第2章 最後まで

第2章第72段落より

第72段落
カルマ・ヨギーは、「至高の人格神クリシュナがすべてものの享楽者であり、主がすべての生命体の主である」と、よく知っています。彼は、人々が自分自身を享楽者あるいは放棄者の立場に置くように導く、偽りの権威(prestige、威信、威光)に、何の価値も見出しません。

学識のある賢人たちは、それを物質的な存在の主要な病であると見なし、この手の偽りの権威に嫌悪を感じます。すべての良い仕事、知識を培うこと、瞑想、禁欲、犠牲―――これらすべての活動は、この物質的な病を好転させるためにあります。

したがって、至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(5.29)において、「自分(訳注:クリシュナ)がすべての犠牲と禁欲の享楽者であり、すべての宇宙の主であり、また、すべての生命体の至高の友人である、ということを知ることによって、人は至高の平和を得ることができる」とおっしゃいます。

第73段落
私たちは既に、仕事を犠牲のためだけに、すなわちヴィシュヌの超越的な感覚を喜ばせるためだけにすることの必要性を議論しました。そして、バガヴァッド・ギーターの上記の言明は、至高の人格神シュリー・クリシュナだけがすべての犠牲の行為の結果を楽しむことができる、ということを明らかにします。

普通の労働者(worker)の犠牲と、経験主義的な哲学者の瞑想と禁欲は、すべて至高の人格神シュリー・クリシュナによって規定され、維持されます。また、超魂―――神秘的なヨギーにとって瞑想の対象である、ヴィシュヌの局地化された側面―――は、至高の人格神シュリー・クリシュナの完全部分です。

第74段落
このように、シュリー・クリシュナはすべての人の友人です―――その人が普通の労働者であれ、経験主義的な哲学者であれ、あるいはたとえ神秘的なヨギーであれ。そして、至高の人格神の完全な従者である献身者については言うまでもありません。

至高の人格神は、特定の時、場所、そして聴衆に応じて、どこででも至高神への献身奉仕という超越的な過程を教え、普及するために、ご自分の献身者に力を授けられます。そうすることによって、(主は)いつも皆のために善をなさいます。したがって主は、すべての恩恵の宝庫です。そして一般の人々は、(彼らが)カルマ・ヨガに始まる献身奉仕の過程によって主を知るようになるとき、完璧な平和と幸せを得ることができます。

第75段落
至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕のためにすべてのことをする者は、至高神への奉仕に関連のない何らの犠牲や苦行や瞑想をする必要もありません。私たちは先に、ブラーマナのしるしである徳の性質は、そのような献身者の性質に含まれる、と議論しました。

同じように、誠実な労働者の犠牲と専門知識、サンニャースィーの放棄と知識、神秘的なヨギーの静けさと神への深い集中―――これらすべての性質および至高神への愛が献身者の性質の中に含まれます。

第76段落
事実は、シュリー・クリシュナご自身が献身者によってなされた仕事の結果の享楽者である、というものです。そのため、献身者は自分の仕事の結果に対して何の責任もありません。その結果が俗世の人々の評価によれば良いものであれ、悪いものであれ。

献身者は、シュリー・クリシュナのためにすべてをするという自分の義務の衝動の下で行動します(訳注:「~という義務の念に駆られて行動します」)。彼は決して自分自身のためには行動しません。その反対に、至高神の献身者でないサンニャースィーは、あまねく存在する霊に関する知識を得るために、すべての俗世的な責任から逃れます。

神秘的なヨギーは、自分の瞑想をより良くし、自分の中に同じ至高の霊の局地化された側面をもっとよく見るために、同じような方法をとります。しかし、献身者は自己を満足させるという動機によって駆り立てられることなく、至高の人格(person)の満足のためだけに行動するので、そのため彼は実際に―――サンニャースィーと神秘主義者によってなされる別の努力をすることなく―――すべての俗世的な義務から自由です。

サンニャースィーによって得られた霊的な知識、および神秘的なヨギーによって得られた八重の完成は、どれも献身者にとっては簡単に得られるものです。それでも献身者は、何らの利益、賞賛あるいは栄誉を得たいと望みません。

彼は、至高神への超越的な奉仕にいそしむことを除いては、全く何らの利益を得たいとも望みません。そして単にそのような奉仕によって、彼はすべてを得ます。人がいったん、他のすべての利益を含む至高の利益を得るなら、他に何の得るべきものがあるでしょうか?

第77段落
パタンジャリによって説明されたヨガの体系を辿りながら、神秘的なヨギーは自分の様々な身体的な機能をほとんど完全に止めて、瞑想上の恍惚感(trance)を得ようとします。そのため彼は、自分の心臓の中に至高の霊の局地化された側面を見るために、あらゆる苦難に耐えます。

言い換えると、宇宙の中に比肩するもののない自分の理想を実現するために、たとえそれが死に直面することを意味したとしても、どんな代償をも厭いません。バガヴァッド・ギーター(6.22)において、至高の人格神がおっしゃいます。

「自分の心臓の中に至高の霊を認識すると、神秘的なヨギーは、その超越的な水準に至ることよりも価値のあるものは何もあり得ない、と考えます。その水準にいるということは、何らの苦しみによっても、それがどんなにひどくても動揺しない、ということを意味します。

第78段落
パタンジャリの体系によれば、神秘的なヨガは、その様々なきまぐれなやり方(inclination、傾向、性向)をもって精神面を完全に統御することを目的とします。パタンジャリは、「この超越的な状態は、感覚的な活動から自由になることと、浄化された霊魂にとってのみ知覚可能な完成の水準を得ることからなる」と言います。

そのような水準において、神秘主義者の注意は決してそのような霊的な達成からずれません。八重の霊的な完成は、単に神秘的なヨガにおいて最高の水準に至ることの副産物に過ぎません。(訳注:原文は箇条書きではない。)
1、アニマー(最も小さいものより小さくなる力)
2、ラグヒマー(最も軽いものより軽くなる力)
3、プラープティ(何であれ望むものを得る力)
4、イーシター(惑星を作る力)
5、ヴァシター(誰もを統御する力)
6、プラーカーミャ(すばらしい自然な偉業(feat、離れわざ、芸当)を為す力)
など。

上記の完成の一つか二つを得た後、多くの神秘的なヨギーは精神的なぐらつきという罠にはまります。そのような状態において、ヨギーたちは最高の完成、つまり至高の人格神への純粋な献身を得損ねます。

第79段落
しかし、献身者にはそのような堕落の恐れはありません。なぜなら、彼の注意は既に至高の人格神への超越的な奉仕に固定されているからです。そのため、彼は別に(separately、この場合は「既に行っている献身奉仕とは別に」の意味)恍惚感に入る必要がありません。

献身者にとって神秘的な完成は、彼の注意の対象である至高の人格神の、増える一方の新鮮さのおかげで、取るに足らぬものに見えます。俗人は必ず、至高の人格神への奉仕にどうしてそれほど多くの超越的な幸せがあるのか、理解することができません。

第80段落
主クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの中で私たちに、たとえその過程が部分的にだけ完成されたとしても、神秘的なヨギーあるいはカルマ・ヨギーにとっても、彼らのそれぞれの超越的な活動を完成させようとする試みにおいて損失はない、と保証なさいます。

俗的なものは何でも―――知識であれ、富であれ―――物質的な体が滅びるのにあわせて消えますが、カルマ・ヨギーの超越的な仕事は物質的な体と心の俗的な限界を超えます。なぜなら、それは超越的な霊魂との関わりにおいてなされるからです。

このように霊化されることで、これらの活動は物質的な滅亡の限界を超えます。そのため、ちょうど魂が決して滅びないように、物質的な体あるいは心が滅びるときでも、これらの霊化された活動もまた、決して滅ぼされません。

第81段落
至高の人格神は、バガヴァッド・ギーター(6.40)においてこれらを確認なさり、そしてタークラ・バークティヴィノダはそれを次のように説明なさいます。「結局、人間(human race)は二つの部分に分けられます。一方は合法的で、もう一方は非合法的です。

生命の何らの法律も気にせず、単に感覚の満足という原則にのっとって働く者―――彼らは皆、非合法的です。彼らは文明化されているかもしれず、されていないかもしれず、学識があるかもしれず、文盲であるかもしれず、強力、あるいは薄弱であるかもしれませんが、そのような無法者はいつも、低位の動物のように行動します。あらゆる外見に関わらず、彼らの中には何の善もありません。

第82段落
他方、合法的、すなわち法に従う人々は、3つの超越的な区分に分けられます。すなわち、法に従う労働者(訳注:worker、この場合は一般的な意味での労働をする人を指すのではない)、経験主義的な哲学者、そして超越的な献身者です。法に従う労働者はさらに二つの部分に分けられます。

つまり、自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者と、そのような望みを持たない超越的な労働者です。自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者は、はかない物質的な幸せを追い求めます。そして、そのような労働者は物質的な世界の中で俗世的、あるいは天上の(heavenly)幸せで報われます。しかし、これらすべての幸せの形は一時的であることが知られねばなりません(訳注:「~を知っていなければなりません」)。

そのため、そのような労働者は、永久的で超越的な本当の幸せを得ることができません。この本当の超越的な幸せは、物質的な存在の呪縛からの解放の後でのみ得られます。そのような超越的な幸せを目的としないいかなる行いも、いつも一時的で気まぐれ(baffling、当惑させるような)です。」

第83段落
普通の仕事がそのような超越的な目標を目的とするとき、この仕事はカルマ・ヨガと呼ばれます。このカルマ・ヨガの過程によって、人は徐々に自己浄化(self-purification)、それから超越的な知識、それから完璧な瞑想、そして究極的に至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ます。

時として、俗的な労働者は、彼が自分の俗的な目標を達成するために行う多くの禁欲のため、タパスヴィー(苦行者)、あるいはマハートマー(偉大な魂)であると誤解されます。しかし、そのような俗人によってなされた厳密な禁欲は、結局単に物質的な感覚の満足だけを目的としています。

そしてそのため、これらの禁欲は超越的には無駄です。ラーヴァナやヒラニャカシプなどの一部の悪魔も、大変な禁欲と苦行を行いましたが、彼らは幾らかの、感覚的な喜びの一時的な対象の他には、何も得ませんでした。したがって、感覚的な喜びの限界を超えるときだけ、彼はカルマ・ヨギー、すなわち超越的な結果のための労働者として分類され得ます。

第84段落
本当の徳は、たとえ人が(訳注:カルマ・ヨガの)予備的な水準だけにあったとしても、カルマ・ヨガの活動の中にあります。さらに、カルマ・ヨギーはバガヴァッド・ギーター(6.43)において確認されているように、何度も生まれかわって(life after life)発達します。「生まれ変わった後で、カルマ・ヨギーは自分の過去の生で得た超越的な奉仕の感覚を取り戻します。そして、自分の自然な執着により、彼は再び自分の超越的な活動を完成させようとします。」

第85段落
たとえそのような超越主義者がどういうわけか発達の道から滑り落ちても、彼は再び発達する機会を与えられます。バガヴァッド・ギーター(6.41)において確認されているように、彼は次の生を真正なるブラーマナの家庭、あるいは至高神への奉仕に献身している富裕な商人の家庭に受けることを許されます。

第86段落
しかし、カルマ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、ハター・ヨギーおよびバークティ・ヨギーと様々に分類される超越主義者の中で、バークティ・ヨギーが最も偉大です。なぜなら、バガヴァッド・ギーター(6.47)において確認されているように、彼らはいつも至高神への超越的で愛情ある奉仕の考えと活動に浸っているからです。明らかに、至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ることは、すべての神秘主義の究極的な目標です。それが上記の節の説明です。

第87段落
事実は、神秘主義の道は均一で、一つです。それは最高の目的地への一連の踏み石のようなものです。この神秘主義の道を受け入れることによって、人は霊的な完成に向けての巡礼者になります。カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事は、この超越的な道における最初の踏み石です。

経験主義的で哲学的な(推論による)結論と放棄への望みが加えられるとき、次の踏み台、ジニャーナ・ヨガへの発達が生じます。思考の支配的な原則の明確な概念、すなわち至高神が加えられるとき、そして心臓の中に主の存在を認識しようとするとき、第三の踏み石、デャーナ・ヨガへの発達が生じます。

そしてついに、至高の人格神への愛情ある奉仕を捧げる過程を加えるとき、人は究極的な段階、バークティ・ヨガに発達します。したがって、神秘主義的な道は超越的な進化です。そこでは上記のすべての段階は霊的な発達の段階的な過程の一部です。最終的な段階を理解するために、上のすべての段階に言及することが必要です。したがって、至高の目的地に至ろうと望む者は、系統的な神秘主義の道を辿るかもしれません(may、~してもよい)。

第88段落
しかし人は、第一、第二、あるいは第三の踏み石の上で止まるべきではありません。人は最後の段階へ、至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕という完璧な段階へ、最後まで発達しなければなりません。

中間的な段階まで至ったけれど、それ以上大した発達をせず、自分の発展のその段階で満足し続ける者は、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、あるいはデャーナ・ヨギーなど、その特定の名前で呼ばれます。ですから結論は、超越的な献身者がすべての神秘主義者の中で最も偉大である、というものです。

第89段落
この時点で、超越的な神秘主義の道での発達は普通の物質的な発達と同じではない、ということが特記されるべきです。物質的な世界では、人は次の段階に受け入れられる前に特定の発達の段階を通り過ぎなければなりません。そして、この過程に代替策はありません。

例えば、もしも誰かが修士号の学位を得たいと望むなら、彼は非常に多くの試験に合格しなければなりません。代替策はありません。誰も、適切な試験に合格することなくして修士号の学位を受けることを期待することはできません。

しかし、超越的な神秘主義の道では、段階的な発達の過程によって、より低い水準から最高の水準へと人を導く認定された規律があるにも関わらず、至高神の慈悲によって、人は何らの予備的な試験に合格することなく、超越的な修士号の学位を受け取ることができます。

しかし、至高神のこの類稀なる(extraordinary)慈悲は、至高の人格神との内密な関係という方法によってのみ可能です。そしてこの至高の人格神との内密な関係は、至高の人格神の献身者との超越的な関わりという方法によってのみ可能です。

第90段落
それぞれの、そしてすべての魂は、至高の人格神との潜在的で内密で永遠の関係を持っています。しかし、幻惑的な物質エネルギーとの長い関わりのため、私たち一人一人皆がその関係を記憶にないほどの昔から忘れてしまっています。

私たちは皆、最も豊かな名士(personality)、至高の主の超越的な息子であるにも関わらず、路上をさまよう物乞いのようなものです。冷静な頭をもってしては、私たちはこの事実を非常によく理解できます(could)。それにも関わらず、私たちは自分の至高に豊かな父と、主と自分の関係に無頓着であり続けます。

そしてそのため私たちは、貧困と飢餓という自分の路上の物乞いの問題を解決するために、しかし何の明らかな結果もなく、多くの方法で苦しみ続けます。私たちは路上で同じく貧困に苦しむ多くの友人たちに会います。

時として、私たちよりも多少豊かな者が何らかの進歩的な(訳注:progressive、この場合は「より物質的に発達した」という意味でしょうか)人生の段階に私たちを導きますが、実際には私たちはそのような導きから何らの幸せも得ません。これらの人々は私たちに、仕事、知識、瞑想、神秘主義、そして様々な他の方法についても示します。

しかし不幸にして、そのどれも私たちに、私たちがずっと求めている幸せを与えることはできません。この理由により、主チャイタンニャは、ダシャーシュヴァメダー・ガータにて、プラヤーガのガンジス河の岸辺で、「至高の人格神と主の真正なる代表者の慈悲により、最も幸運な魂だけが献身奉仕の種を得ることができる」とシュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーに助言なさいました。

第91段落
私たちはこの超越的な献身奉仕の種を、主のバガヴァッド・ギーターという超越的なメッセージの中で、シュリー・クリシュナ、至高の人格神ご自身から得ることができます。私たちが「バガヴァッド・ギーターの中のシュリー・クリシュナの本物のメッセージは主への献身奉仕である」と理解する(to grasp)ことができるとき、そのときはじめて私たちはバガヴァッド・ギーターの教えの真価を完璧に理解します(to appreciate)。

そうでなければ、私たちは何度も生まれかわってバガヴァッド・ギーターを読むかもしれず、そして私たちはそれに関する無数の(a thousand and one)解説書を書くかもしれませんが、しかし、バガヴァッド・ギーターを理解するためのすべてのそのような試みは無益に終わります。

第92段落
至高の人格神は、ご自分をバガヴァッド・ギーターにおいて説明なさいました。非常に多くの俗人(common men)が自分の自伝を書き、そして一般の人々は熱心にそれらを読んで受け入れましたが、至高の人格神がご自分について語るとき、人々は主のメッセージをありのままに受け取りません。

これは彼らの不運です。至高の人格神のメッセージをありのままに受け入れる代わりに、愚かな俗世の解説者たちは、バガヴァッド・ギーターによって決して裏づけされていない何らかの人工的な考えを確立するために、バガヴァッド・ギーターの単純な句節からでっちあげの意味を引き出そうとします。

愚かな解説者は、究極的にはそのように人工的に引き出すことによって自分のくだらない理論を確立することができません。そのため、最後に彼らは神の代わりに猿を置くことによって(by putting a monkey in place of God)自分の理論を確認しようとします。

第93段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、シュリー・クリシュナが至高の人格神であるということが確かに確立されています。また、私たちの唯一の義務は主に超越的な愛情ある奉仕を捧げることである、ということも確立されています。バガヴァッド・ギーターのページから私たちがこれらの二つの事実を本当に理解したら、私たちは霊的な教育の初歩的な教室に入ることができます。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(校正:最後の「ハレ・クリシュナ・マントラを唱える」は省略。このページはページ数(68ページ)の記載が抜けている。また、第4段落に「巻末の広告や住所を参照するように」との指示があるが、その記載が抜けている。)

裏表紙
人間の社会は、至高の人格神、主クリシュナによって4つに分けられています。この自然な社会の分割は記憶にないほどの昔から存在しており、社会をブラーマナ(知識層)、クシャトリヤ(管理層)、ヴァイシャ(商人層)、そしてシュードラ(労働者層)に分割します。

地球のすべての部分において、人間の人口が、人の心理と仕事という、この基本に添って自然に分割されているのを見ることができます。これらの4つの社会的な階層が協力して神に奉仕をするなら、そうすれば私たちは皆、幸せになれるでしょう。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

以上で本書の翻訳を終わります。編集、製本、配布などご自由になさってください。私の許可を取る必要はありません。興味のありそうな方へのサイトの紹介もよろしくお願いします。今後はしばらく仕事の翻訳に集中しますので、再開は時間が空くことと思います。ご了承ください。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-01-11 17:30 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(4)
Commented by acha at 2012-01-12 20:34 x
ありがとうございました。読み応えがあり、悩んでいたものをふっ切ることができました。
またの更新、楽しみにしています。
寒さが厳しくなってまいりましたが、お風邪などめされませんように。
Commented by 葉子 at 2012-01-13 09:36 x
どういたしまして。少しでもお役に立てたのなら幸いです。
これからまたまたお待たせします。どうもすみません。
再開するときは、まず「主チャイタンニャの教え」を終わらせるつもりでいます。
Commented by bvd at 2012-01-13 09:57 x
翻訳の仕事見つけたんですか?めでたしめでたし、マイペースが一番。
Commented by 葉子 at 2012-01-13 15:56 x
ボランティアなんですね、これが。うまくいけば大金が転がり込むかもしれず、しかしそうならない公算も大きい、というギャンブル性の高いプロジェクトです。でも、私の尊敬する高齢の友人の著作なので、お金が入ろうが入るまいが翻訳したいと思うのです。都市計画に関するもので、公共の意見を取り入れるための手法を具体的に紹介しています。住人と開発会社の間で対立が起きたときなど、呼び出されることが多い方です。

この分野では有名な方でスタンレー・キングさんとおっしゃいますが、この方が生涯取り組んでこられたCo-Designというプロジェクトをまとめた本なのです。素人の私が翻訳できるのかなあと多少不安ですが、草稿を建築関係のプロの方に直してもらって、いずれは出版社も探そうと思っています。まだまだ先のことですけどね。

学ぶところの多い本なので、商店街の再開発その他、住民の声を取り入れた開発に興味をお持ちの方をご存知だったら紹介してください。
名前
URL
削除用パスワード


<< 虚無感の推進 第2章 第62段落より >>