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クリスマス

昨日はクリスマスだったので、教会に行きました。この時季に日本にいるときは、いつも姉のバプテストの教会に行くのです。私は幼稚園の頃から賛美歌を歌ったり「主の祈り」を唱えたりしていました。家が信仰深かったからではなく、単に家から近いキリスト教の幼稚園に通っていたからです。もちろん何のことやらさっぱり分からず、「手を合わせろ」と言われれば合わせ、「光の子ども~」と歌えと言われれば歌い、言われるままに「我らにニチヨウの糧を与えたまえ」とつぶやきました。私はこれをずっと「日曜」の糧と思っていたのです。ご飯は日曜日の分だけお願いすればいいのだろうか、と、いつも不思議でした。

小学校になってからは、バプテストの教会に通いました。無宗教の両親が私と姉を無理矢理通わせていたのですが、タダでオルガンなど習えるかもしれない、という打算があったようです。今思えば、日曜日だけでもタダでうるさい子供を見ていてもらえる、という計算もあったのでしょう。献金の10円玉でも持たせればいいだけで、おやつも出ますしね。私の個人的な楽しみはキラキラのシールをもらえることでした。しかし、こうして打算ばかりで図々しく通っていたため、説教の内容をしっかり自分のものにすることは全然できませんでした。

私が知りたいことは、教会では教えてもらえませんでした。聖書の内容も納得できませんでした。これも今思えば、分からなくて当然だったのです。私が出会ったキリスト教では、私という存在、神様が聖書を通じて語りかける対象である私という存在が、いったい誰なのかを教えてもらえなかったのです。牧師さんたちや聖書勉強会の人たちは、それぞれが「私はこう思う、ああ思う」と言いました。それはどれも体の人間を「私」と見なして語るものであり、それぞれの人が自分なりに考えて解釈したものでした。精霊、という言葉も何度も出てきますが、これも具体的に何なのか理路整然と説明してくれた人はいませんでした。

クリスマス礼拝の説教では「はじめにことばがあった~すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」という節が語られました。牧師さんは「この節は誤解されていると思います」と前置きして説明をなさいました。「神様は世界を作り、そこに私たち一人一人を作られた。この世界にあるすべてのものは、つまりあなたも私も、神様のことばによって作られた。だから、この節は”あなたは在ってよい、あなたは生きよ”という意味なのだ」というものです。彼は、震災で両親を亡くした少女が生き残った祖母に「おばあちゃんが代わりに死ねばよかったのに」と言ってしまった、悲しい逸話を紹介しました。震災で大勢の方が亡くなって生と死が身近に感じられる今年の説教としては、それはとても説得力のある解説かもしれません。上手な説教をなさるといって評判の牧師さんなのです。

でも、私はどうも納得できないのです。「誤解されてる」とおっしゃる彼の解説もまた誤解である可能性はないのでしょうか。「私たち一人一人」、あるいは「すべてのもの」に動物は含まれないのでしょうか。「存在してよろしい、生きなさい」というメッセージも、人間の形で地上に在ることが生きることであるのなら、「いえ、もう結構です、辞退します」と本気で思う人も少なからずいると思うのです。まあ、そういうことを考えたクリスマスでした。
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by ammolitering4 | 2011-12-26 22:15


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