第17段落
その荘厳で純粋な知識とは何でしょうか?それは、私たちは神の欠かすべからざる一部である、そして私たちは自分の意識を至高の意識と繋げるべきものである、という知識です。これが物質世界における最も純粋な知識です。 ここでは、すべてが物質自然の相―――徳、熱情、そして無明―――によって汚染されています。徳もまた、一種の汚染です。徳において人は自分の立場と超越的な主題その他について気づくようになりますが、彼の欠陥は、「今、私はすべてを理解した。もう、私は大丈夫だ」と考えることにあります。 彼はここに留まりたいと思います。言い換えると、徳の相にある者は第一級の囚人になり、そして刑務所で幸せになるため、そこに留まりたいと望みます。そして、熱情と無明の相にある者については、何をか言わんや? 要点は、私たちは徳の特質でさえも超越しなければならない、というものです。超越的な立場は、アハム・ブラーマースミー―――「私はこの物体ではなく、霊である」―――という認識で始まります。しかし、この立場さえ不安定です。より多くのものが必要とされます。 (サンスクリット引用) 「このように超越的に位置している者は、直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを得たいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です。その状態において彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(Bg.18.54) 第18段落 ブラーマ・ブーターの段階において、人はもはや物体と(訳注:自分を)同一視しません。人がブラーマー・ブーターの水準において確立したことの最初のしるしは、彼が陽気(プラサンナートマー)になるということです。その水準においては、嘆きも渇望もありません。 しかし、たとえ私たちがこの水準に上がっても、クリシュナへの愛情ある奉仕を習慣づけなければ、再び物質的な渦に落ちる可能性があります。(原文:But even if we rise to this stage and do not take to the loving service of Krishna, there is the possibility of falling down again into the material whirlpool.校正:But even if we rise to this stage, provided we do not take to ~) 私たちは非常に空高く上がるかもしれませんが、もしもそこに拠り所(shelter、避難所)を持たないなら、もしもどこかの惑星の上に着地しないなら、私たちは再び落ちます。単にブラーマ・ブーターの水準を理解することは、私たちがクリシュナの蓮の御足に依り頼まない限り、私たちを助けません。私たちがクリシュナへの奉仕に携われば直ちに、もはや再び物質世界に落ちる可能性はありません。 第19段落 私たちの性質は、何か携わることを欲する、というものです。子供は何か悪さをするかもしれませんが、何かすること(engagement)を与えられない限り、彼はいたずらをしないでおくことができません。何かおもちゃを与えられると、彼の注意はそらされ、彼のいたずらな活動は止まります。 私たちはちょうどいたずらな子供のようです。そしてそのため、私たちは霊的な仕事(engagement)を持たねばなりません。単に自分は霊魂であると理解することは助けになりません。自分は霊であると理解して、私たちは霊的な仕事によって霊を維持しなければなりません。 人がすべての物質的な仕事を放棄し、家と家族を捨てて放棄階級、サンニャーサとなり、しばらくの間瞑想した後で、幾つかの病院を開くことや政治に関わることによって博愛的な仕事をし始めることは、インドでは珍しくありません。 病院を建てる仕事は政府によってなされています。それによって人々が自分の物質的な体を、修復するのではなくて実際に捨てることができる病院を作るのは、サンニャーサの義務です。しかし、本当の霊的な活動とは何かを知らないため、私たちは物質的な活動をします(to take up、従事する)。 第20段落 クリシュナ意識において完璧になることによって、やがて知識と英知が見出されます。最初は何らかの挫折(discouragement、落胆、失望、支障)があるかもしれませんが、「やがて」を意味する「カーレナ」という言葉は、もしも単に辛抱するなら私たちは成功する(will)、ということを示します。次の節に述べられているように、信仰(faith)が必要とされます。 (サンスクリット引用) 「超越的な知識に浸っていて、自分の感覚を抑える信仰深い(faithful)者は、すぐに至高の霊的な平和を得ます。」(Bg.4.39) 第21段落 躊躇していて、何の信仰(faith)も持たない者にとって、クリシュナ意識は非常に難しいものです。私たちの日常の事柄においてさえ、ある程度の信頼(faith)が必要とされます。切符を買うとき、私たちは「航空会社が自分を目的地に連れていってくれる」という信頼を持っています。 信頼なくして、私たちは物質世界の中で生きることさえできません。霊的な発達を遂げることに関しては、何をか言わんや?(校正:疑問符が抜けている)私たちはどこに信頼を置けばよいのでしょうか?(Where are we to keep our faith?)権威にです。 私たちは、自分の切符を正式に認められていない会社に予約すべきではありません。信頼はクリシュナ、バガヴァッド・ギーターの話者に置かれねばなりません。私たちはどうやって信仰深く(faithful)なるのでしょうか?感覚の統御(サムヤテンドリヤー)が必要とされます。 私たちは、自分の感覚を満足させたいがため、物質世界にいます。もしも私たちが、医者が自分を治してくれる、という信頼を持っていて、そして彼が私たちに「これこれの物を食べるな」と言い、そして私たちがどちらにしてもそれを食べるなら、私たちはどのような信頼を持っているのでしょうか? もしも私たちが自分の医者に信頼を持っているなら、私たちは治癒のための彼の処方に従います。要点は、私たちは信頼をもって指導に従わねばならない、ということです。そうすれば英知が訪れます。私たちが英知の段階に至るとき、結果はパラーム・シャーンティム―――至高の平和です。 クリシュナは、「人が感覚を統御するとき、信仰は近い将来(アチレナ)に訪れる」と示されます。クリシュナへのその段階の信仰を得たとき、人は自分が世界で最も幸せな者だと感じます。これが私たちの立場です。私たちは処方(formula)を受け入れて、それを信頼をもって実行しなければなりません。 この信頼は、三流の人にではなく、至高の権威に置かれねばなりません。私たちは信頼を置くことのできる霊的指導者を探し求めねばなりません。クリシュナは最も権威のある名士です。しかし、クリシュナ意識である誰でもが(訳注:霊的指導者として)受け入れられ得ます。 なぜなら、完全にクリシュナ意識である人はクリシュナの真正なる代理人だからです。クリシュナの代理人の言葉を味わうと、私たちは満足を感じます。ちょうど、私たちが十分な食事をしたときに満足を感じるようなものです。 (サンスクリット引用) 「しかし、明かされた聖典を疑う、無知で信仰のない(ignorant and faithless)者たちは、神意識を得ません。疑い深い魂には、この世界にも次のにも、幸せはありません。」(Bg.4.40) 第22段落 この知識の道を辿ることを躊躇する者には、機会はありません。躊躇は無知(アジニャス・チャ)が原因です。クリシュナ意識を習慣づけることを躊躇する者にとっては、この物質世界でさえ幸せではないでしょう(will)。そして次の世については何をか言わんや?物質世界は既に悲惨です。 しかし、もしも人が信仰を持たないなら、それはもっと悲惨でしょう(will)。このように、信仰のない者にとって、状況は非常に不安定です。私たちは銀行に何千ドルも預けるかもしれません。なぜなら、私たちは銀行が潰れないという信頼を持っているからです。 もしも私たちが銀行や航空会社に信頼を持っているなら、なぜ非常に多くのヴェーダ文献によって、そして非常に多くの賢人たちによって至高の権威であるとして認められているシュリー・クリシュナに信頼を持たないのでしょうか? 私たちの立場は、シャンカラーチャーリャ、ラーマーヌジャチャーリャ、そしてチャイタンニャ・マハープラブなどの偉大な権威者の足跡を辿るというものです。もしも私たちが自分の義務を果たすことと彼らの足跡を辿ることによって自分の信仰を保つなら、成功は保証されます。 第23段落 前述のように、私たちは完全真理を見た者を探し求めて彼に服従し、彼に奉仕をしなくてはなりません。これがなされるとき、人の霊的な救済に疑いはありません。誰もが神を見たいと切望しています。しかし、私たちの人生の現在の段階では、私たちは制約されており、幻惑されています。 私たちは物事のありのままの姿について何も知りません。私たちはブラーマンであって、もともと陽気なのですが、どういうわけか、私たちは自分の本来の立場から落ちてしまいました。私たちの性質はサック・チッド・アーナンダ、永遠で、喜びに満ち、知識に満ちています。 しかし、この体は死ぬことが運命づけられており、存在している間は無明と悲惨さに満ちています。感覚は不完全であり、そしてそれらを通して完全な知識を得るのは可能ではありません。したがって、バガヴァッド・ギーターの中で、「もしも超越的な知識を学びたいと少しでも望むなら、私たちは実際に完全真理(タッド・ヴィッディー・プラニパーテナ)を見た者に近づかねばならない」と述べられています。 伝統的に、ブラーマナは霊的指導者になることになっています(be meant to be)。しかし、このカリの時代においては、資格のあるブラーマナを見つけるのは非常に困難です。結果として、資格のある霊的指導者を見つけるのは非常に困難です。 したがってチャイタンニャ・マハープラブは、(サンスクリット引用)を勧められました。「人がブラーマナ、あるいはシュードラ、あるいはサンニャースィー、あるいは家庭人であれ、それは関係ありません。もしも彼がクリシュナの科学を知っているなら、彼は真正なる霊的指導者です。」 第24段落 バガヴァッド・ギーターはクリシュナの科学であり、もしも私たちがそれを自分の議論、感覚、そして哲学的な知識のすべてをもって詳細に研究するなら、私たちはその科学を知るようになるでしょう。私たちが自分を盲目的に服従させるべきだというのではありません(訳注:私たちは盲目的に服従すべきなのではありません。) 霊的指導者は自己を認識していて完全真理に位置しているかもしれません。しかし(yet)私たちは、すべての霊的な要点を理解するために彼に質問しなければなりません。もしも人が本当にクリシュナの科学に関して質問に答えることができるなら、どこで生まれたか、あるいは何であるかに関わらず―――ブラーマナ、あるいはシュードラ、あるいはアメリカ人、インド人、あるいは他の何であれ―――彼は霊的指導者です。 医者に行くとき、私たちは彼に、彼がヒンズー教徒、キリスト教徒、あるいはブラーマナであるかと尋ねません。彼は医師の資格を持っており、私たちは「先生、私を治療してください。私は苦しんでいます」と言って単に服従します。 第25段落 クリシュナは霊的な科学の究極の目的地です。もちろん、私たちがクリシュナについて語るとき、私たちは神を指しています。世界中、そして宇宙中に神を指す(for)多くの名前があります。しかし、ヴェーダの知識によれば、クリシュナが至高の名前です。 したがって、主チャイタンニャ・マハープラブは、この時代における(自己)認識のための至高の方法として、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることを勧められます。 チャイタンニャ・マハープラブは、カーストあるいは社会的な地位に何の区別もつけられませんでした。実に、主の主要な弟子のほとんどは、社会において堕落していると考えられていました。チャイタンニャ・マハープラブは、イスラム教徒であったハリダーサ・タークラをナーマーチャーリャ、すなわち聖なる御名の教師として任命することさえなさいました。 同様に、主チャイタンニャの主な弟子の二人であるルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーは、かつてサーカラ・マッリクとダビル・カースとして知られており、彼らはイスラム政府によって雇われていました。当時、ヒンズー教徒は非常に厳格だったので、もしもブラーマナがヒンズー教徒でない者からの奉仕を受け入れたなら、彼は直ちにヒンズー教徒社会から追放されました。 これにも関わらず、ルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャ・マハープラブによってクリシュナの科学における主要な権威とされました。ですから、誰にも制約はありません。もしもクリシュナの科学を知っているなら、誰でも霊的指導者になれます。 これが唯一の資格であり、そしてこの科学の本質がバガヴァッド・ギーターの中に含まれています(this science in essence is contained in)。現時点では、世界中にこの偉大な科学を広めるために何千人もの霊的指導者が必要とされています。 第26段落 私たちは、クリシュナがバガヴァッド・ギーターの中でアルジュナに語っているとき、主は単にアルジュナだけでなく人類全体に語っていらっしゃるのだと理解すべきです。シュリー・クリシュナご自身が、「単にクリシュナの科学を知っていることによって、アルジュナは幻想の影響を受けない(ヤジ・ジニャートヴァー・ナ・プナル・モハム)」と宣言なさいます。 もしも非常に良い船を持っているなら、私たちは簡単に大西洋を渡ることができます。現在では、私たちは無明の海の只中にいます。なぜなら、この物質世界は無知の巨大な海になぞらえられているからです。したがって主チャイタンニャ・マハープラブは次のようにクリシュナに祈りました。 (サンスクリット引用) 「おお、マハーラージャ・ナンダの息子よ。私はあなたの永遠の従者です。そして、そうであるにも関わらず、どういうわけか私は誕生と死の海に落ちてしまいました。どうか私をこの死の海から拾い上げ、あなたの蓮の御足の下で(at)原子の一つとして据えてください。」(スィクシャーシュタカム、5) 第27段落 もしも私たちが完璧な知識という船を持っているなら、恐れはありません。なぜなら、私たちは非常に簡単に海を渡ることができるからです。たとえ人が非常に(most)罪深かったとしても、もしもクリシュナの科学という船を受け取るなら、彼は非常に簡単に海を渡ることができます。 前述のように(Bg.4.36)、私たちが過去の生において何であったかは関係ありません。無明の中にあったため、私たちは非常に多くの忌まわしい行いをしたかもしれません。実に、誰も「自分は罪深い行いから自由である(訳注:~はしていない)」と言うことはできません。しかし、バガヴァッド・ギーターによれば、これは関係ありません。ただクリシュナの科学を知ることによって、人は自由になります。 第28段落 したがって、私たちが知識を探し求めることが、絶対に必要です。そして知識の完成はクリシュナを理解することです。今日では非常に多くの理論があり、そして誰もが生きるための最良の方法を知っていると主張します。そのため、非常に多くの「主義」が発達しました。 これらのうち、共産主義は世界で非常に有力になりました。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムの中に、私たちは霊的な共産主義のための種を見出します。そこでナーラダ・ムニは、この物質宇宙の中では―――人が低位、中位、あるいは高位の惑星系にあろうが、あるいはその外(outer space、通常は宇宙空間を指す)にいるのであってさえも―――すべての自然の資源は至高主によって顕現される、と説明します。 私たちは、何であれこの世界に存在するものはどの人間によって作られたものでもなく、すべては神によって作られたのだ、と理解しなければなりません。どの正気な者もこれを否定することはできません。シュリー・イショパニシャッドは命じます。 (サンスクリット引用) 「宇宙の中にあるすべての動くものと(or)動かないものは、主によって統御され、所有されています。したがって人は、自分の取り分として取り分けられた、自分に必要なものだけを取らねばなりません。そして人は、それが誰に属するかをよく知って、他のものを受け取ってはなりません。」(シュリー・イショパニシャッド、マントラ1) 第29段落 結果として、最高位の半神、ブラーマーから始まって最も低いアリまで、すべての生命体は自然の資源を使う権利を持っています。ナーラダ・ムニは、私たちは必要なだけこれらの資源を使うことができると指摘します。しかし、もしも私たちが必要とされる分以上を取るなら、私たちは泥棒になります。 不幸にして、誰もが征服し、支配しようとしています。国々は旗を立ててその惑星の所有権を主張するために、競って月に向かいます。ヨーロッパ人がアメリカに来たとき、彼らは自分たちの旗を立ててそれ(訳注:アメリカ)を自分の国のために主張しました(訳注:自分の国の領地だと主張しました)。 この、旗を立てることと旗を振ることは、すべて無明が原因です。私たちは、自分たちがどこに自分たちの旗を立てているのか、立ち止まって考えません。それは私たちの所有物ではなく、神のです。これを知っていることが知識であり、そしてそれが自分の所有物だと考えることは無明です。 私たちは利用する権利を持っていますが、所有権を主張したり溜め込んだりする権利は持ちません(原文:We have the right to utilize but not (the right) to claim or hoard、カッコ内の2語が抜けている)。 第30段落 もしも私たちが通りに一袋の穀物を投げるなら、ハトが来て4粒か5粒の小さな穀物を食べ、そして去るかもしれません。彼らは自分が食べることができるより多くは取りません。そして、食べるとさっさと去っていきます。しかし、もしも私たちが歩道に小麦粉の入ったたくさんの袋を置いて、来て取るようにと人々を招くなら、一人の人は10袋か20袋を取り、そして他の者は15袋か30袋取り、などということになるでしょう。 しかし、それほど多くを運んでいく手段を持たない者は1袋か2袋以上を取ることはできないでしょう。このように、分配は不公平(uneven)になります。これが文明の発達と呼ばれます。私たちは、ハトや犬や猫が持っている知識さえ欠いています。 すべては至高主に属しており、そして私たちは何であれ必要とするものを受け入れることができますが、それ以上を受け入れることはできません。それが知識です。主の配剤によって、世界はどんなものの何の不足もないようにできています。 もしも私たちがそれをどのように分配するかを知っているなら、すべては十分です。しかし、今日の嘆かわしい状態は、ある者が必要以上を取り、別の者は飢えている、というものです。結果として、飢えた群衆は反乱し、「なぜ私たちは飢えるべきなのか?」と尋ねています。 しかし、彼らの方法は不完全です。霊的な共産主義の完成は、すべてのものは神に属する、という知識の中に見出されます。クリシュナの科学を知ることによって、私たちは簡単に偽りの所有権という無明を超えることができます。 第31段落 自分の無明が原因で、私たちは実際に苦しんでいます。法廷では、無知は言い訳にはなりません。もしも私たちが裁判官に「自分は法律を知らない」と言うなら、私たちはどちらにしても罰せられます。もしも人が非合法的に非常に多くの富を集め、おそれでも自分の犯罪の無知を主張するなら、彼はそれでも罰せられます。 世界全体がこの知識を欠いています。そしてそのため、クリシュナの科学の何千人もの教師が必要とされています。今、この知識の多大な必要性があります。私たちは、クリシュナがインドに生まれたのでバガヴァッド・ギーターの知識は宗派的であるとか、クリシュナは宗派的な神であるなどと考えるべきではありません。 実に、第14章において、シュリー・クリシュナは、以前に指摘したように、ご自分をすべての存在の父(father→Father)であると主張なさいます。(Bg.14.4) 第32段落 霊魂として、私たちは至高の霊の欠かすべからざる小片です。しかし、この物質世界を楽しみたいという自分の欲求が原因で、私たちは物質自然の中に置かれました。それでも、私たちがどの生命の主であるのであれ、クリシュナが父です。 このように、バガヴァッド・ギーターは何かの特定の党派や国のためにあるのではなく、世界中のすべての人のためのもの―――動物のためのものでさえあります。今、至高存在の息子たちが、無明が原因で盗みを働いているので、この至高の知識をすべての存在に広めるのはバガヴァッド・ギーターに精通している者の義務です。このようにして、人々は自分の本当の霊的な性質と、至高の霊的な全体との自分の関係を認識するかもしれません。
by ammolitering4
| 2012-04-05 17:15
| 「知識の王」
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