第2章 第62段落より

第2章 第62段落より

第62段落
様々な種類の犠牲が存在しますが、私たちは「すべての犠牲の究極的な目的は至高神ヴィシュヌを喜ばせることである」と理解すべきです。私たちが物質的に存在している間は、体と魂を一緒にしておくためだけにであっても、私たちは物質的な物と関わらねばなりません。

しかし、すべてのそのような物質的な活動において、私たちは「至高の霊は偏在である」というヴェーダの真実に関して(in terms of)、霊的な雰囲気をかもし出すことができます。この真実は、単に至高の霊が偏在であるからすべてのものが至高の霊である(原文は斜体)という誤解、すなわち汎神論を支持する者によって不完全に説明されています。

この誤解が解消され、そしてもしも私たちが至高の霊は本当に偏在であるということを覚えているなら、私たちは、すべてのことを自己を認識した魂によって指揮され、私たちのすべての活動を至高の霊との関係によって行うことによって、霊的な雰囲気を作り出すことができます。そうすれば全体(the whole thing)が霊に変化させられます。

第63段落
ここで、上記の霊化の過程を説明するために例を挙げます。鉄の棒が火に入れられるとき、棒は火の性質を帯び、鉄の棒として機能することをやめます。同じように、私たちのすべての活動が私たちのクリシュナとの関係の関してなされるとき、そのときすべては霊に満たされます。クリシュナを喜ばせることが私たちの究極の目的になるので、私たちのすべての活動は霊的になります。

犠牲には、次のような5つの主な要素があります。
1、捧げる過程
2、捧げ物そのもの
3、火
4、犠牲
5、犠牲の結果

これらすべての要素が至高の霊に関係するとき、それらはすべて霊化され、そしてそのときすべてのものは本当に犠牲たり得ます。言い換えると、上記の5つの要素が超越的な奉仕においてシュリー・クリシュナに捧げられるとき、それらは主と相互関係を持つようになり、そしてそのため、それらは完全に霊化されます。

第64段落
したがって、学識のある人々は自分のすべての活動を至高の人格神への超越的な奉仕に向けます。これらの本当に浄化された魂は、実際に自分のすべての感覚的な活動を統御し、また、自分の本当の霊的な自己を十分に習得します(to master)。

そのような霊化された人々だけが、個人、場所、そして時に応じて(in terms of)、堕落した魂に実際に同情を見せることができます。そして、一見すると物質的な活動を行っているにも関わらず、そのような霊化された人々は仕事の呪縛から自由です。

この過程はバガヴァッド・ギーターの5章の7節において説明されています。そこでクリシュナは、他のすべての者への同情から、超越的な結果を得ることを目的として自分の仕事を行う者だけが実際に公けの指導者となる資格がある、と述べられます。

第65段落
カルマ・ヨギーの敵―――自分の満足あるいは感覚の満足のために働き、奉仕という超越的な関係を通して至高の霊と関わっていない者―――は、時として、至高の意思の望みに従って働いているふりをします。実際彼らは、それを至高神への超越的な奉仕であると偽ってレッテルを貼ることによって自分の身勝手さを隠そうとしている汎神論者の詐称者です。

(訳注:「彼らは自分のしていることを「至高神への超越的な奉仕である」と偽り、そうすることで自分の身勝手さを隠そうとしています。彼らは汎神論を支持する詐欺師なのです」)しかし、心が純粋である者―――つまり、至高の人格神の蓮の御足にすべてを捧げた(to surrender)者―――は、そのような偽りの超越主義者から遠ざかっています。

第66段落
そのような、心が純粋な超越主義者は、生命体は非常に微細であるけれど完全真理の欠かすべからざる小片であり、そのため相応の独立性を持っている、と知っています。至高の人格神は万能(all-powerful)ではありますが、主は決して生命体の楽しむこの少々の自由に干渉なさいません。

そのため生命体は、自分のほんの少しの独立性を悪用して、自然の相によって制約される自由があります。徳、熱情、そして無明という自然の相によって制約されるとき、彼(生命体)は徳、熱情、そして無明という、それらのそれぞれの性質を育みます。

物質自然によって制約され続けている限り、彼(生命体)は自分の特定の自然の相に応じて行動しなければなりません。もしもこれらの相が活動していないなら、それなら私たちは現象の(phenomenal、自然現象の)世界の中でこれほど様々な種類の活動を見ることはありません。

第67段落
もしも、自然の精緻な法律を知らないために私たちが「それらは至高の人格神の意思によってなされているのだ」と言って自分のすべての俗的な行為を正当化しようとするなら、それなら私たちは万善の(all-good)至高の人格神の行いに不公平さと酩酊と野卑さを持ち込むことになります。

様々な俗的な矛盾(discrepancy、期待はずれ)は至高の人格神の意思によって生じるのだと―――一部の人々は主の意思によって幸せで、他の人々は主の意思のよって不幸せであると―――決して想像されるべきではありません。

物質世界におけるそのような違いは、個々の生命体による自由意志の、正しい、あるいは正しくない使い方によるものです。至高の人格神クリシュナは、自然の様々な相によって支配されたすべてのそのような制約的な仕事を放棄するように、すべての人に命じられます。そのような仕事は、主の意思によってではなく、自然の相によって永続化された無明から生じます。

第68段落
バガヴァッド・ギーター(5.13)において主は、ご自分は誰の特定の仕事の原因でもなく、そのような仕事の結果の原因でもないが、これらすべては自然の様々な相が原因で生じる、とおっしゃいます。このため、生命体によってなされるすべての活動―――カルマ・ヨガのそれ(活動)を除く―――は、自由意思の悪用(abuse)から生じる、自分で作り出した仕事であり、そしてそのため、人は決して、そのような仕事の結果がどういうわけか万能の神によって定められた、と考えるべきではありません。そのような仕事はすべて物質的であり、そしてそのため、自然の相によって制約され、指示されています。至高の人格神はそのような仕事とは全く関係ありません。

第69段落
同様に、カルマ・ヨギーはいつも、自然の相の制約から遠く離れた超越的な立場に存在しています。なぜなら、彼のすべての仕事は完全存在の水準に辿りつくからです。人が自然の相からの自由という水準にあるとき、現象世界はその霊的な側面を顕現します。世界がこのように霊的に顕現するとき、その自然の相は人の霊的な発達に何らの障壁も呈することができません。そのような障壁が越えられるとき、人は完全な洞察力(view、視力、視界)を得ます。

第70段落
バガヴァッド・ギーター(5.18)はさらに、学識のある人が完全な洞察力を得るとき、彼はすべての生命体を―――学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、あるいは犬食い(訳注:シュードラのさらに下の階層の人々)であれ―――沈着さを持って見る(to observe、観察する)ことができる、と説明します。

人間の中で、学識があって柔和なブラーマナは自然の徳の相の具現であり、一方で、獣の中では牛が徳の相の具現です。象とライオンは自然の熱情の相の具現であり、犬とチャンダーラ(犬食い)は自然の闇、すなわち無明の相の具現です。

第71段落
しかし、これらの生命体の様々な外的な神殿(様々な自然の相の下での彼らの具現)に焦点をあてる代わりに、カルマ・ヨギーは自分の完全な洞察力をもって彼らを見、そして中に閉じ込められた霊に達します(to penetrate to、「見通します」)。

そして、この極微な霊は無限大の至高の霊から発しているので、最高の位置にあるカルマ・ヨギーは、すべての者とすべての物を沈着さをもって見ることができます。そのようなカルマ・ヨギーは、すべてを完全存在との関係において見て、そしてそのため、彼はすべてを完全存在への超越的な奉仕に使います。

彼は、すべての生命体を完全至高神シュリー・クリシュナの非常に多くの超越的な従者として見ます。彼の完全な超越的な洞察力は、すべての物質的な体の檻を突き抜けずにはおきません。ちょうど、赤く熱された鉄が触れるものすべてを焼かずにはおかないようなものです。このように、カルマ・ヨギーはすべての者とすべての物を至高の人格神への超越的な奉仕に携わらせることによって、超越的な性質の手本を示します。
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by ammolitering4 | 2012-01-08 14:46 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)
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