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人間はほんとに小さいなあと思います。アリとかバクテリアになるともっと小さいですけど、人間も大した違いはありません。昨日、宇宙の写真を見ていたのです。夜中の3時に目が覚めて、音を消してテレビを見ていたのですが、それに宇宙のきれいな写真がたくさん出ていました。大分県で撮影されたものでしたが、そしたら割と近いです。家から外に出て空を見上げたって同じような美しい星空が見えそうなものなのに、あいにく見えるのは月だけ。よく見れば北斗七星なんかも見えますけど。
霊的な世界は創造全体の4分の1なのだそうです。しかし、無限大のクリシュナの創造もまた無限大です。そうすると、無限大の4分の1って、どういうことになるのでしょう。たくさんある宇宙は神様の毛穴から出るとか呼吸のときに出るとか言いますが、物質創造とか物質宇宙とかいうのは、この粒々の集合体を指すのかな。 無限に大きいように思える宇宙ですが、ただの粒です。それを無数倍しても4分の1にしかならない。その粒の中に銀河とか星雲とかたくさん浮いていて、、、これを外から見たらどんな感じかな。ホコリみたいに小さいキラキラが真っ黒い丸の中にたくさん浮いてる感じかな。それも、たぶんものすごくたくさん。 そして、そのホコリの粒の一つの中に太陽があります。地球なんか発光してないからそもそも見えないのでしょう。でも、これはあくまで人間の物質的な目には見えない、という話です。近付いてみたら、太陽の光に照らされてるのが分かるかもしれない。この小さな小さな粒の表面に水から出ているところがあって、それからさらに顕微鏡で見たら私たちがいる。一番最初の、神様の毛穴から出てきた粒のところから考えると、これはもう「小さい」という言葉では足りません。 それともう一つ、宇宙の粒は吐き出されては吸い込まれます。呼吸ですね。人生はまことにフラクタルです。まあそれで、そうやって始まりと終わりがあるので、時間という大きさもあります。人間が生きている時間というのは、これまた体の大きさに負けず劣らず小さいものだなと思います。神様が私たちにおっしゃいます。「物質の自然はものすごーく強いのですよ」と。そりゃそうでしょうね、と思います。抗った結果がどうなるか、考えても分からないほどの知能しか持ち合わせてないかに見える私たちですけれど。 原因には必ず相応の結果が伴う、というのも繰り返し繰り返し語られることの一つです。閉じた世界なのですから、どこかを押せばどこかがその分へっこむ、というのは考えるまでもない話です。神様は最大の存在ですが、最小の存在でもあります。そして完璧で完全な存在です。私たちはその一部なので、言ってみれば創造の中心です。無数にある創造の中心の一つです。自分の宇宙に自分で蒔いた種がいつか自分に戻ってくるのは、不思議とはいえません。 人間はいろんなことをやってますが、行為の結果や反応が「今日」我が身に降りかからなければ結果とは存在しないと思っているように見えます。最後の眠りについて、そして再び目覚めた「明日」になって結果が訪れても、自分で招いた客人を拒むわけにはいきません。想像すると胸が痛くなるようなことはたくさんありますが、考えると絶望的になるのは人間が天体に対して行っている破壊行為です。行為の相応な結果というのが、これほど分かりやすいものもないからです。 過去数年の間に、人間はわざわざ出掛けていって故意に天体に爆発を起こしました。一つは彗星、もう一つは月です。プラブパーダは、どこかで「彗星にも生物がいる」と書いていらっしゃいました。私たちの目には見えない生物かもしれないし、あるいは半神かもしれません。月にはチャンドラ様がいらっしゃいます。ヴェーダでは月は地球よりも高い次元にある天体とされています。それでなくても私たちには月を「お月様」と崇める心がありました。 さて、彗星について話せば長くなりますが、分かりやすい月について考えてみましょう。集合体としての人間が、高次の存在であるチャンドラ様のお住まいに爆弾を2発撃ち込みました。そのうちの一つには核弾頭が搭載された疑いが持たれているそうです。何らかの理由で不発に終わったそうですけれど。この爆撃は、その3年前に行われたディープインパクトという彗星爆破の結果から計算して、爆発規模の予想が計算されていました。「見ものだぞ」と言って前宣伝ばかり派手でしたが、不思議なことに、ちゃんと命中したのに予想したような巨大な爆発が生じなかったのです。では、なぜ彗星のときはあんなに派手に発光して大きく爆発したのでしょう。私は全く個人的な想像で彗星にも水爆が使われたのだろうと思っていますが、もちろん本当のところは分かりません。 この図の裏返しはどんな絵になるでしょう。こういう実験に嬉々として参加し、「お星様に名前を送ろう」などという絶望的に馬鹿げたキャンペーンに乗る人たちもいます。信じがたいことですが、本当なのです。どちらのときも、発射された弾頭には数百人の名前を書いた紙だかCDだかが搭載されました。SF的に言えば宇宙警察に犯罪者名簿を届けるようなものじゃないかなと思いますが、それはそれ。こういう実験の存在を知らなかった、あるいは知っていて反対していた者の上にも、集合的な行為の結果が訪れます。さて、いつ頃どんなお客様がいらっしゃるでしょうね。しっかり目を覚ましてお待ちすることにしましょう。
第20章 ヴェダーンタ学習の目的
第1段落 主クリシュナ、すなわちヴィシュヌはこの物質世界のものではない、と結論づけられます。主は霊的な世界に属します。主を物質的な半神であると考える者は、大いなる侮辱者であり、冒涜者です。主ヴィシュヌは物質的な感覚による知覚の影響下にはなく(訳注:~によっては知覚し得ず)、精神的な推量による認識もされ得ません。物質的な世界ではいつも体と魂の間には違いがありますが、至高主の体と魂の間には違いがありません。 第2段落 物質的な物は生命体によって楽しまれます。なぜなら、生命体は優性であり、一方で物質自然は劣性の性質のものだからです。このように、生命体という優性な性質は物質という劣性な性質を楽しむことができます。 主ヴィシュヌは決して物質によって作用されない(touched)ので、主は生命体がするような方法で物質自然を楽しむことはありません。(He is not subject to enjoy material nature the way the living entities do.生命体がするような方法で楽しまねばならないということはない、というような意味。この場合の「楽しむ」は、「利用する、支配する」という意味合いになります。) 生命体は自分たちの「精神的な推量」という習慣を楽しむことによって(訳注:喜んで~することによって)ヴィシュヌに関する(of)知識を得ることはできません。微小な生命体はヴィシュヌを楽しむものではなく、ヴィシュヌによって楽しまれます。最もひどい侮辱者だけが、ヴィシュヌは楽しまれる、と考えます。最大の冒涜は、ヴィシュヌと生命体が同じ水準にあると考えることです。 第3段落 至高の完全真理、至高の人格神は、燃え盛る火になぞらえられます。そして無数の生命体はその火から放射している火花になぞらえられます。至高主と生命体はどちらも質的には火ですが、それでも区別はあります。 至高主ヴィシュヌは無限大であり、他方で、火花に過ぎない生命体は微小です。微小な生命体はもともとの無限大の霊から放射しています。彼らの微小な霊としての本質的な立場には、物質の痕跡はありません。 第4段落 生命体は、この物質創造を超越しているナーラーヤナ、ヴィシュヌと同じほど偉大ではありません。シャンカラーチャーリャでさえ、ナーラーヤナを「物質創造を超越している」として受け入れます。ヴィシュヌも生命体もどちらも物質創造のもの(of material creation)ではないので、誰かは「なぜそもそも霊の小さな粒が作られたのですか?」と尋ねるかもしれません。 答えは、至高の完全真理はご自分の完璧性において、同時に無限大で微小であるときに完全です。もしも主が単に無限大であって微小でないなら、主は完璧ではありません。無限大の部分がヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち至高の人格神であり、そして微小な部分が生命体です。 第5段落 至高の人格神の無限の欲求が原因で霊的な世界の中に存在があり、そして生命体の微小な欲求が原因で物質世界に存在があります。微小な生命体が物質的な楽しみのための自分たちの微小な欲求に携わっている(engaged、「一生懸命になっている」)とき、彼らはジーヴァ・シャクティと呼ばれます。 しかし、彼らが無限大の存在と繋がっているとき、彼らは「解放された魂」と呼ばれます。したがって、なぜ神が微小な部分を創ったのか、と尋ねる必要はありません。彼らは単に至高存在の補足的な側面です。疑いもなく、無限大の存在にとっては、至高の魂の切り離せない、欠かすべからざる小片である微小な部分を持つのは、絶対必要です。 (訳注:parts and parcelという表現は、直訳すれば「部分と部分」となり、同じ意味の異なる言葉を繰り返しているだけです。しかし、組み合わさった慣用表現としては「絶対に欠かせない小さな一部分」という意味になります。生命体の描写に多用されます。) 生命体は至高存在の微小な欠かすべからざる小片なので、無限大の存在と微小な存在の間には気持ち(feeling)の交換があります。もしも微小な生命体がなかったら、至高主は非活性であったでしょう。そして、霊的な人生には多様性がなかったでしょう。 もしも国民がいなかったら、王には意味はありません。そして、もしも生命体がいなかったら、至高神には意味がありません。もしも支配する対象が誰もいなかったら、「支配者(lord)」という言葉にどうして意味があり得るでしょうか? 結論は、生命体は至高主のエネルギーの拡張体であると考えられ、そして至高主、至高の人格神、クリシュナはエネルギー的な存在(訳注:the energetic、これは以前にも出てきましたが、「エネルギーの源」という理解でいいかと思います。適切な訳語を思いつきません。)である、というものです。 第6段落 バガヴァッド・ギーターとヴィシュヌ・プラーナを含むすべてのヴェーダ文献において、エネルギーとエネルギー的なものの間の区別をつけるための多くの証拠が与えられています。バガヴァッド・ギーター(BG7.4)において、「土、水、火、空気、およびエーテルが物質世界の5つの基本的な濃密な要素であり、そして心と知性と偽りの自己が3つの希薄な要素である」と明白に述べられています。 すべての物質自然は、これらの8つの要素に分けられます。それらは合わさって主の劣性の自然(nature、性質)あるいはエネルギーを構成します。この劣性の自然のもう一つの名前はマーヤー、すなわち幻想です。 これらの8つの劣性の要素を超えたところにパラー・プラクリティと呼ばれる優性のエネルギーがあります。そのパラー・プラクリティが、物質世界全体を通して大変な数で見られる生命体です。彼(生命体)はバガヴァッド・ギーター(BG7.5)の中でジヴァ・ブータームとして示されています。 説明は、「至高主は完全真理、エネルギー的な存在であり、そのため主はご自分のエネルギーをお持ちである」ということです。主のエネルギーが正しく顕現していないとき、すなわちそれが何らかの影によって覆われているとき、それはマーヤー・シャクティと呼ばれます。物質的な宇宙の顕現は、その覆われたマーヤー・シャクティの産物です。 第7段落 生命体は、事実として、この覆われた劣性なエネルギーを超えています。彼らは、自分の純粋な霊的な存在と純粋な正体(identity)、そして純粋な精神的な活動を持っています。それらすべてはこの物質的な宇宙の顕現を超えています。 生命体の心と知性と正体はこの物質世界の枠を超えたものではありますが、彼(生命体)が自分の「物質を支配したい」という欲求からこの物質世界に来るとき、彼のもともとの心、知性、そして体は、物質自然によって覆われるようになります。 彼から再びこれらの物質的、すなわち劣性なエネルギーという覆いが取り除かれるとき、彼は「解放された」と呼ばれます。解放されたとき、彼は偽りの自己を持たず、彼の本当の自我が再び存在するようになります。 愚かな精神的な推量者たちは、解放の後は人の独自性(identity)は失われる、と考えますが、それはそうではありません。生命体は永遠に神の欠かすべからざる小片なので、解放されたとき彼は自分のもともとの永遠な「欠かすべからざる小片」という正体(identity)を回復します。 アハム・ブラーマースミ(「私はこの体ではない」)という認識は、生命体が自分の独自性を失うことを意味するのではありません。現時点では、人は自分を物質であると考えるかもしれませんが、解放された状態においては、彼は「自分は物質ではなく霊魂、無限大な存在の部分である」と理解するでしょう。 クリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしむことは、解放された段階のしるしです。ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)の中に、明らかに述べられています。 (サンスクリット引用) 「至高主のエネルギーは3つに分けられます。パラー、クシェトラジニャおよびアヴィデャーです。」パラー・エネルギーは、実際は至高主ご自身のエネルギーです。クシェトラジニャ・エネルギーは生命体です。そしてアヴィデャー・エネルギーは物質世界、すなわちマーヤーです。この物質エネルギーの魔力の下で、人が自分の本当の立場と自分の至高主との関係を忘れるので、それはアヴィデャー、すなわち無明のエネルギーと呼ばれます。 結論は、生命体は至高主のエネルギーの一つを代表しており、そして至高存在の微小な欠かすべからざる小片として、それらはジーヴァと呼ばれます。もしも―――両方ともブラーマン、すなわち霊であるため―――ジーヴァが人工的に無限大の至高存在と同じ水準に置かれたら、幻惑が確かに結果として生じるでしょう。(訳注:「もしも両者を同列に並べるなら、人は間違いなく幻惑されるでしょう」) 第8段落 一般に、マーヤーヴァーディーは生命体の呪縛の原因を説明することができないので、マーヤーヴァーディー哲学者は学識のあるヴァイシュナヴァの前で当惑させられます。彼らは単に「それは無明が原因です」と言います。 しかし彼らは、「もしも生命体が至高であるなら、なぜ無明によって覆われたのか」ということを説明できません。実際の理由は、「質的には至高存在と一つであるにも関わらず、生命体は微小であり、無限大ではないから」というものです。もしも彼らが無限大であったなら、彼らが無明によって覆われる可能性はなかったでしょう。 生命体は微小であるので、彼は劣性のエネルギーによって覆われます。マーヤーヴァーディーたちの愚かさと無知は、彼らが「どうやって(how it is、一体どうして)無限存在が無明によって覆われたか」を説明しようとするとき、あばかれます。無限存在を「無明の魔力の影響を受けるもの」と決め付けようとする(to attempt to qualify ~ as ~)のは無礼です。 第9段落 シャンカラは至高主を自分のマーヤーヴァーディー哲学によって覆い被せようとしていましたが、彼は単に至高主の命令に従っていました。彼の教えはその時代に必要なもの(timely necessity)でしたが、永遠の事実ではない、と理解されるべきです。 ヴェダーンタ・スートラにおいて、エネルギーとエネルギー的なものの間の違いは初めから受け入れられています。そのヴェダーンタ・スートラにおいて、最初の格言(aphorism、金言、警句など)(ジャンマーディ・アシャ)は、「至高の完全真理がすべての放射物の源(訳注:the origin or source、同義の言葉の繰り返し)である」と明らかに説明します。 このように、放射物は至高存在のエネルギーであり、一方で至高存在ご自身はエネルギー的な存在です。シャンカラは、「もしもエネルギーの変容が受け入れられるなら、至高の完全真理は不変であり続けることはできない」と偽りの議論をしました(訳注:falsely argued、シャンカラは故意に誤った議論をしているため、「偽り」としています)。 しかし、これは本当ではありません。無限のエネルギーがいつも作られているという事実にも関わらず、至高の完全真理はいつも同じであり続けます。主は無限のエネルギーの放射によって影響されません。したがってシャンカラチャーリャは、自分の幻想の理論を不正確に確立しました。 第10段落 ラーマーヌジャーチャーリャは、この点を非常に良く議論しました。「もしもあなたが「この物質世界の創造の前には一つの完全真理しかなかった」と議論するなら、それならどうして、生命体が主から放射したというのが可能なのですか?もしも主がたった一人だったなら、どうやって主は微小な生命体を作り出したり、あるいは生み出したり(produced or generated)することができたのですか?」 この問いへの答えとして、ヴェーダは「すべては完全真理から生じ、すべては完全真理によって維持され、そして滅亡の後ですべては完全真理の中に入る」と述べています。この言明から、「生命体は解放されたときに至高の存在の中に入り、自分のもともとの本質的な立場を変えない」というのは明らかです。 第11段落 私たちはいつも、「至高主はご自分の創造的な機能を持ち、微小な生命体もまた自分の創造的な機能を持っている」ということを覚えておかねばなりません。彼ら(生命体)が解放されて物質的な体が滅びたあとで至高存在の中に入るとき、彼らの創造的な機能が失われる、というのではありません。 その反対に、生命体の創造的な機能は、解放された状態において正しく顕現します。もしも生命体の活動が彼が物質的に制約されているときでさえ顕現するなら、それならどうして、彼の活動が彼が解放を得たときに止まるということが可能でしょうか? 生命体が解放の状態に入るというのは、鳥が木に入ること、あるいは動物が森に入ること、あるいは飛行機が空に入ることに比べられるかもしれません。どの場合でも、独自性(identity)は失われません。
第11段落
それから主はヴェダーンタについて次のように話し始めました。至高主は、ヴャーサデヴァとしての化身において、この偉大な哲学的な論文を編纂なさいました。ヴャーサデヴァは至高主の化身なので、彼は物質的な存在との接触によって生じる4つの欠陥を持つ普通の人間になぞらえられ得ません。 制約された魂の欠陥は以下のものです: 1、彼は必ず間違いを犯す 2、彼は必ず幻惑される 3、彼は必ず他者を騙す傾向を持つ 4、彼のすべての感覚は必ず不完全である 私たちは、神の化身はこれらすべての欠陥を超越していると理解しなければなりません。そのため、ヴャーサデヴァによって語られたり書かれたりしたことは、すべて完璧であると考えられます。ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラは、至高の完全真理という同じ目的を目指しています。 私たちがヴェダーンタ・スートラとウパニシャッドの意味(import、重要性)を、述べられているままに直接受け入れるとき、私たちは神聖な栄光を与えられるようになります(glorified)。しかし、シャンカラーチャーリャによってなされた注釈は間接的であり、(それを)読むのは俗人にとって非常に危険です。 なぜなら、ウパニシャッドの意味をそのような間接的で混乱させるような方法で理解することによって、人は実質的に自分自身を霊的な認識から阻むからです。 第12段落 スカンダとヴァーユ・プラーナによれば、スートラという言葉は、間違いや欠陥がなく、計り知れない強さのある意味や重要性を持つ、凝縮された作品を指します。ヴェダーンタという言葉は「ヴェーダの知識の終わり」を意味します。言い換えれば、すべてのヴェーダによって示されている主題に関するあらゆる本がヴェダーンタと呼ばれます。 例えば、バガヴァッド・ギーターはヴェダーンタです。なぜなら、バガヴァッド・ギーターの中で主は、すべてのヴェーダ研究の究極的な目標はクリシュナである、とおっしゃるからです。そのため、クリシュナだけを焦点とするバガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、ヴェダーンタであると理解されます。 第13段落 超越的な認識においては、プラスターナ・トラヤと呼ばれる、知識の3つの部門があります。(訳注:これは「プラスターナ・トラヤ」が「知識」を指すのか「三つの部門」を指すのかはっきり分かりませんが、以下の描写からおそらく3つを総称しているものと思われます。原文はthere are three divisions of knowledge called prasthana-trayaなので、trayaが「3」を指すのかもしれません。以下、文中の3つのプラスターナに下線を引いて分かりやすくしました。) (ウパニシャッドのような)ヴェーダの教えによって認められた知識の部門はシルティ・プラスターナ(1)と呼ばれます。究極の目的を示し、ヴャーサデヴァのような解放された魂によって書かれた権威ある本(例えばバガヴァッド・ギーター、マハー・バーラタ、そして特にシュリマッド・バーガヴァタム、マハー・プラーナなどのプラーナ)は、スムリティ・プラスターナ(2)と呼ばれます。 ヴェーダ文献から、私たちは「ヴェーダはナーラーヤナの呼吸から生じた」と理解します。ナーラーヤナの力の化身であるヴャーサデヴァはヴェダーンタ・スートラ(ニャーヤ・プラスターナ(3))を編纂しましたが、シャンカラの注釈によれば、アパーンタラタマー・リシもまた、ヴェダーンタ・スートラの法典(code)を編纂したと見なされています。 主チャイタンニャによれば、パンチャラートラの法典とヴェダーンタの法典は全く同一です。ヴェダーンタ・スートラはヴャーサデヴァによって編纂されたので、それはナーラーヤナご自身によって語られたのだと理解されるべきです。 ヴェダーンタ・スートラを扱うすべての描写的な文献から、同じくヴェダーンタ・スートラを議論した、ヴャーサデヴァと同時代の他の多くのリシたちがいたように見えます。これらの賢人たちは、アートレヤ、アーシュマラテャー、オードゥロミ、カールシナージニ、カーシャクリツナ、ジャイミニ、バーダリー、そしてパーラーシャリーとカルマンディーなどの他の賢人たちです。 第14段落 実際、ヴェダーンタ・スートラの最初の二つの章の中で生命体と至高主の間の関係が説明されており、そして第3章の中で献身奉仕の遂行が説明されています。第4章は献身奉仕を遂行することから生じる関係を扱います。 ヴェダーンタ・スートラの自然な注釈がシュリマッド・バーガヴァタムです。4つのヴァイシュナヴァの注釈(サムプラダーヤ)の偉大なアーチャーリャたち―――すなわちラーマーヌジャーチャーリャ、マドヴァーチャーリャ、ヴィシュヌスヴァーミー、およびニムバールカ―――もまた、シュリマッド・バーガヴァタムの原則にのっとることによってヴェダーンタ・スートラの注釈を書きました。 現在では、すべてのアーチャーリャの追従者たちが、ヴェダーンタの注釈としてシュリマッド・バーガヴァタムの原則にのっとって多くの本を書いています。シャリーラカ・バーシャとして知られるシャンカラの(書いた)ヴェダーンタ・スートラの注釈は、非人格主義者の学者たちによって非常に崇められています。 しかし、ヴェダーンタについて物質主義的な視点から書かれた注釈は、主への超越的な奉仕に完全に逆行しています。結果として、主チャイタンニャは「ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラの直接的な注釈は栄光があるが、シャンカラーチャーリャのシャーリーラカ・バーシャの間接的な道を辿る者は誰でも必ず不運な結果になる(doomed)」とおっしゃいました。 第15段落 主チャイタンニャは、シャンカラーチャーリャは主シヴァの化身であると認めました。そして、主シヴァはバーガヴァタ学派の最も偉大な献身者の一人(マハージャナ)であることが知られています。献身奉仕には12の偉大な権威者がおり、主シヴァはその一人です。 それではなぜ、彼はマーヤーヴァーディー哲学の過程を受け入れたのでしょうか?その答えは、パドマ・プラーナの中に与えられています。その中で主シヴァは次のように述べておいでです。 (サンスクリット引用) 「マーヤーヴァーディー哲学は、覆いを被った仏教である。」言い換えると、マーヤーヴァーディー哲学は「(自分たちは)ヴェーダの結論によって導かれている」と主張しているにも関わらず、仏陀の虚無主義(voidist)哲学が大なり小なりマーヤーヴァーディー哲学の中で繰りかえされています。 しかし主シヴァは、「この哲学はカリの時代において無神論者を誤って導くために自分が作ったのだ」と認めます。「実際は、至高の人格神はご自分の超越的な体をお持ちです」と主シヴァは述べます。「しかし私は至高存在を非人格的であるとして描写します。私はまた、ヴェダーンタ・スートラをマーヤーヴァーディー哲学の(訳注:至高存在は非人格的であるという)同じ原則に応じて説明します。」 第16段落 シヴァ・プラーナの中で、至高主は次のようにおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「ドヴァーパラ・ユガの初めに、私の命令によって指図されて、多くの賢人たちが一般の人々をマーヤーヴァーディー哲学によって惑わします。」パドマ・プラーナの中で主シヴァは、バーガヴァティーデヴィーに直接語ります。 (サンスクリット引用) 「我が親愛なるデヴィーよ。時として私は無明の相に埋没している(engrossed、没頭した)者のためにマーヤーヴァーディー哲学を教えます。しかし、もしも徳の相にある者がたまたまこのマーヤーヴァーディー哲学を聞くなら、彼は堕落します。なぜなら、マーヤーヴァーディー哲学を教えるとき、私は「生命体と至高主は全く同一である」と言うからです。」 第17段落 最も偉大なマーヤーヴァーディーのアーチャーリャの一人であるサダーナンダ・ヨギーは、自著「ヴェダーンタ・サーラ」の中に次のように書きました。「永遠性、知識、および喜びの完全真理はブラーマンです。無明および無明のすべての産物は非ブラーマンです。 物質自然の3つの相のすべての産物は無明に覆われており、(その)すべては至高の原因と結果(effect)とは異なります。この無明は集合的および個々に顕現します。集合的な無明はヴィシュッダー・サットヴァ・プラダーナと呼ばれます。 そのヴィシュッダー・サットヴァ・プラダーナが物質自然の無明の中に顕現するとき、それは主と呼ばれ、そして主は様々な無明を顕現なさいます。したがって主はサルヴァジニャとして知られます。」このように、マーヤーヴァーディー哲学のよれば、主はこの物質自然の産物であり、そして生命体は無明の一番低い段階にいます。それがマーヤーヴァーティー哲学の真髄です。 第18段落 しかし、もしも私たちがウパニシャッドの意味を直接的に受け入れるなら、至高の人格神が無限の力を持つ人格(a person)であることは明らかです。例えば、シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、至高の人格神はすべてのものの源であり、主は複数の(multiple)力を持つ、と述べられています。 至高の人格神は宇宙の顕現を超越しています。主はすべての宗教の源、至高の救済者、そしてすべての富の所有者です。ちょうど太陽のような至高の人格神は、この物質的な宇宙の顕現の雲の向こうにいながら、ご自分のエネルギーを豊富に配られます。 また、「ヴィシュヌは至高存在であり、聖なる人々はいつも主の蓮の御足を見ることを切望している」とも述べられています(リグ・ヴェーダ1.22.20)。アイタレヤ・ウパニシャッドの中には、「宇宙の顕現は主が物質自然をちらっと見たときに現れた」とも述べられています(1.1.1~2)。これはプラシャナ・ウパニシャッド(6.3)によっても確認されています。 第19段落 ヴェーダ文献の中にある(アパーニ・パーダーの中のような)主の否定的な描写においては、「主は物質的な体と物質的な形を持たない」ということが示されています。しかし、主はご自分の霊的で超越的な体と超越的な形を確かにお持ちです(He does have)。 マーヤーヴァーディー哲学者たちは主の超越的な性質を誤解するので、彼らは主を非人格的であるとして説明します。主の名、形、性質、側近、そしてお住まいは、すべて超越的な世界にあります。どうして主がこの物質自然の変容であり得るでしょうか?至高主に関わるすべてのものは永遠で、喜びに満ち、知識に満ちています。 第20段落 要するに、シャンカラーチャーリャは特定の種類の無神論者たちを惑わせるためにマーヤーヴァーディー哲学を布教しました。実際は彼は決して、至高主すなわち至高の人格神を、非人格的である、あるいは体や形を持たない、とは考えませんでした。 知性的な人にとっては、マーヤーヴァーディー哲学に関する講義を避けるのが最良です。私たちは、「至高の人格神ヴィシュヌは非人格的ではない」と理解すべきです。主は超越的な人格(person)であり、宇宙の顕現の基本的な原則は主のエネルギーです。 マーヤーヴァーディー哲学は至高主のエネルギー(訳注:の源あるいは本質)を突き止める(to trace、見極める、辿る)ことができません。しかし、すべてのヴェーダ文献は至高主の様々なエネルギー的な顕現の証拠を示します。 ヴィシュヌは物質自然の産物ではなく、物質自然がヴィシュヌの力の産物です。マーヤーヴァーディー哲学者たちはヴィシュヌを物質自然の産物であるとして理解しますが、もしもヴィシュヌが物質自然の産物であるなら、主は単に半神たちの中に数えられ得るだけです。 ヴィシュヌを半神と考える者は確かに誤っており、誤って導かれています。これがなぜそうであるのかは、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。「3つの相によって惑わされ、世界全体が(それらの)相を超越していて無尽蔵である私を知りません。この、物質自然の3つの相から成る私の聖なるエネルギーは、打ち勝つのが非常に困難です。しかし、私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」(BG1.13-14)
第19章 プラカーシャーナンダとの更なる会話
第1段落 クリシュナの人格(person)と御名は同一であるということを完璧に理解することから結果として生じる、クリシュナへの超越的で恍惚的な執着は、バーヴァと呼ばれます。バーヴァに至った者は、たしかに、物質自然によって汚染されていません。 彼は実際にバーヴァから超越的な喜びを楽しみます。そしてバーヴァが強烈になったとき、それは至高神への愛と呼ばれます。主チャイタンニャはプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、「マハー・マントラ(偉大な唱名)と呼ばれるクリシュナの聖なる御名は、それを唱える誰もに、至高神への愛、すなわち強烈になったバーヴァの水準に至ることを可能にする」とおっしゃいました。 そのような至高神への愛は、究極的な人間の必要性です(訳注:人間にとって究極的に必要なものです)。なぜなら、人がそれを他の必要性(つまり、宗教、経済的な発展、感覚の満足、および解放)と比べるとき、これらの他のいわゆる「必要性」は全く取るに足らないものに見えるからです。 人が一時的で特化された(designated)存在に没頭しているとき、彼は感覚の満足と解放を追い求めます。しかし、至高神への愛は魂の永遠の性質です。それは変わることなく、始まりがなく、終わりがありません。 したがって、一時的な感覚の満足あるいは解放への欲求は、神への愛の超越的な性質とは比べられ得ません。神への愛は、人間の努力における第5の次元です(訳注:他の4つは「 宗教、経済的な発展、感覚の満足、および解放」)。超越的な喜びの愛の海と比べると、非人格的なブラーマンの概念は一滴の水より重要なものではありません。 第2段落 主チャイタンニャは次に、「神の聖なる御名を唱えることから結果として生じた恍惚感の妥当性を自分の霊的指導者が確認なさり、そしてまた、すべてのヴェーダ文献の真髄は至高神への愛を得ることであるということを確認なさった」と説明しました。 主チャイタンニャの霊的指導者は、主は至高神への愛を得られて幸運だった、とおっしゃいました。そのような超越的な愛を得ることによって、人の心(heart)は主との直接的な接触を得ることを熱く切望するうになります。 そのような超越的な感傷を感じて、人は時として笑い、時として泣き、狂った人のように歌い踊り、そして時としてあちこちにじぐざぐと動き回ります。このように、表される様々な恍惚的な症状があります―――泣くこと、体の色が変わること、狂気、追悼(bereavement、愛する人の死を嘆く気持ち)、沈黙、誇り(pride)、恍惚感、そして穏やかさ(gentleness)です。頻繁に、神を愛している者は踊り、そしてそのような踊りは彼をクリシュナへの愛の蜜に置きます。 第3段落 主チャイタンニャは、自分の霊的指導者が自分にこうおっしゃった、と言いました。「あなたが至高神への愛というそのような完璧な水準に至ったのはとても良いことです。あなたがそれを得たので、私はあなたに対してとてもありがたく思っています。」 父親は、自分の息子が自分を越えて発達するのを見るとき、もっと元気づけられます。同様に、霊的指導者は、自分の弟子が発達するのを見ることの中に、自分自身が発達することの中よりももっと多くの喜びを感じます。 こうして、「踊り、歌い、このサンキールタン運動を広め、そして人々にクリシュナについて教えることによって彼らを無知から救おうとする」ようにと、主チャイタンニャの霊的指導者は言って、主を祝福なさいました。主チャイタンニャの霊的指導者はまた、シュリマッド・バーガヴァタムから主に次の節を教えられました。(11.2.40) (サンスクリット引用) 「常にクリシュナへの献身奉仕に携わっており、主の聖なる御名を唱える者は、唱名に非常に超越的に執着するようになるので、彼の心(heart)は余分な(extraneous)努力なく柔らかくなります。これが起こるとき、彼は超越的な恍惚感を表し、時として笑い、時として泣き、歌い、踊ります―――必ずしも芸術的なやり方ではなく、むしろちょうど狂人のようにです。」 第4段落 主チャイタンニャはさらにプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに告げました。「私は自分の霊的指導者の言葉に全くの信頼を持っているので、いつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることにいそしんでいるのです。 私は、自分がどうやってちょうど狂人のようになったのか、はっきりとは分かりません。しかし私は、クリシュナの御名が私に(その状態を)誘発したのだと信じています。私は、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることから得られる超越的な喜びはちょうど海のようである、と知っています(to realize)。 比較すると、非人格的な認識の喜びを含む他のすべての喜びは、水路の中の浅い水のようです。」主チャイタンニャのお話から、霊的指導者の言葉に自分の信頼を保てず、独立して行動する者は、ハレ・クリシュナを唱える上で望む成功を得ることができないように見えます。ヴェーダ文献の中に、「すべての超越的な文献の意味(import、重要性)は、至高主と自分の霊的指導者にぶれることのない信頼を持つ者に明かされる」と述べられています。 主チャイタンニャはご自分の霊的指導者の言葉をかたく信じていて、そして主は決して、サンキールタン運動をやめることによってご自分の霊的指導者の教えを無視する、ということをなさいませんでした。こうして、聖なる名前の超越的な力は、主にハレ・クリシュナ、マハー・マントラを唱えるように力づけました。 第6段落 主チャイタンニャは直ちに、「現代の時代では一般の人々は大なり小なりすべての霊的な知性を奪われている」とプラカーシャーナンダに告げました。そのような人々が、最も内密なヴェダーンタ・スートラを始める前に、シャンカラーチャーリャのマーヤーヴァーディー(非人格主義者)の影響のもとに来るなら、彼らの至高存在への服従に対する自然な傾向は阻まれます。 すべてのものの至高の源は、自然に誰もによって尊敬されます。しかし、この自然な傾向は、人がシャンカラの非人格的な概念に染まるとき(to take to、習慣づける)、妨げられます。そのため主チャイタンニャの霊的指導者は、「人はシャンカラーチャーリャのシャーリーラカ・バーシャを学ばないほうがいい」と勧められました。 「なぜなら、それは一般の人々にとって、とても害があるからです。実に、俗人(common man)は言葉の操りを見抜くための知性さえ持ちません。彼(俗人)は、マハ・マントラを唱えるほうが良いのです(he is better advised to~)―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」。争いを好む、このカリの時代においては、自己認識のための代替策はありません。 第7段落 チャイタンニャ・マハープラブの議論と話を聞いた後、そこにいたすべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは心静まり(pacified、なだめられた)、温かい(sweet)言葉で答えました。「親愛なる方よ(Dear Sir,)、あなたがおっしゃったことは全く本当です。 至高神への愛を得た者はたしかに非常に幸運であり、そして疑いもなく、あなたはこの水準に至ったことで非常に幸運です。しかし、ヴェダーンタの中の何が欠陥なのですか?(訳注:どこがいけないのですか?)ヴェダーンタを読んで理解することはサンニャースィーの義務です。なぜあなたはそれを学ばないのですか?」 第8段落 マーヤーヴァーディー哲学者によれば、ヴェダーンタはシャンカラーチャーリャのシャーリーラカ注釈を指します。非人格的な哲学者がヴェダーンタとウパニシャッドに言及するとき、彼らは実際はマーヤーヴァーディー哲学の最も偉大な教師であるシャンカラーチャーリャの注釈を指しています。 シャンカリャーチャーリャの後には、サダナンダ・ヨギーが現れました。彼は、ヴェダーンタとウパニシャッドはシャンカラーチャーリャの注釈を通じて理解されるべきであると主張しました。事実は、これはその通りではありません。 ヴァイシュナヴァのアーチャーリャたちによってなされたヴェダーンタとウパニシャッドの多くの注釈があり、これらはシャンカラーチャーリャのそれよりも好まれます。しかし、シャンカラーチャーリャによって影響されたマーヤーヴァーディー哲学者たちは、ヴァイシュナヴァの理解に何の重要性も認めません。 第9段落 ヴァイシュナヴァ・アーチャーリャには4つの異なる宗派があります―――シュッダードヴァイタ、ヴィシシュタードヴァイタ、ドゥヴァイタードヴァイタ、およびアチンテャ・ベーダーベーダです。これらの学派のすべてのヴァイシュナヴァ・アーチャーリャたちはヴェダーンタ・スートラの注釈を書きましたが、マーヤーヴァーディー哲学者たちはそれらを認識しません。 マーヤーヴァーディーたちはクリシュナとクリシュナの体を区別し、そしてそのため、彼らはヴァイシュナヴァ哲学者によるクリシュナの崇拝を認めません。そのため、マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちが主チャイタンニャに、なぜ主がヴェダーンタ・スートラを学習しないのかと尋ねたとき、主は次のようにお答えになりました。 「親愛なる皆さん、あなた方は、なぜ私がヴェダーンタ・スートラを学ばないのかと尋ねました。そして、その答えとして私は何かを語ります。しかし、申し訳ありませんが、あなた方はそれを聞いて残念に思うでしょう。」 第10段落 「私たちは非常に喜んであなたの話をお聞きしたいです」とすべてのサンニャースィーたちは答えました。「あなたはちょうどナーラーヤナのように見えます。そして、あなたのお話はすばらしく、私たちはそれに大変な喜びを感じています。私たちはあなたに会ってお話を聞くことを非常にありがたく思っています。ですから、私たちはあなたがおっしゃることは何であれ、非常に喜んで辛抱強く聞き、受け入れます。」
なぜこんな世の中になったのだろうか。なぜこんな目に遭うのだろうか。そんなことをときどき聞きます。それで思うのですが、こういう言葉を言うとき、人はあんまり本当に「なぜだろうか」と考えてはいないような気がするのです。「なぜだろうか」という形を借りて、「こんなことは理不尽だ」と天に訴えているだけ。大抵の場合は、たぶん「なぜだろうか、何が原因だろうか、どういう経緯でこうなったのだろうか」と考えてはいないのです。
ちょっと違うかもしれませんが、心の中のすり替えは例えば自分に対する悪い評価を聞いた場合にも起こります。その評価そのものを問題にする代わり、人は往々にして「誰がそう言ったのか」というふうに反応します。それを追及するのに一生懸命になって、「その評価は正当か、なぜそういう評価が生じたのか」と考えることをおろそかにします。 最近、変な電話や手紙が多いです。「北海道の海産物を送りますよ!」という電話だったり、金などの貴金属を買い取ります、というのだったり、どこかの国の不動産を買いませんかとか、いろいろです。この前送ったパンフレットを返してください、今から取りに行きます、なんてのもあります。官公庁っぽい名前の機関を名乗ってお役所っぽい手続きとか料金とかの「払い込みの手伝いをしてあげます」、という詐欺もあります。うん十万円の賞金が当たりました、という電話もあります。家にやってくる人もいます。 さて、なぜこういう世の中になってしまったのでしょうか。何が原因でしょうか。解決策はあるのでしょうか。過去と比べて具体的にどう違っているのでしょうか。これからどういうふうに変化していくのでしょうか。今はカリの時代なので、とりあえずどうなっていくかはあれこれ推量するまでもないですけれど。。。 プラブパーダもおっしゃるように、もともと生命体には「騙す」という欠陥があります。他者だけでなく自分も騙すのだからやっかいです。私たちの記憶が私たち自身を騙すことは、経験上分かっている人も多いと思います。自分に都合の悪いことは忘れ、私たちは無意識に記憶を歪めます。お化粧をした記憶は浅はかな私たちに「美化された過去」を見せてくれます。それは必ずしも「昔は良かった」というふうに現れるのではないかもしれません。「自分は正しかった」という大前提に合うように色づけされるかもしれません。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 両親は鑑定団のテレビ番組を喜んで見ます。大勢の人たちが一時的に存在するだけのものに高いの安いのと一喜一憂します。今日は袈裟を着たお坊さんが出てきました。世も末ですね。まあ、地獄の沙汰も金次第と言いますから、最初から死後もこのへんに留まるつもりなら、お坊さんだってせいぜい蓄えておくほうがいいのでしょう。いや、無が無をありがたがってるだけだから、ちょっと違うのかな。カリユガは順調に着々と進行しています。
第16段落
すべての生命体は、主人と従者という関係において永遠にクリシュナと関係があります。いったんその奉仕が欠落すると―――あるいは、言い換えれば、人がクリシュナ意識に位置していないとき―――ヴェダーンタの学習が不十分であると理解されいます。 人がクリシュナを理解しなかったり、主への超越的な愛情ある奉仕にいそしまなかったりするとき、彼はヴェダーンタの学習と至高の人格神の理解に反対(adverse to、敵対、逆行)であると理解されます。主チャイタンニャによって示されたヴェダーンタ学習の道は、すべての者によって辿られるべきです。 いわゆる「教育」によって驕り高ぶっていて謙虚さを持たない者は、真正なる霊的指導者の保護を求めません。彼は、自分は霊的指導者を必要とせず、自分自身の努力によって最高の完成を達成することができる、と考えます。 そのような人々には、ヴェダーンタ・スートラを学ぶ資格はありません。物質エネルギーの魔力の下にある者は師弟継承の教えに従わず、自分の独自の何かを作りだそうとします。そしてそのため、ヴェダーンタ学習の領域から足を踏み出します(to step outside)。 真正なる霊的指導者は、いつもそのような独立した精神的な推量者を非難しなければなりません。もしも真正なる霊的指導者が直接的に弟子の愚かさを指摘するなら、それはそうではないとして理解されるべきではありません(it should not be taken otherwise)。 第17段落 神の科学に関して全く無知な者は、学識があるとは考えられ得ません。大なり小なり、クリシュナ意識にない者は誰でも愚かさの影響を受けます。時として私たちは、霊的指導者としての教育をほとんど受けていない者を受け入れることによって自分の愚かさをさらします。 その蓮の御足がすべてのヴェーダによって崇拝される至高の人格神を理解することは、私たちの義務です。主を理解せず、ヴェダーンタの誤った理解を誇りに思っている者は、実際は愚か者です。学術的な(academic)知識に対する俗世的な試みは、単に別の種類の愚かさです。 人が宇宙の顕現を物質自然の三つの相の表象(representation)であるとして理解できない限り、彼は酩酊の闇の中にいて、この物質世界の二重性の中に囚われていると考えられねばなりません。ヴェダーンタの完璧な知識の中にある者は、宇宙の顕現全体の維持者であり扶養者である至高主の従者になります。人が有限なるものへの奉仕を超越しない限り、彼はヴェダーンタの知識を持つことができません。 第18段落 人が結果を求める活動の限定された管轄(jurisdiction、権限、支配権)の中にあったり、あるいは精神的な推量に関わっている限り、彼はおそらくヴェダーンタ・スートラの理論上の知識を学んだり教えたりする資格はあるかもしれませんが、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という至高で永遠で超越的な(完全に解放された)振動を理解することができません。 超越的なハレ・クリシュナの振動を唱えることにおいて完成を得た者は、ヴェダーンタ・スートラの哲学を別に(separately)学ぶ必要がありません。真正なる霊的指導者であるチャイタンニャ・マハープラブの教えによれば、超越的な振動を至高存在と異なるものではないとして理解しない者と、マーヤーヴァーディー哲学者やヴェダーンタ・スートラの専門家(expert、熟達者)になろうとする者は皆、愚か者です。 自分の独自の努力(知識の上方向の過程)によってヴェダーンタ・スートラを学ぶことは、愚かさのもう一つのしるしです。しかし、超越的な振動を唱えることへの好みを得た者は、実際にヴェダーンタの結論を得ます。このことに関して、シュリマッド・バーガヴァタムの中に非常にためになる二つの節があります。 最初の節の説明は、「たとえ低いカーストの者が超越的な音を唱えることにいそしんだとしても、彼はすべての種類の放棄、禁欲および犠牲を行い、すべてのブラーマ・スートラを学んだのだと理解される」というものです。 このように(Thus)人は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることができるようになり得ます(訳注:can be able to、一般的な用法ではありませんが、「できるようになれる、そうなれる可能性がある」という意味合いであり、文法の間違いではありません)。 二番目の節の説明は、「「ハ・リ」という二つの音節を唱える者は、すべてのヴェーダ―――リグ・ヴェーダ、アタールヴァ・ヴェーダ、ヤジュール・ヴェーダ、そしてサーマ・ヴェーダ―――を学んだのであると考えられねばならない」というものです。 第19段落 他方で、ヴェダーンタは献身者のためのものではないと考える、多くのいわゆる「献身者」がいます。そのような人々は、ヴェダーンタが純粋な献身者の唯一の足場であるという事実を知りません。4つのヴァイシュナヴァ・サムプラダーヤのすべての偉大なアーチャーリャたちは、ヴェダーンタ・スートラに関して注釈書を作りました。 しかし、プラークリタ・サハジャーとして知られるいわゆる「献身者」たちは、ヴェダーンタ・スートラの学習を注意深く避けます。プラークリタ・サハジャーは誤って、純粋な献身者とヴァイシュナヴァ・アーチャーリャを、精神的な推量者、あるいは結果を求める活動を行う者と考えます。その結果、彼ら自身がマーヤーヴァーディーになり、至高主への奉仕から離れます。 第20段落 ヴェダーンタ・スートラを学術的な知識によって理解することは、決して人が超越的な振動の価値を理解するのを可能にしません。学術的な知識にとらわれている者は、「私」、「私のもの」、そして「私の」の理解という事実に関して混乱している、制約された魂です。 その結果、彼らは自分の心を外的なエネルギーから切り離すことができません。人が実際に超越的な知識を得るとき、彼はこの二重性から自由になり、至高主への超越的な愛情ある奉仕に携わります。主への奉仕は、人が物質的な活動に非執着になれる唯一の方法です。 真正なる霊的指導者によって正しく導かれ(to initiate、秘伝を授ける、入門させる)、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることにいそしんでいる者は、徐々に「私」と「私のもの」という概念から自由になり、5つの超越的な関係のうちの一つにおいて主への超越的な愛情ある奉仕に執着するようになります。 そのような超越的な奉仕は、濃密な、あるいは希薄な体にとっては、考慮の対象(subject matter)ではありません。「至高存在と主の御名の間には何の違いもない」と理解できるときにだけ、人はクリシュナ意識に位置することができます。 そのようなときには、人はもはや文法的な調整(grammatical adjustment)をする必要はありません(訳注:これはおそらく、「言葉の表面的な解釈をひねくり回して独自の理論で神を知ろうとする必要はなくなる」、ということではないかと思います。) むしろ人は、主に請願することにもっと興味を持つようになります。「ハレ・クリシュナ―――おお、我が主よ。おお、主のエネルギーよ。どうぞ私をあなたへの奉仕に携わらせてください!」 第21段落 主チャイタンニャは、このすべてをプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに説明し、彼に、自分はこのすべてを自分の霊的指導者から聞いたのだ、と言いました。主はさらに、ヴェダーンタ・スートラの著者であるヴャーサデヴァによってシュリマッド・バーガヴァタムの中で述べられているように、「”シュリマッド・バーガヴァタムがヴェダーンタ・スートラの実際の注釈書である”と自分の霊的指導者が自分におっしゃった」とプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーにお告げになりました。 (訳注:構文がややこしいので注意してください。SBが~の注釈書である、と主に言ったのは主チャイタンニャの霊的指導者です。そして主チャイタンニャは「自分は彼にそう言われたんだ」とプラカーシャーナンダに言いました。そして、その同じことがヴャーサデヴァによってSBの中でも述べられています。) 第22段落 生徒は、彼が聖なる御名と至高主の正体(identity、本性、身元など)を理解するときに、完璧だと考えられます。人が悟りを開いた(realized、真理を認識した)霊的指導者の庇護の下にない限り、至高存在に関する彼の理解は単に愚かです。 しかし、人は奉仕と献身によって超越的な主を完全に理解することができます。主チャイタンニャが無礼をすることなく(offencelessly)ハレ・クリシュナ・マントラを唱えたとき、主は、そのマントラは直ちに制約された魂を物質的な汚染から解放することができる、と宣言なさいました。 このカリの時代においては、このマハ・マントラを唱えることの代替策はありません。すべてのヴェーダ文献の真髄は、クリシュナのこの聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱えることである、と述べられています。 主チャイタンニャはまた、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに次のようにおっしゃいました。「このヴェーダの知識の本質的な(essential、非常に重要な)事実について私を納得させるために、私の霊的指導者はブリハン・ナーラディーヤ・プラーナから一節(38.126)を教えられました。 (サンスクリット引用) この争いと欺瞞の時代にあって、解放のための唯一の方法は主の聖なる御名を唱えることです。他に方法はありません。他に方法はありません。他に方法はありません。」 第23段落 4つの時代のうちの3つ(つまりサッテャ・ユガ、トレター・ユガ、およびドゥヴァーパラ・ユガ)において、人々は師弟継承の道を通って超越性を理解することができるという光栄を得ていました。しかし、今の時代では、人々は師弟継承に何の興味も持ちません。 その代わり、彼らは理論と議論の多くの道(path)を作り出しました。至高の超越性を理解するこの個々の試み(上方向の方法と呼ばれる)は、ヴェーダによって認められていません。完全真理は完全な水準から下りて来なければなりません。 主は上方向の方法によって理解されるべきものではありません。主の聖なる名前―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――は超越的な振動です。 なぜなら、それは超越的な水準、クリシュナの至高のお住まいから来るからです。クリシュナと主の御名の間には何の違いもないので、クリシュナの聖なる御名はクリシュナご自身と同じくらい純粋で完璧で解放されています。学術的な学者たちは、神の聖なる御名の超越的な性質の理解に、論理とその他の議論という方向によっては入ることができません。 「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」の超越的な性質を理解するための唯一の道は、これらの御名を信仰(faith、信念)と信奉(adherence、固執、遵守)をもって唱えることです。そのような唱名は、人を濃密および希薄な体から生じる区分された状態から解放します。 第24段落 論理と議論と意見の不一致のこの時代においては、ハレ・クリシュナを唱えることが自己認識のための唯一の方法です。この超越的な振動だけが制約された魂を解放することができるので、それはヴェダーンタ・スートラの真髄であると考えられます。 物質的な概念によれば、人の名前、形、性質、感情および活動と、その人自身の間には、二重性があります。しかし、超越的な振動に関して言えば、そのような制限はありません。それは霊的な世界から下りてくるからです。 霊的な世界では、人の名前とその人の性質の間に違いはありません。もちろん、物質的な世界では、違いがあります。マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、これを理解することができないので、彼らは超越的な振動を発声することができません。 第25段落 それから主チャイタンニャはプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、自分は自分の霊的指導者から命令を受けたtので、常に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えているのだ、とおっしゃいました。 「この唱名の結果として」と主はおっしゃいました。「私は時として非常に意思が弱くなり(impatient、忍耐力のない、気短な)、踊ったり笑ったりすることや、あるいは泣いたり歌ったりすることから自分自身を抑制することができません。実に、私はちょうど狂った人のようになります。 私が最初に、「自分はこの「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって狂ったのか」と思ったとき、私は自分の霊的指導者に近付き、彼に「自分は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって狂った」と告げました。そうして私は彼に、私の本当の立場は何なのか、と尋ねました。」 第26段落 ナーラダ・パンチャラートラにおいて、こう述べられています。 (サンスクリット引用) 「すべてのヴェーダの儀式、マントラ、そして理解は、8つの言葉に集約されます―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ」。同様に、カリサンタラナ・ウパニシャッドには次のように述べられています。 (サンスクリット引用) 「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という16個の言葉は、特にカリの汚染を中和するためにあります。自分自身をカリの汚染から守るためには、これらの16個の言葉を唱えるより他に方法はありません。」 第27段落 主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、ご自分の霊的指導者がご自分を理解してくださったとき、彼はこうおっしゃった、と告げました。「人を霊的な狂気へと運ぶのは、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という聖なる御名の超越的な性質です。 これらの聖なる御名を誠実に唱える者は誰でも、まもなく神への愛という水準への上昇を得て、神に狂ったように夢中になります。神への愛から生じるこの狂気は、人間にとって最初の完成の段階です。」 第28段落 一般に、人間は宗教、経済的な発展、感覚の満足、そして解放に興味がありますが、神への愛はそれらすべてを越えています。真正なる霊的指導者が聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱え、超越的な音の振動が弟子の耳に入り、そしてもしも(弟子が)自分の霊的指導者の足跡を辿って同じような敬意をもって聖なる御名を唱えるなら、彼は実際に超越的な名前を崇拝するようになります。 超越的な名前が献身者によって唱えられるとき、名前そのもの(Himself)がご自分の(His)栄光を献身者の心の中に広めます。献身者が完全に聖なる御名の超越的な振動を唱える資格を持つとき、彼は霊的指導者となって世界のすべての人々を解放するのに十分に適しています。 聖なる御名を唱えることは非常に強力なので、それは徐々に世界中のすべてのものの上に優位性を確立します。それを唱える献身者は、恍惚感の中で超越的に位置するようになり、時として自分の恍惚感の中で笑い、泣き、踊ります。 時として、非知性的な者がこのマハー・マントラを唱える道に妨害物を置きますが、至高神への愛の水準に位置する者は、すべての者のために(訳注:for all concerned、関係者一同のために)聖なる御名を大声で唱えます。 結果として、すべての人が聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱える秘儀を伝えられる(to initiate)ようになります。クリシュナの聖なる御名を唱えることと聞くことによって、人はクリシュナの形と性質を覚えておく(to remember)ことができます。
第18章 プラカーシャーナンダとの会話
第1段落 マーヤーヴァーディーのサンニャースィーの原則によれば、歌うこと、踊ること、そして楽器を演奏することは厳しく禁じられています。なぜなら、それらは罪深い行いと考えられているからです。マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは、単にヴェダーンタの学習(study、学習、研究)に携わるべきだとされています。 したがって、ベナレスのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちが主チャイタンニャが歌うことと踊ることと楽器を演奏することと、そしていつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることに耽っているのを見たとき、彼らは、主は教育がなく、感傷から自分の追従者たちを誤って導いている、と結論しました。 シャンカラーチャーリャの命令は、サンニャースィーはいつもヴェダーンタの研究に携わっているべきであり、単に一着の服だけで満足すべきである、というものでした。主チャイタンニャは正式にヴェダーンタを学習することもせず、歌うことと踊ることを止めもしなかったので、主はベナレスのすべてのサンニャースィーと彼らの家庭人の追従者たちによって批判されました。 第2段落 主チャイタンニャがご自分の生徒と弟子からこの批判の知らせを受け取ったとき、主は単に微笑んで、マトゥーラーとヴリンダーヴァンに向けて出発しました。主がマトゥーラーからジャガンナーター・プリーへ行く途中に再びベナレスに戻ったとき、主は、店員だったのでシュードラと考えられていたチャンドラシェクハラの家に滞在なさいました。 これ(訳注:家の主人がシュードラであること)にも関わらず、主チャイタンニャ・マハープラブは彼の家に居を構えました。主チャイタンニャは、ブラーマナとシュードラを区別なさいませんでした。主は献身的な者を誰でも受け入れました。 習慣的に、サンニャースィーはブラーマナの家に泊まり、食事をすることになっていますが、主チャイタンニャ・マハープラブは独立した至高の人格神でいらっしゃるので、独自の判断をなさり、チャンドラシェクハラの家に泊まることを決心なさいました。 第3段落 当時、自分たちのブラーマナとしての家系を誤用して、ブラーマナたちは、ブラーマナの家庭に生まれなかった者は誰でもシュードラと考えられる、とする法律を作りました。そのため、クシャトリヤとヴァイデャでさえもシュードラと考えられました。 ヴァイデャはブラーマナの父とシュードラの妻の子孫であるとされていたので、彼らは時としてシュードラと呼ばれました。そのため、チャンドラシェクハラ・アーチャーリャは、ヴァイデャの家庭に生まれたにも関わらず、ベナレスではシュードラと呼ばれていました。ベナレスにいらした間はずっと、主チャイタンニャはチャンドラシェクハラの家に留まり、タパナミシュラの家で食事をなさいました。 第4段落 サナータナ・ゴスヴァーミーがベナレスで主チャイタンニャに会ったとき、彼は2ヶ月の継続的な教えの間に、献身奉仕の過程と原則を学びました。主チャイタンニャのサナータナ・ゴスヴァーミーへの教えは、この本の最初の部分に描写されています。 これらの教えを受けた後、サナータナ・ゴスヴァーミーは献身奉仕の原則とシュリマッド・バーガヴァタムを広めることを認定されました。タパナミシュラとチャンドラシェクハラの両者が主チャイタンニャ・マハープラブへの強い批判に関してひどく(主に対して)気の毒に思っていたのはこの頃であり、彼らは一緒にやってきて、主にマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちに会うように懇願しました(to pray、祈る) 第5段落 「私たちは、あなたに対するマーヤーヴァーディーのサンニャースィーからの好意的でない批判を聞くことで屈辱を感じさせられています」と彼らは主チャイタンニャに告げました。「実に、それは私たちにとって耐えられないものとなっています。」 彼らは主に、これらの批判が止まるように何かしてほしい、と頼みました。彼らがこの事項について議論していたとき、一人のブラーマナが主チャイタンニャのところに来て、主を自分の家に招きました。チャイタンニャ・マハープラブ以外のすべてのサンニャースィーが招かれていたので、そのブラーマナは主を招きに来たのでした。 主はマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちとは関わらないことをしっていたので、ブラーマナはチャイタンニャ・マハープラブの足元にひれ伏して主に懇願しました。「私はあなたが招待をお受けにならないと知っていますが、私はそれでもあなたに、来て私の家で他のサンニャースィーたちと共にプラサーダを召し上がることを懇願します。もしもあなたがこの招待を受け入れてくださるなら、私はそれを特別な恩恵と考えます。」 第6段落 主はこの機会を利用し、マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちと会うためにブラーマナの招待を受け入れました。実は、これは主ご自身によってなされた配剤でした。主を招待したブラーマナは、主がどんな招待も受け入れないと知っていたにも関わらず、それでも主を招くことに非常に熱心でした。 第7段落 次の日、主チャイタンニャはそのブラーマナの家に行き、すべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちがそこに座っているのを見ました。主は習慣に倣ってすべてのサンニャースィーたちに敬意を捧げ、それからご自分の足を洗いにいらっしゃいました。 洗ったあと、主は他のサンニャースィーたちから少し離れた、足を洗う桶の横に座りました。主がそこに座っていた間に、サンニャースィーたちは主の体から放射しているまばゆい光輝を見ました。このまばゆい光輝に魅了されて、すべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは立ち上がって主に敬意を示しました。 彼らの中に、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーという名前のサンニャースィーがいました。彼は非人格主義者のサンニャースィーの中の長であり、彼は大いなる謙遜の念をもって主チャイタンニャに話し掛け(to address、名を呼ぶ)、主に、来て自分たちと共に座るように頼みました。 第8段落 「我が親愛なる方よ(My dear Sir,)、なぜあなたはその汚い場所に座っておいでなのですか?」と彼は尋ねました。「来て私たちと一緒に座ってください。」 第9段落 「おお、私はサンニャースィーの(中の)劣った学派に属しています」と主チャイタンニャは答えました。「したがって、私はあなた方と共に座るべきではないと考えます。この低いところにいさせてください。」 第10段落 プラカーシャーナンダは、そのような学識のある人からそのようなことを聞いて驚きました。そして、彼は実際に主の手をとり、主に、どうか来て自分と一緒に座ってくれるように、と頼みました。主チャイタンニャがとうとう彼らと共に座ったとき、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーは言いました。 「私は、あなたの名前はシュリー・クリシュナ・チャイタンニャだと思います。そして、あなたはシャンカラーチャーリャ・サムプラダーヤに属するケシャヴァ・バーラティーからサンニャーサを受けられたので、あなたは私たちのマーヤーヴァーディー学派に属する、と私は理解しています。」 第11段落 シャンカラ学派によれば、サンニャースィーには10個の異なる名前があります。それらのうち、3つの名前―――ティールター、アーシュラマ、およびサラスヴァティー―――が、最も啓蒙されて教養があると考えられるサンニャースィーに与えられます。 主チャイタンニャはヴァイシュナヴァなので、主はもともと謙虚で柔和(meek、腹を立てず、じっと我慢するような性質)です。そして主は、サラスヴァティー・サムプラダーヤに属するプラカーシャーナンダに、より良い座席を与えたいと望まれました。 シャンカラの原則によれば、バーラーティック学派のブラーマチャーリーはチャイタンニャと呼ばれます。しかし、シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブは、サンニャーサとなったにも関わらず、ご自分のブラーマチャーリーの名前を保ち、バーラティーの称号を使いませんでした。 第12段落 「ところで、(Well, Sir)」と、プラカーシャナンダ・サラスヴァティーは続けました。「あなたは私たちのシャンカラ学派に属し、そしてあなたはベナレスにお住まいです―――では、なぜあなたは私たちと交流なさらないのですか?何が理由ですか? もう一つ―――あなたはサンニャースィーで、単にヴェダーンタの学習にいそしむべきだとされています。しかし私たちは、あなたがその代わりにいつも聖名を唱えることと踊ることと音楽を奏でることにいそしんでいらっしゃるのを見ます。何が理由ですか? これらは感情的で感傷的な人々の活動ですが、あなたは資格のあるサンニャースィーです。なぜヴェダーンタの学習をなさらないのですか?あなたの光輝からは、私たちには、あなたはちょうど至高のナーラーヤナ、至高の人格神のように見えます。 しかし、あなたの振る舞いからは、あなたはそうでないように見えます。ですから私たちは、なぜあなたがそのように振舞われるのか知りたいと思っています。」 第13段落 「我が親愛なる方よ。私の霊的指導者は、私を大変な愚か者とお考えになりました」と主チャイタンニャは答えました。「ですから彼は、私は大変な愚か者なので、ヴェダーンタを学ぶ能力はない、とおっしゃって、言うなれば(more or less)私を罰せられたのです。 そして、その代わり彼は私に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることを与えられました。私の霊的指導者は私に、「ただこのハレ・クリシュナ・マントラを唱え続けなさい。それはあなたを全く完璧にします」とおっしゃいました。」 第14段落 実際は、主チャイタンニャは愚か者でもなければヴェダーンタの原則に関して無知でもありません。主の目的は、現代の社会に対して、「苦行と禁欲の歴史を持たない愚か者は、単に何らかの娯楽としての目的のためにヴェダーンタを学ぼうとすべきではない」と示すことでした。 ご自分のシクシャースタカの中で、主チャイタンニャは、人は謙虚な心の状態であるべきであり、自分を路上の草よりも低いと考えるべきであり、木よりも忍耐強くあるべきであり、そしていかなる名誉の感覚も持たないでいるべきであり、他者にあらゆる種類の敬意を捧げる用意ができているべきである、とおっしゃいました。 そのような心の状態において、人はヴェダーンタ哲学や神の聖なる御名を絶え間なく唱えることができます。主はまた、「超越的な科学の真剣な学徒は、自分の霊的指導者の言葉に従うべきである」ということも教えたいと望まれました。 (主の)霊的指導者の判断によれば、主チャイタンニャは愚か者であるように見えました。したがって彼は、主はヴェダーンタの学習に耽るべきではなく、ハレ・クリシュナを唱え続けるべきである、とおっしゃいました。主チャイタンニャは、この命令に厳密に従いました。言い換えると、主はマーヤーヴァーディーたちに、「真正なる霊的指導者の言葉は厳密に従われなければならない」と強く認識させました。それらに従うことによって、人はすべての面で完璧になります。 第15段落 ヴェダーンタは、ヴェーダの知識の最後の言葉はクリシュナの理解である、と指し示しています。 (サンスクリット引用) 「すべてのヴェーダによって私は知られるべきものです(I am to be known)。実に、私はヴェダーンタの編纂者であり、私はヴェーダを知る者です。」(BG15.15)人が実際にヴェダーンタを理解するようになるとき、彼はクリシュナと、自分のクリシュナとの関係とを、知るようになります。 クリシュナを理解する者はすべてを理解します。クリシュナを知る者はいつもクリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしんでいます。これは主ご自身によってバガヴァッド・ギーターの中で確認されています。 (サンスクリット引用) 「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべては私から発します。これを完全に知っている知恵ある者は、私への献身奉仕にいそしみ、全身全霊で(with all their hearts)私を崇拝します。」(BG10.8)
第11段落
純粋な献身者と内密な献身者の間には特定の違いがあります。主の異なる力は、異なる超越的な関係において至高主に奉仕することに携わっています。彼ら(訳注:主の異なる力)は、婚姻上の愛(訳注:conjugal love、この場合はむしろ恋愛を指すと思われる)、親としての愛情(parental affection)、友情、そして奉仕関係(servitude、通常は隷属、労役などを指す)に位置しています。 公平に判断することによって、人は「主との婚姻上の愛に携わっている至高主の内的な力が、すべての献身者の中で最も優れている」と知ることができます。このため、内的な献身者と内密な献身者の両方が、至高の完全真理の婚姻上の愛によって魅了されます。 これらは主チャイタンニャの最も内密な献身者です。シュリー・ニテャーナンダ・プラブとアドヴァイタ・プラブに大なり小なり執着している他の純粋な献身者は、親としての愛情、友情、そして奉仕関係(servitorship)などの、他の超越的な関係によって魅了されます。 そのような献身者が主チャイタンニャの活動に執着するとき、彼らは直ちに至高主との婚姻上の愛において内密な献身者になります。 第12段落 偉大な献身者であって主チャイタンニャからの師弟継承におけるアーチャーリャであるシュリー・ナロッタマ・ダーサ・タークラによって歌われた、とても良い歌があります。ナロッタマ・ダーサは、このように歌いました。 「単にゴーランガの名を聞くことによって超越的な振動が私の体中に伝わる(to be)のはいつでしょうか?単に主の名を口にすることによって私の目から涙が絶え間なく流れるのはいつでしょうか?主ニテャーナンダが私に恵みを下さるのはいつでしょうか? そして、物質的な楽しみへの私のすべての欲求が取るに足らないものになるのはいつでしょうか?物質的な楽しみというすべての汚染を放棄することによって私が浄化されるのはいつでしょうか?そして、私が超越的な住まいヴリンダーヴァンを見ることができるのはいつでしょうか? 6人のゴスヴァーミーたちをおもな導きとして受け入れることに私が熱心になるのはいつでしょうか?そして、クリシュナへの婚姻上の愛を私が理解できるのはいつでしょうか?」誰も、ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちのもとでの弟子としての訓練を経ることなく、クリシュナへの婚姻上の愛を理解することに熱心になるべきではありません。 第13段落 主チャイタンニャによって始められたサンキールタン運動は、主の超越的な娯楽です。「それによって、私は物質世界でこの運動を布教し、そして同時に広めるために生きます。(By it I live simultaneously to preach and popularize this movement in the material world.)」 その主チャイタンニャのサンキールタン運動において、ニテャーナンダとアドヴァイタは主の拡張体であり、ガダーダーラとシュリーヴァーサは主の内的および周辺的な力です。生命体もまた、周辺的な力と呼ばれます。 なぜなら、生命体は潜在的に二つの傾向(attitude)を持っているからです―――つまり、クリシュナに服従する傾向と、主から独立する傾向です。物質的な楽しみを好む性質のため、生命体は物質世界によって汚染されます。 生命体が物質的な楽しみへの欲求によって支配されて物質的な人生に絡まるとき、彼は物質的な存在の三重の悲惨さの影響の下に置かれます。彼はちょうど土に蒔かれた種のようです。もしも種が過度の水によって圧倒されるなら、それが実を結ぶ可能性はありません。 同様に、もしも人が物質的な楽しみによって虜になるなら、そして、たとえそのような楽しみの種が制約された魂の心(heart)の中にあるとしても、神への愛においてなされた超越的な活動の洪水によって圧倒され得ます。(訳注:構文がややこしいですが、「物質的な楽しみに惹かれてしまい、そのような誘惑に惹かれることの種が心の中に生じてしまったにしても」という理解で問題ないと思います。) このようにして、彼の潜在的な種は物質的な存在という制約された人生へと結実することができません。特に、現在のカリの時代における、物質的な世界の中の制約された生命体は、主チャイタンニャと主の仲間たちによって始められた神への愛の洪水によって圧倒されます。 第14段落 このことに関して、プラボダーナンダ・サラスヴァティー睨下(げいか、His Holiness)によって、その著書「シュリー・チャンドラームリタ」の中に書かれた節があります。そこには、「物質的な人々は自分の家族、妻と子を維持することに非常に熱心であり、そして物質的な人生の悲惨さからの解放について推量することに携わり、そしてそのため様々な禁欲と苦行を行う多くの神秘主義的な推量者もいる」と述べられています。 しかし、主チャイタンニャ・マハープラブの運動の中に至上の(the greatest)超越的な味わいを発見した者は、もはやそのような活動への嗜好を持ちません。 第15段落 至高の人格神の形の中に、そして主への献身奉仕の中に物質的な汚染があると考える者は、マーヤーヴァーディーと呼ばれます。彼らの不完全な推量によれば、非人格的なブラーマンは宇宙の顕現の中の唯一の存在であると考えられます。 至高の人格神が導入されれば(訳注:議論の対象となれば)直ちに彼らは、主の人格はマーヤー、すなわち外的な物質エネルギーから生じる、と考えます。そのような人々は、至高主のすべての化身はこの物質自然によって汚染されている、と考えます。 彼らによれば、生命体を個別化する(to identify)物質的な体と物質の活動は、すべて物質的な顕現です。彼らによれば、解放とは個々の識別(identification)の、あるいは純粋な生命体の終わりを意味します。 言い換えると、マーヤーヴァーディーは「生命体が解放されるとき、彼(生命体)は至高の非人格的なブラーマンと一つになる」と主張します。そのようなマーヤーヴァーディー哲学によれば、至高の人格神、主のお住まい、主への献身奉仕および主の感情的な献身者(His emotional devotees)は、すべてマーヤーの魔力の下にあり、したがって物質的な状況の影響を受けます。 至高主、主のお住まい、主への献身奉仕、そして主の献身者の超越的な性質を忘れる者は、これらすべてが物質的な活動の顕現に過ぎないと考えます。人が超越性について議論する可能性(possibility)があると考えるとき(訳注:その存在を巡る議論の余地があると考えるとき)、彼は不可知論者(訳注:agnostic、神の存在の可能性は否定しないが、その存在について確かな知識を持つことは不可能だと主張する人々)と呼ばれます。 そして彼が超越性を批判する可能性があると考えるとき(訳注:上と同じく、「超越性には批判の余地があると考えるとき」という意味と考えられる)、彼は無神論者と呼ばれます。主チャイタンニャはあらゆる種類の不可知論者、無神論者、懐疑論者、そして不信心者(unfaithful、忠実でない)を受け入れて、彼らを神への愛の洪水の中に飲み込みたいと望まれました。そのため主は、これらすべての諸力(forces、軍勢、諸派)を魅了するために、放棄生活に入られました。 第16段落 主チャイタンニャは24歳のときまで家庭人として留まり、25歳のときに放棄階級に入られました。放棄階級(サンニャースィー)に入ったあと、主は他の多くのサンニャースィーたちを魅了しました。主がサンキールタン運動を家庭人として広めていたとき、多くのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは主の運動をあまり真剣に受け取りませんでした。 しかし、放棄生活に入られた後、主は推量的な学徒、無神論者、そして結果を求める活動と不必要な批判に執着していた者たちを救いました(to deliver)。主はとても親切でいらしたので、これらすべての人々を受け入れ、彼らに神への愛という人生における最も大切なものを授けました。 第17段落 制約された魂に神への愛を授けるというご自分の使命を果たすため、主チャイタンニャは神への愛に興味のないそれらの人々を魅了するための多くの方法を考え出しました。主が放棄生活に入られたあと、すべての不可知論者、批評家、無神論者および精神的な推量者は主の生徒と追従者になりました。 多くの非ヒンズー教徒とヴェーダの原則に従わない者も、主チャイタンニャを至高の教師として受け入れました。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの慈悲を避けた唯一の人々は、ベナレスのマーヤーヴァーディー哲学者として知られた人々でした。 そのようなマーヤーヴァーディー哲学者の様子(plight、窮状、悪い状態)は、シュリー・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミーによって描写されています。「ベナレスのマーヤーヴァーディー哲学者たちは、知性において劣ります。 なぜなら、彼らはすべてを直接的な知覚によって測りたがったからです。しかし、知覚されるすべてのものは物質的な知覚によって計算されます。完全真理は超越性ですが、彼らによれば超越的には多様性はありません。なぜなら、彼らは多様性に満ちたものはすべてマーヤーであると考えるからです。」 第18段落 チャイタンニャ・マハープラブの時代には、サラナーターのマーヤーヴァーディー哲学者として知られる別の非人格主義の哲学者たちもいました。サラナーターはベナレスの近くの、仏教徒の哲学者たちが住んでいたところです。 そして現在でも仏教徒のマーヤーヴァーディーの多くのストゥーパ(訳注:仏舎利塔)が見られます。サラナーターのマーヤーヴァーディー哲学者たちは、ブラーマンの非人格的な顕現を信じる非人格主義者たちとは違います。 サラナーターの哲学者たちによれば、霊的な存在は全くありません(there is no spiritual existence at all)。事実は、ベナレスのマーヤーヴァーディー哲学者とサラナーターの哲学者の両方が、物質自然によって陥れられているということです。 どちらも完全超越性の性質を実際には知りません。ヴェーダの原則を表面的に受け入れて自分たちを超越主義者だと考えてはいますが、ベナレスの哲学者は霊的な多様性を受け入れません。献身奉仕について何の情報も持たないので、彼らは非献身者、すなわち主クリシュナへの献身奉仕に反対する者、と呼ばれます。 第19段落 非人格主義者たちは、至高の人格神と主の献身者について推量し、彼らを直接的な知覚という試験にかけます。しかし、主、主の献身者、および主への献身奉仕は、直接的な知覚の影響の下にはありません。言いかえると、霊的な多様性はマーヤーヴァーディー哲学には知られていません。 したがって、すべてのマーヤーヴァーディー哲学者とサンニャースィーは、主チャイタンニャがご自分のサンキールタン運動を指揮なさっていたとき、主を批判しました。主チャイタンニャがケシャヴァ・バーラティーからご自分のサンニャーサー階級をお受けになったのを見たあと、彼は驚きました。 ケシャヴァ・バーラティーはマーヤーヴァーディー学派に属していたからです。そのため、主チャイタンニャはサンニャースィーのマーヤーヴァーディー学派に属したので、主が習慣に倣ってヴェダーンタを聞いたり読んだりする代わりに聖名を唱えたり踊ったりしているのを見て、マーヤーヴァーディーたちは驚きました。 マーヤーヴァーディー哲学者は非常にヴェダーンタを好み、それを独自に誤解釈します。自分の本当の(own)立場を理解する代わりに、彼らは「主チャイタンニャは感傷主義者なので実際には本当のサンニャースィーではない」と議論して、主を非正統的な(unauthrized、非正規の、認定されていない)サンニャースィーだと批判しました。 第20段落 主チャイタンニャがベナレスにいらしたとき、これらすべての批判が主に伝えられました。そして主はそれらに全く驚きませんでした。知らせが伝えられたとき、主は微笑みさえしました。主はマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちと関わらず、その代わりずっと一人でいて、ご自分の独自の使命を遂行なさいました。ベナレスに数日滞在したあと、主はマトゥーラーに出発なさいました。
「主チャイタンニャの教え」を再開しました。少しずついきます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 第17章 もともとの至高の人格神、主チャイタンニャ 第1段落 カヴィラージャ・クリシュナダーサ・ゴスヴァーミーに倣い、私たちは主チャイタンニャの蓮の御足に心からの敬意を捧げます。 第2段落 主チャイタンニャは次のように描写されています。「主は、孤独な者(forlorn、孤独で惨めで絶望的な様子)にとって、最も堕落した者にとって、唯一の避難場所(shelter、庇護を与えるもの)である。そして主は、霊的な知識が全く欠けている者にとって唯一の希望である。」献身奉仕という主の偉大な貢献について議論を試みましょう。 第3段落 至高に強力な主クリシュナは、5つの異なる力において顕現なさっています。主は比肩するもののない存在なのですが、5つの特定の霊的な目的に適うように、5つのあり方で顕現なさっています。そのような多様性は、単調な一体性(oneness)とは対照的に、永遠で、喜びに溢れています。 ヴェーダ文献から、私たちは「完全真理、至高の人格神は、ご自分の多様なエネルギーと共に永遠に存在なさる」と理解することができます。主チャイタンニャは多様なエネルギーのすべてと共にお現れにあり、そしてそれら(訳注:エネルギーの種類)は5つです。したがって主チャイタンニャは、多様なエネルギーを伴ったクリシュナである、と言われます。 第4段落 シュリー・チャイタンニャ・マハープラブおよび、ご自分の4人の仲間たち―――ニテャーナンダ・プラブ、アドヴァイタ・プラブ、ガダーダーラおよびシュリーヴァーサ―――としての主の顕現(appearance、現れ、降臨)に関して言えば、エネルギーとエネルギー的なもの(訳注:the energetic、エネルギーの源)の間に違いはありません。 至高主の(主ご自身と主の化身、拡張体、そしてエネルギーとしての)これらの5つの(訳注:ここでは4つしか挙げられていないが、エネルギーが2つと数えられる)の多様な顕現の中で、霊的な違いはありません。 それらは一つの完全真理において5つです(They are five in one Absolute Truth.)完全真理において(in)超越的な味わいを楽しむために、5つの多様な顕現があります。これらは、献身者の形、献身者の本質(identity、正体、身元)、献身者の化身、純粋な献身者、そして献身的なエネルギー、と呼ばれます。 第5段落 完全真理における5つの多様性のうち、主チャイタンニャの形はもともとの至高の人格神、クリシュナのそれです。主ニテャーナンダは至高主の最初の拡張体の顕現です。同様に、アドヴァイタ・プラブは至高主の化身です。 これらの3人―――チャイタンニャ、ニテャーナンダ、およびアドヴァイタ―――は、ヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち至高の完全真理の区分に属します。シュリーヴァーサは純粋な献身者を表象し(to represent、代表する、表す)、そしてガダーダーラは純粋な献身の発達のための主の内的なエネルギーを表します。 したがって、ガダーダーラとシュリーヴァーサは、ヴィシュヌ・タットヴァに含まれているにも関わらず、至高主の従属的で多様なエネルギーです。言い換えると、彼らはエネルギー的な存在と異なるものではありませんが、超越的な関係を味わうために多様に顕現しています。(訳注:「エネルギー的な存在」とはエネルギーの源を指す。) 献身奉仕の過程全体が、崇拝する者と崇拝される者との間の関係における超越的な交換に関わっています。超越的な味わいのそのような多様な交換無くしては、献身奉仕は意味を持ちません。 第6段落 ヴェーダ文献(カター・ウパニシャッド)において、至高主はすべての生命体の中の至高の生命体である、と述べられています。無数の生命体が存在しますが、至高の完全神(the Supreme Absolute Godhead)である生命体は一つです。 単数の生命体と複数の生命体の違いは、単数の生命体がすべての主である、ということです。主チャイタンニャはその至高の生命体であり、そして主は無数の堕落した生命体を改心させるために降臨なさいました。 言い換えると、主チャイタンニャの降臨の特定の目的は、「すべての生命体の無数の人格を支配し維持している一人の至高の人格神がいる」というヴェーダの事実を確定することでした。非人格主義者(マーヤーヴァーディー)の哲学者はこれを理解することができないので、至高存在と多くの生命体との間の関係の本当の性質について一般の人々を啓蒙するために、主チャイタンニャは降臨なさいました。 第7段落 バガヴァッド・ギーターにおけるクリシュナの最後の教えは、すべての人は他のすべての仕事(engagement)を放棄して主に献身奉仕を捧げるべきである、というものでした。しかし、クリシュナが去った(disappearance)後、知性において劣る人々が主を誤解しました。 彼らはマーヤーヴァーディー哲学に侵されました。それは非常に多くの精神的な推量者を生み出し、人々は完全真理と生命体の本当の立場を忘れました。したがって、主クリシュナに近付く方法をこの物質世界の堕落した魂に教えるために、主シュリー・クリシュナご自身が、主チャイタンニャとして再びお現れになりました。 バガヴァッド・ギーターは、「人はすべてを放棄して、この物質的な執着の世界と決別(be done with)すべきだ」と教えます。主クリシュナの純粋な献身者と、主チャイタンニャの哲学を辿る者は、全く同じです(one and the same)。 チャイタンニャの哲学は、「人はすべてを放棄して、神、すなわちクリシュナを崇拝すべきだ」というものです。クリシュナは、至高主、至高の人格神として、ご自分を至高主であると示して、同じ言葉を語られました。しかし、マーヤーヴァーディー哲学者たちは主を誤解しました。 したがって主チャイタンニャは、状況を明らかにするために、主クリシュナの教えを繰り返しておっしゃいました。「人は自分を、クリシュナと同じくらい良い、と宣言すべきではなく、クリシュナを至高主として崇拝すべきです。」 第8段落 私たちは、もしも主チャイタンニャを制約された魂として受け入れるなら、大変な間違いを犯します。主は、至高の完全真理、至高の人格神、シュリー・クリシュナご自身として理解されるべきです。したがって、チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて、主チャイタンニャについてこう述べられています。 「クリシュナは今、ご自分の5つの多様な顕現において存在しておられる。」人が汚染されていない徳に位置しない限り、主チャイタンニャを至高の人格神ご自身として理解するのは非常に困難です。そのため、主チャイタンニャを理解するためには、人は主チャイタンニャの直接の弟子たち―――6人のゴスヴァーミーたち―――に(従い)、そして特にシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーによって計画された道(the path chalked out by)を辿らねばなりません。 第9段落 もっとも驚愕すべき事実は、至高の人格神クリシュナであるにも関わらず、主チャイタンニャが決してご自分をクリシュナとして表されなかったことです。むしろ、知性的な献身者によって主クリシュナであると察せられて主クリシュナと呼ばれたときはいつでも、主はそれを否定しました。 実に、主は「人は至高主と呼ばれるべきではない」と抗議しながら、時としてご自分の耳を手で覆われました。間接的に、主はマーヤーヴァーディー哲学者たちに、「人は、偽って至高主の振りをして、そうすることで人々を誤って導くべきではない」と教えていらっしゃいました。 追従者たちもまた、誰も彼もを至高の人格神として受け入れるほど愚かであるべきではありません。人は、聖典を調べ、問題の人物の活動を見ることによって、(訳注:その人を)試験すべきです。しかし人は、主チャイタンニャと主の5つの多様な顕現を、普通の人間であるとして誤解すべきではありません。 主チャイタンニャは至高の人格神クリシュナご自身です。主チャイタンニャの良いところ(the beauty)は、主は至高神であるにも関わらず、すべての制約された魂に献身奉仕はいかになされるべきかを教えるために、偉大な献身者としておいでになった、ということです。 献身奉仕に興味のある制約された魂は、献身奉仕によってどうやってクリシュナに至れるかを学ぶために、主チャイタンニャの模範的な軌跡を辿るべきです。このように、いかに献身奉仕においてご自分に近付くべきかを、至高主ご自身が制約された魂に教えられます。 第10段落 至高主の5つの多様な顕現を分析的に研究することによって、私たちは、主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブが至高の完全存在であって、そして主ニテャーナンダが至高の完全真理の非常に(関係が)近い(immediate)拡張体であることを知るようになることができます。 私たちはまた、アドヴァイター・プラブもまた至高の人格神の区分にあるけれど、主チャイタンニャとニテャーナンダ・プラブに従属している、ということを理解するようになることができます。至高の人格神と主の非常に(関係が)近い従属的な拡張体は、他の二つ―――つまり内的な力の表象と周辺的な力の表象―――にとって崇拝の対象です。 内的な力の表象であるガダーダーラは内密な献身者を表し、そして周辺的な力の表象は純粋な献身者です。これらの両方とも他の三つの区分の崇拝者ですが、これらのすべてが至高の人格神、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブへの超越的な奉仕に携わっています。
おはようございます。実は仕事の翻訳は事情で今は中断していて、その代わりに「主チャイタンニャの教え」を再開してます。やっぱりチャンティングの重要性を重ね重ね強調するという内容ですが、それを見ていて心に浮かぶ様子をボールペンで絵に描きました。いえ、決して逃避しているわけではありません、ということもないのでしょうね、やっぱり。ときどき(頻繁に)休憩しながらやってます。
混沌と欺瞞と争いの時代であることは、日々痛感します。鎮痛剤とか麻酔とか消毒薬とか、現代の科学から私たちはたくさんの恩恵を受けましたが、素粒子の実験とかウイルスや遺伝子の実験とか天体の爆破とか、好奇心が暴走して火遊びをしているような世界になってしまいました。視界もはっきりしない、嵐がごちゃごちゃのめちゃくちゃに吹き荒れる中では、手渡しで伝わってきたマントラというレンガの上を一歩一歩辿る他に安全な道はあるわけがないな、と納得します。私は以前登山をしていたので、悪天候の様子を経験しました。ほんとうに、腕を伸ばすを自分の手の先が見えないようになります。そんな中では動かないのが一番ですが、どうしても進まざるをえないときは一本のロープと足元の一歩だけが頼りなのです。 さて、仕事に戻りましょう、と思いますが、そろそろ家事の仕事の時間です。ごきげんよう。 ![]()
こんばんは。皆様お元気でいらっしゃいますか。今日はうちに子犬が来ていたので膝に乗せてなでていたら、寝てしまいました。気持ち良さそうに一時間くらい寝てました。かわいいものですね。ときどき姿勢を変えてましたが、これでどうして寝られるのだろうと思うような姿勢のときもありました。寝ている犬にでまかせの子守唄を歌っていたのですが、そのうちに思いついてマハ・マントラを聞かせてあげました。小さいのに生きている犬を見ていると、なぜこの魂は犬の体の中で生きることになったのだろう、などと考えてしまったのです。
私はときどき、ちょうど自分がこの小さな犬を見ていたように、私を天井の辺りから見ている人がいるような気がします。いつもいつもそう思っているわけではないのですが、なんとなくそういう気がすることがあるのです。血管とホネと筋肉と皮と、そんなふうなものでできている私を見ている誰か。この体が魂の住みかなのですね。それは一種の屈辱のようなものです。私は子供の頃、食べることと声を出すことがあまり好きではありませんでした。もちろんちゃんと料理上手の母が作ってくれる手料理を食べて成長したので問題が起こるほどではありませんでしたが、それはなんとなく屈辱的な行為だったのです。人前で食べることはもっと苦手でした。声を出すことに関しては、自分の声で内心の平穏が乱されるような感じがするときがあり、頭の中で響く声で空想上の人々と話したり彼らの声を聞いたりするほうが馴染み易かったのです。 今日は災害のことをあれこれとテレビでやってました。私は12歳のときからテレビを全く見ないで育ったので、今でもあまり好きではないのですが、今は家でずっとテレビがついているのです。テレビでは建前に沿ったことしかいえないのかもしれませんが、疑問に思うことがよくあります。被災した人たちに「この苦しみを乗り越えれば必ずいいことがあるよ。それを信じてがんばって。私は信じてる」などと言う人がいます。努力すればきっと良くなる、というのは聞こえの良い台詞です。そんな台詞が毎日毎日聞こえます。でも実際には「泣きっ面に蜂」とか「踏んだり蹴ったり」とかの表現があるわけで、自然は人間の復興への思いとか全然関係なく、独自のスケジュールで物事を遂行します。「幸せが待ってることを信じてがんばろう」と無責任なことを言って励ましても、そうならない可能性だって否定できないのです。人類の歴史を見ても、ただ悲惨で無残としか言いようのない運命を辿った個人や文明は幾らでもあります。今後もそれは変わらないし、東北の被災地だって例外ではないかもしれません。 根拠のない未来の幸せを感傷的に約束しても、それは聞こえの良い虚言でしかありません。たとえ次なる大災害が起きなくても、個人の体は確実に老化し、病み、やがて死にます。テレビにはときどきお坊さんも出てきますが、わたしはいまだかつて一言も彼らが体を越えた魂に言及するのを聞いたことがありません。体やそれに伴う物質的なものがいかに簡単に滅びるか、あるいは痛めつけられるかをこれだけはっきりと見せ付けられたというのに、いったいなぜ人々は未来の幸せなどという単なる一時的な可能性に過ぎないものに信頼を置くことができるのでしょう。その無邪気な信頼が裏切られたとき、彼らの絶望を今度はどんな空約束で慰められるというのでしょう。なぜだかこの頃はこういう気持ちが募る日々なのです。 ![]()
今日、なんとも悲しい話を聞きました。まあ、別に今さら驚くような新しいことでもないのですが。。。高齢の叔母がある有名なお坊さんから時々お話を聞くのだそうです。そして、人間は死んだらそれっきりで、無になってしまう、灰になるだけ、魂だとか言ってるけどほんとは何もない、というような教えを学んでくるのです。話の流れとしては、「だから物質に執着してはいけない、要らない物は捨てなさい」ということで、それはまあ部屋が片付くから別にいいのではないかと思うのですけれど。。。
しかし、それなら彼女の亡くなった両親も単に消えてしまったわけですよね。初七日だ四十九日だ三回忌だと、面倒で金のかかることをする必要もありません。生まれる前は無、死んだら無。それなら何をがんばってその中間を生きてる必要があるでしょうか。命は大切だの地球より重いだのと言うけれど、それほど実体のないものならわざわざ崇め奉る必要はないのです。たまたま偶然、無と無の間に、嬉しいの悲しいのと言ってうごめいているだけ。そんなしょうもないものなら別にいらない、と言って捨てたって、むしろそのほうが資源を無駄にしないからいいのではないかと思います。生まれたらできるだけ早く、今すぐにでも自殺したほうがいいのです。殺人にも罪はありません。ゼロをゼロに戻して何が悪いでしょう。 物質の体が究極的には執着に値しないものであることは事実であり、それに付随する物に執着することの愚かさを教えるのは大切だと思います。でも、そのついでに命そのものである魂さえも否定してしまう教えは、恐ろしい罪を犯しているんじゃないかなと思います。死んだら魂は神様と同化してしまうんだよ、という教えのほうがまだしもマシです。わざわざお寺にありがたい話を聞きに行く信心深い人々は、何を信心しているのでしょう。死んだら仏様や観音様や、あるいは閻魔様に会えるとは思わないのでしょうか。死んでも残る魂などない、無だ、灰だ、と言われて矛盾を感じないのでしょうか。あるいは、本当はお坊さんはちゃんと別な話をなさっていて、俗人の叔母が間違って理解しているのかもしれません。どちらにしても、結果として人生の最後に「命とは無である」という理解をしてしまう人がいるのはとても悲しいことだなと思います。80年以上も生きてきた彼女の人生は全く無意味な無駄な存在だったのですから。
第2章第72段落より
第72段落 カルマ・ヨギーは、「至高の人格神クリシュナがすべてものの享楽者であり、主がすべての生命体の主である」と、よく知っています。彼は、人々が自分自身を享楽者あるいは放棄者の立場に置くように導く、偽りの権威(prestige、威信、威光)に、何の価値も見出しません。 学識のある賢人たちは、それを物質的な存在の主要な病であると見なし、この手の偽りの権威に嫌悪を感じます。すべての良い仕事、知識を培うこと、瞑想、禁欲、犠牲―――これらすべての活動は、この物質的な病を好転させるためにあります。 したがって、至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(5.29)において、「自分(訳注:クリシュナ)がすべての犠牲と禁欲の享楽者であり、すべての宇宙の主であり、また、すべての生命体の至高の友人である、ということを知ることによって、人は至高の平和を得ることができる」とおっしゃいます。 第73段落 私たちは既に、仕事を犠牲のためだけに、すなわちヴィシュヌの超越的な感覚を喜ばせるためだけにすることの必要性を議論しました。そして、バガヴァッド・ギーターの上記の言明は、至高の人格神シュリー・クリシュナだけがすべての犠牲の行為の結果を楽しむことができる、ということを明らかにします。 普通の労働者(worker)の犠牲と、経験主義的な哲学者の瞑想と禁欲は、すべて至高の人格神シュリー・クリシュナによって規定され、維持されます。また、超魂―――神秘的なヨギーにとって瞑想の対象である、ヴィシュヌの局地化された側面―――は、至高の人格神シュリー・クリシュナの完全部分です。 第74段落 このように、シュリー・クリシュナはすべての人の友人です―――その人が普通の労働者であれ、経験主義的な哲学者であれ、あるいはたとえ神秘的なヨギーであれ。そして、至高の人格神の完全な従者である献身者については言うまでもありません。 至高の人格神は、特定の時、場所、そして聴衆に応じて、どこででも至高神への献身奉仕という超越的な過程を教え、普及するために、ご自分の献身者に力を授けられます。そうすることによって、(主は)いつも皆のために善をなさいます。したがって主は、すべての恩恵の宝庫です。そして一般の人々は、(彼らが)カルマ・ヨガに始まる献身奉仕の過程によって主を知るようになるとき、完璧な平和と幸せを得ることができます。 第75段落 至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕のためにすべてのことをする者は、至高神への奉仕に関連のない何らの犠牲や苦行や瞑想をする必要もありません。私たちは先に、ブラーマナのしるしである徳の性質は、そのような献身者の性質に含まれる、と議論しました。 同じように、誠実な労働者の犠牲と専門知識、サンニャースィーの放棄と知識、神秘的なヨギーの静けさと神への深い集中―――これらすべての性質および至高神への愛が献身者の性質の中に含まれます。 第76段落 事実は、シュリー・クリシュナご自身が献身者によってなされた仕事の結果の享楽者である、というものです。そのため、献身者は自分の仕事の結果に対して何の責任もありません。その結果が俗世の人々の評価によれば良いものであれ、悪いものであれ。 献身者は、シュリー・クリシュナのためにすべてをするという自分の義務の衝動の下で行動します(訳注:「~という義務の念に駆られて行動します」)。彼は決して自分自身のためには行動しません。その反対に、至高神の献身者でないサンニャースィーは、あまねく存在する霊に関する知識を得るために、すべての俗世的な責任から逃れます。 神秘的なヨギーは、自分の瞑想をより良くし、自分の中に同じ至高の霊の局地化された側面をもっとよく見るために、同じような方法をとります。しかし、献身者は自己を満足させるという動機によって駆り立てられることなく、至高の人格(person)の満足のためだけに行動するので、そのため彼は実際に―――サンニャースィーと神秘主義者によってなされる別の努力をすることなく―――すべての俗世的な義務から自由です。 サンニャースィーによって得られた霊的な知識、および神秘的なヨギーによって得られた八重の完成は、どれも献身者にとっては簡単に得られるものです。それでも献身者は、何らの利益、賞賛あるいは栄誉を得たいと望みません。 彼は、至高神への超越的な奉仕にいそしむことを除いては、全く何らの利益を得たいとも望みません。そして単にそのような奉仕によって、彼はすべてを得ます。人がいったん、他のすべての利益を含む至高の利益を得るなら、他に何の得るべきものがあるでしょうか? 第77段落 パタンジャリによって説明されたヨガの体系を辿りながら、神秘的なヨギーは自分の様々な身体的な機能をほとんど完全に止めて、瞑想上の恍惚感(trance)を得ようとします。そのため彼は、自分の心臓の中に至高の霊の局地化された側面を見るために、あらゆる苦難に耐えます。 言い換えると、宇宙の中に比肩するもののない自分の理想を実現するために、たとえそれが死に直面することを意味したとしても、どんな代償をも厭いません。バガヴァッド・ギーター(6.22)において、至高の人格神がおっしゃいます。 「自分の心臓の中に至高の霊を認識すると、神秘的なヨギーは、その超越的な水準に至ることよりも価値のあるものは何もあり得ない、と考えます。その水準にいるということは、何らの苦しみによっても、それがどんなにひどくても動揺しない、ということを意味します。 第78段落 パタンジャリの体系によれば、神秘的なヨガは、その様々なきまぐれなやり方(inclination、傾向、性向)をもって精神面を完全に統御することを目的とします。パタンジャリは、「この超越的な状態は、感覚的な活動から自由になることと、浄化された霊魂にとってのみ知覚可能な完成の水準を得ることからなる」と言います。 そのような水準において、神秘主義者の注意は決してそのような霊的な達成からずれません。八重の霊的な完成は、単に神秘的なヨガにおいて最高の水準に至ることの副産物に過ぎません。(訳注:原文は箇条書きではない。) 1、アニマー(最も小さいものより小さくなる力) 2、ラグヒマー(最も軽いものより軽くなる力) 3、プラープティ(何であれ望むものを得る力) 4、イーシター(惑星を作る力) 5、ヴァシター(誰もを統御する力) 6、プラーカーミャ(すばらしい自然な偉業(feat、離れわざ、芸当)を為す力) など。 上記の完成の一つか二つを得た後、多くの神秘的なヨギーは精神的なぐらつきという罠にはまります。そのような状態において、ヨギーたちは最高の完成、つまり至高の人格神への純粋な献身を得損ねます。 第79段落 しかし、献身者にはそのような堕落の恐れはありません。なぜなら、彼の注意は既に至高の人格神への超越的な奉仕に固定されているからです。そのため、彼は別に(separately、この場合は「既に行っている献身奉仕とは別に」の意味)恍惚感に入る必要がありません。 献身者にとって神秘的な完成は、彼の注意の対象である至高の人格神の、増える一方の新鮮さのおかげで、取るに足らぬものに見えます。俗人は必ず、至高の人格神への奉仕にどうしてそれほど多くの超越的な幸せがあるのか、理解することができません。 第80段落 主クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの中で私たちに、たとえその過程が部分的にだけ完成されたとしても、神秘的なヨギーあるいはカルマ・ヨギーにとっても、彼らのそれぞれの超越的な活動を完成させようとする試みにおいて損失はない、と保証なさいます。 俗的なものは何でも―――知識であれ、富であれ―――物質的な体が滅びるのにあわせて消えますが、カルマ・ヨギーの超越的な仕事は物質的な体と心の俗的な限界を超えます。なぜなら、それは超越的な霊魂との関わりにおいてなされるからです。 このように霊化されることで、これらの活動は物質的な滅亡の限界を超えます。そのため、ちょうど魂が決して滅びないように、物質的な体あるいは心が滅びるときでも、これらの霊化された活動もまた、決して滅ぼされません。 第81段落 至高の人格神は、バガヴァッド・ギーター(6.40)においてこれらを確認なさり、そしてタークラ・バークティヴィノダはそれを次のように説明なさいます。「結局、人間(human race)は二つの部分に分けられます。一方は合法的で、もう一方は非合法的です。 生命の何らの法律も気にせず、単に感覚の満足という原則にのっとって働く者―――彼らは皆、非合法的です。彼らは文明化されているかもしれず、されていないかもしれず、学識があるかもしれず、文盲であるかもしれず、強力、あるいは薄弱であるかもしれませんが、そのような無法者はいつも、低位の動物のように行動します。あらゆる外見に関わらず、彼らの中には何の善もありません。 第82段落 他方、合法的、すなわち法に従う人々は、3つの超越的な区分に分けられます。すなわち、法に従う労働者(訳注:worker、この場合は一般的な意味での労働をする人を指すのではない)、経験主義的な哲学者、そして超越的な献身者です。法に従う労働者はさらに二つの部分に分けられます。 つまり、自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者と、そのような望みを持たない超越的な労働者です。自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者は、はかない物質的な幸せを追い求めます。そして、そのような労働者は物質的な世界の中で俗世的、あるいは天上の(heavenly)幸せで報われます。しかし、これらすべての幸せの形は一時的であることが知られねばなりません(訳注:「~を知っていなければなりません」)。 そのため、そのような労働者は、永久的で超越的な本当の幸せを得ることができません。この本当の超越的な幸せは、物質的な存在の呪縛からの解放の後でのみ得られます。そのような超越的な幸せを目的としないいかなる行いも、いつも一時的で気まぐれ(baffling、当惑させるような)です。」 第83段落 普通の仕事がそのような超越的な目標を目的とするとき、この仕事はカルマ・ヨガと呼ばれます。このカルマ・ヨガの過程によって、人は徐々に自己浄化(self-purification)、それから超越的な知識、それから完璧な瞑想、そして究極的に至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ます。 時として、俗的な労働者は、彼が自分の俗的な目標を達成するために行う多くの禁欲のため、タパスヴィー(苦行者)、あるいはマハートマー(偉大な魂)であると誤解されます。しかし、そのような俗人によってなされた厳密な禁欲は、結局単に物質的な感覚の満足だけを目的としています。 そしてそのため、これらの禁欲は超越的には無駄です。ラーヴァナやヒラニャカシプなどの一部の悪魔も、大変な禁欲と苦行を行いましたが、彼らは幾らかの、感覚的な喜びの一時的な対象の他には、何も得ませんでした。したがって、感覚的な喜びの限界を超えるときだけ、彼はカルマ・ヨギー、すなわち超越的な結果のための労働者として分類され得ます。 第84段落 本当の徳は、たとえ人が(訳注:カルマ・ヨガの)予備的な水準だけにあったとしても、カルマ・ヨガの活動の中にあります。さらに、カルマ・ヨギーはバガヴァッド・ギーター(6.43)において確認されているように、何度も生まれかわって(life after life)発達します。「生まれ変わった後で、カルマ・ヨギーは自分の過去の生で得た超越的な奉仕の感覚を取り戻します。そして、自分の自然な執着により、彼は再び自分の超越的な活動を完成させようとします。」 第85段落 たとえそのような超越主義者がどういうわけか発達の道から滑り落ちても、彼は再び発達する機会を与えられます。バガヴァッド・ギーター(6.41)において確認されているように、彼は次の生を真正なるブラーマナの家庭、あるいは至高神への奉仕に献身している富裕な商人の家庭に受けることを許されます。 第86段落 しかし、カルマ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、ハター・ヨギーおよびバークティ・ヨギーと様々に分類される超越主義者の中で、バークティ・ヨギーが最も偉大です。なぜなら、バガヴァッド・ギーター(6.47)において確認されているように、彼らはいつも至高神への超越的で愛情ある奉仕の考えと活動に浸っているからです。明らかに、至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ることは、すべての神秘主義の究極的な目標です。それが上記の節の説明です。 第87段落 事実は、神秘主義の道は均一で、一つです。それは最高の目的地への一連の踏み石のようなものです。この神秘主義の道を受け入れることによって、人は霊的な完成に向けての巡礼者になります。カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事は、この超越的な道における最初の踏み石です。 経験主義的で哲学的な(推論による)結論と放棄への望みが加えられるとき、次の踏み台、ジニャーナ・ヨガへの発達が生じます。思考の支配的な原則の明確な概念、すなわち至高神が加えられるとき、そして心臓の中に主の存在を認識しようとするとき、第三の踏み石、デャーナ・ヨガへの発達が生じます。 そしてついに、至高の人格神への愛情ある奉仕を捧げる過程を加えるとき、人は究極的な段階、バークティ・ヨガに発達します。したがって、神秘主義的な道は超越的な進化です。そこでは上記のすべての段階は霊的な発達の段階的な過程の一部です。最終的な段階を理解するために、上のすべての段階に言及することが必要です。したがって、至高の目的地に至ろうと望む者は、系統的な神秘主義の道を辿るかもしれません(may、~してもよい)。 第88段落 しかし人は、第一、第二、あるいは第三の踏み石の上で止まるべきではありません。人は最後の段階へ、至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕という完璧な段階へ、最後まで発達しなければなりません。 中間的な段階まで至ったけれど、それ以上大した発達をせず、自分の発展のその段階で満足し続ける者は、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、あるいはデャーナ・ヨギーなど、その特定の名前で呼ばれます。ですから結論は、超越的な献身者がすべての神秘主義者の中で最も偉大である、というものです。 第89段落 この時点で、超越的な神秘主義の道での発達は普通の物質的な発達と同じではない、ということが特記されるべきです。物質的な世界では、人は次の段階に受け入れられる前に特定の発達の段階を通り過ぎなければなりません。そして、この過程に代替策はありません。 例えば、もしも誰かが修士号の学位を得たいと望むなら、彼は非常に多くの試験に合格しなければなりません。代替策はありません。誰も、適切な試験に合格することなくして修士号の学位を受けることを期待することはできません。 しかし、超越的な神秘主義の道では、段階的な発達の過程によって、より低い水準から最高の水準へと人を導く認定された規律があるにも関わらず、至高神の慈悲によって、人は何らの予備的な試験に合格することなく、超越的な修士号の学位を受け取ることができます。 しかし、至高神のこの類稀なる(extraordinary)慈悲は、至高の人格神との内密な関係という方法によってのみ可能です。そしてこの至高の人格神との内密な関係は、至高の人格神の献身者との超越的な関わりという方法によってのみ可能です。 第90段落 それぞれの、そしてすべての魂は、至高の人格神との潜在的で内密で永遠の関係を持っています。しかし、幻惑的な物質エネルギーとの長い関わりのため、私たち一人一人皆がその関係を記憶にないほどの昔から忘れてしまっています。 私たちは皆、最も豊かな名士(personality)、至高の主の超越的な息子であるにも関わらず、路上をさまよう物乞いのようなものです。冷静な頭をもってしては、私たちはこの事実を非常によく理解できます(could)。それにも関わらず、私たちは自分の至高に豊かな父と、主と自分の関係に無頓着であり続けます。 そしてそのため私たちは、貧困と飢餓という自分の路上の物乞いの問題を解決するために、しかし何の明らかな結果もなく、多くの方法で苦しみ続けます。私たちは路上で同じく貧困に苦しむ多くの友人たちに会います。 時として、私たちよりも多少豊かな者が何らかの進歩的な(訳注:progressive、この場合は「より物質的に発達した」という意味でしょうか)人生の段階に私たちを導きますが、実際には私たちはそのような導きから何らの幸せも得ません。これらの人々は私たちに、仕事、知識、瞑想、神秘主義、そして様々な他の方法についても示します。 しかし不幸にして、そのどれも私たちに、私たちがずっと求めている幸せを与えることはできません。この理由により、主チャイタンニャは、ダシャーシュヴァメダー・ガータにて、プラヤーガのガンジス河の岸辺で、「至高の人格神と主の真正なる代表者の慈悲により、最も幸運な魂だけが献身奉仕の種を得ることができる」とシュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーに助言なさいました。 第91段落 私たちはこの超越的な献身奉仕の種を、主のバガヴァッド・ギーターという超越的なメッセージの中で、シュリー・クリシュナ、至高の人格神ご自身から得ることができます。私たちが「バガヴァッド・ギーターの中のシュリー・クリシュナの本物のメッセージは主への献身奉仕である」と理解する(to grasp)ことができるとき、そのときはじめて私たちはバガヴァッド・ギーターの教えの真価を完璧に理解します(to appreciate)。 そうでなければ、私たちは何度も生まれかわってバガヴァッド・ギーターを読むかもしれず、そして私たちはそれに関する無数の(a thousand and one)解説書を書くかもしれませんが、しかし、バガヴァッド・ギーターを理解するためのすべてのそのような試みは無益に終わります。 第92段落 至高の人格神は、ご自分をバガヴァッド・ギーターにおいて説明なさいました。非常に多くの俗人(common men)が自分の自伝を書き、そして一般の人々は熱心にそれらを読んで受け入れましたが、至高の人格神がご自分について語るとき、人々は主のメッセージをありのままに受け取りません。 これは彼らの不運です。至高の人格神のメッセージをありのままに受け入れる代わりに、愚かな俗世の解説者たちは、バガヴァッド・ギーターによって決して裏づけされていない何らかの人工的な考えを確立するために、バガヴァッド・ギーターの単純な句節からでっちあげの意味を引き出そうとします。 愚かな解説者は、究極的にはそのように人工的に引き出すことによって自分のくだらない理論を確立することができません。そのため、最後に彼らは神の代わりに猿を置くことによって(by putting a monkey in place of God)自分の理論を確認しようとします。 第93段落 バガヴァッド・ギーターにおいて、シュリー・クリシュナが至高の人格神であるということが確かに確立されています。また、私たちの唯一の義務は主に超越的な愛情ある奉仕を捧げることである、ということも確立されています。バガヴァッド・ギーターのページから私たちがこれらの二つの事実を本当に理解したら、私たちは霊的な教育の初歩的な教室に入ることができます。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 (校正:最後の「ハレ・クリシュナ・マントラを唱える」は省略。このページはページ数(68ページ)の記載が抜けている。また、第4段落に「巻末の広告や住所を参照するように」との指示があるが、その記載が抜けている。) 裏表紙 人間の社会は、至高の人格神、主クリシュナによって4つに分けられています。この自然な社会の分割は記憶にないほどの昔から存在しており、社会をブラーマナ(知識層)、クシャトリヤ(管理層)、ヴァイシャ(商人層)、そしてシュードラ(労働者層)に分割します。 地球のすべての部分において、人間の人口が、人の心理と仕事という、この基本に添って自然に分割されているのを見ることができます。これらの4つの社会的な階層が協力して神に奉仕をするなら、そうすれば私たちは皆、幸せになれるでしょう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 以上で本書の翻訳を終わります。編集、製本、配布などご自由になさってください。私の許可を取る必要はありません。興味のありそうな方へのサイトの紹介もよろしくお願いします。今後はしばらく仕事の翻訳に集中しますので、再開は時間が空くことと思います。ご了承ください。
第2章 第62段落より
第62段落 様々な種類の犠牲が存在しますが、私たちは「すべての犠牲の究極的な目的は至高神ヴィシュヌを喜ばせることである」と理解すべきです。私たちが物質的に存在している間は、体と魂を一緒にしておくためだけにであっても、私たちは物質的な物と関わらねばなりません。 しかし、すべてのそのような物質的な活動において、私たちは「至高の霊は偏在である」というヴェーダの真実に関して(in terms of)、霊的な雰囲気をかもし出すことができます。この真実は、単に至高の霊が偏在であるからすべてのものが至高の霊である(原文は斜体)という誤解、すなわち汎神論を支持する者によって不完全に説明されています。 この誤解が解消され、そしてもしも私たちが至高の霊は本当に偏在であるということを覚えているなら、私たちは、すべてのことを自己を認識した魂によって指揮され、私たちのすべての活動を至高の霊との関係によって行うことによって、霊的な雰囲気を作り出すことができます。そうすれば全体(the whole thing)が霊に変化させられます。 第63段落 ここで、上記の霊化の過程を説明するために例を挙げます。鉄の棒が火に入れられるとき、棒は火の性質を帯び、鉄の棒として機能することをやめます。同じように、私たちのすべての活動が私たちのクリシュナとの関係の関してなされるとき、そのときすべては霊に満たされます。クリシュナを喜ばせることが私たちの究極の目的になるので、私たちのすべての活動は霊的になります。 犠牲には、次のような5つの主な要素があります。 1、捧げる過程 2、捧げ物そのもの 3、火 4、犠牲 5、犠牲の結果 これらすべての要素が至高の霊に関係するとき、それらはすべて霊化され、そしてそのときすべてのものは本当に犠牲たり得ます。言い換えると、上記の5つの要素が超越的な奉仕においてシュリー・クリシュナに捧げられるとき、それらは主と相互関係を持つようになり、そしてそのため、それらは完全に霊化されます。 第64段落 したがって、学識のある人々は自分のすべての活動を至高の人格神への超越的な奉仕に向けます。これらの本当に浄化された魂は、実際に自分のすべての感覚的な活動を統御し、また、自分の本当の霊的な自己を十分に習得します(to master)。 そのような霊化された人々だけが、個人、場所、そして時に応じて(in terms of)、堕落した魂に実際に同情を見せることができます。そして、一見すると物質的な活動を行っているにも関わらず、そのような霊化された人々は仕事の呪縛から自由です。 この過程はバガヴァッド・ギーターの5章の7節において説明されています。そこでクリシュナは、他のすべての者への同情から、超越的な結果を得ることを目的として自分の仕事を行う者だけが実際に公けの指導者となる資格がある、と述べられます。 第65段落 カルマ・ヨギーの敵―――自分の満足あるいは感覚の満足のために働き、奉仕という超越的な関係を通して至高の霊と関わっていない者―――は、時として、至高の意思の望みに従って働いているふりをします。実際彼らは、それを至高神への超越的な奉仕であると偽ってレッテルを貼ることによって自分の身勝手さを隠そうとしている汎神論者の詐称者です。 (訳注:「彼らは自分のしていることを「至高神への超越的な奉仕である」と偽り、そうすることで自分の身勝手さを隠そうとしています。彼らは汎神論を支持する詐欺師なのです」)しかし、心が純粋である者―――つまり、至高の人格神の蓮の御足にすべてを捧げた(to surrender)者―――は、そのような偽りの超越主義者から遠ざかっています。 第66段落 そのような、心が純粋な超越主義者は、生命体は非常に微細であるけれど完全真理の欠かすべからざる小片であり、そのため相応の独立性を持っている、と知っています。至高の人格神は万能(all-powerful)ではありますが、主は決して生命体の楽しむこの少々の自由に干渉なさいません。 そのため生命体は、自分のほんの少しの独立性を悪用して、自然の相によって制約される自由があります。徳、熱情、そして無明という自然の相によって制約されるとき、彼(生命体)は徳、熱情、そして無明という、それらのそれぞれの性質を育みます。 物質自然によって制約され続けている限り、彼(生命体)は自分の特定の自然の相に応じて行動しなければなりません。もしもこれらの相が活動していないなら、それなら私たちは現象の(phenomenal、自然現象の)世界の中でこれほど様々な種類の活動を見ることはありません。 第67段落 もしも、自然の精緻な法律を知らないために私たちが「それらは至高の人格神の意思によってなされているのだ」と言って自分のすべての俗的な行為を正当化しようとするなら、それなら私たちは万善の(all-good)至高の人格神の行いに不公平さと酩酊と野卑さを持ち込むことになります。 様々な俗的な矛盾(discrepancy、期待はずれ)は至高の人格神の意思によって生じるのだと―――一部の人々は主の意思によって幸せで、他の人々は主の意思のよって不幸せであると―――決して想像されるべきではありません。 物質世界におけるそのような違いは、個々の生命体による自由意志の、正しい、あるいは正しくない使い方によるものです。至高の人格神クリシュナは、自然の様々な相によって支配されたすべてのそのような制約的な仕事を放棄するように、すべての人に命じられます。そのような仕事は、主の意思によってではなく、自然の相によって永続化された無明から生じます。 第68段落 バガヴァッド・ギーター(5.13)において主は、ご自分は誰の特定の仕事の原因でもなく、そのような仕事の結果の原因でもないが、これらすべては自然の様々な相が原因で生じる、とおっしゃいます。このため、生命体によってなされるすべての活動―――カルマ・ヨガのそれ(活動)を除く―――は、自由意思の悪用(abuse)から生じる、自分で作り出した仕事であり、そしてそのため、人は決して、そのような仕事の結果がどういうわけか万能の神によって定められた、と考えるべきではありません。そのような仕事はすべて物質的であり、そしてそのため、自然の相によって制約され、指示されています。至高の人格神はそのような仕事とは全く関係ありません。 第69段落 同様に、カルマ・ヨギーはいつも、自然の相の制約から遠く離れた超越的な立場に存在しています。なぜなら、彼のすべての仕事は完全存在の水準に辿りつくからです。人が自然の相からの自由という水準にあるとき、現象世界はその霊的な側面を顕現します。世界がこのように霊的に顕現するとき、その自然の相は人の霊的な発達に何らの障壁も呈することができません。そのような障壁が越えられるとき、人は完全な洞察力(view、視力、視界)を得ます。 第70段落 バガヴァッド・ギーター(5.18)はさらに、学識のある人が完全な洞察力を得るとき、彼はすべての生命体を―――学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、あるいは犬食い(訳注:シュードラのさらに下の階層の人々)であれ―――沈着さを持って見る(to observe、観察する)ことができる、と説明します。 人間の中で、学識があって柔和なブラーマナは自然の徳の相の具現であり、一方で、獣の中では牛が徳の相の具現です。象とライオンは自然の熱情の相の具現であり、犬とチャンダーラ(犬食い)は自然の闇、すなわち無明の相の具現です。 第71段落 しかし、これらの生命体の様々な外的な神殿(様々な自然の相の下での彼らの具現)に焦点をあてる代わりに、カルマ・ヨギーは自分の完全な洞察力をもって彼らを見、そして中に閉じ込められた霊に達します(to penetrate to、「見通します」)。 そして、この極微な霊は無限大の至高の霊から発しているので、最高の位置にあるカルマ・ヨギーは、すべての者とすべての物を沈着さをもって見ることができます。そのようなカルマ・ヨギーは、すべてを完全存在との関係において見て、そしてそのため、彼はすべてを完全存在への超越的な奉仕に使います。 彼は、すべての生命体を完全至高神シュリー・クリシュナの非常に多くの超越的な従者として見ます。彼の完全な超越的な洞察力は、すべての物質的な体の檻を突き抜けずにはおきません。ちょうど、赤く熱された鉄が触れるものすべてを焼かずにはおかないようなものです。このように、カルマ・ヨギーはすべての者とすべての物を至高の人格神への超越的な奉仕に携わらせることによって、超越的な性質の手本を示します。
第2章 第52段落より
第52段落 シュリー・クリシュナ、至高の人格神は完全真理です。これはすべての権威ある聖典において立証されています。私たちの霊的な人生は、シュリー・クリシュナとの私たちの関係が再び目覚めさせられるとすぐに発達し始めます。シュリー・クリシュナは太陽のようであり、他方、無知は闇のようなものです。そのため、無知の闇はシュリー・クリシュナとの私たちの関係が築かれるとすぐに消えます。 シュリー・クリシュナが私たちの心臓の中に現れることによって、私たちから物質的な接触による不純物が洗い流されます。ちょうど、太陽が現れると朝が新しくさわやかに現れるようなものです。これは子供じみた想像が作り上げたものではなく、霊的な認識の実際の経験です。シュリー・クリシュナ、あるいは主の真正なる従者の足跡を誠実に辿る者もまた、この単純な真理を理解します。 第53段落 しかし、シュリー・クリシュナをうらやんで自分が主の競争相手である振りをする愚か者は、この事実の言明を受け入れません。そのため愚かな俗人は、カルマ・ヨガの優位を理解することなく、結果的に呪縛を生じさせる無制限な(unrestricted、制約されない、規律されない)物質的な活動にふけります。 彼らの仕事そのものが、彼らを永久に生と死の物質的な存在に留めます。そのような愚かな俗人たちは実際にシュリー・クリシュナをうらやみ、主を「自分たちの一人である」と嘲ります。シュリー・クリシュナに関する真実は、そのような俗人の歪んだ脳に簡単には入りません。それは哲学への経験主義的な方法で侵されているからです。 しかし、主の献身者はバガヴァッド・ギーターのページに実際に述べられていることそのままを忠実に(faithfully、正確に)理解し、想像、あるいは一般に「霊的な解釈」と呼ばれる経験主義的な哲学の手法に訴えません。そのような献身者だけがクリシュナに完全に服従することの論理を受け入れることができ、そのため仕事の危険な呪縛を逃れるためにカルマ・ヨガの過程を取り入れることができます。 第54段落 シュリー・クリシュナによって語られた言葉の中に、これらの献身者が特定のカースト、信条、(訳注:肌などの)色、あるいは国の境界の中に現れる、ということを規定するものはありません。そうではなく、彼らはカースト、信条、(訳注:肌などの)色、あるいは国の制限は全くなくどこにでも現れることができ、(実際に)現れます。ですから、何であれ、そして誰であれ、すべての人がシュリー・クリシュナの献身者になる資格があります。この事実を確認するために、バガヴァッド・ギーターにおいて至高の人格神はおっしゃいます。 「おお、プルターの息子よ。もしも献身奉仕において私に依り頼むなら、堕落した女たちや職業的な売春婦、無知な単純労働者、あるいは商人(など)、信仰のない(faithless、不誠実な)、より低い身分に生まれた者であっても、すべての者が完成を得て神の王国に至ります。」言い換えると、現在の不信心な社会において多数派である非良心的なカースト制度は、シュリー・クリシュナ、至高の人格神に近付くための障壁ではありません。 第55段落 シュリー・クリシュナご自身が、本物で普遍的なカースト制度の基本的な原則を数え挙げられました。4つの社会的な階層―――ブラーマナ(聖職者と知識人)、クシャトリヤ(政治家と軍人)、ヴァイシャ(商人と農民)そしてシュードラ(労働者)---は、それらの階層の構成員が自然の相の下で自分の活動を通じて得た性質に応じて、主によって定められました。 ですから、一面ではクリシュナは世界中のこのカースト制度を作った方ですが、それでも別の見方をすれば、主は(それを)作った方ではありません。つまり、主は不信仰な人々が人の出自に応じて地位を規定する、圧政的で不自然なカースト制度を作った方ではありません。そうではなく、主は、普遍的にあてはまる、自発的で自然で、そして人の性質と能力に基づいたカースト制度を作った方です。 第56段落 4つの社会的な階層の制度は、決して出自によるカースト制度を目的としたものではありませんでした。この制度は、人々の俗的で現実的な資質と仕事に照らして、普遍的に当てはまります。ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャあるいはシュードラの分類は、決して人の偶然の出自に関連して作られるのではありません。(訳注:人が偶然の出自によって階層に分類されるというのは)単に誰かが著名な医者の息子であるからという生得権によって医者になれる、ということと同じ程度(に馬鹿げた)ものです。 医者の本当の資格は、相当の時間をかけた医学の熱心な学習を通してのみ得られます。そして、学習を完了したときに初めて人は医学の職業につくことができます。そのため当然、患者が医者のところに行くとき、彼は医者の出生証明書ではなく、職業的な資格を見ます。ちょうど医者がいつもすべての国とすべての時代にいるように、ブラーマナ、クシャトリヤなどはいつも、個人的で現実的な資質の力によって、地球のすべての場所にいます。 第57段落 私たちが世界の特定の部分の中に、そして特定の宗派の信仰の中に局地化したインドの現在のカースト制度は、疑いもなく誤っており、自然で普遍的なカースト制度の歪んだ姿です。もしも誰かが、何の医学の知識もなく、医学の学校に通いもせず、「自分は医者の息子であるから」と医者である振りをするなら、そしてもしもこの医者が市民の一部から「そうである」として受け入れられるなら、それならその医者と彼の盲目的な追従者たちは単に、騙す者と騙される者の社会の一員です。 ですから、至高の人格神シュリー・クリシュナによって作られ、そしてバガヴァッド・ギーターにおいて言及されているカースト制度は、騙す者と騙される者の社会のカースト制度と同じではありません。シュリー・クリシュナのカースト制度は、世界、そして実際は宇宙の、すべての時とすべての場所において普遍的に真実です。 第58段落 カースト制度の様々な階層の資格はバガヴァッド・ギーターにおいて数え挙げられており、私たちはここでそれらに短く言及します。ブラーマナは最高位の社会的な階層です。彼らは徳の相に位置しており、平等、自制、および許しの活動に携わります。 クシャトリヤは第二番目に高い社会的な階層です。創造的な熱情の性質に位置しており、様々な政治的および社会的な組織の管理的な支配者として公けの指揮に携わります。ヴァイシャは第三位の社会的な階層です。創造的な熱情と無明の闇の混じった性質に位置しており、彼らは一般に農民および商人として働きます。 シュードラは最低位の社会的な階層です。暗闇、すなわち無明の相に位置しており、一般に他の三つの社会的な階層への奉仕をします。階層として、シュードラは俗的な社会組織(social body)全体の従者です。現在の闇の時代―――カリ・ユガ、争乱と欺瞞と無明の時代―――においては、ほとんど誰もがシュードラとして生まれます。 第59段落 もしも私たちが至高の人格神によって作られたカースト制度の光に照らして人間のあり方を調べるなら、私たちは必ず、世界のすべての場所で四つの社会的な階層が機能しているのを見ることができます。地球のすべての場所で、人間が住んでいるところはどこででも、一部の人々はブラーマナの資質を持ち、他の人々はクシャトリヤ、ヴァイシャ、あるいはシュードラの資質を持っています。 自然の相の様々な相は宇宙の隅々にあり、そしてブラーマナ、クシャトリヤなどは単に自然の相の産物であるので、どうして人は世界の特定のところには四つのカーストが存在しないと言えるでしょうか?これは不条理です。 すべての国とすべての時代において、過去にも現在にも未来にも、四つの社会的な階層は存在します。したがって、カースト制度と呼ばれる四つの社会的な階層の制度がインドだけに存在するという理論に固執する者は、完全に誤っています。 第60段落 しかし、至高神の献身者になる機会は、カースト制度によって制限されていません。第四の社会的な階層である普通のシュードラの資質よりはるかに劣る者でさえ、至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする資格があります。 資格のあるブラーマナが、すべてを魅了する至高の人格神であって完全真理であるシュリー・クリシュナに超越的な奉仕をすることによって得る霊的な完成は、シュードラのそれよりも低い地位にある者であっても、もしも彼がこの、シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする、という同じ過程を辿るならば、他の誰によっても得られます。 (訳注:「たとえシュードラよりも低い地位にある者であっても、シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする、という同じ過程を辿るならば、資格のあるブラーマナが得るのと同じ霊的な完成が得られます。」) プラーナによれば、チャンダーラ、すなわち(シュードラより低い)第5の社会的な階層の者でさえ、自分の超越的な献身奉仕の力によって第一の階層の人(ブラーマナ)よりも高くなります。宇宙の中の至高の聖典バガヴァッド・ギーターの内密な教えは、したがって、人間の人生の最高の完成、つまりシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕を得るためだけにあります。 第61段落 したがって、カースト、信条、あるいは(肌などの)色に関係なく、すべての人が、その初期の段階ではカルマ・ヨガとして知られる献身奉仕の過程を取り入れなければなりません。なぜなら、そうすることによってすべての人が世界のすべての活動を霊的なものにする手助けをするからです。 そのような活動によって、仕事をする人となされた仕事の両方が霊性で満たされ(to surcharge、加重積み込みする)、自然の相を超越します。そして、彼の活動が霊化するにつれて、行為者は自動的に最高位の社会的な地位、ブラーマナの資質を得ます。事実、献身奉仕を通して完全に霊化された者は自然の相を超越しており、そしてそのため彼はブラーマナ以上の存在です。 結局、最高位の俗的な階層にあるとはいえ、ブラーマナは超越的ではありません。人がどうやって単に至高の人格神に超越的な献身奉仕をすることによって至高の超越的な知識を得ることができるかは、バガヴァッド・ギーター第4章の24節において説明されています。そこでシュリー・クリシュナは、カルマ・ヨガを行うことによってすべてが霊化される、と説明なさいます。 「至高の霊は偏在である」というヴェダーンタの格言の歪んだ解釈を広めた、アーチャーリャ・シャンカラの汎神論の哲学は、そうは言うものの、上記の一節(BG4.24)に実際的な関わり(bearing 、意味、立場の認識など)を持ちます(has a practical bearing on the above verse)。(訳注:汎神論哲学は格言の歪んだ解釈を世に広めはしたが、この一節に関しては現実的な理解をしている、ということでしょうか。)
第2章 39段落より
第39段落 人間の社会における同胞愛は、徐々に発達します。自己への愛から家族への愛、家族への愛から地域への愛、地域への愛から国への愛、そして国への愛から国際社会への愛、というふうにです。そして、この段階的な過程にはいつも、私たちの愛が一つの段階から別の(次の)それへと発達、発展するのを助ける魅力の中心があります。 しかし私たちは、同胞愛の発展のためのこの恒常的な苦闘の中で、究極的な魅力の中心は家族でも地域でも国でも国際社会でもなく、あまねく存在する至高神ヴィシュヌである、ということを知りません。この無知は、完全真理の幻想エネルギーである物質的なカーテンによるものです。 偉大な献身者プラーラーダ・マハーラージャは、一般の人々は彼らの究極の魅力の中心は至高の人格神ヴィシュヌであるということを知らない、と確認なさいます。そしてヴィシュヌの区分の中にあって、シュリー・クリシュナが至高の魅力です。 第40段落 事実、クリシュナという言葉は「魅了するもの」を意味する「クリシュ」という語幹から派生しています。そのため、至高の完全真理には「クリシュナ」---「すべてを魅了するもの」以外の名前はありえません。学識のある賢人たちはこのことに関して詳細な研究を行い、クリシュナが至高神であると確実に結論付けました。 スータ・ゴスヴァーミーの主宰の下に集まったナイミシャーラニャ(現在はアッター・プラデシュ(訳注:U.P., Uttar Pradesh、かつては United Provinces)にあるスィタプール(Sitapur)地域のニムサル(Nimsar))の賢人たちは、完全真理の様々な化身のすべてを詳細に議論しました。 彼らは、クリシュナが至高の人格神であり、そして他のすべての化身は主の完全部分あるいは完全部分の部分である、という結論に達しました。至高の人格神はシュリー・クリシュナです。それが超越主義者のバーガヴァタ学派の評決です。 この結論は、この宇宙の創造主であるブラーマーによって編纂されたブラーマ・サムヒターの中で確認されています。「シュリー・クリシュナは、永遠の、喜びに満ちた、超越的な形を持つ、至高の人格神です。主はゴヴィンダとして知られるもともとの人であり、そして主はすべての他の原因の原因です。」 したがって、すべての原因の根本的な原因、シュリー・クリシュナという中心的な魅力の上に互いの関係を築きさえすれば、私たちは同胞愛と平等の概念を、永続的な平和の(ための)実現可能な(workable)方法に本当に変えるでしょう。(訳注:自然な日本語の一例としては「同胞愛と平和の理念は単なる理念を越えて、やがて永続的な平和として結実することでしょう」) 第41段落 (これに)関係のある原則をもう少しよく理解するために、私たちの周りの俗的な関係を見ることができます。(訳注:「私たちの身の回りの人間関係でもこの原則を学ぶことができます」)例えば、私たちの姉妹の夫は、彼が彼女と結婚する前は私たちにとって見知らぬ人であったかもしれませんが、それでも―――単に彼女との共有された中心的な関係の力によって(訳注:彼女という中心を共有しているおかげで)―--私たちの義理の兄弟となります。 そしてその共有された中心的な関係のおかげで、この、かつては知らなかった男の息子と娘は私たちの甥と姪になります。重ねて、これらすべての愛情ある関係は、私たちの姉妹を中心としています。この場合、私たちの姉妹が魅力の中心になります。 第42段落 同様に、もしも私たちが自分の国を魅力の中心にすれば、私たちは自分たちを「ベンガル人」、「プンジャビ人」、あるいは「イギリス人」などと、何らかの制限的で分割的な国のレッテルで区分します。あるいは、私たちが特定の信仰や宗教を信奉してこれを魅力の中心とするとき、重ねて、私たちは自分たちを「ヒンズー教徒」、「イスラム教徒」、あるいは「キリスト教徒」など、何らかの宗派的なレッテルで区分します。このように、私たちは他の多くの人々が私たちと共有できない魅力の中心を選んできました―――なぜなら、彼らにとって私たちの魅力の中心はすべてを魅了するものではないからです。 第43段落 私たちの互いとの人間関係は、私たちがすべてを魅了する至高の人格神クリシュナを自分たちの魅力の中心とするときにだけ完全であり得ます。私たちは本来、もともとの生命体であって、したがってすべての魅力の中心であるクリシュナと、永遠に関係があります。 ですから、私たちがしなければならないのは、マーヤー(幻想エネルギー)の覆い被せる過程が一時的な忘却を助長したために忘却に同化してしまったこの関係を復活させることです。(訳注:「真理を覆い隠す力を持ったマーヤーが一時的な忘却を促すため、私たちはクリシュナとの永遠の関係を忘れてしまいました。私たちがしなければならないのは、この関係を復活させることです。」)したがって、私たちのクリシュナとの永遠の関係の回復を始めるために、私たちはそのような超越的な認識への最初の段階であるカルマ・ヨガを取り入れるべきです。 第44段落 カルマ・ヨガは、すべての人が主の永遠の従者としての自分のクリシュナとの超越的な関係を復活するのを、助けることができます。そしてカルマ・ヨギーは、俗的な活動に完全に染まっている普通の生命体に、彼らの普通の仕事に混乱を生じさせることなく、この大変な利益を与えます。 事実、既に述べたように、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、「俗的な労働者の利益のためには、彼らは自分たちの普通の仕事から離されるべきではない」と助言なさいます。その反対に、彼らはカルマ・ヨガの過程の中でそのように働き続けることを勧められます(they may be encouraged)。 第45段落 一般に、これらの俗人たちは自分たちのクリシュナとの永遠の関係を簡単に理解することができません。その代わり、彼らは幻想エネルギーの誘導の下で、自分がクリシュナであるかのように振舞います(to pose oneself as)。 この偽りの「至高の享楽者」の立場は、彼らが自然の力を司る力を探し求めるときに、彼らに多くの難題を与えます。しかし、それでもこれらの俗人たちはそれを支配する精神を放棄することができません。そして、彼らが落胆と失望の圧力の下で、楽しむ精神を放棄する振りをするとき、彼らは普通、もっと大きな享楽の精神をもって偽りの放棄に逃げ込みます。 (訳注:自然な日本語の一例:「俗人たちは自分が至高の享楽者であると思い込んで自然を司ろうとしますが、様々な困難に直面します。しかし、それでも彼らは自然を支配する精神を放棄することができません。そして、支配できずに落胆し、不満が募ると、「自然を支配して楽しむのはやめた」という振りをします。そして俗世を放棄した振りをすることに一層の楽しみを見出すのです。」) いつも自分の俗的な活動の果実を楽しみたいと望む俗的な労働者は、ちょうど製粉機にきつく繋がれた雄牛のように、そのような活動の執拗な不利益の下で大いに苦しみます(訳注:「そのような不利益な活動にずっと苦しみ続けます」)。しかし、マーヤーによって支配された幻想の下で、彼らは自分が本当に楽しんでいると考えます。 したがって、彼らの一般的な活動を行う上でそのような愚かな俗人たちを妨害することなく(訳注:「そのような愚かな俗人たちが自分たちの通常の活動を行うのを妨げることなく」)、学識のあるカルマ・ヨギーたちは、クリシュナとの関係において特別の執着を持っているそれぞれの仕事に如才なくいそしみます。クリシュナの永遠の従者である、学識があって解放された魂たちは、この目的のためだけに、時として普通の活動の最中に留まります。愚かな俗人たちをカルマ・ヨガの過程に惹き付けるためだけにです。 第46段落 愚かな俗人たちは、もしも至高の人格神シュリー・クリシュナ、あるいはアルジュナなどの主の永遠の仲間が親切にも、個人的な例という直接的な方法によってカルマ・ヨガの過程を伝授するということをわざわざ行うことをしなかったなら、愚かな活動の闇の中に永遠に取り残されるでしょう。 愚かな俗人たちは、自分たちが俗的な活動を追及する上で直面する計り知れない困難を理解することができません。彼らの様々な活動の上で、支配という概念によっていかに彼らが自分自身を惑わそうとしても(訳注:「自分が何かを支配することができるのだと思い込んでも」)、彼らはいつも自然の相によって突き動かされます―――それがバガヴァッド・ギーターにおける至高の人格神シュリー・クリシュナの、熟考の上での結論です。 主は、「偽りの自己を本当の自己であると思うこと(false egoism、直訳すれば「偽りの利己主義」ですが、それだと意味が通じなくなるので、 'false ego'-ism、すなわち「偽りの自己」主義として訳しています)が原因で、自分のすべての働きにおいて、それをするように自分を導くのは自然の相であることを知らずして、愚かな俗人は’自分が自分のすべての活動の著者である’と考える」とおっしゃいます。 (訳注:「愚かな俗人は、自分の行動はすべて自然の相の導かれているのだということを知らない。そして、偽りの自己を本当の自己だと思っているため、自分で自分の行動を決めているのだと考える」と、主はおっしゃいます。」) 愚か者は、自分が主クリシュナの幻想エネルギーであるマーヤー・デヴィーの支配の下にあることを―――彼女が望むように自分に強制して行動させるということを―――理解することができません。結果として彼は、自然の相によって支配された隷属というひどい罰を受けながら、自分の活動の一時的な結果―――たちまち消え去る俗的な幸せ、あるいは苦しみ―――だけを経験します。 第47段落 バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、すべての生命体の一つ一つは、主の欠かすべからざる一部であり、そのためすべての生命体の一つ一つは主の永遠の超越的な従者である、と断言なさいます。欠かすべからざる部分である者の自然な立場は、完全全体に奉仕をすることです。 古代の寓話のヴェーダの本であるヒトパデシャの中に、体の部分の全体への関係を説明する、ウッデシャ・インドリヤーナームという題の明快な類推があります。手、脚、目、鼻などは、すべて体という完全な全体の部分です。さて、もしも手や脚や目や鼻などが胃に食物を与えるために努力せず、その代わり自分で集めた食物を自分で楽しもうとしたら、そうすれば体全体の調整不良が生じるでしょう。 身体的な部分は全体としての体の利益に反して働くことになります。そのような愚かな活動によっては、手、脚などは自分のそれぞれの立場を決して改善することはできません。その反対に、胃という媒体を通して体全体に栄養が行き渡っていないので、身体的な構造と機能の体系全体が弱り、病みます。同様に、もしも欠かすべからざる部分である生命体が完全な全体であるシュリー・クリシュナの喜びのためにすべてを捧げることを拒否するなら、そうすれば生命体自身が苦しむでしょう。 第48段落 バガヴァッド・ギーターは、至高の人格神シュリー・クリシュナはすべての原因のもともとの原因、想像全体の木の根である、と述べています。バガヴァッド・ギーターには、シュリー・クリシュナご自身よりも優れた(superior、優位、上位の)人はいない、とも述べられています。 主はすべての犠牲と活動の至高の享楽者です。しかしそれでも、本当に罪深い者は主に服従しません。彼らは、主が至高の人格神であって他のすべての生命体は主の超越的な永遠の従者である、ということを受け入れるのを拒むからです。 第49段落 生命体と至高の人格神との間のこの超越的な関係を忘れてしまったことは、すべての人が矮小なクリシュナである、という偽りの感覚を作り出しました。すべての人が自分の能力の限界まで世界を世界を楽しもうとしており、その一方で、完全な全体であって全ての源である完全真理、至高の人格神への超越的な奉仕を見落としています。 このような種類の、結果を求める仕事は、マーヤー、すなわち幻想エネルギーとしても知られる、物質自然の相の魔力の下でなされます。実際は、生命体は自然の力を支配する能力を全く持ちません。生命体が自分をシュリー・クリシュナ、至高の享楽者の立場に置こうと試みれば、彼は直ちに自然の相によって征服されます。 偽りの自我という感覚(訳注:a false egotistic sense、上記と同様に、直訳すれば「偽りの利己的な感覚」となるため、a sense of false egoとして訳しました。)の下で働きながら、生命体は至高の享楽者のように振舞おうと大変な努力をしますが、彼は本来的にそうすることができません。 手、脚、目などが体全体として機能することができないようなものです。そのため、生命体は享楽者の振りをしているときに、多くの困難を経験します。ですから、幻想の下で働くことが原因で経験するこれらすべての困難を捨てるためには、私たちはカルマ・ヨガの過程を取り入れなければなりません。 第50段落 普通の生命体とは対照的に、超越主義者、すなわちカルマ・ヨギーは本当に学識があり、そしてそのため彼らは普通の俗人のようには働きません。彼らは、自然の相の下でなされる俗的な活動は主クリシュナへの超越的な献身奉仕の活動とは完全に異なる、と知っています。 自分は物質的な体と心とは異なると知っているので、超越主義者たちはいつも自分のクリシュナとの本来的な関係において活動しようとします。彼は、俗的な存在の中に一時的にあるにも関わらず、自分は永遠の霊、至高の霊の欠かすべからざる部分であることを知っています。 そのため、彼の物質的な感覚―――彼の手、脚、目など―――は非常に多くの活動に携わっているにも関わらず、彼はいつも俗人から離れてあり続けます。これらのシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕の活動は彼を仕事の呪縛から自由にします。 至高の人格神シュリー・クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。「おお、アルジュナよ!あなたのすべての俗世的な仕事を楽しむ精神を放棄し、この意識を通して超越主義者になりなさい。あなたは、自分にとって義務である、戦闘というあなたの境遇上の職業に就くかもしれません(訳注:「あなたの立場では戦うことは義務なので、あなたはそれを仕事として行うでしょう」)。 しかし、それを私への奉仕の精神において行いなさい。このようにすれば、あなたは仕事の呪縛から自由であり続けます。そして自分のすべての活動を―――私への何らの恨みもなく、私の指示に従って―――この超越的な意識をもって行う者もまた誰でも、仕事の呪縛から自由になります。」 第51段落 身体的な自意識の過程―――「私はこの物質的な体と心である」、そしてさらに言えば、「私はこの物質世界の欠かすべからざる部分であり、したがってこの物質世界の中のすべてのものは私の楽しみの対象である」という誤解―――は、私たちを本物の超越的な知識から遠ざけます。 この超越的な知識に基づいて、至高の人格神シュリー・クリシュナは私たちに、霊的な傾向を持つこと(to become spiritually inclined)、超越主義者になること、を助言なさいます。そうして初めて私たちは、自分は決して全くこの物質世界のものではなく、永遠の霊的な存在であることを理解することができます。 そのような自己認識によって、私たちの物質的な(ものへの)親和力の崩壊は自然に始まります。そして、私たちがもっと霊的に発達すれば、物質的な関わりとの接触によって(訳注:物質的な物事と関わることによって)感覚知覚から生じる幸せと苦しみによって影響されることも少なくなります。 物質的な(ものとの)接触によって作られた偽りの自我は、そうすれば徐々に消え、そしてこの、偽りの自我を自分であると考えること(訳注:false egoism、上記と同様の理由により 'false ego'-ismとして訳しています)の分解は、すべての物質的な区分からの解放と、私たちの完全真理との関係の刷新された認識の原因となります。(訳注:「偽りの自我を自分であると考えることがなくなると、私たちはすべての物質的な区分から解放され、完全真理との関係を全く新しく認識することができるようになります。」)これが「人生における解放」と呼ばれます。
新聞を見ていたら、震災後に供養をして回ったお坊さんの言葉が出ていました。短く一言書いてあっただけなので、それから判断するのは性急かもしれませんが、その言葉は「宗教がいかに無力か思い知った」というものでした。これはどういう意味なのでしょうか。この方は宗教とはもともと何だと思っていらっしゃるのでしょう。さすがに、この言葉の真意は「神様や仏様を信じていればこんな苦しみには遭わないはずだ」というわけではないのだと思います。「実際に苦しんで悲しんでいる人を宗教は慰めることができない」という意味でしょうか。人は宗教に何を期待するのでしょう。現世利益やより良い来世など、人によって違うのかもしれませんが、宗教の働きそのものは私たちの思惑に関係なく同じであり続けます。お坊さんから「宗教が無力だと思い知った」という言葉が出る現実は、バンクーバーの夏祭りで仏教会がビーフカレーを出してた現実と関係あるのかもしれない、と思ったことでした。少なくとも、そのうち私の体が死んだときには、こういうお坊さんの指図に従って出掛けたら必ずや俗世のどこかで道に迷うことでしょう。
ほんの少しですが、できたぶんだけ載せます。続きは年が明けてからになります。一年間のお付き合いありがとうございました。来年もまたときどきお越しください。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 第2章第31段落より 第31段落 哲学的な研究の経験的な方法によっては、人はおそらく哲学的な(empiric、形而上学的、抽象的で難解な)主題を物理的な物体から区別することができます。しかし、真理を探究する者が至高真理の人格的な特徴に至ることができない限り、実際の超越的な利益は何もなく、彼は主の無味乾燥で非人格的な知識だけを得ます。 したがって、ガンディーのような指導者たちがヴィシュヌ、あまねく存在する至高神として知られる完全真理の人格的な特徴の超越的な足場に自らを確立して、カルマ・ヨガを通じて主への超越的な奉仕のための手配をすることが必要です。このようにして彼らは一般の人々のために善を為すことができます。 第32段落 ほとんどの人々は物質的な体と心の事柄において非常に多忙です。そのような俗的な活動の最低の段階にある者たちが霊的な水準の活動を理解できるのは非常に稀です。これらの人々は一般に、惑わされています。 なぜなら、彼らの様々な罪と徳の活動は、単に食べること、眠ること、身を守ること、そして感覚を満足させることなどの振る舞いを通して、一時的な体と心の苦しみを和らげて幸せを増すことだけに向けられているからです。 物質主義的な科学者たち―――そのような物質的な行いを呼び起こす擬似伝道者たちは―――目、耳、鼻、肌、舌、そして究極的には心を含む物質的な感覚を満足させるための多くのものを発明します。そしてこのようにして科学者たちは、世界全体を不必要な衝突に導く物質的な幸せを増幅させるための、不必要な競争の場を作ります。 最終結果は、世界中での不足です。それはあまりにもひどいので、食物、住居、そして衣類という生活に必要な最低限のものでさえ争いと統制の対象になります。そしてそのため、簡素な暮らしと高い思考という、伝統的な神に与えられた暮らしへの様々な障害物が生じます。 第33段落 そのような全くの物質主義者よりも多少上に位置する者は、死後の人生をかたく信じ、そしてそのため、彼らはこの一つの人生の全く感覚的な楽しみの水準よりも多少上に上がろうとします。彼らは、徳のある行いによって次の世への何かを蓄積しようとします。 ちょうど人が将来の幸せのために幾らかのお金を貯めるようなものです。しかしこれらの人々は、上で説明したように、徳のある行いでさえ人を仕事の呪縛から自由にすることはできない、ということを理解していません。その反対に、徳のある行いも罪深い行いも、行為と反応の車輪に人を縛り付けます。 第34段落 罪深い物質主義者も徳の高い物質主義者も、どんなときでも(always)カルマ・ヨガが、成長にとって非常に好ましくない仕事の呪縛からの解放を得るための唯一の方法である、ということを理解していません。したがって卓越したカルマ・ヨギーは、一般の人々にどうやって普通の仕事における行為と反応の絡まりから抜け出すかを教えるために―――同時に自分の仕事の結果をヴィシュヌに捧げながら―――ちょうど執着した物質主義者のように振舞います。 このようにしてカルマ・ヨギー自身と世界全体が同時に利益を受けます。至高の人格神はバガヴァッド・ギーター(3.26)において、次のようにおっしゃいます。「おお、バーラタの子孫よ。超越的な知識に精通していない執着した物質主義者のように仕事をし続ける方が良いのです。このようにしてあなたは人々をカルマ・ヨガの道へ導く(to recruit、募る)ことができます。」 第35段落 ですから、超越的な知識に気づいている者と、このように実際に学識のある者は、体と心を維持するために必要なすべての活動を行いますが、彼らは至高神ヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることを念頭においてそうします。 普通の人々はこれらの学識ある超越主義者たちを普通の労働者と見なしますが、事実は、超越主義者たちは俗的な利益のために働く人々ではありません。彼らはカルマ・ヨギー、すなわち超越的な利益を求めて働く人々です。そしてそのような超越的な仕事において、物質的な結果は他に別の努力をすることなく自動的に得られます。 第36段落 現代では、私たちは物質的な活動の非常な拡大を目撃しています。工場(mill、製造工場。紡績、製粉、製材、製紙などを指す場合が多い)、工場(factory、機械で大量生産する製造所)、病院その他の施設(institution、公共施設)が今ではあちこちにあります(on vogue、流行している)。 古代には、物質的な活動のそれほど大きな拡大はありませんでした。そのころは、生活の様式は簡素であり、しかし思考は高尚でした。ですから今では、主の超越的な感覚の満足のためにヴィシュヌへの超越的な奉仕にすべての様々な現代の施設を使うことのできるカルマ・ヨギーにとって、活動の(ための)大変良い場があります。 第37段落 したがって、「古代の賢人たちによって主張された(to maintain、維持する、という意味もある)カルマ・ヨガという同じ精神で完全至高神を崇拝する」という同じ目的のために、ヴィシュヌの寺院(訳注:祭壇や神棚など小さなものを指すのだと思いますが、適切な言葉が分かりません)をすべての前述の施設と個人の家に据えることが肝要です。 あまねく存在する至高の人格神は、ご自分を化身、完全部分、あるいは様々な部分的な部分として、ご自分の様々な超越的で永遠な形に顕現なさいますが、賢人たちはシュリー・シュリー・ラクシュミー・ナーラーヤナ、シュリー・シュリー・スィーター・ラーマ、そしてシュリー・シュリー・ラーダー・クリシュナという永遠の二人の形を崇拝することを勧めます。 したがって、大きな工場(mill, factory)、病院、大学、ホテル、そして様々なほかの施設の所有者と管理者がヴィシュヌのこれらの超越的な形のいずれかを崇拝するために寺院(訳注:上の訳注に同じ)を据えることが非常に真剣に望まれます。これはこれらの施設の中のすべての労働者たちをカルマ・ヨギーに変えます。 第38段落 大きな工場(mill, factory)の労働者たちは、多くの忌まわしい習慣に染まっているということが一般に経験されており、そしてそのため、彼らは徐々に人間が下り得る最低の水準に滑り落ちます。しかし、もしも彼らが「ヴィシュヌに捧げられた食物の残り物を食べる」という利益を慈悲深くも(graciously)与えられたなら、徐々に彼らは霊性の超越的な感覚を育み、霊的に発達した名士(personality)のそれと同じ水準に上がります。しかし、これらの人々は単にそのように自動的に認められることによって(to rubber-stamp、めくら印を押す)ハリジャン(Harijan)―――’神の人’―――の卓越した立場に上がることはできません。 (訳注:「ハリジャン」とは、インドのカースト制度で最下層に位置する不可触賎民(untouchable)を指します。ガンディーは元来の名称を嫌い、「神の人」を意味する「ハリジャン」と呼びました。ここでは、プラブパーダは「単にこれらの人々を綺麗な名前で呼ぶだけでは現実は変えられない」とおっしゃっています。) もしも彼らがヴィシュヌへの超越的な奉仕以外の欲望によって影響されるなら、彼らの堕落した立場から彼らを引き上げるすべての努力(訳注:ここでは物質的な努力を指す)は、大きな災いと、社会的な秩序の安定と静穏(the peace and the tranquillity)の混乱(disturbance)をもたらすでしょう。 単に一時的な利益のためにそのような虐げられた労働者を無用にそそのかす指導者たちは、決して労働者たちに何らの善も為すことはできません。指導者たち自身がそのような構想の悪い活動によって利益を得ることもできません。反対に、そのような物質的な活動によって労働者と資本家の両方が避けようもなく不健全ないさかいに陥り、そして社会的な秩序の大いなる混乱をもたらします。 問題は、カルマ・ヨガの決然とした計画によってのみ解決され得ます。もしもカルマ・ヨガが計画的に行われるなら、平等を目指す社会主義者によって、同胞愛の大いなる社会的な秩序を目指すボルシェヴィキ(訳注:共産主義者、ロシア共産党の前身)、あるいは労働者が富の蓄積において資本家をしのぐ俗世の天国を目指す(英国)労働党員によってであっても、私たちはすべての断片的な努力を超越し、満たして余りあるでしょう。
第2章第16段落より
(訳注:小冊子中の挿絵4枚目、「p.37」 とあるのはp.27の間違い) 第16段落 学識のある賢人たちは、ヴィシュヌの蓮の御足に近付くことは解放を得ることである、と言います。私たちは、カルマ・ヨガの究極の目的であるヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることによって、自分の普通の欲求を満足させることができます。 もしも私たちがこのようにして自分の義務を果たさないなら、それなら必ず私たちが為すあらゆる、すべての仕事は、有害な物質的な結果だけをもたらし、そして究極的に世界には大きな災いが訪れるでしょう。 すべてのことをヴィシュヌの満足のために為し、ヴィシュヌに捧げられたものの残り物を食べる(to take)ことによって、私たちは自分に定められた義務を行う過程で蓄積する悪と罪深い(行いの)反応を捨てることができます。 第17段落 私たちはこれらの悪と罪深い(行いの)反応を避けるために非常に多くの注意をするかもしれませんが、普通の仕事(business)のやりとりや投機(venture)を通してでも、私たちは非常に多くの罪を犯さねばなりません。例えば、仕事の交渉では嘘を言うのは必要であり避けられない、ということが分かります。法律に関わる職業をもった人々によって話される嘘の量は言うまでもありません。 弁護士たちは、自分の客が絡まってしまった法律をうまく逃れるために、ありとあらゆるインチキに頼らねばなりません。そしてもちろん、他の職業を持つ人々も、他者への奉仕をする人々も、同じようなことをしなければなりません。意図的であれ意図的でないのであれ、全く疑いもなく、人は罪を犯し―――そして罪深い(行いの)反応を負わねばなりません。 第18段落 たとえ私たちがあらゆる罪を犯すことに対して自らを守ろうと(訳注:「何の罪も犯すまいと」)万全の注意を払っていても―――そしてヴァイシュナヴァ、すなわちヴィシュヌの献身者はもともとすべてのそのような注意を払いますが―――それでも無意識に私たちは、ある場所から別の場所へ歩くなどという全く普通の義務を果たしている間にさえも、多くのアリや他の虫を殺します。 単に水を飲んでいる間にも、私たちは多くの微細な水中の生物を殺し、そして私たちは単に家の掃除をしたり食べたり眠ったりすることによっても多くの生命体を殺します。つまり、普通の暮らしを通して、無意識にでさえも、私たちは自分が負うすべての罪を避けることはできません(we cannot avoid all the sins we incur)。 第19段落 人間の法律によれば、人は殺人を冒せば絞首刑になるかもしれませんが、低位の動物を殺すときは絞首刑になりません。しかし神の法律によれば、人は低位の動物を殺すことによっても罪を犯します。私たちは、どちらの行いに対しても神の法律によって罰せられます。 神の法律、あるいは主の存在でさえ信じない者は、そのような罪を犯し続けるかもしれません。そして彼らはそのような罪を犯すことによって自分が遭わされる無数の苦しみにも関わらず、正気に戻らないかもしれません。しかし、それは神あるいは主の永遠の法律の存在に影響しません。 第20段落 スムリティスとして知られる法律書は、誰もが避けがたく犯す、そう望まなくてさえ犯す5つの種類の罪を挙げます。以下のようなものです。 1、引っかくことによって犯す罪 2、こすることによって犯す罪 3、火を起こすことによって犯す罪 4、水差し(pot)から水を注ぐことによって犯す罪 5、自分の家を掃除することによって犯す罪 たとえ意図しては何の罪も犯さなくても、私たちは疑いの余地もなく、上記の5つの種類の罪を犯します。そのため、ヴィシュヌに捧げられた食物の残り物を食べることが絶対に必要です。なぜなら、これが私たちが避けようもなく犯したすべての罪に対する反応から私たちを逃れさせてくれるからです。 この理由により、ヴィシュヌの崇拝は今もサナータナ・ダールマの信奉者(follower)の家で、特にブラーマナの家で続いています。不幸にして、ヴィシュヌに捧げるためではなく自分の感覚を満たすためだけに食物を調理する者は、自分の定められた義務を遂行する間に意識的あるいは無意識的に犯したすべての罪に対する罰を受けねばなりません。 第21段落 したがって、すべての国々と共同体の指導者たちは、自分自身の利益と、自分が導くのだと公言する人々の利益のために、率先して必ずヴィシュヌを満足させるようにするべきです。至高の人格神シュリー・クリシュナは、次のようにアルジュナに助言なさいます。 「指導者によってなされることは、普通の人々によって従われます(訳注:「普通の人々は指導者がすることに倣います」)。指導者が真実であるとして確立することは何であれ、追随者たちは躊躇せず受け入れます。」 したがって、すべての指導者たちは、ヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることができるようにして自分の義務を遂行することによって、自分がいかにして追随者たちのために良い手本を示すことができるかと熟考すべきです。 第22段落 しかし、嘆かわしいことに、普通の人々が指針(beacon、光明、かがり火)と見なす指導者たち自身が心の底では無神論者で、神によって定められた原則に反対している時代が既に来てしまいました。そんな状態ですから、彼らはヴィシュヌの超越的な感覚の満足のために何ができるでしょうか? そしてもしも彼らがすべてのことを至高神の超越的な満足のためにしないなら、どうして彼らは定められた義務を遂行する過程において犯された罪の泥沼から自分自身と自分に従う者たちを引き出すことを期待できるでしょうか? もしも指導者たちが、同時に至高の超越的な人格であって、どこにでも存在している非人格の霊である、万能のヴィシュヌの存在を認識しないなら、それなら普通の人々は主について何を理解するでしょうか? 主はありとあらゆるものの至高の享楽者であり、したがって私たちの誰も、どんなに偉大な人であっても、宇宙とその付属物の享楽者ではありません。私たちの立場は万能のヴィシュヌのそれに従属するものであるため、私たちは主から主の慈悲のしるしとして与えられるものだけを楽しむことができます。私たちは、主あるいは他者に属する何ものをも得ようとして余分な努力をすべきではありません。それがヴァイシュナヴァ主義の精神です。 第23段落 イショパニシャッドにおいて、この同じ精神が次のように描写されています。「(私たちが見るように)宇宙の中全体に存在しているものは、本質的に至高の享楽者の所有物であり、そして人は主によって慈悲深くも与えられたものを楽しむことができます(may、~をしてよろしい)。しかし、人は決して他者の所有物に手を出してはなりません。」 第24段落 したがって、市民の(civic)、および他の人民の(popular)指導者たちは、自分の活動の中心にヴィシュヌを置くべきです。そして、この超越的な仕事という行いによって、彼ら自身が利益を受け、そしてそれぞれ自分の従う者たちのために善を為すことができます。 もしも、伝道者や国家元首を含むこれらの指導者たちがこのヴァイシュナヴァ主義の活動を行わないなら―――そしてその代わりに人工的に自分をヴィシュヌ、至高の享楽者の卓越した立場に置くなら―――そうすれば彼らは実際に一時的な得や崇拝や俗的な名声を楽しむかもしれず、そして偽りの放棄の誇示によって彼らは自分の不運な追従者たちを迷わせ、正しい道を退けることに導くかもしれませんが、そのような物質主義的で神を知らない指導者たちは、決して一群の羊のように屠殺場まで彼らについて行く無知なる魂のために善を成すことはできません。 そのような指導によって、指導者自身は一時的に利益を受けますが、追従者たちは最悪の立場に置かれます。指導者たちは彼らを幻想の利得へとそそのかし、そうして彼らを様々な罪深い行いに携わらせます。自らに一時的な利益を与えることによって、そのような指導者たちは追従者たちの本当の利益を犠牲にし、彼らを滅ぼします。 第25段落 そのような指導者たちは、自分の一時的な利得は自分の一時的な体の破滅と共に消滅する、ということを知りません。しかし、彼らが生涯の指導の間に行った命令と怠慢(commission and omission)の行いは、非常にかすかな形で心と知性と偽りのエゴの心的な(psychic)檻の中に留まり、そしてかすかな心的な生命は再び、霊魂の転生の過程によって別の適切な形の中で育まれます。 そしてこのようにして彼らのかつての行いは彼らに行為と反応の様々な車輪の試練を課し、何年も何年もの間、一つの体から別の体へと転生することを余儀なくさせます。そして一般の人々は無知なる指導者が自分たちに「しろ」と言うことに従います。 第26段落 したがって指導者たちは、関係するすべての人々の利益のためにいかに行動すべきかということに気づいていなければなりません。まず、彼らはカルマ・ヨガの本当の方法―――(人の)仕事の結果を主ヴィシュヌに捧げること―――を理解して実行せねばなりません。そうすれば彼らは実際に自分の追従者のために善を為すことができます。 もしも医者自身が病んでいるなら、彼はどうして他者を癒すことができるでしょうか?医者は一般市民の病を治療する前に、自分自身を癒さねばなりません。患者の感覚を満足させることは、本当の医者の仕事ではありません。良い、資格のある医者は、単に患者の気まぐれを満足させることによって彼を甘やかすことはできません。医者は、それが患者の感覚を満足させるか否かに関わらず、本当の薬を処方しなければなりません。 第27段落 したがって指導者たちは、一般の人々の本当の病は万能の至高神ヴィシュヌに奉仕をすることに対する彼らの嫌悪である、ということを知らねばなりません。しかし、もしも人々の根源的な病―――無神論―――を治療する代わりに指導者たちが単に病の症状への表面的な同情を見せるだけなら、確かに、苦しむ人類への益は全くないでしょう。 この病への本当の治療法は、至高神に捧げられたものの残り物を食べることにあります。これが患者のための理想的な食事療法です。そして、薬には以下のものが含まれます。(訳注:原文は箇条書きではありません。) 1、至高神の栄光を聞き、唱え、覚えていること。 2、至高神の超越的な形を崇拝すること。 3、主に超越的な奉仕を捧げること。 4、主を自分の至高の友人として受け入れること。 5、いかなる状況においても主に服従すること。 指導者たちは、もしも本当に人類の苦しみを消し去りたいのなら、この食事療法とこれらの薬のための手配をすべきです。 第28段落 老練な指導者マハトマ・ガンディーが世界中に神々しい雰囲気をもたらすための方法を発明しようとして最善を尽くしているのを見るのは喜ばしいことです。彼は、自制、忍耐、道徳の原則などを教えています。しかし、いつも必ず限度のあるものである、いかなる発明された方法を使っても、無限であるものに到達することは可能ではありません。(訳注:「人が発明する方法は、いつでも必ず限度があるものです。それを使って~」) したがって至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて「何度も生まれ変わった後で、学識のある賢人たちは主に服従する。そしてすべてのものをヴァースデヴ(ヴィシュヌの完全な顕現)に結び付けることのできるそのようなマハートマーを見るのは非常に稀である」とおっしゃいました。その意味は、いわゆるマハートマーはどこにでもいるが、本当のマハートマーは至高神と顕現された世界との関係を知っている者である、ということです。 第29段落 そのようなマハートマーは、決して何らの発明された方法を使っても―――帰納的で上方向の知識の過程を通じて作りだされたもの―――至高神に近付こうとすることはありません(訳注:「そのようなマハートマーは、どのようなものであっても、人が発明した方法を使って至高神に近付こうとすることは決してありません」)。 そうではなく、彼は演繹的で下方向の考えを受け入れます。それは至高主から直接、あるいは主の真正なる代理人を通して下りてくる方法です。誰も、何年も何年もの間努力した後でさえ、上方向的な方法によって主に至ることはできません。この上方向的な方法によって得られるもののすべては、人を完全真理から逸脱させる、不完全で部分的で非人格的な知識です。 第30段落 私たちは、ガンディーによって支持された(訳注:「~が採用した」)布教の方法の中にそのような不完全さのしるしを見ることができます。ラーマの名を唱えてはいますが、彼はその名の超越的な科学に気づいていません。彼は非人格的な至高神の崇拝者です。 それはつまり、彼の至高神には超越的な活動がない、ということです。言い換えると、彼の至高神は食べることができず、見ることができず、聞くことができません。経験主義的な哲学者が完全真理に近付こうとするとき、主の超越的な娯楽について何も知らないので、彼は至高神の非人格的な特徴までしか至ることができません。 完全真理に何らの超越的な感覚や感覚的な活動が認められないとき(not credited with)、確かに主は無力と考えられます。そしてもちろん無力な至高神は主の献身者の祈りを聞くこともできず、宇宙の苦しみを和らげることもできません。
第2章 カルマ・ヨガ―――超越的な結果を伴う仕事
第1段落 学識ある賢人たちは私たちに、「人はインド、すなわちバーラタヴァルシャという聖なる地に、90万の水中の種、200万の野菜などの動かない種、110万の爬虫類と虫の種、100万の鳥の種、300万の獣の種、そして40万の人間の種を含む840万の生命の種を通った、段階的な進化の過程の後に生を受ける」と教えます。 生きた霊は一つの生命の種から別のそれへと転生し、そして彼(霊)は巨大な宇宙の中空の中を、何百万年も何百万年も、そのようにして動いています。この理由により、霊魂は「あまねく存在する」と描写されます。 第2段落 既に述べたように、「シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ」は、「長い時間の後でようやくバーラタヴァルシャという聖地に生を受けた者は、自分自身が自己認識によって啓蒙された後で、他の人たちに至高の恩恵を授けるべきである」と述べています。 偉大な賢人たちが霊なる自己(spirit self)の認識のためにそれほどの努力をしたことは、他のどの国ででもありませんでした。西洋の国々では、人々は物質的な体と心を中心とした物質的な科学の文化を発達させるために最善の努力をしたのは事実です。 しかし、西洋におけるすべてのそのような物質的な知識の発達にも関わらず、一般の人々は霊的な科学の文化(culture、培うこと)についてほとんど気にかけなかったので、彼らは物質主義の有害な影響に苦しんでいます。西洋の国々の偉大な思索家たちは、したがって、至高神の教えが彼らの耳に届くようにするためには、インドに目を向けねばなりません。 第3段落 物質主義の火を消して人類の未来を明るくするために、至高の人格神シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事を詳しく議論なさいました。カルマ、すなわち物質的な利益を求める仕事と、カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事の間には、大きな違いがあります。 バガヴァッド・ギーター全体を通して、数箇所で、至高の人格神は「超越的な結果を伴う知性的な仕事」を意味するブッディ・ヨガという言葉を使われます。そして私たちはまた、ブッディ・ヨガが「超越的な献身の活動」を意味すると理解することができます。 なぜでしょうか?なぜなら、至高の人格神クリシュナは、自分はいつも自分の献身者を特に好み(to favor)、彼らに献身活動を行う知性を授け、最後には彼らが自分のところに至ることができるようにする、とおっしゃるからです。 他の箇所でも、神へは献身活動を通してのみ到達し得る、と述べられています。結論は、私たちは(訳注:原文は誤字で大文字になっている)ブッディ・ヨガあるいはカルマ・ヨガにいそしむことによってのみ自分の仕事(カルマ)の結果を捨てることができる、ということです。 第4段落 バガヴァッド・ギーターの2章において、至高の人格神シュリー・クリシュナは次のように助言なさいます。「これまでのところ、私はあなたに超越的な知識を説明しました。これから私は、超越的な結果を伴う仕事を説明します。このようにして働くことによって、あなたは普通の仕事によって生じる呪縛を捨てることができます。この過程には損失や減少はありません。たとえこの仕事をほんの少し行っても、それは人を最も深刻な問題(trouble)から救うことができます。」 第5段落 超越的な結果を伴って働くことは、主クリシュナへの献身奉仕の活動にいそしむことを意味します。そして、これらの献身の活動がいかにして私たちの日々の活動的な人生に組み込まれ得るかが、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。 この組み込みは、厳密にはカルマ・ヨガとして知られています。知識を培うことと組み合わせられるとき、同じ献身の活動は厳密にはジニャーナ・ヨガと呼ばれます。しかし、そのような献身の活動がそのような仕事と知識のすべての限界を超越するとき、この物事の状態は、純粋で超越的な献身、すなわちバークティ・ヨガと呼ばれます。 第6段落 私たちがこの世界で行う様々な行為は、様々な特定の結果を生じさせます。私たちがこれらの結果―――私たちの働きの結果―――を楽しみ始めるとき、これらの楽しみという行為もまた、順次(in their turn)、当然更なる結果を作り出します。 こうして私たちは、行為と反応、そしてそれぞれの結果、という大きな木を育みます。そしてこれらの実を楽しむ者として、私たちは働きの木とその実の網の目にぐるぐる巻きになります。何度も生まれ変わって、霊魂はそのような実を作り出して、それらを楽しむ過程にぐるぐる巻きであり続けます。 第7段落 私たちには、この行為と反応―――働きとその結果(fruitive results)の呪縛から逃れる機会はほとんどありません。すべての仕事を捨ててサンニャースィー、すなわち出家者の人生を受け入れた後でさえも、人はまだ、自分の空腹を満たすためだけにであっても、働かねばなりません。ですから、たとえ腹のためだけであっても、逃れる術はありません―――仕事をすることを避けることはあり得ません。 第8段落 結果的に、至高の人格神シュリー・クリシュナは、アルジュナに助言なさいます。「おお、アルジュナよ。あなたはいつも自分の義務を果たさねばなりません。何かをすることは、何もしないより、はるかに優れています。あなたは、何らかの仕事をすること無くしては、日々の糧を得ることさえできません。」 第9段落 「義務」とは、聖典と聖なる法典に定められている仕事を意味します。そのような仕事は、出家者や神秘的なヨギーであるという気取りの下での怠惰よりも(訳注:~を気取って怠惰であるよりも)、はるかに優れています。 生計を立てるために、人は名誉をもって道路の清掃をする職業につくことができますが、人は単に自分の空腹を満たすために出家者のサフラン色(訳注:黄色がかったオレンジ色)の衣に衣装を着替えてはいけません。これが、偉大なる一元論者の哲学者であって宗教改革者である、シャンカラーチャーリャの教えです。 現在の争いと偽り(pretension、見せかけ、うぬぼれ、など)の時代にあっては、人は出家者の人生を送るよりも普通の定められた義務を果たすことを好むべきです。本当に俗世を捨てた者は、社会的な秩序の中の自分の定められた日々の義務を行うことを放棄してはならない、ということを理解しています。 そうすることは破滅をもたらします。単純明快なことです。私たちが何らの仕事をすることもなく自分の日々の糧を得ることができないとき、どうして自分の定められた義務を放棄することが可能でしょうか?そしてそれでも人は、自分が霊魂を物質的な存在に縛り付けている行為と反応の網の目の中にいる、という難しい立場を忘れてはなりません。 第10段落 そのため、この葛藤を解決するため、至高の人格神シュリー・クリシュナは、私たちに次のように助言なさいます。「仕事をするための最善の方針は、すべての定められた義務をヤジニャ、すなわち至高存在であって完全真理であるヴィシュヌの満足のために為すことです。そうでなければ、すべての行為は呪縛を生じさせる反応を生みます。もしも仕事がヤジニャのためになされるなら、人はすべての呪縛から自由になります。」 第11段落 いかなる呪縛をも生じさせないこの働き方は、超越的な結果を伴う仕事、すなわちカルマ・ヨガと呼ばれます。このようにして働くことによって、人は仕事の呪縛をまぬがれることになるだけでなく、至高の人格神への超越的な献身の念も育みます。 自分の働きの結果を自分で楽しむのではなく、人はそれを至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕のために捧げるべきです。これが献身奉仕のハシゴの最初の段です。主チャイタンニャは、この献身奉仕の方法をプラヤーガのダシャーシュヴァメダー・ガータにおいて、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに教えられました。 そこで主は、至高の人格神シュリー・クリシュナの慈悲と霊的指導者の慈悲によってのみ、幸運な魂は超越的な愛情ある献身奉仕の種を得ることができる、とおっしゃいました。カルマ・ヨガは、この純粋な献身奉仕の最初の段階です。 この科学は、シュリー・クリシュナご自身、あるいは主の真正なる内密な従者たちによってのみ教えられます。そのような源から教えを受けるのでない限り、しばしば自分をカルマ・ヨガの達人だと宣伝する普通の俗人がそうするように、人は必ずカルマ・ヨガの意味(訳注:import、「重要性」という意味もある)を誤解します。 第12段落 私たちは、単に自分の物質的な存在を続けていくためだけにでも、幾らかの富を稼がねばなりません。その富と引き換えに私たちは、主として自分の空腹のためのものですが、生活に必要なものを得ます。食べるとき(訳注:食事をすれば)私たちは健康な体を保ち、そして健康な体を保つとき(訳注:体を健康に保てば)私たちは自分の生計を立てます(訳注:立てることができます)。 これが仕事の車輪であり、私たちはそれに乗って宇宙全体を巡ります。何度も何度も生まれ変わって、きつね火のような幻想の物質的な幸せのための苦闘から生じる、付き物の困難に苦しみながら、私たちがどれほど遠くまで、そしてどれほど長い間こうして巡っているか、推定することはできません。 偽りの享楽者の能力の範囲内で、至高に強力な主に全く従うことなく、魂は何度も生まれ変わって永遠の幸せを探しますが、彼(魂)は本当の幸せがどこにあるか知りません。プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「自分の至高の利益はヴィシュヌ、万能の至高神に至ることであるのを、誰も知りません。」 第13段落 自分の本当の利益(が何なのか)を知らず、私たちは何度も生まれ変わっては目的も無く物質的な存在の海の上を航海しています。そして、行為と反応の波に翻弄され、私たちはそのような不吉な旅をすることによる苦しみの大きさを確かめることができません。 私たちは、自分の旅の目的は完全真理、ヴィシュヌ、あまねく存在する至高神に到達することであるのを知らねばなりません。シュリー・クリシュナはこれを、すべてのことはヴィシュヌ、すなわちヤジニャの満足のために行われなければならない、と言って確認なさいます。 リグ・ヴェーダの中で同じ真理が描写されています。「ヴィシュヌは至高の神であり、そのためすべての従属的な神々はヴィシュヌと主の蓮の御足に依り頼む。」ヴェーダの著者は至高の人格神ご自身です。したがって、主のバガヴァッド・ギーターはヴェーダのすべての教えの最良の要約です。 それに関して疑いの余地はありません。したがって、シュリー・クリシュナの教えは、もしも私たちが仕事の車輪の呪縛から自由になりたいと望むなら、私たちはすべてのことをヴィシュヌとヴィシュヌの満足だけのためにしなければならない、ということです。 第14段落 かつて、インドの人(今では「ヒンズー」と誤って名付けられている)は、ヴァルナーシュラマ・ダールマ、あるいはサナータナ・ダールマ、すなわち人間の社会(affairs:状況、業務など)を4つの社会的な秩序と4つの霊的な秩序に従って組織するシステムに従っていました。 社会の秩序の上の3つの階層に属する者―――すなわちブラーマナ(指導的な階層)、クシャトリヤ(管理的な階層)、そしてヴァイシャ(生産的な階層)―――は皆、ヴァイシュナヴァ主義、すなわちすべての行為を至高神、ヴィシュヌに捧げる(centering every action upon the Supreme Deity, Vishnu)生活を送ります。 4つの霊的な秩序のすべて―――学生、家庭人、引退者、そして放棄階層者―――において、特に家庭人の階層において、ヴィシュヌが崇拝されていました。特にブラーマナの家庭人は例外なくヴィシュヌを崇拝します。そして今でもなお、それらのブラーマナたちの子孫は、自分の家庭の神(像)としてヴィシュヌを崇拝し続けています。 第15段落 これらの霊的に文化的な人々は、すべてのことをヴィシュヌのために行います。それぞれの能力に応じて彼らは食べ物を買い、それをヴィシュヌの崇拝のために料理します。そして、彼らがヴィシュヌを満足させるために捧げた食べ物の残りはプラサーダム―――「主の慈悲」、すなわち主の食事の残り物―――になり、彼らによって食べられました(訳注:彼らはそれを食べました)。 過去において可能であり、今日でさえあちこちでまだ行われていることは、時間と場所と人々に合うように多少の都合をつけることによって、人生のすべての側面で為され得ます。このようにして、すべての人が行為と反応の呪縛的な網の目から自由になることができます。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ほんの少しですけど、今日はこれだけ載せます。
昨日はクリスマスだったので、教会に行きました。この時季に日本にいるときは、いつも姉のバプテストの教会に行くのです。私は幼稚園の頃から賛美歌を歌ったり「主の祈り」を唱えたりしていました。家が信仰深かったからではなく、単に家から近いキリスト教の幼稚園に通っていたからです。もちろん何のことやらさっぱり分からず、「手を合わせろ」と言われれば合わせ、「光の子ども~」と歌えと言われれば歌い、言われるままに「我らにニチヨウの糧を与えたまえ」とつぶやきました。私はこれをずっと「日曜」の糧と思っていたのです。ご飯は日曜日の分だけお願いすればいいのだろうか、と、いつも不思議でした。
小学校になってからは、バプテストの教会に通いました。無宗教の両親が私と姉を無理矢理通わせていたのですが、タダでオルガンなど習えるかもしれない、という打算があったようです。今思えば、日曜日だけでもタダでうるさい子供を見ていてもらえる、という計算もあったのでしょう。献金の10円玉でも持たせればいいだけで、おやつも出ますしね。私の個人的な楽しみはキラキラのシールをもらえることでした。しかし、こうして打算ばかりで図々しく通っていたため、説教の内容をしっかり自分のものにすることは全然できませんでした。 私が知りたいことは、教会では教えてもらえませんでした。聖書の内容も納得できませんでした。これも今思えば、分からなくて当然だったのです。私が出会ったキリスト教では、私という存在、神様が聖書を通じて語りかける対象である私という存在が、いったい誰なのかを教えてもらえなかったのです。牧師さんたちや聖書勉強会の人たちは、それぞれが「私はこう思う、ああ思う」と言いました。それはどれも体の人間を「私」と見なして語るものであり、それぞれの人が自分なりに考えて解釈したものでした。精霊、という言葉も何度も出てきますが、これも具体的に何なのか理路整然と説明してくれた人はいませんでした。 クリスマス礼拝の説教では「はじめにことばがあった~すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」という節が語られました。牧師さんは「この節は誤解されていると思います」と前置きして説明をなさいました。「神様は世界を作り、そこに私たち一人一人を作られた。この世界にあるすべてのものは、つまりあなたも私も、神様のことばによって作られた。だから、この節は”あなたは在ってよい、あなたは生きよ”という意味なのだ」というものです。彼は、震災で両親を亡くした少女が生き残った祖母に「おばあちゃんが代わりに死ねばよかったのに」と言ってしまった、悲しい逸話を紹介しました。震災で大勢の方が亡くなって生と死が身近に感じられる今年の説教としては、それはとても説得力のある解説かもしれません。上手な説教をなさるといって評判の牧師さんなのです。 でも、私はどうも納得できないのです。「誤解されてる」とおっしゃる彼の解説もまた誤解である可能性はないのでしょうか。「私たち一人一人」、あるいは「すべてのもの」に動物は含まれないのでしょうか。「存在してよろしい、生きなさい」というメッセージも、人間の形で地上に在ることが生きることであるのなら、「いえ、もう結構です、辞退します」と本気で思う人も少なからずいると思うのです。まあ、そういうことを考えたクリスマスでした。 ![]()
至高神のメッセージ第1章36段落から最後まで
第36段落 したがって私たちは、他者のために善を為そうと最善を尽くしたが、あらゆる正直な努力にも関わらず失敗したすべての人々に、アルジュナにならって、シュリー・クリシュナ、あるいは主の真正なる従者たちに近付くことを勧めます。 そうしなければ、もしも人が誤った利他主義の感覚から他者の利害を自分のものとして扱うなら、人は幾らかの利得、崇敬、あるいは栄誉という形で一時的な利益を得られるに過ぎないからです。 第37段落 ヒトラー、ムッソリーニ(訳注:原文はa Hitler, a Mussolini)、あるいはそのような物質主義的な説得をするいかなる指導者も、暴力的あるいは非暴力的な施策によって、自分に従う者たちに「一緒に良いことをしている」という思い込み(mental concoction、精神的なでっち上げ)を提供するかもしれません。 そして、そのようないわゆる慈善という行いによって、指導者は自分に従う者たちから、しばらくの間は(功労の)認識を得るかもしれません。しかし、この手の指導者が「良くしてあげよう」と努力した対象である信奉者たちは(訳注:このような指導者たちは人々のために良かれと思って努力をするのですが、彼に付き従う人々は)、そのような一時的な恩恵をもたらす働きからは決して永続的な利益を得ることができません。 すべてのそのような「慈善的」な活動が発展するにつれて、空虚さが感じられるようになります。事実、従う人々はこのようないわゆる「指導者」によって計画された道を辿ることによって、ますますの苦しみに入れられます。 もしも目の見えない人が、別の目の見えない人が道を渡るのを助ける振りをするなら、そうすれば目の見えない指導者と目の見えない従う者の両方が、どこかの見えない溝の更なる暗闇に落ちるでしょう。超越的な知識のない者は、ちょうど目の見えない人のようです。そのような目の見えない人は、他の者たちを光に導こうとすることができるようになる前に、まず自分の盲目性を根治しなければなりません。 第38段落 たまたまインドに生まれたすべての人は、他の人に利益を与える潜在力を持っています(is a potential benefactor of others)。なぜなら、古代から現在まで、超越的な知識の文化が最も詳しく表されてきたのはインドの地においてだからです。 長い間、インドはバーラタヴァルシャとして知られていましたが、そのバーラタヴァルシャの聖人たちや賢人たちは、決して体と心の必要性だけを満足させようとはしませんでした。彼らはいつも、物質的な体と心を超越した霊魂の知識を培いました。 今でも聖人たちと賢人たちは、様々な困難にも関わらず、そうしつづけています。しかし、もしもインドの人々がまず自ら超越的な知識を得ること無くして他の者たちに利益をもたらそうとするなら(to do good to others)、それは全くの愚かさです。 第39段落 さて、もしも私たちが超越的な知識を得たいなら、私たちの最初の義務は、霊魂は永遠なる真理であるということを理解することです。霊魂の周りに育つ体と心という外部的な要素は、すべて相対的、あるいは部分的な真理です。バガヴァッド・ギーターの第2章において、至高の人格神はこの事実を詳しく説明なさいます。 第40段落 「この体にあまねく行き渡る霊魂は永遠であり、そしてそのため人は、誰も永遠に存在する霊魂を滅ぼすことはできない、と理解すべきです。物質的な体は滅びる運命にありますが、体の所有者、すなわち魂は永遠です。したがって、おお、バーラタの御曹司よ、この永遠の真理を知り、あなたは戦うべきです。」 第41段落 「霊魂が(誰かを)殺すことができると考える者、そして霊魂が殺され得ると考える者の両方が、霊魂はいかなるときも殺す者でもなく殺されることもないという事実を知りません。霊魂は決して生まれず、死ぬこともできません。 そして彼(霊魂)は永遠であるため、彼(霊魂)には過去も現在も未来もありません。非常に古いのに、彼(霊魂)はいつも若々しく、そして彼(霊魂)は、体が滅ぼされた後でさえ、決して滅ぼされません。霊魂は永遠で滅ぼされ得ないと理解している者―――どうして彼が誰かを傷つけたり殺したりできるでしょうか?滅ぼされるのは外側の体と心だけです。」 第42段落 「体と心はちょうど人の衣服(outer clothes)のようなものです。衣服が古くなると、人はそれを捨て、一揃いの新しい衣服を着ます。同様に、魂が死のときに自分の古い体を放棄するとき、彼(魂)は新しい体をまといます。」 第43段落 「霊魂は決して鋭い刀で切られず、火によって焼かれず、あるいは水や空気によって影響されることもありません。すなわち、霊魂は永遠に滅ぼされ得ず、燃えず、蒸発し得ず、そして腐食され得ません。彼(霊魂)は恒久的であり、あまねく存在し、そして永遠です。 彼(霊魂)はいかなる人間の言語によっても説明され得ず、いかなる人間の心によっても、完全に想像され得ることもありません。彼(霊魂)は、いつも変化し得ない状態に留まります(訳注:「霊魂は決して変化しません」)。これらすべての事実を知り、人は体の死を嘆くべきではありません。」 第44段落 バガヴァッド・ギーターの言語において、霊魂はクシェトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼ばれ、一方で、霊魂の覆いである体と心はクシェトラ、すなわち「場」と呼ばれます。バガヴァッド・ギーターの13章において、至高の人格神シュリー・クリシュナは、クシェトラとクシェトラ・ジニャの主題について、また、プラクリティ(楽しまれる存在であるところの、自然、すなわち現象的な世界)、およびプルシャ(現象的な世界を楽しむ者)についても議論します。 主クリシュナは、この現象的な世界で生じるすべての行為と反応はクシェトラとクシェトラ・ジニャ、すなわち自然と自然を楽しむ者の、この組み合わせの行為と反応である、と説明なさいます。例えば、田んぼ(rice padd)は田(field)と(それを)耕す者の行為と反応によって作られ、また、子供はプラクリティ、すなわち楽しまれる者と、プルシャ、すなわち楽しむ者の組み合わせによって得られます。同じように、現象的な世界の中で私たちが見るもののすべては、クシェトラとクシェトラ・ジニャのこの組み合わせによって生じます。 第45段落 クシェトラ・ジニャは生きた霊であり、一方クシェトラは生命体が利用する(to exploit、搾取する、食いものにする)物質です。物理学、化学、天文学、薬理学、経済学、性科学、そして他の物質的な化学はクシェトラの物質を扱います。 しかし、クシェトラ・ジニャに関する科学、すなわち霊的な存在を扱う科学は、超越的な知識を明かします。知識を本当に培うこと(real culture of knowledge)は、したがって、クシェトラではなくクシェトラ・ジニャに関係します。私たちは(のちほど)これらすべての事柄をもっと詳しく論じます。 しかし今は、私たちは単に、クシェトラ・ジニャ(プルシャ、すなわち楽しむ者)がすべての知識の中心的な対象であると知ることによって満足するのが良いでしょう(we may be satisfied simply by knowing~)。なぜなら、このクシェトラ・ジニャだけが、物質的な体と心、および(それらと)同類の物理的な要素と一体化してすべてを作り出すからです。 第46段落 クシェトラ・ジニャは永遠の霊であり、一方でクシェトラは一時的ではかない物質です。この永遠の真理は、ヴェーダの中で「ブラーマ・サテャム・ジャガン・ミトヤー」という格言において要約されています。「霊は事実であり、世界は偽りの影である」。 「偽りの影」と言うとき、人は「世界は一時的であり、しばらくの間存在しているに過ぎない」と理解すべきです。しかし、人は誤って「世界は全く存在を持たないのだ」と考えるべきではありません。私たちは本当に自分の一時的な物質の体と心を持っており、そして私たちは自分の体と心の存在を否定することによって自らを笑い者にすべきではありません。 同時に、私たちはいつも、体と心は一時的な配剤であることを覚えていなければなりません。しかし、この体と心に閉じ込められている霊は永遠であり、破壊され得ない真理です。誰も永遠の霊を破壊することはできない―――それが今、私たちが理解しなければならないことです。破壊され得ない霊は、このため、暴力と非暴力の概念を超えています。 第47段落 今日では、世界中が濃密な物質的な体と希薄な物質的な心のための一時的な配剤に関する知識を培うことに夢中になっています。しかし、体と心よりももっと大切なのは、何ら正しく知識を培われることもなく脇に追いやられている霊です。 その結果、無知の闇が世界を覆い、大いなる社会的な不安、騒乱、そして苦しみをもたらしました。人はどれくらい長く外的な幸せを楽しむことができるでしょうか?それは、胃に何らの栄養も入れずに衣服を洗うようなものです。本当の栄養は、すべての体一つ一つに生命体として存在する永遠の真理、つまり破壊され得ない霊に関する知識を得ることから来ます。 第48段落 生命体は非常に小さく、最も小さな原子よりも小さいものです。学識のある専門家たちは、魂の大きさはおよそ髪の先の千分の一だと言いました。このため私たちは、体のどの一部にほんのわずかに触れただけでも私たちが感じる敏感さは、この生命体が体全体に存在していることによるものである、と理解すべきです。 しかし、この小さな生きた火花が体から去ったとき、体は死んで横たわり、地に倒れ(prostrate、腹ばいの状態)、そしてそれは何らの痛みも感じません―――たとえ斧で滅多切りにされても。 第49段落 この小さな生きた火花、すなわち霊が物質的なものでないということは、いかなる物質的な科学者も、物質的な物質のいかなる組み合わせによっても生命の火花を作り出せていないという事実によって暗示されています。 物体を操作することによって作られ得る物は何でも、破壊されることができ、一時的です。しかし、生きた火花は破壊され得ないため、物質的な科学者たちは、生きた火花は物質的な科学によって複製され得ないという事実を受け入れねばなりません。彼らは原子爆弾を作ることはできますが、生命の霊的な火花を作りだすことはできません。 第50段落 物質的な科学者たちは世界中で大変な発達を遂げましたが、残念なことに、これらの発達した科学者たちは、常に最も大切な主題である生きた火花、すなわち霊について理解する試みを全くしませんでした。これは全くの無知です。これが彼らの救いの無さです。 第51段落 シュリー・ジャガディッシュ・チャンドラ・ボーズ、アイザック・ニュートン卿、ベンジャミン・フランクリン―――これらの人々のそれぞれの優秀な脳(brain substance)は、彼らのそれぞれの体から生命(living substance)の小さな火花が離れたと同時に、完全に機能を停止しました。 もしも化学的あるいは物理的に物質を組み合わせることによってこの生命(living substance)を作り出すことが可能であるなら、それならきっとこれらの偉大な科学者たちの弟子などが彼らを生き返らせ、そうやって世界への彼らの科学的な貢献を長引かせたでしょう。 しかし、どの物質的な科学者も、どんな物質的な方法によっても生命の火花を作り出すことはできず、そして、未来にはそうできる、と言う者は最大の愚か者であり、最大の偽善者です。生きた霊は永遠です。彼には終わりも始まりもなく、そのためいかなる方法によっても決して作り出され得ません。 それに、すべての作られたものには滅亡があるというのは、私たちの経験の範囲内のことです。(訳注:「形あるものは皆壊れる、というのは、私たちも経験上よく知っていることです。」)霊魂の永遠性は、それが物質的な手段によって作り出され得ないということによって証明されます。 第52段落 そしてそのため、生命の火花を滅ぼすことができると考える者もまた、それ(霊魂)について何も知りません。したがって至高の人格神シュリー・クリシュナは、断固として、生命体は霊であるため決して生まれない、と宣言なさいます。生命体は永遠に存在し、過去も現在も未来も持ちません。 霊は決して、物質的な体が滅びた後でさえ、滅びません。また、体が物質的な誕生と死を繰り返すことによっても、成長することも衰えることもありません。何よりも古いにも関わらず、霊的な存在(spiritual entity)は常に若々しくて新しいのです。彼(霊)はいつでも、常に死と滅亡の影響を受ける物質的な体と心とは異なっています。 第53段落 ここで人は、「なぜ主クリシュナはこれらすべての超越的な知識をクルクシェトラの戦場でアルジュナに説明なさったのですか?」と問うかもしれません。答えは単純明快です。軍事的な義務を遂行するために行われる戦いは、魂ではなく体だけに関係するからです。 ちょうど、たくさんのご馳走を食べることが心の飢えではなく胃の飢えだけに関係するようなものです。これらの物質的な影響は決して永遠なる生命体には関係しません。なぜなら、生きた霊は征服され得ず、燃えず、湿らされることなく、乾くこともないからです。 物質的な物だけが切られたり、焼かれたり、湿らされたり、空中で乾かされたりされ得ます。このため、アルジュナを励まして戦わせるため、クリシュナは様々な方法で「生命体すなわち霊魂は完全に非実質的(metaphysical、抽象的、哲学的、形而上学的な)である」と説明しました。 第54段落 インドで「サナータナ・ダールマ」、すなわち「永遠の宗教」として知られているものは、この永遠の、あまねく存在し、変化し得ず、滅ぼされることのない生きた霊のためのものです。つまり、本当の宗教は、濃密な物質の体と希薄な物質の心に焦点を当てた様々な宗教的な信仰を超越しています。 サナータナ・ダールマは、単にある特定の人々、場所、あるいは時代(time)のためのものではありません。そうではなく、それは永遠で、あまねく存在します。サナータナ・ダールマ以外のすべての宗教は、身体的あるいは心理的な変化を培うためにあります。 第55段落 様々な人々、場所、そして時代の影響は、私たちが自分たち自身をヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、社会主義者、ボルシェビキ(訳注:ロシア共産党の前身であるロシア社会民主労働党の党員、あるいは単に共産主義者)、などと区別して考える(to designate)ようにさせました。(訳注:「~の影響によって、私たちは~と考えるようになりました」) 特に宗教の分野においては、様々な人々、場所そして時代に応じて、私たちは多くの種類のはかない身体的および精神的な配剤、そして(訳注:原文ではandが抜けている)様々な宗派を確立しようとしました。そしてまさにこの理由のため、私たちは自分が「宗教を変える」のを想像することができます。 今日ヒンズー教徒である者は翌日にはイスラム教徒になるかもしれず、あるいは今日イスラム教徒である者は翌日にはキリスト教徒になるかもしれず、等々。しかし、私たちが超越的な知識に到達して、サナータナ・ダールマ、すなわち生命体―――霊魂―――の本当の永遠の宗教において確立するとき、そのとき、そしてそのときだけ(訳注:「そうなってはじめて」)私たちは世界で本当の、否定され得ない平和、繁栄、そして幸せを得ることができます。 第56段落 非常に小さく、私たちの物質的な目には見えないので、霊魂は、不可解、知覚し得ないなどと呼ばれます。それでも霊魂は永遠であると理解されます。なぜなら、彼(霊魂)は決して誕生、死、病および老齢や、他のいかなる身体的な変化にも影響されないからです。 したがって、もしも私たちがこれらの身体的な変化から解放されて永遠の平和と幸せを得たいと望むなら、霊魂の永遠の宗教の精力的な普及がなければなりません(訳注:「霊魂の永遠の宗教を精力的に普及させなければなりません」)。しかし私たちは、この魂の永遠の宗教は決して人や場所や時間のいかなる限界(limitation、制約)によっても束縛されないということを、いつも覚えているべきです。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 どうもずいぶんお待たせしております。なぜだか人生がごちゃごちゃとしてまして。。。しなきゃいけないことを書き出して、優先順位をつけて、多少なりとも心を落ち着けようと思っています。何と申しましょうか、犬みたいに走り回ってるうちに大事なことをすっかり忘れてしまう、という落とし穴にはまりこんでる気がします。私は一応しろうと絵描きだったはずなのですが、それもすっかり忘れさられています。続きはまたいずれ載せます。どうぞ気長にお待ちください。 それにしても思うのは、体はナマモノのマネキンだなということです。夜にはいつもプラブパーダのご本を拝読するのですが、体という超巨大ロボットを運転してる自分を想像しながら読んでます。私が運転席から降りれば体は用無しになって、北朝鮮の将軍様の死体と違ってカネがかけられることもないのでほっとけば腐敗していって、、、しかしそれが今は動いてるんですよね。すごいことです。私はとろいので車の運転はできないけど、体の運転もあんまり上手ではありません。体操選手とか見てると、私があれをやったらいっぺんにこの体は廃車だな、と思います。それがどうした、という要点のない文章を書いてますが、夜に一人でひっそりとプラブパーダのお話を伺っていると、いろいろと想像力が暴走するものであるようです。 それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。そうは言っても法王様も衰えが目立ち始めていらっしゃいますし、来年はアメリカもロシアも大きく動くだろうし、地球全体で地盤も動く気まんまんみたいだし、北朝鮮もアラブもアフリカもじーっとしてる様子はないし、中国もヨーロッパも、もちろん日本も危うい、しかも大気圏の外も何やら方々で慌しいみたいだし、、、進行するカリユガの名に恥じず何かと騒動の多そうな気配が充満してますが、嵐の雲の向こうには(最近ちょっと活動期みたいな)太陽があるように、クリシュナのことを心のどこかで思い出していられるといいなと思います。
第27段落
シュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーは、これらの言葉をもって自分の立場を表しました。事実は、彼はそのとき、超越的な知識について本当に学識がありましたが、私たちのような物質主義的な愚か者であるふりをしました。シュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーは、自分は超越的な知識を持たないのに人々が自分を偉大な指導者や博学な学者と呼ぶのを許すことについて、自分を非難しました。 間接的に、彼は、偉大な学者、偉大な指導者、偉大な哲学者、偉大なマハートマー、あるいは偉大なパラマハムサとして名声を得るために、自分を宣伝して同じような愚か者の安っぽい票を集める者よりもひどい物質主義的な愚か者はいない、と保証しました。 (彼らはこれらすべてのことを)自分の本当の自己、すなわち霊魂に関する何らの知識も無くして、そして魂そのものに何らの利益を与えることも無くして___単に一時的な物質の体と心の幸せと苦しみに関する事柄に時間を無駄にして、行います。(訳注:原文は上記の2つの文が長くつながっています) サナータナは「永遠」を意味します。このように、サナータナ・ゴスヴァーミーは、生命体の一時的な体と心の一時的な幸せだけではなく、彼らの永遠の幸せに興味がありました。人がこのように永遠の魂の永遠の幸せに興味を持つようになるとき、彼はサナータナ・ゴスヴァーミーの弟子、あるいは本当の「サナータナ主義者」、つまり超越主義者になります。 第28段落 現在、世界中でほとんどすべての指導者、学者、そして「マハートマー」たちは、大なり小なり、超越的な知識への何らの嗜好も持たない物質主義者です。こうして至高の人格神シュリー・クリシュナは最初はアルジュナを非難し、本当は物質主義的な愚か者である、いわゆる博学な学者たちと指導者たちに教えるために、彼をパンディタ、すなわち学者として受け入れることを拒否しました。 第29段落 ほとんどすべての現代の指導者たちは、物質的な体と心だけに関係する様々な様相の宗教性を一般化しました。しかし、彼らの中には、体と心は単に魂そのものの上着とシャツに過ぎない、ということを知っている者はほとんどいません。 単に上着とシャツの世話をすることによっては、人は本当の自己、すなわち魂に何らの善をすることもできません。事実は、魂が主要な関心事です。正気の者であれば、自分の主な関心事、すなわち自分自身そのものをないがしろにする一方で、周辺の諸事物の利益に心を砕くということはありません。 もしも彼が自分の主要な関心事の必要性の面倒を見るなら、そうすれば彼の従属的な関心事、すなわち彼の物質的な体と心は、自動的に充足されます。しかし、誰も従属的なものに奉仕をすることによって主要なものに奉仕をすることはできません。言い換えると、単に注意深く人の外的な衣類の世話をすることによって人の内的な飢えを満たすのは可能ではありません。 第30段落 ですから、私たちが生命体について語るとき、私たちは生命力、すなわち霊魂を主要で中心的な存在として見る一方で、体と心を二つの外的な覆い、二層からなる周辺的なものとしてみなければなりません。外側の覆いは一時的な配剤であり、したがって外側の覆いに依存するすべてもまた、一時的な配剤です。 そのため、バガヴァッド・ギーターにおいて至高の人格神シュリー・クリシュナはおっしゃいます。「おお、クンティーの息子よ。冬の寒さや夏の暑さなどのすべての形の幸せと苦しみは、物質的な感覚による知覚のみによるものです。それらは自然の法則に応じて訪れたり去っていったりします。 そしてそのため、それらは、それによって私たちが惑わされることなく、忍耐されるべきものです。(訳注:そのため、私たちはそれらに惑わされずに忍耐すべきです。)これらすべての一時的な幸せと苦しみの去来に惑わされない者だけが、永遠の人生を得る資格を得ます。 第31段落 しかし、私たちの存在の現在の段階では、体と心に関する一時的な幸せと苦しみに影響されずにいることは困難です。また、現在では、私たちが体と心によって識別されない、ということを主張するのも可能ではありません。このように、超越的な知識を得ることは、私たちが自分の現在のあり方に無関心になるということを意味するのではありません。それは、私たちが幸せと苦しみの去来によって圧倒されるべきではない、ということを意味します。 第32段落 私たちは、それらの物質的な幸せと苦しみの一時的な状態の性質を知らねばなりません。霊魂に関する事柄に関して無関心であり続けるの(が馬鹿げているの)と同じように、それらを無視することは全く馬鹿げたことです。それ(霊魂)に基づいて物質的な体と心は存在しているからです。 それでも、もしも人が霊魂を理解して、そして超越的な知識への好みを育むほど幸運であるなら、それなら、体と心に関する俗世的な幸せと苦しみの最中にあってさえも、彼は(それらに)無頓着でありつづけ、超越的な平和を味わいます。 本当の平和は、存在のその超越的な水準においてのみ、得られます。それが本当の満足の状態です。もしも長い間家から離れていた後で誰かが家路につくなら、家へ向かっていることの喜びは旅に伴う苦痛を減らします。 旅の不便は家へ向かっていることの喜びの副次的なものになります。同様に、超越的な知識の力によって家へ向かっている者、至高神のもとへ向かっている者にとって、体と心の物質的な悲惨さは取るに足らないものです。 第33段落 感覚による知覚は、様々な幸せと苦痛を感じる原因です。形、味、匂い、音、そして感触は、心と相まって幸せと苦痛を与える様々な感覚による知覚です(訳注:形、味、匂い、音、感触そして心などの様々な感覚をとおして、私たちは幸せと苦痛を知覚します)。 冬には、冷たい水を浴びることは私たちに苦痛を与えますが、しかし夏には同じ冷たい水が私たちに喜びを与えます。冬には火は私たちに喜びと暖かさを与えますが、しかし夏には同じ火が私たちに苦しみを与えます。このように、火も水も、私たちに幸せや苦しみを与える本質的な力を持ちません。 しかし、それらは様々な状況における私たちの感覚による知覚の相に応じて、幸せや苦しみの代理人であるように私たちには見えます。したがって、世界に存在するものは何も幸せの対象あるいは苦しみの対象ではありません。そうではなく、幸せと苦しみは共に相対的、すなわち私たちの感覚による知覚に依存します。それらは私たちの内的な思考、感情、そして意志(willing)の過程に関連しているからです。 第34段落 しかし、そのような、偽りの自己のもとでの思考、感情、および意志の行為に関連する幸せと苦しみの一時的な感覚は、永遠に霊魂とは異なるものであり、そしてそのため、「本当ではない現実」です。このように、芸術においてであれ、科学においてであれ、俗的な学者たちが培った知識の発達は、もしもその知識が永遠なる霊魂に言及しない(without reference)ものであるなら、それは単に、物質的な体と心を取り囲んで制約する自然の幻惑的な相の顕現に過ぎません。 第35段落 本当の平和と幸せは、そのような物質主義的な知識の発達を通しては決して訪れません。そうではなく、至高の人格神シュリー・クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて確認なさるように、永遠の霊魂との関連において超越的な知識を培う者、そして一時的な幸せと苦しみによって惑わされることなくそうする者たけが、誕生、死、老いと病の残酷な手を逃れ、自分の永遠の霊的な人生を取り戻すことによって本当に幸せになることができます。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 お待たせしました。ほんのちょっとですが、続きです。プラブパーダのおっしゃることって、ほんとにしみじみと「ほんとだなあ」と思います。いざそれを現実に応用できるかというとまた別問題ですけど。二極性に惑わされて振り回されないようにしたいと思います。お金がないとか、ありすぎて困るとか、あれこれ文句を言わずに忍耐できるようにならなきゃいけませんね。 これからまたしばらくお休みします。私の人生は何だかごちゃごちゃしているのです。今は日本にいます。仕事を探さなきゃいけないのですが、そうもできない中途半端なところです。私はガラス絵と仕事の翻訳とISKCONの翻訳と英語を教えるというのと、4足のわらじをはいています。つまり、どれも中途半端なのです。 しかも、11月半ばからは都合で2週間ほど旅行をするので、その準備もしなければなりません。しかし、その前にはガラス絵教室を開く予定があり、それだけでは絶対お金が足りないのであと2つくらい教室を開きたいと思っていて、しかしそれは非常に面倒臭く、英語を教えますという宣伝もしなければならず、、、どうしたらいいのでしょう。私は冬ごもりをしたいです。秋なのですが、そういう些細なことは気にしません。自分で招いてしまったこんなごちゃごちゃした人生をしばらく逃避できるのなら、梅雨時にでも冬ごもりします。 そういうわけで、皆さん、またしばらくさようなら。いつかどこかでお会いしましょう。
「至高神の教え」第1章 26段落まで
第14段落 しかし現時点では、思想の指導者たちは一般の人々を、「私たちが住んでいる世界以外に世界はない」、そして「ここですべての平和と繁栄が得られる」と信じるように誤って導いてしまいました。そのような指導者たちによれば、物質的な体が本当の自己であり、体に関わるすべてのことを理解するということが自己認識を構成し(訳注:「自己認識とは体に関わるすべてのことを理解することであり」)、そして私たちは、体の感覚を満足させて、なんとしても体を維持すること以上の義務を持ちません。 これらの指導者たちによれば、神と、主に哲学的に近づくことは、単に脳を運動させるための娯楽的な追及、あるいは室内ゲームに過ぎません。しかし、この種の理解によっては、世界は何ら実体のあるものを得ません。 第15段落 ですからアルジュナは、自分を物質世界において幻惑されている普通の人々の部類に置き、弱さを表しました。そして、この行動によってアルジュナはバガヴァッド・ギーターが至高の人格神の超越的なくちびるから顕現するのを助けました。 至高の人格神が死を運命づけられたこの世界に降臨なさるときはいつでも、主はご自分の内密な従者につき従われています。アルジュナは至高の人格神シュリー・クリシュナのそのような永遠の内密な従者の一人であり、そのためバガヴァッド・ギーターの哲学は一般の人々の利益のために彼に直接教えられました。 第16段落 至高の人格神の純粋な献身者であるため、アルジュナはクルクシェトラの戦場においてさえバガヴァッド・ギーターの超越的な哲学を議論することができました。私たち現代人は、自分の通常の日常的な義務の間にあって、バガヴァッド・ギーターの哲学の詳細を論じる時間がないことになっています。 しかし、私たちに教えるためだけに、アルジュナはただ一瞬でさえ無駄にするのが不可能であるように見えたときにバガヴァッド・ギーターの哲学を熟考しました。これらすべてを彼は私たちのような人々のために行い、そして彼はいったんバガヴァッド・ギーターの哲学を理解すると、精力的に戦いました。 第17段落 アルジュナを典型的な現代人と同じように圧倒したように見える家族関係の親和性は、超越的な知識が欠落していることのしるしです。しかし、超越的な知識を得ることは、必ずしも普通の生活の義務を放棄することを意味するのではありません。 アルジュナがバガヴァッド・ギーターの哲学を理解したあと、至高の人格神シュリー・クリシュナは、決して彼に自分の普通に見える義務を放棄することは助言なさいませんでした。対照的に、シュリー・クリシュナによって授けられた超越的な知識を得たあと、アルジュナは前よりももっと精力的に戦いました。 私たちが超越的な知識を通して得る本当の精神は、自己を服従させることと、至高の人格神に超越的な奉仕を捧げる決意です。バガヴァッド・ギーターの趣旨はこれであり、他の何でもありません。 第18段落 アルジュナが切迫したクルクシェトラの戦いによって自分に呈された問題を解決できないでいたとき、自分の問題の解決策を尋ねるために、彼は全くの従順さをもってシュリー・クリシュナに主の弟子として服従しました。 最初は、至高の人格神はアルジュナと、友人同士が語り合うように話しました。しかし、そのような友人同士としての議論は、普通、実りのない話し合いに終わります。そのためアルジュナはシュリー・クリシュナの弟子として服従しました。弟子は自分の霊的指導者の命令に逆らうことはできないからです。それが弟子と彼の師との関係です。 第19段落 至高の人格神シュリー・クリシュナは、アルジュナが自分自身の学識に関する何らのうぬぼれもなく、そして全く無条件でご自分に服従したのを見てはじめて、バガヴァッド・ギーターの極めて重要な教えを授けました。 服従する前のアルジュナのように、私たちは一般に自分の問題を、自分の俗世的な経験から集めた独自の手段によって解決しようとします。しかし、一時的な手段によって自分の日々の身体的および精神的な困難を取り除こうとするこの試みは、いつも誤って導かれます。 第20段落 人が自分の永遠の人生を取り戻すという問題を解決しようとしない限り、この人生においても死後の人生においても、何らの平和もありえません。それがバガヴァッド・ギーターの至高の教えです。 第21段落 私たちの至高の必要性は、物質的な体と心の切望を超越した活動に関わる主題を理解することです。この、活動の超越的な水準に(訳注:超越的な水準にある活動)に至らない限り、私たちは本当の平和を得ることができません。 この霊的で超越的な水準は永遠の人生の水準であり、それなくしては物質的な体と心は存在しません(would have no existance)。しかし、現在私たちは、自分たちの物質的な知識を大いに誇りに思っているにも関わらず、この永遠の人生に関する何の情報も持ちません。 第22段落 私たちは大なり小なり、永遠に生きている魂を今は覆っている外的で物質的な区分に浸っています。そして、自分をこれらの外的な区分に浸らせてしまったため、私たちは非常に多くの苦しみと苦闘に直面します。 私たちがそのような区分から自由になるとき___私たちの本当の性質が明らかになるとき___そのとき、そしてそのときだけ、私たちは本当の幸せと平和という、自分の夢を実現します。学識ある科学者たち、偉大な政治家、そしていわゆるマハートマーの自負を通して物質世界の困難を取り除こうとする私たちの現在の試みは、霊的で超越的な水準には至らず、単に魂に様々に色とりどりの身体的で精神的な区分という「衣装」をまとわせます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは、これらの試みは必ず期待外れに終わる、と宣言なさいます。 第23段落 シュリー・クリシュナは、アルジュナが弟子としてご自分に服従したとき、言うなればアルジュナを非難しました。「アルジュナ、私はあなたが学識のある人のように語っているのを見ます。しかし、実際はあなたはほとんど知識を持ちません。本当に学識のある人は誰も嘆かないことを嘆いているからです。」 第24段落 学識のある人は、時間の流れの中で現れたり消えたりする物事を嘆くことは決してありません。私たちが自分の母親の子宮から得る物質的な体は、しばらくの時間の後で、場合によって灰、土、あるいは糞に変わります。 そして、偽りの自我、知性、そして心からなる希薄な物質の体は、魂が解放されるときに同様に消えます。したがって、本当に学識のある人は、物質的な体と心、あるいは物質的な体と心にだけ関係のある幸せと苦しみをあまり重視しません。 第25段落 他方、そのような学識のある人は、霊であるため体と心を超越している魂そのものの幸せと苦しみに多いに重要性を置きます。この主題に関する知識は超越的な知識と呼ばれます。アルジュナは、完全に物質主義的な愚か者である私たちに教えるためだけに、何の超越的な知識もない物質主義的な愚か者として振舞いました。 主のほうはと言えば、至高の人格神は、バガヴァッド・ギーターの超越的な知識をアルジュナに授けました。主はアルジュナがそれを聞くのに最もふさわしい人であると思われたからです。 第26段落 ちょうどアルジュナのように、ベンガルのナワブ・フセイン・シャーの下の首相 ---後の主チャイタンニャの主要な弟子たちの一人、サナータナ・ゴスヴァーミーとして知られたサーカラ・マッリカ ---は、ベナレスで主に会ったとき、主チャイタンニャの前で自分自身を物質主義的な愚か者として表しました。彼は主チャイタンニャの前で自分の立場を次のように表しました。 「超越性に関する知識を持たない普通の人々は、私を偉大な指導者、学者、マハートマー、パラマハムサなどと呼びます。しかし、私は自分が本当にそうなのかと疑っています。彼らは私を、(本当は)そうでないものと呼ぶことによって、私を間接的に嘲っているのかもしれません。(訳注:私はそのような偉人ではないのに、そうであるかのように呼ぶことによって、彼らは実は私を馬鹿にしているのかもしれません。) 私は自分がありのままの自分について何の知識も持たないということを知っています。しかし、それでも物質主義的な愚か者は私を学識がある(者)と呼びます。これは疑いもなく(悪い)冗談であって、嘲りです。
1、超越的な知識
第1段落 私たちは、自らの最も誠実でへりくだった敬意を私たちの大変慈悲深い霊的指導者、堕落した者の救済者、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・プラブパーダ睨下に捧げます。睨下は私たちの目を、彼がすべての人々の利益のためにお明かしになる超越的な知識という道具をもって開くことによって、無知の闇を消し去りました。 第2段落 一般に、私たちは自分たちの二つの小さな目を非常に誇りに思っています。そして、うぬぼれで驕り高ぶり、私たちはいつもそれらを使ってすべてを見ようと熱心にしています。しかし、私たちは、自分が今見ているものは何であれ無知の闇に覆われており、そしてそのため、それらは誤って認識されているか、あるいは部分的にのみ知覚されているということを知りません。 私たちが、単に対象に自分の目の力を当てはめることによってすべてを見ることができる、というのは、事実ではありません。毎朝、太陽が昇るとき、私たちはその巨大なものをまるでそれが小さな円盤であるかのように見ます。 もちろん、太陽は私たちが住む地球よりずっと大きく、そしてそのため、毎日毎朝、私たちの自己に依り頼んだ目のうぬぼれは試みに遭わされ、不条理に引き下げられます(reduced to absurdity)。( absurdityは、矛盾、不条理、愚かさ、など。何でも正しく見えるとうぬぼれていても、毎度毎度欺かれる、という意味。) 私たちの目は、一定の好ましい状況の下においてのみ、知識を集めることができます。私たちは、自分たちから離れすぎているものを見ることができません。私たちは闇を突き抜け(て見る)こともできず、例えばまぶたなど、目に大変近いものを見ることもできません。 このように、私たちは物質自然によって作られた特定の好ましい状況下においてのみ、自分たちの目を誇りに思うことができます。そうでなければ、すばらしい目を持っているとはいえ、私たちは物事をその正しい見方において見ることができません。目について言えることは、私たちが知識を集めるのに使う他の感覚についても言えます。 第3段落 これらの状況の下で、今現在私たちが経験しているものは何であれ、完全に制約されており、したがって間違いや不完全さに陥りやすいものです。これらの誤った印象は、決して「過ちを犯した者」自身、あるいは同じような間違いを犯しやすい別の者によっては改正され得ません。 第4段落 もしも私たちが何かの物体を闇の中で知覚したいと思うなら、私たちは単に自分の目だけを使うことはできません。私たちは自分の知覚を助けるために他の何かの方法に頼らねばなりません。ですから、闇の中では物体は完全には知られ得ません。 そのような状況においては、たとえ私たちが触れることその他によって何らかの知識を得ても、それはすべて間違っているか、あるいは不完全です。その状況はちょうど、象に出会った一団の目の見えない人々が、互いにその妙な新しい生き物を描写しようとするようなものです。一人の人は鼻を触って、「この生き物は大きなヘビのようだ」と言います。別の人は脚を触って、「いいや、それは巨大な柱のようだ」と言います。そのようなことが続きます。 第5段落 深い闇の中にあるものを知覚するためには、ただ一つの方法しかありません。誰かが闇に光を照らしたときにだけ、物事をありのままに見ることが本当に可能になるのです。同様に、知識の明かりは私たちの教師によって灯されます。そして私たちは、自分の教師の恵みによってのみ、物事をありのままに見ることができます。 ほんの生まれ落ちたばかりのときから、それが父、母、あるいは先生であれ、私たちは自分の教師の恵みによって知識を集めることに慣れています。私たちは、受動的に聞くことによって彼らから経験を集めます。そのような教師の助けによってのみ、私たちは段階的に前進する知識の道を進むことができます。 第6段落 アルファベットを習うことに始まり、大学の過程(career)を終了することに至るまで、私たちは自分の教師の恵みによって知識の道を前進します。そして、もしも私たちがさらに前進して超越的な知識を得たいと望むなら、私たちはまず、自分を道において導いてくれる、資格のある超越的な教師を探さねばなりません。 私たちが学校や大学で集める知識は、今世において何か特定の課題を学ぶことにおいて一時的に私たちを助けるかもしれませんが、この知識は私たちの超越的な知識への永遠の必要性を満足させることはできません。それを私たちは、何度も生まれ変わり、毎日毎日、毎時毎時、求めています。 第7段落 どんな課題においても、成功するためには、つまりその特定の専門において有利になるように働くためには、その課題を修めた人と関係を築く必要があります。学究的な大学で学位を取得するためには、私たちはまず、その学校との関係を築く必要があります。私たちはその学校の教師たちの指示に従わねばならず、彼らの指示に従って好意的に学ばねばなりません。 これは、望む成功を手にするために絶対に必要です。同じように、もしも私たちが本当に心から永遠の人生の原則を知りたいと思い、物事をそれらの本当の見方において見たいと思うなら、私たちは自分の目を本当に開けて私たちを無知の手から引き上げることのできる教師との関係を築かねばなりません。この、霊的指導者に近づくという方法は、永遠の真理です。誰もこの永遠の規則を破ることはできません。 第8段落 入門の過程は、私たちが霊的指導者との超越的な関係を築く日から始まります。ウパニシャッド、および同種の聖典は、すべての聖典に精通しており、超越的な知識において完成を得た霊的指導者の足元に畏敬と崇敬をもって近づかねばならない、と定めます。超越的な知識において完成を得るためには、人はその線上における文化、実践、および教育によって、師弟継承、霊的な連結の線を受け入れねばなりません。 様々な霊的な協会や共同体の首長は、しばしばこの霊的な完成の水準を欠いており、そしてそのため彼らは霊的に指導的であるための資格を持ちません。したがって、形式上、あるいは習慣上の事柄としてそのような職業的な霊的指導者に近づくのは無駄です。霊的な完成を得ることは、霊的な弟子という経験を経ずしては決して可能ではありません。 第9段落 至高の人格神であって理想的な霊的指導者であるシュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの哲学をご自分の弟子であるアルジュナ元帥に語りました。ここに霊的指導者と弟子の間の関係の完璧な例があります。アルジュナはシュリー・クリシュナの最も内密な友人でした。そしてそのため、シュリー・クリシュナは彼に、すべての聖典の真髄、バガヴァッド・ギーターを説明なさいました。 第10段落 私たちはいつも自分の俗世的な義務を遂行することにとても忙しくしているので、一般に私たちは、胃とそれに関連する事柄、という俗世的な哲学以外には何らの知識も理解したいと望みません。私たちは、この腹部の哲学の多くの枝と小枝を様々な方向に広げました。そしてそのため、私たちは自分がそれを求めて永遠に幾世も幾世も苦しんでいる、永遠の人生を得るという哲学を理解するための時間が全くありません。 第11段落 クルクシェトラの戦場でクリシュナがアルジュナの戦車を相対する二つの軍隊の間に置いた後、アルジュナが戦うことを拒否したとき、彼は普通の人間のように、哲学的な無知と弱さによって圧倒された振りをしました。それからクリシュナは彼をバガヴァッド・ギーターの知識をもって啓蒙しました。 第12段落 このようにして、いつの時代にも、至高神と主の愛する内密な献身者たちは、世界の人々の無知の闇を消し去ることによって、自分たちの無限の慈悲を授けます。もしも彼らが私たちの上にそのような慈悲を授けて下さらなかったなら、私たちは決して超越的な知識を得ることはできません。 第13段落 時として、至高の人格神ご自身が降臨なさり、超越的な知識を教えます。別のときには、主はこの親切な行いをするために、ご自分の内密な従者たちに代理を命じられます。すべてのメシアたち、すなわち至高神の王国の超越的なメッセージを説くために過去に訪れた、あるいは未来に訪れる聖人たちは、至高の人格の最も内密な従者と理解されます。 主イエス・キリストは至高神の息子として現れ、モハメッドは自分自身を至高神の従者であると述べ、そして主チャイタンニャはご自分を至高神の献身者として現されました。しかし、彼らの身分が何であれ、すべてのそのようなメシアは一つのことについて同じ意見を持っていました。死が運命づけられているこの世界には永遠の平和と繁栄はない、ということです。 彼らすべてが、私たちは平和と繁栄がその本当の存在を持つ別の世界へ行かねばならない、と同意しました。私たちは、死が運命づけられているこの世界を超えたところにある神の王国の中に、永遠の平和と繁栄を探し求めねばなりません。至高の人格神を受け入れなかった仏陀やシャンカラーチャーリャのような宗教改革者でさえ、この物質世界に永遠の平和と繁栄を得る何らかの可能性がある、とは教えませんでした。
至高神の教え(Message of Godhead)
目次 *はじめに 1ページ *第1章 超越的な知識 7ページ *第2章 カルマ・ヨガ:超越的な結果を伴う働き 27ページ (原文は誤って25ページとされている。) *附録 ハレ・クリシュナの真言を唱える 68ページ (原文には附録の記載なし。) (翻訳に使ったのは2007年1月発行の第8版。原文では目次の章の記載方式に誤りがある。ページ数の誤りは初版から形式を移行したときの校正に不備があったためと思われる。附録にも同じ理由によるものとみえる誤りがある。) はじめに 第1段落 現在、私たちは主に二つのことに関心を持っています。一つは私たち自身、そしてもう一つは私たちが住んでいるところです。言い換えると、私たちはつまり、私たちの肉体的、およびかすかな体に関するあらゆる事柄、そして世界全体とそれに関連するすべての事柄に関心があります。 しかし、私たちを超えたところにいる人々、超越主義者も存在し、彼らは自分たちの体と心と世界全体だけでなく、それらを超えた超越的な事柄にも関心があります。超越主義者たちは、完全真理に大いに関心があり、そして相対的な真理にはあまり関心がありません(much less with)。 第2段落 これらの超越主義者たち(ふつうは聖人、哲学者、宗教改革者、神の使者(メッセンジャー)などとして知られる)は、世界の様々なところに様々なときに現れます。彼らは完全真理および人類に、超越的な世界のメッセージを広めることによって超越的な奉仕をします。 これらの超越主義者たちによれば、人間は猫や犬などの低位の動物のそれよりも高い関心事を持つべきです。低位の動物もまた、主に自分自身および世界全体という二つのことに関心があります。 人間以外の生命体は、超越的な主題を理解する能力を持ちません。したがって人間はすべての創造のうちで最も高いものと考えられており、そして私たちはこの、より高い立場の性質を理解しなければなりません。 第3段落 すべての被造物の中で最も高い存在である人間が意識において完全に発達したとき、彼は自分自身と自分が住む世界以上のものに関心を持ちます。彼は完全真理を理解しようとします。完全真理は世界ともども人間を規律し、そして、主を知っているため、超越主義者たちは自分の行いを正しい道に規律します。 この規律の過程は、一般に信仰体系あるいは宗教として知られます。文明化された世界全体に、私たちは何らかの形の宗教を見出します。実に、人間に何らの宗教もないとき、彼は獣以外の何でもないのです。 宗教は異なる国、時代、そして人々に応じて(異なるふうに)現れる(to delineate、描き出す)かもしれませんが、どの場合でもそれは大なり小なり完全真理という目標を焦点としています。 第4段落 完全真理は唯一無二(one without a second、比類するもののない絶対的な存在を表す表現)ですが、主は異なる状況において異なる宗教家あるいは超越主義者によって、異なる視点から見られます。ある超越主義者たちは、完全真理を一般に形のないブラーマンとして知られる非人格的な力として見ます。 一方で、別の者たちは主を、一般にパラマートマー、すなわち超魂として知られる、すべての生命体の中に住んでおられる神の遍在的で局地的な側面として見ます。しかし、もう一つの重要な超越主義者の一団が存在します。彼らは完全真理を、ご自分の至高の人格と同時に非人格であって偏在である力を持つ、至高の人格神として理解します。 第5段落 現在、「宗教」という言葉は物質主義者な傾向の神殿で生け贄にされています。人間という種は今、ちょうど低位の動物たちと同じように、食べること、眠ること、身を守ること、そして感覚を満足させることに関する事柄に、より関心を持っています。 一般的な傾向は、可能な限り超越的な主題を避けるか、そうする場合でも詳細に踏み込まないというものです。最も有力な政治指導者たちでさえ、「おなかを空かせた男や女は、神と宗教に何の意味も見出さない」と発言したのを(人々に)聞かれています。 人々は一般に、そのような物質主義的な人々の指揮のもとにあって、いかなる超越的な認識もなく、自分たちの物質的な体と物質的な世界を超えたものは何も知らず、徐々に低位の動物の身分に下りていっています。 第6段落 このように人類は、たまたま別の場所から吠える別の犬の群れに出会えば直ちに吠える癖のある犬の身分に落ちてしまいました。私たちは、人がたまたま自分の地域や自分の宗教の宗派に所属しない別の人間を見たら直ちに非難の声を上げるときよりもひどい人類の堕落を、想像することができません。彼はこうして、まるで自分が虎やライオンに出くわしたかのように非難の声を上げます。超越的な知識なしでは、人間は実際は虎や狼よりも優れたものではないのです。 第7段落 したがって今、もしも私たちが人間を正気に戻したいなら、完全な知識に関して何かを理解することが必要です。そのため、人間の知性的な指導者たちは、自分のエネルギーを食べること、眠ること、身を守ること、そして物質的な感覚を満足させることに関する事柄における俗世的な改善だけに注ぐべきではありません。 おなかを空かせた男も女も、霊的に空腹でないということはなく、そしていつにも増して今、神と宗教の意味を理解しなければならないのは、他ならぬこれらの霊的に空腹な男たちや女たちである、と、はっきりと教えられるべきです。 第8段落 このことに関して、私たちは最近パリで開かれたユネスコの会議でラダークリシュナン博士(インドの前首相)が行ったスピーチの大意を引用したいと思います。彼は言いました。「国家が誇らしげに神から顔をそむけ、俗世的な成功と繁栄に集中するとき、それは破滅に出会います。 こんにち絶対に必要なのは、学校と図書館の再建や、あるいは店や工場の再建ではなく、人間の再建です。私たちは、もしも新しい世界共同体を作りたいなら、人間を再び作りださねばなりません。」 第9段落 したがって、もしも私たちが少しでも、今、かつてないほど打ち砕かれている人類を再建したいと思うなら、人間と神の何よりも大切な関係を認識するのはいつにも増して必要です。 第10段落 経験主義的な哲学者と論理学者は、自分たちの俗世的な教育と学究的な研究の力に基づいて、様々な概念と方法によって生命体の完全真理との本質的な関係を理解しようと試みてきました。 しかし、完全真理は哲学者たちと彼らが得た知識を超えたものであり続けます。完全真理の概念は、そのような私たちの不完全な物質的な感覚から生まれた上行性の方式によっては、決して完全に到達されることはありません。 これらの経験主義的な哲学者と論理学者は、物質的な知識のよって生じたうぬぼれのために、自分たちの不完全さを認識することができません。そしてそのため、彼らの究極的な結論は無神論です。 彼らは神、他のすべての人格とは異なる至高の人格の存在を否定します。この曖昧な無神論の概念のもとで、そのような物質主義的な哲学者たちは、前と同じ暗闇に留まります。彼らは、私たち自身との至高神の本当の関係を知ることなくして、自分たち自身の考えに応じて作り出された完全真理の概念で満足しています。 第11段落 本当の超越主義者は、そのような一般化の考えを認めず、超越的な知識の本当の啓示(訳注:明らかにされた知識)を持っている権威者からその様々な水準において本当の知識を受け取るために、直接的な(訳注:感覚的な)知覚を飛び越えます。 この啓示は、人間の人格の中の最も深いところから可能とされます。至高の人格神と主の私たちとの関係の本当の知識は、この超越的な方法によってのみ明かされます。至高の人格神は完全であるので、主は俗人に露呈されない権利を持っておられます。 主は一つの完全な方法によってのみ知られ得ます。そして、感覚による知覚の相対的な方法は、決して主に届くことができません。もしも至高神が私たちの相対的な感覚による知覚によって明かされ得るなら、それなら至高神ではなく私たちの感覚による知覚が完全であることになります。したがって、その多数の段階すべてにおいて、感覚による知覚は神に関する知識を得るためには当てになりません。 第12段落 私たちは、自分の乏しい知識によって完全真理に近づくことはできませんが、ご自分の慈悲によって、完全真理はご自身を自らの現れによって明かされます。夜の闇にあっては、私たちの最も高度な技術の力をもってしても、太陽に頼んで現れてもらうことはできません。 しかし、朝には太陽は私たちの何らの物質主義的な企ての助けなくして、自ら現れます。太陽が現れるとき、夜の闇は自動的に消えます。同じように、至高の人格神あるいは主の内密な従者たちは、自分たち自身の力によって、そしてこの物質世界からの何らの助けなくして顕現します。 彼らは、自然の相と呼ばれる至高神の物質エネルギーによって幻惑されやすい堕落した魂に利益を与えるためだけに、ご自分たちのいわれのない慈悲によって、この世に下っておいでになります。 第13段落 しかし、もしも朝になって太陽が上がるときに私たちが自分の扉と窓を閉じたままにしておくなら、確かに、太陽の光線は私たちの薄暗い部屋に入ることはできません。同様に、至高の人格神あるいは主の内密な従者たちが顕現して至高神の教え(メッセージ)を広めるとき、私たちは自分の体と心の扉を閉じてはなりません。 そうするなら、主と主の従者たちから放射している光は私たちの中に入ってきません。そのような超越的な源から放射する光は、一般的に、(私たちが)聞くことによって私たちの中に入ります。 ですから、私たちが至高神の教えに受動的に耳を傾ける用意ができていて初めて、私たちは至高神および主と私たちの関係をありのままに知ることができます。その超越的な精神において、この「至高神の教え(メッセージ)」はここに、一般の人々、そして特に本当に真理を求める者の利益のために捧げられます。 私たちは、自分たちの小さな試みにおいて、どれほど成功するかわかりません。そして、このことに関して私たちの不備をお詫びします。 著者
第6章 クリシュナ意識:慈悲の完成
第1段落 プラーラーダ・マハーラージャは今、ご自分の結論を与えられます。「私の親愛なる友人たちよ。至高主はどこにでも存在しておられ、そして私たちは至高主の欠かすべからざる小片であるので、私たちの義務はすべての生命体に慈悲深くあることです。」 人がより低い立場にあるとき、私たちには彼を助ける義務があります。例えば、小さな子供は無力なので、彼は両親の慈悲に依存しています。「お母さん、私はこれが欲しいです。」「はい、我が愛しい子よ。」私たちは、すべての生命体に情け深くあるべきであり、彼らに慈悲を示すべきです。 第2段落 私たちはどうやってすべての人に自分の慈悲を示すことができるでしょうか?無数の貧しい人々がおり、そのため私たちはどうやって彼らすべてに慈悲を示すことができるでしょうか?私たちは、世界のすべての貧しい人々に衣食を与えることができるでしょうか? それは可能ではありません。それでは、どうやって私たちはすべての生命体に慈悲深くあることができるでしょうか?彼らにクリシュナ意識を与えることによってです。それがプラーラーダ・マハーラージャがご自分の学友たちに本当の慈悲を見せている方法です。彼らは皆、クリシュナ意識のない愚か者でした。 そしてそのため、彼(プラーラーダ)は彼らに、どうやってクリシュナ意識になるかを示していました。これが最高の慈悲です。もしもあなたが生命体にほんの少しでも慈悲を示したいなら、それならプラーラーダ・マハーラージャがしたように、彼らをクリシュナ意識において啓蒙しなさい。そうでなければ、慈悲を示すのは物質的にあなたの力を超えています。 第3段落 「私の愛しい友人たちよ」とプラーラーダはおっしゃいます。「この悪魔的な人生を放棄しなさい。この馬鹿げたことを放棄しなさい。」神は存在しないという信念は、プラーラーダ・マハーラージャがご自分の友人たちに放棄するように頼む、悪魔的な特徴です。 彼らは悪魔たちの(訳注:悪魔的な)家庭に生まれ、悪魔的な教師たちによって教えられていたので、プラーラーダの友人たちは「神とは誰だろう?神は存在しない」と考えていました。私たちは、バガヴァッド・ギーターにおいてこのような精神性の人々が悪党と呼ばれるのを見出します。彼らはいつも悪事をしようとするからです。 彼らは非常に良く教育されているかもしれませんが、彼らの計画は騙すことです。私たちは実際的な経験を持っています。彼らは非常に多くの資格を持って、高い教育を受けており、良い服装をしていますが、彼らの精神性は犬のそれよりも卑しいものです。「この男は幾らかのお金を持っている。だから彼を騙すために企もう。」彼らは単に悪党です。 第4段落 彼らは何のために騙しているのですか?ちょうど人生の目的を知らないロバのように、単に感覚の満足のためです。彼は洗濯屋によって飼われ、洗濯屋は彼の背中に可能な限りの物を乗せます。このようにして、少々の草のために、ロバはこの重荷を負って一日中働きます。 同様に、物質主義的な人々は単にわずかな、取るに足らない感覚の満足のために、大変一生懸命に働きます。したがって、彼らはロバと比べられます。彼らはいつも、悪意のある何事かを企てています。 彼らは神を信じないので、人類のうちで最も低い者たちです。なぜでしょうか?彼らの知識は物質エネルギーの影響によって奪われています。彼らは神の存在を否定するので、幻想が彼らを駆り立てます。「そうです。神は存在しません。懸命に働き、罪を犯しなさい。そして地獄へ行きなさい。(so that you may go to hell)」 第5段落 プラーラーダ・マハーラージャは、彼の悪魔的な友人たちに、神はいない、というこの考えを放棄するように頼みます。もしも私たちがこの無意味な考えを放棄するなら、そうすれば私たちの知覚を超えていらっしゃる至高主は喜ばれ、私たちにご自分の慈悲を示してくださいます。 以上で本書を終わります。巻末の「著者について」は省略しました。
第5章 後半
第9段落 私たちは、自分の物質的な感覚をして、何を知覚することができるでしょうか?私たちは、土、水、火など、物質的な目に可視的であるものを見ることができます。しかし私たちは、触れることによって知覚できるにも関わらず、空気を見ることはできません。 私たちは、音によって空があることを理解できます。そして私たちは、考え、感じ、意思を持っているので、自分は心を持っている、と理解することができます。もしもさらに続けるなら、私たちは「自分は意識である」と理解することができます。そして更に発達した者は、意識の源は魂であり、そして何よりも(それは)超魂であると理解することができます。 第10段落 私たちの周りの可視的なものは、至高主の劣性なエネルギーの拡張体ですが、主はまた、優性なるエネルギー、すなわち意識も持っておいでです。私たちは意識をより高い権威から理解しなければなりません。 私たちはそれを直接的に知覚することもできます。例えば、私たちは体全体に広がる意識があると知覚することができます。もしも私がどこであれ自分の体をつねれば、私は痛みを感じます。それは、私の体全体に意識があるということを意味します。 バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナは、私たちは「意識は体中に広がっていて、それは永遠である」ということを理解しようとすべきである、とおっしゃいます。同様に、意識はこの宇宙全体に広がっています。 しかし、それは私たちの意識ではありません。それは神の意識です。ですから、神、超魂は、ご自分の意識によって偏在です。これを理解する者は、自分のクリシュナ意識を開始しました。 第11段落 私たちの方法は、自分の意識をクリシュナ意識に繋げる、ということです。それは私たちを完璧にします。私たちがその意識に同化するのではありません。ある意味では私たちは「同化」しますが、しかしそれでも私たちは自分の独自性を保ちます。 それが非人格主義の哲学とクリシュナ意識哲学の違いです。非人格主義の哲学者は、完成とは至高存在に同化して自分の独自性を失うことだ、と言います。私たちは、「完成した段階において、私たちは至高存在に同化するが、自分の独自性を保つ」と言います。 それはどういうことでしょうか?飛行機は飛行場から飛び立って上へ上へと上がっていきます。そして非常に高くへ行くと、私たちはそれを見ることができません。私たちは単に空を見ることができます。(訳注:空が見えるだけです。) しかし、飛行機は失われてはいません。それはまだそこにあります。もうひとつの例は、大きな緑色の木に入っていく緑色の鳥です。私たちには鳥と木の区別をつけることができませんが、それらはどちらも存在し続けます。 同様に、至高の意識はクリシュナであり、私たちが自分の個々の意識を至高存在に繋げるとき、私たちは完璧になります。。。しかし、自分の独自性を保ちます。外部の者は、神と主の純粋な献身者の間には区別はない、と考えるかもしれません。 しかし、それは乏しい知識のみに基づくものです。すべての個人、すべての個々の存在は、至高存在と繋がった時でさえ、自分の独自性を維持します。 第12段落 プラーラーダ・マハーラージャは、「私たちは、至高の意識であれ個々の意識であれ、意識を見ることはできないが、それは存在する」とおっしゃいます。どうやって私たちはそれが存在すると理解することができるでしょうか? 私たちは、単に喜びの感知によって、至高の意識と私たちの個々の意識を理解することができます。私たちは意識を持っているので、アーナンダ、喜びを感じることができます。意識がなくては、喜びの感情はありません。 意識ゆえに、私たちは自分の感覚をどんなふうにでも好きなように使うことによって、人生を楽しむことができます。しかし、体から意識が去れば直ちに、私たちは自分の感覚を楽しむことができません。 第13段落 私たちの意識は、私たちが至高の意識の欠かすべからざる小片であるがゆえに存在します。例えば、火花は火の微細な粒に過ぎませんが、それでも火花もまた火です。大西洋の一滴は、海の水と同じ性質を持っています。それもまた塩辛いのです。同様に、至高主の中に喜びの力が存在するため、私たちもまた喜びを楽しむことができます。 主はパラメシュヴァラ、至高の統御者です。したがって、私たちもまたイーシュヴァラ、すなわち統御者です。例えば、私は自分が咳をすると水を飲むという、幾らかの統御力を持っています。しかし、私たちは至高の統御者ではありません。至高の統御者は神、クリシュナです。 第14段落 クリシュナが至高の統御者であるので、主はご自分の様々に異なる力によって、宇宙の出来事すべてを統御することができます。私もまた、自分は自分の身体的な事柄をある程度統御していると感じますが、私は至高の統御者ではないので、もしもこの体に何か悪いところがあれば、私は医者に行かねばなりません。 同様に、私は他の体の上に何らの統御力も持ちません。私はこの手を「自分の手」と呼びます。なぜなら、私はこの手で作業をすることができ、それを自分の望みに応じて動かすことができるからです。しかし、私はあなたの手の統御者ではありません。 もしも私があなたの手を動かしたいと望むなら、それは私の力の内にはありません。それはあなたの力の内にあります。あなたは、もしもそう望むなら、自分の手を動かすことができます。ですから、私はあなたの体の統御者ではなく、あなたは私の体の統御者ではなく、しかし至高の魂はあなたの体と私の体と、すべての体の統御者です。 第15段落 バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、あなた、すなわち魂はあなたの体の中にいて、そしてあなたの体はあなたの活動の場である、とおっしゃいます。ですから、あなたがしていることは何であれ、あなたの体という場によって制限されています。 ある特定の土地の広がりの中に閉じ込められた動物は、そこで動き回ることができますが、その空間が許す場を超えたところには行けません。同様に、あなたの活動と私の活動は、私たちの体の限界の中に閉じ込められています。私の体は私の活動の場であり、あなたの体はあなたの活動の場です。しかしクリシュナはおっしゃいます。「私はすべての場にいます。」 第16段落 したがってクリシュナは、超魂、すなわちパラマートマーとして、私の体の中で、あなたの体の中で、そして他の無数の体の中で何が起こっているか、ご存じです。したがって、主は至高の統御者です。 私たちは自分の限られたエネルギーを持っていますが、主のエネルギーは無限です。主の統御する力によって、主の至高の意思によって、この物質的な創造は動いてます。それもまた、バガヴァッド・ギーターにおいて確認されています。 そこでクリシュナはおっしゃいます。「私の監督のもとで、物質自然全体が働いています。この物質世界の中であなたが見るすべての素晴らしいものは、私の監督、私の至高の統御によるものです。」
第5章 神はどこにでもいらっしゃると認識する
第1段落 マハーラージャ・プラーラーダは、ご自分の学友たちに至高主の偏在性についてお知らせになりました。しかし、至高主はご自分の拡張体とご自分のエネルギーという方法によって偏在でいらっしゃいますが、それは主がご自分の人格を失われたということを意味するのではありません。 それは非常に重要です。主は偏在でいらっしゃいますが、それでも主は個人(person)でいらっしゃいます。私たちの物質的な認識(perception)によれば、もしも何かが偏在であるなら、それならそれは人格を持たず、局地的な側面を持ちません。 しかし、神はそのようなものではありません。例えば、太陽光は偏在ですが、太陽は太陽星(訳注:Sun planet、太陽という惑星、太陽そのもの)という局地的な側面を持っており、そしてあなたはそれを見ることができます。 太陽星があるだけでなく、太陽星の中には太陽神がおられ、そのお名前はヴィヴァスヴァーンです。私たちは、この情報をヴェーダ文献から得ます。権威ある源から聞く他には、他の惑星で何が起こっているかを理解する方法はありません。 現代の文明では、私たちはこれらの事柄について科学者たちを権威として受け入れます。私たちは科学者たちが「私たちは月を見ました。それはああです、こうです」と言うのを聞き、そしてそれを信じます。私たちは科学者と一緒に月を見に行ったのではありませんが、私たちは彼を信じます。 第2段落 信じることは理解の基本的な原則です。あなたは科学者たちを信じるかもしれません。あるいはあなたはヴェーダを信じるかもしれません。どちらの源を信じるかはあなた次第です。違いは、ヴェーダからの情報には誤りがなく、科学者から受ける情報は誤りうる、ということです。 なぜ科学者の情報は誤りうるのでしょうか?なぜなら、物質的な自然によって制約された普通の人間は、4つの欠陥を持っているからです。それは何でしょうか?最初のものは、制約された人間は不完全な感覚を持っているというものです。 私たちは、太陽を小さな円盤として見ます。なぜでしょうか?太陽はこの地球よりずっとずっと大きいのですが、私たちはそれを単なる円盤として見ます。誰もが、私たちの見る力、聞く力などは限られていると知っています。 そして、人間の感覚は不完全であるため、制約された魂は、たとえどんなに偉大な科学者であったとしても、必ず間違いを犯します。そう遠くない昔、この国で惨事がありました。科学者たちがロケットを打ち上げようとしたとき、しかし、それは直ちに燃えて灰になりました。ですから、間違いが起こりました。 制約された魂は、必ず絶対に、間違いを犯すのです。なぜなら、それが制約された人生の性質だからです。間違いは、非常に大きかったり、非常に小さかったりするかもしれません。それは関係ありません。しかし、物質自然によって制約された人間は、必ず間違いを犯します。 第3段落 さらに、制約された魂は必ず幻惑されます。これは、彼が継続的に、あるものを別の何かであると誤認するときに起こります。例えば、私たちは体を自己として受け入れます。私はこの体ではないので、私が体を自己として受け入れるのは幻想です。 世界全体が「私はこの体である」という幻想の下で動いています。したがって、平和はありません。私は自分がインド人だと考えており、あなたは自分はアメリカ人だと考えており、そして中国人は自分は中国人だと考えています。この「中国人」、「アメリカ人」、そして「インド人」というのは何ですか?それは体に基づいた幻想です。それだけです。 第4段落 騙す傾向は、制約された人生の4つ目の欠陥です。私は愚か者であるかもしれませんが、私は自分はとても学識があると自慢します。幻惑されていて、間違いを犯す者は、皆、愚か者です。 しかしそれでも、そのような愚か者たちが、決して間違いのない知識の源である振りをします。ですから、すべての制約された魂は不完全な感覚を持ち、彼らは間違いを犯すことと幻惑されることに陥りがちであり、そして彼らは騙す傾向によって影響されます。 第5段落 人はどうしてそのような制約された魂から本当の知識を期待できるでしょうか?彼らから本当の知識を受け取れる可能性はありません。人が科学者であれ、哲学者であれ、何であれ、彼は制約されているので、どんなに教育があったにしても、彼は完全な知識を与えることはできません。それは事実です。 第6段落 今、人は「私たちはどうやって完全な情報を得ることができるのですか?」と尋ねるかもしれません。その方法は、クリシュナに始まる霊的指導者と弟子の師弟継承を通して知識を受け取ることです。 バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。「このバガヴァッド・ギーターの知識は、最初、私によって太陽神に語られました。そして、太陽神はそれを自分の息子マヌに語りました。 次に、マヌはこの知識を自分の息子イクシュヴァークに語り、そしてそれからイクシュヴァークは同じことを自分の息子に語りました。このようにして知識は下りてきました。しかし不幸にして、その師弟継承は今は途切れています。 ですから、おお、アルジュナよ。私は今、同じ知識をあなたに授けています。なぜなら、あなたは私の大変愛しい友人であり、良き献身者だからです。」これが完ぺきな知識を受け取る方法です。より高い源から下りてくる超越的な振動を受け入れる、というものです。ヴェーダの知識全体は、私たちが至高主を理解するのを助けるための超越的な振動です。 第7段落 さて、プラーラーダ・マハーラージャは、至高の人格神は偏在する超魂、パラマートマーと同一である、とおっしゃいます。同じ情報が部ラーマ・サムヒターにも現れます。至高主は、ご自分の超越的なお住まいに位置していらっしゃるにも関わらず、偏在でおられる、というものです。それでも、主はどこにでもいらっしゃるにも関わらず、私たちは自分の不完全な感覚をして主を見ることはできません。 第8段落 それからプラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「主は見られ得ませんが、それでも主は知覚され得ます。知性的である者は、至高主の存在をどこにでも知覚することができます。」どうやってこれが可能でしょうか? 昼間は、室内にいる者でさえ太陽が昇ったと知ることができます。部屋の中が明るいので、彼は空に太陽が輝いていると知ることができます。同様に、師弟継承において完ぺきな知識を受け取った者は、すべては至高主のエネルギーの拡張体であると知っています。したがって、彼らは主をどこにでも見ます。
第4章 私は何よりもクリシュナを愛している!
第1段落 さて、プラーラーダ・マハーラージャは、物質的な人生のやっかいな問題について更なる言明をなさいます。彼は執着した家庭人をカイコと比べます。カイコは、そこから逃げ出せない牢屋の中に入ってしまうまで、自らを自分の唾でできた繭に包みます。 同じように、物質主義的な家庭人の絡まりは非常にきつくなり、彼は家族の魅力という繭から出てくることができません。物質主義的な家庭生活には非常に多くの悲惨さがあるにも関わらず、彼は自由になることができません。 なぜでしょうか?彼は、性交と、おいしい料理を食べることが、もっとも大切だと考えます。したがって、非常に多くの悲惨な状況にも関わらず、彼はそれらを放棄することができません。 第2段落 このようにして、人が家庭生活に過度に執着しているとき、彼は自分の本当の利益、すなわち物質的な人生から逃げ出すということを考えることができません。彼は、いつも物質主義的な人生の三重の悲惨さによって苦しんでいるにも関わらず、強い家族の愛情のため、出てくることができません。 彼は、自分の限られた寿命を単に家族の愛情のために無駄にしているということを知りません。彼は、自分の永遠の自己を認識するために、自分の本当の霊的な人生を認識するためにある人生を駄目にしています。 第3段落 「したがって」、とプラーラーダはご自分の悪魔的な友人たちにおっしゃいます。「単に物質的な楽しみだけを求める者たちとの関わりを絶ってください。」それが彼の助言です。彼はご自分の友人たちに、このクリシュナ意識は簡単に得られる、とおっしゃいます。 なぜでしょうか?クリシュナ意識は、実際は私たちにとってとても愛しいものです。しかし、私たちはそれを忘れています。したがって、クリシュナ意識を習慣づける者は誰でも、それによってもっともっと影響されるようになり、自分の物質的な意識を忘れます。 第4段落 もしもあなたが外国にいるなら、あなたは自分の家と、あなたにとってとても愛しい自分の家族や友人を忘れるかもしれません。しかし、もしもあなたが突然あなたの家と友人たちを思い出させられるなら、あなたは直ちに非常に心を奪われるでしょう。 「私はどうやって彼らに会えるだろうか?」サンフランシスコで、私たちの友人の一人が私に、ずっと昔に自分は幼い子供たちを残して外国に来た、と言いました。最近、彼の成人した息子から手紙が来て、直ちに父親は自分の(中にあった)息子への愛情を思い出し、幾らかのお金を送りました。 その愛情は、彼が自分の子供を非常に多くの歳月忘れていたにも関わらず、自動的に来ました。同様に、私たちのクリシュナへの愛情は非常に親密なので、幾らかのクリシュナ意識との接触があれば直ちに、私たちはすぐに主との自分の関係を取り戻します。 第5段落 誰もが、自分では忘れてしまっている、クリシュナ、至高主との特定の関係を持っています。しかし、私たちがクリシュナ意識になるにつれて、徐々に私たちのクリシュナとの関係の古い意識が蘇ります。 そして、私たちの意識が実際に透明な段階にあるとき、私たちはクリシュナとの自分の特定の関係を理解することができます。人は、息子あるいは従者として、友人として、親として、あるいは愛する妻または恋人として、クリシュナとの関係を持っているかもしれません。 これらすべての関係は、物質世界の人生において、歪んで反映されています。しかし、私たちがクリシュナ意識の水準に至れば直ちに、私たちのクリシュナとの古い関係が蘇ります。 第6段落 私たちは愛します。私たち一人一人、誰もがです。まず、この体の中に自分の自己があるので、私は自分の体を愛します。ですから、実際は私は体よりも自分の自己を愛しています。 しかし、自己はクリシュナの欠かすべからざる小片なので、その自己はクリシュナとの親密な関係を持っています。したがって、私は何よりもクリシュナを愛しています。そして、クリシュナはあまねく存在するので、私はすべてを愛しています。 第7段落 不幸にして私たちは、クリシュナ、神はあまねく存在するということを忘れてしまいました。この記憶が蘇らせられねばなりません。自分のクリシュナ意識を取り戻せば直ちに、私たちはすべてをクリシュナとの関係で見ることができ、そしてそうすればすべては愛しくなります。 今は、私があなたを愛していたり、あなたが私を愛していたりしますが、その愛はこのはかない体の水準にあります。しかし、クリシュナへの愛が育まれるとき、私はあなただけでなく、すべての生命体を愛します。 なぜなら、外側の区分、すなわち体が忘れられるからです。人が完全にクリシュナ意識になるとき、彼は「ここに人間がいる、ここに動物がいる、ここに猫がいる、ここに犬がいる、ここにミミズ(訳注:worm、毛虫も指す)がいる、とは考えません。 彼はすべてをクリシュナの欠かすべからざる小片として見ます。これはバガヴァッド・ギーターにおいて非常にすばらしく説明されています。「実際にクリシュナ意識において学識のある者は、宇宙の中のすべての者の恋人になります。」人がクリシュナ意識の水準に位置しない限り、普遍的な兄弟愛の可能性はありません。 第8段落 もしも私たちが実際に普遍的な兄弟愛の考えを実行したいなら、それなら私たちは物質的な意識ではなくクリシュナ意識の水準に来なければなりません。私たちが物質的な意識にある限り、私たちの愛しい対象は限られています。 しかし、私たちが実際にクリシュナ意識にあるとき、私たちの愛しい対象は普遍的です。それはプラーラーダ・マハーラージャによって述べられています。「動かない草(plants)や木に始まり、最も高位の生命体であるブラーマーに至るまで、至高の人格神は、すべての者の心臓におられる主の特性(feature)であるパラマートマーとしてのご自分の拡張体によって、どこにでも存在しておられます。 私たちがクリシュナ意識になれば直ちに、その至高の人格神の拡張体、パラマートマーは、すべての対象をクリシュナとの関係において愛するように私たちを仕向けます。
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