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第23章 12節まで

第23章 なぜヴェダーンタ・スートラを学ぶか?

第1段落
知識とは聖典から集められる情報であり、そして科学はその知識の実際的な認識です。知識は、それが真正なる霊的指導者を通して聖典から集められるとき、科学的です。しかし、それが推量によって解釈されるとき、それは精神的な作り物です。

真正なる霊的指導者を通して聖典の情報を科学的に理解することによって、人は自分の独自の認識によって至高の人格神の実際の在り方(situation)を学びます(to learn)。至高の人格神の超越的な形は物質的な顕現とは異なっており、そしてそれは物質の反応を超えています。

至高神の霊的な形を科学的に理解しない限り、人は非人格主義者になります。太陽光は、それ自体は照明(illumination)ですが、その照明は太陽とは異なります。それでも太陽と太陽光は異なって位置しているのではありません(not differently situated)。太陽無くして太陽光はなく、太陽光無くして太陽という言葉に意味はないからです。

第2段落
人が物質エネルギーの影響から自由にならない限り、彼は至高主と主の異なるエネルギーを理解することはできません。また、物質エネルギーの魔力によって虜にされている者が至高主の霊的な形を理解することもできません。

至高の人格神の超越的な形の認識がない限り、神への愛ということはありえません。人が至高主の超越的な形を認識できない限り、彼は実際に神への愛を得ることができず、そして神への愛なくして人間の人生に完成はありません。

ちょうど、自然の5つの濃密な要素---つまり、土、水、火、空気、そしてエーテル---が、この世界においてすべての生命体の内と外の両方に(within and without)あるように、至高主はこの存在の内と外(inside and outside)の両方におられ、主の献身者である者はこれを認識することができます。

第3段落
純粋な献身者は、「自分たちは至高の人格神に奉仕をするためにあること、そして存在するすべてのものは人が至高存在に奉仕をするための手段であり得る」ということを知っています。献身者は至高存在によって自分の心の中から祝福されているので、彼はどこを見てもそこに至高主を見ることができます。実に、彼は他の何ものも見ません。シュリマッド・バーガヴァタム(11.2.55)の中で、献身者と至高主の関係は次のように確認されています。

(サンスクリット引用)

「もしも人の心が愛の縄で至高主の蓮の御足に結ばれているなら、主は彼のもとを去られません。実に、たとえ彼の記憶(訳注:remembrance、(主を)思い出していること)が完璧でなくても、彼は第一級の献身者と考えられます(he is to be considered)。」

シュリマッド・バーガヴァタムのダシャ・スカンダー(10.30.4)の中に、このことの例が描写されています。ゴピーたちがクリシュナとのラーサの踊りに加わるために集まったとき、クリシュナは彼らのもとを去られました。

結果として、ゴピーたちはクリシュナの聖なる御名を唱え始めました。そして、狂気に圧倒されて、森の花や蔓草(つるくさ)にクリシュナについて尋ね始めました。クリシュナはちょうど空のようなものです。主はどこにでも位置しておいでです。

第4段落
シュリマッド・バーガヴァタムを学ぶことによって、私たちは至高主との私たちの永遠の関係に関する情報を得ることができ、主に至るための方法(procedure、手続き、順序)を理解することができ、そして至高神への愛という究極の認識を受け取ることができます。

プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーにどうやって人が献身奉仕によって至高の人格神に至ることができるかを説明するとき、主チャイタンニャはシュリマッド・バーガヴァタムから一節(11.14.21)を引用なさいました。

その中で主(訳注:クリシュナ)は、ご自分は信念(faith)と愛をもって為された献身奉仕を通してのみ認識され得る、とおっしゃいます。実に、献身者の心を浄化し、そして、確固たる信念をもって(established in faith)彼がそれによって至高主に奉仕をする究極の認識へと彼を上げるのは、献身奉仕だけです。

(訳注:「献身者の心を浄化するのは献身奉仕だけです。また、確固たる信念を持った献身者が究極の認識のもとで至高主への奉仕ができるようにするのも、献身奉仕だけです。」)

たとえ人がチャンダーラ(犬食い)(訳注:シュードラよりさらに低い被差別階級)などの身分の低い家庭に生まれても、人は至高神への愛という至高の段階の認識を通して超越的なしるし(symptoms)に満たされることができます。これらの超越的なしるしは、シュリマッド・バーガヴァタム(11.3.31)に描写されています。

(サンスクリット引用)

「ご自分の献身者の心をあらゆる罪深い反応から清めることのできる至高主に関する主題を献身者が議論するとき、彼らは恍惚感に圧倒され、自分たちの献身奉仕により(due to、~が理由で)、様々なしるしを表します。」バーガヴァタムはさらにこう記します。

「自分たちの主への自発的な執着により、主の聖なる御名を唱えるとき、何らの社会的なしきたりも気にせず、彼らは時として泣き、時として歌い、踊るなどします。」(Bhag.11.2.40)

第5段落
私たちは、「シュリマッド・バーガヴァタムはブラーマ・スートラの本当の説明であり、そしてそれはヴャーサデヴァ本人によって編纂された」と理解すべきです。ガルダ・プラーナにはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「シュリマッド・バーガヴァタムはブラーマ・スートラの正式に認められた説明であり、それはマハーバーラタのさらなる説明です。それはガーヤトリー・マントラの拡張であり、すべてのヴェーダの知識の真髄です。1万8千の節を含むこのシュリマッド・バーガヴァタムは、すべてのヴェーダ文献の説明として知られます。」

シュリマッド・バーガヴァタムの第一番の巻(訳注:the very First Canto、強調表現)の中で、ナイミシャーニャの賢人たちがスータ・ゴスヴァーミーに、どうやって人はヴェーダ文献の真髄を知ることができるか、と尋ねました。

その答えとして、スータ・ゴスヴァーミーは、すべてのヴェーダの歴史、そして他のヴェーダ文献の真髄としてシュリマッド・バーガヴァタムを提示しました。シュリマッド・バーガヴァタムの他のところ(12.13.15)で、「シュリマッド・バーガヴァタムはすべてのヴェダーンタの知識の真髄であり、シュリマッド・バーガヴァタムの知識を味わう者は他のどの文献を学ぶことへの好みも持たない」と明らかに述べられています。

シュリマッド・バーガヴァタムの一番初めのところで、ガーヤトリー・マントラの意味と解説も描写されています。「私は至高の真理に敬意を捧げます。」これは、シュリマッド・バーガヴァタムの中で宇宙の顕現の創造と維持と破壊の源として描写されている至高の真理に触れている、最初の導入的な節です。

至高の人格神、ヴャースデヴァへの敬意(オーム・ナモ・バーガヴァテ・ヴァースデヴァーヤ)は、ヴァスデヴァとデヴァキーの聖なる息子である主シュリー・クリシュナを直接指しています。この事実は、シュリマッド・バーガヴァタムの後のほうでもっと明白に提示されています。ヴャーサデヴァは、シュリー・クリシュナは至高の人格神であり、他のすべての者は主の直接的、あるいは間接的な完全部分、またはそれらの部分の部分である、と断言します。

シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーは、のちに、さらにもっと明白にこの主題を自著クリシュナ・サンダルバーの中で展開し、そして、もともとの生命体であるブラーマーは、ご自分の論文であるブラーマ・サムヒターの中でシュリー・クリシュナをしっかりと説明しました。サーマ・ヴェダもまた、主クリシュナがデヴァキーの聖なる息子であるという事実を立証します。

第6段落
ご自分の祈りの中で、シュリマッド・バーガヴァタムの著者は最初に、「シュリー・クリシュナが太古の主であり、もしも何らかの超越的な命名が至高の人格神に受け入れられ得るのであれば(is to be accepted)、それはクリシュナ、すべてを魅了するもの(all-attractive)であるべきだ」と提案します。

バガヴァッド・ギーターの中で、主は多くの節で、ご自分がもともとの至高の人格神であると断言しておられ、そしてこれは、ナーラダ、ヴャーサ、そして他の多くの偉大な賢人たちを引き合いに出したアルジュナによっても確認されました。パドマ・プラーナにおいても、「主の無数のお名前の中で、クリシュナという名前が筆頭のものである」と述べられています。

ヴャースデヴァという名前は至高の人格神の完全部分を指すにも関わらず、そして主のすべての異なる形はヴャーサデヴァと同一であるにも関わらず、この文の中でヴャーサデヴァは第一にヴァスデヴァとデヴァキーの聖なる息子を指します。シュリー・クリシュナはいつも、放棄階級の中の最も完璧な者であるパラマハムサたちによって瞑想されます。これがどうしてそうであるかは、シュリマッド・バーガヴァタムのうしろのほうの章で説明されています。

第7段落
チャイタンニャ・マハープラブはシュリマッド・バーガヴァタムを完璧な(spotless、欠陥のない)プラーナとして描写します。なぜなら、それは至高の人格神シュリー・っクリシュナの娯楽の超越的な物語を含むからです。シュリマッド・バーガヴァタムの歴史もまた、非常に栄光に満ちています。

それは、ご自分の霊的指導者シュリー・ナーラダ・ムニの教えのもとで超越的な知識に関する自分の豊かな経験に基づいたヴャーサデヴァによって編纂されました。

(原文:It was compiled by Vyasadeva, who drew from his mature experience of transcendental knowledge under the instruction of Sri Narada Muni, his spiritual master. ここで動詞のto drawは様々な意味を持つ自動詞の形をとっていますが、実際には間違って目的語conclusionが抜け落ちた他動詞であると思います。その場合は「それは~によって編纂されました。~は~の指導のもとで~に関する自分の豊かな(mature 、成熟した)経験に基づいて結論を導き出しました」となります。)

ヴャーサデヴァは、すべてのヴェーダ文献を編纂しました---4つのヴェーダ、ヴェダーンタ・スートラ、あるいはブラーマ・スートラ、プラーナ、そしてマハーバーラタです。それでも彼はシュリマッド・バーガヴァタムを書くまで満足していませんでした。

彼の不満足は彼の霊的指導者によって気づかれ(訳注:「彼の霊的指導者は彼が満足していないことに気づき」)、そしてその結果、ナーラダは彼に主シュリー・クリシュナの超越的な活動について書くように助言しました。

シュリー・クリシュナの超越的な活動は、著作全体の本質(substance)を含むと考えられているシュリマッド・バーガヴァタムの第10巻の中で特に描写されています。人は直ちに第10巻に手を伸ばす(to approach)べきではなく、最初に提示された主題の知識を育むことによって徐々にそれに近付くべきです。

第8段落
一般に、哲学的な心(mind)はすべての創造の源を知る(to learn)ことに関して探求的です。哲学的な人が夜の空を見上げるとき、彼は自然に、星について疑問を持ちます。それらがどのように位置づけられているか、そこに誰が住んでいるか、などです。

これらすべての問いは、人間にとって大変自然です。なぜなら、人間は動物よりもはるかに(greater)発達した意識を持っているからです。そのような問いの答えとして、シュリマッド・バーガヴァタムの著者は、「主がすべての創造の源である」と言います。

主は創造者であるだけでなく、維持者であり、破壊者でもあります。顕現された宇宙の創造はある特定のときに主の意思によって創造され、しばらくの間維持され、そして最後に主の意思によって破壊されます。このように、主はすべての活動の背後の至高の意思です。

第9段落
もちろん、創造主を信じない様々な部類の無神論者がいますが、それは単に彼らの貧弱な知識基盤によるものです。現代の科学者たちはロケットを作り、そして何らかの方法によって(訳注:by some arrangement or other)、彼らははるか遠くにいる科学者の統御のもとでしばらくの間飛ぶために、外宇宙に投げ込まれます。すべての宇宙(訳注:複数)とその中の無数の惑星はそのようなロケットに似ており、そしてそれらは皆、至高の人格神によって統御されています。

第10段落
ヴェーダ文献の中に、「完全真理、至高の人格神はすべての生きた人格の中の筆頭である」と述べられています。最初の被造物ブラーマーから一番小さなアリにいたるまで、すべての生命体は個々の生命体です。ブラーマーの上にさえ、個々の能力(capacities)を備えた他の多くの生命体がいます。

至高の人格神ご自身もまた生命体であり、他の生命体と同じように個人です。しかし、至高主は至高の生命体であり、主は最も偉大な心を持ち、非常に多様な、至高(訳注:supermost、一般的な用語ではない)で計り知れないエネルギーをお持ちです。

もしも人の心がロケットや宇宙船を作り出すことができるなら、人のよりも高位の心がより優れたものを作ることができるというのは想像できます。合理的な人はこの議論を受け入れますが、頑固で意地っ張りな人々はそうしません。

第11段落
シュリーラ・ヴャーサデヴァは直ちに至高の心をパラメシュヴァラ、至高の統御者として受け入れます。バガヴァッド・ギーターおよびシュリーラ・ヴャーサデヴァによって書かれた他のすべての聖典の中に述べられているように、そのパラメシュヴァラはシュリー・クリシュナご自身です。

これはシュリマッド・バーガヴァタムの中で特に確証されています。バガヴァッド・ギーターの中でも、主ご自身が、ご自分に優るパラタットヴァ(スムム・ボヌム)はない、とおっしゃいます。したがって、著者(訳注:ヴャーサデヴァ)は直ちに、その超越的な活動が第10巻の中で描写されているパラタットヴァ、シュリー・クリシュナを崇拝します。

第12段落
不徳な人々は、直ちに第10巻へ、特に主のラーサの踊りを描写する第5章へ行きます。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムのこの部分は、その偉大な文献の中で最も内密な部分です。人が主に関する超越的な知識において徹底して確立しない限り、彼は必ず、ラーサの踊りにおける主の崇拝に値する超越的な娯楽と、主のゴピーたちとの恋愛(love affairs)を誤解します。

この主題は非常に霊的であり、専門的(technical)です。そして、徐々にパラムハムサの段階に至った解放された人格だけが、崇拝に値するラーサの踊りを超越的に味わうことができます。
by ammolitering4 | 2012-02-06 20:42 | 「主チャイタンニャの教え」


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