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序文 前半

この序文は古い文体で書かれていますので、翻訳に際しては多少の変更を加えています。例えば、プラブパーダの英語ではクリシュナやチャイタンニャなどの主を指す場合は大文字のHeが使われていて、私は大体いつも「主」と訳しています。でもここでは単にheになっています。クリシュナへの言及も多いので、紛らわしさを避けるために、「主」ではなく、そのまま「彼」と訳しました。

さらに、チャイタンニャ・マハープラブという同一人物を指すのにたった10ページで18もの異なる言い方がなされています。これは日本語の文章ではあまり馴染みのない手法で、かなり読んでいてややこしいので、「彼」、「ニマーイ」、「(チャイタンニャ)・マハープラブ」の3つくらいに絞りました。

また、構文が長くて複雑なものが多いので、意味を変えない程度にいくつかに切ったりしています。ああ、それともう一つ、私には人名や地名や物の名前などを理解したり覚えたりするのが極度に苦手だという特技があります。もはや自慢できる領域に達しているのです。

この短文の中には、いやというほどそんなのが出てきます。どれが何を指すのか、はたまた誰を指すのか、誰と誰がどういう関係にあるのか、訳していながら全然分かりません。どうぞご自分で表など作りながら解読してください。私もいずれは受験勉強のようにチャートを作ろうと思っています。

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序文

バークティヴィノダ・タークラ著

第1段落

この叙述は、もともとシュリーラ・バークティヴィノダ・タークラによる「シュリー・チャイタンニャ・マハープラブ;その人生と教え」と題した小編に収録されていました。(1896年8月20日)

第2段落

チャイタンニャ・マハープラブは、キリスト教徒の暦で言えば1486年2月18日にあたる、1407シャカーブダ23パールグナの夜、日没のすぐ後に、ナディアの町のマーヤープールにて(訳注:in Mayapur in the town of Nadia;西ベンガルのナディア地区にあるマーヤープール村)お生まれになりました。

ご生誕のときは月は月食になっており、そのような折には普通であったように、ナディアの人々は大きな声でハリボルと言いながらバーギーラティーで沐浴をしていました。彼の父であるジャガンナーター・ミシュラは、ヴェーダの階級のブラーマナでした。彼の母、サチー・デヴィーは、模範的な女性でした。そして彼らはどちらも、もともとシルヘットに住んでいたブラーマナの家系の子孫でした。

マハープラブは美しい子供で、町の女性たちは贈り物を持って彼に会いに行きました。彼の母の父、有名な占星術師であるパンディタ・ニラームバラ・チャクラヴルティーは、この子供はやがて偉大な人物になる、と予言し、そのため彼にヴィシュヴァムバーラという名前を与えました。

近隣の女性たちは、彼の金色の肌色から、彼をゴーラハリと呼びました。彼の母は、彼がニムバの木の近くで生まれたので、それにちなんで彼をニマーイと呼びました。美しい子供だったので、誰もが毎日彼に会うことを心から愛していました。(訳注:大勢の人が毎日喜んで彼の姿を見に来ました)

成長すると、彼は気まぐれで陽気な子供になりました。5歳のとき、彼はパーターシャーラーに入学し、
そこで非常に短い間にベンガル語を覚えました。

第3段落(以下、「ニマーイ」)

チャイタンニャ・マハープラブと同時代の伝記者たちのほとんどは、彼の初期の奇跡の簡単な記録である、幾つかの特定の逸話に言及しています。(訳注:原文では改行されていませんが、ここでは6つに分けています)

1.乳児の頃、ニマーイは母親の腕の中で絶え間なく泣きました。そして、近所の女性たちが「ハリボル」と叫ぶと泣き止みました。こうして、彼の将来の使命を予言して(to foreshew、古語。To shew は現代語ではto show)、家の中では絶え間なくハリボルが発声されていたと言われます。

2.また、あるときニマーイの母が彼に菓子を与えて食べさせようとしました。すると彼は食物の代わりに土を食べたと述べられています。母がそのわけを尋ねると、彼は、すべての菓子は形を変えた土に過ぎず、自分は土も食べられるのだ、と答えました。パンディタの妻(consort、通常は「妃」)でもあった彼の母は、特定の状態にあるすべての物は特定の用途のためにある、と説明しました。

水差しの状態にある土は水を入れる容器として使われますが、レンガの状態ではその役割は果たせません。したがって、菓子の形をした土は食べ物として使われ得ますが、他の形をした土は食用になりません。彼は納得して土を食べた自分の愚かさを認め、今後は間違わないようにすることに同意しました。

3.もう一つの奇跡的な事柄が述べられています。巡礼中のブラーマナがニマーイの家の客人となり、料理をし、クリシュナに焦点を当てて(upon Krishna)瞑想しながら食前の感謝の祈りを読んだそうです。その間にニマーイがやってきて、炊いた米を全部食べてしまいました。

彼のしたことに驚愕したブラーマナは、ジャガンナーター・ミシュラの要求に応じて、もう一度料理をしました。ブラーマナが瞑想と共にクリシュナに(炊いた)米を捧げている間に、ニマーイはまたしてもそれを全部食べてしまいました。

ブラーマナは3度目の料理をすることを余儀なくされました。このときは家の者たちは皆寝静まっており、ニマーイは旅人にクリシュナとしての自分の姿を見せて、彼を祝福しました。ブラーマナは自分の崇拝の対象が現れたことに恍惚となりました。

4.また、二人の泥棒がニマーイの宝石を盗むつもりで彼を家の戸口からさらい、途中で菓子をあげたそうです。彼は人を幻惑させるエネルギーを使って、泥棒たちを惑わせて家に戻らせました。見つかることを恐れて、泥棒たちは彼をそこに残して逃げました。

5.記録されているもう一つの奇跡的な行いは、エカーダーシーの日にクリシュナを崇拝するために集められた捧げ物を、ニマーイがヒラニャとジャガディーシャに要求して、すべて手に入れたことです。

6.わずか4歳のとき、ニマーイは、母が不浄であると考えていた、捨てられた料理用の鍋の上に座りました。彼は母に、料理が終わった後で捨てられた土製の鍋には浄も不浄もない、と説明しました。

第4段落

8歳のとき、ニマーイは、マーヤープールの村に近いガンガーナガラの、ガンガーダーサ・パンディタのトラに入学しました。2年後、彼はサンスクリット語の文法と修辞法に熟達しました。その後のニマーイの学習(readings、読書、学識)は、パンディタであった父が所有していた非常に重要な書物があった自宅での、独学という性質のものでした。その頃の著名なパンディタであったラグナーター・シロマニの下で勉強していた友人たちと競争して、彼は独学でスムリティとニャーヤを読んだようです。

第5段落

さて、10歳になってからは、ニマーイは文法、修辞学、スムリティおよびニャーヤの、ある程度の学者になりました。彼の兄、ヴィシュヴァルーパが家を出てサンニャースィー(行者)のアーシュラマ(階級)を受け入れたのは、その後でした。とても若い少年ではありましたが、兄は神を喜ばせるという目的を持って彼らに仕えるのだ、と言ってニマーイは両親を慰めました。その後すぐ、父がこの世を去りました。母は大いに悲しみ、そしてニマーイはいつもの穏やかな様子で夫を亡くした母を慰めました。

第6段落

同じくナディア地域の、ヴァラバーチャーリャの娘ラクシュミデヴィーとニマーイが結婚したのは、彼が14歳か15歳のときでした。この年齢の頃、彼は、ニャーヤ哲学とサンスクリット語学習の有名な中心地であるナディア地域で最も優れた学者の一人だと考えられていました。スマールタ・パンディタたちは言うまでもなく、ナイヤーイカたちは皆、学術上の議論で彼と対決することを恐れていました。

結婚した男性として、彼は富を得るためにパドマの河岸の東ベンガルに行きました。そこで彼は自分の学識を披露して大金を得ました。彼が時折ヴァイシュナヴァ主義を説教したのは、このときです。タパナミシュラにヴァイシュナヴァ主義を教えた後、ニマーイは彼にベナレスに行って住むように命令しました。

ニマーイが東ベンガルに住んでいた間に、妻のラクシュミデヴィーが蛇にかまれてこの世を去りました。家に帰ると、彼は母が嘆き悲しんでいる様子を見ました。彼は人間の事柄の不確実性に関する話をして彼女を慰めました。ニマーイがラージャ・パンディタ・サナータナ・ミシュラの娘ヴィシュヌプリヤーと結婚したのは、母の頼みによってでした。

ニマーイの仲間たちは、彼がプラヴァーサ、すなわち(一時的な)滞在から戻ると、彼に合流しました。彼はこの頃にはとても有名だったので、ナディアで最も優れたパンディタであると考えられていました。自らを偉大なディグヴィジャイーと呼んでいたカシミヤのケシャヴァ・ミシュラは、その地のパンディタたちと議論をするつもりでナディアにやってきました。

いわゆる「征服するパンディタ」を恐れて、ナディアのトラの教授たちは招待された振りをして町を離れました。ケシャヴァは、マーヤープールのバロコナ・ガーターでニマーイに会い、ごく短い議論の後で若きニマーイに打ち負かされました。そして、彼は屈辱のあまり立ち去らざるを得ませんでした。ニマーイは、いまや彼の時代の最も重要なパンディタになりました。

第7段落

ニマーイが大勢の生徒たちと共にガヤーに旅して、ヴァイシュナヴァのサンニャースィーにして有名なマーダーヴェンドラ・プリーの弟子であるイーシュヴァラ・プリーから、その地で霊的な洗礼を受けたのは、16歳か17歳の頃でした。

ナディアに戻ると、ニマーイは宗教的な説教者になり、宗教的な性質がとても強く表されたので、彼の降誕の前に既にヴァイシュナヴァの信仰を受け入れていたアドヴァイタ・プラブ、シュリーヴァーサ、および他の人々は、彼の変化に驚愕しました。

彼はその頃はもはや、競い合うナイヤーイカでもなく、論争するスマールタや批判する修辞学者でもありませんでした。彼はクリシュナの名に恍惚となり、宗教的な感傷の影響の下で、啓示を受けた人として振舞いました。

シュリーヴァーサ・パンディタの家で、そのほとんどが学識のある学者であった何百人もの信者(followers)の前でニマーイが自分の神々しい力を見せたところを目撃したムラーリ・グプタは、それを描写しています。

ニマーイが自分の誠実な信者たちと共にシュリーヴァーサ・パンディタの屋敷でキールタンの夜学を開いたのは、このときでした。そこで彼は説教し、歌い、踊り、様々な宗教的な感情を表しました。その頃はヴァイシュナヴァ主義の説法者であり、既にインド中の旅を終えていたニテャーナンダ・プラブは、この頃までにはニマーイに仲間に加わりました。

事実、いずれも誠実な心の持ち主である大勢のヴァイシュナヴァ主義のパンディタ説法者たちは、ベンガルの様々な地域から来てニマーイの仲間に加わりました。ナディアは今や、ヴァイシュナヴァ宗派の最高の影響で人類を霊化することを使命とする大勢のヴァイシュナヴァ・アーチャーリャたちの正式な中心地をなりました。

第8段落

ニマーイがプラブ・ニテャーナンダとハリダーサに出した最初の命令は、次のようなものでした。「友人たちよ、行きなさい。行って町の通りを歩き、すべての人の戸口を叩き、聖なる暮らしをしてハリの名を歌うように彼らに頼みなさい。そして、夜毎私のところに来て、あなたがたの布教の結果を報告しなさい。」

このように命令され、二人の布教者は行って、極めて忌まわしい二人の人物、ジャガーイとマーダーイに会いました。ニマーイの命令を聞いて、彼らは布教者たちを侮辱しました。しかし、ニマーイが説き聞かせたバークティ(献身)の影響によって、すぐに改心しました(to convert、改宗する)。

ナディアの人々はこれに驚きました。彼らは、「ニマーイ・パンディタはとてつもない天才であるだけでなく、確かに万能の神からの使節だ」と言いました。このときから23歳のときまで、ニマーイは自分の信条をナディアだけでなく周辺のすべての重要な町や村で布教しました。

彼は信者たちの家で奇跡を見せ、バークティの深遠な原理を教え、他のバークタたちと一緒にサンキールタンを歌いました。ナディアの信者たちは、通りや市場でハリの聖なる名を歌い始めました。これは大評判となり、様々なところで異なる感情を引き起こしました。

バークタたちは非常に喜びました。スマールタ・ブラーマナたちは、ニマーイの成功をねたむようになりました。そして、彼の性質はヒンドゥー的ではない、とチハンド・カジに苦情を訴えました。カジはシュリーヴァーサ・パンディタの家に来て、そこでムリダンガ(コーラ太鼓)を壊し、ニマーイが自分のいかがわしい宗教に関して無駄に騒ぎ立てるのを止めないかぎり、彼と彼の信者たちにイスラム教を強制せざるを得ない、と宣言しました。

これがニマーイに伝えられました。彼は町の人々に、夜になったらそれぞれ手にタイマツを持ってやってくるように命じました。人々はこれに従いました。ニマーイは14のグループに分けられたサンキールタンと共に行進し、カジの家に着くと、カジと長い会話を交わしました。

最後には、ニマーイはカジの体を触って彼の心にヴァイシュナヴァの影響を伝えました。カジは涙を流し、強烈な霊的な影響を感じたと認めました。それは彼の疑いを晴らして、彼の心に宗教的な感傷を引き起こし、最高の恍惚感を与えたのでした。

そしてカジはサンキールタン隊に加わりました。人々(the world)は偉大なる主(ニマーイ)の霊的な力に驚愕し、この出来事の後で何百人も何百人もの異教徒が改宗してヴィシュヴァムバーラの旗下に加わりました。

第9段落

クリア(地名)に住む何人かの妬み深くて心の卑しいブラーマナたちがニマーイに口論を吹っ掛け、彼に反対するグループを結集したのはその後でした。ニマーイは、自分の信条においては強固であったとはいえ、元来心優しい方でした。彼は、党派心と宗教上の派閥主義は発達を阻む二つの大きな敵であり、自分が特定の家族に属するナディアの住人であり続ける限り、自分の使命は完全な成功に至ることはない、と宣言しました。

そして彼は、自分の特定の家族、階級および宗派との繋がりを断つことで、世界全体の中の一人(a citizen of the world)となる決心をしました。そして、この決意をもって、彼はカトワ(地名)でその町のケシャヴァ・バーラティーの指導の下でサンニャースィーの立場を進んで選び取りました。24歳でした。

彼の母と妻は、別離にあたってひどく泣きました。しかしニマーイは、心優しいとはいえ、信条においては強固な方でした。一般大衆と共にクリシュナの無限なる霊的な世界を求めるために、彼は自分の家の中の小さな世界を去りました。
by ammolitering4 | 2009-12-23 12:10 | 「主チャイタンニャの教え」


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