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第23章 最後まで

第29段落
シュリマッド・バーガヴァタムは、生命体の完全人格(the Absolute Person)への服従で始まります。この服従は、献身者の完全存在との一体性の、そして同時に彼の従属(servitorship)という永遠の立場の、はっきりした意識と自覚(awareness)をもってなされます。

物質的な概念では、人は自分自身を自分が見る(to survey)ものすべての主であると考えます。結果として、彼はいつも人生の三重の悲惨さに悩まされます。人が超越的な奉仕における自分の本当の立場を知るようになると直ちに、彼はすぐにこれらすべての悲惨さから自由になります。従者(servitor)の立場は、人生の物質的な概念においては無駄にされます。

物質自然を支配しようとする試みにおいて、生命体は自分の奉仕を相対的な物質エネルギーに捧げることを強いられます。この奉仕が霊的な自己認識(identity)という純粋な意識において主に移されるとき(訳注:to be transferred、奉仕の対象が物質から主という別のものに変わること)、生命体は直ちに物質的な愛情という障害物から自由になります。

第30段落
以上のことよりももっと重要なのは(over and above this)、シュリマッド・バーガヴァタムはヴャーサデヴァが霊的な認識において成熟に達したときに彼によって書かれた、ヴェダーンタ・スートラの個人的な(personal、自ら書いた、直接の)注釈であるということです。

彼はナーラダの慈悲の助けによってそれを書くことができました。ヴャーサデヴァもナーラーヤナ、至高の人格神の化身です。したがって、彼の権威に疑問の余地はありません。彼はすべてのヴェーダ文献の著者であるにも関わらず、特にシュリマッド・バーガヴァタムを学ぶことを勧めます。

他のプラーナには半神たちを崇拝するための様々な方法が述べられていますが、シュリマッド・バーガヴァタムにおいては至高の人格神だけが言及されています。至高主は体全体であり、半神たちはその体の異なる部分です。そのため、もしも人が至高神を崇拝するなら、彼は半神たちを崇拝する必要はありません。

なぜなら、至高主はすべての半神たちの心の中にいらっしゃるからです。主チャイタンニャ・マハープラブは、シュリマッド・バーガヴァタムを欠陥のないプラーナであるとして勧めることによって、他のすべてのプラーナから区別しました。

第31段落
超越的な教え(message)を受け取るための方法は、受動的に聞くという方法です。挑戦的な態度は、人が超越的な教えを受け取ったり認識したりするのを助けることができません。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムの2番目の節の中で、シュシュルーシュという単語が使われています。

この単語は、人は超越的な教えを聞くことに熱心であるべきだ、ということを示しています。関心を持って聞きたいという思いは、超越的な知識を吸収する(to assimilate、学んで理解する)ための主な資格です。不幸にして、多くの人々はシュリマッド・バーガヴァタムの教えを辛抱強く聞くことに関心がありません。

過程(process、方法、手順)は単純ですが、実行(application、応用、適用)は困難です。不運な人々は、普通の社会的および政治的な話題を聞く時間はありますが、シュリマッド・バーガヴァタムについて聞く集まりに参加するように招かれるとき、彼らは参加を渋ります。

時として人々は、自分が聞く準備ができていないシュリマッド・バーガヴァタムの一部を聞くことにふけります。バーガヴァタムの職業的な読み聞かせ人(professional readers)は、至高主の娯楽に関する内密な部分を読むことにふけります。

これらの部分は、性的な文献であるかのように聞こえます(to appear to read like~)。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムは初めから聞かれるようにできており、バーガヴァタムの教えを吸収する資格のある者は一番初めに述べられています(Bhag.1.1.2)

シュリマッド・バーガヴァタムを聞く資格のある聴衆は、多くの徳のある行いの後に生まれます(generated)。知性的な人は、偉大な賢人ヴャーサデヴァの保証を信じることができ、至高の人格神を直接認識するためにシュリマッド・バーガヴァタムの教えを辛抱強く聞きます。

人は認識の(ための)異なるヴェーダの段階を通って苦労する必要はありません。なぜなら、単に辛抱強くシュリマッド・バーガヴァタムの教えを聞くことに同意することによって、人はパラムハムサの地位に上げられるからです。ナイミシャーラニャの賢人たちは、スータ・ゴスヴァーミーに、自分たちはシュリマッド・バーガヴァタムを理解することを切望している、と言いました。

彼らはスータ・ゴスヴァーミーからクリシュナ、至高の人格神について聞いていて、そして彼らは決してこれらの議論によって満足してはいませんでした。クリシュナに非常に執着している人々は、決して主について聞くことをやめたいと思いません。

第32段落
したがって主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに次のように助言しました。「いつもシュリマッド・バーガヴァタムを読み、一節一節すべてを理解しようとしなさい。そうすればあなたは実際にブラーマ・スートラを理解するでしょう。

あなたは、自分はヴェダーンタ・スートラを学ぶことを切望している、と言います。しかし、あなたはシュリマッド・バーガヴァタムを理解することなくしてヴェダーンタ・スートラを理解することはできません。」
主はまた、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、いつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えるように助言しました。

「そして、そうすることによってあなたは非常に簡単に解放されるでしょう。解放の後で、あなたは至高主への愛という人生の最高の目的に至る資格を得るでしょう。」

第33段落
主はそれから、シュリマッド・バーガヴァタム、バガヴァッド・ギーター、そしてヌリスィムハ・ターパニーなどの権威ある聖典から多くの節を朗唱なさいました。特に主(校正:he – He)はバガヴァッド・ギーターから次の節を引用しました。

(サンスクリット引用)

「超越的に位置している者は直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを得たいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です(equally disposed to~)。その状態で彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(BG18・54)

第34段落
人がこのブラーマ・ブータの水準に至るとき、彼はすべての生命体を平等に見て、至高主の純粋な献身者になります。ヌリスィムハ・ターパニー(2.5.16)の中に、「人が実際に解放されるとき、彼は至高主の超越的な娯楽を理解することができ、そしてそのため主への献身奉仕にいそしむことができる」と述べられています。

主チャイタンニャは、シュリマッド・バーガヴァタムの2巻からの一節(2.1.9)も引用しました。その中でシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、「自分は解放された水準に上げられ、マーヤーの呪縛(clutches、爪でしっかりと掴むこと)から自由であるけれど、それでもクリシュナの超越的な娯楽に魅了されている」と認めました。そのため彼は自分の偉大な父ヴャーサデヴァからシュリマッド・バーガヴァタムを学びました。

第35段落
主チャイタンニャは、シュリマッド・バーガヴァタムからクマーラたちに関する別の節(3.15.43)も引用しました。クマーラたちが主の寺院に入ったとき、彼らは白檀(ビャクダン)をどろどろに溶かしたもの(sandalwood pulp)と共に主の蓮の御足に捧げられた花とトゥラスィーの葉の香りに魅了されました。

単にこれらの捧げ物の香りをかぐことによって、クマーラたちの心は、彼らが既に解放された魂であったにも関わらず、至高主への奉仕へと向きました。バーガヴァタムの他のところ(1.7.10)で、「たとえ人が解放された魂であって実際に物質的な汚染から自由であるにしても、彼はそれでも、理由もなく(without cause)、至高主への奉仕に魅了されるようになる」と述べられています。

このように神は非常に魅力的であり、そして主はそれほど魅力的なので、主はクリシュナと呼ばれます。(訳注:Krishna = all attractive)


第36段落
このようにして主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーと、シュリマッド・バーガヴァタムからのアートマーラーマの節を議論しました。主チャイタンニャの崇敬者(admirer)、マハーラーシトリーヤ・ブラーマナは、主はこの節を61の異なる方法で説明なさった、と語りました(to relate)。

そこに集まっていた誰もがアートマーラーマ・シュロカの異なる説明(version)を再び聞くことを熱望していたので、主チャイタンニャは再びそのシュロカをサナータナ・ゴスヴァーミーに説明したのと同じように説明しました。アートマーラーマ・シュロカの説明を聞いた誰もが驚嘆しました。実に、誰もが主チャイタンニャをシュリー・クリシュナご自身に他ならないと考えました。
by ammolitering4 | 2012-02-10 19:09 | 「主チャイタンニャの教え」


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