第20章 前半

第20章 ヴェダーンタ学習の目的

第1段落
主クリシュナ、すなわちヴィシュヌはこの物質世界のものではない、と結論づけられます。主は霊的な世界に属します。主を物質的な半神であると考える者は、大いなる侮辱者であり、冒涜者です。主ヴィシュヌは物質的な感覚による知覚の影響下にはなく(訳注:~によっては知覚し得ず)、精神的な推量による認識もされ得ません。物質的な世界ではいつも体と魂の間には違いがありますが、至高主の体と魂の間には違いがありません。

第2段落
物質的な物は生命体によって楽しまれます。なぜなら、生命体は優性であり、一方で物質自然は劣性の性質のものだからです。このように、生命体という優性な性質は物質という劣性な性質を楽しむことができます。

主ヴィシュヌは決して物質によって作用されない(touched)ので、主は生命体がするような方法で物質自然を楽しむことはありません。(He is not subject to enjoy material nature the way the living entities do.生命体がするような方法で楽しまねばならないということはない、というような意味。この場合の「楽しむ」は、「利用する、支配する」という意味合いになります。)

生命体は自分たちの「精神的な推量」という習慣を楽しむことによって(訳注:喜んで~することによって)ヴィシュヌに関する(of)知識を得ることはできません。微小な生命体はヴィシュヌを楽しむものではなく、ヴィシュヌによって楽しまれます。最もひどい侮辱者だけが、ヴィシュヌは楽しまれる、と考えます。最大の冒涜は、ヴィシュヌと生命体が同じ水準にあると考えることです。

第3段落
至高の完全真理、至高の人格神は、燃え盛る火になぞらえられます。そして無数の生命体はその火から放射している火花になぞらえられます。至高主と生命体はどちらも質的には火ですが、それでも区別はあります。

至高主ヴィシュヌは無限大であり、他方で、火花に過ぎない生命体は微小です。微小な生命体はもともとの無限大の霊から放射しています。彼らの微小な霊としての本質的な立場には、物質の痕跡はありません。

第4段落
生命体は、この物質創造を超越しているナーラーヤナ、ヴィシュヌと同じほど偉大ではありません。シャンカラーチャーリャでさえ、ナーラーヤナを「物質創造を超越している」として受け入れます。ヴィシュヌも生命体もどちらも物質創造のもの(of material creation)ではないので、誰かは「なぜそもそも霊の小さな粒が作られたのですか?」と尋ねるかもしれません。

答えは、至高の完全真理はご自分の完璧性において、同時に無限大で微小であるときに完全です。もしも主が単に無限大であって微小でないなら、主は完璧ではありません。無限大の部分がヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち至高の人格神であり、そして微小な部分が生命体です。

第5段落
至高の人格神の無限の欲求が原因で霊的な世界の中に存在があり、そして生命体の微小な欲求が原因で物質世界に存在があります。微小な生命体が物質的な楽しみのための自分たちの微小な欲求に携わっている(engaged、「一生懸命になっている」)とき、彼らはジーヴァ・シャクティと呼ばれます。

しかし、彼らが無限大の存在と繋がっているとき、彼らは「解放された魂」と呼ばれます。したがって、なぜ神が微小な部分を創ったのか、と尋ねる必要はありません。彼らは単に至高存在の補足的な側面です。疑いもなく、無限大の存在にとっては、至高の魂の切り離せない、欠かすべからざる小片である微小な部分を持つのは、絶対必要です。

(訳注:parts and parcelという表現は、直訳すれば「部分と部分」となり、同じ意味の異なる言葉を繰り返しているだけです。しかし、組み合わさった慣用表現としては「絶対に欠かせない小さな一部分」という意味になります。生命体の描写に多用されます。)

生命体は至高存在の微小な欠かすべからざる小片なので、無限大の存在と微小な存在の間には気持ち(feeling)の交換があります。もしも微小な生命体がなかったら、至高主は非活性であったでしょう。そして、霊的な人生には多様性がなかったでしょう。

もしも国民がいなかったら、王には意味はありません。そして、もしも生命体がいなかったら、至高神には意味がありません。もしも支配する対象が誰もいなかったら、「支配者(lord)」という言葉にどうして意味があり得るでしょうか?

結論は、生命体は至高主のエネルギーの拡張体であると考えられ、そして至高主、至高の人格神、クリシュナはエネルギー的な存在(訳注:the energetic、これは以前にも出てきましたが、「エネルギーの源」という理解でいいかと思います。適切な訳語を思いつきません。)である、というものです。

第6段落
バガヴァッド・ギーターとヴィシュヌ・プラーナを含むすべてのヴェーダ文献において、エネルギーとエネルギー的なものの間の区別をつけるための多くの証拠が与えられています。バガヴァッド・ギーター(BG7.4)において、「土、水、火、空気、およびエーテルが物質世界の5つの基本的な濃密な要素であり、そして心と知性と偽りの自己が3つの希薄な要素である」と明白に述べられています。

すべての物質自然は、これらの8つの要素に分けられます。それらは合わさって主の劣性の自然(nature、性質)あるいはエネルギーを構成します。この劣性の自然のもう一つの名前はマーヤー、すなわち幻想です。

これらの8つの劣性の要素を超えたところにパラー・プラクリティと呼ばれる優性のエネルギーがあります。そのパラー・プラクリティが、物質世界全体を通して大変な数で見られる生命体です。彼(生命体)はバガヴァッド・ギーター(BG7.5)の中でジヴァ・ブータームとして示されています。

説明は、「至高主は完全真理、エネルギー的な存在であり、そのため主はご自分のエネルギーをお持ちである」ということです。主のエネルギーが正しく顕現していないとき、すなわちそれが何らかの影によって覆われているとき、それはマーヤー・シャクティと呼ばれます。物質的な宇宙の顕現は、その覆われたマーヤー・シャクティの産物です。

第7段落
生命体は、事実として、この覆われた劣性なエネルギーを超えています。彼らは、自分の純粋な霊的な存在と純粋な正体(identity)、そして純粋な精神的な活動を持っています。それらすべてはこの物質的な宇宙の顕現を超えています。

生命体の心と知性と正体はこの物質世界の枠を超えたものではありますが、彼(生命体)が自分の「物質を支配したい」という欲求からこの物質世界に来るとき、彼のもともとの心、知性、そして体は、物質自然によって覆われるようになります。

彼から再びこれらの物質的、すなわち劣性なエネルギーという覆いが取り除かれるとき、彼は「解放された」と呼ばれます。解放されたとき、彼は偽りの自己を持たず、彼の本当の自我が再び存在するようになります。

愚かな精神的な推量者たちは、解放の後は人の独自性(identity)は失われる、と考えますが、それはそうではありません。生命体は永遠に神の欠かすべからざる小片なので、解放されたとき彼は自分のもともとの永遠な「欠かすべからざる小片」という正体(identity)を回復します。

アハム・ブラーマースミ(「私はこの体ではない」)という認識は、生命体が自分の独自性を失うことを意味するのではありません。現時点では、人は自分を物質であると考えるかもしれませんが、解放された状態においては、彼は「自分は物質ではなく霊魂、無限大な存在の部分である」と理解するでしょう。

クリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしむことは、解放された段階のしるしです。ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)の中に、明らかに述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高主のエネルギーは3つに分けられます。パラー、クシェトラジニャおよびアヴィデャーです。」パラー・エネルギーは、実際は至高主ご自身のエネルギーです。クシェトラジニャ・エネルギーは生命体です。そしてアヴィデャー・エネルギーは物質世界、すなわちマーヤーです。この物質エネルギーの魔力の下で、人が自分の本当の立場と自分の至高主との関係を忘れるので、それはアヴィデャー、すなわち無明のエネルギーと呼ばれます。

結論は、生命体は至高主のエネルギーの一つを代表しており、そして至高存在の微小な欠かすべからざる小片として、それらはジーヴァと呼ばれます。もしも―――両方ともブラーマン、すなわち霊であるため―――ジーヴァが人工的に無限大の至高存在と同じ水準に置かれたら、幻惑が確かに結果として生じるでしょう。(訳注:「もしも両者を同列に並べるなら、人は間違いなく幻惑されるでしょう」)

第8段落
一般に、マーヤーヴァーディーは生命体の呪縛の原因を説明することができないので、マーヤーヴァーディー哲学者は学識のあるヴァイシュナヴァの前で当惑させられます。彼らは単に「それは無明が原因です」と言います。

しかし彼らは、「もしも生命体が至高であるなら、なぜ無明によって覆われたのか」ということを説明できません。実際の理由は、「質的には至高存在と一つであるにも関わらず、生命体は微小であり、無限大ではないから」というものです。もしも彼らが無限大であったなら、彼らが無明によって覆われる可能性はなかったでしょう。

生命体は微小であるので、彼は劣性のエネルギーによって覆われます。マーヤーヴァーディーたちの愚かさと無知は、彼らが「どうやって(how it is、一体どうして)無限存在が無明によって覆われたか」を説明しようとするとき、あばかれます。無限存在を「無明の魔力の影響を受けるもの」と決め付けようとする(to attempt to qualify ~ as ~)のは無礼です。

第9段落
シャンカラは至高主を自分のマーヤーヴァーディー哲学によって覆い被せようとしていましたが、彼は単に至高主の命令に従っていました。彼の教えはその時代に必要なもの(timely necessity)でしたが、永遠の事実ではない、と理解されるべきです。

ヴェダーンタ・スートラにおいて、エネルギーとエネルギー的なものの間の違いは初めから受け入れられています。そのヴェダーンタ・スートラにおいて、最初の格言(aphorism、金言、警句など)(ジャンマーディ・アシャ)は、「至高の完全真理がすべての放射物の源(訳注:the origin or source、同義の言葉の繰り返し)である」と明らかに説明します。

このように、放射物は至高存在のエネルギーであり、一方で至高存在ご自身はエネルギー的な存在です。シャンカラは、「もしもエネルギーの変容が受け入れられるなら、至高の完全真理は不変であり続けることはできない」と偽りの議論をしました(訳注:falsely argued、シャンカラは故意に誤った議論をしているため、「偽り」としています)。

しかし、これは本当ではありません。無限のエネルギーがいつも作られているという事実にも関わらず、至高の完全真理はいつも同じであり続けます。主は無限のエネルギーの放射によって影響されません。したがってシャンカラチャーリャは、自分の幻想の理論を不正確に確立しました。

第10段落
ラーマーヌジャーチャーリャは、この点を非常に良く議論しました。「もしもあなたが「この物質世界の創造の前には一つの完全真理しかなかった」と議論するなら、それならどうして、生命体が主から放射したというのが可能なのですか?もしも主がたった一人だったなら、どうやって主は微小な生命体を作り出したり、あるいは生み出したり(produced or generated)することができたのですか?」

この問いへの答えとして、ヴェーダは「すべては完全真理から生じ、すべては完全真理によって維持され、そして滅亡の後ですべては完全真理の中に入る」と述べています。この言明から、「生命体は解放されたときに至高の存在の中に入り、自分のもともとの本質的な立場を変えない」というのは明らかです。

第11段落
私たちはいつも、「至高主はご自分の創造的な機能を持ち、微小な生命体もまた自分の創造的な機能を持っている」ということを覚えておかねばなりません。彼ら(生命体)が解放されて物質的な体が滅びたあとで至高存在の中に入るとき、彼らの創造的な機能が失われる、というのではありません。

その反対に、生命体の創造的な機能は、解放された状態において正しく顕現します。もしも生命体の活動が彼が物質的に制約されているときでさえ顕現するなら、それならどうして、彼の活動が彼が解放を得たときに止まるということが可能でしょうか?

生命体が解放の状態に入るというのは、鳥が木に入ること、あるいは動物が森に入ること、あるいは飛行機が空に入ることに比べられるかもしれません。どの場合でも、独自性(identity)は失われません。
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by ammolitering4 | 2012-01-28 13:07 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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