段落)精神的に(mentally、頭で)作り上げられた信念(belief)によって起こされた災難を免れることは不可能です。人工の法律によれば、もしもある人が別の人を殺せば、彼は絞首刑を宣告されますが、動物を殺すことに対しては、その人に対して何らの行為も為されません。

天の法はそのようなものではありません。神の法は、人と動物の両方の殺害者を罰するというものです。無神論者は、神の存在を否定します。なぜなら、彼らはそうすることで妨げられずに罪を犯すことができると考えるからです。

しかし、すべての明かされた、権威ある聖典は、家庭人は自分の普通の日々の活動を行う間に、罪のない生き物を殺すことによって、意図的に、あるいは意図せずして多くの罪を犯す、と述べます。これらの罪からの解放を得るために、家庭人は特定の犠牲を捧げることを命じられます。これらのうちで主要なものは、主ヴィシュヌに捧げられた食べ物の残りを食べて敬意を払うことです。

自分の感覚的な喜びのためだけで、主ヴィシュヌへの奉仕のためではなく食物を料理する自己中心的な家庭人に関して言えば、料理して食べている間に起こったすべての罪深い反応を苦しまねばなりません。これが天の法です。したがって、これらの罪を捨てるために、ヴェーダの宗教の信者たちは自分の家庭の活動を主ヴィシュヌへの奉仕に捧げます。

(第7段落)したがって、社会の指導者たちは主ヴィシュヌの満足のために献身奉仕をすることが勧められます。彼ら自身の利益のため、そして彼らが導く者たちの利益のためです。主クリシュナは、シュリー・アルジュナにバガヴァッド・ギーター(3.21)においておっしゃいます。

「何であれ、偉大な人の為すことを一般の人々はなぞります(to follow)。そして、何であれ彼が手本となるような行いによって定める水準を世界中が追求します。」誰もが彼らの例に倣うので、指導者たちは主ヴィシュヌへの献身奉仕の過程を注意深く研究することを要求されます。

これらは彼らの義務です。そのため、人間の社会の利益のために、献身奉仕の知識を教える(to impart、知識を授ける)大学を建てる大いなる必要性があります。

(第8段落)悲しいかな!今は社会の指導者や猛者(stalwart、強い信念を持った頑強な人)と見なされる人々が、他の人々よりももっと激しく(viciously、悪意をもって)神に反目している時代です(The times are such that ~)。

したがって、主ヴィシュヌの満足のための何の献身奉仕を彼らは為すことができるでしょうか?そして、もしも彼らが献身奉仕を為すことができないなら、それなら彼らはどうやって自分の無数の罪からの解放を得るでしょうか?

もしも社会の猛者に、主ヴィシュヌが偏在する完全真理であると、そして主は同時に人(person)であり無形でもあるためにあまねく存在する、と宣言する意思がないなら、それなら、より劣った者、路上の者は、この深遠な主題について何を理解することができるでしょうか?

至高主はすべてのものの唯一の所有者です。私たちはこの物質世界の享楽者および所有者の立場を取ることはできません。何であれ、至高主が慈悲深く私たちにご自分の残り物として与えてくださるもの、それだけを私たちは受け入れるべきです。

私たちは決して他者の所有物を欲してはなりません(must never、非常に強い否定)。イーショパニシャッドにはこう述べられています。「宇宙の中の動くものと動かないもののすべては、主によって統御され、所有されています。

したがって人は、自分の分として取り分けられた、自分にとって必要なものだけを受け入れるべきです。そして、人はそれが誰に属しているかをよく知って、他のものを受け入れるべきではありません。」

(第9段落)社会の指導者たちが自分のすべての活動の中心に至高主、ヴィシュヌを置くときにだけ、これらの活動は指導者自身に、そして彼らに従う者たちにも幸運と恵みをもたらします。しかし、もしも指導者たちが自分の活動を主ヴィシュヌのために行うことを避け、そしてその代わりに自らヴィシュヌの振りをするなら、つまり自分に従う者たちから崇拝と富と賞賛を受け、そして彼らに同じものを残り物として返すなら、それなら他の者たちは彼らの偽りの放棄に魅了され、そうして滅亡への道を辿るかもしれません。

しかし、それ以上の何も得られません。そのような指導者たちは、自分の無知な追従者(sycophant、ゴマをする者)を無駄に興奮させ、彼らに多くの罪深い活動をさせます(to induce、誘って何かをする気持ちにさせる)。

このようにして、そのような自己中心的な指導者たちは、単に自分自身の栄誉、崇拝、そして富を増すためだけに、自分に従う者たちの滅亡をもたらします。不幸にして指導者たちは、これらのわずかな量の栄誉、崇拝、そして富は彼らの死と共に焼かれて灰になる、ということを知りません。

しかし、これらの一時的な物質的な利益を得るために使われた罪深い方法は結果を生じさせ、それはそれから非常に微妙に(subtly)彼らのかすかな(subtle、繊細な、薄い)体、すなわち心、知性、および偽りの自我と混ざります。

そしてこれらの結果は後にさらなる罪深い行いの種となり、それは幾生も繰り返してカルマの反応の循環の中に魂を呪縛し、彼が多くの異なる生命の種を辿ることを強います。
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by ammolitering4 | 2013-06-06 09:21 | 「英知による放棄」 | Comments(2)
Commented by bvd at 2013-06-15 00:40 x
どうもありがとうございます。時間をつくってゆっくり読みますね。
Commented by 葉子 at 2013-06-15 09:57 x
こちらこそ、いつも辛抱強く待って楽しみに読んでくださり、とても嬉しいです。いつもながら素晴らしいご本です。YouTubeでチャンティングを聞きながら作業をしています。
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