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第3章 サナータナ・ゴスヴァーミーへの教え

第3章 サナータナ・ゴスヴァーミーへの教え

第1段落
主チャイタンニャのサナータナ・ゴスヴァーミーへの教えから、私たちは主の超越的な形、主の豊かさ、および主への献身奉仕に関する神の科学を理解することができます。実に、すべてのことが主ご自身によってサナータナ・ゴスヴァーミーに説明されています。

そのとき、サナータナは主の足元にひれ伏して、大いにへりくだって自分の本当の自己認識(訳注:アイデンティティー、身元、正体)について尋ねました。「私は身分の低い家庭(lower family)に生まれました」とサナータナは言いました。

「私の交友関係(association、人間関係)はどれも忌むべきものであり、そして私は堕落しており、人類のうちで最も哀れです。私は物質的な楽しみの深い井戸の中で苦しんでいました。そして私は自分の人生の本当の目的地を全く知りませんでした。

実に、私は何が自分にとって有益なのかということさえ知りません。私は世間では大いに学識のある人物として知られていますが、私は実際は全くの愚か者なので、自分でも自分が学識があると考えます。あなたは私をご自分の従者として受け入れてくださいました。

そしてあなたは物質的な人生のもつれから私を解放して下さいました。(訳注:物質的な人生の中でからまって動けなくなっていた魂を解放する、ということ。)どうぞ、この解放された状態における私の義務は何なのか教えてください。」

第2段落
このお願いから、私たちは解放とは完成における最後の言葉ではないということを理解することができます。解放における活動がなければなりません。サナータナははっきりと言います。「あなたは私を物質的な存在から救いました。今、解放の後で、私の義務は何ですか?」(下線強調)

サナータナはさらに問いました。「私は誰ですか?なぜ三重の悲惨さがいつも私に問題を投げかけるのですか?そして最後に、私はどうしたらこの物質的な絡まりから解放され得るのですか?私は霊的な人生の発達についてあなたにどう質問したらよいのか分かりません。しかし、どうぞ親切に、情け深く、私が知るべきことのすべてを教えてください。」

第3段落
これが霊的指導者を受け入れるための方法(process、過程)です。人は霊的指導者に近づき、謙虚な姿勢を示し(humbly submit to him)、そして彼から自分の霊的な進歩について問うべきです。

第4段落
主はサナータナの受動的な振る舞いを喜び、こう答えられました。「あなたは既に主クリシュナからの恵みを受け取りました。そしてそのため、あなたはすべてを知っており、物質的な存在のすべての悲惨さから自由です。」

主はさらに、サナータナはクリシュナ意識にあるため、彼はクリシュナの恵みによって既に自然にすべてのことに精通している、と指摘しました。主は続けておっしゃいました。「あなたは謙虚な献身者なので、あなたは自分が既に知っていることを私に確認するように頼んでいます。これはとてもよいことです。」

これらが本当の献身者の特徴です。ナーラダ・バークティ・スートラには、クリシュナ意識を発達させることに非常に真剣な者は、クリシュナを理解したいという自分の望みが主の恵みによって非常に早く叶えられる、と述べられています。

第5段落
「あなたは主への献身奉仕を守るために適切な人物です」とチャイタンニャ・マハープラブは続けました。「したがって、あなたに神の科学を教えることは私の義務です。そして私はあなたにすべてのことを一つ一つ教えましょう。」

第6段落
自分の本来の立場について問うことは、霊的指導者に近づく弟子の義務です。その霊的な過程に従って、サナータナは既に「私は何ですか?そしてなぜ私は三重の悲惨さに苦しんでいるのですか?」と尋ねました。三重の悲惨さは、アデャートミカ、アディーボーティカ、そしてアディーダイヴィカと呼ばれます。

アデャートミカという言葉は、心と体によって引き起こされる悲惨さを指します。時として生命体は身体的に苦しみ(to suffer)、そして時には精神的に苦しみます(distressed)。どちらもアデャートミカの悲惨さです。私たちは母親の胎内においてさえ、これらの悲惨さを経験します。

私たちがよく知っているように、繊細な人間の体を利用して私たちに痛みを与える様々な種類の悲惨さがあります。他の生命体によってもたらされる悲惨さはアディーボーティカと呼ばれます。これらの生命体は大きなものである必要はありません。(訳注:大きなものとは限りません。)

ベッドで眠っているときでさえ私たちを惨めにする虫などがたくさんいるからです。時として私たちに痛みを与える、例えばゴキブリのような取るに足らない虫がたくさんいます。また、別の惑星に生まれて私たちに悲惨さを与える生命体もいます。

アディーダイヴィカの悲惨さについて言えば、より高位の惑星の半神たちに起因する自然災害があります。例えば、私たちは時として厳しい寒さや暑さ、落雷、地震、竜巻、旱魃などの多くの自然災害に苦しみます。どちらにしても、私たちはいつもこれらの3種類の悲惨さのうちの一つ、あるいはそれらの組み合わせによって苦しんでいます。

第7段落
したがって、サナータナの問いは知性的なものです。「生命体の立場は何ですか?」と彼は尋ねました。「なぜ彼らはいつもこれらの3種類の苦しみを経験しているのですか?」サナータナは自分の弱さを認めました。彼は一般大衆によって大いに学識のある人として知られていましたが、

(そして実際彼は大いに学識のあるサンスクリット学者でした)、そして自分でもそれは分かっていたにも関わらず(although he accepted this designation、この場合のdesignation は「一般に認められている自分の立場」ということであり、それを自ら受け入れていた、という意味だと思います)、

彼は実際には自分の本来的な立場が本当は何であるのかということ、そして一体なぜ自分がこの三重の悲惨さの影響下にあるのかということを知りませんでした。

第8段落
霊的指導者に近づくことは、格好をつけるためではなく、物質的な悲惨さを真剣に意識しており、そしてそれから自由になりたいと望む者にとって必要なことです。そのような人にとって、霊的指導者に近づくことは義務です。このことに関して、私たちはバガヴァッド・ギーターの中のよく似た状況に留意すべきです。

戦うべきか戦わざるべきかということに関してアルジュナが数多くの問題で混乱していたとき、彼は主クリシュナを自分の霊的指導者として受け入れました。それもまた、至高の霊的指導者が生命体の本来的な立場に関してアルジュナに教えたという出来事でした。

第9段落
バガヴァッド・ギーターの中で、私たちは個々の生命体の本来的な性質は霊魂であると知らされています。生命体は物質ではありません。霊魂として、生命体は至高の魂、完全真理、至高の人格神の欠かすべからざる小片です。

私たちはまた、服従することが霊魂の義務であるということを学びます。そうして初めて霊魂は幸せでいることができるからです。バガヴァッド・ギーターの最後の教えは、霊魂が至高の魂であるクリシュナに完全に服従し、そうやって幸せに気づくというものです。

第10段落
ここでもまた、主チャイタンニャがサナータナの問いに答えて同じ真理を繰り返されます。しかし、違いはあります。ここでは、主チャイタンニャは既にバガヴァッド・ギーターで描写されている霊魂に関する情報を与えられません。むしろ、主はクリシュナがご自分の教えを終えられた時点から始められます。

主チャイタンニャは、偉大な献身者たちによってクリシュナご自身であるとして受け入れられています。そしてこの視点から見ると、主はバガヴァッド・ギーターにおいてご自分がアルジュナに与えた教えを終えた時点からサナータナへの教えを始めておられます。

第11段落
「あなたの本来的な立場は、あなたは純粋な生きた霊魂であるというものです」と主はサナータナにおっしゃいました。「この物質的な体は、あなたの本当の自己としては見なされ得ません(cannot be identified with、同一視され得ない)。

あなたの心があなたの本当の自己認識(identity、正体)であるのでもなく、あなたの知性でもなく、偽りの自我でもありません。あなたの自己認識は、至高主クリシュナの永遠の従者であるというものです。あなたの立場は、あなたは超越的である、というものです。

クリシュナの優性なるエネルギーは本来的に霊的であり、劣性な外的エネルギーは物質的です。あなたは物質エネルギーと霊的エネルギーの中間にあるので、あなたの立場は境界的です。クリシュナの境界的な力に属しているので、あなたは同時にクリシュナと一つであり、同時にクリシュナと異なります。

あなたは霊なので、あなたはクリシュナと異なりません。そしてあなたはクリシュナの微細な粒に過ぎないので、あなたは主とは異なります。

第12段落
この、同時に一つであって異なる、というのは、生命体と至高主の間の関係にいつも存在します。生命体の境界的な立場から、この「同時に一つであって異なる」という概念が理解され得ます。生命体はちょうど太陽光の粒子のようなものです。

他方で、クリシュナはごうごうと燃えて輝く太陽そのものに比べられるでしょう。主チャイタンニャは生命体を火から(弾ける)燃える火花に例え、至高主を燃え盛る火に例えました。このことに関して、主はヴィシュヌ・プラーナ(VP1.22.52)からの節を引用しました。

(サンスクリット引用)

「この宇宙世界の内に顕現しているものは、すべて至高主のエネルギーに他なりません。ある場所から放射している火がその光と熱を周り一帯に行き渡らせるように、主は霊的な世界の一つの場所にいらっしゃるにも関わらず、ご自分の様々なエネルギーを至るところに顕現なさいます。実に、宇宙の創造全体が主のエネルギーの様々な顕現から成っています。」

第13段落
至高主のエネルギーは超越的で霊的であり、生命体はそのエネルギーの欠かすべからざる小片です。しかし、もう一つ、物質エネルギーと呼ばれるエネルギーがあります。それは無明の雲に覆われています。物質自然であるこのエネルギーは、三つの相、すなわちグナ(徳、熱情、および無明)に分けられます。

主チャイタンニャはヴィシュヌ・プラーナ(VP1.3.2)から、全ての計り知れないエネルギーが主の至高の人格の中に鎮座しており、宇宙の顕現全体が主の計り知れないエネルギーに従って(due to)活動する、という内容の節を引用なさいました。

第14段落
主はまた、生命体はクシェトラジニャ、すなわち「活動の場を知る者」として知られている、とおっしゃいました。バガヴァッド・ギーターの13章において、体は活動の場として描写されており、生命体はクシェトラジニャ、すなわちその(活動の)場を知る者として描写されています。

生命体は本来的に霊的エネルギーに精通している、すなわち霊的エネルギーを理解する力を持っているにも関わらず、生命体は物質エネルギーによって覆われており、結果として体を自己であるとして認識します。この誤った自己認識が「偽りの自我」と呼ばれます。

この偽りの自我によって惑わされて、物質存在の中の困惑した生命体は体を様々に変え、多様な悲惨さに苦しみます。生命体の本当の立場に関する知識は、異なる種類の生命体によって異なる程度に所有されています。(訳注:生命体の種類によって、自分の本当の立場をよく知っている者もあれば、ほとんど全く知らない者もあります。)

第15段落
言い換えると、生命体は至高主の霊的エネルギーの欠かすべからざる小片であると理解されるべきだということです。物質エネルギーは劣性なので、人間はこの物質エネルギーの覆いから抜け出して霊的エネルギーを活用する能力があります。

バガヴァッド・ギーターには、優性エネルギーは劣性エネルギーによって覆われている、と述べられています。この覆いによって、生命体は物質世界の悲惨さの影響下に置かれます。そして熱情と無明の様々な程度に応じて彼は物質的な悲惨さに苦しみます。

少し悟りを開いている者は苦しみの程度が少し低くなりますが、全体的に、すべての者が物質エネルギーに覆われていることによって物質的な悲惨さの影響下に置かれます。

第16段落
チャイタンニャ・マハープラブはまた、バガヴァッド・ギーターの7章からも引用なさいました。そこには、土、水、火、空気、エーテル、心、知性、および自我がすべて組み合わさって、至高主の劣性エネルギーを構成している、と書かれています。

しかし、優性エネルギーは生命体の本当の自己認識であり、物質世界全体が機能しているのはそのエネルギーが原因です。物質的な要素からできている宇宙の顕現は、優性エネルギーである生命体によって動かされない限り活動する力を持ちません。

事実、生命体の制約された人生は、生命体が優性エネルギーにおける至高主との自らの関係を忘れていることに起因する、と言うことができます。その関係が忘れられるとき、制約された人生が結果として生じます。主の永遠の従者であるという自分の本当の自己認識を取り戻すときにのみ、人間は解放されることができます。
by ammolitering4 | 2010-04-26 09:06 | 「主チャイタンニャの教え」


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