第2章 第39段落より

第2章 39段落より

第39段落
人間の社会における同胞愛は、徐々に発達します。自己への愛から家族への愛、家族への愛から地域への愛、地域への愛から国への愛、そして国への愛から国際社会への愛、というふうにです。そして、この段階的な過程にはいつも、私たちの愛が一つの段階から別の(次の)それへと発達、発展するのを助ける魅力の中心があります。

しかし私たちは、同胞愛の発展のためのこの恒常的な苦闘の中で、究極的な魅力の中心は家族でも地域でも国でも国際社会でもなく、あまねく存在する至高神ヴィシュヌである、ということを知りません。この無知は、完全真理の幻想エネルギーである物質的なカーテンによるものです。

偉大な献身者プラーラーダ・マハーラージャは、一般の人々は彼らの究極の魅力の中心は至高の人格神ヴィシュヌであるということを知らない、と確認なさいます。そしてヴィシュヌの区分の中にあって、シュリー・クリシュナが至高の魅力です。

第40段落
事実、クリシュナという言葉は「魅了するもの」を意味する「クリシュ」という語幹から派生しています。そのため、至高の完全真理には「クリシュナ」---「すべてを魅了するもの」以外の名前はありえません。学識のある賢人たちはこのことに関して詳細な研究を行い、クリシュナが至高神であると確実に結論付けました。

スータ・ゴスヴァーミーの主宰の下に集まったナイミシャーラニャ(現在はアッター・プラデシュ(訳注:U.P., Uttar Pradesh、かつては United Provinces)にあるスィタプール(Sitapur)地域のニムサル(Nimsar))の賢人たちは、完全真理の様々な化身のすべてを詳細に議論しました。

彼らは、クリシュナが至高の人格神であり、そして他のすべての化身は主の完全部分あるいは完全部分の部分である、という結論に達しました。至高の人格神はシュリー・クリシュナです。それが超越主義者のバーガヴァタ学派の評決です。

この結論は、この宇宙の創造主であるブラーマーによって編纂されたブラーマ・サムヒターの中で確認されています。「シュリー・クリシュナは、永遠の、喜びに満ちた、超越的な形を持つ、至高の人格神です。主はゴヴィンダとして知られるもともとの人であり、そして主はすべての他の原因の原因です。」

したがって、すべての原因の根本的な原因、シュリー・クリシュナという中心的な魅力の上に互いの関係を築きさえすれば、私たちは同胞愛と平等の概念を、永続的な平和の(ための)実現可能な(workable)方法に本当に変えるでしょう。(訳注:自然な日本語の一例としては「同胞愛と平和の理念は単なる理念を越えて、やがて永続的な平和として結実することでしょう」)

第41段落
(これに)関係のある原則をもう少しよく理解するために、私たちの周りの俗的な関係を見ることができます。(訳注:「私たちの身の回りの人間関係でもこの原則を学ぶことができます」)例えば、私たちの姉妹の夫は、彼が彼女と結婚する前は私たちにとって見知らぬ人であったかもしれませんが、それでも―――単に彼女との共有された中心的な関係の力によって(訳注:彼女という中心を共有しているおかげで)―--私たちの義理の兄弟となります。

そしてその共有された中心的な関係のおかげで、この、かつては知らなかった男の息子と娘は私たちの甥と姪になります。重ねて、これらすべての愛情ある関係は、私たちの姉妹を中心としています。この場合、私たちの姉妹が魅力の中心になります。

第42段落
同様に、もしも私たちが自分の国を魅力の中心にすれば、私たちは自分たちを「ベンガル人」、「プンジャビ人」、あるいは「イギリス人」などと、何らかの制限的で分割的な国のレッテルで区分します。あるいは、私たちが特定の信仰や宗教を信奉してこれを魅力の中心とするとき、重ねて、私たちは自分たちを「ヒンズー教徒」、「イスラム教徒」、あるいは「キリスト教徒」など、何らかの宗派的なレッテルで区分します。このように、私たちは他の多くの人々が私たちと共有できない魅力の中心を選んできました―――なぜなら、彼らにとって私たちの魅力の中心はすべてを魅了するものではないからです。

第43段落
私たちの互いとの人間関係は、私たちがすべてを魅了する至高の人格神クリシュナを自分たちの魅力の中心とするときにだけ完全であり得ます。私たちは本来、もともとの生命体であって、したがってすべての魅力の中心であるクリシュナと、永遠に関係があります。

ですから、私たちがしなければならないのは、マーヤー(幻想エネルギー)の覆い被せる過程が一時的な忘却を助長したために忘却に同化してしまったこの関係を復活させることです。(訳注:「真理を覆い隠す力を持ったマーヤーが一時的な忘却を促すため、私たちはクリシュナとの永遠の関係を忘れてしまいました。私たちがしなければならないのは、この関係を復活させることです。」)したがって、私たちのクリシュナとの永遠の関係の回復を始めるために、私たちはそのような超越的な認識への最初の段階であるカルマ・ヨガを取り入れるべきです。

第44段落
カルマ・ヨガは、すべての人が主の永遠の従者としての自分のクリシュナとの超越的な関係を復活するのを、助けることができます。そしてカルマ・ヨギーは、俗的な活動に完全に染まっている普通の生命体に、彼らの普通の仕事に混乱を生じさせることなく、この大変な利益を与えます。

事実、既に述べたように、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、「俗的な労働者の利益のためには、彼らは自分たちの普通の仕事から離されるべきではない」と助言なさいます。その反対に、彼らはカルマ・ヨガの過程の中でそのように働き続けることを勧められます(they may be encouraged)。

第45段落
一般に、これらの俗人たちは自分たちのクリシュナとの永遠の関係を簡単に理解することができません。その代わり、彼らは幻想エネルギーの誘導の下で、自分がクリシュナであるかのように振舞います(to pose oneself as)。

この偽りの「至高の享楽者」の立場は、彼らが自然の力を司る力を探し求めるときに、彼らに多くの難題を与えます。しかし、それでもこれらの俗人たちはそれを支配する精神を放棄することができません。そして、彼らが落胆と失望の圧力の下で、楽しむ精神を放棄する振りをするとき、彼らは普通、もっと大きな享楽の精神をもって偽りの放棄に逃げ込みます。

(訳注:自然な日本語の一例:「俗人たちは自分が至高の享楽者であると思い込んで自然を司ろうとしますが、様々な困難に直面します。しかし、それでも彼らは自然を支配する精神を放棄することができません。そして、支配できずに落胆し、不満が募ると、「自然を支配して楽しむのはやめた」という振りをします。そして俗世を放棄した振りをすることに一層の楽しみを見出すのです。」)

いつも自分の俗的な活動の果実を楽しみたいと望む俗的な労働者は、ちょうど製粉機にきつく繋がれた雄牛のように、そのような活動の執拗な不利益の下で大いに苦しみます(訳注:「そのような不利益な活動にずっと苦しみ続けます」)。しかし、マーヤーによって支配された幻想の下で、彼らは自分が本当に楽しんでいると考えます。

したがって、彼らの一般的な活動を行う上でそのような愚かな俗人たちを妨害することなく(訳注:「そのような愚かな俗人たちが自分たちの通常の活動を行うのを妨げることなく」)、学識のあるカルマ・ヨギーたちは、クリシュナとの関係において特別の執着を持っているそれぞれの仕事に如才なくいそしみます。クリシュナの永遠の従者である、学識があって解放された魂たちは、この目的のためだけに、時として普通の活動の最中に留まります。愚かな俗人たちをカルマ・ヨガの過程に惹き付けるためだけにです。

第46段落
愚かな俗人たちは、もしも至高の人格神シュリー・クリシュナ、あるいはアルジュナなどの主の永遠の仲間が親切にも、個人的な例という直接的な方法によってカルマ・ヨガの過程を伝授するということをわざわざ行うことをしなかったなら、愚かな活動の闇の中に永遠に取り残されるでしょう。

愚かな俗人たちは、自分たちが俗的な活動を追及する上で直面する計り知れない困難を理解することができません。彼らの様々な活動の上で、支配という概念によっていかに彼らが自分自身を惑わそうとしても(訳注:「自分が何かを支配することができるのだと思い込んでも」)、彼らはいつも自然の相によって突き動かされます―――それがバガヴァッド・ギーターにおける至高の人格神シュリー・クリシュナの、熟考の上での結論です。

主は、「偽りの自己を本当の自己であると思うこと(false egoism、直訳すれば「偽りの利己主義」ですが、それだと意味が通じなくなるので、 'false ego'-ism、すなわち「偽りの自己」主義として訳しています)が原因で、自分のすべての働きにおいて、それをするように自分を導くのは自然の相であることを知らずして、愚かな俗人は’自分が自分のすべての活動の著者である’と考える」とおっしゃいます。

(訳注:「愚かな俗人は、自分の行動はすべて自然の相の導かれているのだということを知らない。そして、偽りの自己を本当の自己だと思っているため、自分で自分の行動を決めているのだと考える」と、主はおっしゃいます。」)

愚か者は、自分が主クリシュナの幻想エネルギーであるマーヤー・デヴィーの支配の下にあることを―――彼女が望むように自分に強制して行動させるということを―――理解することができません。結果として彼は、自然の相によって支配された隷属というひどい罰を受けながら、自分の活動の一時的な結果―――たちまち消え去る俗的な幸せ、あるいは苦しみ―――だけを経験します。

第47段落
バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、すべての生命体の一つ一つは、主の欠かすべからざる一部であり、そのためすべての生命体の一つ一つは主の永遠の超越的な従者である、と断言なさいます。欠かすべからざる部分である者の自然な立場は、完全全体に奉仕をすることです。

古代の寓話のヴェーダの本であるヒトパデシャの中に、体の部分の全体への関係を説明する、ウッデシャ・インドリヤーナームという題の明快な類推があります。手、脚、目、鼻などは、すべて体という完全な全体の部分です。さて、もしも手や脚や目や鼻などが胃に食物を与えるために努力せず、その代わり自分で集めた食物を自分で楽しもうとしたら、そうすれば体全体の調整不良が生じるでしょう。

身体的な部分は全体としての体の利益に反して働くことになります。そのような愚かな活動によっては、手、脚などは自分のそれぞれの立場を決して改善することはできません。その反対に、胃という媒体を通して体全体に栄養が行き渡っていないので、身体的な構造と機能の体系全体が弱り、病みます。同様に、もしも欠かすべからざる部分である生命体が完全な全体であるシュリー・クリシュナの喜びのためにすべてを捧げることを拒否するなら、そうすれば生命体自身が苦しむでしょう。

第48段落
バガヴァッド・ギーターは、至高の人格神シュリー・クリシュナはすべての原因のもともとの原因、想像全体の木の根である、と述べています。バガヴァッド・ギーターには、シュリー・クリシュナご自身よりも優れた(superior、優位、上位の)人はいない、とも述べられています。

主はすべての犠牲と活動の至高の享楽者です。しかしそれでも、本当に罪深い者は主に服従しません。彼らは、主が至高の人格神であって他のすべての生命体は主の超越的な永遠の従者である、ということを受け入れるのを拒むからです。

第49段落
生命体と至高の人格神との間のこの超越的な関係を忘れてしまったことは、すべての人が矮小なクリシュナである、という偽りの感覚を作り出しました。すべての人が自分の能力の限界まで世界を世界を楽しもうとしており、その一方で、完全な全体であって全ての源である完全真理、至高の人格神への超越的な奉仕を見落としています。

このような種類の、結果を求める仕事は、マーヤー、すなわち幻想エネルギーとしても知られる、物質自然の相の魔力の下でなされます。実際は、生命体は自然の力を支配する能力を全く持ちません。生命体が自分をシュリー・クリシュナ、至高の享楽者の立場に置こうと試みれば、彼は直ちに自然の相によって征服されます。

偽りの自我という感覚(訳注:a false egotistic sense、上記と同様に、直訳すれば「偽りの利己的な感覚」となるため、a sense of false egoとして訳しました。)の下で働きながら、生命体は至高の享楽者のように振舞おうと大変な努力をしますが、彼は本来的にそうすることができません。

手、脚、目などが体全体として機能することができないようなものです。そのため、生命体は享楽者の振りをしているときに、多くの困難を経験します。ですから、幻想の下で働くことが原因で経験するこれらすべての困難を捨てるためには、私たちはカルマ・ヨガの過程を取り入れなければなりません。

第50段落
普通の生命体とは対照的に、超越主義者、すなわちカルマ・ヨギーは本当に学識があり、そしてそのため彼らは普通の俗人のようには働きません。彼らは、自然の相の下でなされる俗的な活動は主クリシュナへの超越的な献身奉仕の活動とは完全に異なる、と知っています。

自分は物質的な体と心とは異なると知っているので、超越主義者たちはいつも自分のクリシュナとの本来的な関係において活動しようとします。彼は、俗的な存在の中に一時的にあるにも関わらず、自分は永遠の霊、至高の霊の欠かすべからざる部分であることを知っています。

そのため、彼の物質的な感覚―――彼の手、脚、目など―――は非常に多くの活動に携わっているにも関わらず、彼はいつも俗人から離れてあり続けます。これらのシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕の活動は彼を仕事の呪縛から自由にします。

至高の人格神シュリー・クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。「おお、アルジュナよ!あなたのすべての俗世的な仕事を楽しむ精神を放棄し、この意識を通して超越主義者になりなさい。あなたは、自分にとって義務である、戦闘というあなたの境遇上の職業に就くかもしれません(訳注:「あなたの立場では戦うことは義務なので、あなたはそれを仕事として行うでしょう」)。

しかし、それを私への奉仕の精神において行いなさい。このようにすれば、あなたは仕事の呪縛から自由であり続けます。そして自分のすべての活動を―――私への何らの恨みもなく、私の指示に従って―――この超越的な意識をもって行う者もまた誰でも、仕事の呪縛から自由になります。」

第51段落
身体的な自意識の過程―――「私はこの物質的な体と心である」、そしてさらに言えば、「私はこの物質世界の欠かすべからざる部分であり、したがってこの物質世界の中のすべてのものは私の楽しみの対象である」という誤解―――は、私たちを本物の超越的な知識から遠ざけます。

この超越的な知識に基づいて、至高の人格神シュリー・クリシュナは私たちに、霊的な傾向を持つこと(to become spiritually inclined)、超越主義者になること、を助言なさいます。そうして初めて私たちは、自分は決して全くこの物質世界のものではなく、永遠の霊的な存在であることを理解することができます。

そのような自己認識によって、私たちの物質的な(ものへの)親和力の崩壊は自然に始まります。そして、私たちがもっと霊的に発達すれば、物質的な関わりとの接触によって(訳注:物質的な物事と関わることによって)感覚知覚から生じる幸せと苦しみによって影響されることも少なくなります。

物質的な(ものとの)接触によって作られた偽りの自我は、そうすれば徐々に消え、そしてこの、偽りの自我を自分であると考えること(訳注:false egoism、上記と同様の理由により 'false ego'-ismとして訳しています)の分解は、すべての物質的な区分からの解放と、私たちの完全真理との関係の刷新された認識の原因となります。(訳注:「偽りの自我を自分であると考えることがなくなると、私たちはすべての物質的な区分から解放され、完全真理との関係を全く新しく認識することができるようになります。」)これが「人生における解放」と呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2012-01-06 23:31 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)
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